« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008年8月30日 (土)

山梨旅行

8月の最後の週末の今日、山梨に1日旅行をしてきました。この夏はどこも行かずひたすら家にこもっていましたので、ガマンの緒が切れてしまいました。ゲリラ豪雨が心配だったのですが、電車も止まらず、山梨地方は豪雨の地域からうまく外れてラッキーでした。まず旅程は以下の通り。

  • 中央線で、石和温泉駅9:00AM下車→タクシーにて山梨県立博物館へ
  • 県立博物館よりバスで約1時間ゆられ、富士吉田駅へ
  • さらにバスで、富士吉田市歴史民俗博物館へ
  • その近くの富士山レーダードーム館へ
  • 歩いて北口本宮富士浅間神社へ
  • 富士吉田駅より大月経由で帰宅。17:00PM

Photo山梨県立博物館は『文化財をまもる・しらべる・つたえる』展をやっていました。いはば、文化財の修理方法、文化財の調査方法、そして文化財の展示方法を丁寧に展示していました。この手の展覧会は最近とみに多くなってきましたが、博物館が何を業務としてしているのかを広報している色彩がどうしても強くなってしまいます。なーんだ、自分達の宣伝かとならないようにしてほしいものです。でも、この展覧会は非常に具体的な説明をしているので、技術的には大変興味を持ってみることができました。

 

Photo_3 富士吉田市歴史民俗博物館では『富士の神仏』という展覧会です。彫刻が数多く、といっても20数体ですが、いわゆる富士山信仰にかかわる仏像です。最古の役行者像として注目された、円楽寺の役行者半跏像も富士山2合目にあった行者堂に祀られていた仏像だったそうです。展示されていた仏像は、仏寺にあったのではなく、神仏習合で、神社に祀られていたものがほとんです。時代的には古くても鎌倉時代以降の作品ですが、特異な信仰による造像形態なので、ユニークな仏像がみられるのではと思いましたが。

 

 

 

 

 

Photo_4

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5歩いて、富士吉田駅に着いて、その駅ビルをほんとにひさしぶりに見ることになりました。この駅ビルは、昭和50年竣工です。その当時最新製品の熱線反射硝子(鏡のように反射する硝子)が入っていました。30数年経ると、色がくすみ、鮮明な反射が得られなくなってしまいました。昔は高速道路からみると、この硝子に富士山が映って見えたのですが。

2008年8月29日 (金)

知恵の七柱1

Photo東洋文庫からT・E・ロレンス著『知恵の七柱』1が出版されました。全5巻のうちの最初の1冊です。以前にも3巻本がでていましたが、今回は原典に近い本からの翻訳です。T・E・ロレンスといってすぐ気がつく人は、中東情勢に詳しい人か、昔の映画好きの人でしょう。昭和37年の映画『アラビアのロレンス』のストーリーの種本です。映画はほぼこの本に忠実に再現されていました。 この映画を、ロードショーで始めて見たときの感動はいまでも忘れられません。私はそんなに映画好きではありませんし、数多く見ている訳ではありませんが、この映画はその後の再上映でも見ました。さらに、ビデオが出たときはすぐ買いましたが、大画面で見ないとその迫力が伝わらないので、プロジェクターを持っている友人宅で映画鑑賞会までしました。つい2・3年前にはDVDも出たので、それも購入しました。モーリス・ジャールのサウンドトラックはもちろん持っていて、たまに聞いています。映画を見て最初に買った本は岩波新書の中野好夫著の『アラビアのロレンス』でした。その後、日本語で書かれた評伝など数冊を買って読んでみました。

 

 

Photo 何故、この映画にはまってしまったのか、いまだによくわかりません。確かに、私は歴史好きではありますが、中東近現代史は私の研究の範疇には入っていません。主人公のロレンスという人物がその著作や、評伝を読んでも、よく理解できないのです。映画を見ても、何か自分で消化されないところが残るのです。確かにロレンスは歴史の大きな波に翻弄されて、いつの間にか英雄視されてしまったのですが、そういった、歴史に受動的な人生だったかというとどうもそうではないような気がするのです。いまだに、英国ではその評価が分かれているようですが、当事者の英国人のロレンスに対する評価は実は非常に無責任なところもあるので、あまり注目はしませんが、アラブ人にとっては、その功績が決してアラブのためではなかったという事を見抜いています。

Photo_2 ロレンスがダマスカス陥落後、アラブを離れ、英国に何故もどったかは、わかりませんが、単なる軍人としての任務が終了したと割り切ったからでしょう。その後のロレンスの行動を私は注目したいのですが、第一次世界大戦後のパリ和平会議、チャーチル主催のカイロ会議に英国側の顧問として出席しています。つまり、ロレンス自身、英国人として、自国の利益のために行動したのです。結局、西洋人の共通する、おせっかいさ、傲慢さが根底に見え隠れしてならないのです。イギリスの3枚舌が、現在の中東情勢を混迷させている根本的な原因であることに英国人は責任感も、さらに認識もしていないのです。それに対して、ロレンスはどう思ったのかはわかりません。そこが、理解しがたいし、知りたいところなのかなあと思います。その後の奇行もまた、理解できません。ドーセットの2面が壁の小さな一軒家に住んで、自慢のブラフ・スーペリアを乗りまわしていた平穏な日々が一番の幸福の時期だったのでしょう。しかし、それも長く続かなかったのです。

