2018年3月18日 (日)

狛坂磨崖仏 その1

 2月の小雪の舞う寒い日に、狛坂磨崖仏に行ってきました。40数年前に登って以来です。今回は、数ヶ月前から、足腰のトレーニングや、装備などの準備をした上での挑戦です。
まず、車で、道の駅こんぜの里りっとう から林道にはいり、金勝寺を通りすぎて、馬頭観音堂の駐車場で車を置いて登山の開始です。出発地の駐車場は、すでに標高が高く、それほど登らなくてもすむので、一番楽なコースとおもっていましたが、道は、細い尾根沿いの道で、アップダウンの激しい急坂の連続でした。準備していたストックで、なんとか進むことができました。途中、茶沸観音という石をくりぬいた中に仏像が彫られています。この石仏を太田古朴氏は飛鳥時代で、現存最古の仏像である。〔文献6〕といっていますが、何の根拠で言っているのかわかりません。
Photo
「写真:茶沸観音」

歩き始めておよそ一時間で、磨崖仏に到着しました。本物の迫力は、写真をいくら見てもまさるものはありません。これだけ体力を使っても実物を見る価値がありました。しかし、時折,舞う小雪と、膝の疲労が、十分に作品を味わう余裕がありませんでした。第一印象は、鳥の糞とおもわれる白いしみが至る所についていることでした。さらに、頭や肩に落ち葉が溜まっていて、随分と外観を損ねていました。

Photo_2
「写真:狛坂磨崖仏全体(新)」

40数年前の写真と比べてみると、その当時は9月だったのに、周りの様子は、40数年前とほとんど変わっていないようで、草木が覆っているわけではなく、現状よりも格段に状態がよかったのがわかります。これだけの重要な文化財に十分なメンテナンスがされていないのは、なんとも悲しいかぎりです。

Photo_3
「写真:狛坂磨崖仏全体(旧)」

 さて、自宅に戻って旅行記でも書こうとおもって調べてみると、この石仏には、さまざまな問題があることに気づきました。その整理をするのにずいぶんと時間がかかってしまいましたが、いくつかの点を指摘しながらこの磨崖仏の実情に迫りたいと思います。

【印相】
 この石仏の中尊の印相は、いままでの論考では、転法輪印(説法印)という説明がほとんどですが、一部の執筆者は、「説法印とおもわれる」といった、断定しないあいまいな表現を使っていて、さらに田中日佐夫氏は説法印に疑問を呈しています(文献11)。

Photo_4
「写真:狛坂磨崖仏印相(旧)」

転法輪印(説法印)については、光森正士氏が、7種類に分類した図解を発表していますが(文献32)、

Photo_5
「写真:阿弥陀仏印相図解」

それよりももっと大雑把に分類してみると、右手は掌を正面にむけ、左手は手の甲を正面にむけて、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅰ・Ⅱ)と、両手の掌を正面にむけ、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)に分けられます。狛坂磨崖仏の中尊は、明らかにⅠ・Ⅱ式を表現したものと考えられます。
Ⅰ・Ⅱ形式の印相は、インド・サールナート出土の初転法輪像 インド・サールナート考古博物館(グプタ時代、5世紀後期)に現れています。

Photo_6
「写真:初転法輪印像(サールナート出土」

中国では、金銅如来坐像 メトロポリタン美術館(中国・唐)があり、

Photo_7
「写真:金銅如来坐像(メトロポリタン)」

朝鮮半島では、雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊像(統一新羅)が例としてあり、

Photo_8
「写真:雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊)」

日本では、法隆寺献納宝物の中の押出仏、法隆寺所蔵の塼仏・押出仏もこの形式で表されています。

Photo_9
「写真:押出阿弥陀五尊(Nー198)」

石仏では、頭塔にある三尊像の中尊もこの形式です。

Photo_10
「写真:頭塔三尊像」

一方、Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ形式は、インド、中国、朝鮮にもその例がなく(文献34)、日本の法隆寺伝法堂西の間の中尊がその初現とおもわれます。東の間像は掌が正面に向いていないので微妙ですが、造形意図としては、西の間像と同様と考えてもいいかとおもいます。その後日本では、興福院阿弥陀如来、西大寺伝宝生如来、平安時代に入って、広隆寺阿弥陀如来、伏見寺如来、孝恩寺伝弥勒菩薩など、この形式の説法印が主流になっていきます。

Photo_11
「写真:伝法堂西の間阿弥陀如来」

その後、Ⅰ・Ⅱ形式が日本で消滅したわけではなく、平安後期~鎌倉時代と言われている金屋石仏の伝釈迦如来はこの印相で、例外的に、この形式の作例はあります。

Photo_12
「写真:金屋石仏伝釈迦如来」

藤岡氏は、8世紀後半にⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式の印相が現れたのは『陀羅尼集経』(史料42)に説く阿弥陀説法印によるものとしています(文献34)。このように、経典によって規定された印相が、主流になっていったとおもわれます。
とすると、狛坂磨崖仏の印相は、左手の指の位置を見れば、どうみても日本で奈良時代に発生したⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式とは見えません。Ⅰ・Ⅱ形式の印相を表現しようとしたと説明するのが常道でしょう。

【坐法】

Photo_13
「写真:狛坂磨崖仏坐法」

 足を交差している形式を見た歴代の研究者は、戸惑ったのでしょう。交脚像というのは、インド・中国に多数見られるのは承知していても、日本に存在するとは思わなかったとおもいます。なので、毛利久氏はX状に両足を交叉しているとしながら、交脚像と関係があるか(文献8)と判断しかねています。佐々木進氏は、結跏趺坐を崩し、両足を交差させる坐法はいかにも不自然である。(文献25)としていますが、発想が結跏趺坐を崩したとみる執筆者もおり(文献20)、結跏趺坐と言い切っている執筆者も多数います(文献13・16・19・24)。いまさら申すまでもないことですが、結跏趺坐とは、両方の足の甲が他方の股の上のる坐法をいうのです。狛坂磨崖仏は、結跏趺坐の定義に当てはまらないのはあきらかです。作家は、足を交差させる造形を意図していることは見て判断がつきます。

7
「写真:雲崗第7窟交脚像」

その交脚像は、石松氏によるとインドでは特定の尊像に限らないで造像され、中国は5世紀代の菩薩像の主役的存在だったが、朝鮮および日本では交脚像の作例は知られていないとしています(文献38)。ただ、石松氏は、中国で交脚坐から結跏趺坐へ変化したという結論は、半跏趺坐の概念を抜きにして論じているため、説得力がありません。狛坂磨崖仏の中尊は日本で唯一交脚坐で造形された尊像であることに反論の余地はないでしょう。ちなみに、小磨崖仏の中尊は蓮華坐のうえに降魔坐の半跏趺坐のようです。

Photo_26
「写真:狛坂磨崖仏小磨崖仏」

【格狭間】

Photo_14
「写真:狛坂磨崖仏格狭間」

 中尊は、宣字座にすわり、両脇侍像は蓮華座の上に立ち、ともに3つの格狭間のある須弥壇のうえに乗っています。横の小磨崖仏も、2つの格狭間をもつ須弥壇の上に三尊とも蓮華座の上にのっています。小磨崖仏の格狭間は摩耗していますが、ほぼ同じ形式とみていいでしょう。

Photo_15
「写真:狛坂磨崖仏横」

この鋭角にしのぎのある形式の格狭間は、四十八体仏の辛亥銘観音菩薩像の台座の格狭間と非常に類似しています。

Photo_16
「写真:辛亥銘格狭間」

石田茂作氏は、格狭間の形式を5形式に分類し、辛亥年銘像台座の格狭間は、第三類 肘木式に当たるとしています(文献39)。この肘木式は、飛鳥、白鳳、奈良時代に盛行したが、奈良時代に入ると、発展型が優勢になっているとしています。小杉一雄氏は、韓国および四十八体仏の格狭間は、六朝仏の唐草系格狭間の系統ではなく、後漢以来の典型的格狭間の系統で、飛鳥時代の造像の主流が中国直系ではなく、韓国系であったのではないか(文献40)としています。さらに、曽布川直子氏も、7・8世紀の格狭間は中国直系ではなく、一度朝鮮で保持された様式がほぼ同じくして、混交して日本に移入された可能性(文献41)を指摘しています。狛坂磨崖仏の格狭間が辛亥銘の台座と非常に近いこと、その形式が奈良時代には変化していることを考慮すれば、狛坂磨崖仏の格狭間の形式が奈良時代以降である可能性は少ないとみるべきでしょう。

