2017年11月16日 (木)

“半跏趺坐” という言葉

 結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。という疑問に曲がりなりにも答えようとしている論文を見つけました。

岡田健「中国仏像彫刻における如来像の坐のかたち」『東アジア美術における人のかたち』平成5・6年度科学研究費補助金(一般研究A)研究成果報告書 1996年3月 です。

この論文は、インドから中国唐までの時代における仏像の内、如来像の坐勢について整理したものです。
まず、仏教美術は個々のモチーフと教義が一体になって意味を与えている、といった前提は実際はかなり曖昧なものである。と伏線を張っています。
その上で、インドから坐勢の歴史を解き、中国にいたって、組んだ右足の足首先だけ見せて、下にあるはずの左足を見せないものがあり、これは南北朝の時代と地域の全般を通じてかなり徹底して行われている表現である。と指摘しています。

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その後の論について、正確を期するために、岡田氏の論文を引用します。

“ここで一つの問題となるのは、いま見ている南北朝期の片足を見せない、中国的と言える坐勢表現の場合、これが確かに結跏趺坐なのか、ということである。
-中略-
 いま誰かに、ではこのような表現の場合、なに坐と呼ぶのかと問われれば、筆者自身もやはり、「結跏趺坐」と答えるであろう。いまのところ、そうではない、という根拠が見つからないからである。もっとも本当の正直な理由は、美術史の世界でそれを結跏趺坐と呼ぶのが習慣になっているからである。(2)
(注2)しかし、同じように片足を隠すようにして表された菩薩の坐勢については、これをいわゆる「菩薩坐」としての半跏坐として認識する場合がある。外見上全く区別がないのに如来像の場合だけこれを半跏と認識しないのは、論理的には不完全である。”

この岡田氏の弁明というべき説明は、まるで論文という体をなしていないことを露呈しています。“なに坐”と呼ぶかと問われて、「結跏趺坐」しかおもいつかない選択肢のなさ。「半跏趺坐」という言葉が、筆者の辞書にはないのでしょうか。一歩譲って、結跏趺坐の定義に合わない、ということも言えないのでしょうか。
さらに、おどろくべきは、美術史の学界の習慣のせいにして、筆者自身の作品に対する観察眼の自身のなさをさらけ出し、さらに(注2)で、自己矛盾に陥ってしまったたことです。

“われわれは、すでに経典の上からと実際の作例から、如来の坐勢に結跏趺坐、半跏趺坐、倚坐(中国では善跏趺坐と呼ぶ)の三種類があることを知っている。このうちの結跏趺坐と半跏趺坐との区別がどうも不明瞭なのである。”
“少なくとも経典の上からは、これは明確に区別される。両方の趺(こむら=足の甲)を交え、それぞれ反対の足の股の上に置いて坐るのが結跏趺坐、片方の趺を他方の股の上に置いて坐るのが半跏趺坐である。”
-中略-
”あるいは如来の坐勢表現に対してかなり無頓着な時間が、中国仏教彫刻の流れの中に存在したのであろうか。それが結果的には、やがて六世紀半ば以降に次々と起きた坐勢表現の変化、すなわち、結跏趺坐における右足上と左足上という足の組み替え、右足を上にしながら左足は組まずにそのまま下に敷く表現、これらの出現を、より際だたせることとなったのかもしれない。”

結跏趺坐と半跏趺坐の定義がちゃんとできているのに、”右足を上にしながら左足を組まずにそのまま下に敷く表現”を“結跏趺坐”と呼ぶのですか? これこそ岡田氏が定義した“半跏趺坐”でしょう。まるで矛盾しています。
さらに、岡田氏は、右足を上にした坐勢で、その右足の脛の下に、左足先をのぞかせている例を数例あげています。これこそ、岡田氏自身が定義した“半跏趺坐”の具体例なのに、そのことに一言もふれず、彦坂氏の論の引用から、
(注)彦坂周「仏像坐法にみられる南インド的特徴ーその源流と展開ー」『インド学 密教学研究ー宮坂宥勝博士古稀記念論文集ー』上巻 1973年7月10日

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“彦坂氏がこれを論文中敢えて「半跏」と称さなかったように、少なくとも漢訳の仏教経典に見える半跏の定義にあてはまるものではないわけで、その呼称については一考を要するものである。”

とあくまでも、“半跏趺坐”ではないと言い張っています。この論でいえば、中国では、経典に書かれている「半跏趺坐」の像は存在しないことになります。そして、

“六世紀の中国の如来の坐勢表現には、結跏趺坐の足の組み替えと、結跏趺坐ではないいわゆる「半跏趺坐的」表現の登場とが見られた。”

と結論づけられては、いったい、どういう坐勢の仏像が“半跏趺坐”と呼べるのか、具体例を示してもらわなければ、説得力がまるでありません。なぜ「半跏趺坐」という言葉を抹殺しようとするのでしょうか。