Lawrenceofarabia_dorsetcottage

2008年8月27日 (水)

科研費成果報告書

Photo_2Photo

科学研究費補助金による研究成果報告書です。この手の本は一般には手に入りません。では、どこで見ることができるのでしょうか?まず国会図書館では、今すべて科学研究費補助金の成果報告書は関西館に移されています。霞ヶ関の本館では、見ることができません。それでは、東京から複写を申し込めばいいかな、と思うでしょう。確かに登録カードを持っていればインターネットでも複写の申し込みができます。いい制度ですね。

でも、NDL-OPACでは、本の内容まで書かれていません。それじゃ、本のどの部分を複写したいのか指定できなければ、申し込みが出来ません。どうしたらいいか、国会図書館の説明は実に丁寧です。先ず、目次の複写の申し込みをしてください、そして、複写したい箇所がわかったら、本文の半分まで、写真は半分まで、論文集などは、それぞれの論文の半分までなら受け付けます。ということです。したがって、この本はまず有賀祥隆氏の署名論文「調査の概要ー成果と課題」P1~P2がありますが、これはP1しか複写できません。幸か不幸か、調査報告の所は、凡例のところでまとめて執筆者が書かれているので、国会図書館の複写係の人はそれに気がつきませんので、解説は本文と見なされて、半分までは複写できます。これで、研究用として、複写する意味があるのでしょうか。論文の半分しか読めなくては使えないということでしょう。それではどうすればいいか?この本を使えるようにするには、あと半分を書き写せばいいのです。写真はトレペを持っていって上げ写しするのです。これができなければ、つまり、厳密な著作権法摘要下では、科研費の本は使えないということです。そのためには、関西館にいかなければなりませんが。

それでは、他の図書館で見ればいいかな、と思って、Webcat Plusで調べてみると、大学9校で所蔵されていました。でも一般人はその大学図書館は簡単に使わせてもらえません。いろいろな手続きが必要でしょう。それだけの労力をかけても読みたいかということです。

長岡龍作氏は本書に「これまでの研究について」という一文をのせています。この研究の成果を彫刻の基礎資料として報告書として公刊することの意義について語っています。確かに、その研究成果は非常に重要な意義があるのは、言うまでもないことです。しかし、成果を報告書として、印刷しました。公刊しました。知り合いの人に送りました。で終わりなの?と疑問を投げかけたいのです。

公開とは、誰でも一定の手続きをすれば、見ることができるということではないの?報告書を関係者(学界)、あるいはその近辺に行き渡ればそれが公開なのですか?公開するとは、読みたい人が誰でも読める環境にあるのが、公開の機会均等なのではないのでしょうか。コネでしか手に入らない本ならば、それは、単なる内部文書でしょう。公開したものではない物です。補助金の受給者の皆様には、税金を使った研究成果の公開はどのようにしたらいいのかの、基準を示していただきたいと思うのです。

たとえば、京都国立博物館では紀要の『学叢』はいまその内容をすべてインターネットで公開しようとしています。国立情報学研究所では『科学研究費補助金採択課題・成果概要データベース」があります。しかしその成果の内容を公開しているものはほんの数えるくらいしかありません。何故これを活用しないのでしょう。公開の方法は出版だけが公開ではありません。

ちなみに、この本はインターネットの古本屋サイトで見つけて手に入れました。きっと、受贈された人が古本屋に売ったのでしょう。そういった偶然でしか手にいれられない本は、手にとってもちっともうれしくありません。希少価値はあるのでしょうが、誰でも読めないのでは、参考文献にもなりません。

追、この本は『東北大学美術史講座合同研究室』というサイトの中の「東洋・日本美術史研究室」→「作品調査」の「平成15・16・17年度 科学研究費補助金 基盤研究(A)(1)「奥州仏教文化圏に遺る宗教彫像の基礎的調査研究」の「報告書収録作品一覧」に目次が掲載されています。国会図書館のシステムを熟知して載せたのかはわかりませんが、いいことです。

2008年8月24日 (日)

早稲田文庫の版木

Photo 茶房早稲田文庫の所有で、額に入った版木が3枚ありました。その当時は、すぐ目の前で見てはいても、それがどんな版画になるのか見当がつきませんでした。しかし、いつかこれを使って刷ってみたいもんだ、と思っていました。これは拓本のいい練習になるかなと思い、日下さんには、拓本をとらせてよと、何度か冗談交じりで言ったことがありました。

そうこうしているうちに、茶房早稲田文庫は閉店になり、早稲田文庫にあったこの版木は、日下さんが新たに開いた茶房武蔵野文庫に受けつがれました。今、洗面所の壁にかかっています。

