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2008年10月

2008年10月31日 (金)

西早稲田駅

開業したばかりの地下鉄副都心線に乗って、西早稲田駅に降りました。早稲田大学理工学部方面の改札口をでると、壁面に大きなステンドグラスが嵌っているのが目にとまりました。

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江戸時代から、昭和初期頃、あるいは現代の風俗までさまざまな様子が描かれています。おまけに、駅のホームに止まっている電車を断面で切り、内部を描いています。電車も細部にわたって精密に描かれていますし、人物も髷を結った江戸の町人から、現代の若者の風俗まで、実に精密に描いています。

Photo_4 よく見るとなかなかユーモラスなところもありおもしろく見ることができました。絵の作者は山口晃という人で、こういった細密な絵を描くのを得意としているようです。

 

 

 

 

 

Photo_2 ステンドグラスの技法の面から見ると、鉛線と、絵具で描く線とを、うまく使い分けています。鉛線はどうしても、線が太くなるので、おおきな輪郭に使い、さらに細い線は、絵具で描いています。

ステンドグラスそのものは、山口晃氏が製作したのではないのでしょうが、実際の原画から、色硝子のピースにわけて、さらに、硝子に描くか色硝子のピースにするかの選択など、原画を描いた側と、実際にステンドグラスを製作する側との緊密なコミュニケーションが必要だったのでしょう。この作品は、名前こそでていませんが、ステンドグラスを製作した人との共同作品とすべきなのでしょう。

さて、このステンドグラスで気になることが2点あります。

まず第1には、ステンドグラス1枚当りの大きさが大きいこともあるのでしょうが、補強の金物の影が目につきます。1枚あたり、横2本、縦1本はいっています。嵌っているところが、地下の壁面のために、外光が入らない場所で、内部から照明を当てていることもあるでしょうが、非常に目立ちます。

第2にステンドグラスの前に透明ガラスを嵌めていることです。そのために、天井の照明がガラスに反射して、移り込んでしまいます。これは、当然、ステンドグラスの保護のために必要だったのでしょうが、ステンドグラスはそのガラスを直にみなければ、その色のよさが見えてこないのです。透明ガラスをとおして見る、ということは当然その本来の色彩をみせていないということなのです。

ステンドグラスは、パネルとして製作すれば完成だとしたら、それはちがいます。いかにそれをよく見せられる環境の中で展示できるかを設定してこそ、完成したことになるのです。そのひとつが、照明の方法および、その配置です。ステンドグラスを保護するためといって、透明ガラスをとおしてしか見られないのでは、その良さも半減ですし、蛍光灯が映り込んだ絵をみてもすこしも感動がうまれません。少なくとも、ある程度の広い地点で見ても、照明が映り込まない配慮が必要です。そのためには、設置場所の照明器具の配置にまで建物の設計段階から検討をしておかなければなりません。その辺のきめ細かな配慮がまだまだです。

さて、改札口をでて、外に出るとそこはなんと、早稲田大学理工学部のキャンパスの中庭に出てきてしまいました。学校は駅から徒歩0分です。

2008年10月29日 (水)

旧十河信二邸ステンドグラス

十河信二といって、すぐ頭に浮かぶのは鉄っちゃんでも相当の人です。昭和30年から38年まで、第4代国鉄総裁を勤めた人です。“新幹線の父”とも呼ばれた人物で、国鉄全盛期に8年にわたって国鉄のトップに君臨していました。

その十河信二の自宅が本郷にありました。昭和12年に建てられた木造2階の建物です。戦後GHQに接収され、その後、国鉄の保養所「本郷閣」としてつかわれ、最後には、国鉄精算事業団によって取り壊されました。

その建物を取り壊す時、近辺で活動していた「たてもの応援団」というボランティア団体がマントルピースやステンドグラスを取り外し、近くの老人ホームのラウンジに移設したのだそうです。

Photo そのことを知ったのは、旧安田楠雄邸を見にいったときのこと、ステンドグラスの話をしていると、そのボランティア団体の案内をする人が、そのことを教えてくれました。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 さっそく、その老人ホームのロビーで、ステンドグラスを見させていただきました。デザインとして、なかなかモダンなデザインです。十河邸では、玄関の木製建具に嵌っていたようです。他の2枚の嵌め殺しはどこに嵌っていたのかはわかりませんが、こちらの方が出来はよさそうです。いわゆる点付のハンダをつかっているところは、あまり技術がいいとはおもえませんが、色使いから、そのデザインまで、しっかりとしたものになっています。

 

 

 

 

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大正から昭和初期頃の住宅がだんだんと消えていきます。最近、そんな建物探訪をしていると、ボランティア団体などが、その保存に活動しているのが目につきます。それ自体は大変すばらしいことだと思いますが、基本的には、自治体の文化財保護課が動かなければならないことです。しかし、自治体はお役所仕事です。自治体の動けないことを、やるのがボランティアだとしたら、ちょっと違うかな、と思います。