その2に続く

狛坂磨崖仏 その2

承前

【狛坂寺】
 狛坂寺の歴史を語る前に、金勝寺の歴史を知る必要があります。金勝寺は、奈良時代、良弁僧正によって創立された後、弘仁年中に興福寺僧の願安によって再興され、天長10年(833)に定額寺に列せられ(史料45)長く信仰を集めていました(史料46)。仏像も十世紀の造像と思われる仏像から平安後期の仏像が多数残っています。狛坂寺は、大永6年(1526)の縁起によると(史料47)、弘仁7年(816)、僧願安によって金勝寺の別院として建立されたとしています。ただ、この縁起には磨崖仏の記載がないことが気になるところです。林博道氏によると、その後、回禄と再建をくりかえし、明治維新に廃寺となったとしています(文献30)。現在の狛坂磨崖仏のそばには、石垣があって、建物跡があります。

Photo_25
「写真:狛坂寺址石垣」

斉藤氏は、金勝寺所蔵「金勝寺寺領牓示絵図」に狛坂寺伽藍が金勝寺西方の山中に描かれている(文献7)としていますが、この絵図は平安の原本ではなく、鎌倉中期の写本だと注記していて、平安時代に狛坂寺が金勝寺の末寺であったとの根拠としています。しかし、嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』の大菩提寺(金勝寺)の項に二十五箇別院が列挙されていますが、狛坂寺に該当する寺院がありません。ということから考えると、大永6年以前の、金勝寺と狛坂寺との関係は不明としたほうがいいと思います。
林博道氏によると(文献29)、石山寺に狛坂寺出土と伝えられる軒丸瓦二点が保管されていると言うのです。寛政年間、石山寺座主だった尊賢僧正が収集したもので、拓影集『古瓦譜』にその収集のいきさつが著されています。この拓本は4点で、3つは7~8世紀の複弁蓮華文の軒瓦で、ひとつは斜め格子状の模様がある平瓦です。林氏は、この平瓦と同じ模様の瓦片を現地で採集しているというのです。この論文は、ほとんどの研究者が注目していません。(李廷冕氏がその論文でとりあげてはいますが、懐疑的な言及をしています(文献22))。これだけの証拠がありながら、発掘調査などで検証しないのはどういうことでしょう。

Photo_182018_01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「写真:駒坂寺出土瓦」

 もうひとつ、狛坂寺址の地理的な位置について考察する必要があります。金勝寺は、金勝山頂の北側に位置し、草津方面から南に金勝山に向かってのぼるルートが主要だったとおもいます。『興福寺官務牒疏』に書かれている二十五箇別院は(史料48)、皆、金勝寺から北北西から北東方面に存在しています。

Photo_24
「写真:金勝山地形図」

狛坂磨崖仏へは、3つのルートがあります。ひとつは北の鶏冠山を通って、白石峰から、下るルート。もうひとつは上桐生からなだらかな山道を登るルート。最後は大戸川沿いの桐生辻から一気に北上して登るルートです。3ルートとも、西および南側からのルートです。狛坂磨崖仏と金勝寺は、尾根伝いに通る道です。しかも途中に竜王山、白石峰と2つの頂を通るルートになっています。標高でいうと、金勝寺は530m、馬頭観音堂595m、竜王山は605m、白石峰は580m、狛坂磨崖仏は480mとなります。つまり、もともと狛坂寺が、金勝寺の別院として創立したにしては、連山の東西の端に位置していること、距離的に離れていること、また、寺にはそれぞれ別々のルートで行かなければならないことを考えると、二つの寺院がもともと関係があったのかは、もう少し精査が必要です。

Photo_19
「写真:金勝山断面図」

【時代判定】
 この磨崖仏の製作年代を今までの執筆者から分類すると次のようになります。

  1. 白鳳(奈良前期)・・・太田古朴(文献4・6)、田中日佐夫(文献11)
  2. 奈良(8世紀)・・・・・・秦秀雄(文献5)、斉藤孝(文献7)、水野敬三郎(文献20)、李廷冕(文献22)、佐々木進(文献25)
  3. 奈良末~平安初期(8世紀末~9世紀初)・・・毛利久(文献8)、宇野茂樹(文献9)、久野健(文献10)、川勝政太郎(文献2・3)、宮本忠雄(文献16)、水野さや(文献26)
  4. 平安後期・・・堀井三友(文献1)

この磨崖仏の製作者は、渡来した新羅の工人ではないか、と推測したのは、川勝氏でした(文献2)。それをさらに発展して、詳細な論考をしたのが斉藤孝氏でした(文献7)。まず、斉藤氏の論文から新羅的要素を三点述べています。

  1. この三尊は花崗岩に刻まれた磨崖仏である。
  2. この三尊は唐風の様式で、木彫仏に迫るような本格的な様式で表現されている。
  3. この三尊は壁面から完全な浮彫りになっている。

この条件は、新羅の南山七仏庵三尊磨崖仏とおなじ条件で満たされている。さらに、花崗岩を刻む技術は、日本では鎌倉時代にまで下るということなど、その石匠は半島の帰化系民か、あるいは新羅文化と深いかかわりをもった本邦人ではないか。としています。
毛利久氏もそれに付け加えて、中尊の形状がブロック状積み重ね式で構成されている。さらに、脇侍菩薩像の一八〇度的立ち方、胡桃形の連弁は、南山七仏庵磨崖仏に見いだされる(文献8)。としています。この新羅系工人説は、さまざまな周辺情報を根拠として付け加えながら、その後の研究者に受け継がれていきました。そのため、2 奈良説をとる研究者は、この新羅工人説を採用して時代判定をし、さらに、3 奈良末~平安初期説をとる研究者は、奈良時代の願安の活躍から、金勝寺の創立時期を考慮したうえで、時代判定をしているように見えます。
それに対して、田中日佐夫氏は、格狭間の様式、仏像の形体から、この磨崖仏は白鳳時代の様式を持っているとし、狛坂の狛は「高麗」であり、「高句麗」を意味するので、高句麗からの渡来人による造像の可能性を指摘しています(文献11)。

Photo_21
「写真:南山七仏庵磨崖仏」

また、李廷冕氏は、新羅七仏庵三尊磨崖仏との比較から、七仏庵像を八世紀初半の造立とし、狛坂磨崖仏は八世紀初半から中期に至る間に造立され、百済系渡来人による造像と結論づけました(文献22)。この田中氏と李氏の新羅工人説の否定は、説得力があります。というのは、新羅工人説を唱える執筆者は、一様に、この金勝山の花崗岩が露出する風景が、慶州南山の風景と類似することを根拠としているからです。しかし、磨崖仏は、彫刻する素材の石があれば、どこであっても造像が可能です。風景が造像の根拠であるというのは薄弱な材料です。

Photo_20
「写真:狛坂磨崖仏見上げ」

さらに、花崗岩という堅い石を刻む技術が日本にはないから、新羅工人によるものという推測も、たとえば、頭塔の石仏は花崗岩製ですし、奈良時代には花崗岩の加工を日本でおこなっている事実を考えればあてはまりません。石工の技術は、道具がそれに対応したものがその当時あったかどうかが問題なのであって、石の大小で判断されるべきではありません。様式の比較も、個人の感覚に依拠するような見た目の判断は慎まなければなりません。これとこれ、似ているでしょう。といわれてもどこがどう似ているの?ということに客観的に答えられなければ学問として成り立たなくなります。
 美術史の様式論は、その時代を反映したものであり、基本は時代を超えて存在するものではありません。例外的に過去の様式の複製、模倣という形が存在しますが、その違いを判断できるのが美術史としての学問でしょう。ということは、その時代の様式とその時代がしっかりと把握されていれば、時代判定の確実なものとなるのは明白です。

Photo_22
「写真:狛坂磨崖仏中尊(新)」

 狛坂磨崖仏の中でいくつかの形状とその様式について検証してきましたがそれにもとづいて判定することにします。

まず、印相についていえば、狛坂磨崖仏中尊の印相は、Ⅰ・Ⅱ式の説法印との判定からすると、このⅠ・Ⅱ式の形式の印相は日本では、奈良時代にⅣ・Ⅴ・Ⅵ式に代わっていることがわかります。Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ式は平安時代には主流になっていることを考慮すれば、平安初期の造像とは考えにくいことになります。

坐法についていえば、日本にも、朝鮮半島にもない交脚坐は、すくなくとも朝鮮半島から経由した様式ではないことがわかります。中国からの直接的な流入として考えるべきでしょう。

格狭間についていえば、白鳳時代の基準作例のそれと類似していること、格狭間のような装飾の様式は、時代とともに変化していくのが普通であるということを考慮すれば、白鳳時代と判定するのが本来です。

狛坂寺の創立については、史料の不足もあり、断定的なことはいえませんが、新羅工人説を全面的に信用はできないこと、さらに、林博道氏の発見された瓦に対して検証すべく、磨崖仏周辺の発掘調査の必要性を感じます。

また、良弁、願安とのかかわりは、あくまでも奈良時代にかかわったという前提ですので、狛坂寺の創建がそれ以前ということならば、その接点はないというべきでしょう。白鳳時代には、崇福寺の例もあるように、すでに山岳寺院は存在していたのであり、山岳寺院創建の根拠となる理屈も存在していたとすべきで、狛坂寺の白鳳時代創建説に支障はないとおもわれます。