Photo_2

すると、ひょんなことから、竹久夢二の研究者の目にとまり、これは、竹久夢二の書いた挿絵の版木ではないか、ということになり、プロの版元がこの版木で、刷ったところ、木と寺の門が描かれた絵は、博文館発行の文学雑誌『中学世界』の明治40年3月20日号、少年がお手伝いさんに牛乳を渡している絵は、明治41年3月20日号にそれぞれ掲載されたものと判明しました。明治38年に竹久夢二は『中学世界』でこのようなコマ絵「筒井筒」が一等に入選してはじめて世にでてから、すぐの作品ということになります。まだ、24、5歳の頃です。

この版木をおじさんがどのようにして手にいれたかは、定かではありません。しかし、版木は使い回したり、すぐに廃棄することが多いので、現在でも残ることが少ないのが現状です。これが、どうして残ったのかは不明です。どこかの骨董屋で見つけたものなのでしょうか。茶房のおじさんは、ちょっといたづらっぽい人で、たとえば、額入ではいっていた棟方志功の版画は、実は印刷物だったりと、誰もが本物とおもっていたものなのですが、見事にだまされていました。

ちなみに右の版木は竹久夢二ではなく宮崎(渡辺)与平の作だそうです。宮崎与平も明治45年には亡くなっているので、同じ時代のものなのでしょう。

2008年8月19日 (火)

池之端の蓮

Photo 今日、上野の池之端の不忍池の道を通っていると、蓮の花が咲いているのが見えました。池には、あちこちに蓮の花が咲いているもの、まだつぼみのものと今が見頃なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

Photo_2Photo_3  蓮は、仏像の装飾によく使われている花で、よく見るとなるほど、仏像が蓮を持っているものがありますが、

 

 

 

 

Photo_4Photo_5Photo_6  たとえば、浄楽寺阿弥陀如来の脇侍は、蓮肉のみと、まだ開いていない葉のついた茎を持っています。普通には、未開蓮華を持つようですが、仏像の造形と実物の蓮を比較してみると、なるほど、実物に沿って造っているものと、ちょっとデザインに走っているなというところがわかります。浄楽寺の脇侍が持っている蓮の葉は茎の途中からでていますが、実際、葉は地下茎からでています。また、台座ではいわゆる蓮華座の中には、

 

 

Photo_7 平等院鳳凰堂の本尊のように蓮弁を葺き寄せ式にしているものがありますが、これは、デザイン性を優先したものでしょう。実際はいわゆる魚鱗葺きです。しかも、蓮弁は蓮肉の下からでていて、蓮肉を蔽うほどおおきな蓮弁です。仏像の台座では、蓮肉と蓮弁のバランスを考慮して、蓮弁を小さくしているのでしょう。

蓮は朝早く開花して、午後には閉じてしまうといわれています。また、開花するとき、ポンと音がでるといわれていますが、いまだ、その音を聞いたという人に会ったことがありません。ほんとかな? 早起きしなければいけないかな。

蓮開く 音聞く人か 朝まだき    子規

2008年8月15日 (金)

製本

Photo 13日から17日まで5日間の夏休みです。この時期は、どこかへ出かけるのは人を見に行くだけなので、毎年家に引きこもることにしています。その間まとまったことをやろうと計画はするのですが、着手する頃には、もう休みが終わったりして、結局何も出来なかった。ア~ア! で終わります。どうも今年もそんな雰囲気です。それでもここ数年、毎年、正月とお盆休みに必ずしているのが、製本です。半年の間に、とりつづけていたコピーを簡易製本しています。今回は私が開発した自己流の簡易製本の工程をお話しします。この方法で、1回の休みに5~60冊作っています。

 

Photo_2 まず、自作の簡易締め具です。樫の堅い木を買ってきて、穴をあけ、ボルトをつけただけのものです。これは本来だったら、下の写真手前にあるようなケルスティン・ティニ・ミウラが使っているような裁断もできる製本用具を自作したかったのですが、結局、締める為だけの用具となりました。

 

 

 

Photo_3 まず、コピーを二つ折りにして、裏表紙のカラー紙を前後にはさみ、広告の紙を帯状に切って、バンドにして、さらに本などで重しをして、折り目をなじませます。

アクリル板にテフロンシートをはった板を両面にはさみ、締め具の間に入れ適度に締め付けます。小口にホットメルトで1~2ミリ程度の厚さに塗ります。この時、片方にヘラを持ってすばやくなめらかにします。

 

 

Photo_4 本よりも2㎝程度おおきな厚紙を用意して、それを、くるみ、市販簡易製本機の電熱機能で、接着剤を溶かして、接着します。以前は電気ゴテを背表紙に当てて、接着剤を溶かしていたのですが、この機械で手間が省けるようになりました。

後は、表紙の余分なところを、カッターで切り、背表紙のラベルをパソコンで印字して貼るだけです。

 

