« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月

2008年4月29日 (火)

タウトとレーモンド

Photo_4 Photo_6 先日、くしくも、戦前の同時代に日本に滞在していた、二人の外国人建築家の住居を見ることになりました。そのことに何か、関係があるのだろうか、という興味が生まれました。ブルーノ・タウトが2年3ヶ月暮らした、洗心亭を見て、ドイツで、それなりの実績と地位を築いた人の住居とは思えなかったのは、最初の印象でしたが、やはり、タウトは『日本美の再発見』のインパクトがあまりにも強すぎたため、その実像が隠されてしまったようにも思えます。タウトは、ナチスからのがれて日本にたどりついた人で、どうしても日本に住みたいと願って、来日したわけではない、というのが前提にあったようにも思えます。また、自分の仕事である、建築の仕事が、日本でできないことへの、いらだちもあったように思います。タウトの日本での、心情は決して、安定した状態ではなかったはずで、日本各地の旅行も、日本人の友人による、献身的なもてなしによることが大きいと思います。タウトは何とかこれに答えようとしたのではないかとおもいます。

その頃、A・レーモンドは、東京で建築事務所を作り、仕事も順調に進んでいました。タウトが洗心亭に居を決めた、1934年の一年前には、軽井沢に『夏の家』を建て、避暑を兼ねた仕事場にしていました。高崎から軽井沢まで、いまでは車で1時間の距離です。しかし、レーモンドはその頃は、タウトほど、有名ではなかったようです。年もタウトのほうが8才年上ですし、タウトはドイツでは大学教授まで勤めた人ですが、レーモンドは単に、ライトの事務所で働いていたという実績だけです。

タウトは1934年にレーモンドと会っています。しかも、レーモンドの葉山の別荘で会っていたようです。これは、共通の知人の井上房一郎によるものかは、わかりませんが、タウトはどう思ったでしょう。かたや、日本で仕事を順調にこなすチェコ生れの外国人、かたや、ドイツで、12000戸の住宅を手がけた元大学教授のドイツ人が、今は、工芸デザインのアルバイト程度の仕事、しかも収入は本業の建築ではなく、執筆活動によるもの。何かそのギャップが運命のいたづらを感じます。

Photo_3 タウトのことを調べたくて、本屋に行くと、左の本が目にとまりました。中を開けると、なんと平木收氏が執筆していました。タウトが撮った写真についての解説です。タウトの撮った写真を、平木氏の言うようにパラパラとめくっていくと、今の小生が写真を撮っている感覚と何か共通しているように思えるのです。今、小生はデジカメをもって、あるいは携帯電話を常に持って、ちょっとしたこと、あるいは、旅行にいけば、常にすぐに、写真がとれる状態にしているのです(このブログのためです。正直シンドイ)。手に持っていなくても、すぐに取り出せる解放したカバンにいれてあります。タウトもそんな状態で撮っているような写真です。景色や建物でも、そこに人が写りこんでも、気にしない、ありのままを撮っています。タウトの好奇心の貪欲さが現れているように思えます。

また、タウトが撮った写真ではありませんが、洗心亭での写真の何枚かを見ると、外国人が日本家屋で生活することの一端が垣間見られて、ほっとする気分になりました。

2008年4月27日 (日)

高崎旅行

昨日、日帰りで高崎に遊びました。先輩の高山奇人さんの案内で、一日、私の希望をかなえていただきました。今回見た所は、

  • 高崎市美術館で開催の「アントニン&ノエミ・レーモンド展」
  • 旧井上房一郎邸
  • 群馬音楽センター
  • 洗心亭(少林山達磨寺境内)
  • 夏の家(軽井沢タリアセン内ペイネ美術館)

Photo_2 Photo_8

今回の主な目的は、旧井上邸と群馬音楽センターを見ることでした。旧井上邸は、厳密にいうとレーモンドの設計ではないのですが、レーモンドの住宅設計の思想をよく受け継いでいる建物で、レーモンドが日本で、どのような生活をしていたのか想像したかったのがひとつ。

