トップページ | 2008年4月 »

2008年3月

2008年3月30日 (日)

前川國男邸

Photo

小金井市にある江戸東京たてもの園に行ってきました。ちょうど桜の満開の時期で、隣接する小金井公園は花見で大混雑でした。今回は、前川國男邸を見ることでした。前川國男はル・コルビジェ、A・レーモンドのもとで修業し、戦前から戦後にかけて活躍した建築家です。とくに美術館博物館建築は埼玉県立博物館、東京都美術館、東京文化会館など有名な建物が残っています。この自宅は昭和17年に竣工した建物です。その当時、住宅は100平米以内という法律があって、その範囲内で造られた建物です。ですから、間取りは居間と寝室、書斎、女中部屋と台所風呂などの水廻りがあるだけで、今でいうと3LKということになります。実にシンプルでいながら、心地よい空間を作っています。

Photo_2

書斎は窓を広くとり、反対の寝室と対象を作っています。まあ、そんなにお金をかけなくても、設計によって、こんなにも心地よい空間が作り出せるのは、設計の妙なのでしょう。

それよりも、感心したのは、この建物を復元した経緯がよくわかることです。ここで入手した『前川國男邸復元工事報告書』はなんと第6版にもなっていました。この報告書には、復元工事の仕様から、残っている部材リストなどが掲載され、また、専門協力業者の名も書かれていて、どれを補ったか、どういう工事をしたのかの詳細がこと細かく書かれているのです。

これが、復元工事の基本だと思います。この本を見れば、どこをどう新設したのかがわかるのです。しかも、その当時、この建物を見ていた関係者に聞き込み調査までしているのです。これなら、復元者の変てこりんな創作意図が入り込みません。これが重要なのです。

2008年3月28日 (金)

もうひとつの薬師寺展

Photo 「もうひとつの薬師寺展」という展覧会を薬師寺東京別院で見てきました。JR五反田駅から、歩いて5分ほどの高台にある3階建の建物が、薬師寺の東京別院です。玄関に看板がなければ、素通りしてしまいそうな、その辺では一般の住宅のような建物です。もっとも、このあたりは、池田山といって高級住宅で有名な場所なので、この程度の建物では、目立ちません。

一応お寺なのですが、薬師寺の東京写経所といった使い方をしている建物のようです。2階に上がると、ホールに3体の十一面観音、その横の小部屋に伝大津皇子坐像がおりました。大きな部屋にある須弥壇の上には5体の仏像が、その他の壁には東塔支輪板、鎌倉時代の東塔塑造残欠、絵画、またケースには写経、枡が展示してありました。ざっと展示品はこんなもんでした。

Photo_2 しかし、ここは美術館ではないので、坊さんがでてきて、ひととおりの講話があり、おまけに最後には、般若心経まであげることとなりました。しかし、東博とは違って、外光のはいる明るい室内で、人を気にせずゆっくりと鑑賞できました。とくに、乾漆の十一面観音は乾漆の表現がよくわかるほど近くで観察することができました。

お寺の雰囲気はあまりありませんが、美術館に行くのとは、また違った空気を吸うのもいいのかもしれません。

2008年3月26日 (水)

薬師寺展

Photo

さっそく、東京国立博物館の「国宝薬師寺展」に行ってきました。今回は偵察ということで、時間がなかったので、ざっと見てきました。脇侍の日光月光菩薩は、こんなにも大きな仏像だったのかというのが、まずもっての印象です。わざわざ展望台まで、設けて見上げなくてもいいような観覧台があるのは、違った目線で見られて、なかなかの演出です。

また、八幡三神像も、休丘八幡宮をそっくりレイアウトして展示するところは、ニクイですな。また、西塔出土の塑像残欠が一同に会するのは圧巻でした。こんなにまとめては見られないです。その他にも、吉祥天画像、仏足石、聖観音、慈恩大師像といったそれだけでもわざわざ奈良に見に行ってもいいくらいの作品のオンパレードでした。これは、じっくりと時間をかけて見ないといけませんね。あまり観覧者のいないところを見計らって、また行くことにしましょう。6月8日まで期間がありますから。