 

Photo_5 工程はおよそ2日間で、5~60冊が完成できます。

この本の長所は、また接着剤を溶かせば、内容の増減が簡単にできることです。糸を使わないので、落丁しやすい欠点がありますが、それは、どんな堅牢な本でも、時間がたてば、同じようになりますので、その場で補修していけば済むことです。

 

 

Photo_6 でも、ミウラさんの工房のような機械がそろっていればいいなあと、思っているのですが、なかなかそこまではエネルギーが必要ですな。

2008年8月13日 (水)

『半跏像』考

『半跏像』の定義について、混乱しているようなので、ここで少し歴史を振り返った上、姿勢の再定義をしてみようと思う。
まず、いままでの「半跏像」についてどう記述されていたか例をあげてみよう。

●『日本美術体系』彫刻 昭和16年2月11日 誠文堂新光社刊
「八 彫刻用語解説」大口理夫執筆
・「佛像の姿勢」の項 P476~P477
佛像(如來以下佛像關係一般を指す)の姿勢は大別して立像、倚像、坐像、臥像等に分つ。(一)立像には直立像、行像、侍立像、丁字立像等がある。直立像は直立する普通の立像、行像は空也上人像の如く足を踏出して歩行する相(行像にはなほ別の意あり、其項参照)、侍立像は少し前體を前屈みにする像、來迎彌陀の脇侍菩薩に屢々見る。丁字立像は右脚を立てゝ左足を斜に引き丁字の如く身を曲げて立つ像で、金剛童子の如きはそれ。(二)倚像は床などに倚りかゝるものをいふ。一般に單に倚像といふは垂雙足像を指す。その他雙脚を垂れて足先を交じらしむ「交脚像」があるが、日本には殆どない。半跏踏下像(ふみさげ)も倚像の一種と見えるが、これは半跏趺坐の一種である。(三)坐像には結跏趺坐、半跏趺坐、箕坐、正坐、蹲居、跪坐、等の諸形がある。結跏は兩足を互に組合せたる坐法で、如來、菩薩に普通に見る。半跏は隻脚のみ他の足に跏するをいひ、その下に押された隻脚を下方に垂れたのを「半跏踏下げ」といひ、俗にこれを「半跏」と稱することもある。以上の坐相各箇については各々其項を見よ。(四)臥像は佛入涅槃の時の横臥せる相。
・「半跏趺坐」の項 P474
結跏趺坐が左右兩足を互に他の足に跏するに對し、一足をのみ跏する趺坐をいふ。その跏していない一足を踏下げるのを半跏踏下げといふ。俗に半跏趺坐といふは半跏踏下げを指していふ。
・「半跏踏下」の項 はんかふみさげ P474
半跏趺坐の下に置かれる片足を踏下げる坐法、言換れば、一足を地に下し、他を屈してその足背を踏下げた足の股上に置く坐法。また半跏踏下像は多く思惟相をなす。半跏趺坐を見よ。

Photo_2 【筆者コメント】
「佛像の姿勢」の項に載る参考写真に「半跏趺坐(半跏踏下) 北僧坊虚空蔵菩薩像」というキャプションがある。北僧坊像は、片足を前に出し、片足を垂下する姿勢で、「半跏趺坐」ではない。また「佛像の姿勢」の項での「半跏踏下げ」の説明が解釈不能である。また、「一足を地に下し」とは、垂下した足が地についていなければならないということか。

 

 

 

 

 

 

●『日本彫刻史基礎資料集成』

Photo_19

Photo_22Photo_20 ・『平安時代 造像銘記篇 3』 昭和42年11月30日
「52 阿彌陀如來及び兩脇侍像 長岳寺」 水野敬三郎執筆
形状 観音菩薩 裳をつけ、腰布を腹前で結び、左足を踏下げて坐る。

・『平安時代 造像銘記篇 4』 昭和43年4月15日
「62 如意輪観音菩薩像 観音堂」 水野敬三郎執筆
形状 左足を垂下し、右足半跏、裳裾を臺座前面に垂らして坐る。

・『平安時代 重要作品篇 1』 昭和48年7月30日
「梵天・帝釋天像 教王護國寺」 田邊三郎助執筆
形状 帝釋天像 左足を踏み下げて第一指を反らし、右足を曲げて象背の敷布の上にのせて坐る。

Photo_6

・『鎌倉時代 造像銘記篇 6』 平成20年2月25日
「176 救世観音菩薩像 三千院」 根立研介執筆
形状 左手は屈臂して左膝上に重ねた右足首に掌を伏せ・・・・右足を垂下し榻座に坐る。

【筆者コメント】
片足を下に下げる形を、一方では「踏下げる」と言ったり「垂下する」と言ったりと統一されていない。また、三千院像のように半跏であるかないかの説明がされていない。

 

 

 

 

●『龍華寺 菩薩半跏像』美術研究作品資料 第四冊 東京文化財研究所 平成19年5月25日
Photo_7 ・「註(3)」 津田徹英執筆 P66
片脚を屈して横たえ、一方の脚を踏み下ろす姿は、厳密には「半跏踏み下げ」像と表記すべきであるが、本稿では慣用に従い「半跏」像と表記したことをあらかじめ断っておく。

・「調書」 津田徹英執筆 P74
形状 腰を左に捻り、左脚を屈して横たえ、右脚は踏み下げて足先を垂下させる。

【筆者コメント】
「半跏」の意味を理解していないと言わざるをえない。「踏み下げる」と「垂下する」とは違う姿勢なのか。同じことを言っているの?

