2012年1月29日 (日)

子規庵

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 鴬谷の子規庵に行ってきました。子規庵は、台東区立書道博物館の目の前にあります。いつも書道博物館に行くたびに、入ろうか迷っていました。というのは、この建物は戦後、復原した建物だと知っていたからでした。

意を決して行こうとしたのは、子規が病に伏せっていた一室のガラス戸を見たいとおもったからでした。

この建物には、明治27年2月から、子規が亡くなる明治35年9月まで、子規は住んでいました。そして、子規の死後も、母八重が住み、関東大震災で、破損した後、建物を解体し、また建てなおし、昭和20年戦災で焼失した後、昭和26年に復原しました。

2回も建て直したにもかかわらず、子規が住んでいたころを忠実に復原したようです。

子規は、この建物の6畳間で、病に伏せりながら、短歌を読んでいました。

雪見んと思ひし窓のガラス張ガラス曇りて雪見えずけり

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このガラス戸は、明治33年12月頃、高浜虚子たちが、子規のために贈ったものでした。

虚子は、上京した後、ここに居候していたので、そのお返しでもあったようです。

さて、明治33年というと、まだ、日本では板ガラスが生産されていない時期でした。したがって、子規庵に嵌めたガラスは、舶来品だったということになります。

統計によると、板硝子の輸入額は、明治元年には、10,144円だったのが、明治32年では、1,246,200円にまで増加し、明治34年の帝国議会に、窓硝子製造業保護奨励に関する建議案までだされ、何とか、貿易赤字の解消のために、板硝子製造の国産化を勧めようとしました。

そんな頃でしたので、高浜虚子が贈ったとはいえ、相当な金額だったのだろうとおもいます。

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建物には、雨戸があるとはいえ、昼間は明障子のみでは、寒さがこたえたのでしょう。せめて、子規の寝ている部屋でも、寝ていて外の景色が見えることの安らぎを虚子は味合わせたかったのかもしれません。

子規の歌に、ガラス窓の短歌が、10数首残っています。

日本の住宅は、障子を簡単に、ガラス戸に換えることができる構造になっていることが、明治時代になって、急速にガラスが普及していった要因のひとつになっていたようです。

しかも、縁側の外側には、透明のガラスをいれ、内側には、障子の真ん中にだけ透明ガラスにするか、模様入のガラスにするなど、室内を見られないようにする配慮もされていました。

日本人の窓硝子という新しい素材の受け入れ方は、全く新しいコンセプトという意識でもなく、ちょっとした生活空間の修正だけで済んでしまっているような気がします。

しかも、ガラスという透明な隔てによって、外部が見えるという長所よりも、ガラスの単に光が入るという性質の方を重要視しているようにおもえます。

というのは、ガラスを透明なまま使うのではなく、スリガラスにしたり、模様を付けたりするのは、新しい素材を簡単にかみ砕いてしまう日本人の能力によるもののような気がします。

2012年1月22日 (日)

伊達藩下屋敷の板ガラス

 どうも気になってしようがありません。板ガラスの歴史を調べてみると、江戸時代の元禄の頃、仙台伊達藩の品川の下屋敷に、400枚もの板ガラスが嵌っていたというのです。

その、出典を探しているのですが、なかなか原典にぶちあたりません。

ひとつ見つけたのが、森鴎外が大正5年(1916)1月に発表した随筆です。「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に掲載されています。「椙原品」(すぎのはらしな)という題名で、伊達家3代当主綱宗の側室で、椙原氏の品(しな)という女性について書かれています。

伊達綱宗は、万治元年(1658)19才で藩主となり、万治3年(1660)21才で、隠居させられ、品川の下屋敷にいはば蟄居の身となり、正徳元年(1711)72才で死去するまで、品川に住んでいました。

余談ですが、寛文11年(1671)に原田甲斐による刃傷事件がおきます。綱宗は隠居の身のため、事件とは関わりがありませんでしたが、それは例の『伊達騒動』です。歌舞伎の「伽羅先代萩』、山本周五郎『樅の木は残った』などの題材になった事件です。