また、その建物を有効に利用するという名目で、内部を改造して、喫茶店にしたり、土産物の売場にしたり、果ては、美術館にまでしてしまうという建物を見かけます。建物の維持の為の資金をいくらかでもそのようにして調達するということ自体わからないでもありません。でも、その建物は、どこまで保存をしようとしているのかは、常に考えなければいけない問題です。たとえば、外観が残ればいいのか、竣工当時の状態に復原したらいいのか、改造をしていたとしたら、いつの時点の状態にまでもどしたらいいのか、消耗品はどこまで、新しくしたらいいのか、などなど、さまざまな問題をかかえることになります。

おそらく、建物を維持していると、常にこのような決断にせまられることになるとおもいます。そのとき、一体どういうコンセプトをもち続けられるかを問われることになります。

私はその決断をすること自体は重要なことだとおもいません。むしろ、それをちゃんと公開して、後世に伝えられるかが重要な問題だとおもいます。極端なことをいえば、まちがった選択をしたとしても、その経緯がちゃんと文書に残っていれば、後世の人は修正がきくのです。一番いけないのは、最新の材料をつかって、いかにも古そうに補うことです。しかも黙って何の記録もせずに。

以前書いた、復原の問題にまたもどってしまいました。結論がくりかえしになってしまいました。どうもやばいな!

2008年10月27日 (月)

ステンドグラス二題

昨日は、ステンドグラスを見に、都内の建物を二棟廻りました。

Photo まず最初は、三鷹にある旧山本有三邸です。大正時代に建てられたマントルピースが2つある洋館です。山本有三は昭和11年から昭和21年まで住んでいました。ステンドグラスが至る所に嵌っていましたが、どれも、黄色の型ガラスと透明の型硝子の構成のごく一般的ななデザインのもので、作家名は特定できません。大体が斜め格子状のデザイインで、色も黄色と透明を基調としています。

 

 

 

 

Photo_2Photo_3 その中でちょっとちがうデザインが1階の応接室にある嵌め殺し窓と、階段の踊り場の窓です。この階段の踊り場の窓がこの建物で一番おおきいステンドグラスです。でも、この階段踊り場という場所は、ステンドグラスのデザインを一番目立たせるポイントになる場所のはずなのですが、実におとなしい色彩構成になっています。まあ、建て主の好みがよくあらわれているところなのでしょう。

Photo_4 次に行ったところは、早稲田大学の大隈講堂です。ちょうどホームカミングデーの日で、この日には、いろいろなイベントが大学構内でやっていました。そして、去年改修工事をして、リニューアルされた講堂の中を案内してくれるツアーにまぎれこんで、大隈講堂の建物探険をしてきました。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5 まず案内されたのは、建物の横にベランダがあり、そこに大隈重信の別の銅像がありました。これは、今のガウンをきた像の前につくられたものだそうです。何か不具合があって、今の大隈像になったのだそうで、一般には公開していない銅像だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_6 そして、時計台の上にあがりました。時計台の塔の窓には、黄色一色のステンドグラスがところどころに嵌っていました。この建物のステンドグラスは大体が黄色の型板によるもので、デザインも一般的な斜め格子状のものです。

時計台の時計は、今回の改修で新しくしたようです。裏側から見ると単にスリガラスが嵌っているだけの実にシンプルな作りになっています。

 

 

 

 

Photo_7 大隈講堂の2階ロビーにある三つの丸窓が一番大きな窓です。

まわりはブルーの色の入った型ガラスで、中心は透明のダイヤという型ガラスなのですが、一番手前の中心の硝子4枚の内1枚が、カスミの型ガラスになっています。これは、おそらく改修工事の時、補修しなければならなかったのが、そのダイヤ柄の型ガラスの手に入らなかった為なのでしょう。

このように、昔の型ガラスはもう手に入らなくなってしまっています。ステンドグラスの内でも、オパールセントグラスのような手造りに近いガラス板は少量生産なので、比較的再現しやすいのですが、むしろ、大量生産品は、その当時の設備でつくらないと再現がむずかしく、また膨大な生産量が確保できなければ、1枚でも作れないのです。設備の復元をしたとしても、たった1枚の為に膨大な費用がかかるのです。

これから、明治大正昭和初期の建物の復原工事には、その当時の材料の確保という問題が必ず浮上することになります。今の内に何とかしなければならない問題です。

Photo_8 大講堂の中に入りました。もう何十年ぶりです。天井もきれいになりました。座席にすわると、あの頃が眼の前に現れてくるようです。

2008年10月25日 (土)

『鎌倉大仏殿』再考

Photo 一昨日(23日)に夕食をたべながら、テレビをみていると、フジテレビ『日本人テスト』というクイズ番組で、「鎌倉の大仏殿はなぜないのか?」という設問がありました。答えは、「津波で流されたから」が正解でした。おまけに、専門家らしき人のコメントがあり、「鎌倉大仏殿は津波で流されました。」と断言したのです。せめて、「・・・と古文書にあります。」ぐらい言ってくれると思ったのに、このブログで書いたことと違うことを言われたのでは、反論せざるをえません。そこで、2点にしぼって考察してみようとおもいます。

  1. 果たして、明応7年(1498)8月25日の地震で、大仏殿まで津波が到達したのか?
  2. そもそも、明応7年時に、大仏殿はあったのか?

