金環日食を写真にうまく撮るにはどうしたらいいか、いろいろ考えました。まず、望遠レンズは値段が張るので、あきらめ、それなら、テレコンバータというものがあるというので、ヨドバシに走ると、すでに在庫切れ。あの高いフィルターでも買おうかとおもったら、それも売り切れ。
日食用のメガネでは、ちょこっとしか、フィルムが着いていません。これでは、レンズを覆うこともできません。
そんなこんなで、結局、全部手製でつくることにしました。レンズフィルターも商売物を使って製作しました。
日食前にいろいろ試して、これならまあ見られるかな、というところまで行きました。
当日、自宅前にて撮影開始です。太陽が雲に隠れると、カメラで位置を確認できなくなります。液晶画面では、よく見えないとこまるので、手製のフードもつくりました。
70~80枚くらい撮りましたが、何とか見られるのはほんの数枚でした。
以下ご覧ください。
最終日は、まず、京都駅で、荷物をコインロッカーに預け、バスで上賀茂神社に行きました。「京都非公開文化財特別公開」のイベントに沿って今日は巡ることにしたためです。
上賀茂神社など、京都北部は以外と行った印象がないので、どんな雰囲気なのかを感じたいと思ったのです。
次の下賀茂神社や糺の森もどんな所なのかを味わいたいと思いました。
京都の中心部と違って、ゆったりとした敷地にある神社は、それなりの宗教的な雰囲気を醸し出していました。それなりの由緒をもった場所なのでしょう。
出町柳から京阪で、三条へ。駅の目の前に、檀王法林寺はありました。町中のせまい敷地にあるお寺ですが、楼門をみると、四天王像が安置されています。金網ごしですが、なかなかの仏像です。時代は鎌倉までいきそうです。こんな仏像がほとんど屋外にちかい楼門に安置してあるのは驚きです。
三条から、七条で降りて、京都国立博物館へ、特別展は見ずに、ミュージアムショップへ。
三十三間堂の横の道を通り、妙法院南大門の手前に、法住寺がありました。
法住寺は平安時代には相当大きな敷地を持った寺院でしたが、現在はひっそりと建っていました。
ここから歩いて、法性寺へ、ところが、法性寺の前には人だかりがしています。なんと入場制限をしているのです。
法性寺は、院生のとき修論執筆で、10世紀の仏像を見て回るために、手紙を出して許可をいただいて訪れたことがありました。入口が京都の町屋のような造りになっていた記憶があります。安置されていた千手観音像も普通の座敷にある厨子の中にあったと思います。
国宝がこんな所にあったのかという記憶があります。
ですから、こんなに人が多ければ、じっくりと見られないのは予想できました。
それで、すぐにパス。
JRで宇治へ。平等院へ。去年も来た記憶がありますが、相も変わらず人出が多く、まずは、鳳翔館に入りました。展示は、ほとんど変わりませんが、ひとつ、鳳凰堂内部の扉絵を再現した部屋がありました、内部の半分だけですが、鳳凰堂内部の扉絵で来迎や帰り来迎の絵など装飾の様子がよくわかりました。
この鳳翔館で売っている紀要の最新号には、なかなかおもしろい論文がありました。また、本尊の阿弥陀如来像の修理工事報告書も販売していました。
時間に余裕があったので、久しぶりに、この宇治近辺の散策をしてきました。
まずは。塔ノ島の十三重塔、対岸に渡って、興聖寺、宇治神社、宇治上神社、そして、宇治市源氏ミュージアムへ。
市営にしては、じつに凝った演出をした博物館です。いはば観光コースに組み込まれた場所として機能させようとしているようです。
本当は、もうひとつの市営である、宇治市歴史資料館へ行きたかったのですが、ちょっと遠い場所にあるので、今回はここですましました。
宇治橋断婢のある橋寺放生院は、昔あまりいい印象がなかったので、今回もパス。
京阪で、黄檗へ。萬福寺へいきました。伽藍の廊下を歩いていると、何やらお経を読んでいる声が聞こえてきました。
大雄宝殿で、読経をしている最中でした。木魚を小刻みにたたいて、調子をとり、多少の抑揚をつけて10人程度の僧侶が声をあげていました。あとで調べてみると、梵唄といって、黄檗宗独特の経典の読み方で、中国語読みだそうですが、現代の中国語とも違うようです。
しばらくすると、住持らしき人が堂内にはいり、五体投地をして、すぐに出て行きました。