Photo_9

Photo_6 群馬音楽センターは、折版構造という設計のアイデアがどこにあったのかを、この目で見たかったからです。実にすごいアイデアです。こんな建物をよく作ったと思います。日本の建築職人もその当時は捨てたものではなかったと思います。

レーモンドは、その生活スタイルが、今の日本人の生活スタイルとほとんど変わらない生活をしていたように思えるほど、その建物が、日本の風土にマッチングしているのです。建物内部、外観をみても、いかにもバタクサイところが全然ないのです。実に心地よい空間を作り出していることが、逆に不思議でたまりません。とても、外国人が作った空間とは思えないのです。レーモンドが、日本の文化をどれほど理解していたのかは、その著書を読んでもあまり理解できないのですが、レーモンド設計の住宅を見ると、その理解力に改めて驚愕するのです。いや、それ以上に、日本文化の基盤から、さらにその上に自身のスタイルを確立していることに驚嘆します。

Photo_7 その後、ブルーノ・タウトが日本で2年余り暮らした、洗心亭を見ました。山の中腹にある人里離れた寺院の境内にひっそりと建つ、4畳半と6畳の和室の2部屋しかない建物で、そこにドイツ人夫婦が生活していたとは、何か、禁欲的な生活をしていたようにも思えます。タウトというそれなりの文化人がこんな境遇でいたとは、本で読んだタウトの印象が変わりました。やはり、活字だけでは、その人となりは理解できないものです。

その後、時間があるので、軽井沢まで、車をとばして、レーモンド設計の「夏の家」をもういちど見ることにしました。雨が降りだし、気温も冷えて、部屋の中にはストーブをだしていました。いかにも軽井沢らしい寒さを実感することになりました。「夏の家」については、またの機会に改めてお話することにして、やはり、今の「夏の家」には何か、たりないもの、違和感があります。それがいったいどういうことなのかは、まだ、私の中で整理できていません。その整理がついたときまで、待っていただきたいとおもいます。

2008年4月25日 (金)

科学博物館のステンドグラス

Photo  小川三知というステンドグラス作家がいたのを、この本で初めて知りました。日本でステンドグラスの技法を初めて伝えた人は、宇野澤辰雄だというのは知っていましたが、宇野澤と同じ年で小川三知という人が、日本で、宇野澤に続いてステンドグラスを始めたというのです。宇野澤はドイツで技法を学び、小川は美術学校を卒業した画家でしたが、アメリカに渡って、ステンドグラスの技法を学び、宇野澤に続き、ステンドグラス工房をつくりましたが、昭和3年になくなりました。

しかし、宇野澤、小川の工房からでた多くの技術者が、その後の、日本のステンドグラス技術を継承していきました。今でもある松本ステンドグラス製作所大竹ステンドグラスは、その系統をひく老舗です。

そんなで、この本を見ていると、なんと国立科学博物館にあるステンドグラスは小川の工房でつくられたものと書いてありました。さらに、松本ステンドのHPを見ると、その改修工事を松本ステンドが行ったとでていました。

これは、見に行くっきゃないと思い、毎月の通院日の今日、何十年ぶりに科学博物館に入りました。本館は、ちょうど改修工事が終わったばかりで、きれいになっていました。

Photo_2 これは、正面の吹き抜けのドーム部分にあるステンドグラスです。4方4面におなじ図柄ではいっています。

科学博物館は、宝相華、鳳凰をモチーフにしたステンドグラスがほかにもありますが、この図案は伊東忠太によるもの、ということが、この本の著者、田辺千代氏の他の著書『昭和初期の博物館建築』によって、明らかにされています。

 

 