Photo_23
「写真:狛坂磨崖仏横(新)」

文献リスト

〔狛坂磨崖仏〕

  1. 三友生「狛坂寺磨崖佛踏査記 」 『東洋美術』 16  1932年11月10日 飛鳥園 140p~144p
  2. 川勝政太郎「第六章 古石佛巡禮/三一、金勝山彌陀三尊磨崖佛」『日本の石佛』 1943年6月1日 232p~235p
  3. 川勝政太郎「日本石佛の性格ー特に材質と彫成手法を中心としてー」『佛教藝術』 30 1957年1月30日 20p~32p
  4. 太田古朴・辰巳旭・細川政之介「近江金勝山狛坂寺跡奈良時代大磨崖丈六弥勒説法浮彫像 」 『石仏』 3  1964年10月10日 奈良石造美術研究会 33p~36p
  5. 秦秀雄「埋もれていた奈良朝の石仏 ー狛坂廃寺跡の大磨崖仏ー」 『芸術新潮』 17-12(204) 特集1: ボナールをつぐ色彩 [Pierre Bonnard]/特集2: 美のガラス3000年 1966年12月1日 新潮社 92p~93p
  6. 太田古朴「白鳳/八 日本第一の磨崖仏/丈六弥勒大説法磨崖仏ー近江狛坂寺ー 」 『飛鳥 奈良ー仏像鑑賞シリーズ1ー』 1971年2月20日 綜芸舎 40p~41p
  7. 斉藤孝「江州狛坂寺址大磨崖仏私見 ー我国奈良時代と統一新羅の石仏ー」 『原弘二郎先生古稀記念東西文化史論叢』 1973年1月20日 原弘二郎先生古稀記念会 315p~336p(『日本古代と唐風美術』 1978年5月20日)
  8. 毛利久「当麻寺弥勒仏像と新羅様式」『日本のなかの朝鮮文化』 20 1973年12月25日 4P~11P(『仏像東漸』 1983年3月10日 )
  9. 宇野茂樹「第二編 第二期の近江宗教彫刻/第四章 金勝山寺の諸尊像/(四)別院狛坂寺阯磨崖仏」『近江路の彫像』 1974年5月25日 雄山閣出版 161p~164p
  10. 久野健「日本の石仏/3,狛坂廃寺の磨崖仏 」 『石仏』ブック・オブ・ブックス 日本の美術・36 1975年12月10日 小学館 128p~131p
  11. 田中日佐夫「狛坂寺大磨崖仏とその周辺 」 『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』 1976年1月11日 柴田實先生古稀記念会 525p~539p
  12. 「遺品編/狛坂寺磨崖仏 滋賀県栗太郡栗東町 」 『日本石造美術辞典』 1978年8月25日 東京堂出版 96p~97p
  13. 久野健「図版解説 狛坂廃寺/20 狛坂磨崖仏・如来三尊像 」 『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年11月23日 集英社 127p~127p
  14. 毛利久「狛坂磨崖仏と金軆寺/狛坂磨崖仏 」 『近畿文化』 396 1982年11月1日 近畿文化会 1p~2p
  15. 「4,近畿地方(一) 滋賀県/狛坂磨崖仏如来形三尊像 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 233p~233p
  16. 宮本忠雄「作品解説 石山寺と近江の古寺/38,狛坂磨崖仏 如来形三尊像 」 『全集日本の古寺 5 石山寺と近江の古寺』 1985年7月21日 集英社 135p~135p
  17. 邊見泰子「近畿/狛坂寺跡磨崖仏 」 『磨崖仏紀行』 1987年1月23日 平凡社 46p~48p
  18. 佐々木進「栗太郡/167,狛坂磨崖仏 」 『日本の仏像<滋賀>』仏像集成 4 1987年2月1日 学生社 132p~133p
  19. 高梨純次「佛解説/狛坂磨崖仏 栗太郡栗東町荒張字狛坂 」 『滋賀の美 佛 湖南・湖西』 1987年3月26日 京都新聞社 196p~196p
  20. 水野敬三郎「図版解説/141 狛坂磨崖三尊仏 史跡 栗東町 滋賀 」 『日本美術全集 第4巻 東大寺と平城京 奈良の建築・彫刻』 1990年6月8日 講談社 228p~228p
  21. 佐々木進「滋賀県(湖東・湖南・大津)/良弁と金勝寺ー狛坂磨崖仏 」 『仏像を旅する 東海道線ー東下りと上方への道、民俗・文学・文化財ー』 1990年10月10日 至文堂 263p~265p
  22. 李廷冕「近江狛坂寺址磨崖佛についてー特に朝鮮渡来人と関連してー」『リベラル・アーツ(札幌大学教養部教育研究)』 4 1991年1月15日 73p~101p
  23. 「美術工芸編 第二章 彫刻/41,狛坂磨崖仏 荒張 」 『栗東の歴史 第四巻 資料編Ⅰ』 1994年3月31日 栗東町 228p~228p
  24. 村田靖子「第Ⅶ章 韓半島/顏貌表現・裳懸座/統一新羅時代/磨崖如来坐像 滋賀・狛坂廃寺 」 『仏像の系譜ーガンダーラから日本までー』 1995年5月19日 大日本絵画 240p~242p
  25. 佐々木進「本文/狛坂磨崖佛 」 『國華』 102-7(1216) 特輯 日本の石佛(下) 1997年2月20日 國華社 15p~17p
  26. 水野さや「図版解説/88 狛坂磨崖三尊像 」 『日本美術全集 第3巻 東大寺・正倉院と興福寺 奈良時代Ⅱ』 2013年9月2日 小学館 243p~244p
  27. 「第1章 滋賀の仏像の歴史/3 近江国での寺院の建立ー飛鳥時代から奈良時代/狛坂磨崖仏 (栗東市) 」 『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』 2015年1月30日 サンライズ出版 12p~12p

〔狛坂廃寺〕

  1. 28 高梨純次「図版解説/狛坂廃寺」『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年7月21日 集英社 127p~127p
  2. 29 林博道「石山寺に蔵する『古瓦譜』およびその古瓦について」『考古學雜誌』 67-4 1982年3月31日 48p~62p
  3. 30 林博通「第二部 近江の古代寺院/狛坂寺跡(栗太郡栗東町荒張) 」 『近江の古代寺院』 1989年5月30日 近江の古代寺院刊行会 332p~337p
  4. 31 宇野茂樹「草創期の金勝寺」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 12p~14p

〔印相〕

  1. 32 光森正士「阿弥陀仏の印相図解」『阿弥陀仏彫像』 1975年4月15日 (『日本の美術』241 阿弥陀如来像 1986年6月1日)
  2. 33 神戸佳文「小野万勝寺阿弥陀如来坐像についてー説法印を結ぶ阿弥陀如来坐像の一例ー」『塵界』 6 1993年3月31日 91p~111p
  3. 34 岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」『美術研究』 373 2000年3月30日 1p~47p
  4. 35 藤岡穣「説法印阿弥陀如来像をめぐる試論」『待兼山論叢』 35 2001年12月20日 1p~27p
  5. 36 中野聰「法隆寺伝法堂西の間阿弥陀如来坐像の印相について」『美術史研究』 41 2003年12月15日 147p~264p(『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)
  6. 37 中野聰「頭塔の阿弥陀三尊石仏をめぐる一考察」『日本宗教文化史研究』 13-1 2009年 (『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)

〔坐法〕

  1. 38 石松日奈子「中国交脚菩薩像考」『佛教藝術』 178 1988年5月30日 55p~83p

〔格狭間〕

  1. 39 石田茂作「香様の起源と發展」『考古學雜誌』31-7・8 1940年7月・8月(『佛教考古學論攷』 六 雜集編 1977年12月30日)
  2. 40 小杉一雄「格狭間について」『美術史研究』 7 1969年3月20日 1p~26p
  3. 41 曽布川直子「格狭間の変遷ー東アジアにおける文化受容の一例としてー」『デザイン理論』 40 2001年11月11日 1p~14p

〔史料〕

  1. 42 「陀羅尼集經 巻第二」『大正蔵』18 800p下
  2. 43 「覺禪抄 巻第六」(阿彌陀上)『大正蔵図像』4 455p上
  3. 44 「阿娑縛抄 巻第五十三」(阿彌陀許可作法)『大正蔵図像』8 1103p上
  4. 45 「天長十年(833)九月八日条」『続日本後記 巻第二』
  5. 46 「寛平九年(897)六月廿三日太政官符」『類従三代格 巻第二 佛事上 年分度者事』
  6. 47 「史料篇/江州狛坂寺本尊縁起 」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 116p~117p
  7. 48 「興福寺官務牒疏」『大日本佛教全書』寺誌叢書三

» 続きを読む

2017年11月16日 (木)