1の考察

もう一度、その根拠となった史料を掲載すると、『鎌倉大日記』の明応4年8月15日の条に、

八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とありますが、この書物は、前掲の山本氏の論文(『続古地震』)によると、「日記とは称しながら、年表の類であり、・・・ 『塔寺八幡長帳』に次いで古い時代の成立と考えられる。」としています。さらに、「『塔寺八幡宮長帳』は毎年、その年の主な事件が記録されているもので、下記史料も明応7年に書かれたものとして間違いない。」としています。しかし、「『塔寺八幡宮続長帳』は、宝暦年間以降まとめて書かれているもの。」と言っています。

『塔寺八幡宮長帳』

明応七年八月二十五日、己刻ニ大地震アリ、此年鼠乱候、

『塔寺八幡宮続長帳』

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 さて、山本氏はまず、「千度壇」について、考察しており、『鎌倉大日記』に言う、“津波が千度壇に到った”というのは、先述したように、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。山本氏は明応の津波の高さはこの下馬四ツ辻の標高を規準にすべきとしていますが、下馬四ツ辻の標高を書いていません。そこで、「電子国土ポータル」で見てみると、標高は10m以上ではないようです。

そこで、平成12~13年度にかけておこなわれた鎌倉大仏周辺の発掘調査によると、現在の地表面は海抜約14m、大仏鋳造時の基盤面は約11mとしています。ここで気をつけなければいけないことは、関東大震災の時、地震によって約1~1.5m隆起していることです。つまり、隆起分を差し引いても、海面から大仏までの標高は10m前後となります。『鎌倉大日記』のとおりとすれば、大仏まで、津波がやっと届いたくらいでしょう。

Photo_3 また、大仏殿のある地形的特徴から、津波が急に狭い場所を通過するとき、その水位があがることもかんがえられますが、もし、大仏殿があったとしたら、その建物は今建築中の平城宮大極殿に匹敵する大きさとなります。地震で破損したとしても、直径70㎝にもなる柱を流すには、さらに1m以上の水位がなければ材木が流れません。しかも、このような巨大な建物をながすには、さらに水位が高くなければ、水の勢いもうまれないでしょう。

結論として言えることは、津波が大仏まで届いた可能性はあるが、建物を流し去るほどの水位にはなかった。とするべきでしょう。

 

2の考察

室町時代の禅僧だった、万里集九の書いた『梅花無盡蔵』(『続群書類従』12下)によると、文明18年(1486)10月23日に江戸城をたって、鎌倉に旅行しています。そして、翌24日には、寿福寺、長谷観音、大仏、八幡宮へと廻っています。

二十有四日丙申昧早。(中略) 遂見長谷觀音之古道場。相去數百步。而兩山之間。逢銅大佛。々長七八丈。腹中空洞。應容數百人。背後有穴。脱鞋入腹。僉云。此中往々博奕者白晝呼五白之處也。無堂宇。而露坐突兀。

万里集九は、大仏殿がなく、大仏は露坐だったこと、しかも、背中の穴から大仏の中に入り込んで、白昼、バクチをしている者がいた。と言っています。それだけ、寺は荒廃していたようです。

つまり、明応7年からさかのぼること12年前には、大仏殿がなかったということになります。それならば、その間に津波で流されるほどの建物が建ったのでしょうか。その可能性はほとんどゼロに近い。と言わざるをえません。

Photo_4 大仏殿は発掘調査によると、間口約44m、奥行約42m ということが判明しました。平井聖氏によると、建物の高さは、4Omにもなるだろうとしています。他と比較すると、現在の江戸時代建立の東大寺大仏殿は、間口約57m、奥行約52m、高さ約47mです。現在建築中の平城宮大極殿は、間口約44m、奥行約19.5m、高さ約29mです。いはば、東大寺大仏殿と大極殿の中間くらいの大きさになります。

江戸時代の東大寺大仏殿の工期を調べてみると、1688年釿始め、1696年に大工始め から上棟が1705年、落慶供養が1709年と、江戸時代でさえ、10数年の歳月がかかっています。また、現在建築中の大極殿でさえ、2001年から始まり、2010年の完成まで、工期はおよそ10年を見ています。鎌倉大仏殿は、発掘調査から、瓦が出土しないことから、萱葺か柿葺だろうとされていますが、それにしても、これだけの建物が工期的に12年の間で建つはずがありません。

しかも、室町時代の鎌倉は、都が移ったことにより急速に寂れていき、その当時、八幡宮でさえ、破壊された建物が造営できない状態で、大仏殿の再建の財政的な支えがどこにあったのでしょう。