Photo_3

これは、建物の両翼部分の3階階段室の天井にある明かり取りのステンドグラスです。松本ステンドによると、改修時は、ほこりがたまって、色がよくわからないくらいだったのが、クリーニングによって、もとの鮮やかな色にもどったと記載されています。

田辺によると、もともと外国の建築にしかなかったステンドグラスが、明治中期から昭和戦前期に至るわずか五十数年で、日本に根を下ろした背景には、日本人が古くから親しんできた障子文化の存在があった。と言っています。たしかに、日本の障子は、はやくから、雪見障子といって、障子に硝子をいれていましたし、その硝子にも、模様をつけたスリ加工をしていました。いはば、模様付きの開口部には日本人は違和感なく受け入れてきたのでしょう。

しかし、現代の住宅にステンドグラスがなかなか普及しないのは、原色にちかい色に対するアレルギーがあるのと、今のプレファブメーカーの住宅に関するデザインが、ステンドグラスを拒否しているようにも思えます。まだ、日本人は住宅での、鏡と色ガラスの使い方に習熟していないように思うのは、私だけでしょうか

もうひとつ、私が昔、よく行っていた、上野池之端仲町通りにある小川眼科の建物の玄関にも、小川三知の作品がありました。さっそくそれも、写真に撮ってきましたが、それは、またの機会に。

2008年4月23日 (水)

朱雀門の現在

Photo

Photo_3 それでは、実際に朱雀門を建設するにあたって、何が問題となったのでしょう。復元は彫刻や、工芸、絵画と違って、復元案を作っても、建築は、力学的、法律的な問題をクリアしなければならないのです。

左上は復元案として模型を作成したときの図面、右上は実際に建てられた建物の立面図です。まず、建物の高さが高くなりました。そして、軒の出が少なくなりました。これは、構造的な問題で、復元案では、軒の出を支えられないために、桔木を挿入したために、軒の勾配が急になったのです。軒の出も上層16尺、下層17尺を15尺にちぢめました。また、下層の桁側の壁と正面両側にそれぞれの柱間は、耐震壁として鉄骨で枠を組み、中に格子状の、補強をいれて、塗壁で隠しています。上層部の内部は、筋交いをいれボルト固定して、変形を防止しています。従って、上層には上れません。言葉ではよくわからないとおもいますので、奈文研のHPにある、朱雀門のパンフレットの建築中の写真を参照してください。

意匠的な変更としては、上層の高欄の割付が変わりました。この件については、『報告書』には記載されていませんが、模型を見たときの見た目がおかしいといった視覚的な問題で変更したとおもわれます。

『報告書』には、付章として、「平城宮朱雀門調査研究会記録」という議事録が記載されています。そのなかで、復元ということの、理念的な問題が討議されています。つまり、創建当初の復元案どおりに今、建てると、地震で倒壊する危険があります。また、構造的な欠陥から、軒が下がるのは目に見えているのです。そのために、鉄骨の補強を入れ、軒の出を縮めることに、委員の中では何か疑問を感じていたようです。

たとえば、委員のひとり金多潔氏は“軒を短くするかどうかという議論のときに、伴大納言絵詞の応天門の絵がでてきたが、あの絵では軒下につっかえ棒が描かれている。だけど朱雀門にはつっかえ棒はつけたくないという共通認識から17尺を15尺にまで後退させたという経過がある。”と言っています。

また内田祥哉氏は“昔通り忠実に一旦造ってみてだめなところを例えばつっかえ棒をするなりして多少外観は悪くなっても二次的に補強するものとにわかれると思う。”

稲垣栄三氏は“現在の復原というのは要するに想像だ。問題はそれが300年後の歴史の批判にさらされたとき鉄骨の上にはりぼてをしたということで批判されると思う。”と言っています。

結局のところ、復原の理念について話し合われたのは、わかるのですが、復元(復原)の明確な基準、定義まではいっていないようです。

内田祥哉氏が最後に言っていることは、“ヨーロッパのように外壁保存という考え方に思いきれば話はすっきりするが、どうも復原の場合はそこまで行くには心の整理ができていない面がある。”とひとごとになってしまいました。