森鴎外の書によると、

「品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかった硝子板四百余枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買ったと云ふことである。」

と書いてあります。

綱宗という人は、書画、和歌ばかりでなく、蒔絵や陶器も作っていたなど、芸術に造詣が深かったようです。

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しかし、その当時、日本では、建具に嵌めるような板硝子は、製造していませんでした。海外に目をむけると、ヨーロッパでの板硝子の製造は、鋳造法かクラウン法でしかできませんでした。鋳造法は、1675年、フランスのド・ヌゥーが開発しましたが、それは、鏡の製作のためでしたし、板厚がどうしても厚くなり、また、研磨が必要でした。

 

 

 

 

Photoクラウン法にしても、そんなに大きな板硝子は製造できませんでした。

つまり、綱宗が品川に住んでいた時期1660年から1711年という頃は、手吹き円筒法が開発されて板硝子の大量生産がはじまる前の時代なのです。

そんな頃に、輸入したとしても、もう鎖国がはじまっていますので、中国かオランダからしか入ってきません。

ほんとうに、400枚もの板硝子が建物の建具に嵌っていたのでしょうか。

ところが、仙台の善応寺、通称ギヤマン寺という寺に、品川屋敷で使ったギヤマンの障子が残っているというのです。

善応寺は、四代伊達綱村の建てた寺です。いかにも、ありそうな話です。

でも、その真偽がわかりません。善応寺で、現物を見たという人の書き物が見あたりませんので、やはり、行って見ないとわからないのかな。

2012年1月 2日 (月)

新春の東博

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 新年あけましておめでとうございます。

  本年もご贔屓の程よろしくおねがいいたします。

新春の第一弾は、初詣と、運動をかねて、東博へ行ってきました。開館早々に行けば、特別展の『北京故宮博物院200選』展をゆっくりと見られるかと思いきや、すでに長蛇の列。入場には、40~50分待ちとのこと。

 

 

 

 

 

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何も今日見なくても、パスポートのハンコ欄にまだ空きがあることだし、すぐにパスしました。

それで、平常展で彫刻で目新しいのが展示されているのか、彫刻室を覗いてみました。

すると、例によって、腰布とその上に腰巻ストールをしている、不動明王立像がありました。この手の着衣方法は、平安後期には、すでにメジャーになっていたようです。

 

 

 

 

 

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本館では、今年が東博140周年だということと初日だけあって、さまざまなイベントがおこなわれていました。

まずは、1階で、特別展にあわせて紫禁城の映像を上映していました。画面がタテ2.7m×ヨコ12mの大スクリーンに映し出された映像は、すべてCGでした。たしかにVR(バーチャル・リアリティ)映像なのでしょうが、願わくば本物を見たかった。

 

 

 

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また、新春イベントとして、浅草寺の金龍の舞の披露がありました。本館の階段から、平成館の前庭での演技は、たくさんの見物客で、よく見えませんでした。

しかし、こんなめでたい時に、館長との記念写真はないでしょう。だれが客なのかわかっているのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

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東博では、本館2階中央の貴賓室を公開していました。この部屋ははじめて見ました。

 

 

 

 

 

 

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そんなこんなで、人混みを避けて、輪王寺根本中堂で、やっと初詣を済まして、帰宅の途につきました。

 

 

 

 

 

 

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去年大晦日の東京スカイツリーのライトアップ。いまいちですな。

2011年12月31日 (土)

今年見た銅像

 もう大晦日です。恒例の今年を振り返って見ました。

今年もいろいろなところに行きましたが。どうも更新の回数が減り気味です。いささか怠け心がついてきたのかもしれません。充分に反省すべきところです。

今年、撮り貯めてきた画像をざっと眺めていると、今年は仏像の写真があまりとれていないのに気がつきました。せいぜい東博や奈良博の常設展に出ている仏像をむりやり撮ったくらいでしょうか。