上野の桜は今、8~9分咲きです。平日なのに、人がでています。そんな上野はあまり好きではありませんので、この時期近づかないようにしているのですが。陽気にさそわれてついというところですか。

Photo_2

2008年3月24日 (月)

高橋お伝

Photo 谷中の五重塔跡のすぐそばに「高橋お伝」の墓があります。明治の初め、毒婦としてその名をはせた「お伝」の墓ですが、右上に辞世の歌が彫ってあります。

しばらくも望みなき世にあらんより

        渡し急げや三津の河守

横の説明文では、上のように書かれているとしていますが、“三津”は“三途”だろうとおもいます。

この辞世の歌はお伝が歌ったとはおもえません。この墓の裏には、この碑の世話人として仮名垣魯文の名があります。多分、仮名垣魯文の歌でしょう。つまり、お伝が首切の刑に処せられてから、仮名垣魯文の戯曲が大当りして、いはば、そのデモンストレーションとして、建碑したようにおもわれます。その当時、仮名垣魯文はたいしたイベントプロデューサーだったのでしょう。

Photo_2 ちなみに、小塚原の回向院にもお伝の墓があります。この墓の方が小さくて本物らしく見えます。回向院は去年墓地の改装工事をして、古いお墓をまとめましたので、見つけやすくなりました。

お伝は今でいえば、単なる殺人犯なのですが、マスコミにとりあげられると、それがひとりあるきして、どんどん脚色されていき、遂にはこんなおおきなお墓ができてしまうというのは、現代にも同じように起きているようで、ちっとも進歩していないようにおもえます。今のマスコミのあり方を考えさせる碑と見ればいいのでしょうか。

2008年3月22日 (土)

掲載文献から

Photo 今回、追加した文献は36冊。その中から、注目する文献のご紹介です。

京都市右京区の愛宕山の中にあるお寺です。徒歩でおよそ1時間かかるということです。車では行けないようです。佛教大学が平成17年~19年にかけて調査した報告書が、この本です。さぞかし、調査は大変だったと思います。調査には、必要な機材がないとできませんので、重労働だったと思います。

しかし、その労苦にもまして、すばらしい仏像が残っています。平安前期の千手観音、十一面観音、聖観音、どれをとっても典型的な仏像です。それ以外にも平安後期から鎌倉まで、16体もの仏像が存在することはおどろきです。伝承とはいえ、九条兼実、法然、親鸞とも関係しているとなると、これは、もっと解明できるかもしれません。

京都にはこんなお寺もあるのです。まだまだ訪れなければならないお寺が残っています。京都は奧が深いですね。

2008年3月20日 (木)

清水寺式千手観音

清水寺式千手観音を御存知でしょうか。その1体、おそらく彫像では一番古いと思われる仏像が、今回の東北旅行で、拝観できました。中尊寺観音院の千手観音立像です。中尊寺讃衡蔵に安置されていました。

Photo_2 清水寺式は仏手を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる形式をいいます。私の調べでは日本全国で、20数例、絵画で数例が確認されています。しかし、その形式から、後補で、取り付けた可能性が非常に高い仏像でもあるので、注意が必要です。観音院の仏像をよく見ると、頭上の仏手の付根は、胴体の肩から彫られた部分から矧ぎ会わせてあるように見えます。つまり頭上の仏手は当初と考えてもいいのかもしれません。

清水寺式で、制作年代が確定できるものがあります。それは、三十三間堂の創立当初の千手観音像の胎内に納入されていた、千手観音二十八部衆像の版画です。三十三間堂は長寛2年(1164)に創建されていますから、これが嚆矢かもしれません。その後の鎌倉再建時の千手観音の納入品の版画は、普通の千手観音二十八部衆像で、清水寺式になっていません。

この清水寺式千手観音はまだよくわかっていないところが沢山あります。そもそも、京都清水寺の秘仏本尊は、この形式なのでしょうか。この形式の根拠はどこにあるのでしょうか。日本全国にこの形式の仏像が存在するのは清水信仰ということなのでしょうか。