 

このように見てくると、「半跏像」の定義が定まらないのではなく、「半跏像」という言葉を、その場でいい加減に使ってきたと言わざるを得ない。「半跏趺坐」とは、片足を他方の太腿の上に乗せる形式であるのは当然の定義であり、一方、片足を垂下していれば、「半跏像」であるという解釈は、慣用的に使われている既成事実であり、連綿として使われていたのである。それを今更、厳密に解釈する必要があるのだろうか。どうしても気になるのなら、「半跏像」と書いた論文の注釈に「本来は片方の足の甲が他方の太腿のうえに乗らなければ半跏像ではないが、ここでは片足が垂下している形を半跏像と呼ぶ」と書けばいいことである。もし、「踏下像」と「半跏像」を分けたいとすると、他の仏像の記述の整合性が問題になってくるし、もっと多く用語の定義をしなければならなくなる。たとえば、如意輪観音像は「如意輪観音菩薩輪王坐像」、結跏趺坐でも「吉祥坐」と「降魔坐」に分けなければいけなくなる。
もうひとつ、「踏み下げる」は『踏下像』考でも書いたが、こんな業界(学界)用語はもう使わないほうがよろしい。辞書にない言葉をつかう必然性がない。私が提案した「片足垂下像」とすればいいのであり、「踏下」という言葉しか表現のしようがないというのなら話が別だが、「片足を垂下する」で十分に表現できるし、まして、足が地についていないのに「踏む」とは説明がつかないのではないか。

2008年8月 9日 (土)

『遊戯坐像』考

Photo

 くしくも、今月発刊された『日本の美術』507号 禅宗の彫刻 に「○遊戯坐像」という言葉が図版のキャプションに書かれていた。その内容は以下の通りである。

・第1図 観音菩薩遊戯坐像(滝見観音)(神奈川・清雲寺)
・第8図 観音菩薩遊戯坐像(水月観音)(神奈川・東慶寺)
・第21図 観音菩薩遊戯坐像(元 中国・飛来峰第92龕)
・第24図 観音菩薩遊戯坐像(宋 中国・大足石窟北山第一三三龕)
・第25図 観音菩薩遊戯坐像(宋 アメリカ・ネルソン・アトキンス美術館)
・第59図 観音菩薩遊戯坐像(南北朝 静岡・北条寺)
・第60図 観音菩薩遊戯坐像(鎌倉 神奈川・禅居院)
・第61図 聖観音菩薩遊戯坐像(鎌倉~南北朝 静岡・乗光寺)
・第62図 聖観音菩薩遊戯坐像(鎌倉~南北朝 愛媛・等妙寺)

また、論文中で筆者浅見龍介氏は「遊戯坐像」の項目を設け以下のように解説している。

右脚を横にして、左脚は踏みさげる。こうした坐り方をかつて半跏像と称していたが、「跏」は、踝(くるぶし)を大腿の上に乗せることを意味するので、この像(注:建長寺塔頭禅居院像)のように右足の踝が左脚の大腿に乗らない坐り方は半跏とはいえない。遊戯坐像と呼ぶべきであると考えるが、まだ定着するに至っていない。遊戯坐を採用しない場合、単に坐像、または踏下げ像とされるが、坐像ではこの特殊な姿勢を無視することになる。この本では遊戯坐像と呼ぶことにする。 52P~54P

佐和隆研著『仏像図典』には確かに「遊戯坐像」という言葉がある。それには、

遊戯坐像 両足を軽く前に出した安らかな坐像。(例.東寺講堂,梵天像) 274P

Photo_2 としているが、例としてあげている東寺講堂の梵天像は右脚を前にだしているが、もう片方の足は他方の大腿の上に乗せていない。『『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 重要作品篇1 では「安坐」と表現しているが、片足を垂下してはいない。こういう定義がすでにある上に、片足を垂下する姿勢を「遊戯坐像」とするのは、ただ言葉の解釈に混乱を作り出すだけである。さらに、浅見氏の本に掲載されている以下の仏像では、図版のキャプションに、

・第72図 地蔵菩薩坐像(鎌倉 山口・東隆寺)
・第73図 地蔵菩薩坐像(鎌倉~南北朝 神奈川・伝宗庵)
・第74図 地蔵菩薩坐像(鎌倉 京都・東福寺)
・第76図 文殊菩薩坐像(鎌倉 神奈川・常楽寺)
・第77図 普賢菩薩坐像(鎌倉 京都・相国寺)