どうも、この議論を読んでみると、技術屋さんの議論だなと感じます。

復原、復元の言葉の定義を以前お話しましたが、当の奈文研が、ちゃんと使い分けていないのでは、“復元(復原)とは”といった理念の確立などは、まだ遠い先の話なのかな。

2008年4月20日 (日)

平城宮朱雀門

Photo  平城宮朱雀門は平成10年の復元工事が完了し、今の建物になりました。朱雀門跡の発掘調査は昭和39年ですから、およそ35年に渡って、調査から、復元建物工事の検討を経て、建てられたことになります。復元に関しての問題は、『平城宮朱雀門の復原的研究』奈文研学報53で、詳細に渡って記載されていますので、それに沿ってお話します。

まず、復元にあたって、発掘調査から判明したことをいくつかあげてみます。

  • 建物の規模は桁行5間、梁間2間であること。
  • 柱は痕跡から、礎石建ちであること。
  • 屋根は瓦葺であること。

これぐらいでしょう。これでは、復元ができるはずはなく、関連資料から、類推したのです。

  • 現存する建物ー法隆寺中門、金堂、薬師寺東塔、東大寺転害門など。
  • 『伴大納言絵詞』の平安宮朱雀門の絵など。

これだけの資料でどういう復元案を作成したかというと、

  • 門は重層で、屋根は入母屋造。大棟端には鴟尾をのせる。
  • 柱の太さは転害門よりやや太く、胴張りをつけた。
  • 斗栱は薬師寺東塔とおなじ三手先とした。
  • 軒の出は、下層17尺、上層16尺を採用した。(実際は15尺に変更した)
  • 上層高欄には三ツ斗、人形割束をを採用した。(実際は割付を変更した)

Photo_2 正直なところ、これだけの資料でよく、建物という形になったなあ、というのが報告書を読んでの印象です。

まず、重層の門である根拠があいまいです。単層ではない根拠が見あたりません。

上層高欄に何故、人形割束がついているのでしょう。私がまず、この朱雀門を見て、違和感を憶えたのは、この人形割束です。これは法隆寺の金堂、中門にしか使われていません。薬師寺東塔にはないのです。それでいながら、斗栱は雲斗栱ではなく、薬師寺東塔に使われている三手先にしているのです。つまり、そのころの建物の折衷案なのです。

いったい、復元に折衷はありえるのでしょうか。いろいろ案があると、可能性を考えてどれにしようかと復元は決めるものなのでしょうか。歴史の事実は選択肢で決めるものではありません。

これから、もし山田寺のような発掘調査などで、その当時の建物の構造がわかる資料が出てきたときはどうするのでしょう。そのとき、意匠の変更工事でもするのでしょうか。おそらく、この朱雀門を作った担当者は、その当時は最高のレベルで復元したものだ、と強弁することでしょう。その時点で、きっとこの朱雀門はウソくさくなります。実は、奈文研がその当時の最高の技術レベルで、復元の方策を考えたことが問題ではないのです。これを“復元工事”と言ってしまったことが問題だったのです。

さて、この復元案から、実際に復元工事をしたとき、どのように変わっていったのでしょうか。これは、次回に。

2008年4月17日 (木)

斑鳩三塔

Photo 左は法隆寺金堂の2層部分の隅の部分です。控柱の龍を撮ったつもりだったのですが、欄干の部分の塗装がどうもウソくさい色になっています。わざわざ古色にしているといえばそうですが、その部分だけ新品に作り直しているようにも見えます。

ところが、法輪寺三重塔、法起寺三重塔と見ていくと、その二塔もまた、欄干の部分が同じような色に塗られているのです。

 

 

