« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月27日 (火)

法隆寺上御堂釈迦三尊像

Photo_2Photo_4

 

 

 ついに、この仏像について語らなければならなくなった。この仏像についての論考はいくつかあるが、いまだに、根拠のない漠然とした語られ方をしているのを見ると、非常に心苦しく思うのである。
実は、私は昭和50年、早稲田大学大学院文学研究科美術史専攻修士過程を終了している。そのときの修士論文は『十世紀彫刻の一考察ー法隆寺上堂釈迦三尊像についてー』であった。
この論文は、まだ論証として不完全なところがあり、私自身、自信がもてるものではなかったため、この論文は活字にならなかった。いや、もっと完全なものとして書き直そうと思いながら、30数年経ってしまったと言うべきであろう。
本来ならば、論文をまた書き直して世に問うのが筋なのであろうが、それには、あまりにも時間を要することになるので、私の論文の要旨をとりあえず述べることによって、この仏像の解明に資することがあればと思って、あえて恥をさらすこととした。

論文要旨

講堂の歴史
・法隆寺講堂は発掘調査により、現位置に平安時代に創建している。(『発掘調査報告書』)
・延長三年(925) 講堂及び回廊の北側を焼失している。(『別当記』『目録抄裏書』『法頭略記』)
・正暦元年(990) 講堂を再建。薬師三尊の造立はその頃。(『別当記』)

上御堂の歴史
・『古今目録抄』に講堂が焼失した後、観理僧都が延長年中に普明寺堂を移建したとあるのは、上御堂のことである。
・『法隆寺政所並法頭略記』観理僧都の項で、「大講堂再建立了」とあるのは、上御堂のことである。
・『目録抄』に、「北に引去けて造立した。」とあるのは、現講堂の位置から北の位置(現上御堂)に造立したと解釈するべき。
・上御堂は、仮の講堂として、普明寺堂を移建した。その時、釈迦三尊が造立された可能性が高い。
・永祚元年(989) 大風によって顛倒した。そのとき、釈迦三尊は再建なった講堂に移座した。(『別当記』『目録抄』『法頭略記』)
・文保二年(1318) 上棟。文保四年(1324) 本尊を講堂から移座。(『嘉元記』『別当記』)

平安時代の法隆寺別当
・『別当記』『法頭略記』によると、最初の法隆寺別当は観理僧都とおもわれる。
・別当の仕事として、伽藍荘厳の能治廉節がもとめられている。(『太政官符』)
・観理僧都は、聖宝の孫弟子にあたり、法相・三論を学び、その後、醍醐寺座主、東大寺別当になっている。
・聖宝は、東大寺に東南院を起こしたが、その法流は、造寺造仏を盛んにおこなっている。
・普明寺は京都深草にあり、聖宝創建の寺である。

平安時代の法隆寺の行事
・「安居講」は法隆寺と四天王寺で平安時代に行われていた。(『三代格』)
・平安時代に他の寺院では、安居講は金堂または講堂でおこなわれていた。(『東大寺要録』『東宝記』)
・「吉祥悔過」は法隆寺では講堂で行われていたが、承暦三年(1079)より金堂で行うこととした。(『金堂日記』)
・金堂は別当の遷替以外は開かれなかった。(『金堂日記』)
・上御堂では、「当行」という行事がおこなわれていた。東大寺三月堂でもおこなわれていた行事で、聖宝ゆかりの行事らしい。
・以上のように延長三年講堂焼失以後、法隆寺西院では、重要な行事を行う建物を必要とする状態であった。

結論
・上御堂は、延長三年講堂焼失後、仮の講堂として普明寺堂を移建した。
・釈迦三尊像を延長年中(925~930)に造立した。
・製作は、聖宝を始めとする東南院系の仏師集団工房によるものとおもわれる。

この論文は太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」『佛教藝術』84 昭和47年3月10日発行 によることが多い。この論文では、結論として上御堂は聖宝による移建とした。しかし、この論文は史料批判、論証に難があり、その後、単行本にまとめたとき(『社寺建築の研究』日本建築史論集Ⅱ 昭和61年9月18日刊)の付記では、自説の矛盾に気づき、聖宝説を撤回して、観理説に変更している。