それでなのか、特に都内の野外にある銅像を以外と撮っているのに気がつきました。それで、今年の〆は屋外の銅像を並べて、年越しといたしましょう。

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まずは、元旦に撮った『勝海舟像』。向島のアサヒビール本社の敷地に建てられていたものです。建立は平成15年です。勝海舟は、両国の生まれですから、この向島には何の縁もないはずですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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皇居の周りには、いくつかの銅像があります。まずは、九段の田安門の入口に大山巌像と品川弥二郎像があります。また、北の丸公園の、近代美術館と工芸館の間の首都高沿いに、北白川能久親王像があります。

 

 

 

【大山巌像】大正9年建立

 

 

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【品川弥二郎像】(建立年不明)

 

 

 

 

 

 

Photo_4 【北白川能久親王像】明治36年建立

 

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湯島聖堂は、建物も日本の社寺建築とは違った、非常におもしろい様式を持っていますが、その敷地に孔子像があります。これは、昭和49年台湾のライオンズクラブから寄贈されたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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上野公園には、小松宮彰久親王像があります。この像の前をしょっちゅう通り過ぎるのですが、西郷さんの銅像と同じく、詳しく見たことがありませんでした。明治45年の建立だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

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浜離宮の中に、変わった銅像がありました。可美真手命像というのだそうです。読みは“うましまでのみこと”というのだそうですが、この神様は古事記に書かれているのでしょうが、この神様の記憶がありません。あまり印象になかったのかもしれません。明治27年建立。

 

 

 

 

 

 

 

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千葉県の山武市郷土資料館へ成東駅から歩いていくと、伊藤左千夫を記念した公園がありました。その公園のメインは、『野菊の墓』の主人公、政夫と民子の銅像でした。平成3年の建立です。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_9ブログには書きませんでしたが、7月に宇都宮に行ってきました。上野記念館で、秋山記念文庫開館記念展を見るためでした。そう、あの秋山光和先生の蔵書を教え子が学長をしている文星芸術大学に寄贈した記念展でした。

その帰り道、清巌寺に寄ってみました。鉄塔婆(1312年)の安置してある収蔵庫はいつでも見られるようになっていました。セキュリティがしっかりしていれば、見張りの人がいなくても十分に公開できることのいい例かもしれません。

 

 

 

 

 

 

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浅草寺の境内を散策していると、二体の銅像がありました。作者は太田久衛門正儀です。あの江戸六地蔵を作った仏師です。この仏師の作品は、都内にかなりあるようで、探すとまだまだありそうです。像は貞享4年(1687)作、安永6年(1777)修理。

 

 

 

 

 

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京都の大河内山荘から、渡月橋にいく道すがら、公園の中に、角倉了以像がありました。昭和62年の建立です。

こう見てみると、都内には以外と銅像があるものです。いはば、近代彫刻です。たしか、このような銅像を集めた本もあった記憶があります。

もうすこし、掘り下げて調べるとおもしろいのかもしれません。

というわけで、平成22年もあと十数時間です。この一年、何か結果を残せたのかと思うと、恥ずかしい限りです。

来年はもうちょっと気合いをいれなければとおもいます。

読者の皆様よいお年を。

2011年12月25日 (日)

厚木市古民家岸邸

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 本厚木駅から、バスで40分ほどの停留所で降りてから、数分歩くと、黒塀に囲まれた屋敷があります。入口は薬医門で、明治19年に建てられたそうです。

岸邸は、もともと養蚕農家だったらしく、主屋の間取りは伝統的な六間取りで、2階建の瓦葺きになっています。

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主屋は明治24年の建築だそうですが、その後、増築や、改造をくりかえして、つい最近まで所有者が住んでいたとのことです。平成10年に岸氏から市に寄付され、翌年から公開しているのだそうです。

まず、普通の通用口は、土間になっています。その横に正式な玄関がありますが、木材は、銘木を各所に使っています。

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2階の座敷の妻の縁側に、市松模様に配置した、赤色のガラスを嵌め、それ以外は、結霜ガラスを入れています。