Photo_6 Photo_7

左が法輪寺、右が法起寺です。法輪寺は再建なので、それほどではないのですが、法起寺は、法隆寺と全く同じ塗装です。

これは一体どういうことなのかわかりません。とくに、法隆寺は金堂・五重塔とも同じようにしていますが、中門はこんな塗装をしていません。他の部材には鳥のフンで白く汚れているままなのに、何故欄干だけ塗装をしたのでしょう。まして、朱ではなく、古色という中途半端な色にしたのでしょう。

全く以てわかりません。誰かその経緯をご存知ならば教えてください。

2008年4月15日 (火)

玉虫厨子

 法隆寺の百済観音堂に今回、はじめて入ると、百済観音だけではなく、東西に宝殿があり、そこに、仏像等の展示がありました。いままでの、大宝蔵殿だけではなく、それ以上の展示スペースが増えたことになり、よろこばしいことです。いままでと、展示の場所が異なってしまったので、ちょっととまどいましたが。さて、大宝蔵殿の出口にちかい部屋で、二つの模造の玉虫厨子が展示されていました。マスコミ等で発表していた、あの模造の玉虫厨子でした。

これは、高山の造園土木業(他にも、美術館などを経営している)「(株)飛騨庭石」の社長だった故中田金太氏の寄贈によるものです。その制作過程は映画にもなっているそうで、かなりマスコミ受けのようにも見えますが、その実物を見ると、全体的に黒を基調としているので、仏像の極彩色の模造のように、派手さ加減はなく、しっとりとおちついた色調になっている印象でした。確かに、漆工技術の継承のためとはいえ、この二つの玉虫厨子は、復原品といったらいいのか、模造品といったらいいのか、単なる創作品なのか、そのコンセプトがよくわかりません。一基は実物の復原模造のようにも見えますが、いわゆる密陀絵の部分はいまだに、その技法が不明のはずです。その部分はどうして漆絵にしたのかの説明がありません。もう一基は、かなり創作に近い作品のようです。

いずれにしても、前から言っていることですが、復原模造ならば、どこをどのように復原したのかの説明がなければ、模造品とは言えません。もっとはっきり言えば、単なる、玉虫厨子に似せた創作品としか見ることはできません。本物が制作された当初がこうだったという保証も検証された論拠もないのですから。

Photo それでも、現代の工芸品としては、一級品としての価値はあるとおもいます。

左写真は『日本精華』第1輯に掲載されている写真です。発行は明治41年4月25日。撮影は工藤利三郎です。今回急遽、奈良市写真美術館へ行ったのは、「写真師 工藤利三郎展」をやっているのを奈良博で知ったからです。展覧会にあった写真はもちろんこの玉虫厨子もありましたが、目新しいものがなく、図録もないとのことで、ちょっとがっかりしました。

2008年4月13日 (日)

奈良旅行

今回は以下の行程で奈良の旅をしてきました。

  • 4月12日 10時 法隆寺
  • 西円堂→西院→上御堂→百済観音堂→大宝蔵殿→
  • 東院→中宮寺→法輪寺→法起寺→慈光院→
  • 奈良博→写真美術館→アカダマ→古本屋
  • 4月13日 7時30分 宿出発
  • 春日奧山→秋篠寺→平城宮跡資料館→
  • 第一次大極殿建築正殿復原工事一般公開施設→
  • 平城宮遺構展示館→宮内省復原建物→
  • 北山十八間戸→般若寺→京博

といった行程でした。とにかく今回は歩きましたが、大変内容の濃い旅行でした。

Photo

 まずは、法隆寺上御堂です。上御堂は毎年、11月1日から3日しか開いていない建物ですが、今回は、金堂の基壇修理のため、金堂の釈迦三尊、薬師如来がこの上御堂に安置されて、さらに公開されています。ちょうど、上御堂の釈迦如来の前に、金堂の釈迦三尊が置かれ、その横に薬師如来が置かれていますので、外光が充分に入って、実によく見えました。釈迦三尊の光背の尖端が曲がっている状況、右脇侍の鍍金の残り具合、など、やはり写真とは違って、立体を把握できるのは、本物以外にありません。それよりも、私は、30数年ぶりに、上御堂の釈迦三尊を拝することができ、堂の前の一番よく見えるところを占領して、3~40分うなっていました。けげんそうな見張の人に聞くと、金堂の修理が終わるまで、12月中旬まで、このように公開するそうです。また、もう一回行けるのを楽しみにしておきましょう。