その間も、別の僧たちはずっと読経をしながら、場所を替え立ったり、坐ったりしていました。
そうこうしている間にいつのまにか、外は雨が降って、時雨れていきました。
二日目は朝、JR奈良駅よりひとつ先のJR郡山駅で降り、城下町を散策することからはじめました。
近鉄郡山駅までの間の城下町は整然とはしていますが、もうちょっと城下町らしさがあってもいいのかな、とおもってりして。
城跡にはいると、建物は追手門と追手向櫓ぐらいしか残っていませんが、お城らしい雰囲気はありました。郡山城には、周辺から、石造物を集めて、石垣にしています。是非とも頭塔の石仏を見たかったのですが、近くで見られる場所ではないようです。
次に近鉄で天理へ、天理大学の校内に、『天理大学創設者記念館』通称では、「若江の家」という洋館があります。
この建物は、第3代真柱、中山正善が大阪高校の学生時代の住居として大阪の若江岩田(現東大阪市)に、大正13年(1924)建てたものです。
内部は、洋室を和室がそれぞれあり、1階の洋室と2階の和室にステンドグラスがあります。
デザインは、1階の内部入口のランマにあるのは、花のデザイン。2階の和室には外部の欄間窓は鳩のデザインです。シンプルで、特に、鳩は京都の五龍閣と共通するデザインのようです。
ついでに、天理参考館を見て、近鉄で学園前で降りて、大和文華館へ。ひさしぶりの見学です。改修工事で、しばらく閉館していましたが、現状を大幅に改変するほどの大規模な改修ではなかったようです。
入口の横に木造の「文華ホール」という建物があります。普段は集会などに使っているようですが、その入口の欄間にステンドグラスが嵌まっています。なかなか古くてよさそうなのですが、生憎と普段は中に入れてくれません。切符売のおばさんに中にはいれませんかと聞くと、イベントなどこの建物を使う時でないとだめなようです。ステンドグラスは外から見たのでは裏を見るようなものなのにね。と同情してくれました。
近鉄で奈良へ、バスで破石町へ。頭塔の公開をしているので、さっそく例の二仏並坐の石仏を再見。やはり黒い線が入っています。ボランティアのおじさんに持参の双眼鏡で確認してもらいました。何も知らないおじさんは、これは割れじゃないのと言うのです。
そこで、この頭塔保存会で、草刈などの手入れをしている近所の人を呼んでもらいました。すると、“これはシミです”と断言されました。実際に近くで見ましたか?と再度確認しましたところ、間違いないとのことでした。
これで、一件落着。
歩いて、奈良国立博物館の『解脱上人貞慶』展へ、地味な展覧会のようで、中はガラガラでゆったりと見ることができました。
ところが、東大寺ミュージアムに行くと、中が奈良博に較べて狭いこともあるでしょうが、すごい混雑です。とくに、不空羂索観音のまえのガラスケースの中にある宝冠の前には人だかりです。
何とかガラスに顔をくっつけて見ることが出来ました。以前みた光背と比較して、実に精緻につくられています。すばらしい。
そのガラスケースの中に、合掌手に挟まっていた水晶珠が何の説明もなしに置かれていました。
時間が4時をすぎてしまい、いそいで奈良女子大学へ、記念館にはもう時間がすぎて入れず、今回は外観だけをみてきました。
4月28日~30日、旅にでました。今回は3日間で、それほどどうしても行かなければならない場所がありませんでしたので、少しは余裕の旅になるのかな、と期待していましたが・・・
まずは、第1日目の旅程から
結局、博物館と酒見寺、羅漢寺しか見ないで、その他は、バスと電車に乗りっぱなしでした。
あとで、パンフレットを整理していると、姫路城の修理現場が見学できるようになっているそうです。入館料200円で、素屋根の中に入れるのだそうです。
失敗したな。
後背地に山があるわけでもなく、まったくの平地に立地しているお寺です。
江戸時代創建の多宝塔は国の重文になっています。極彩色に塗られています。
羅漢寺という寺にはなっていますが、管理団体は地元の保存委員会で管理しているようです。
狭い境内にところ狭しと立っています。顔はおなじような彫りですが、胴体は線刻で手などの表現をしています。
100体以上はあるのでしょうか。