外の景色は、赤色のガラスから眼にはいり、結霜ガラスで、アクセントをつけているようで、いわゆる普通の窓から見る風景とは異質な感覚にとらわれます。

 

 

 

 

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南の縁側のガラス戸の下にあるはめ殺し窓の枠には四方に装飾をほどこし、結霜ガラスを入れています。

 

 

 

 

 

 

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2階の増築部分の洋室にも、その窓は、赤色ガラスと結霜ガラスの市松模様を基本としたデザインに統一しています。

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2畳もないような女中部屋の窓にも、同じように赤色ガラスを使っています。

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1階増築部分の便所も、さらに凝った造りになっていました。窓のデザイン、ガラスの模様まで、ひとつひとつ吟味した材料を使っています。

使っているガラスを見てみると、創建当初のガラスはあまり残っていないように思われましたが、戦前の改修、増築で、使われたガラスでも、これだけ残っているのは、注目に値します。

補修した型ガラスも見かけない柄でしたし、結霜ガラスも多用していました。

それにもまして、赤色ガラスを様々なところで使うという感覚は、和風建築にどういう風にマッチするかを吟味した結果でしょうが、実に斬新な感覚です。

明治以降の伝統建築をつくる大工は、ただ、昔の様式を踏襲するということではなく、新しい感覚を導入していくという冒険をしていかないと、生き残れなかったのかもしれません。

そういう意味で、明治以降の大工の時代感覚の敏感さに敬意を表せざるをえません。

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2011年12月23日 (金)

模様入りスリガラス

 先日訪れた民家は、ふじみ野市立福岡河岸記念館が正解でした。上福岡市と大井町が合併して、ふじみ野市となったためです。

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さて、その福岡河岸記念館には、さまざまな模様のスリガラスがありました。その中で、1階の引き違い障子の中央に2枚嵌っている柄が気になりました。どこかで見たことがあると思い、データを探してみると、高橋是清邸の障子に嵌っているガラスと模様が同じでした。

 

 

 

 

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もうひとつ同じ例を見つけました。先日見てきた、厚木市古民家岸邸の土間に嵌っているあかり取りの窓です。市松模様で、色硝子をはめていますが、それ以外のガラスがこの模様です。

この建物については、後ほど詳細に報告しようとおもいますが、建物は明治24年に建てられています。しかし、かなり補修が入った建物なので、このガラスが当初かどうかはわかりません。

 

 

 

 

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高橋是清邸は、明治44年、赤坂に建てられた木造の和風建築です。現在、小金井の江戸東京たてもの園に移築されています。

3つとも、建物は明治時代に建てられています。新築当時から、ガラスを入れ替えていなければ、このガラスの模様は、すでに、明治時代にパターン化していて、しかも、そういうガラスを加工する工房か工場があったということになります。

 

 

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福岡河岸記念館の建物に嵌っている他の模様入りスリガラスをみてみると、模様のついたガラスを外国から輸入したとも考えられますが、模様は松葉や、紅葉柄、鶴亀紋など和風柄です。これらは日本古来の伝統的な模様なので、加工は国内でされたと見るべきでしょう。

国産の板硝子が生産されたのは、明治42年のことですから、すくなくとも、輸入ガラスを加工する技術をもった工場が国内にあったということになります。

この加工されたガラスをみると、いわゆる手吹き円筒法による泡だらけのガラスのようではありません。すでに、外国で開発された機械吹き円筒法によるガラスのようでもあります。

 

 

 

 

 

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それにしても、模様柄には、さまざまなパターンがあったようです。おそらく見本帳のようなものがあって、施主はそれを見て、発注したのだろうと想像されます。

 

 

 

 

 

 

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こういう模様入りのスリガラスは、一般家庭にもかなり普及したようです。昔の縁側のある家では、廊下と座敷の間に障子ではなく、ガラス戸をつけるようになり、しかも、全然外が見えないスリガラスではなく、一部分に透明部分をのこした模様をつけたガラスをはめたのです。