Photo_3 もうひとつ今回見たかったのは、平城宮の大極殿工事がどの程度進んでいるのかを知りたかったのです。奈文研はこの工事に実に自信をもっているようで、工事状況をすべてにわたって公開しています。今回は見られなかったのですが。木材の加工工場も、平日ならば、公開していますし、現場の目の前に資料館を作って、工事の状況を写真で見せています。詳細はまた、ゆっくりとお話することとし、簡単な報告です。夢翔庵さん、こんなんでいいですか。

2008年4月10日 (木)

復原、復元、修理

Photo  今、奈良の平城宮跡で、大極殿の復元工事が進行中です。平城京遷都1300年に向けて進んでいるようです。覆い屋に囲まれているので、どの位できているのかがわかりませんが。大極殿が完成すると、近鉄奈良線で、平城宮を走っている車窓から朱雀門と大極殿が左右に見られ、何か不思議な世界に電車が突っ込んでいるような感じにさせてくれるのではないかとおもいます。

さて、朱雀門も大極殿も「復元」工事といわれています。鈴木博之氏によると、「復元」とは、失われて消えてしまったものを旧に復することをいい、「復原」とははじめの姿が改造されたり、変化してしまった現状をもとのすがたに戻すことをいう、というのが一般的な定義だそうです。しかし、山岸常人氏が『建築史学』23で「文化財「復原」無用論」という論文で展開している論では、「復原」には根拠がない場合があり、周辺の類例をもとに<整備>するのは、当初形態を正しく示すものではない。学問的に判明しないものは判らないとすべきである。といっています。これは、最近の復元の事例を念頭にいれての発言だろうとおもいます。最近の復元は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里のように、発掘調査から、建物が作られてしまうことに、危機感をいだいたのだろうとおもいます。この問題は後ほど、具体例として、朱雀門の復元過程の検証をしようとおもいます。

この問題は建築史では、活発に議論が行われていますが、彫刻、絵画、工芸においても、同様な問題があるのですが、どうも、議論として遡上にあがらないようです。そのために、例えば、彫刻でも、修理と称して、現状では、失われていた手が復元されたり、根拠もないのに、板光背が作られたり、といった復原修理が堂々とおこなわれています。それが合理的(学問的といったらいいのか、その時代の様式に沿ったというのか)な根拠にもとづいてという論拠をもちだしたとしても、それが、確実に検証できるものでない限り、それは、その部分の「創作」というべきあり、復原ではないのです。そこのところを、修理者は明確に語っていないのが、非常に残念です。修理者はこの部分は、創作です。あるは、或る根拠によって推定しました。と説明しなければなりません。そのことがいままで、非常にあいまいにされてきました。これは、修理者が創作者でもあることが多いことによるとおもいます。創作者ならば、その作品がすべてを語るのだから、極端にいえば、コトバはいりません。しかし、修理者は創作者ではありませんので、どこをどのように現状から変えたのかを説明しなければなりません。つまり情報の公開が必要なのです。この問題も、大きな問題でひとことでは語れませんので、またの機会にじっくりとお話しようとおもいます。

Photo_2 さて、もうひとつ気になること、大極殿ができると、復元した朱雀門をくぐって大極殿に向かって歩いていきたいのが普通の感覚です。でもその途中に、近鉄の線路を渡らなければならないのです。突然に現代の風景に逆戻りするのです。許せますか? 近鉄の役員をしている先輩に何とかしてと訴えたいのですが、今度のOB会に来てくれないかなあ。