と書かれているが、以上の像は、片足を前に出し、もう片方の足を他方の大腿の上にのせた「半跏像」か、東寺講堂梵天像のような「安坐」像であり、これらを「坐像」の中に包摂してしまっている。これらは佐和隆研氏の言う「遊戯坐像」の定義にあてはまる像である。浅見龍介氏の定義で言うと、さらに矛盾が露呈する。

Photo_3前掲の第21図 観音菩薩遊戯坐像(元 中国・飛来峰第92龕)は、片膝を立てているが、片方の足は垂下していない。これも「遊戯坐像」というのだろうか。この姿勢は、日本では如意輪観音像が採る「輪王坐」という坐形である。このように、浅見氏の「遊戯坐像」の定義は実にあいまいであり、定義通りの使い方をしていない。

前回の『踏下像』考の論じたことを、少しく補足すると、仏像の名称は「材質」+「種類」+「形態」という表現方法が定着しており、いはば、これが最低限の仏像を表現する方法であり、さらに細分化すると、仏像の名称として、非常に煩瑣になり、そこまでする必要性が見いだされないのである。だから、仏像の形態は「立像」「坐像」「半跏像」「倚像」だけでよいとしたのである。「半跏像」が厳密にはその言葉の意味から乖離しているのは、承知の上で定義しているのである。それは、すでに「片足を垂下する形」が「半跏像」であるとして定着しているからなのである。それを変更するのであれば、しっかりとした定義をした上で「踏下像」なり「遊戯坐像」なりの言葉を採用すべきであろう。また、「坐像」の中には、さまざまな形態があるのも承知の上で、それは、仏像の解説で、あるいは、「形態」という別項目で、「輪王坐」なり「跪坐」と書けばいいのであり、仏像の名称にそこまで表現する必要性がない。また、仏像の名称を新たに定義するためには、各論でしっかりと説明できるような検討が必要であろう。例外がでるような名称でははっきりいって採用はむずかしい。いわゆる電子化に逆行することにならないような名称の定義をしていただきたいと、望むばかりである。

2008年8月 7日 (木)