太田論文は釈迦三尊像についての直接的な論考はない。私の論文も、後半は彫刻の様式論をのべてはいるが、今回はその部分は除外した。とりあえず、昔の論文原稿を引っ張りだして読んでみたものの、どうしたらいいのかわからなかった。しかし、簡単な解説としてでも、法隆寺上御堂の釈迦三尊について書かれているものを見ると、いまだに10世紀後半頃といってすまされてしまうと、何ともやりきれない感情が湧くのである。いやしくもこの釈迦三尊像は『国宝』の指定を受けている仏像なのある。もっと、注目されてもいいのではないかというのが、せめてもの私の願いである。

2008年5月25日 (日)

目のない仏像

Photo  芸術新潮の1991年1月号【美術史の革命】出現!謎の仏像 という雑誌を読んで、衝撃が走りました。目を彫っていない仏像がある。しかも未完成像ではなく、あきらかに完成像なのに。

こんなことは、彫刻史を研究している者ならば、考えられないことでした。仏像は開眼供養という儀式を経て、仏像となるものという固定観念があって、目を彫っていなければ、その仏像は未完成とするべきで、まだ、仏心が注入されていないただの木彫品である。というのが、従来の見解でした。従って、そういう仏像はなんらかの条件で、つまり未完成という伝承が途切れて、崇拝されることに至った。と暗黙のうちに了解していたような気がします。

井上正氏は、それまでの論文で、「霊木化現」という概念をもちだして、従来、平安前期といわれていた仏像を、行基伝説とからめて、時代を古くしようとしていました。しかし、この論は、確実な史料があるわけではなく、伝承をより重視したことによって、論じられており、今ひとつ説得力に欠けるところがありました。

ところが、この目のない仏像の出現です。井上正氏が、化現がまさに始まろうといている姿を現しているものだ、といっていることに実に説得力を与えているようにおもえます。さらに、化現のはじまったばかりの目の表現をしている仏像もあるというのです。

井上正氏が、『日本美術工芸』の連載で、「霊木化現」を唱えだしたころは、単なる仮説としてのおもしろさだったのが、現実味を帯びてくるようでした。

そんなこんなで、目のない仏像が気になって、ずっとそういう仏像を気にかけて見ていたところ、先日の京都、大将軍八神社で、数体の神像を見ることになりました。

私が現場で見たところ、3体ほど、ありましたが、そのどれも、ノミ跡がある神像で、見ようによっては、未完成像と見ることもできます。あとで、『大将軍神像と社史』という本に調査報告があり、写真が載っていましたので、見てみると、武装神で6体、衣冠束帯像で2体、あるようです。この神像について、田中恵氏が論文に書いていますが、目を彫っていないことについての論考がありません、調査概要も表形式になっていますが、目についての項目がありません。

目を彫っていない仏像は、まだまだ例がでてくるとおもいます。というよりも、調査では、そのことにあまり注目していないのかな、と思います。しかし、大将軍八神社の神像のように、眼球を丸く彫りだしていながら、目のまわりの線を彫っていないのは、あきらかに目について彫りを完成させていないと見るべきでしょう。それが一体どういう思想によってそうしたのか、それを、未完成像としたとしても、未完成像が何故、信仰の対象となるのかの、説明をつけなければならないでしょう。

2008年5月22日 (木)

掲載予定文献から

Photo  いわゆる科研費の論文集です。というよりも、調査報告書です。めったに人目にふれません。京都鳥羽の安楽寿院の総合調査報告書です。仏像の悉皆調査報告が京大の根立研介氏によって書かれています。安楽寿院といえば、胸に卍の文様がある平安後期の阿弥陀如来坐像が有名です。また、奈良国立博物館に寄託されている、10世紀の宝冠阿弥陀如来坐像も有名です。それ以外、というと、京都国立博物館の庭にある阿弥陀三尊の石仏があります。これは知らないでしょう。報告書によると、寺には、ほかに2基の三尊石仏があり、合計3基の三尊石仏が存在することになります。その他、平安末期の不動明王などがありますが、概ね、それ以外は江戸期の仏像のようです。