2008年4月 8日 (火)

北京の55日

 義和団の乱を扱った映画に「北京の55日」があります。1963年上映ですから、小生が中学3年生のときです。主演は、先日亡くなったチャールトン・ヘストン。もちろん歴史スペクタル映画でした。義和団は、キリスト教徒と、外国人を追放しようとして蜂起した乱で、西太后は、それを利用しようとしたのでした。そして、外国人居留地を義和団が攻撃し、55日に渡る籠城の戦いが始まりました。日本を含む11ヶ国の外交官は一致団結して耐え、ついには日本を含む8ヶ国の軍隊の援軍が到着し、乱は平定され、西太后は西安へと落ちのびていった、というストーリーです。

もちろん、歴史スペクタルですから、一応歴史に則ってはいますが、かなりの脚色がはいっています。まず、籠城中で、11ヶ国の外交官を束ねて、中国に対抗したのは、アメリカ人のチャールトン・ヘストンでも、ディヴィット・ニーヴンでもありませんでした。日本の柴中佐(伊丹一三)(その当時はたしか十三ではなく、一三でした。)だったのです。映画では、単なる脇役でした。軍隊を数多く出したのは日本軍でした。その後、柴中佐は、欧米から勲章をもらっています。また、映画の端々に中国人蔑視の光景が見受けられました。いってみれば、文明と野蛮の対決といった単純化した映画でしたので、あまり評判の割には、評価は高くありませんでした。主役があのヘストンですから。

もっとも、1963年といえば、中国は毛沢東万歳の頃で、国交のないアメリカが、現地でロケをすることもできようはずはありません。その点「ラストエンペラー」は実際、紫禁城でロケをしていますから、全然、迫力が違うのはいたしかたありません。でも西太后は、実際の写真とそっくりな人をキャストとしていました。

実際の歴史では、義和団の乱で、日本を含む西欧列国は、賠償金をとり、ますます、清国は疲弊していきました。現に、義和団の乱鎮圧後、連合軍による美術品の略奪がはじまり、中国の美術品が海外に流れ、とくに、日本の山中商会、龍泉堂などが暗躍して、戦前の大倉集古館はそのころ蒐集した美術品であふれていました。

坊主頭で、詰め襟をきて、銀座のロードショー専門の映画館で、見たこの映画は、私にとって衝撃的でした。ロシア公爵未亡人の役ででていた、エヴァ・ガードナーです。白い胸の開いたドレスを着て画面にでて来たときは、唯々唖然としました。こんな美人がいるなんて。しかも、胸の谷間に香水をさらりと塗っている仕草は、もうたまりませんでした。おもわず、その胸の谷間に引き込まれそうでした。下町のハナタレ小僧が見るもんじゃないものを見たという衝撃です。これが、この後の小生の人生に少なからず影響を与えたのかもしれません。

映画のパンフレットを買ったはずなのですが、それをお見せしようとおもいましたが、見つかりません。もっとも、45年前の話だもの。リンクで勘弁してください。

そんなわけで、今回は、挿図ナシになりました。

2008年4月 6日 (日)

薬師寺月光菩薩(承前)

  • Photo あまりネタバラシはしたくないのですが、夢翔庵さんのご要望に応えて、お見せいたします。松山鉄夫著『日本古代金銅仏の研究』の写真を掲載します。ちなみに、写真の掲載許可をとっていないので、クレームがあり次第消去します。

この穴は笄がわりに鋳造時に骨としていれた鉄心の痕跡です。一般には、鋳造後に抜くものなのでしょうが、中子土が堅く焼きしまっていたために、そのまま残したようです。当初は、おそらく蓋をしていたのでしょう。