“半跏趺坐” という言葉

 結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。という疑問に曲がりなりにも答えようとしている論文を見つけました。

岡田健「中国仏像彫刻における如来像の坐のかたち」『東アジア美術における人のかたち』平成5・6年度科学研究費補助金(一般研究A)研究成果報告書 1996年3月 です。

この論文は、インドから中国唐までの時代における仏像の内、如来像の坐勢について整理したものです。
まず、仏教美術は個々のモチーフと教義が一体になって意味を与えている、といった前提は実際はかなり曖昧なものである。と伏線を張っています。
その上で、インドから坐勢の歴史を解き、中国にいたって、組んだ右足の足首先だけ見せて、下にあるはずの左足を見せないものがあり、これは南北朝の時代と地域の全般を通じてかなり徹底して行われている表現である。と指摘しています。

Photo

その後の論について、正確を期するために、岡田氏の論文を引用します。

“ここで一つの問題となるのは、いま見ている南北朝期の片足を見せない、中国的と言える坐勢表現の場合、これが確かに結跏趺坐なのか、ということである。
-中略-
 いま誰かに、ではこのような表現の場合、なに坐と呼ぶのかと問われれば、筆者自身もやはり、「結跏趺坐」と答えるであろう。いまのところ、そうではない、という根拠が見つからないからである。もっとも本当の正直な理由は、美術史の世界でそれを結跏趺坐と呼ぶのが習慣になっているからである。(2)
(注2)しかし、同じように片足を隠すようにして表された菩薩の坐勢については、これをいわゆる「菩薩坐」としての半跏坐として認識する場合がある。外見上全く区別がないのに如来像の場合だけこれを半跏と認識しないのは、論理的には不完全である。”

この岡田氏の弁明というべき説明は、まるで論文という体をなしていないことを露呈しています。“なに坐”と呼ぶかと問われて、「結跏趺坐」しかおもいつかない選択肢のなさ。「半跏趺坐」という言葉が、筆者の辞書にはないのでしょうか。一歩譲って、結跏趺坐の定義に合わない、ということも言えないのでしょうか。
さらに、おどろくべきは、美術史の学界の習慣のせいにして、筆者自身の作品に対する観察眼の自身のなさをさらけ出し、さらに(注2)で、自己矛盾に陥ってしまったたことです。

“われわれは、すでに経典の上からと実際の作例から、如来の坐勢に結跏趺坐、半跏趺坐、倚坐(中国では善跏趺坐と呼ぶ)の三種類があることを知っている。このうちの結跏趺坐と半跏趺坐との区別がどうも不明瞭なのである。”
“少なくとも経典の上からは、これは明確に区別される。両方の趺(こむら=足の甲)を交え、それぞれ反対の足の股の上に置いて坐るのが結跏趺坐、片方の趺を他方の股の上に置いて坐るのが半跏趺坐である。”
-中略-
”あるいは如来の坐勢表現に対してかなり無頓着な時間が、中国仏教彫刻の流れの中に存在したのであろうか。それが結果的には、やがて六世紀半ば以降に次々と起きた坐勢表現の変化、すなわち、結跏趺坐における右足上と左足上という足の組み替え、右足を上にしながら左足は組まずにそのまま下に敷く表現、これらの出現を、より際だたせることとなったのかもしれない。”

結跏趺坐と半跏趺坐の定義がちゃんとできているのに、”右足を上にしながら左足を組まずにそのまま下に敷く表現”を“結跏趺坐”と呼ぶのですか? これこそ岡田氏が定義した“半跏趺坐”でしょう。まるで矛盾しています。
さらに、岡田氏は、右足を上にした坐勢で、その右足の脛の下に、左足先をのぞかせている例を数例あげています。これこそ、岡田氏自身が定義した“半跏趺坐”の具体例なのに、そのことに一言もふれず、彦坂氏の論の引用から、
(注)彦坂周「仏像坐法にみられる南インド的特徴ーその源流と展開ー」『インド学 密教学研究ー宮坂宥勝博士古稀記念論文集ー』上巻 1973年7月10日

Photo_2

“彦坂氏がこれを論文中敢えて「半跏」と称さなかったように、少なくとも漢訳の仏教経典に見える半跏の定義にあてはまるものではないわけで、その呼称については一考を要するものである。”

とあくまでも、“半跏趺坐”ではないと言い張っています。この論でいえば、中国では、経典に書かれている「半跏趺坐」の像は存在しないことになります。そして、

“六世紀の中国の如来の坐勢表現には、結跏趺坐の足の組み替えと、結跏趺坐ではないいわゆる「半跏趺坐的」表現の登場とが見られた。”

と結論づけられては、いったい、どういう坐勢の仏像が“半跏趺坐”と呼べるのか、具体例を示してもらわなければ、説得力がまるでありません。なぜ「半跏趺坐」という言葉を抹殺しようとするのでしょうか。