 

 

 

Photo_2 京都は、京都国立博物館でも、毎年のように寺院1箇所を決めて、悉皆調査をしているようです。(ここ2~3年はしていないようです)。また、以前紹介したように、大学で、寺院ごとの悉皆調査をしているようです。関東地方でやっているような、地域ごとの悉皆調査よりも、寺院ごとの調査のほうが、効率がいいのでしょう。しかし、京都は、まだまだ、未調査寺院がやまのようにあるはずです。すこしでも、さまざまな、機関で、調査が進むことを期待しています。

ところで、この、科研費の報告書は、非常にくせものです。国会図書館は、この本をいま、すべて、関西館に集約しています。従って、その題名がわからなければ、東京で、見られません。インターネットで調べるにしても、例えば、この研究代表者の上島享氏は美術史学者ではありませんので、美術の分野に入っていません。なかなか見つけられないでしょう。

しかも、たとえ、この報告書に彫刻の報告があるとわかっていても、国会図書館では、論文の半分しかコピーできません。論文の半分を読んで、あとどうするのでしょう。結局、この論文は誰も読んでいないということです。それで、科研費をつかって公開しました。税金をこのように有効に使いました。という理由になっているのです。

報告書に執筆している人は、これでいいのでしょうか。お金をもらって、一応その成果を公開したのだからそれでいいじゃないかということなのですか。

これって、何のための公開ですか。少ない金額で、活字にして残すのですから、できるだけ多くの人に読んでもらう環境をつくるのが、執筆者のやることではないでしょうか。一部では、HPで、その成果をすべて公開している研究者もいます。これも、ひとつの方法です。その他にも、文化庁は『自由利用マーク』という制度を公開しています。これは、このマークを本につければ、誰でもコピー可能になるというものです。著作権の有効利用として、画期的なのですが、一度もそのマークがついている本を見たことがありません。明らかに、文化庁の怠慢です。制度を普及させる気がまるでないのです。

もうひとつ、科研費の報告書を読んでもらう方法があります。目次の論文執筆者の署名をしないことです。署名をしたいのなら、論文の最後にカッコつきで署名すればいいのです。国会図書館のコピーを強権的に検査する人は、署名論文は半分以下でないとだめですが、署名がなければ本文の半分以内ならば、コピーOKにしなければならないのです。ですから、報告書の執筆者は署名論文にしないでください。そうすれば、きっとさまざまな人に読んでもらえるでしょう。

2008年5月19日 (月)

神輿の彫刻

Photo 先日、お見せした、町内の中神輿を、もう一度写真で見てみると、なかなかおもしろいことを発見しました。まず、屋根は入母屋造りで、前後に千鳥破風をつけている形だったということです。しかも、破風のうえに乗っているのは、獅子なのでしょうか。よくわかりません。

 

 

 

Photo_3Photo_5

台輪を見てみると、普通は神社の家紋か、巴紋をつけるのが普通ですが、この町内では大神輿も同様に動物の彫り物が施してあります。残念ながら、四辺全部の写真を撮り忘れてしまいました。手元にある中神輿のうちの2辺の写真を見てみると、ひとつは虎の親子のような図柄、もうひとつは、麒麟のような図柄です。どうも、虎の親子がひっかります。中国の礼記による四霊ならば、麒麟、鳳凰、霊亀、応龍 のはずです。四神ならば、朱雀、青龍、白虎、玄武 です。このどちらにも、合っていません。

Photo_6Photo_8

大神輿の写真を見ると、一辺しか写真に撮らなかったのですが、これは、亀のようです。玄武ならば、蛇がからまっていなければならないので、霊亀でしょうか。よくわかりません。

 

Photo_9 ちなみに、大神輿は後藤直光作となっています。町会の古老の話では、中神輿が一番古いという話でした。おそらく戦前の作かもしれません。作者も後藤直光かもしれません。