ちなみに、今の大極殿の建設費はおよそ200億円だそうな。その当時、その程度の金が簡単にだせるパトロンが居たとは思えませんし、勧進した僧の記録もありません。

山本氏は、『鎌倉大日記』に言う「大仏殿の堂舎屋を破る」とは、高徳院の他の庫裏とか山門などの付属施設のことだろうとしています。しかし、発掘調査報告書によると、大仏の前面の土地は湿地帯で、建物の痕跡はなく、背後の山に近いところに、僧坊らしき痕跡があるとのことです。これは、まだ広範囲に発掘調査をしてみないとわからないところですが、どうも、『鎌倉大日記』の信憑性はさらに疑ってみないといけません。

大仏を覆う建物は、明応7年時点ではなかった。したがって、津波で流されたはずがないというのが結論です。

2008年10月23日 (木)

桃華楽堂の歌碑

先日、皇居東御苑に久しぶりに行ってきました。源護謨長さんのブログを見て、三の丸尚蔵館へ、行ってみたくなったのと、どうしても気になることがあって、足を運びました。大手門から入って、三の丸尚蔵館から、本丸へ、一応、天守閣のあった石垣にのぼって、桃華楽堂を見渡しました。

Photo そう、今回の目的は、今井兼次の設計した桃華楽堂を見ることでした。しかも、その建物のまわりに五基の歌碑が建っているのです。それをなんとか見たかったのです。

建物は八角形で、西面しており、この西の壁面から日月星辰、松竹梅、楽、雪月花、鶴亀、春夏秋冬、風水火、居食住のテーマを主題とするモザイクタイルを貼っています。

そして、壁面の継目にスリットがあり、その1階部分に歌碑が配置されています。

 

 

Photo 建物の向かって左は宮内庁楽部の建物があり、桃華楽堂の裏側は書陵部の建物があって、この建物の壁面すべてを見ることができません。歌碑は平面図で見ると、イボのようにでっぱったところに配置されており、敷地内に入らないかぎり、歌碑すべてを見ることができませんでした。

せめて、正面右にある歌碑は望遠でやっと、歌の文字を撮すことはできましたが、正面左の歌碑は、斜めの位置にあり、非常に読みにくかったのですが、わずかに判読することばから、歌がわかりました。

 

 

 

 

Photo_2 これは、向かって右の歌碑です。

遠くなり近くなるみのはまちとり なくねにしほのみちひきそ知る

この歌は、太田道灌が上総出陣の折り、夜の偵察をするのに、浜千鳥の鳴き声を聞いて、潮がどこまで引いていたかを知った、という故事に、太田道灌が引用したといういわれのある歌なのですが、誰が詠ったのかは、まだ調べがついていないのでよくわかりません。

 

 

 

 

 

Photo_3 向って左の歌碑は

みわたせばやなぎさくらをこき まぜてみやこぞ春のにしきなりける

のようです。古今和歌集に載っている、素性法師の歌です。

残りの歌は、わかりませんが、『新建築』1966年4月号で、今井兼次「回想寸描 皇后陛下御還暦記念楽部音楽堂について」で、この歌碑は今井兼次の発案で5首を選んだ、といっています。そのうちの一首は、大伴家持の歌で、

はるのそのくれなゐにはふもゝの花 したてるみちにいてたつをとめ

だと言っています。あと2首がわかりません。

さて、何故、この歌碑が気になるのかというと、この歌碑を揮毫したのは、私の大学院時代のゼミの先生、加藤諄先生だからです。今回、カメラの望遠を使って撮影した歌碑を見てみると、確かに先生の書体です。しかし、学生の時、先輩からそのことを聞かされましたが、そもそも、この東御苑に入ることさえできなかった時代で、その当時は見るすべもありませんでした。

まして、先生からは、この歌碑について、直接一度も聞いたことがありませんでした。いったいどういう経緯で書かれたのでしょうか。5首の選も先生はタッチしなくて、今井兼次が自身で選んだのでしょうか。とうとう、生前に聞くことがありませんでした。

2008年10月19日 (日)

パンフレット

Photo 展覧会や寺院へ行ったときのパンフレットはどうしてますか?これがたまると、以外とどうしようもなくなるのです。かといって、捨てるのは忍びない。というよりも、お寺のパンフレットは役にたつのです。いや、そう思ってため込んでいるのですが、ちょっと、お寺の縁起を知りたい、とか、宝物にどんなものがあったのか、など、ちょっとど忘れしたときに、便利なのです。

そう思いながら、ダンボールにほうりこんでいたら、そのダンボールもいっぱいになって、いよいよ整理しなければならなくなりました。まず、近くの100円ショップにいって、クリアファイルホルダーを買いました。中身も30枚入って100円です。

毎日すこしずつファイルに入れては、ファイルが足りなくなり、また買い足していくうちに、とうとう20冊にもなりました。とはいっても、ファイルの経費は数千円です。安いもんですが、整理し終わるのに、一週間かかりました。

これだけ、経費と手間をかけて、実際使うのだろうかと考えましたが、まあ、ダンボールにあるものを一日かけて探しまわるよりは、精神的なストレスはないだろうというのが結論です。