『踏下像』考

最近、仏像の名称として、「○○踏下像」あるいは「○○踏下げ像」という使い方をする論文ないし作品解説が目にとまるようになってきた。何となくそれが、何を意味しているのかは、想像がつくが、どうもその定義について、論文の執筆者は何の説明もしないうちに、どんどんその言葉が使われてしまっているように思える。このままでは、唯曖昧なままで、この言葉が普及してしまうことになりかねない。そこで、この「踏下像(フミサゲゾウ)」について、いささかの考察をしてみようと思う。
まず、私のいままで入力したデータから「踏下」というキーワードで、論文あるいは、作品解説の題名として使われているデータを抽出してみた。戦前の本としては、延暦寺御遠忌事務局『山家遺桂』 1921年5月12日発行に、作品解説として、「大黒天半跏踏下坐像 滋賀県愛知郡秦川村大字松尾寺金剛輪寺塔頭・明壽院蔵」というのがある。戦前の仏像に関する論文の中に、仏像の像容を表現する言葉として「踏み下げる」という使い方をしているのがあった記憶がある。戦後でも、久野健著の『日本の彫刻』のなかで、いわゆる半跏像を説明するのに、「踏み下げる」という表現をしている。最近の本について列挙すると以下のようになる。
・『社寺とその美術』東京都瑞穂町文化財調査報告 3 1974年3月31日
  金山正好「32 木造文殊師利菩薩半跏踏下像 寿昌寺蔵」 39P
  金山正好「37 木造地蔵菩薩半跏踏下像 長福寺蔵」40P
・『流山の仏像』 1983年11月1日
  「101 清瀧院 地蔵菩薩踏下け像」 31P
  「102 西栄寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「103 浄信寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「104 福性寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「105 春山寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「193・194 本妙寺 門神踏下げ像」 55P
・『横浜の文化財ー横浜市文化財綜合調査概報(11)ー』 1993年3月31日
  浅見龍介「真照寺 6,木造地蔵菩薩踏み下げ像」 111P
・『佛教藝術』212 1994年1月30日
  麻木脩平「長講堂阿弥陀三尊像考ー両脇侍菩薩像の片足踏み下げ形式を中心としてー」89P~111P
・『内山永久寺の歴史と美術』研究篇 1994年4月11日
  副島弘道「不動明王踏下像 兵庫・井植家」115P
・『相模湖の仏像』 1994年9月
  薄井和男「25 木造地蔵菩薩踏み下げ像 正覚寺」 29P
・『大井の仏像』 1996年3月
  薄井和男「33 木造地蔵菩薩踏み下げ像 大通寺」36P
・『青梅市仏像調査概報 Ⅱ』 1997年3月31日
  「報恩寺 30-8,地蔵菩薩踏下像」 55P
  「梅岩寺 45-12,地蔵菩薩踏下像」 71P
  「梅岩寺 45-18,僧形踏下像(閻魔堂所在)」 72P
・『週間朝日百科 日本の国宝』16 1997年6月8日
  松田誠一郎「菩薩踏下像 宝菩提院」 6-172~173P
・『美術史』143 1997年10月31日
  松田誠一郎「第五十回全国大会研究発表要旨 山背遷都と霊験薬師仏ー京都・宝菩提院菩薩踏下像の彫塑史的な位置づけに関連してー」 107P
・『祈りと美の伝承 醍醐寺展 秀吉・醍醐の花見400年』 1998年5月12日
  副島弘道「11 如意輪観音踏み下げ像」 167P~168P
・『東京国立博物館図版目録 日本彫刻篇』 1999年3月31日
  山本勉・浅見龍介「45 菩薩踏下像」 133P
  山本勉・浅見龍介「150 地蔵菩薩踏下像」 147P
  山本勉・浅見龍介「185 日光菩薩踏下像」 151P
  山本勉・浅見龍介「211 地蔵菩薩踏下像」 154P
  山本勉・浅見龍介「212 地蔵菩薩踏下像」 154P
  山本勉・浅見龍介「213 地蔵菩薩踏下像」 154P
・『都幾川村史資料 6(4)」 2000年3月30日
  「馬場裕太郎 木造地蔵菩薩踏み下げ像」 84P
  「霊山院(本堂) 木造地蔵菩薩踏み下げ像」 126P
・『裾野の仏像』 2001年3月
  「光明寺 45,地蔵菩薩踏下像」 40P
  「定輪寺 81,地蔵菩薩踏下像」 58P
  「木造 地蔵菩薩踏下像(45)光明寺」 74P~75P
・『寛永寺及び子院所蔵文化財総合調査報告(第三巻)彫刻・工芸品編』 2002年3月29日
  「円珠院 2-9,宇賀弁才天踏下像」 47P
  「円珠院 2-11,吉祥天踏下像及び梵天・帝釈天立像」 47P
  「清水観音堂 6-5,訶梨帝母踏下像」 49P
  「現龍院 8-5,不動明王踏下像及び二童子立像」 52P
  「護国院 9-3,地蔵菩薩踏下像」 53P
  「不忍池弁天堂 10-4,大黒天踏下像」 56P
  「不忍池弁天堂 10-7,大黒天踏下像」 56P
  「津梁院 13-4,地蔵菩薩踏下像」 58P
  「養寿院 18-3,地蔵菩薩踏下像」 61P
・『青梅市仏像調査概報 Ⅲ』 2002年3月31日
  「聞修院 49-9,地蔵菩薩踏下像」 71P
  「石倉院 53-1,地蔵菩薩踏下像」 74P~75P
・『東京都神津島信仰関連文化財集中調査報告書』 2004年3月31日
  瀬山里志「物忌奈命神社 8,木造随身踏み下げ像」 11P
  副島弘道「濤響寺 20,木造地蔵菩薩踏み下げ像」 19P~20P
・『神々の美術』京都国立博物館 2004年8月10日
  淺湫毅「6 牛頭天王踏下像 山城町・松尾神社」 212P~213P
・『佛教藝術』288 2006年9月30日
  「口絵6 殷基里磨崖菩薩半跏踏み下げ像 高麗 慶尚北道金泉」
  「口絵7 長岩里磨崖菩薩半跏踏み下げ像 全景 高麗 981年 京畿道利川」

Photo ここで、その「踏下像」の使い方を見てみると、金山氏を除いて、その言葉の定義がみえてくる。つまり、「半跏像」という像容の表現に違和感を覚えたことが「踏下像」という表現を使うことになったとおもわれる。「半跏像」とは、片方の足の甲が他方の太腿の上にのる形をいう「半跏趺坐」像という定義が定着している。その定義通りの像としては、三重・普賢寺の普賢菩薩像がある。つまり、「半跏像」とは、片足が垂下するしないは関係がないのである。いままで、片足が垂下してさえいれば、「半跏像」としてきたが、宝菩提院像のように、片方の足は他方の足の前に置かれ、他方の太腿の上にない状態では、「半跏像」という定義と合致しないとしたのであろう。したがって、中宮寺像と宝菩提院像との像容の表現の違いを示さなければならないと思ったのであろうとおもわれる。
このように「半跏像」を定義通りに解釈することによって、あいまいにされてきた「半跏像」という概念を定義通りの「半跏像」と「踏下像」に峻別しようとしたのであろう。しかし、「半跏像」と片足を垂下する像容は別次元のものなのである。定義通り解釈すれば、前述した普賢寺普賢菩薩像は片足を垂下していない「半跏像」なのである。

 