これは、後藤直光だけの装飾なのかもしれません。神田や他の神輿を見ても、台輪の四方に彫り物をしていません。

神輿はみな同じような様式をもって、大体デザインがきまっているものだと思っていましたが、よく見ると、それぞれの作者がその様式のなかで、オリジナリティを追求しているのが、だんだんとわかってきました。彫刻作品としても、たいへん奥深いものを感じました。これは、彫刻史として、充分に研究の対象となりうるものです。

それにしても、あの神輿の台輪の彫刻の4方の写真を撮り忘れたのは失敗だった。もう倉庫にはいってしまって、あと一年待たなければ見られないのですから。

2008年5月17日 (土)

台東区散策

Photo 今日は、午後から、ざっと台東区をひとめぐり。入谷から千束、今戸、花川戸、そして、浅草と。

まずは、ここから、地下鉄の電車を入れるところ。地下鉄唯一?の踏切があるところです。

 

 

Photo_2 小野照崎神社にある富士塚。都内には10数ヵ所あるといわれています。いはば、お手軽に富士登山をするというもの。今日は、お祭の日ですが、本社神輿は明日でないと、渡御しません。

そして、龍泉の一葉記念館を通って、吉原をすぎ、隅田川方面へ。

 

 

Photo_9 清川にある伊勢屋という天麩羅屋。ならんでいましたね。

 

 

 

 

Photo_3 橋場にある妙亀塚。鎌倉時代の板碑なのですが、両脇の五輪塔はどうも、追刻のような気がします。

 

 

 

Photo_4 今戸神社境内にある沖田総司終焉之地の石碑。裏には、慶應4年5月30日沒と彫ってあります。

そして、待乳山聖天をとおって、花川戸へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5 神輿製作の宮本卯之助商店。宮本重義作の名で、三社の神輿は、ここの製作。

 

 

 

 

Photo_6 三社の本社神輿。二之宮と三之宮の屋根の上は、鳳凰ではなく宝珠になっています。

 

 

 

 

Photo_7 観音様裏に集結した、各町内神輿。これから、神社でお払いを受けて、各町内にもどってゆきます。

あいも変わらず、本社神輿がでなくても三社は賑やかですね。今日は、町内渡御で、もりあがったけれど、でも明日はどうなるのかな。

 

 

Photo_8 これじゃね。

2008年5月14日 (水)

同潤会アパート

Photo  同潤会アパートは、稲荷町の上野下アパートの他に、台東区には、もうひとつ三ノ輪アパートがあります。しかし、こちらの三ノ輪アパートは、もう廃虚同然の状態です。人はもう住んでいないようです。外壁ははがれ、鉄筋がむきだしになり、すぐにでも、崩れそうな状態です。建て替えの計画がありそうですが、見ていると、なんとあわれな気持ちになります。建物の運命とはこういうものかな、と思います。そこまでして、醜態をさらさなければいけないのかな、とおもいます。

 

 

 

Photo_2  同じ同潤会でも、上野下のアパートは、三ノ輪よりも住戸がおおく、まだ住人がいるので、いくらかでも手入れをしながら使っているのかもしれません。それにしても、もう建物としては、寿命をとっくにすぎている状態です。

同潤会アパートで一番印象深いのは、やはり、表参道の青山アパートでしょう。いまは、安藤忠雄設計の表参道ヒルズという建物になっていますが、あの一帯は、上野下のような建物が木々の間に10数棟建っていました。ここをよく憶えているのは、小学校6年のとき、日曜日ごとに通って見ていたからです。その頃でも、そこだけちょっと、まわりの風景に似合わない古くさいアパートでした。その当時、進学教室へ行くのに、地下鉄銀座線の神宮前(いまの表参道)で降りて、表参道の坂をおりて歩いていきました。途中の同潤会アパートを横にみて歩いていくと、赤く塗った、外国人向けの骨董屋(国際バザーっていったかな?)があって、それをのぞきながら原宿の駅の近くにある社会事業大学へ歩いていきました。日曜日の朝なので、外国人が犬の散歩しているのに、出会うくらいでした。いまのように、外国ブランドのしゃれた店があるわけではなかったのですが、何か、日本のなかでも、外国にいるような雰囲気をもつしゃれた町並みだった記憶があります。