整理しても、どうせ見ないのだから、無駄だという発想は、整理したものが手元にないので、見なくなるということのほうが多いような気がするのです。つまり、整理するのが悪いのではなく、整理した後の置き方によるのです。

それで、結果的にサイドボードの上に置くことになりました。ちょうど、テレビの上にあたります。テレビを見ていると否応なしにファイルが目にはいります。そうすれば、ちょっと、ひらめいた時にすぐ探すことができます。

と本人は自負しているのですが、実際はどれだけ続けられるかが問題なのですが。

2008年10月17日 (金)

『秘仏への旅』展

Photo 島根県立古代出雲歴史博物館で10月4日から開催されている『秘仏への旅ー出雲・岩見の観音巡礼』展のカタログが、なんと東京の本屋の店頭に並んでいるのを発見して、さっそく購入しました。

まだ見ていない展覧会のカタログを、現物を見る前に見てしまうという、何か禁断の扉を開けるような、手品のネタを前もって見てしまうような心境です。

内容を見てみると、出雲・岩見地方の観音巡礼の寺にある仏像・絵画を中心に出品しているようです。出雲地方は、まだまだではありますが、一応主だった仏像の調査は進んでいるようですが、岩見地方は今まで、調査しているという情報がない地域です。今回、数体ではあっても、出品されたのは、目新しいことだと思います。

特に今回の目玉というべき、新発見の定徳寺の銅造観音菩薩立像は、注目すべき仏像です。カタログでは、法隆寺像と対比させていますが、確かに共通点が数多くあるようです。

このカタログでは、仏像を4方向から撮った写真を掲載しています。巻末には、島根県の観音霊場に関する史料も載せており、このカタログは資料としての使い方のできる本となっています。

ただ、惜しむらくは、これだけの仏像・仏画があるのですから、島根県の仏像・仏画といった総論があってもよかったのではとおもいます。論考の主なものは、観音巡礼に関することで、美術史的な論考がなかったのが、残念です。

私の知り合いで、もうすでにこの展覧会を見にいった方がおられます。ぜひ印象記を寄せていただければとおもいます。

さて、カタログを手に入れてしまったから、もう展覧会へは行かなくていいのか、といったら、そうも行かないのが、悲しいさがですな。実物の立体感を目に焼き付けることが、カタログという二次元のものとは絶対的に違うことを、体験するいい機会だと知ってしまっているのです。

でも、何の知識もなく実物を見て、その後カタログで復習したほうがいいのか、事前にカタログで予習して、その後実物をじっくり見たほうがいいのか、はむずかしい問題です。

最近は、事前に見たい対象を調べはしますが、その詳細までは、あえて知識をいれないで、まず自身の感覚を尊重するようにしています。しかし、この方法で一番注意しなければならないことは、その自分の感覚を過信してはいけないことです。ややもすると、自分の感覚が絶対だと勘違いしがちなのです。自身の感覚ほど、そのときの気分に左右されるいい加減なものだという自覚をもたないと、独善的になります。そこは気を付けないといけません。

逆に、事前に調べてから、実物を見ると、客観的な見方ができます。しかし、事前の知識はどうしても、細部にこだわる傾向にありますから、全体的な印象がどうしても薄れてしまいます。木を見て森を見ずということに陥りやすくなります。

どちらにして、しっかりと自分の脳に焼き付けることが必要ですが、これも、年齢という肉体的問題にぶちあたります。そうすると、あとは気力だけか。うーむ!

2008年10月15日 (水)

東博展覧会

Photo 例によって、病院通いのついでに、東博へ寄ってきました。、まだ12月4日までのパスポートのハンコが2つ残っていたので、今の内に消化するつもりで、と思ったのですが、まだ午前中なのに、ケースの前にはひとだかりで、並んでみるのもつかれるし、屏風は遠くからみればいいのですが、小さいものは、順番にということで、ザアー! と見ることになりました。

というよりも、この展覧会のテンコもりはすさまじいものがあります。最初の部屋から宗達、光悦のオンパレード。これでもか! と宗達、光琳がならびます。そのつぎは、光琳、乾山と絵画ばかりでなく、陶器もズラー! と並びます。やっと、酒井抱一が来ても、なんとおとなしい絵なのか、鈴木其一にいたっては、全然印象が薄れてしまってしまいました。

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もうこれでは、ゆっくり鑑賞するというよりも、ただただ疲れ果ててしまいました。これは、よっぽど気合いを入れて行かないと、ただ圧倒されてしまいます。ひとつひとつは、すばらしいものばかりです。でも、これだけ優品ばかりそろえて、さあ見てください! といってもねえ。

そんなわけで、大枚¥3000円をはたいて、カタログを買うはめになりました。こんな分厚いカタログでは、いったい本棚に収まるだろうか。きっとツンドクことになりそうです。