鉄ちゃん好みのローカル線北条鉄道でおよそ20分で粟生へ、粟生という駅も改札がなく、すぐに加古川へ。
加古川駅でやっと、切符が買えましたが、いちいち計算機で、運賃の計算をしている間に、電車に乗り遅れ、快速で大阪駅へ。
そこから環状線で天王寺へ、やっと大和路快速に乗れて、JR奈良に着いたのは、北条町駅を出発してから、3時間が経過していました。
今日(16日)、朝田純一様よりメールをいただきました。
神奈川仏教文化研究所のHPを、高見徹様の後をついで再開するとのことでした。
去年4月18日を最後に、HPの更新が途絶えてから、およそ1年、朝田様が、高見様の遺志をついで再開することになったということです。
高見様の突然の訃報は、おそらくまわりの人々に多くの衝撃を与えたことだろうとおもいます。
高見様のHPでは、じつに多くの人に、仏像のすばらしさと感動を教え、しかも、わかりやすく解説していました。このHPに数々の恩恵を受けてきた人は多いとおもいます。
その思いを受け継いでくれたのが、新管理人になられた朝田純一様です。
とりあえずいままでのコンテンツをまたアクセスできるようになりました。
いままでの膨大なデータがまた参照できるようになるようです。
また、新しく掲示板「観仏日々帖」を創設して、読者とのコミュニケーションの場も設けられました。
神奈川仏教文化研究所のHPがまた再開されるのは、仏像ファンにとって、よりどころができるということです。以前のような活発なコミュニケーションの場になるように、読者ともども応援をしていきたいとおもいます。
神奈川仏教文化研究所:http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/
リンクブログ観仏日々帖:http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/
1ヶ月あまりのご無沙汰です。
3月の初め頃より、パソコンの状態が芳しくなく、エラー、DUMPをくりかえしていました。
そして、自動でシャットダウンしなくなり、ついには起動すらできなくなる事態に陥りました。
いろいろと試してみましたが、原因がハードであろうという推測のもと、データの消失を何とか回避しながら、部品をひとつづつ交換してみましたが、なかなか正常にもどりません。
ついでに、OSも64ビットに変更して、何とか、使える状態になりました。いまだに起動時にエラーDUMPが出ますが、まあ、ひとまずは何とかなりそうです。
そんなこんなで、この1ヶ月は、久しぶりに人前で講演する機会があって、その準備に、あちこち調査に行ったり、Power Pointで四苦八苦したりと、していました。
昨日、久しぶりに、日帰り旅行をしてきました。
場所は、千葉県の館山です。館山市立博物館分館で開催されている、『中世の安房と鎌倉』展を見にいきました。
安房の国は、鎌倉と共通した文化をもつ場所で、鎌倉独特といはれた“やぐら”もこの阿波の国には数多く残っています。
展示されている仏像のうち、千手院やぐら群の石造千手観音坐像は、丸彫で、どこかで見たことがあるとおもったら、熊本の石貫穴観音にあった丸彫の石造千手観音像と共通する様式を持っていました。
房総半島の先端という場所は、僻地ではなく、海を隔てた交流が盛んにおこなわれていた地域ということが理解できました。
もうひとつ、ここまで来て行ってみたい場所、那古寺に行ってきました。館山のひとつ手前の那古船形から歩いて10分位のところでしょうか。
以前、この観音堂の本尊が清水寺式千手観音像であることを書きましたが、この観音堂は平成15年から平成20年にかけて、部分解体修理をしています。そして修理工事報告書が平成20年3月に発行されています。
この修理工事報告書は、あくまでも建物の修理工事報告書なのですが、110Pに突然、
≪那古寺 木造千手観音立像≫として、写真が掲載されていました。その修理後の写真は、頭上手が復元されています。おまけに修理者として、高井芳雄 の名前が書いてありました。
以前、住友財団からの資金で補修して、片方の頭上手を復元していましたが、今回は頭上手ばかりではなく、錫杖、戟や天衣も復元されていました。