また、和室には雪見障子をつけ、そのガラスには、紐状の縁を装飾したガラスをよく入れていました。

これを業界では、“紐抜き”といって、そういう加工を専門にする加工屋が昭和50年代にはあった記憶があります。

こういう技術は、時代の流れでしょうか、もう消えつつあります。

2011年12月18日 (日)

上福岡市立福岡河岸記念館

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 先日、埼玉県上福岡市にある福岡河岸記念館を見てきました。ここは福田屋という回船問屋の住宅で、明治時代に建てられた、主屋と、文庫蔵、離れなどの建物が残っています。

その中で、明治33年に建てられた木造3階建の“離れ”の建物が、今回の注目でした。建物自体はそれほど大きなものではなく、2階・3階は各10畳の和室と床の間、そして2方向の濡れ縁がある平面で、主に接待用に使われた建物のようです。

 

 

 

 

 

 

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構造は6本の通し柱を用いた建物なので、しっかりとした造りになっているようです。3階建というのは、福岡河岸を上から眺められるための設計意図があったと思われます。また、2階・3階の雨戸は上半分に硝子をはめ込むという形をしています。おそらく、採光を考慮してのことでしょうが、大変珍しい仕様です。

 

 

 

 

 

 

 

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建物の意匠を見ると、3階の2箇所の窓の引き戸には、市松状に緑色の硝子をいれています。これは3階のみです。

 

 

 

 

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2階の窓にははまっていませんが、建具は赤と黒の漆を塗っています。その他にも、欄間の窓枠に漆を塗っている建具があります。

 

 

 

 

 

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内部の障子も硝子をいれ、戸の中央には、模様付のスリガラスが入っています。ガラスの表面にマスキングをして、模様を切り抜いて、サンドブラスト加工をするというのは、業界では“紐抜き”といっていましたが、もうその需要がすくなくなってしまいました、雪見障子によく使われたのですが、それもなくなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

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内部のガラス障子の上の欄間には、一枚板に3から4個の模様をくりぬいた板がはめられています。この模様が様々な種類の形で、何か見本帳をみているようです。

サンドブラストによる、ガラスの模様も、松葉だったり、紅葉だったり、あるいは鶴亀の模様だったりと、バリエーションが豊富です。

 

 

 

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さて、3階の緑色の硝子ですが、いままで、いくつか紹介してきた、擬洋風建築で使われた色硝子の使い方と共通するものです。鉛でつないだステンドグラスが日本で知られる前の装飾方法なのでしょう。

細部を見てみると、泡が細くのびているのが見受けられますので、明治時代の手吹き円筒法によるものだとわかります。創建当初としてもいいのでしょう。もちろんこれは舶来品です。

他のスリガラスですが、詳細に見ることができませんでしたので、手吹き円筒法によるものかは判明しません。スリガラスの加工法は、すでに明治時代に導入されているようなので、その判定はますますむずかしいことになるのでしょう。

ただ、模様付のスリガラスと比べてみると、スリ具合に多少濃淡があるようです。

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3階建の木造を建てた大工は、一体どんな人物だったのでしょう。外観を見ると、1階・2階に瓦屋根をつけ、それを支えるのに、寺院の斗栱を模したような厚い板を使っていますが、これは柱に枘で取り付けたもののようで、寺院の塔などで使われる構造的に軒を支えるという機能にはなっていないようです。

おそらく、この大工は、いわゆる神社仏閣の建築を手がけた宮大工ではないようです。ただ外観だけ模倣したもののようです。

それにしても、その当時としては、最先端の技術と、最高の材料を使おうとしたことは理解できます。

2011年12月12日 (月)

2つの同窓会

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 7月に、40数年ぶりに、高校のクラス会に行ってきました。場所は新宿の中村屋でした。確か、大学を卒業してからは、何度か会を開いていたようですが、その間、一度も参加しませんでした。というのは、私の高校生活には、あまりいい思い出がなかったと思いこんでいたのと、何かクラスの仲間とは会うことに気後れがあったからでした。