 

 

Photo_3 ちなみに、『春秋堂文庫』の表紙の左上の写真は、福島県小高町にある泉沢石窟の観音窟の千手観音坐像の磨崖仏です。時代は平安に入るとおもわれ、かなり古い部類にはいります。

これから、各地の清水寺式千手観音の来歴を調査することによって、その造像思想も解明できるかもしれません。しかし、まだまだ、調査によって発見される可能性のある仏像です。

2008年3月18日 (火)

いつから?

早大文学部33号館を建替える話がでてから、もう1年が過ぎようとしています。いったい何時から解体するのでしょう?こわすのなら、さっさとこわしてしまえばいいのに、と誰でもおもいますが、なかなかそうはいかないようです。

Bungakubu1

つまり、アスベスト問題があるためのようです。アスベスト(石綿)は今、建築業界では大変な問題になっています。昔の建物はほとんどといってもいいくらい、アスベストが使われていました。それを除去するには、完全防護服に防毒マスクをつけ、外部に飛散しないように、部屋ごとに密閉して作業をしなければならないのです。そのために、膨大な費用と時間がかかります。デザインがどうのこうのという前に人間の健康をまず考慮しなければいけないのが現状です。この工事は鹿島建設が請負っているようです。建替の建物も鹿島の設計施工のようです。むしろ、鹿島の設計が村野藤吾の設計思想をどう継承するのか、あるいは、まったく違うコンセプトを見せるのか、これが、これから十分に注視する必要がある問題です。

Bungakubu

2008年3月15日 (土)

アートブリック

002 001

上の2枚は早大文学部33号館玄関ホールにある開口部にガラスが入っている写真です。これを、ある人は岩田工芸硝子の作品であると言っていますが、違います。

Photo

上図は村野藤吾の書いた図面です。縮小でよく見えませんが、各務クリスタルアートブリックと材料の指定がされています。

002_2001_2

各務クリスタルのカタログにはちゃんと「アートブリック」という商品名の製品が掲載されていました。つまり、早大文学部のロビーに取り付けられている硝子は各務クリスタル製の一般的な市販品だということです。この硝子はいわゆる中空ブロック(ガラスブロック)よりも数段高価で、建物の玄関まわりにいわばアクセントとしてよく使われていましたが、昭和60年に生産中止してしまいました。現在でも、昭和30~40年代に建てられたビルの玄関に使われているのを見ることができます。この硝子は工業製品なのですが、手作り感をだすために、工夫がなされていました。またどうのように施行されていたのかなどは、またの機会にします。

続きを読む "アートブリック" »

2008年3月12日 (水)

谷中五重塔

Photo

運動のために、ちょっと遠回りして谷中の墓地歩いてきました。上は谷中の墓地の五重塔跡にあった写真です。昭和32年7月放火によって焼失しました。うっすらとですが、焼失前の五重塔の記憶があります。そして、焼失の時は、今でも憶えています。まだ残骸が残っている状態をわざわざ見にいきました。何か大変なことがおきたという様子が子供心に感じたのを覚えています。

Photo_2

そして、五重塔の礎石の中から掘り出された経筒が平成17年台東区の文化財に指定されました。江戸時代の五重塔の礎石に経筒を納入すること自体、大変珍しいことですが、私は、舎利容器に硝子板が嵌められているのに注目しました。江戸時代に国産で硝子板の例が記憶にないのです。薩摩の尚古集成館にあるのは幕末の頃ですし、それ以前の作ということになります。調べる必要がありそうです。

この五重塔は、心柱が礎石の上に乗っているのではなく、いわゆる懸垂式になっている構造で、そのためかどうか関東大震災にも崩壊しなかったのに、放火によって失うとは何とも皮肉です。再建の話は浮かんでは消えてなかなか進んでいないようです。

2008年3月10日 (月)