ここで、別角度から、日本の仏像について書かれた論文、解説の中で、「半跏趺坐」と記述しているものを掲げてみます。

半跏趺坐と記述している論文・解説集

  1. 法隆寺金堂 銅造釈迦如来坐像(三尊の内)【奈良県斑鳩町】
    村田靖子「【奈良西部】/いかるが/法隆寺/釈迦三尊像 金堂所在 」 『奈良の仏像ー古都の寺々と名品を訪ねてー』 1997年12月15日 大日本絵画 211p~220p
  2. 法輪寺木造薬師如来坐像【奈良県斑鳩町】
    鏡山智子「本文/法輪寺薬師如来像・伝虚空蔵菩薩像をめぐって 」 『美術史』 64-2(178)  2015年3月31日 美術史學會 332p~349p
  3. 観音寺木心乾漆造菩薩坐像【京都府和束町】
    副島弘道「論文/京都府和束町観音寺の木心乾漆菩薩像について 」 『鴨台史学』 4  2004年3月31日 大正大学史學會 27p~50p
  4. 願興寺脱活乾漆造聖観音菩薩坐像【香川県さぬき市】
    「本文編/一 観音菩薩坐像 願興寺」『研究資料 脱活乾漆像の技法』 2011年5月20日 學藝書院 3p~5p
  5. 大善寺木造薬師如来坐像(三尊の内)【山梨県甲州市】
    鈴木麻里子「第3章 彫刻/3,木造薬師如来及両脇侍像 大善寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県 483p~485p
  6. 賢林寺木造十一面観音坐像【愛知県小牧市】
    伊東史朗「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/38 十一面観音菩薩坐像 賢林寺(小牧市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 252p~253p
  7. 観明院木造虚空蔵菩薩坐像【滋賀県大津市】
    岩田茂樹「図版・作品解説/10,虚空蔵菩薩坐像 観明院蔵 」 『企画展 大津の仏像ー一千年の造形(カタチ)ー』 1997年4月26日 大津市歴史博物館 30p~31p
    「主要仏像詳細データ/28 観明院/1,木造虚空蔵菩薩坐像 」 『大津市歴史博物館研究紀要』 10 比叡山延暦寺里坊等所在・未指定彫刻調査目録(下) 2003年7月31日 大津市歴史博物館 50p~51p
  8. 庵寺観音講(上野庵寺)木造大日如来坐像【滋賀県米原市】
    山下立「各個解説/12 大日如来坐像 米原市(伊吹町)・庵寺観音講 」 『大湖北展ー伊香・浅井・坂田三郡の風土と遺宝ー』第52回企画展 2016年1月9日 滋賀県立安土城考古博物館 56p~56p
  9. 教王護国寺伝僧形文殊菩薩坐像【京都市南区】
    奥健夫「本文/東寺伝聖僧文殊像をめぐって 」 『美術史』 42-2(134)  1993年3月25日 美術史學會 164p~179p
  10. 神護寺木造五大虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    津田徹英「特集 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像/神護寺密教空間の中核をなす尊像 」 『週刊朝日百科 国宝の美 17 彫刻7』 17 平安時代の密教彫刻 2009年12月13日 朝日新聞社 24p~27p
  11. 清凉寺木造観音・勢至菩薩坐像(三尊の内)【京都市右京区】
    田邊三郎助「13,阿彌陀如來及兩脇侍像 京都 清凉寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇5』 1997年11月10日 中央公論美術出版 4p~10p
  12. 広隆寺講堂木造虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    金森遵「廣隆寺講堂脇侍菩薩像に就いて 」 『考古學雜誌』 28-6  1938年6月1日 日本考古学会 357p~367p( 『日本彫刻史の研究』 1949年4月15日 河原書店 201p~211p)
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第六節 空海から道昌へ/広隆寺講堂虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 609p~613p
  13. 松尾大社木造男神坐像(壮年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  14. 松尾大社木造男神坐像(老年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  15. 神応寺木造行教律師坐像【京都府八幡市】
    紺野敏文「第三編 平安彫刻の成立/第四章 神像の成立と習合像/第六節 聖僧像の系譜/行教像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 366p~369p
  16. 金剛峯寺旧金堂木造虚空蔵菩薩坐像(焼失)【和歌山県高野町】
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第五節 金剛峯寺の虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 604p~606p
  17. 善根寺木造薬師如来坐像【広島県三原市】
    濱田恒志「広島・善根寺収蔵庫の諸像について/一、諸像の基礎データ/(一)薬師如来像 」 『美術史学』 35  2014年3月31日 東北大学大学院文学研究科美術史学講座 2p~3p
  18. 法性寺木造阿弥陀如来坐像【愛知県あま市】
    山岸公基「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/87 阿弥陀如来坐像 法性寺(あま市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 340p~340p
  19. 伊崎寺木造不動明王坐像(三尊の内)【滋賀県近江八幡市】
    寺島典人「Ⅱ 比叡山の仏像/延暦寺の仏像・仏画/20 不動明王坐像 近江八幡市・伊崎寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 40p~41p
  20. 小槻神社木造男神坐像(伝大己貴命)【滋賀県栗東市】
    「彫刻/4,木造男神坐像(伝落別命)・木造男神坐像(伝大己貴命)(滋賀・小槻神社) 」 『平成10年度指定文化財修理報告書 美術工芸品篇』 1999年0月0日 文化庁 118p~120p
    「各個解説/4 男神坐像 滋賀県栗東市・小槻神社 」 『戦国・安土桃山の造像Ⅱー神像彫刻編ー』開館15周年記念 平成19年度秋季特別展 2007年10月13日 滋賀県立安土城考古博物館 89p~89p
    山下立「各個解説/【第Ⅱ部】神像と狛犬ー神仏習合美術の世界ー/15 男神坐像 栗東市・小槻神社 」 『大湖南展ー栗太・野洲郡の風土と遺宝ー』第55回企画展 2017年2月25日 滋賀県立安土城考古博物館 59p~59p
  21. 旅庵寺木造地蔵菩薩坐像【滋賀県近江八幡市】
    山下立「各個解説/13 地蔵菩薩坐像 近江八幡市・旅庵寺 」 『蒲生郡の風土と遺宝』開館20周年記念 第46回企画展 2013年2月23日 滋賀県立安土城考古博物館 55p~55p
  22. 東光院木造菩薩形坐像(伝七仏薬師の内)【千葉市緑区】
    津田徹英「千葉・東光院蔵 伝七仏薬師坐像の図像表現をめぐって 」 『密教図像』 12  1993年12月21日 密教図像学会 21p~43p
  23. 醍醐寺大講堂木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  24. 醍醐寺伝法学院木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  25. 東大寺俊乗堂木造愛染明王坐像【奈良県奈良市】
    「Ⅳ 調査報告/2,仏教美術史的調査/解説/金胎寺諸堂安置仏像【東大寺俊乗堂】/39 木造 愛染明王坐像 」 『第1期南山城総合学術調査報告書 鷲峰山・金胎寺とその周辺地域の調査』同志社大学歴史資料館調査研究報告書 第3集 2002年9月30日 同志社大学歴史資料館 117p~119p
  26. 大通寺木造不空羂索観音坐像【岡山県矢掛町】
    浅井和春「岡山・大通寺の不空羂索觀音菩薩坐像 」 『佛教藝術』 246  1999年9月30日 毎日新聞社 69p~85p
    浅井和春「岡山・大通寺 不空羂索観音菩薩坐像 」 『密教のほとけー曼荼羅・仏像・仏画ー』善通寺創建千二百年記念 2006年4月0日 総本山善通寺 25p~25p
  27. 寂光寺木造菩薩形坐像(聖観音)【滋賀県大津市】
    寺島典人「Ⅴ 長等山麓の仏像/82 聖観音坐像 大津市藤尾奥町・寂光寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 113p~113p
  28. 随心院木造金剛薩埵菩薩坐像【京都市山科区】
    山口隆介「随心院所蔵彫刻に関する調査報告/二 金剛薩埵菩薩像 」 『小野随心院所蔵の文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその展開 Vol.Ⅲー随心院調査報告・国際研究集会報告・笠置寺調査報告』平成19年度科学研究費補助金 基盤研究(B)17320039研究報告書 2008年3月19日 荒木浩 288p~289p
  29. 現光寺木造十一面観音坐像【京都府木津川市】
    山口隆介「各個解説/116 十一面観音坐像 京都・現光寺 」 『御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶ー鎌倉仏教の本流ー』 2012年4月6日 奈良国立博物館 247p~248p
  30. 金剛寺木造降三世明王坐像【大阪府河内長野市】
    大澤慶子「図版解説/148 降三世明王坐像 行快 金剛寺・大阪 」 『日本美術全集 第7巻 運慶・快慶と中世寺院 鎌倉・南北朝時代Ⅰ』 2013年12月30日 小学館 250p~250p
  31. 高山寺木造不動明王坐像【岡山県井原市】
    和田剛「井原市・高山寺所蔵の仏像について」『岡山県立博物館研究報告』34 2014年3月1日 岡山県立博物館 1P~30P

