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2008年9月 6日 (土)

上野大仏

Photo 『建築工藝叢誌』第2期第11冊(大正4年4月25日刊)に東京美術学校教授・帝室技芸員の肩書をもつ彫刻家の竹内久一著の「上野大佛改造の議」という一文がありました。なかなかおもしろい文章なので、要約をのべてみます。

上野公園は、地方の人も、外国人も首都に来れば必ず見物する名所である。しかも、第一回内国勧業博覧会の開催した所で、その上東京帝室博物館、東京美術学校等、美術といえば直ちに上野を連想する地でもある。

しかるに、“上野公園に入って見ると、先づ第一に人をして、甚だ非美術的なるに顰蹙せしめ、その奇怪なるに驚かしむる巨大なる物體がある。それは何かと云ふに、鐘撞堂の附近に高く聳ゆる大佛、否大怪佛である。此大怪佛は、徃昔越後村松の藩主堀家が建立したものださうで、随分大きなものではあるが、その姿勢も顔貌も拙の又拙なるもので、盧遮那佛の盧遮那佛たる威嚴は毛頭も無く、殊に其首のブザマな事は、何とも譬へやうがない。”

“明治になってからも、上野行幸の時には、御目障りにならぬようにと、此大怪佛を蓋ひ隠したこともある。”

この大怪佛を改造したいと言ったのは、狩野芳崖であった。明治十八九年頃、奈良から帰った芳崖が、橋本雅邦や竹内久一に相談をして、何とか作り直したいと所有者を調べた所、寛永寺でも、博物館でもなかった。そうこうしている内に狩野芳崖が故人になってしまって立ち消えになってしまったと書いている。

竹内久一はさらに、奈良や鎌倉の大仏よりも“一層立ち勝った名佛を作るつもりで”と意欲をみせている。さらに、三四萬圓程の金があればできると、しかも富豪に一時立替してもらってあとで、醵出金で返済すればむずかしことではない。とまで言っている。

Photo_2 この大仏を竹内久一はよっぽど気にいらなかったのでしょう。でも、改造する運動にはならなかったようです。そして、関東大震災で、首が落ち、残骸を寛永寺で一時保管していたのが、昭和15年に戦争で供出されてしまったのでした。この顔だけが、供出を免れて、大震災50周年の昭和47年に今のように再建されたのでした。

戦後、地元の観光連盟が再建に動いたこともあったようですが、立ち消えになってしまったようです。

しかし、この竹内久一の文章を読んでみると、はたして、もとのような“大怪仏”を復元していいものかどうかの検討も必要かもしれません。

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