この清水寺式千手観音像は、普段は秘仏で、厨子の中に入っているので、直接拝することはできませんでしたが、重文の銅造千手観音立像は、内陣の奥に安置されていました。ガラスケースに入っており、距離も遠くなので、よくは見えませんでした。
これで、正式に清水寺式千手観音像と認知できたと言うべきでしょうか。
平成21年発行の『新横須賀市史 別編 文化遺産』には、2例の清水寺式千手観音像が報告されています。まだまだ発見されそうです。
参考ブログ
鏡は、人間の歴史がはじまってから、つねに、不思議なものでした。鏡に映し出される人間の顔は、虚構の姿をただ映しているだけなのです。
それなのに、人間は、その虚構の絵に、魂を宿しているような錯覚にとらわれてしまうのです。
そんなこんなで、人間は、古代の昔から、鏡を宝物として大事に扱ってきました。
東大寺法華堂の天井には、銅鏡をつけ、外光をとりいれようとしました。神社の本殿の前には、鏡を置いて、光かがやくさまを演出しました。
フランスでは、ベルサイユ宮殿の鏡の間が、その後、さまざまな建物に鏡の間をつくるきっかけになりました。
板ガラスの歴史を調べていると、中世ヨーロッパでは、良質な鏡をつくるために、板ガラス製造の発達があったのです。
現代では、板ガラスは、そのほとんどが窓に嵌めるために作られていますが、中世から近世では、板ガラスは鏡をつくるための素材だったのです。
最近、近代の日本の住宅を何軒かまわっていると、大抵、枠に収まったおおきな鏡があります。現在保存されている明治・大正時代の住宅は、それなりの地位のある人か、資産家の住宅で、家具など、いわゆる高級なものがおいてあります。鏡も贅沢品のひとつとして手元においていたのでしょう。
先日、鏡の補修の見積依頼がありました。それは、10年ほど前、工務店を通して、ある芸術作品につかう鏡の取付を頼まれたのがはじまりでした。
その芸術作品とは、深さ10㎝程度、縦横およそ2m×3mの水槽の底に鏡を取り付けるという仕事でした。鏡の大きさは、約1m×2m 厚さ5mmの鏡をすこしづつずらしながら3枚並べるというものでした。
当然、水の底に鏡があることになりますから、鏡と枠の間、鏡と鏡の間には、シールをして、水が鏡のウラに入らないようにしようとしました。
これは、鏡の性質からは当然の方法で、鏡は銀メッキをしてさらに銅メッキ裏止め塗料と、塗装されていますが、その塗装は、いわゆる湿気には非常に弱く、常時水分のあるところでは、塗装がはがれてしまうのです。いわゆる鏡の腐食がおきるのです。
鏡の取付の当日、その芸術作品の作者の芸術家も見にきていました。その芸術家先生いはく、
鏡はできるだけ平らに置いてください。鏡と鏡の継ぎ目はなくしてください。
という要望でした。
私は、鏡を平らにするには、その水槽を平らにしなければ、鏡を平らにはできません。と反論しました。いわゆる一休さんの虎退治です。
まあ、その芸術家さんの、要望はできるだけかなえましょうと、それなりの努力をして見せましたが、あまり納得はしてもらえませんでした。しかし、芸術家先生自らできる作業ではないので、こちらがこれ以上は無理です、と言えばもうそれ以上は口をはさむことはしませんでした。
つぎの、鏡と鏡の継ぎ目をなくせという要望は、水が鏡のウラにまわるので、シールの目地は絶対必要です。ということを論理的に主張しました。
すると、その芸術家先生は苦し紛れに、
どうせ、鏡は1年位しかもたないのでしょう。それでもいいですから、シールは打たないでください。
とのたまうのです。
そこまで言われて、できませんとは言えなくなり、プロとしてやらないわけにはいきません。水槽の底にただ鏡を置いただけにして、仕事を終えてきました。
そして、案の定、鏡は塗料がはがれて、その補修の見積がきました。
その見積の依頼者は、芸術家先生ではなく、その芸術作品をもっているオーナーでした。
なんとも、やりきれない仕事です。
お金をもらえるから商売としてはいいではないか、という考えもありますが、プロとしてなさけなさが先立ちます。ちゃんとした仕事をして、顧客とともに満足してもらうのが商売人です。
こちらがそう思っても、顧客がそうおもわなければいい物はうまれないのは当然です。