日帰り東北旅行

3月9日、日帰り出東北旅行をしてきました。行程は

  • 新幹線で一関へ、レンタカーで
  • 一関市博物館→厳美渓→骨寺村荘園遺跡→逹谷窟
  • →毛越寺→中尊寺→黒石寺→えさし郷土文化館
  • →水沢江刺より帰京

一関市博物館では、松川二十五菩薩堂の本尊及破損仏数体が注目でした。厳美渓では、碑文を見たかったのですが、洪水で流されて、現存しない由。残念!骨寺村荘園遺跡は急遽見学。山に囲まれた一帯が、何か荘園のような感覚にさせてくれました。毛越寺、中尊寺は以前より、整備されていて、見やすくなったのはよろこばしいか。黒石寺ははじめて来訪ですが、薬師如来はさすが、伝慈覚大師は、銘文がなければ、九世紀といってもおかしくない彫りでした。えさし郷土文化館の目玉は、藤里智福愛宕神社の毘沙門天三尊像です。これは、鞍馬寺形式の三尊像で、中尊はなかなかの作りでした。また、破損した僧形像の鉈彫も見られました。

Photo

以上簡単な報告です。今回は、まだ雪が積もっていないか心配でしたが、ぽかぽか陽気で、幸運でした。

2008年3月 7日 (金)

早大旧図書館

Photo_3 Photo_4

早稲田大学旧図書館(2号館)の窓の新旧の写真です。旧図書館は、平成10年、會津八一記念博物館として生まれかわりました。開館して1年後、旧大閲覧室の窓の改修工事が行われ、右上のような外観に変わりました。どう違うでしょうか?

まず、サッシの見附が違います。現状のほうが太くなっています。また、当初のサッシの色は、薄いピンクがかった白色でした。今は、焦げ茶色に塗られています。

実は、この硝子工事は、私の会社で施行しました。もちろんこれだけではなく、博物館開館のための2号館改修工事のうちの、硝子工事の部分です。この窓は、スチールサッシで、パテで硝子を固定していましたが、サッシの腐食が進んでいて、そのために、硝子が何枚か破損していました。開館の時までに、サッシの改修工事を提案していましたが、予算の関係で、開館後に行われました。その時、私は、ゼネコンを通して、サッシをアルミにしてはどうかと提案しました。それは、スチールサッシでは、また同じように、腐食が進みやすく、塗装を数年ごとにしなければ、現状が保てない、というメンテナンス上の問題があったからです。しかし、アルミサッシにすると、サッシの見附がもっと太くなり、現状とずいぶん見栄えが違ってきます。

結局、施主(大学?設計?)の判断で、以前と近い意匠でということで、今回もスチールサッシになりました。しかし、以前はガラスをパテで固定していましたが、今回は、シリコンシーリングという、ゴム状に硬化する、充填剤を使用して、ガラスを保持しています。そのために、サッシの構造が若干違う形になっています。(見附が太くなったのはそのためです。)さらに、ガラスの内側には、透明のフィルムを貼って、硝子が割れた時の飛散防止機能を持たせました。このフィルムは、その素材から紫外線をカットする機能を持っており、一石二鳥の効果があります。

このように、改修工事によって、格段に性能のよい材料で、建物の延命がはかられましたが、それで、万々歳なのでしょうか?

そもそも、この工事は、復原工事なのでしょうか?確かに、外壁一面に這っていた蔦もきれいに取り除き、竣工時の色に塗装し直しました。でも、サッシの色を何故、焦げ茶色に塗ったのでしょう。これは、書庫の窓など他のサッシは、ブロンズのアルミサッシに入れ替えているために、そのバランズを取ったものと推測されます。

これは、改修工事なのです。決して、今井兼次の設計意図を汲んで、復原工事をした訳ではないのです。その辺のあいまいさは何なのでしょうか。

このことは、もっと掘り下げて考えなければいけない問題です。

2008年3月 5日 (水)

早大文学部校舎

Photo Photo_2

上が竣工後(昭和37年3月)、下が現在(平成19年10月)の早大文学部33号館です。どこが違いますか?40数年も経ている建物は、少なからず改修が行われているものです。村野藤吾の設計理念を知りたいなら、竣工当時の状況を今の建物で類推しなければなりません。