ここで、別角度から、日本の仏像について書かれた論文、解説の中で、「半跏趺坐」と記述しているものを掲げてみます。

半跏趺坐と記述している論文・解説集

  1. 法隆寺金堂 銅造釈迦如来坐像(三尊の内)【奈良県斑鳩町】
    村田靖子「【奈良西部】/いかるが/法隆寺/釈迦三尊像 金堂所在 」 『奈良の仏像ー古都の寺々と名品を訪ねてー』 1997年12月15日 大日本絵画 211p~220p
  2. 法輪寺木造薬師如来坐像【奈良県斑鳩町】
    鏡山智子「本文/法輪寺薬師如来像・伝虚空蔵菩薩像をめぐって 」 『美術史』 64-2(178)  2015年3月31日 美術史學會 332p~349p
  3. 観音寺木心乾漆造菩薩坐像【京都府和束町】
    副島弘道「論文/京都府和束町観音寺の木心乾漆菩薩像について 」 『鴨台史学』 4  2004年3月31日 大正大学史學會 27p~50p
  4. 願興寺脱活乾漆造聖観音菩薩坐像【香川県さぬき市】
    「本文編/一 観音菩薩坐像 願興寺」『研究資料 脱活乾漆像の技法』 2011年5月20日 學藝書院 3p~5p
  5. 大善寺木造薬師如来坐像(三尊の内)【山梨県甲州市】
    鈴木麻里子「第3章 彫刻/3,木造薬師如来及両脇侍像 大善寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県 483p~485p
  6. 賢林寺木造十一面観音坐像【愛知県小牧市】
    伊東史朗「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/38 十一面観音菩薩坐像 賢林寺(小牧市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 252p~253p
  7. 観明院木造虚空蔵菩薩坐像【滋賀県大津市】
    岩田茂樹「図版・作品解説/10,虚空蔵菩薩坐像 観明院蔵 」 『企画展 大津の仏像ー一千年の造形(カタチ)ー』 1997年4月26日 大津市歴史博物館 30p~31p
    「主要仏像詳細データ/28 観明院/1,木造虚空蔵菩薩坐像 」 『大津市歴史博物館研究紀要』 10 比叡山延暦寺里坊等所在・未指定彫刻調査目録(下) 2003年7月31日 大津市歴史博物館 50p~51p
  8. 庵寺観音講(上野庵寺)木造大日如来坐像【滋賀県米原市】
    山下立「各個解説/12 大日如来坐像 米原市(伊吹町)・庵寺観音講 」 『大湖北展ー伊香・浅井・坂田三郡の風土と遺宝ー』第52回企画展 2016年1月9日 滋賀県立安土城考古博物館 56p~56p
  9. 教王護国寺伝僧形文殊菩薩坐像【京都市南区】
    奥健夫「本文/東寺伝聖僧文殊像をめぐって 」 『美術史』 42-2(134)  1993年3月25日 美術史學會 164p~179p
  10. 神護寺木造五大虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    津田徹英「特集 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像/神護寺密教空間の中核をなす尊像 」 『週刊朝日百科 国宝の美 17 彫刻7』 17 平安時代の密教彫刻 2009年12月13日 朝日新聞社 24p~27p
  11. 清凉寺木造観音・勢至菩薩坐像(三尊の内)【京都市右京区】
    田邊三郎助「13,阿彌陀如來及兩脇侍像 京都 清凉寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇5』 1997年11月10日 中央公論美術出版 4p~10p
  12. 広隆寺講堂木造虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    金森遵「廣隆寺講堂脇侍菩薩像に就いて 」 『考古學雜誌』 28-6  1938年6月1日 日本考古学会 357p~367p( 『日本彫刻史の研究』 1949年4月15日 河原書店 201p~211p)
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第六節 空海から道昌へ/広隆寺講堂虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 609p~613p
  13. 松尾大社木造男神坐像(壮年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  14. 松尾大社木造男神坐像(老年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  15. 神応寺木造行教律師坐像【京都府八幡市】
    紺野敏文「第三編 平安彫刻の成立/第四章 神像の成立と習合像/第六節 聖僧像の系譜/行教像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 366p~369p
  16. 金剛峯寺旧金堂木造虚空蔵菩薩坐像(焼失)【和歌山県高野町】
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第五節 金剛峯寺の虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 604p~606p
  17. 善根寺木造薬師如来坐像【広島県三原市】
    濱田恒志「広島・善根寺収蔵庫の諸像について/一、諸像の基礎データ/(一)薬師如来像 」 『美術史学』 35  2014年3月31日 東北大学大学院文学研究科美術史学講座 2p~3p
  18. 法性寺木造阿弥陀如来坐像【愛知県あま市】
    山岸公基「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/87 阿弥陀如来坐像 法性寺(あま市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 340p~340p
  19. 伊崎寺木造不動明王坐像(三尊の内)【滋賀県近江八幡市】
    寺島典人「Ⅱ 比叡山の仏像/延暦寺の仏像・仏画/20 不動明王坐像 近江八幡市・伊崎寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 40p~41p
  20. 小槻神社木造男神坐像(伝大己貴命)【滋賀県栗東市】
    「彫刻/4,木造男神坐像(伝落別命)・木造男神坐像(伝大己貴命)(滋賀・小槻神社) 」 『平成10年度指定文化財修理報告書 美術工芸品篇』 1999年0月0日 文化庁 118p~120p
    「各個解説/4 男神坐像 滋賀県栗東市・小槻神社 」 『戦国・安土桃山の造像Ⅱー神像彫刻編ー』開館15周年記念 平成19年度秋季特別展 2007年10月13日 滋賀県立安土城考古博物館 89p~89p
    山下立「各個解説/【第Ⅱ部】神像と狛犬ー神仏習合美術の世界ー/15 男神坐像 栗東市・小槻神社 」 『大湖南展ー栗太・野洲郡の風土と遺宝ー』第55回企画展 2017年2月25日 滋賀県立安土城考古博物館 59p~59p
  21. 旅庵寺木造地蔵菩薩坐像【滋賀県近江八幡市】
    山下立「各個解説/13 地蔵菩薩坐像 近江八幡市・旅庵寺 」 『蒲生郡の風土と遺宝』開館20周年記念 第46回企画展 2013年2月23日 滋賀県立安土城考古博物館 55p~55p
  22. 東光院木造菩薩形坐像(伝七仏薬師の内)【千葉市緑区】
    津田徹英「千葉・東光院蔵 伝七仏薬師坐像の図像表現をめぐって 」 『密教図像』 12  1993年12月21日 密教図像学会 21p~43p
  23. 醍醐寺大講堂木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  24. 醍醐寺伝法学院木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  25. 東大寺俊乗堂木造愛染明王坐像【奈良県奈良市】
    「Ⅳ 調査報告/2,仏教美術史的調査/解説/金胎寺諸堂安置仏像【東大寺俊乗堂】/39 木造 愛染明王坐像 」 『第1期南山城総合学術調査報告書 鷲峰山・金胎寺とその周辺地域の調査』同志社大学歴史資料館調査研究報告書 第3集 2002年9月30日 同志社大学歴史資料館 117p~119p
  26. 大通寺木造不空羂索観音坐像【岡山県矢掛町】
    浅井和春「岡山・大通寺の不空羂索觀音菩薩坐像 」 『佛教藝術』 246  1999年9月30日 毎日新聞社 69p~85p
    浅井和春「岡山・大通寺 不空羂索観音菩薩坐像 」 『密教のほとけー曼荼羅・仏像・仏画ー』善通寺創建千二百年記念 2006年4月0日 総本山善通寺 25p~25p
  27. 寂光寺木造菩薩形坐像(聖観音)【滋賀県大津市】
    寺島典人「Ⅴ 長等山麓の仏像/82 聖観音坐像 大津市藤尾奥町・寂光寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 113p~113p
  28. 随心院木造金剛薩埵菩薩坐像【京都市山科区】
    山口隆介「随心院所蔵彫刻に関する調査報告/二 金剛薩埵菩薩像 」 『小野随心院所蔵の文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその展開 Vol.Ⅲー随心院調査報告・国際研究集会報告・笠置寺調査報告』平成19年度科学研究費補助金 基盤研究(B)17320039研究報告書 2008年3月19日 荒木浩 288p~289p
  29. 現光寺木造十一面観音坐像【京都府木津川市】
    山口隆介「各個解説/116 十一面観音坐像 京都・現光寺 」 『御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶ー鎌倉仏教の本流ー』 2012年4月6日 奈良国立博物館 247p~248p
  30. 金剛寺木造降三世明王坐像【大阪府河内長野市】
    大澤慶子「図版解説/148 降三世明王坐像 行快 金剛寺・大阪 」 『日本美術全集 第7巻 運慶・快慶と中世寺院 鎌倉・南北朝時代Ⅰ』 2013年12月30日 小学館 250p~250p
  31. 高山寺木造不動明王坐像【岡山県井原市】
    和田剛「井原市・高山寺所蔵の仏像について」『岡山県立博物館研究報告』34 2014年3月1日 岡山県立博物館 1P~30P

これだけの例があることが、多いのか、少ないのかは、判断の分かれる事かもしれませんが、この例の数十倍かそれ以上の論文・解説文は、「半跏趺坐」像を「結跏趺坐」と呼んでいるのです。さらに、このリストの中にも、他の仏像の解説で半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している執筆者がいて、自身が、結跏趺坐、半跏趺坐の区別ができているのか、ちゃんと観察した上で判断しているのか疑問におもう執筆者がいることは事実です。しかし、たった数十人の研究者であっても半跏趺坐について曲がりなりにも理解して発表していることは、心強い味方です。特に、この中で、唯一、戦前の論文で、金森遵氏が、広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像を半跏趺坐と活字に残しましたが、その後に続く研究者が残念ながら現れませんでした。

さらに、このリストの中で、唯一、『日本彫刻史基礎資料集成』の形状の解説で、清凉寺阿弥陀三尊像の両脇侍を田邉三郎助氏は“半跏趺坐”と記述しています。ところが、『基礎資料集成』には、半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している形状解説が今までに8件あります。

  1. 真光寺聖観音菩薩坐像
    水野敬三郎「12,聖觀音菩薩像 滋賀 眞光寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1』 1966年6月1日 中央公論美術出版 80p~81p
  2. 常禅寺不動明王坐像
    井上正「附録6,不動明王像 福井 常禪寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇8』 1971年2月10日 中央公論美術出版 86p~87p
  3. 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像
    毛利久「3,五大虚空藏菩薩像 京都 神護寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 11p~18p
  4. 広隆寺講堂地蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「5,地藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 54p~55p
  5. 広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「6,虚空藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 56p~60p
  6. 金剛峯寺孔雀明王坐像
    水野敬三郎「46,孔雀明王像 金剛峯寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第二巻』 2004年2月25日 中央公論美術出版 118p~121p
  7. 随心院金剛薩埵坐像
    西川杏太郎「118,金剛薩埵菩薩像 随心院」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 86p~87p
  8. 福光園寺吉祥天坐像
    副島弘道「129,吉祥天像、持国天像、多聞天像 福光園寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 194p~200p

これらの形状解説文の執筆者は、いずれも『基礎資料集成』の監修者です。『基礎資料集成』は仏像の名称や、解説文の書式について独自の基準を設けて、執筆者によって表現に差異がでないようにしており、調査報告書の見本となるべき客観性をもった内容の調査報告書のはずです。いったい監修者どうしで、相互チェックができなかったのでしょうか。何かものが言えない事情があったとしか思えません。これだけ指摘しましたので、当然、再調査するなどして、『基礎資料集成』の記述を訂正するなどして客観性を担保しなければなりません。否、その前に、“半跏趺坐”とはどういう坐法なのかについて、執筆者の中で、共通認識を作らないと、また、同様の事例がでてきます。今のまま放置していると、坐像の調査報告がでるたびに、眉に唾をつけなければならないことになります。

 最後に、アンデルセン童話の「はだかの王様」の話から、王様が透明の衣裳を着たことについて、家来はどう対処をしたのかをいくつか例示してみます。

  1. 王様の最側近の人物で、王様の言うことすべてイエスとしかいわない家来。当然、本人は、王様が「バカには見えない布地」の衣裳をを着ていると確信している。
  2. 王様の近くにいて、王様を直接見られる立場の家来。王様は何も着ていないのじゃないかと疑問を持ってはいても、それを口にだすことすらできない。
  3. 王様を直接みられない最下層の家来。上司から王様は「バカには見えない布地」の衣裳を着ていると言われ、何の疑いもなくそれを信じている。
  4. 子供が、王様を見て、“王様はハダカだ!”と叫ぶと、すぐ、その子供の口をふさごうとする家来。

仏教美術研究者の皆さん!あなたは4つの家来のどれにあてはまりますか? それとも私は純粋無垢の目をもった子供だと思っておられますか?