これだけの例があることが、多いのか、少ないのかは、判断の分かれる事かもしれませんが、この例の数十倍かそれ以上の論文・解説文は、「半跏趺坐」像を「結跏趺坐」と呼んでいるのです。さらに、このリストの中にも、他の仏像の解説で半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している執筆者がいて、自身が、結跏趺坐、半跏趺坐の区別ができているのか、ちゃんと観察した上で判断しているのか疑問におもう執筆者がいることは事実です。しかし、たった数十人の研究者であっても半跏趺坐について曲がりなりにも理解して発表していることは、心強い味方です。特に、この中で、唯一、戦前の論文で、金森遵氏が、広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像を半跏趺坐と活字に残しましたが、その後に続く研究者が残念ながら現れませんでした。

さらに、このリストの中で、唯一、『日本彫刻史基礎資料集成』の形状の解説で、清凉寺阿弥陀三尊像の両脇侍を田邉三郎助氏は“半跏趺坐”と記述しています。ところが、『基礎資料集成』には、半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している形状解説が今までに8件あります。

  1. 真光寺聖観音菩薩坐像
    水野敬三郎「12,聖觀音菩薩像 滋賀 眞光寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1』 1966年6月1日 中央公論美術出版 80p~81p
  2. 常禅寺不動明王坐像
    井上正「附録6,不動明王像 福井 常禪寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇8』 1971年2月10日 中央公論美術出版 86p~87p
  3. 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像
    毛利久「3,五大虚空藏菩薩像 京都 神護寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 11p~18p
  4. 広隆寺講堂地蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「5,地藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 54p~55p
  5. 広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「6,虚空藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 56p~60p
  6. 金剛峯寺孔雀明王坐像
    水野敬三郎「46,孔雀明王像 金剛峯寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第二巻』 2004年2月25日 中央公論美術出版 118p~121p
  7. 随心院金剛薩埵坐像
    西川杏太郎「118,金剛薩埵菩薩像 随心院」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 86p~87p
  8. 福光園寺吉祥天坐像
    副島弘道「129,吉祥天像、持国天像、多聞天像 福光園寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 194p~200p

これらの形状解説文の執筆者は、いずれも『基礎資料集成』の監修者です。『基礎資料集成』は仏像の名称や、解説文の書式について独自の基準を設けて、執筆者によって表現に差異がでないようにしており、調査報告書の見本となるべき客観性をもった内容の調査報告書のはずです。いったい監修者どうしで、相互チェックができなかったのでしょうか。何かものが言えない事情があったとしか思えません。これだけ指摘しましたので、当然、再調査するなどして、『基礎資料集成』の記述を訂正するなどして客観性を担保しなければなりません。否、その前に、“半跏趺坐”とはどういう坐法なのかについて、執筆者の中で、共通認識を作らないと、また、同様の事例がでてきます。今のまま放置していると、坐像の調査報告がでるたびに、眉に唾をつけなければならないことになります。

 最後に、アンデルセン童話の「はだかの王様」の話から、王様が透明の衣裳を着たことについて、家来はどう対処をしたのかをいくつか例示してみます。

  1. 王様の最側近の人物で、王様の言うことすべてイエスとしかいわない家来。当然、本人は、王様が「バカには見えない布地」の衣裳をを着ていると確信している。
  2. 王様の近くにいて、王様を直接見られる立場の家来。王様は何も着ていないのじゃないかと疑問を持ってはいても、それを口にだすことすらできない。
  3. 王様を直接みられない最下層の家来。上司から王様は「バカには見えない布地」の衣裳を着ていると言われ、何の疑いもなくそれを信じている。
  4. 子供が、王様を見て、“王様はハダカだ!”と叫ぶと、すぐ、その子供の口をふさごうとする家来。

仏教美術研究者の皆さん!あなたは4つの家来のどれにあてはまりますか? それとも私は純粋無垢の目をもった子供だと思っておられますか?