表参道はその通りでいくつかの建物をやりましたが、だんだんとしゃれていくようです。このおしゃれ加減に打ち止めはないのでしょうか。日本人の美的感覚のあくなき追求のどん欲ささに、敬服するばかりです。

ところで、高山奇人さんが、食べに行ったという稲荷町の蕎麦屋は「秋月庵」というのでしょうか。

Photo_3 ついでに、寄席発祥の地は下谷神社とご存知でしたでしょうか。福路小路さん。

寄席はねて上野の鍾の夜長哉  子規

2008年5月13日 (火)

これからの祭

下谷と神田明神の祭が先日終わって、これからの祭の日程をあげると、まずこの次の土日(17日・18日)には、三社さまと小野照崎神社の祭礼があります。三社祭はもうご存知のことと思いますが、今回は神輿はでません。再三の警告に従わず、神輿の上に乗ったために、神社側が渡御の中止に踏み切ったためです。この影響は、他の神社の神輿に少なからず影響を与えているようです。今までは、神輿をかつぐときに、少なからず小競り合いがあったものですが、今回の下谷や神田を見ていると、実に管理されたというか、整然として神輿をかついでいたのです。これは、町会の役員の努力によるものが大きいのは、事実ですが、かつぎ手も三社の二の舞はしたくないといった縛りがかかったように思えます。そういう管理された祭が本来の姿なのか、もっと盛り上がるのが祭なのかは、非常にむずかしいところです。

Photo 小野照崎神社は、下谷神社の氏子町内から北方、いわゆる入谷地区を氏子としています。富士塚もあり、名前のとおり小野篁を祭神としています。

 

 

 

 

 

Photo_2 5月24日・25日には、五條天神と湯島天神の祭があります。五條天神は、上野公園の寛永寺の鐘楼のあるそばにあります。となりは、韻松亭という豆腐料理の店があります。この韻松亭は、五條天神の森を庭がわりにした景色が見えるところで、食事ができます。五條天神は、南は黒門町から、上野公園にかけてが氏子となります。

いわゆる下谷という地域はこれらの神社の氏子の町内になります。戦前の台東区が下谷区と浅草区にわかれていたころの地域として、のこっているようです。ちなみに、私の業界の組合の支部も、下谷支部と浅草支部にわかれています。

下谷は、東は稲荷町までで、それから東は浅草の三社の氏子となります。また南は、旧二長町から浅草橋にかけて鳥越神社の氏子町内となります。ちなみに、鳥越神社は6月7日8日が祭礼です。これで、下町の祭は一段落となります。

高山奇人様、こんなんで、いいでしょうか。

2008年5月11日 (日)

下谷と神田の神輿

私の幼少時の氏神の下谷神社の祭がありました。小学生までは、よろこんで、神輿をかついでいましたが、その当時、中学生になると、お祭になにか古くさいというイメージを持ってしまって、それ以来、神輿をかつぐことはありません。

Photo 町会にある大中小のうちの中神輿は、他の町会にもない、白木造で千鳥破風の神輿です。今は、屋根が銅板葺きになっています。十数年前修理にだしたということですので、私がかついでいたころとは、金具の光具合も全然ちがいます。それにしても、下谷神社の本社御輿は私が、小さいころは、かつぎ手がいなくて、山車にして引っ張っていたのが、今では、地元からではなく、他地域からかつがせてと申し込みが多いそうです。それぞれの地域の事情によって、若い人が集まらなかったりと、いろいろ問題はあるものの、まだ、続いているというのは、まわりの景色が変わっても、考え方が変わっても、気質はかわらないのでは、とおもいます。私も神輿を見ていると、何か沸々とわき出る躍動を覚えます。昔から染みついていたものがでるのでしょうか。