話を大きくすると、いわゆる自己完結する芸術作品は、すべてがその芸術家の責任になりますからいいのですが、プロデュースという芸術活動は、実際に作る人は別人で、そういう別の技術者を動かさなければ完成しないという作品は、その素材の性質や製作技術の程度を熟知していなければできないのです。
鏡の性質を熟知したうえで、鏡をつかった作品をつくらなければ、ろくな作品になりません。
というよりも、いまだに、プロデュースする芸術家は、自分のイメージが簡単に現実の作品になるとおもっているとおもわれてなりません。
その下で働く技術者は、その芸術家先生の意図をできるだけ実現しようとあらゆる知恵をしぼっているのです。そのことを理解していない芸術家先生の作品は結局、技術者の知恵で適当にあしらわれていることに気がついていないのです。
ひとつの作品の陰には、実に多くの名もなき技術者の創造によってなりたっているのに、これは、私が作った作品だ と言っている芸術家のノーテンキを嗤わずにはいられません。

戸定邸に続いて、元藩主の明治時代の邸宅を見てきました。千葉県佐倉市にある旧堀田邸です。
佐倉藩主だった堀田正倫は、東京暮らしをやめて、地元の佐倉市に明治23年(1890)邸を構え、そこで暮らしました。
建物はその後、民間の所有になり、平成9年に佐倉市へ寄贈されています。場所は、小高い丘にあり、建物のまわりは、老健施設、老人ホームなどが建っており、その敷地内にあるような場所にあり、わかりにくい所です。
さて、建物はおよそ五区画にわかれており、台所棟だけが壊されていますが、それぞれ渡廊下で繋がっています。
例によって、この建物の注目点は、廊下に嵌っているガラス戸でした。
まず、玄関棟の廊下には、ガラス戸がついていませんでした。
次に、居間棟の廊下は、柱間の上部には、障子を入れる溝が彫ってある鴨居が付いていますが、、下部は鴨居ではなく、溝がありません。これがどういうことなのか、理由がわかりません。もともとガラス戸があったのなら、下の鴨居に溝がなければならないのですが、どういう改造がなされたのか不明です。
座敷棟の廊下には、ガラス戸が嵌っていました。ガラスは、波を打っているものがあり、おそらくは、昭和にはいってからの普通板だろうとおもいます。泡もありませんでした。
もうひとつ書斎棟の裏側の廊下にもガラス戸があり、これも普通板のようでした。
こうしてみると、明治23年竣工時には、ガラス戸はなかったのではないかとおもわれます。建物の材料は確かに吟味されたものを使っているようですが、装飾に凝ったりするでもなく、元藩主の住居にしては、質素な造りをしています。
この建物の平面は、江戸時代の城の中で、大名が住んでいた御殿の形式を踏襲しているようで、いはば伝統的な住空間なのでしょう。明治時代の新しい感覚を取り入れるのではなく、意匠もかなり保守的ということができるでしょう。
ガラス戸という発想も、創建当初にはなかったのかもしれません。
と思いながら、おなじ佐倉市にある佐倉順天堂記念館に行ってみると、廊下のガラス戸の一部に手吹き円筒法で作られたとおもわれるガラスが嵌っていました。
写真でうまく撮れましたので、お見せします。
このところ、明治頃の建物に嵌っているガラスを見ていると、手吹き円筒法のガラスと、フルコール法や、コルバーン法による普通板との区別はつくようになりましたが、その間の機械吹き円筒法(ラバース法)で作られたガラスが、判別できません。
というよりも、ラバース法で作られたガラスの規準作を見ていないので、どうにも判別のしようがないのです。
もうすこし修行が必要です。
まず、『伊達騒動實錄』第八十三篇に採録されている「善應寺舊記」を掲げてみます。

この『伊達騒動實録』は明治42年11月刊で、国会図書館の近代化デジタルライブラリーに全文UPされており、面倒な手続きをしなくてもこのような貴重書が読めるのは大変ありがたいことです。
といいながら、上の文は、私が新たにワープロで打ち起こしたものです。それは、近代化ライブラリーにUPされているデータは、欠陥品のマイクロフィルムをただPDFに変換したものだからです。
以前にも書きましたが、そもそもマイクロフィルムに写すのに、その内容が読めるかどうか、写真がしっかり見られるものなのかの検討も一切しないで、ただ写真に撮っただけのものなので、字がつぶれて読めないとか、写真を白黒のコントラストのみで撮ったりして、何が写っているのかまるでチェックもしないで、公開しているものです。まったく、こんなひどい製品に税金を払っているです。