追:この一文についての、反論などのコメントを受付ます。その際、そのコメントの公開の可否について、末尾に銘記をお願いいたします。

2017年11月12日 (日)

塼仏(センブツ)の坐法

 先日、大津市歴史博物館での企画展『大津の都と白鳳寺院』を見に行きました。
大津周辺は、昔、湖西線の建設前の事前発掘に参加したことがあるので、なつかしさと、親近感があります。また、卒論で、崇福寺について調べたこともあり、この周辺の史跡、文化財の研究成果を注目していました。
 今回の展覧会は、その崇福寺出土の遺物が、多数出品されるのでは、という期待がありました。以前ブログに書いた、塔跡から発見された舎利容器などの遺物がすべて出品されるのを期待しましたが、原品は京博にあるそうで、複製があるだけでした。私としては、発掘品の中の無紋銀銭が、11枚しかないことを確認したかったのですが、残念です。常設展示にその当時の発掘状況の調書が展示されていましたが、以前書いた事件についてはふれていませんでした。

もうひとつ、見たかったのが、崇福寺出土の塼仏です。

Photo
図録では、“左足を外にして趺坐する如来坐像”と記しています。また趺坐です。ということは、結跏趺坐ではない。と筆者は認識しているようです。

このような坐法の塼仏は他にもあります。小山廃寺(紀寺跡)の塼仏です。

Photo_2
この塼仏は、右足先があると思われる部分に、衣の皺を表現しています。結跏趺坐とは、それぞれ一方の足先が他方の腿の上にある形です。右足先は左腿の上に乗っている形状でしょうか。もし乗っていると強弁するのなら、左膝の折り曲げた内側部分に、くぼみがあるはずはありません。すくなくとも、作者は、明確に結跏趺坐と理解して作ってはいないことが想像できます。作家自身もそれをあいまいにしたかったのでしょう。

もうひとつ山田寺出土の独尊大型塼仏です。

Photo_5

石光寺の十二連坐塼仏もこれらに近い坐法です。

Photo_6

それに対して、夏目廃寺出土の塼仏は明確に結跏趺坐を表しています。下記の塼仏は唐招提寺蔵ですが、夏目廃寺出土と判定されています。

Photo_7

また、膝部分が完全に出土してはいませんが、同范とされているものに、二光寺廃寺の塼仏があります。

Photo_4
この二つの塼仏は、衣の処理のしかたなど、法隆寺献納宝物にある押出仏の形式と同様式です。

Photo_8
いままでの塼仏の坐法とは、その膝部分の形状がちょっと違う塼仏があります。結城廃寺出土のものです。

Photo_9
膝部分を正面から見た形は、前記の塼仏は ∞ の形状をしていますが、結城廃寺塼仏は、中国の南北朝期の仏像のような角丸長方形になっています。結跏趺坐か半跏趺坐かはこの写真からでは判定できません。

塼仏の中の如来像は、倚像がおおく、坐像の例は、細部がはっきりしない小連坐塼仏を除いて上記の7例程度しかありません。
その少ない例で、まとめると、少なくとも、明らかな結跏趺坐と、結跏趺坐ではない二種類が存在することがわかります。

米田浩之「塼仏の分類に関する一考察」『東アジア瓦研究』3 2013年10月31日 では、分類基準で、図像属性分類の中に姿勢の項目を設けていますが、その分類表には、立・結跏趺坐・倚坐 の三種類しかありません。つまり、半跏趺坐の概念がないのです。

その他、歴代の研究者の塼仏に関する論文では、半跏趺坐、あるいは結跏趺坐ではないという記述はありませんでした。むしろ、積極的に結跏趺坐と記しているのです。

坐法に関して、これだけの違いがありながら、 これらを一律に結跏趺坐だというのは、あまりにも乱暴です。

また、結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。

2017年11月 4日 (土)

趺坐?

 先週、九州・中国地方の展覧会のはしごをしてきました。
まずは、鹿児島県歴史資料センター黎明館、九州国立博物館、大分県立歴史博物館、島根県立古代出雲歴史博物館と、仏像を見てきましたが、それぞれ特徴ある切り口での展示でしたが、その中で、もっとも印象に残ったのは、出雲歴史博物館の『島根の仏像』展でした。

Photo
今回の展覧会は、平安時代を中心とした、島根県の有名な仏像が、かなりの数出品されており、さらに、新出の長安寺像や、普段秘仏になっている清水寺像など、注目すべき仏像が展示されていました。なぜ、この展覧会が注目されていないのか不思議な位でした。

その中で、平安前期の如来坐像が3体そろいました。まずは、仏谷寺薬師如来坐像

Photo_2
正面から見ると、半跏趺坐のように見えますが、左足裏が右膝の折り曲げた下のほうに彫られています。

万福寺(大寺薬師)薬師如来坐像

Photo_8

禅定寺阿弥陀如来坐像

Photo_9

いずれも9~10世紀の仏像ですが、3体とも結跏趺坐です。

今回の展覧会は、膝部分を俯瞰で見られるように、低い位置に展示されていたので、よく確認できました。

半跏趺坐の例もこの目で確認することができました。

まずは、長安寺菩薩坐像と十一面観音坐像です。

Photo_3

Photo_4
それぞれ手にかかる着衣がない分、明確に判明できます。

萬福寺如来坐像3躯

Photo_5
11世紀頃の作と思われますが、これも明確に半跏趺坐です。

金剛寺馬頭観音坐像

Photo_6
坐像の馬頭観音像は、珍しいですが、おそらくは図像を参考にしたのかもしれません。

法王寺観音菩薩坐像懸仏

Photo_7
レリーフですが、半跏趺坐です。

さて、これらの半跏趺坐像について、図録の解説はどういう記述をしているのでしょう。
仏谷寺薬師如来坐像のように、明らかに結跏趺坐像の場合は、ちゃんと、“結跏趺坐”と書いています。

ところが、前述の半跏趺坐像の解説は、すべて“趺坐”すると書いているのです。以前にも書きましたが、論文で、仏像の形状の記述で“趺坐”すると書いたら、そこは一番のツッコミ所です。

“趺坐するって、結跏趺坐、半跏趺坐のいったいどっち?” と。

解説の執筆者は、あきらかに、それらの像が結跏趺坐でないことは認識しているようですが、それを半跏趺坐と書けない何かの事情があって、あいまいな趺坐という言葉を使ったのは想像できます。

では、何故、半跏趺坐と書けないのでしょうか?半跏趺坐の定義を理解していないから?、あるいは、筆者の辞書の中に半跏趺坐という言葉がないからなのでしょうか?

ところが、この解説の執筆者は、以前、岡山の善根寺薬師如来坐像の調査報告で、この像を半跏趺坐と書いているのです。

つまり、この執筆者は半跏趺坐の概念を把握しているにもかかわらず、島根の仏像では、半跏趺坐と書けないのです。いったいどういうことでしょうか?

これは、単なる一研究者の単純なウッカリミスなのでしょうか。学界の中でものが言えないのでしょうか。それとも、先行研究者の見解を忖度しているのでしょうか。真実を追究すべき本来の学問としておかしいとおもいませんか?

2017年10月17日 (火)

小浜散策

 朝一番で東京を出てきたのに、東小浜駅に着いたのはお昼近くでした。さっそく福井県立若狭歴史博物館へ。『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』展を見学。平安末期~室町時代の仏像を展示していました。

Photo
たしかに、今まであまり知られていない仏像が多く出品されていましたが、特別展の仏像よりも常設展で展示されている、複製の仏像に注目しました。そのひとつが、長慶院聖観音坐像です。

Photo_2
上から、膝部分を見ると、明らかに”半跏趺坐”です。さらに、常禅寺不動明王坐像のレプリカもありました。

Photo_3
どう見ても”半跏趺坐”です。常禅寺像は、『基礎資料集成』では、”結跏趺坐”と書いています。明らかに間違いです。

東小浜駅で、電動アシスト自転車を借り、羽賀寺に向かいました。

Photo_4
ひさしぶりに、十一面観音立像を見たくなったからです。いつ見ても、不思議な像です。

最近の電動自転車は実に快適です。羽賀寺から先の予定は決めていなかったのですが、この調子ならば、昔をおもいだして、妙楽寺へ行くことにしました。

Photo_5
妙楽寺は、大学院のゼミ旅行でのレポートの題にした聖観音立像があります。

Photo_6
この聖観音立像は、11世紀頃の作と判定しましたが、渦文が、今回数えただけでも18個ありました。この過剰なまでに装飾をした渦文を調べましたが、結局よくわからずレポートも中途半端な論文になってしまいました。先生には、詰めが足りないと指摘されました。