Photo_2 そうこうして、本社神輿を見ていると、「おばけ神輿」と言われただけあって、その大きさには、今更ながら圧倒するものがありますが、美術的に見ても細部にわたって、江戸仕込の業が見受けられます。下谷神社の本社神輿は、行徳の後藤直光が大正15年に作ったものです。そういえば、もうひとつの神輿作りの雄である、浅子周慶が廃業したと聞きました。浅子周慶は以前は、仏像も作っていたという名の知れた彫刻師です。その系統が途絶えるのは残念です。浅子周慶の神輿は都内いたるところで見ることができます。仏像も江戸末期から作品が数多く残っているはずなのですが、調べる人がいません。都内の仏像の悉皆調査が済むとその作品の系統がわかるかもしれません。

Photo_3 下谷神社の本社神輿の行列には、天狗が同行します。そして、神輿の後には、白馬にまたがった神主が続きます。鳥越神社は、手古舞連という、昔は芸者が若衆の姿で神輿の前を練り歩くのですが、下谷は天狗のみ、その天狗はどうも、下ばかり向いていて迫力がないね。バイトの兄ちゃんがやってるのかな。

 

 

 

Photo_6 もうひとつ、はたと気がついたのは、今日は、神田明神もお祭だったのだ。それで、いそいで神田明神へ行くと、宮入が6時で、ちょうど準備中でした。

 

 

 

 

 

Photo_7正面前に陣取って、鳥居に入るところを見て、それから本殿前へ。最期の手打ちまで見届けてきました。神田明神の神輿は、下谷にくらべて新しく、平成12年、種谷吉雄氏作で、鳳凰が極彩色に塗られ、豪華さをだしています。大きさは、下谷と比べてまあまあかな。(これは、私が下谷の氏子なのでエコ贔屓があります。)

2008年5月 8日 (木)

京都行列店

京都を歩いていて、行列している店を2店発見しました。

Photo ひとつは、北野天満宮の前にある『とようけ茶屋』というお店です。豆腐料理の店だそうです。もともとは、豆腐屋さんだったのが、食事もというので作ったお店だそうです。メニューを見るとリーズナブルな値段に設定されているようです。

 

 

 

Photo_2 看板を見ると平成4年の創業で、新しいお店です。外観とは違って、インテリアはモダンな作りになっているようです。なぜか、看板の左右に風神雷神の絵が描かれています。

 

 

 

 

Photo_3 もうひとつは、平安神宮の横にあるお店『六盛茶庭』です。スフレ専門の店だそうです。この店の裏には、本店の京料理「六盛」があります。いはば、料亭が支店としてだしたのが、スフレのお店だった、ということのようです。カップル向きの店かな。

こうみると、京都も以外と、手軽に食べるところがあるのかなと、おもいます。奈良も食事の店がいろいろなところにできて、夕食に困らなくなりました。いつもは、平宗で、柿の葉寿司を買うか、びっくりうどんの隣で茶飯弁当を買って、ホテルのシングルで、その日の資料の整理をしながら、食べるといったわびしい食事だったのですが。しかし、今回は、いそがしくて、結局、昼飯抜きでした。それこそわびしいな。

でも、帰りの新幹線の弁当は、京都駅B2Fの伊勢丹で見つけた、二段重の竹の子御飯弁当でした。これが、1082円と何故か半端な値段でした。まあまあかな。

2008年5月 6日 (火)

峰定寺参詣

 朝10時、出町柳発 広河原行 の京都バスは、満員でスシ詰め状態でした。幸い20分前にならんでいたので、座席には座れましたが、ハイキングの人、学生の団体が乗っていました。バスは、鞍馬を過ぎるまでは、順調に走っていましたが、花背峠に向かって喘ぎながら上っていくころから、対向車がくるたびに、停車してやり過ごすといったことをしていました。道はバスと乗用車がやっとすれ違えるほどの幅しかありませんでした。おまけに、ところどころに、京都バスの職員が道に立って、無線で道路情報を連絡しあっていました。峠下というところで、すれ違うバスが脱輪のために遅れているというので、しばらく停車です。客は、バスからでて、誰も文句をいわず、付近を散策していました。20分ほどたってやっと、対向のバスが2台、峠から下りてきました。それから、30分ほどで、大悲山口という停留所に到着しました。学生はその前のセミナーハウス前で降りていましたので、混雜は解消されましたが、2時間半も座っていると、さすがにおしりがいたい。