Photo_3 平常展の彫刻室に行くと、見慣れない仏像がありました。山梨県桑戸区の五大明王像です。どうも、修理が終わっての展示のようです。きれいに、彩色がおちて素木になっています。もともと素木だったのかは、わかりませんが、表面をきれいにしたのでしょう。でもちょっときれいすぎです。

 

 

 

 

 

Photo_4 康円の文殊五尊像もありました。これは一体ずつケースにいれているので、それぞれよく見ることができました。康円はちょっと特徴のある様式を見せています。もっとよく見るとおもしろいかもしれません。調べることがまたふえてしまいました。

2008年10月12日 (日)

青淵文庫・晩香盧

Photo 飛鳥山の一角にある、大正時代の建物の青淵文庫と晩香盧を見てきました。毎週土曜日の12:30~15:45 しか内部公開していない建物です。飛鳥山一帯はもともと、渋沢栄一の別荘だったところです。

青淵文庫はその中で、いはば蔵書を納めるための図書館として建てられました。ところが、建築中に関東大震災に会い、竣工したのは、大正14年のことでした。一階が閲覧室で、2階が書庫になっています。

 

 

 

Photo_2 閲覧室のランマの窓に4枚のステンドグラスが嵌っています。中央の2枚は中心に「壽」の文字を表現し柏の葉4枚を十字におき、両脇には昇り竜と下り竜を配置しています。竜の眼だけアンティークガラスを使い、あとは、オパールセントグラスを使っています。

内部からは撮影禁止でしたので、外部からの撮影ですが、新しく付けられた、真鍮の補強材の取付状況がわかります。この補強は内部からもおこなっており、上下の端の部分で、鉛線に沿って変形した真鍮を使っています。

この建物は、平成14年3月から15年3月の間に保存修理工事が行われ、平成15年3月には施工した清水建設の編集によって『青淵文庫保存修理工事報告書』が刊行されています。

Photo_3 この本はA4版 総ページ423頁、写真等図版44枚にも及ぶ分厚い本ですが、一枚のCDROMになって販売されていました。

この報告書は、以前にも書いた『前川国男邸』の報告書に匹敵するくらい、詳細な報告書です。

まず、この修理工事に携わった、専門工事業者の現場責任者、いはば、専門の職人の名前が載っています。これで誰がどういう仕事をしたのか、その道の人ならば、だいたい推測できます。

とくに開口部の修理は、今回は窓などの建具はすべて取り外し、ガラスまでもすべてはずしています。その当時は当然パテ施工なので、石のように硬化したパテを千枚通しと小玄能で根気よく取り外しています。

しかも、普通の硝子で、破損した硝子の代替え品をどう調達したらよいかの検討までしています。創建当時の硝子は、今の技術で再現するには、膨大な費用がかかりますので、どこかの建物に嵌っていた硝子を、取り壊しのときに入手するとかまで、考慮しています。

しかも網入り硝子の網の形状まで調査して、いつ、どのメーカーの製品かの考察までしています。

これだけの調査、考察をしていると、次回の修理工事のときには、実にスムースに仕事が運ぶとおもいます。また、これによって、いままでの技術の継承が確実なものとなるのでしょう。

しかし、これからの保存修理工事は、明治大正期に製作された建材をいかにして入手して、ストックしておくかが課題となるのでしょう。もう今からでも探しておかなければ、どんどん無くなっていってしまいます。

職人から職人へ、手取り足取り教えるのが技術の継承ではないはずです。しっかりとした文書に残すことのほうが、さまざまな情報の入手に役立ちますし、一方的な偏った技術の伝承を防ぐことができます。

Photo_4 もうひとつの建物、晩香盧 は木造平屋の建物で、大正6年竣工です。渋沢栄一のいはば、接待所として使った建物です。便所、厨房の入口のドアにステンドグラスが嵌っています。出窓もそうですが、これは単一の硝子になっています。

この建物も平成11年に改修工事をしています。そのとき、ステンドグラスの補修をしているようです。出窓のガラスには、型と色が微妙にちがう硝子が嵌っています。

この建物は修理工事報告書がないので、どこを修理したのかわかりません。この建物も内部からの撮影禁止のため、外部からの撮影です。とくに右の便所の扉のステンドグラスは外部の窓硝子を通してなので、反射しています。ステンドグラスは、内部から光を通して見るのが普通です。どうして撮影禁止なのでしょう。

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2008年10月10日 (金)

ピカソ展

Photo 急遽六本木へ行く仕事がありました。仕事が終わってさてどうしようか、と思ったら、新美術館でピカソ展をやっているな、開館からまだ新美術館の建物もまだよくみてないな、と・・・

それで、まず新美術館へ、170点もの絵画、彫刻が時系列で展示されていました。

西洋美術、とくに近現代美術は守備範囲外なので、まったくの、前知識なく美術作品を見るのもいいな、と思ったりして、ただ自分の感性だけで見ると、今の年でどういう印象を持つだろうかとも考えたりして、見てみました。