追:この一文についての、反論などのコメントを受付ます。その際、そのコメントの公開の可否について、末尾に銘記をお願いいたします。

2017年11月12日 (日)

塼仏(センブツ)の坐法

 先日、大津市歴史博物館での企画展『大津の都と白鳳寺院』を見に行きました。
大津周辺は、昔、湖西線の建設前の事前発掘に参加したことがあるので、なつかしさと、親近感があります。また、卒論で、崇福寺について調べたこともあり、この周辺の史跡、文化財の研究成果を注目していました。
 今回の展覧会は、その崇福寺出土の遺物が、多数出品されるのでは、という期待がありました。以前ブログに書いた、塔跡から発見された舎利容器などの遺物がすべて出品されるのを期待しましたが、原品は京博にあるそうで、複製があるだけでした。私としては、発掘品の中の無紋銀銭が、11枚しかないことを確認したかったのですが、残念です。常設展示にその当時の発掘状況の調書が展示されていましたが、以前書いた事件についてはふれていませんでした。

もうひとつ、見たかったのが、崇福寺出土の塼仏です。

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図録では、“左足を外にして趺坐する如来坐像”と記しています。また趺坐です。ということは、結跏趺坐ではない。と筆者は認識しているようです。

このような坐法の塼仏は他にもあります。小山廃寺(紀寺跡)の塼仏です。

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この塼仏は、右足先があると思われる部分に、衣の皺を表現しています。結跏趺坐とは、それぞれ一方の足先が他方の腿の上にある形です。右足先は左腿の上に乗っている形状でしょうか。もし乗っていると強弁するのなら、左膝の折り曲げた内側部分に、くぼみがあるはずはありません。すくなくとも、作者は、明確に結跏趺坐と理解して作ってはいないことが想像できます。作家自身もそれをあいまいにしたかったのでしょう。

もうひとつ山田寺出土の独尊大型塼仏です。

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石光寺の十二連坐塼仏もこれらに近い坐法です。

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それに対して、夏目廃寺出土の塼仏は明確に結跏趺坐を表しています。下記の塼仏は唐招提寺蔵ですが、夏目廃寺出土と判定されています。

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また、膝部分が完全に出土してはいませんが、同范とされているものに、二光寺廃寺の塼仏があります。

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この二つの塼仏は、衣の処理のしかたなど、法隆寺献納宝物にある押出仏の形式と同様式です。

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いままでの塼仏の坐法とは、その膝部分の形状がちょっと違う塼仏があります。結城廃寺出土のものです。

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膝部分を正面から見た形は、前記の塼仏は ∞ の形状をしていますが、結城廃寺塼仏は、中国の南北朝期の仏像のような角丸長方形になっています。結跏趺坐か半跏趺坐かはこの写真からでは判定できません。

塼仏の中の如来像は、倚像がおおく、坐像の例は、細部がはっきりしない小連坐塼仏を除いて上記の7例程度しかありません。
その少ない例で、まとめると、少なくとも、明らかな結跏趺坐と、結跏趺坐ではない二種類が存在することがわかります。

米田浩之「塼仏の分類に関する一考察」『東アジア瓦研究』3 2013年10月31日 では、分類基準で、図像属性分類の中に姿勢の項目を設けていますが、その分類表には、立・結跏趺坐・倚坐 の三種類しかありません。つまり、半跏趺坐の概念がないのです。

その他、歴代の研究者の塼仏に関する論文では、半跏趺坐、あるいは結跏趺坐ではないという記述はありませんでした。むしろ、積極的に結跏趺坐と記しているのです。

坐法に関して、これだけの違いがありながら、 これらを一律に結跏趺坐だというのは、あまりにも乱暴です。

また、結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。

2017年11月 4日 (土)

趺坐?

 先週、九州・中国地方の展覧会のはしごをしてきました。
まずは、鹿児島県歴史資料センター黎明館、九州国立博物館、大分県立歴史博物館、島根県立古代出雲歴史博物館と、仏像を見てきましたが、それぞれ特徴ある切り口での展示でしたが、その中で、もっとも印象に残ったのは、出雲歴史博物館の『島根の仏像』展でした。

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今回の展覧会は、平安時代を中心とした、島根県の有名な仏像が、かなりの数出品されており、さらに、新出の長安寺像や、普段秘仏になっている清水寺像など、注目すべき仏像が展示されていました。なぜ、この展覧会が注目されていないのか不思議な位でした。

その中で、平安前期の如来坐像が3体そろいました。まずは、仏谷寺薬師如来坐像

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正面から見ると、半跏趺坐のように見えますが、左足裏が右膝の折り曲げた下のほうに彫られています。

万福寺(大寺薬師)薬師如来坐像

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禅定寺阿弥陀如来坐像

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いずれも9~10世紀の仏像ですが、3体とも結跏趺坐です。

今回の展覧会は、膝部分を俯瞰で見られるように、低い位置に展示されていたので、よく確認できました。

半跏趺坐の例もこの目で確認することができました。

まずは、長安寺菩薩坐像と十一面観音坐像です。

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それぞれ手にかかる着衣がない分、明確に判明できます。

萬福寺如来坐像3躯

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11世紀頃の作と思われますが、これも明確に半跏趺坐です。

金剛寺馬頭観音坐像

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坐像の馬頭観音像は、珍しいですが、おそらくは図像を参考にしたのかもしれません。

法王寺観音菩薩坐像懸仏

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レリーフですが、半跏趺坐です。

さて、これらの半跏趺坐像について、図録の解説はどういう記述をしているのでしょう。
仏谷寺薬師如来坐像のように、明らかに結跏趺坐像の場合は、ちゃんと、“結跏趺坐”と書いています。

ところが、前述の半跏趺坐像の解説は、すべて“趺坐”すると書いているのです。以前にも書きましたが、論文で、仏像の形状の記述で“趺坐”すると書いたら、そこは一番のツッコミ所です。

“趺坐するって、結跏趺坐、半跏趺坐のいったいどっち?” と。

解説の執筆者は、あきらかに、それらの像が結跏趺坐でないことは認識しているようですが、それを半跏趺坐と書けない何かの事情があって、あいまいな趺坐という言葉を使ったのは想像できます。

では、何故、半跏趺坐と書けないのでしょうか?半跏趺坐の定義を理解していないから?、あるいは、筆者の辞書の中に半跏趺坐という言葉がないからなのでしょうか?

ところが、この解説の執筆者は、以前、岡山の善根寺薬師如来坐像の調査報告で、この像を半跏趺坐と書いているのです。

つまり、この執筆者は半跏趺坐の概念を把握しているにもかかわらず、島根の仏像では、半跏趺坐と書けないのです。いったいどういうことでしょうか?

これは、単なる一研究者の単純なウッカリミスなのでしょうか。学界の中でものが言えないのでしょうか。それとも、先行研究者の見解を忖度しているのでしょうか。真実を追究すべき本来の学問としておかしいとおもいませんか?