時刻表では、11時36分着だったですが、到着は12時半頃でした。出町柳からの料金は900円でした。これ、高いのか安いのかわかりませんね。バスには無線係の人が乗っていて、おまけに道のところどころに見張を配置していたのでは人件費もばかになりません。

Photo_3 Photo_5

停留所を降りてから、谷の奧にむかって平坦な道が続いていました。ちょっと早足で20分位でしょうか。まず目に入ったのは、美山荘の看板がある門です。

それを抜けると、峰定寺の門に突き当たります。庫裏に行くと、早口でおばさんが、このお寺の説明をしました。まず、このお寺は修業の場であるため、荷物は庫裏に預け、紫色のズタ袋をかけて、杖をついてお参りを、雨の日は参拝は中止。写真は仁王門から中は持ち込み厳禁ということでした。

Photo_7 Photo_8  仁王門の柵をあけて入ると、すぐに自然石の急な石段が延々と続いていました。およそ600段あると庫裏のおばさんが言っていたっけ。見上げると、懸崖造りの建物が見えてきました。その手前には、鐘楼、行者堂と建物があり、本堂に到着。舞台からみる山々の景色は一面の北山杉です。お堂の内部には誰もいないので、入れません。中には何もないそうです。

Photo_9 Photo_10

仁王門までおりて、収蔵庫の仏像を拝観しました。収蔵庫には、千手観音坐像、金剛力士2体、不動明王、毘沙門天立像、釈迦如来立像が安置してありました。千手観音は奈良博、京博にしばらく出ていたので、それほどではないのですが、仁王像2体は迫力がありました。そして、釈迦如来立像は安阿弥様の仏像ですが、どうも、快慶ではなさそうです。この収蔵庫には、ほぼすべて、造立年がわかる仏像ばかりなのです。千手、不動、毘沙門は創建(久寿元年(1154))時、仁王は銘文から長寛元年(1163)良元作。釈迦如来は正治元年(1199)納入品。という具合です。数は少なくてもこれだけ院政期の仏像があることは注目に値します。

さて、もう午後2時になろうとしていました。帰りのバスは、14時36分です。これをのがすと、つぎは2時間後になります。いそいで、もと来た道を引き返し、定刻に到着した帰りのバスで、鞍馬まで、およそ1時間ゆられ、鞍馬からは、叡山電鉄で出町柳へ。午後4時をすぎていました。たったひとつのお寺へ行くのに、一日がかりとは、いい経験でした。

Photo_11 それよりも、美山荘の「摘草料理」を食してみたかったのですが、うっかり入らなくてよかった。あとでHPをのぞいてみると、値段が書いていません。こりゃ相当高いな。意を決していかないとだめだな。

2008年5月 4日 (日)

三都旅行

5月3日4日と旅行をしてきました。行程は

  • 5月3日 京都→出町柳
  • 10時発 京都バス 広河原行き
  • 12時30分 大悲山口 着 30分ほど歩いて
  • 峰定寺 着 本堂、宝物館を拝観
  • また30分ほど歩き、バスで鞍馬に着
  • 叡山電鉄で出町柳着 午後4時
  • 奈良に宿泊
  • 5月4日 奈良町を朝散策
  • 興福寺北円堂拝観
  • 大阪天王寺へ 大阪市立美術館へ
  • JRで京都へ
  • 大将軍八神社で神像拝観 ついでに北野天満宮へ
  • 金戒光明寺へ 御影堂で渡海文殊拝観
  • ついでに、平安神宮拝観
  • 琵琶湖疎水インクラインを見る。
  • 蹴上より京都駅へ

Photo 今回もいそがしく歩きました。まず峰定寺ですが、バスが予定より1時間も遅れて、着きました。車がやっと通れる山道で、大型バスが走るのですから、事故があるとすぐストップ。峠の途中で20分ほど休憩までありました。でも、峰定寺はそんな苦労を吹き飛ばすほどのお寺でした。次回は車で行って、門前の美山荘で山菜料理を喰いたいな。

