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2008年4月20日 (日)

平城宮朱雀門

Photo  平城宮朱雀門は平成10年の復元工事が完了し、今の建物になりました。朱雀門跡の発掘調査は昭和39年ですから、およそ35年に渡って、調査から、復元建物工事の検討を経て、建てられたことになります。復元に関しての問題は、『平城宮朱雀門の復原的研究』奈文研学報53で、詳細に渡って記載されていますので、それに沿ってお話します。

まず、復元にあたって、発掘調査から判明したことをいくつかあげてみます。

  • 建物の規模は桁行5間、梁間2間であること。
  • 柱は痕跡から、礎石建ちであること。
  • 屋根は瓦葺であること。

これぐらいでしょう。これでは、復元ができるはずはなく、関連資料から、類推したのです。

  • 現存する建物ー法隆寺中門、金堂、薬師寺東塔、東大寺転害門など。
  • 『伴大納言絵詞』の平安宮朱雀門の絵など。

これだけの資料でどういう復元案を作成したかというと、

  • 門は重層で、屋根は入母屋造。大棟端には鴟尾をのせる。
  • 柱の太さは転害門よりやや太く、胴張りをつけた。
  • 斗栱は薬師寺東塔とおなじ三手先とした。
  • 軒の出は、下層17尺、上層16尺を採用した。(実際は15尺に変更した)
  • 上層高欄には三ツ斗、人形割束をを採用した。(実際は割付を変更した)

Photo_2 正直なところ、これだけの資料でよく、建物という形になったなあ、というのが報告書を読んでの印象です。

まず、重層の門である根拠があいまいです。単層ではない根拠が見あたりません。

上層高欄に何故、人形割束がついているのでしょう。私がまず、この朱雀門を見て、違和感を憶えたのは、この人形割束です。これは法隆寺の金堂、中門にしか使われていません。薬師寺東塔にはないのです。それでいながら、斗栱は雲斗栱ではなく、薬師寺東塔に使われている三手先にしているのです。つまり、そのころの建物の折衷案なのです。

いったい、復元に折衷はありえるのでしょうか。いろいろ案があると、可能性を考えてどれにしようかと復元は決めるものなのでしょうか。歴史の事実は選択肢で決めるものではありません。

これから、もし山田寺のような発掘調査などで、その当時の建物の構造がわかる資料が出てきたときはどうするのでしょう。そのとき、意匠の変更工事でもするのでしょうか。おそらく、この朱雀門を作った担当者は、その当時は最高のレベルで復元したものだ、と強弁することでしょう。その時点で、きっとこの朱雀門はウソくさくなります。実は、奈文研がその当時の最高の技術レベルで、復元の方策を考えたことが問題ではないのです。これを“復元工事”と言ってしまったことが問題だったのです。

さて、この復元案から、実際に復元工事をしたとき、どのように変わっていったのでしょうか。これは、次回に。

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