文句はこれまでにしといて、本題のこの文書の検討にはいります。
「びいどろひしき板」 : これは、板ガラスにはまちがいないとおもいますが、“ひしき”という意味がまだよくわかりません。“引敷”という言葉がありますが、修験道の行者が携帯している敷物で、熊皮でできているものだそうです。
「四十年以前、唐渡り物にて、長崎より到来申候」 : 享保3年(1718)から40年前というと、延宝6年(1678)年ということになります。伊達綱宗は、万治元年(1660)に品川屋敷で隠居生活にはいり、寛文11年(1671)刃傷事件が起きていますので、その後状況が落ち着いていた時期だったようです。
「不レ殘品川ヘ被レ爲二買収一」 : 長崎に到着したガラス板を残らず買い入れたようです。その総額を計算してみますと、大のうち特大を1枚だけとしますと、
大 11枚×30両= 330両
大 1枚×70両= 70両
中 46枚×20両= 920両
小348枚× 3両=1044両
計2364両となります。江戸時代の物価を現代に換算すると、計算方法によって違いがありますが、おおざっぱに 1両=10万円 とすると、
2364両×10万円=2億3千6百4拾万円 となります。
しかも、これを買い上げるにあたって、他で買い名乗りをあげるところがなかったと云っています。伊達藩あげての買い入れだったのが、金額をみてもわかるとおもいます。
「品川にても、御凉處の御座敷へ、あなた、こなたへ、御張せ被レ遊候て、冬之内、御池などを御覽被レ遊候」 : ガラス戸をいれて、冬でも外の景色が見られるようにした、ということでしょう。板ガラスを現代とおなじ使い方をして、窓ガラスとしたのです。
「厚さ、遠目鏡の位に御座候」 : 板ガラスの厚さがレンズのようだったといっています。ということは、この板ガラスは鋳造で作られたとみることができます。しかし、これは、大板の場合のようです。善応寺のギヤマン枠の大きさは、内法で578mm(1尺9寸)×753mm(2尺5寸) です。買い入れたガラスの内で一番大きなガラスに相当するようです。
ちなみに、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間(1678~1686)の鏡の1枚当たりの大きさは、760×1070 厚さ 6mm だそうです。これは鋳造法で作られています。
「上方にて、蝋障子と申もの御座候」 : 蝋障子とは、どういうものかはよくわかりませんが、想像するに、蝋紙のようなものではなかったのかとおもいます。透けて見えることはできますが、ぼんやりとぼやけて見えるガラスということでしょうか。しかも「びいどろ板よりは、ことの外うすく御座候」というのは、これこそ手吹き円筒法によるガラスではないかとおもわれます。
その当時ヨーロッパでも、手吹き円筒法は、ほそぼそと行われていたようで、大きな寸法のものはまだ、生産されておらず、工業化して、大量に大板を生産できるようになったのは、1851年ロンドン博のクリスタルパレス建築からです。
日本では、口傳によると、長崎で修業した播磨屋清兵衛が、大坂で硝子製造業を宝暦年間(1751~1764)に開始した(『日本近世窯業史』)とされ、それが、大坂におけるガラス製造の始まりだとしていますが、それ以前にすでにガラス板が作られていたことになります。また、司馬江漢は大阪の硝子板職人について記載していますので(天明8年(1788))、それ以前からすでに板ガラスの製造は行われていたということがわかります。
ということを勘案してみると、善応寺のギヤマン枠には、一番大きな70両もする鋳造法によってつくられた板ガラスが嵌っていた可能性があります。
今回、善応寺を訪問して、この「善応寺舊記」の存在を確認できませんでしたが、寺蔵文書で、天保頃の寺の什物帳では、「硝子が4枚」あったと記載されており、この406枚の板ガラスは善応寺に納められたとしていいのかもしれません。
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