聖観音像の頭部も、穴はありませんが、型持の跡があります。おそらく鉄心が残っているものとおもわれます。

この鉄心は、頭部を切り離すときに切断したと言いましたが、それを、修理時に取り外し、中子土も除去したので、ボルト固定ができたのです。

西村秀雄氏論文によると、接着は順調にいったようで、破断面のひずみもなくもとのように復元できたようです。西村氏は、もし首が前かがみになったら、批判をうけるだろうと言っています。接着剤とボルト固定のむずかしさを考慮しての言動だろうとおもいます。

Photo_2 ついでに、この仏像はどのくらいの重量があると思いますか。

日光菩薩像 2.3屯

同台座 0.995屯

月光菩薩像 1.96屯

同台座 0.865屯

だそうです。

これは、昭和31年に薬師三尊像の修理時に移動したとき計測したらしい。日光菩薩像の方が重いのは、中子土を除去していない分なのかは、わかりません。

2008年4月 4日 (金)

薬師寺月光菩薩

Photo_9 薬師寺月光菩薩像首切り事件というのがあったのをご存知でしたか。昭和27年7月奈良県吉野地方で地震があり、その時、月光菩薩の首に亀裂がはいり、文化財保護委員会で修理をすることになったのですが、応急処置として、首を切り離してしまったのです。それを芸大の丸山不忘教授が首を切り離さなくても修理はできるではないか、とかみついたことが発端のようです。とくに、専門委員にも相談せずに独断で切り離したことに非難が集中したようです。(『史跡と美術』233) 実際、中の鉄芯は破断していなかったのに、それを切断してまで、切り離したのが問題となったのでした。

 

 

Photo_10結局、、切断面は 樹脂(アラルダイト)で接着し、胴体のほうに、ボルトつきのステンレスプレートを差し込み、首と胴体をつなげて、頭頂の穴からボルトを締めて固定しました。(西村秀雄「薬師寺月光菩薩の修理について」『美術史』13)

今、写真を見ると、月光菩薩の首の部分に切断のあとが解ります。今度、現物を見て確認しようとおもいます。

このときの調査で、判ったことは、ちょうど首の部分は鋳造の時に失敗し、修理で、鋳掛けをしたのが、完全に接着していなかったと考えられるようです。

これだけの鋳造物が、なんのトラブルもなく製作できることのほうが、あり得ないことなのでしょうが、それよりも、びっくりしたのは、頭の上に穴があいているなんて、知らなかった。もっとも、新薬師寺の本尊でも、頭の上に穴があいていたし、普段見えないところだからあっても当然か。

2008年4月 2日 (水)

紫禁城写真展

Photo_13Photo_14  恵比寿に行ったついでに、ガーデンプレイスにある東京写真美術館へ行ってきました。初期の『國華』の写真等を担当した、小川一眞が伊東忠太とともに、明治34年に撮った写真の展覧会です。明治34年(1901)といえば、義和団事件の翌年です。つまりこの写真を撮るほんの一年前までは、西太后がこの紫禁城で生活していたのです。紫禁城は明の永楽帝が造営してから、営々と使われてきた宮城です。

その写真を見るとモノクロなのに、その豪華さ壮大さがひしひしと伝わってきます。中国のスケールの大きさに唯々感動するばかりです。ひととおり見て、これは忘れないようにとカタログでも買って、自宅で改めて見てみると、これがなんと、現物よりもずっと鮮明な写真なのです。きっとオリジナルプリントをしているためでしょうか。それとも、カタログは実際の展示よりももっと近づいてみられるからなのでしょうか。ウーン、現物よりも写真か~、もっとも、現物が写真だから、写真が現物なのだ。  よくわからなくなってしまった。

Photo_15  東京都の美術館では古写真の展覧会がこの他に、庭園美術館でもありました。「建築の記憶」という展覧会で、明治から現代までの建築の写真を展示していました。会期の終わり近くだったので、残念ながら、カタログが売り切れでした。増刷の予定はないのかと聞いたら、あっさりありませんですと。民間活力がないとこうなのですかねえ。

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