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2008年5月27日 (火)

法隆寺上御堂釈迦三尊像

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 ついに、この仏像について語らなければならなくなった。この仏像についての論考はいくつかあるが、いまだに、根拠のない漠然とした語られ方をしているのを見ると、非常に心苦しく思うのである。
実は、私は昭和50年、早稲田大学大学院文学研究科美術史専攻修士過程を終了している。そのときの修士論文は『十世紀彫刻の一考察ー法隆寺上堂釈迦三尊像についてー』であった。
この論文は、まだ論証として不完全なところがあり、私自身、自信がもてるものではなかったため、この論文は活字にならなかった。いや、もっと完全なものとして書き直そうと思いながら、30数年経ってしまったと言うべきであろう。
本来ならば、論文をまた書き直して世に問うのが筋なのであろうが、それには、あまりにも時間を要することになるので、私の論文の要旨をとりあえず述べることによって、この仏像の解明に資することがあればと思って、あえて恥をさらすこととした。

論文要旨

講堂の歴史
・法隆寺講堂は発掘調査により、現位置に平安時代に創建している。(『発掘調査報告書』)
・延長三年(925) 講堂及び回廊の北側を焼失している。(『別当記』『目録抄裏書』『法頭略記』)
・正暦元年(990) 講堂を再建。薬師三尊の造立はその頃。(『別当記』)

上御堂の歴史
・『古今目録抄』に講堂が焼失した後、観理僧都が延長年中に普明寺堂を移建したとあるのは、上御堂のことである。
・『法隆寺政所並法頭略記』観理僧都の項で、「大講堂再建立了」とあるのは、上御堂のことである。
・『目録抄』に、「北に引去けて造立した。」とあるのは、現講堂の位置から北の位置(現上御堂)に造立したと解釈するべき。
・上御堂は、仮の講堂として、普明寺堂を移建した。その時、釈迦三尊が造立された可能性が高い。
・永祚元年(989) 大風によって顛倒した。そのとき、釈迦三尊は再建なった講堂に移座した。(『別当記』『目録抄』『法頭略記』)
・文保二年(1318) 上棟。文保四年(1324) 本尊を講堂から移座。(『嘉元記』『別当記』)

平安時代の法隆寺別当
・『別当記』『法頭略記』によると、最初の法隆寺別当は観理僧都とおもわれる。
・別当の仕事として、伽藍荘厳の能治廉節がもとめられている。(『太政官符』)
・観理僧都は、聖宝の孫弟子にあたり、法相・三論を学び、その後、醍醐寺座主、東大寺別当になっている。
・聖宝は、東大寺に東南院を起こしたが、その法流は、造寺造仏を盛んにおこなっている。
・普明寺は京都深草にあり、聖宝創建の寺である。

平安時代の法隆寺の行事
・「安居講」は法隆寺と四天王寺で平安時代に行われていた。(『三代格』)
・平安時代に他の寺院では、安居講は金堂または講堂でおこなわれていた。(『東大寺要録』『東宝記』)
・「吉祥悔過」は法隆寺では講堂で行われていたが、承暦三年(1079)より金堂で行うこととした。(『金堂日記』)
・金堂は別当の遷替以外は開かれなかった。(『金堂日記』)
・上御堂では、「当行」という行事がおこなわれていた。東大寺三月堂でもおこなわれていた行事で、聖宝ゆかりの行事らしい。
・以上のように延長三年講堂焼失以後、法隆寺西院では、重要な行事を行う建物を必要とする状態であった。

結論
・上御堂は、延長三年講堂焼失後、仮の講堂として普明寺堂を移建した。
・釈迦三尊像を延長年中(925~930)に造立した。
・製作は、聖宝を始めとする東南院系の仏師集団工房によるものとおもわれる。

この論文は太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」『佛教藝術』84 昭和47年3月10日発行 によることが多い。この論文では、結論として上御堂は聖宝による移建とした。しかし、この論文は史料批判、論証に難があり、その後、単行本にまとめたとき(『社寺建築の研究』日本建築史論集Ⅱ 昭和61年9月18日刊)の付記では、自説の矛盾に気づき、聖宝説を撤回して、観理説に変更している。

太田論文は釈迦三尊像についての直接的な論考はない。私の論文も、後半は彫刻の様式論をのべてはいるが、今回はその部分は除外した。とりあえず、昔の論文原稿を引っ張りだして読んでみたものの、どうしたらいいのかわからなかった。しかし、簡単な解説としてでも、法隆寺上御堂の釈迦三尊について書かれているものを見ると、いまだに10世紀後半頃といってすまされてしまうと、何ともやりきれない感情が湧くのである。いやしくもこの釈迦三尊像は『国宝』の指定を受けている仏像なのある。もっと、注目されてもいいのではないかというのが、せめてもの私の願いである。

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コメント

いよいよ上御堂の登場ですか。30年たってもはっきりしないのでしたら、今後納得いくような論証がでてくるでしょうか。
小生も色々な仏像について、ぼんやりと考えたりしておりますが、銘文を含めて、確実な資料は少ないですし、様式も時代に沿って一直線に進むわけではありませんから、わからないことだらけです。上御堂像、講堂像、岩船寺像などを年代順にきれいに並べられるわけにはいきません。六大寺大観でも引っ張り出して、上御堂を見てみましょう。

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