 
Photo_2 さらに、「踏下像」という言葉を使うには重大な問題がある。そもそも「広辞苑」など国語辞典に「踏み下げる」という言葉の項目はない。いはば、美術史のうちの彫刻史という限られた分野でのみ使われていた用語であることがわかる。さらに、「踏む」とは、足で押すという動作をさしており、たとえば、「ペダルを踏む」「邪鬼を踏む」という使い方をする言葉であり、宝菩提院像のようにただ単に片足を垂下して、地についていない状態では決して「踏む」とは言わないのが常識であろう。このように、言葉と実際の形との間で乖離のある言葉は使用すべきではないのである。
それでは、この問題に対してどういう解決策を講じたらいいのだろうか。
まずそのひとつは、片足を垂下する形を「片足垂下像」と定義する。すると、中宮寺像は厳密に表現すると「菩薩半跏片足垂下像」となる。宝菩提院像は「半跏像」ではないので、単に「菩薩片足垂下像」となる。普賢寺像は「普賢菩薩半跏坐像」となる。しかし普賢寺像はいままで、単なる「坐像」と表現してきた経緯があるので、その変更を簡単に受け入れられるかは、しっかりとした定義がちゃんと実行されるかにかかっている。
もうひとつは、以前のままで、おおまかな分類にし、個々の事例についてすべてその中に包摂してしまうという案である。仏像の像容についての「辞書的な本」である佐和隆研著『仏像図典』では、仏像の像容はおおまかに「立像」「坐像」「臥像」としている。いままでの一般的な表現方法では、「立像」「坐像」「半跏像」「倚像」という言葉を仏像の種類の後に付けてきた。これをそのまま踏襲すればいいという案である。この場合の『坐像』の定義としては「結跏趺坐」「半跏趺坐」「輪王坐」「跪坐」「安坐」も含めて「坐像」とする。『半跏像』の定義は、片足が垂下していれば、片方の足が他方の太腿のうえに乗らなくても「半跏像」とする。『倚像』は両足を垂下する形とする、という定義にしてしまえばいいのである。それ以上の細分化は、形体のすべてにわたって言葉が定義できるまで、別項目で記述すればいいことである。
Photo_4 私としては、後者の案を採用したいと思う。というのは、この問題はデータベースの入力上で、非常に重要な問題が含まれているのである。仏像の像容についての項目に入力するのに、共通した概念をもった表現が必要であり、あまりに細分化すると、その定義がむずかしく、例外措置が多くなるとさらに複雑化するからである。これが、データベースにおける表現の標準化なのであり、すべての入力項目にその標準化をしなければならないのである。これが、標準化の第一歩となるものである。

2008年8月 3日 (日)

茶房早稲田文庫

Photo 昔、早稲田大学のそばに、『茶房 早稲田文庫』という喫茶店がありました。外観は民家風のつくりの建物で、冨安龍雄、郁子ご夫妻が経営しておられました。冨安さんは、早稲田大学の国文をでて、戦後この地で、喫茶店を開きました。早稲田大学出身の文学者と交流があり、そのたまり場を喫茶店に改造したものでした。私は、昭和43年に早稲田大学に入学してから、通いはじめました。最初はサークルのたまり場だったので、毎日のように顔をだして、誰かいないか、さがしていました。学部を卒業して、大学院にいくようになると、図書館の帰りに必ず寄って、カンバンまで居座りつづけました。仕事についてからも、仕事が終われば、夜に、出かけていきました。

 

Photo_2 そして、昭和59年11月とうとう、茶房早稲田文庫は閉店となりました。閉店にあたって、茶房にあるものすべてを、売却するということになりました。私とS君で、茶房にあるすべての物を、写真に撮って、調査し、財産目録を作成しました。そして、3日間、蔵出しという売り出しをして、すべて売却しました。茶房の思い出にと、ゆかりのある人が買っていきました。

もう早稲田大学のそばには、茶房の痕跡もありません。記憶がだんだんと薄れていきます。冨安さんのこと、おばさんのこと、そして、茶房で会ったさまざまな人、いろいろな思い出があります。今、その記憶を確かめておかないと、ますます忘却のかなたへいってしまうという危機感におそわれています。

幸い、早稲田文庫を継いで、日下さんが吉祥寺で『武蔵野文庫』を開いているので、かろうじて、その記憶がよみがえる場があります。いまのうちに書いておかなければいけないことが、たくさんあります。すこしずつ、整理しながら書きとめていこうとおもいます。

 

Photo_3 落書帳は、むかしから茶房に常備してあったものです。この落書帳は、最後の落書帳で私が造ったものです。表紙は徳本立憲先生の筆になります。徳本先生は茶房のおじさんの油絵の先生だった有名な洋画家ですが、今年なくなりました。また、茶房を知る人がいなくなりました。私も大変お世話になった先生です。ご冥福をお祈りもうしあげます。

この落書帳には、閉店前に茶房で行ったお別れ会に出席した人の署名があります。井伏鱒二、小沼丹、紅野敏郎、新庄嘉章などです。

茶房にあったいろいろな品物の記憶がだんだんと薄れていかないように、すこしずつおもいだしながら、書いていこうとおもいます。今日はとりあえず、この辺で。

 

 

Photo_4

Photo_5

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