2017年10月17日 (火)

小浜散策

 朝一番で東京を出てきたのに、東小浜駅に着いたのはお昼近くでした。さっそく福井県立若狭歴史博物館へ。『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』展を見学。平安末期~室町時代の仏像を展示していました。

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たしかに、今まであまり知られていない仏像が多く出品されていましたが、特別展の仏像よりも常設展で展示されている、複製の仏像に注目しました。そのひとつが、長慶院聖観音坐像です。

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上から、膝部分を見ると、明らかに”半跏趺坐”です。さらに、常禅寺不動明王坐像のレプリカもありました。

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どう見ても”半跏趺坐”です。常禅寺像は、『基礎資料集成』では、”結跏趺坐”と書いています。明らかに間違いです。

東小浜駅で、電動アシスト自転車を借り、羽賀寺に向かいました。

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ひさしぶりに、十一面観音立像を見たくなったからです。いつ見ても、不思議な像です。

最近の電動自転車は実に快適です。羽賀寺から先の予定は決めていなかったのですが、この調子ならば、昔をおもいだして、妙楽寺へ行くことにしました。

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妙楽寺は、大学院のゼミ旅行でのレポートの題にした聖観音立像があります。

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この聖観音立像は、11世紀頃の作と判定しましたが、渦文が、今回数えただけでも18個ありました。この過剰なまでに装飾をした渦文を調べましたが、結局よくわからずレポートも中途半端な論文になってしまいました。先生には、詰めが足りないと指摘されました。

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その後、井上正氏が『日本美術工芸』550号 昭和59年7月1日でとりあげられました。井上氏は、渦文が現存だけでも19個、失われた天衣垂下部をいれれば20数個あると書いています。そしてこの表現は、”古密教彫像表現の一画をなす霊威性の特異な表現”と書いていますが、むしろ、この渦文という表現方法が、何を参考にして彫られたのかが疑問でした。確かに、渦文は、平安前期彫刻であることのひとつの表象ととらえられますが、いったい何時、誰がこの表現をはじめたのかが知りたかったのですが、残念ながら、それには答えてくれませんでした。頭の中はまだもやもやが晴れません。

 そして、近くの圓照寺で。ここは、胎蔵界大日如来坐像と庭園がみどころです。

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電動自転車は快調で、次は、山の向こうにある若狭彦神社へ、トンネルを突き進みます。

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すぐ近くには、萬徳寺、ここは、阿弥陀如来坐像と庭園があります。

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ここまで来ると、さすがに自転車をこぐ筋肉と歩く筋肉の違いで、足に筋肉痛がはしり、今日の寺巡りはおしまい。

翌日、小浜西組の重要伝統的建造物群保存地区と、特別公開の寺院を巡りました。

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たしかに、小浜西組の町並みは、よく保存されていました。しかし、何か特徴がありません。小浜という町は、城下町なのですが、むしろ若狭街道と、北前船の寄港地として発展した町のようです。しかし、大きな屋敷があるわけでもなく、特徴のない町並みに感じられました。

その小浜西組の外れにある高成寺から。

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本尊の千手観音立像は、平安前期の像として、注目をあびましたが、9世紀かな?というところですか。

正法寺は、銅造如意輪観音半跏像があります。想像以上に大きな仏像でした。

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栖雲寺は、永万元年(1165)銘のある阿弥陀如来坐像を拝観しました。この像も想像するより小さな像でした。写真撮影OKなので、撮らせていただきました。

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といったところで、小浜の仏像探訪は、これでお開きとしました。

2017年10月 9日 (月)

旧一萬田尚登邸

 一萬田尚登(いちまたひさと)は、戦後すぐの1946年から1954年にかけて日銀の総裁を務め、1954年から1958年まで大蔵大臣をつとめた、戦後金融界に君臨した人物です。

その一萬田氏の自宅は、港区青山にあって、おそらく昭和初期に建てられたもののようです。その建物が1965年から1975年頃道路拡張の対象となり、東海銀行が買い取り、保養施設として、箱根強羅の現在地に移築しました。

その後、幾人かの所有を経て、2011年、現在の所有者になり、改修し、美術館として公開して現在に至っているとのことです。

現在の所有者の箱根マイセンアンティーク美術館は、2000年に仙石原に開館し、強羅に移ってきました。その時、美術館として、改修をしたと思われます。

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玄関に入ると、玄関の横に丸窓があります。抽象柄ですが、モダンなデザインです。

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玄関ホールには、2ヵ所の窓にステンドグラスがありました。鉛線を巧みにつかったデザインです。

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サンルームには、4枚のステンドグラスがありますが、真ん中には鳥の絵付けをした絵があり、オパールセントグラスを使わないで、普通の色ガラスを周囲に配置しています。これは、おそらくヨーロッパあたりで作られたもののようです。

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この建物の窓ガラスは、その他にも、斜め格子状のステンドグラスや、窓ガラスの周囲にのみ色ガラスを使った窓がありますが、展示室のため、内部から写真は撮れませんでした。

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今は、間取りをいかして展示室として改修されているので、どの程度変更されているのかは、詳細にはわかりませんが、ステンドグラスは、当初のようにも思われます。ということは、戦前の作品かもしれません。

2017年10月 7日 (土)

旧沼津御用邸の板ガラス

 大変ご無沙汰です。やっと書くネタがみつかりました。その間、幾度となく出かけてはいたのですが、ネタになりそうな話題がみつかりませんでした。

先週、毎年恒例の業界の社長が集まる旅行で箱根に一泊してきました。私は、例によって、ゴルフはキャンセルして、ちょっと足をのばして、沼津に行ってまいりました。

目的は、旧沼津御用邸の建物に嵌っている板ガラスを見ることでした。その板ガラスについて事前の情報がないままの訪問でしたが、新しい発見がありました。

まずは、沼津御用邸の簡単な紹介から。御用邸は、現在、西付属棟と東付属棟が残っています。中央に位置する本邸は、明治26年大正天皇の療養施設として建てられましたが、昭和20年7月の空襲で焼失してしまいました。
西付属棟は、明治23年頃、旧川村純義伯爵の別邸を借り上げ、明治39年に、皇居賢所附属建物を移築して、昭和天皇の御用邸としました。その後、御車寄、御浴殿などを増築し、大正11年に玉突所等を増設し、ほぼ現在の状態になりました。

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東附属棟は、明治36年、昭和天皇の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して、現在にいたっています。