今回は、幹事が自ら連絡をくれたりして、義理でも出ないわけにはいかなくなってのことでした。また、クラスの仲間が病気でなくなり、その偲ぶ会をかねてということもあって出席することにしました。

会場につくなり、やはり、予想が的中しました。顔をみても、名前が浮かばないのです。今回は、故人の友人のほかのクラスの人も出席したりしたので、50人近い出席者でしたが、その半分も思い出さないのです。

時間の経過とともに、すこしづつ記憶がよみがえってきましたが、それでも、隣の人と何を話したらいいのかその話題がでてこないのです。

おそらく高校2・3年の2年間に、それほどの濃密な関係を持つ人がクラスにはいなかったのかもしれません。昔の話が途切れてしまうのです。

もう、出席者は功なり名を遂げた人が多いので、それなりの余裕を持った年代になったためでしょうか、その雰囲気が、私にとっては、非常に居心地の悪さを感じてしまいました。

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もうひとつ、先日、大学のサークルのOB/OG会がありました。この会は、単なる同窓会ではなく、現役も出席して、現役とOBの交流の場としての機能を持たせた会でした。

2年に1回の開催ですが、準備はすべて現役の学生にやってもらっています。もう2~30年も続いているでしょうか、よく現役生は、継承して開催をしてくれています。ほんとに、現役の諸君には感謝のしようがありません。

これが、卒業生が主催する卒業生だけの会だったとしたら、もうとっくに0B/OG会は消滅していたでしょう。

サークルの性質から、運動部のように何かひとつの目標をもって活動していた団体ではなく、まとまりができにくいのは、いたしかたないことなのですが、結局、上下2~3年の間の顔見知りがいなければ参加できないことになってしまうのです。

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つまり、共通の話題が少ないと、見知らぬ出席者と話ができないのです。

そんな、不安定な会であっても、30年以上も続いてこれたのは、現役生との交流があったからだと思います。現役生にとってはOB/OGのおじさん、おばさんと話を合わせなければいけないのは、苦痛かもしれませんが、いずれOB/OGになるので、予行演習のつもりでいただければと思っています。

それと同時に、OB/OGにもすこしづつですが、変化が見られるようになりました。最初の頃は、OB/OGも、現役生に声をかけることもできませんでした。また、現役生もOB/OGに変な遠慮があって、ぶつかっていこうという勇気もないようでした。もっとも、OBも現役生に真正面からぶつかってこられたら、それに堂々と受けることはできなかったでしょうが。

OB/OGにとって、単に昔の仲間に会えるというだけが、OB/OG会ではないということが、すこしづつですが、理解されてきたのかなと思いました。

つまり、共通の話題がない同窓会は、結局、長くつづかないのです。昔のことを語り合う会は、仲間うちでやればいいことです。でも、話は尽きてしまいます。その後は、どうしたらつづくのでしょうか。

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OB/OGのするべきことは、昔の仲間との交流だけではなく、いかに後輩諸君に、その経験を伝えることだと思うのです。

また、見知らぬOB/OGであっても、積極的に話をすれば、それだけ人脈がひろがります。それだけでも価値あることだとおもいます。

こういう世代を超えた交流の機会がある同窓会は、何か新しい発見の場であると意識して、ふるって参加してほしいとおもうのですが。

2011年12月 3日 (土)

『日本の美術』分野別論文等目録

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 やっとのことで、『日本の美術』分野別論文等目録を『春秋堂文庫』にUPすることができました。

10月に休刊してから、できるだけ早い時期に掲載しようとおもいましたが、いままで入力したデータベースには問題がなかったのですが、HTMLに変換するときに、不具合が見つかり、手間がかかってしまった上に、病気入院というアクシデントも重なって、時間が経過してしまいました。

何とか、掲載にこぎつけましたが、そんな具合なので、校正がまだ不十分のようです。入力間違いなどがあるかと思いますが、読者様には、どんなことでも、指摘いただければすぐ修正いたしますので、よろしくお願いいたします。