Photo_7Photo_8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、井上正氏が『日本美術工芸』550号 昭和59年7月1日でとりあげられました。井上氏は、渦文が現存だけでも19個、失われた天衣垂下部をいれれば20数個あると書いています。そしてこの表現は、”古密教彫像表現の一画をなす霊威性の特異な表現”と書いていますが、むしろ、この渦文という表現方法が、何を参考にして彫られたのかが疑問でした。確かに、渦文は、平安前期彫刻であることのひとつの表象ととらえられますが、いったい何時、誰がこの表現をはじめたのかが知りたかったのですが、残念ながら、それには答えてくれませんでした。頭の中はまだもやもやが晴れません。

 そして、近くの圓照寺で。ここは、胎蔵界大日如来坐像と庭園がみどころです。

Photo_9
電動自転車は快調で、次は、山の向こうにある若狭彦神社へ、トンネルを突き進みます。

Photo_10
すぐ近くには、萬徳寺、ここは、阿弥陀如来坐像と庭園があります。

Photo_11
ここまで来ると、さすがに自転車をこぐ筋肉と歩く筋肉の違いで、足に筋肉痛がはしり、今日の寺巡りはおしまい。

翌日、小浜西組の重要伝統的建造物群保存地区と、特別公開の寺院を巡りました。

Photo_12
たしかに、小浜西組の町並みは、よく保存されていました。しかし、何か特徴がありません。小浜という町は、城下町なのですが、むしろ若狭街道と、北前船の寄港地として発展した町のようです。しかし、大きな屋敷があるわけでもなく、特徴のない町並みに感じられました。

その小浜西組の外れにある高成寺から。

Photo_13
本尊の千手観音立像は、平安前期の像として、注目をあびましたが、9世紀かな?というところですか。

正法寺は、銅造如意輪観音半跏像があります。想像以上に大きな仏像でした。

Photo_14
栖雲寺は、永万元年(1165)銘のある阿弥陀如来坐像を拝観しました。この像も想像するより小さな像でした。写真撮影OKなので、撮らせていただきました。

Photo_16

Photo_15
といったところで、小浜の仏像探訪は、これでお開きとしました。

2017年10月 9日 (月)

旧一萬田尚登邸

 一萬田尚登(いちまたひさと)は、戦後すぐの1946年から1954年にかけて日銀の総裁を務め、1954年から1958年まで大蔵大臣をつとめた、戦後金融界に君臨した人物です。

その一萬田氏の自宅は、港区青山にあって、おそらく昭和初期に建てられたもののようです。その建物が1965年から1975年頃道路拡張の対象となり、東海銀行が買い取り、保養施設として、箱根強羅の現在地に移築しました。

その後、幾人かの所有を経て、2011年、現在の所有者になり、改修し、美術館として公開して現在に至っているとのことです。

現在の所有者の箱根マイセンアンティーク美術館は、2000年に仙石原に開館し、強羅に移ってきました。その時、美術館として、改修をしたと思われます。

Photo_8
玄関に入ると、玄関の横に丸窓があります。抽象柄ですが、モダンなデザインです。

Photo
玄関ホールには、2ヵ所の窓にステンドグラスがありました。鉛線を巧みにつかったデザインです。

Photo_2Photo_9 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サンルームには、4枚のステンドグラスがありますが、真ん中には鳥の絵付けをした絵があり、オパールセントグラスを使わないで、普通の色ガラスを周囲に配置しています。これは、おそらくヨーロッパあたりで作られたもののようです。

Photo_12Photo_13 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物の窓ガラスは、その他にも、斜め格子状のステンドグラスや、窓ガラスの周囲にのみ色ガラスを使った窓がありますが、展示室のため、内部から写真は撮れませんでした。

Photo_6

Photo_7
今は、間取りをいかして展示室として改修されているので、どの程度変更されているのかは、詳細にはわかりませんが、ステンドグラスは、当初のようにも思われます。ということは、戦前の作品かもしれません。

2017年10月 7日 (土)

旧沼津御用邸の板ガラス

 大変ご無沙汰です。やっと書くネタがみつかりました。その間、幾度となく出かけてはいたのですが、ネタになりそうな話題がみつかりませんでした。

先週、毎年恒例の業界の社長が集まる旅行で箱根に一泊してきました。私は、例によって、ゴルフはキャンセルして、ちょっと足をのばして、沼津に行ってまいりました。

目的は、旧沼津御用邸の建物に嵌っている板ガラスを見ることでした。その板ガラスについて事前の情報がないままの訪問でしたが、新しい発見がありました。

まずは、沼津御用邸の簡単な紹介から。御用邸は、現在、西付属棟と東付属棟が残っています。中央に位置する本邸は、明治26年大正天皇の療養施設として建てられましたが、昭和20年7月の空襲で焼失してしまいました。
西付属棟は、明治23年頃、旧川村純義伯爵の別邸を借り上げ、明治39年に、皇居賢所附属建物を移築して、昭和天皇の御用邸としました。その後、御車寄、御浴殿などを増築し、大正11年に玉突所等を増設し、ほぼ現在の状態になりました。

Photo

東附属棟は、明治36年、昭和天皇の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して、現在にいたっています。

Photo_2

昭和44年11月、宮内庁から大蔵省に移管され、昭和45年には、大蔵省から沼津市に無償貸与、平成5年に、沼津市に払い下げられました。沼津市は、西付属棟を平成5~7年にかけて大規模修復し、東附属棟も平成8~10年にかけて大規模改修し、公開をしています。

まず、西付属棟から拝観です。玄関から窓ガラスを見ると、手吹き円筒法によるゆがんだ板ガラスが目にはいりました。廊下を歩いていくと、ほとんどがこのガラスで、ローラーの跡のある普通板も、フロートガラスもほとんど見つかりませんでした。

Photo_3
しかも、ほとんど、割れたガラスは見いだせませんでした。

Photo_4
中庭の周りをぐるっとめぐるように建物は建っていますが、建具には、パテ止め、いわゆる山パテと、四方溝にガラスを入れる建具があるようです。

Photo_5
よく見ると、ローラーによる並行のゆがみのあるガラスがありました。おそらくこの建物は、大正11年頃の改修時に入れた普通板と思われます。ちなみに、日本板硝子は大正9年からコルバーン式の連続製法で、生産していました。

Photo_6

東附属棟は、内部に入れませんでしたが、外観を見ると、パテ止めの建具が数多くありました。

Photo_7

Photo_8
 さて、最初の疑問。これだけのガラスがはいっているのに、ガラスの割れが見つからなかったこと、しかも、ガラスの補修は当然、しているはずなのに、まったく新しいガラスが嵌っていないこと。

近代建築のガラスを今まで見て回ってきましたが、ガラスのヒビ割れもないのは、見たことがありません。たしかに、平成5年から10年にかけて改修工事をしたばかりということもありますが、それ以前の補修の痕跡が見つからないのです。

現地のボランティアに聞いてみると、このガラスはドイツ製です。という答えしかでてきません。そこで、平成の時の改修工事報告書を見てみることにしました。
『沼津御用邸記念公園西付属棟改修工事記録報告書』 1996年10月 監修 工藤圭章 沼津市発行 によると、開園後に取り替えられた建具は、元にもどし、修復可能なものは、洗い工事とした。ガラス戸は、ガラスの納まりが溝落としと、パテ押えの2種類あるが、そのガラスは、”手造りガラスのドイツ製、ステンドグラスに使用するレストLタイプのガラス”が最終的に提案された。 とあります。

このレストLタイプのガラスとは、いったい何なのでしょうか。ヒントはドイツ製のステンドグラスメーカーの製品だということです。ドイツのステンドグラス板メーカーといえば、lamberts(ランバーツ)社です。そのサイトを見てみると、RestorationーGlasses(Mouth-blown window glass) という項目があります。つまり、復元ガラス(手吹き円筒法による窓ガラス)ということになります。

しかし、ランバーツ社は、このガラスをレストLタイプと言っていません。報告書の執筆者が、改修工事をしたガラス工事業者の言葉を調べもしないで書いたのでしょうか。とくに、改修工事報告書では、主要資材概算表に“ガラス窓 215.0㎡”と書いてあるだけです。どこのメーカーの材料をどの部分に使ったかを詳細に書かなければ、後世にまた、改修工事があったときに、どの部分をいつ補修したのかがわからなくなります。もっと、工事報告書の精度をあげていかなければなりません。

それにしても、従来は、改修工事で、ガラスの入れ替えは、実にぞんざいに扱われてきました。周りがゆがんだガラスなのに、現代の最先端技術の結晶であるフラットなフロートガラスを入れ替えたら違和感があるのは当たり前です。それに気が付いて、この建物にドイツ製のガラスを採用したのは、これからの改修工事の手本となるものだとおもいます。

惜しむらくは、どこが当初のガラスで、どこを入れ替えたのかがわからないことです。これは、正確な報告書をつくる技術者がいないことが原因です。

2017年5月 7日 (日)

関西仏像旅

 ゴールデンウィーク前半に2泊3日の旅をしてきました。
4月30日
 兵庫県立博物館「ひょうごの美ほとけ」展へ。

Photo_2

兵庫県の白鳳から江戸時代の仏像をならべた展覧会でした。その中で“半跏趺坐”像を確認することができました。

  • 日野辺区 聖観音坐像

Photo

  • 神積寺 阿弥陀如来坐像
  • Photo_3

  • 参考 遍照院 銅造如来坐像

Photo_4
神積寺像と遍明院像は右の足裏が左手に隠れて見えないので、“半跏趺坐”と断定するには躊躇するが、足の組み方の造形は、”結跏趺坐”の造形意図で造られていないと判断できる。
このような、形状の坐像は、仏師の造形意図をくみ取ることによって、”結跏趺坐”ではなく、”半跏趺坐”像と判定するのが、今の所最良の判断材料であろうと思います。

大阪市立美術館「木×仏像」展へ。

Photo_5
この展覧会も飛鳥から江戸時代までの全時代の木彫仏を展示していました。
その中で、3体の”半跏趺坐”像を確認しました。

東大寺弥勒如来坐像

Photo_6
この仏像は、以前から言及してきましたが、膝部分の奥行きのなさが、そうさせているのでしょうか?