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昭和44年11月、宮内庁から大蔵省に移管され、昭和45年には、大蔵省から沼津市に無償貸与、平成5年に、沼津市に払い下げられました。沼津市は、西付属棟を平成5~7年にかけて大規模修復し、東附属棟も平成8~10年にかけて大規模改修し、公開をしています。

まず、西付属棟から拝観です。玄関から窓ガラスを見ると、手吹き円筒法によるゆがんだ板ガラスが目にはいりました。廊下を歩いていくと、ほとんどがこのガラスで、ローラーの跡のある普通板も、フロートガラスもほとんど見つかりませんでした。

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しかも、ほとんど、割れたガラスは見いだせませんでした。

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中庭の周りをぐるっとめぐるように建物は建っていますが、建具には、パテ止め、いわゆる山パテと、四方溝にガラスを入れる建具があるようです。

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よく見ると、ローラーによる並行のゆがみのあるガラスがありました。おそらくこの建物は、大正11年頃の改修時に入れた普通板と思われます。ちなみに、日本板硝子は大正9年からコルバーン式の連続製法で、生産していました。

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東附属棟は、内部に入れませんでしたが、外観を見ると、パテ止めの建具が数多くありました。

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 さて、最初の疑問。これだけのガラスがはいっているのに、ガラスの割れが見つからなかったこと、しかも、ガラスの補修は当然、しているはずなのに、まったく新しいガラスが嵌っていないこと。

近代建築のガラスを今まで見て回ってきましたが、ガラスのヒビ割れもないのは、見たことがありません。たしかに、平成5年から10年にかけて改修工事をしたばかりということもありますが、それ以前の補修の痕跡が見つからないのです。

現地のボランティアに聞いてみると、このガラスはドイツ製です。という答えしかでてきません。そこで、平成の時の改修工事報告書を見てみることにしました。
『沼津御用邸記念公園西付属棟改修工事記録報告書』 1996年10月 監修 工藤圭章 沼津市発行 によると、開園後に取り替えられた建具は、元にもどし、修復可能なものは、洗い工事とした。ガラス戸は、ガラスの納まりが溝落としと、パテ押えの2種類あるが、そのガラスは、”手造りガラスのドイツ製、ステンドグラスに使用するレストLタイプのガラス”が最終的に提案された。 とあります。

このレストLタイプのガラスとは、いったい何なのでしょうか。ヒントはドイツ製のステンドグラスメーカーの製品だということです。ドイツのステンドグラス板メーカーといえば、lamberts(ランバーツ)社です。そのサイトを見てみると、RestorationーGlasses(Mouth-blown window glass) という項目があります。つまり、復元ガラス(手吹き円筒法による窓ガラス)ということになります。

しかし、ランバーツ社は、このガラスをレストLタイプと言っていません。報告書の執筆者が、改修工事をしたガラス工事業者の言葉を調べもしないで書いたのでしょうか。とくに、改修工事報告書では、主要資材概算表に“ガラス窓 215.0㎡”と書いてあるだけです。どこのメーカーの材料をどの部分に使ったかを詳細に書かなければ、後世にまた、改修工事があったときに、どの部分をいつ補修したのかがわからなくなります。もっと、工事報告書の精度をあげていかなければなりません。

それにしても、従来は、改修工事で、ガラスの入れ替えは、実にぞんざいに扱われてきました。周りがゆがんだガラスなのに、現代の最先端技術の結晶であるフラットなフロートガラスを入れ替えたら違和感があるのは当たり前です。それに気が付いて、この建物にドイツ製のガラスを採用したのは、これからの改修工事の手本となるものだとおもいます。

惜しむらくは、どこが当初のガラスで、どこを入れ替えたのかがわからないことです。これは、正確な報告書をつくる技術者がいないことが原因です。

2017年5月 7日 (日)

関西仏像旅

 ゴールデンウィーク前半に2泊3日の旅をしてきました。
4月30日
 兵庫県立博物館「ひょうごの美ほとけ」展へ。

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兵庫県の白鳳から江戸時代の仏像をならべた展覧会でした。その中で“半跏趺坐”像を確認することができました。

  • 日野辺区 聖観音坐像

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  • 神積寺 阿弥陀如来坐像
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  • 参考 遍照院 銅造如来坐像

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神積寺像と遍明院像は右の足裏が左手に隠れて見えないので、“半跏趺坐”と断定するには躊躇するが、足の組み方の造形は、”結跏趺坐”の造形意図で造られていないと判断できる。
このような、形状の坐像は、仏師の造形意図をくみ取ることによって、”結跏趺坐”ではなく、”半跏趺坐”像と判定するのが、今の所最良の判断材料であろうと思います。

大阪市立美術館「木×仏像」展へ。

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この展覧会も飛鳥から江戸時代までの全時代の木彫仏を展示していました。
その中で、3体の”半跏趺坐”像を確認しました。

東大寺弥勒如来坐像

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この仏像は、以前から言及してきましたが、膝部分の奥行きのなさが、そうさせているのでしょうか?

宮古薬師堂 薬師如来坐像

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この仏像は、初見です。

四天王寺 阿弥陀三尊像のうち阿弥陀如来坐像

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右足裏が左手に隠れているので、正確には断定できませんが、膝の造形からみれば、”半跏趺坐”と認めてもいいとおもいます。

5月1日

奈良に泊まり、まずは、興福寺中金堂の「阿修羅 天平乾漆群像展」へ。これも以前言及していますが、中尊の前に華原磬を置くならば、当然、婆羅門がその馨を打つ動作をした像を配置すべきなのでしょう。

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奈良国立博物館には、まだ時間があるので、東金堂へ。ここには、仏頭がありました。まさにこの須弥壇の中から発見されたものです。

奈良国立博物館「快慶」展へ。

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さすがです。カタログもすばらしい資料です。その中で、随心院 金剛薩埵坐像を確認することが出来ました。

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奈良博の学芸員の山口隆介氏が調査した報告では、この像を“半跏趺坐”と書いているのに、今回のカタログでは、岩井共二氏の執筆です。当然、坐法についてふれていません。

なら仏像館

この館に展示している半跏趺坐像を列挙してみます。

京都 観音寺 菩薩坐像

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文化庁 銅造薬師如来坐像

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この像は、キャプションによると、新薬師寺本尊の宿模だと書いていますが、そうすると、新薬師寺像も“半跏趺坐”と認めるのでしょうか。