 

 

 

Photo_5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2 大将軍八神社は、町の中にある小さな神社で、境内で縁日をしていました。収蔵庫にある神像79躯はさすがに圧巻です。

 

 

 

 

 

Photo_3 金戒光明寺の渡海文殊は例の因縁ある仏像ですが、修理が終わってお寺にもどって拝観することができましたが、なんと、欠落していた、眷属の善財童子がいつのまにか復元されていました。まあ、5躯そろわないと渡海文殊とはいえないよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_6

 

 

 

 

 

 

Photo_4

インクラインとは、水路のことと思っていました。今回はじめて、琵琶湖疎水記念館を見てきました。水路閣というローマの水道のようなレンガ造の水路橋を見たかったのですが、今回はオアヅケです。

2008年5月 1日 (木)

群馬音楽センター

Photo 群馬音楽センターを建て替える検討をしていることが、先日、高山奇人さんより聞きました。東京新聞3月3日付の記事によると、高崎市は「新芸術文化ホール建設検討会」を発足させ、建て替えを含む検討をしたとのことです。しかし、同市が主催したシンポジウムでは、建築関係者を入れないで行われ、建て替えに賛成の意見が多かったと言っているようです。

今の建物のどこが不都合なのかは、記事によると、音響の悪さ、空調の不備が問題であると言っています。しかし、耐震性には問題がないとのことです。

どうも、この記事を読んでいると、なにか陰で、見えない意図が隠れているようです。まず、群響からの音響が悪く、その原因は天井の低さにあるといっていることです。これは、音響の専門家の調査によって判定したことなのでしょうか。それとも、単なるおもいつきなのでしょうか。これは、現代の技術をもってすれば、建て替えなければならない理由にはなりません。躯体を維持したままでも十分に改修の可能性はあります。もうひとつ、同様に空調の不備という問題も建て替えの理由になりません。現に、空調用の円形の建物を背面に、以前の改修工事で建てています。

つまり、早稲田大学33号館のように耐震性に問題があって、耐震補強だけでは、外観をいちじるしく変更しなければならない、というような状態ではないということなのです。ある程度外観を現状のままで改修が可能ということに他なりません。

Photo_3

Photo_4

レーモンドの設計した折板構造の建物は非常にめずらしい建物ですし、技術的にも注目に値する工法です。設計、構造計算、施工技術の三者が協力しなければ、できない建物です。この技術力のすばらしさは、十分に伝承に値する建物だとおもいます。

もうひとつ、重要な問題は、この群馬音楽センターは高崎市のお金だけで作られたものではないということが、市の文化課長はわかっていないことです。この建物の建設費の1/3は、市民の寄付によっているのです。寄付というのは、ただでお金をくれてやったのではありません。いはば、群馬音楽センターの維持のための株券を買ったようなものなのです。投資した株主を抜きにして、どうして壊すなどという話が決められるのでしょう。壊すのなら、株主の意見を聞くのが、市担当者のするべきことでしょう。

さて、土建専門協力会社の専門家として、今の建物を見てみると、正面のガラスカーテンウォールは、確かに改修の必要があります。というのは、1978年に起こった宮城県沖地震以後、耐震規準の見直しがおこなわれているからです。音楽センターの窓硝子は複層硝子でパテ止めです。宮城県沖地震の報告書によると、はめ殺し窓のパテどめが硝子の破損で一番多いという報告がなされています。それ以後、はめ殺し窓のパテ止めは、施工されていないはずです。となると、正面カーテンウォールはサッシごと改装ということになりますが、早稲田大学33号館のように、アルミにすると、見付が太くなることと、現在のようにブルーの色はアルミではむずかしいということがあるかもしれません。そこは、目をつむるか、早稲田大学旧図書館のように、スチールサッシで復原し、手入れを小まめにするかの選択になります。

いずれにしても、躯体そのものが、十分もつものならば、いくらでも改修してつかえる余地はあるということでしょう。それを決めるのは、市の文化課ではないということです。

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