宮古薬師堂 薬師如来坐像

Photo_7
この仏像は、初見です。

四天王寺 阿弥陀三尊像のうち阿弥陀如来坐像

Photo_8

右足裏が左手に隠れているので、正確には断定できませんが、膝の造形からみれば、”半跏趺坐”と認めてもいいとおもいます。

5月1日

奈良に泊まり、まずは、興福寺中金堂の「阿修羅 天平乾漆群像展」へ。これも以前言及していますが、中尊の前に華原磬を置くならば、当然、婆羅門がその馨を打つ動作をした像を配置すべきなのでしょう。

Photo_9

奈良国立博物館には、まだ時間があるので、東金堂へ。ここには、仏頭がありました。まさにこの須弥壇の中から発見されたものです。

奈良国立博物館「快慶」展へ。

Photo_10
さすがです。カタログもすばらしい資料です。その中で、随心院 金剛薩埵坐像を確認することが出来ました。

Photo_11
奈良博の学芸員の山口隆介氏が調査した報告では、この像を“半跏趺坐”と書いているのに、今回のカタログでは、岩井共二氏の執筆です。当然、坐法についてふれていません。

なら仏像館

この館に展示している半跏趺坐像を列挙してみます。

京都 観音寺 菩薩坐像

Photo_12

文化庁 銅造薬師如来坐像

Photo_13
この像は、キャプションによると、新薬師寺本尊の宿模だと書いていますが、そうすると、新薬師寺像も“半跏趺坐”と認めるのでしょうか。

金剛寺 降三世明王坐像

Photo_14
鎌倉時代ですが、もうひとつの脇侍、不動明王坐像とともに、“半跏趺坐”に造っているのは、図像から参照したものと思われます。

その他

  • 見徳寺 薬師如来坐像
  • 当麻寺 宝冠阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 五大明王像のうち不動明王坐像

が“半跏趺坐”像と認定できます。

ひさしぶりに、国会図書館関西館へ行きました。

Photo_15
東京の本館と比べて新しいせいで、いやな思いもせず、大変心地よく使えました。

5月2日

まずは、京都へ。去年開館したばかりの「旧三井家下鴨別邸」へ。ここは、下鴨神社の糺の森に入る手前にあります。

Photo_16
明治13年、木屋町三条にあった別邸を大正14年に移築、更に増築した建物です。

残念ながら、旅行社用に2階を押さえられて、1階しが見せてもらえませんでしたが、手吹き円筒法とおもわれる板ガラスを見つけました。

Photo_17

京都非公開寺院の公開で仁和寺へ。

霊宝館で、阿弥陀三尊像を拝観。
金堂、経蔵を拝観。

Photo_18

そして、ひさしぶりの広隆寺へ。

足が遠のいていたのは、あまりいい評判を聞かないので、躊躇していました。
案の定、講堂は、金網がしてあり、おまけに、扉をほんのちょっと開けて、中の三尊が覗ける程度の開き方をしていました。

Photo_19
ずいぶんと、ふざけた対応です。ちゃんと、人を配置して、何で堂々と拝観させないのでしょうか。新霊宝殿の真っ暗闇は、どうしようもない。

島原へ。角屋もてなしの文化美術館へ。
2階部分は、説明付きで、別料金。もっとよく見せてほしいところですが。

Photo_20

龍谷ミュージアムから、京都国立博物館へ。

京都国立博物館は、「海北友松」展をやっていましたが、平常展の彫刻だけ見たいを思っていましたが、なんと、全て、特別展の料金でないと入場できないということで、パスポートでの入場を断られました。
今回の「海北友松」展の会場が本館ではなく、新館で行われたためでしょうか、それにしても、平常展の見学者を切り捨てる態度は、もとの役所仕事にもどってずいぶんと態度がでかくなったなという印象です。平常展のみの入場ができる、装置はいくらでもできたはずです。

そして、平常展で見たかった仏像は

金剛寺不動明王坐像

Photo_21

高山寺 薬師如来坐像

Photo_22

神護寺 薬師如来坐像

Photo_23

特に、高山寺像、神護寺像は、俯瞰で見ることができ、“半跏趺坐”であることを確認しました。

今回の旅では、多くの“半跏趺坐”を実見することができました。なかなか以前の写真だけでは、その撮影者が、坐法について意図して撮影していないので、実見するしかないのが実情です。
調査者が、ちゃんと、坐法についての知識と判断能力がなければ、これからも、仏像の形状の記述は、まゆにつばをつけることが続くことになります。、

2017年4月 9日 (日)

鎌倉近代建築の旅

 昨日(4月8日)に鎌倉に行ってきました。あいにく一日中雨の中、歩き回りました。

まずは、浄妙寺の境内の奥にある、石窯ガーデンテラスへ。ここは、浄妙寺の谷戸の奥の山の中腹にある、洋館をレストランにした大正11年(1922)の旧犬塚邸です。

Photo
内部は、改装されていますが、外観はよく残されているようでした。ここには、2ヵ所のステンドグラスがあります。

1
このステンドグラスのデザインは、名古屋の撞木館にあるステンドグラスとよく似ています。もう一つは、階段室にあるパネルです。

2
この建物の設計は、ドイツ人だそうですが、ステンドグラスは日本製でしょう。

すぐ近くの華頂宮邸が春の公開日なので、また見にいきました。

Photo_2
ここのステンドグラスは、シンプルなデザインのものばかりで、あまり特徴がありません。

もうひとつこの土日に公開している、大佛次郎茶亭へ。

Photo_3
大正8年(1919)の建物ですが、ガラス戸は改装されていて、ガラスは見るべきものがありませんでした。

つぎに最近新築した川喜多映画記念館の建物の奥に、旧川喜多邸別邸があります。この建物は、江戸後期の民家を練馬で和辻哲郎が居宅として使っていたのを、鎌倉に移築したものだそうです。土間があって、江戸の農家の雰囲気が残っていました。

Photo_4
鎌倉駅のすぐ近くに、古我邸がありました。駅からこんな近くの広大な敷地に洋館が建っていました。現在はフランス料理のレストランとして、使われています。大正5年(1916)荘清次郎の別邸として建てられた洋館です。結婚式開催中で、中にはいれませんでした。

Photo_5
長谷の方を歩いて行くと、 吉屋信子記念館があります。この建物は戦後の昭和37年(1962)に建てられていますが、設計が吉田五十八で、シンプルな作りになっていました。

Photo_6
そして、このすぐ近くに 鎌倉文学館があります。旧前田利為邸です。昭和11年(1936)竣工の建物です。

Photo_7
内部からのステンドグラスの撮影ができませんが、2ヵ所の丸窓を除いて、シンプルなデザインのステンドグラスをランマに使用しています。その2ヵ所の丸窓も、なぜか、あまりオパールセントグラスを使っていません。流し模様のある、透明な硝子を使っています。この時代になると、ステンドグラスのデザインの流行も少しづつ変化してきたのでしょうか。

Photo_10

もうひとつ、旧諸戸邸がこの近くにありました。今は、長谷こども会館として使われていますが、内部は非公開です。あの、桑名の森林王諸戸清六が大正10年(1921)に買った建物です。創建は明治41年(1908)だそうです。

Photo_8
建築ばかりでは、何か物足りないので、長谷寺へ、リニューアルした旧長谷寺宝物館に入館。現在では、觀音ミュージアムと言うそうです。観音三十三応現神像がガラスケースからよく見えるようになりました。仏像の着衣にちょっと示唆をあたえるような仏像です。

Photo_9

今回のメインは、石窯ガーデンテラスのステンドグラスでした。その他の戦前の住宅は、窓ガラスにに見るべきものがありませんでした。それにしても、雨なのに、シーズンなので、人はどこもいっぱいでした。

«安土・神戸・姫路の旅

2018年3月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