金剛寺 降三世明王坐像

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鎌倉時代ですが、もうひとつの脇侍、不動明王坐像とともに、“半跏趺坐”に造っているのは、図像から参照したものと思われます。

その他

  • 見徳寺 薬師如来坐像
  • 当麻寺 宝冠阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 五大明王像のうち不動明王坐像

が“半跏趺坐”像と認定できます。

ひさしぶりに、国会図書館関西館へ行きました。

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東京の本館と比べて新しいせいで、いやな思いもせず、大変心地よく使えました。

5月2日

まずは、京都へ。去年開館したばかりの「旧三井家下鴨別邸」へ。ここは、下鴨神社の糺の森に入る手前にあります。

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明治13年、木屋町三条にあった別邸を大正14年に移築、更に増築した建物です。

残念ながら、旅行社用に2階を押さえられて、1階しが見せてもらえませんでしたが、手吹き円筒法とおもわれる板ガラスを見つけました。

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京都非公開寺院の公開で仁和寺へ。

霊宝館で、阿弥陀三尊像を拝観。
金堂、経蔵を拝観。

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そして、ひさしぶりの広隆寺へ。

足が遠のいていたのは、あまりいい評判を聞かないので、躊躇していました。
案の定、講堂は、金網がしてあり、おまけに、扉をほんのちょっと開けて、中の三尊が覗ける程度の開き方をしていました。

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ずいぶんと、ふざけた対応です。ちゃんと、人を配置して、何で堂々と拝観させないのでしょうか。新霊宝殿の真っ暗闇は、どうしようもない。

島原へ。角屋もてなしの文化美術館へ。
2階部分は、説明付きで、別料金。もっとよく見せてほしいところですが。

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龍谷ミュージアムから、京都国立博物館へ。

京都国立博物館は、「海北友松」展をやっていましたが、平常展の彫刻だけ見たいを思っていましたが、なんと、全て、特別展の料金でないと入場できないということで、パスポートでの入場を断られました。
今回の「海北友松」展の会場が本館ではなく、新館で行われたためでしょうか、それにしても、平常展の見学者を切り捨てる態度は、もとの役所仕事にもどってずいぶんと態度がでかくなったなという印象です。平常展のみの入場ができる、装置はいくらでもできたはずです。

そして、平常展で見たかった仏像は

金剛寺不動明王坐像

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高山寺 薬師如来坐像

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神護寺 薬師如来坐像

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特に、高山寺像、神護寺像は、俯瞰で見ることができ、“半跏趺坐”であることを確認しました。

今回の旅では、多くの“半跏趺坐”を実見することができました。なかなか以前の写真だけでは、その撮影者が、坐法について意図して撮影していないので、実見するしかないのが実情です。
調査者が、ちゃんと、坐法についての知識と判断能力がなければ、これからも、仏像の形状の記述は、まゆにつばをつけることが続くことになります。、

2017年4月 9日 (日)

鎌倉近代建築の旅

 昨日(4月8日)に鎌倉に行ってきました。あいにく一日中雨の中、歩き回りました。

まずは、浄妙寺の境内の奥にある、石窯ガーデンテラスへ。ここは、浄妙寺の谷戸の奥の山の中腹にある、洋館をレストランにした大正11年(1922)の旧犬塚邸です。

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内部は、改装されていますが、外観はよく残されているようでした。ここには、2ヵ所のステンドグラスがあります。

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このステンドグラスのデザインは、名古屋の撞木館にあるステンドグラスとよく似ています。もう一つは、階段室にあるパネルです。

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この建物の設計は、ドイツ人だそうですが、ステンドグラスは日本製でしょう。

すぐ近くの華頂宮邸が春の公開日なので、また見にいきました。

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ここのステンドグラスは、シンプルなデザインのものばかりで、あまり特徴がありません。

もうひとつこの土日に公開している、大佛次郎茶亭へ。

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大正8年(1919)の建物ですが、ガラス戸は改装されていて、ガラスは見るべきものがありませんでした。

つぎに最近新築した川喜多映画記念館の建物の奥に、旧川喜多邸別邸があります。この建物は、江戸後期の民家を練馬で和辻哲郎が居宅として使っていたのを、鎌倉に移築したものだそうです。土間があって、江戸の農家の雰囲気が残っていました。

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鎌倉駅のすぐ近くに、古我邸がありました。駅からこんな近くの広大な敷地に洋館が建っていました。現在はフランス料理のレストランとして、使われています。大正5年(1916)荘清次郎の別邸として建てられた洋館です。結婚式開催中で、中にはいれませんでした。

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長谷の方を歩いて行くと、 吉屋信子記念館があります。この建物は戦後の昭和37年(1962)に建てられていますが、設計が吉田五十八で、シンプルな作りになっていました。

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そして、このすぐ近くに 鎌倉文学館があります。旧前田利為邸です。昭和11年(1936)竣工の建物です。

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内部からのステンドグラスの撮影ができませんが、2ヵ所の丸窓を除いて、シンプルなデザインのステンドグラスをランマに使用しています。その2ヵ所の丸窓も、なぜか、あまりオパールセントグラスを使っていません。流し模様のある、透明な硝子を使っています。この時代になると、ステンドグラスのデザインの流行も少しづつ変化してきたのでしょうか。

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もうひとつ、旧諸戸邸がこの近くにありました。今は、長谷こども会館として使われていますが、内部は非公開です。あの、桑名の森林王諸戸清六が大正10年(1921)に買った建物です。創建は明治41年(1908)だそうです。

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建築ばかりでは、何か物足りないので、長谷寺へ、リニューアルした旧長谷寺宝物館に入館。現在では、觀音ミュージアムと言うそうです。観音三十三応現神像がガラスケースからよく見えるようになりました。仏像の着衣にちょっと示唆をあたえるような仏像です。

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今回のメインは、石窯ガーデンテラスのステンドグラスでした。その他の戦前の住宅は、窓ガラスにに見るべきものがありませんでした。それにしても、雨なのに、シーズンなので、人はどこもいっぱいでした。

2017年3月20日 (月)