たぶん、10数年前頃に、窓のサッシの改修工事をしているはずです。竣工当時はおそらくスチールサッシで、白の塗装をしていたのでしょう。今は、そのサッシの外枠のみを残して、硝子と枠を外して、アルミサッシをかぶせているのです。そのために、枠の外周が当初のよりも太くなっています。また、スチールからアルミに変わったために、無目が太くなっています。さらに、枠の下部は、本来は内開き窓だったのが、引き違いに変わっています。

設計者は、窓の部分にある方立など、開口部に太い線が入るのを嫌う傾向があります。せっかくならば、方立などないほうがよいと思っています。見た目が重くうるさく見えるからです。村野はこの変更をどう思ったでしょう。性能がよく、耐久性がよいアルミサッシに変わったのだから、よしとしたでしょうか。それとも、このすっきりした外観のイメージをこわしたと思うでしょうか。

2008年3月 3日 (月)

建築の開口部

しょっぱなから、仏像の話ではなく、建築の話です。

今、気になっているのは、

  • アントニン・レーモンド「軽井沢夏の家」
  • 同 高崎 井上房一郎邸
  • 同 高崎 群馬音楽センター
  • 村野藤吾「早稲田大学文学部」
  • 今井兼次「早稲田大学図書館」

です。おいおいと、話が進んでくると、その共通性がわかるとおもいます。

まずは、今日、手に入れた本を紹介します。

Photo

建築の本で、開口部すなわち窓、出入口の扉に関する本が少ないのです。

簡単な話、アルミサッシは何時頃から普及しはじめたの?窓の形はどのように変化したのか?こんなことがわからないと、建築を見てもその本質にはせまれないのです。

つまり、技術的な本はあるのですが、文化史あるいは、美術史的観点からの論考がないのです。

これは、建築技術者(芸術家?)が書いているのが多く、見る側に立った人の論考が少ないためです。建築探訪という建物の評価あるいは鑑賞をする本は多数でていますが、学術的な論考がないのです。たとえば、軽井沢夏の家は今、軽井沢タリアセンに移築されていますが、今の建物は、レーモンドが設計したとおりに復元はしていません。どうしたら、レーモンドの設計理念あるいは、感覚にせまれるのでしょうか。その方法が問題なのです。

今、近代建築の価値を見いだして、できるだけ残そうとしています。そのためには、しっかりとした論考のもとに、建物の価値を評価しなければなりません。どうもそれをやっているようには見えません。

具体的にこれからすこしずつお話いたします。乞うご期待!

続きを読む "建築の開口部" »

2008年3月 1日 (土)

はじめまして

Photo_3

はじめましてブログをはじめました。

日記は今まで、いつも三日坊主でしたので、いつまでつづくやら。以前から、他の人のブログにコメントを入れて、楽しんできましたが、とうとう、おまえも書けと、脅迫され、ブログなるものを始めるはめとなりました。

今も続けている、文献目録のデータ入力もままならないところに、さらにまた、別の頭を使うのは、容量を越えた脳の酷使でなのですが、まあしょうがないとあきらめの心境です。

上の写真は、小生の自宅での机の前の雑然とした風景です。こんなところで日々入力に没頭しております。

ちなみに、モニターは24inchが2台並列に並べ、本体は机の下にあります。モニターの上の表は、コード表、これが3枚あります。左は、地域コード、真ん中は、年表(年号と西暦の対照表)右は時代コードです。

できるだけ、合理的な配置をこころがけていますが、まだまだ無駄がありそうです。それよりも、細かい字が読めなくなってきたのは、誤算で、このコード表をもっと大きな字に印刷しなければと、余計な仕事がまたふえて。

これから、気張らずに、こつこつと書いていこうとおもいますので、励ましの程をお願いいたします。なにせ、うしろからせっつかれないと動かないものですから。

トップページ | 2008年4月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