ピカソはそれでも、キュビズムがあまりに有名で、前知識なく見るというのは不可能ではあるのですが、それでも、何で突然、あんな顔が描けるのだろう? と思ったりして、どうも理屈が先走りして、やっぱり、よくわからないということになってしまいました。

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もうひとつ、サントリー美術館でも、ピカソ展を同時開催していましたので、これも見なければと、行きました。サントリー美術館は新美術館ほどの数はありませんがピカソのポートレートに特化した展示でした。

何の前知識もなく、美術館作品を見るというのは、なにかすごいインパクトがあるのではないかと期待してしまうのですが、年令のせいでしょうか、若い頃の清新な感動を味合うことができません。

感性は磨いて研ぎ澄まさないと錆びるものだということが思い知らされました。その分、理屈でカバーしてしまうのはどうもなさけない気がしないでもありません。

Photo_3 黒川紀章設計の新美術館の建物がいま、どうなっているのかが心配で、よく見てきました。これだけのガラスカーテンウォールのメンテナンスはどのようにしているのだろうか、という疑問があったからです。

以前、六本木ヒルズの森美術館から、新美術館の屋根を見おろしたところ、屋上にゴンドラのレールが敷いてあるのを見ました。つまり、ゴンドラで、外部のクリーニングをするような設備があるのですが、上から吊ったのでは、ガラス面からかなり離れた場所ができて、非常に拭きにくいのは明らかです。

しかも、ガラス一枚ごとに、一枚ずつガラス庇がついていたのでは、とってもじゃないけど、うまく拭けないのはあきらかです。

 

 

 

Photo_4 案の定、庇のうえにはもうゴミがたまっていました。

やっぱりねー。

2008年10月 8日 (水)

『鎌倉大仏殿』考

源護謨長さんから、鎌倉大仏の建物が津波によって流されたというコメントを読んで、エエ!と思いました。まず、海岸からおよそ800mはなれている場所まで、津波がおそってきたのだろうか。おまけに、大仏のある場所は、鎌倉地方独特の谷戸の中にあり、標高も十数mはあるはずです。現に今でも歩くと長谷からゆるい坂道をのぼって高徳院にたどりつきます。

Photo

まず、その史料をさがしてみると、『鎌倉大日記』(昭和12年頼朝会刊)の明応4年の条に

 八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とあるのが根拠になっているようです。しかし、山本武夫氏は『続古地震ー実像と虚像』の第Ⅱ部 各論/第13章『古地震』補説/二 明応七年(一四九八)の海洋地震ー伊豆以東における諸状況(P343~P356)のなかで、この『鎌倉大日記』の記載文について詳細な検討をしています。

明応4年8月15日は、他の史料から、明応7年(1498)8月25日であり、『鎌倉大日記』の日付は誤記であるとされています。一番信頼される文書の『塔寺八幡宮続長帳』によると

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 山本氏によると、津波の到達点は、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。大仏殿まで、津波が届いたのかという問題については、考えにくいとしています。『日本被害津波総覧』によると、津波の高さは最大で8m以上としていますが、山本氏は大仏の殿舎が津波によって破壊されたというのには、疑問を差し挟んでいます。大仏殿はそれ以前の文明18年(1486)の時点ですでに建物はなく、露坐の状態であったことが『梅花無尽蔵』(『続群書類従』12下)に書かれており、その当時の寺の状況は無住で、荒れた状態のため、1498年までに建物が建てられる財政状況にはない、と推測しています。

ちなみに、関東大震災のとき、鎌倉を襲った津波は最大6m程度だったとされています。このとき、鎌倉大仏は基壇が破壊され、前面で一尺沈下、大仏は一尺以上前に辷り出し、僅かに西寄に向いたとされ、津波の被害はありませんでした。

つまり、大仏殿は、応安2年(1369)9月3日大風で転倒してから、建物は建てられず、大仏は露坐のまま現在にいたったということのようです。

Photo_3 さて、昭和36年の修理で、免震工事をしたと、書きましたが、その当時の免震工事はどのような方法だったのかが興味あるところです。もちろん、平城宮の大極殿のような今の最先端技術ではなく、その当時の免震技術がどのようなものだったかは、もうちょっと調べてからご報告します。とりあえず、昭和36年には、ジャッキで大仏を55cm揚げたそうです。そのとき測定した重量が122トンだったそうです。

2008年10月 6日 (月)

初秋の鎌倉(承前)

Photo 鎌倉大仏は久しぶりの拝観でした。今回ははじめて、大仏の内部に入りました。といっても昔入った記憶はあるのですが、全然おぼえていません。

内部にはいると、銅造の鋳造の様子がよくわかります。いわゆる鋳繰りの方法は、この大仏では3種類の方法が用いられていると説明されています。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 まず「技法1」は鋳継の部分が横に太い帯状に出っ張っているのが、よくわかります。

「技法2」はボルトの頭のようになっているところがそれです。

「技法3」は肩の曲線部分に用いられた最も巧妙な手法です。

鎌倉大仏は、奈良の大仏と違って、螺髪も一緒に鋳造しています。内部から見るとそれがよくわかります。

 

