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2008年4月29日 (火)

タウトとレーモンド

Photo_4 Photo_6 先日、くしくも、戦前の同時代に日本に滞在していた、二人の外国人建築家の住居を見ることになりました。そのことに何か、関係があるのだろうか、という興味が生まれました。ブルーノ・タウトが2年3ヶ月暮らした、洗心亭を見て、ドイツで、それなりの実績と地位を築いた人の住居とは思えなかったのは、最初の印象でしたが、やはり、タウトは『日本美の再発見』のインパクトがあまりにも強すぎたため、その実像が隠されてしまったようにも思えます。タウトは、ナチスからのがれて日本にたどりついた人で、どうしても日本に住みたいと願って、来日したわけではない、というのが前提にあったようにも思えます。また、自分の仕事である、建築の仕事が、日本でできないことへの、いらだちもあったように思います。タウトの日本での、心情は決して、安定した状態ではなかったはずで、日本各地の旅行も、日本人の友人による、献身的なもてなしによることが大きいと思います。タウトは何とかこれに答えようとしたのではないかとおもいます。

その頃、A・レーモンドは、東京で建築事務所を作り、仕事も順調に進んでいました。タウトが洗心亭に居を決めた、1934年の一年前には、軽井沢に『夏の家』を建て、避暑を兼ねた仕事場にしていました。高崎から軽井沢まで、いまでは車で1時間の距離です。しかし、レーモンドはその頃は、タウトほど、有名ではなかったようです。年もタウトのほうが8才年上ですし、タウトはドイツでは大学教授まで勤めた人ですが、レーモンドは単に、ライトの事務所で働いていたという実績だけです。

タウトは1934年にレーモンドと会っています。しかも、レーモンドの葉山の別荘で会っていたようです。これは、共通の知人の井上房一郎によるものかは、わかりませんが、タウトはどう思ったでしょう。かたや、日本で仕事を順調にこなすチェコ生れの外国人、かたや、ドイツで、12000戸の住宅を手がけた元大学教授のドイツ人が、今は、工芸デザインのアルバイト程度の仕事、しかも収入は本業の建築ではなく、執筆活動によるもの。何かそのギャップが運命のいたづらを感じます。

Photo_3 タウトのことを調べたくて、本屋に行くと、左の本が目にとまりました。中を開けると、なんと平木收氏が執筆していました。タウトが撮った写真についての解説です。タウトの撮った写真を、平木氏の言うようにパラパラとめくっていくと、今の小生が写真を撮っている感覚と何か共通しているように思えるのです。今、小生はデジカメをもって、あるいは携帯電話を常に持って、ちょっとしたこと、あるいは、旅行にいけば、常にすぐに、写真がとれる状態にしているのです(このブログのためです。正直シンドイ)。手に持っていなくても、すぐに取り出せる解放したカバンにいれてあります。タウトもそんな状態で撮っているような写真です。景色や建物でも、そこに人が写りこんでも、気にしない、ありのままを撮っています。タウトの好奇心の貪欲さが現れているように思えます。