さて、この『日本の美術』の目録は、題名のみでは、最終刊で、掲載されていますので、編著者名で並び替えたデータを、まず掲載しました。

分野別に分類したことについては、多少見解の相違もあるかとおもいますが、複数の分野に載せることで、目的の雑誌にたどり着きやすくしました。

『地域別彫刻所載文献目録』も、最終掲載日から、1年以上も経過しており、入力が滞っています。これからは、新刊の本を中心に入力作業をすすめていこうかと思います。

最近は、博物館・美術館で、仏像が出品される機会が多くなり、そのために図録に仏像の写真・解説が掲載されており、なかなかそれを掌握することがむずかしくなっています。

できるだけ、その展覧会に足を運ぼうとはおもいますが、むずかしいことが多々あります。

できれば、そんな情報をいただければ、この文献目録がもっと充実するとおもいます。

読者の皆様のご協力を切にお願いしたいところです。

2011年11月21日 (月)

退院しました

 先週土曜日(19日)無事に退院することができました。様々の読者の皆様には、ご心配とご迷惑をおかけして、誠に申し訳けありませんでした。

ブログのコメントにも書きましたが、旅行中に突然、救急車に乗車するという経験をしまして、新潟の病院に1週間ほど入院の後、東京の病院に転院して、治療が終わり、晴れて退院することができました。

病因は、総胆管結石ということで、いわゆる胆石でした。その石を取り除けば、もう治療が終わりという、あとから考えれば、至極単純な病気でしたが、突然の発症なので、多少とまどいましたが、これも運命の定めに従って、淡々と治療に専念してきました。

というわけで、入院前に新潟の市内を見て回った報告をまずしなければいけません。

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29日朝新潟に到着して、最初に“みなとぴあ”にいきました。そこには、近代建築が4棟ほどあり、そのうちの旧第四銀行住吉町支店に、ステンドグラスが嵌っていました。建物は、昭和2年竣工の建物ですが、移築の際、かなりの改修が施されているようです。このステンドグラスも、補修がかなりされているようで、当初の硝子がどれほど残っているのかわかりません。

 

 

 

 

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つぎに行ったのは、石油王の家である新津記念館です。ここは、窓のほとんどにステンドグラスが嵌っており、かなりの量がありましたが、内部には、カーテンがかかっており、そのデザインの全体像がわかりません。おまけに、非公開の窓もかなりあり、全体にどういうデザインの配置をしたのかがわかりません。おまけに内部は写真撮影禁止では、ステンドグラスの技法の詳細の検討もできませんでした。

とくに、2階の広間のステンドグラスは、花のデザインで、他とは違った東洋的な図柄ですが、色の使い方に洗練さがなく、あまりインパクトはありませんでした。

外から、窓硝子を見ると、透明硝子を入れて、それなりの補強をしてはいますが、その硝子の清掃がされていなくて、そのためか、内部から見ると、ステンドグラスの色鮮やかさが出ていないようでした。 ちょっとがっかりな建物でした。

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その後、旧小澤家住宅、燕喜館、新潟県政記念館をまわって、電車で村上に到着。旅館の送迎バスで、海岸沿いの旅館へ。部屋から見る夕焼けにしばし感動していると、仲間が到着し、私を見るなり、おかしいと騒ぎだし、とうとう救急車に乗車する嵌めになりました。

病院は、田園地帯にあり、まわりは、低い山々に囲まれた、実に環境のいい場所でした。

病室から見る風景は、毎朝、山の表情が変わり、時には、朝霧が山裾にひろがったり、飽きの来ない風景を毎日楽しんで、ひとときの何も考えないという時間を持つことができました。

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これが、いいことなのかどうかはわかりませんが、人生の一コマとしては、これもまた、ひとつの経験が加わったということでいいのかもしれません。

読者の皆様には、大変、ご心配とご迷惑をおかけしまして、再度感謝と陳謝をしたいとおもいます。

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