安土・神戸・姫路の旅

 3月18日19日と旅にでました。
まずは、米原から東海道線で、安土駅へ、今回は初めてレンタサイクルで安土城考古博物館へ。「大湖南展ー栗太・野洲郡の風土と遺宝ー」の見学です。このシリーズは、滋賀県の仏像の紹介としては何回も開催してほしい展覧会です。

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その中で、注目したのは、真光寺聖観音菩薩坐像です。この仏像は銘文があって、1036年には完成していた仏像です。今回、膝部分を俯瞰して見てみると、半跏趺坐です。

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この仏像は、『基礎資料集成』にも掲載されている仏像です。それには結跏趺坐と書いてあります。

自転車の機動性を生かして、安土駅の近くにある「旧伊庭邸住宅」へ。

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大正2年(1913)ヴォーリズ設計の住宅です。内部には、結霜ガラス、色型硝子が嵌まっていました。

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東海道線にゆられて、神戸六甲道駅で下車。歩いて、“武庫の郷”の甲南漬資料館へ。

ここは昭和5年(1930)年竣工で、創業者の高嶋平介の自宅を資料館としています。
壁に2箇所ステンドグラスがありました。このステンドグラスはオパールセントグラスを使わない手法で作られています。

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JR住吉駅からバスで、白鶴美術館へ。ここは、初めての訪問です。収蔵品のすばらしさに感動です。関西のコレクターのすごさを実感させられました。

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泊まりは、姫路市内で、翌日、山陽電車で、山陽網干駅で下車。歩いて、ダイセルへ。ダイセルは、明治42年日本セルロイド人造絹糸として創業。明治43年にイギリスから技師長を呼び、その居宅として建てられた洋館が2棟、工場内に残っています。

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こじんまりとした洋館ですが、ガラスも古そうです。

さて、今回のメインは、そこから歩いて10数分の住宅街の中にある「山本家住宅」の見学です。山本家は、メリヤスの製造で財をなし、網干町長、網干銀行頭取を務めた家です。

建物は、明治初期に建てられた主屋と、大正7年(1918)の洋館、和館があります。

まずは、玄関から。

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望楼付きの黒壁の洋館ですが、和様折衷の意匠を採り入れています。

書斎とサンルームの間の窓にステンドグラスがありました。

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このデザインは、他のステンドグラスと違うデザインコンセプトを持っています。その横の出窓のステンドグラスは、すばらしいデザインです。

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このデザインは、きっとその作家は明らかになるだろうと思いますが、かなりの上級レベルです。

廊下と洗面室の壁取りつけられたFIX窓は、

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これも、どこかで見たデザインに似ています。

廊下の天井に同じ図柄の六角形のステンドグラスのトップライトがあります。

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これも、丸い半円形のかたまりのガラスを使っているところは、どこかで見たような気がします。

そのほか、窓ガラスには、結霜ガラスを多用していました。

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残念ながら、模様入りケシガラスは、ここでも見当たりませんでした。関西で、模様入りケシガラスの例がこれほど少ないのは、どうしてでしょうか。大阪の硝子問屋、篠原善三郎商店では、「硝子板意匠摺見本」というカタログをだしているのが、判明しているのに、何故普及しなかったのでしょうか。いまだに、その疑問が解決できません。

数十年ぶりに、改修なった姫路城の内部を見学しようと、お城に行ってみると、天守閣は1時間待ちだそうで、そうそうに引き上げました。

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もう1回すべてを見尽くしたいと思ったのですが、しかたなく、バスで太子町へ。

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「斑鳩寺の文化財ー庫裏の仏さまたちー」展へ。庫裏の解体修理に伴って子院の仏像の展示を行っていました、殆どが近世の小像なのですが、その中で、一面六臂の不動明王立像を発見しました。実に珍しい仏像ですが、残念ながら、カタログはなく、資料としての写真が手に入りませんでした。

今回の旅では、やはり、網干の山本家住宅が、一番の成果でしたが、こういった住宅がこれから、長い間維持できるのか、不安がのこりました。

2017年2月19日 (日)

豊橋、浜松の旅

 日帰りで、旅をしてきました。
まずは、新幹線で豊橋駅に下車。路面電車にのって、市役所前で降りると、目の前に豊橋市公会堂がありました。

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昭和6年、中村與資平の設計です。左右の塔の最上階の窓の各2方に、ステンドグラスが嵌まっていました。

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場所は、左右とも階段室です。

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その階段室から、正面の吹き抜け側の窓にも、両方に同じデザインでステンドグラスがあります。

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そこから、公園の中に入ると、すぐに、豊橋市美術博物館があります。

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「普門寺と国境のほとけ」展を見学。仏像が普門寺を中心として、10数体出品されていました。いずれも平安から鎌倉時代の仏像です。
この展覧会は、普門寺の旧境内の発掘調査の調査報告書が去年完成したことにより、開催されたようです。
報告書では、いくつかの新事実が報告されており、それにもとづいて展示されているようです。

同じ公園内にある城跡、吉田城へ。復元された、鉄櫓が、豊川の川岸に建っていました。
この城は、北に豊川というおおきな川があり、それを利用した縄張りになっています。
対岸からみると、城の立地がよくわかります。

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電車にのって、浜松へ。駅から歩いて、10分ほどで、木下恵介記念館がありました。

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旧浜松銀行協会の建物です。昭和5年竣工で、設計は中村與資平です。この建物には、中村與資平資料室が一室にありました。

その玄関のランマです。

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この建物内には、珍しい型硝子を2点発見しました。

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日本では、作っていない柄です。

歩いて、浜松城へ、天守閣と天守門が復元されています。

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吉田城もそうですが、石垣が両方とも、野面積みです。角の打ち込み矧ぎの石垣も、野面積みに近い積み方です。よく、これだけの石垣が残ったと思います。

もうひとつ、これで、静岡市庁舎と合わせて3棟の、中村與資平設計の建物を見たことになります。しかも、この3棟すべてに、ステンドグラスの窓を採用しています。図柄は、旧浜松銀行協会のステンドグラスが、ちょっと、アールデコ調で変わってはいますが、豊橋市公会堂、静岡市役所は、オーソドックスな図柄になっています。

中村與資平は、ステンドグラスの図柄に、どの程度関与したのかはわかりませんが、全体の意匠のなかで、それなりの、感覚を具現化したのでしょうか。

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