また、タウトが撮った写真ではありませんが、洗心亭での写真の何枚かを見ると、外国人が日本家屋で生活することの一端が垣間見られて、ほっとする気分になりました。

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建築」カテゴリの記事

コメント

また、書き込みをしてしまいました。
2004年6月10日~6月18日早稲田大学総合学術情報センター
2階展示室(図書館内)において、
岩波書店所蔵ブルーノタウト資料より「タフトが見たもうひとつの
ニッポン」という展示会がありました。その時展示された、タウトの取った写真を本にしたのが、『タウトが撮ったニッポン」です。
写真機も展示してありました。ドイツ製でしたが、小型の普通のカメラでした。「タウトの日記」「ニホン」その他の原稿、手帳等沢山自筆を含めた資料がありましたが、日記などは、エリカさんに口述筆記させておりました。タウトさんは、大変筆まめで、手帳も細かい字で、びっしりと書き込んであります。写真も千枚近くあるそうです。
なぜ岩波にタウトさんの資料があるかというと、タウトの本の翻訳を、もっぱら手がけたのは、篠田英雄さんでしたが、タウトがトルコで亡くなった後、エリカさんは再来日し、その際、タウトの資料を篠田さんに託したのです。そうして篠田さんが生前それをそのまま、
「日記」、『日本美の再発見」「画帖 桂離宮」を出版して縁の深かった岩波書店に寄託したのです。
その資料のうち、ある部分はその後岩波から高崎の創価学園大学に寄託され、記念室で展示されていましたが、現在は閉鎖されております。
タウトがニホンに来た直接的な理由は、日本インターナショナル建築会から招待されていたからで、タウトを招待したのに力があったのは、日本インターナショナル建築会の設立者の一人、上野伊三郎さんです。上野伊三郎さんは、早稲田大学の建築出身で、ドイツに渡り、ヨセフ、ホフマンの建築事務所で働き、昭和10年ごろには、帰国しておりました。タウトさんが来日後も通訳を兼ねて、ずっとお世話をしておりました。一時、高崎の工芸試験所の所長をしておりました。戦後は、ドイツで一緒になった奥さん(リチさんー工芸デザイナー)とともに京都工芸繊維大学の教授でした。

タウトは、日本では本職の建築の設計の仕事はほとんどなく、工芸品のデザインを手がけておりました。その工芸品を販売していたのは、銀座の瀧山町ビル「現存」の一角にあった「ミラテス」という店でした。「ミラテス」では、タウトの作品以外にも布なども取り扱っておりました。丹波の生地を高崎で染めさせましたが、そのデザインを担当したのが、レイモンドの奥さんノミエさんや、上野リチさんです。そのことをタウトは大変嫌っていたそうです。ただ、「ミラテス」でもっぱら売れたのは生地だったそうです。銀座のバーの女性がお客でした。タウトさんのものは、高すぎてあまり売れませんでした。これらの事情は、ミラテスの責任者だった水原徳言さんからよく聞きました。
建築関係の歴史は、深入りすると切りの無い話になってしまいそうです。

タウトについての補足をしていただき、ありがとうございます。ブログの都合上、はしょって書いてしまいがちですので、初めて読む方にとって、わかりづらいかもしれません。ひとつ訂正ですが、資料を保管しているのは、創造学園大学ではないですか。そこにブルーノ・タウト記念館があるということですが、それが閉鎖になったのでしょうか。
『タウトが撮ったニッポン』の中の酒井道夫氏の文章で、注目した部分がありました。それは、安藤更生著『銀座細見』は、中公文庫から昭和52年に刊行されたが、この本の初版は昭和6年2月に春陽堂から刊行され、当初は20余枚の「尖端的」な写真が掲載されていたのが、文庫版ではその一切が削除されてしまった。と書いてあります。私は文庫本しか持っていませんので、初版本にどんな写真が掲載されていたのかわかりません。ひょっとして、銀座のNO.1の女給の写真でも載っていたのでしょうか。

またまたTVネタで恐縮ですが(なにしろTV人間なものですから)・・・。
先輩が旅された上州をこの前の日曜の『遠くへ行きたい』でやってたんですよ。
http://www.to-ku.com/midokoro/thisweek.htm
洗心亭のこともタウトのことにも触れていました。
タイミングが奇遇ですね。
そういう小生はTV東京の旅番組で最近放映された館林に行っちゃいましたが。

ブルーノ・タウトの記述に続き、高山奇人様のコメントを興味深く拝見させていただきました。
その中で一点、上野伊三郎・リチ夫妻が揃って教鞭を執ったのは京都市立美術専門学校で京都工芸繊維大学ではありません。

上野伊三郎 1949・6・10 教授就任
上野リチ 1949・9 講師就任
1950 京都市立美術大学となる
上野リチ 1960・8・1 教授就任

1963 定年制施行により夫妻は71才と70才で退職しています。
京都市立美術大学は現在の京都市立芸術大学の前身です。

訂正いただきましたように、上野夫妻は現京都市立芸術大学教授
でした。いい加減は知識で申し訳ございません。
遅ればせながらお詫び申し上げます。

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