 

Photo_4Photo_5  昭和36年に行われた修理報告書によると、頸部の修理と、台座の免震工事、裳先の修理工事を行っています。

たしかに、この大仏の頭部は前にかがんでおり、頚部に相当の負荷がかかっているのは、容易に推測できます。

おそらく、赤い部分がその時の修理で、FRPを接合して補強した所だとおもいます。

これだけの鋳造技術は本当にすばらしいものだとおもいます。手をあてると、日の当たっているところが暖かいのです。何か昔の工人の思いが伝わってくるようです。

もどって、鎌倉国宝館へ、行こうとしたら、ちょうど流鏑馬をやっている最中に当たりました。ところが、流鏑馬の馬場は、八幡宮から直角にあり、通り抜けできません。しかたなく、大回りして国宝館へ行くしかありませんでした。

Photo_2 そのため、いつも八幡宮の境内にはいっても、本殿にお参りすることはありませんでしたが、ひょんなことから、お参りすることになりました。ついでに宝物館も見学となりました。

鎌倉国宝館へ行くと、その入口の前で規制線があり、国宝館へはガードマンの許可がないとはいれませんでした。ということは、国宝館へ行くといって中にはいれば、流鏑馬が目の前で見られるということになったのです。しかも、国宝館の入口の階段からは、丸見えです。

 

 

 

 

 

 

Photo_3 そんなこんなで、流鏑馬に目を奪われてしまいましたが、国宝館の入口の扉には、小川三知のステンドグラスが嵌っているのです。

馬が来るまでは、ステンドグラスをみて、馬が走り出すというアナウンスがあると、一瞬走り抜けるのを待って目をこらしたりと、いそがしくして、見ていました。

 

 

 

Photo_4Photo_5 さて、小川三知のステンドグラスは非常にオーソドックスなデザインです。たしかに、今まで何度となく、国宝館に行っても、そんなに印象がありませんでした。今回、近くで詳細に見てみると、その丁寧な仕事ぶりがわかります。とくに補強の真鍮棒は、実にうまく接合されていました。小川三知はデザインだけではなく、確かな技術も持っていたのがよくわかります。

2008年10月 4日 (土)

初秋の鎌倉

初秋の鎌倉へ遊んできました。

  • 旧華頂宮邸→報国寺→釈迦堂切通→
  • 鎌倉文学館→長谷寺→高徳院→
  • 鶴岡八幡宮→鎌倉国宝館→流鏑馬

という旅程でした。今回は10月4,5日しか内部の公開をしない旧華頂宮邸を見ることがメインでした。

Photo 旧華頂宮邸は浄明寺の谷戸の奧にあります。昭和4年竣工のハーフティンバースタイルの建物ですが、今まで見た洋館の中で、ここには、和室がありました。ちょっと違和感のある部屋ではありましたが。

この建物には玄関はじめ、ちょっとした窓にステンドグラスが嵌っていましたが、どれもいわゆる抽象模様のものでした。しかも、アンティークガラスを使った外が見通せる窓で、とりわけ変わった意匠ではなく、ごくありふれた模様のステンドグラスでした。

 

 

 

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 Photo_4                       

 

 

 

 

 

 

 

 釈迦堂切通しに行くと、説明板は、この付近に釈迦堂があったと記されていましたが、その釈迦堂には今、目黒の大円寺にある清凉寺式釈迦如来立像があったと書いてありました。しかし、その釈迦堂はいまだその位置が不明だそうです。

Photo_5 鎌倉文学館は旧前田家の別邸だった建物です。昭和11年竣工です。この建物は南面した斜面の実に風光明媚な所に建てられています。

この建物には、南面の庭に面したところのランマ窓や単独の窓にステンドグラスが嵌っています。しかし、抽象模様がほとんどで、丸窓や六角形窓にオパールセントグラスを多用した現代的なデザインのステンドグラスがありましたが、ちょっと違和感があり、もしかしたら新しいのかもしれません。

 

 

 

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次に続く。

2008年10月 1日 (水)

『日本美術史の杜』

Photo 『村重寧先生星山晋也先生古稀記念論文集 日本美術史の杜』が出版されました。村重・星山両先生は、早稲田大学文学部美術史学科で教えられた先生です。今年、村重先生が、来年、星山先生が定年を迎えられることになりました。

両先生とも、私は教えを受けてはいませんが、いろいろな場面でお世話になっていました。多分両先生はご存知ではないとおもいます。

この論文集は、先生の教え子だけではなく、両先生の交友関係から、早稲田大学以外の人の論文が入っています。そういった意味では、バラエティーに富んだ、そして質の高い論文集になっていると思います。

とくに、星山先生は、彫刻から絵画まで、じつに幅広い分野を研究しておられた人なので、その教え子も多岐に渡っているのが特徴です。

とりあえず、その目次をあげておきます。

  • 成澤勝嗣 「序」 1p~3p
  • Ⅰ章 宗教と造形
  •  百橋明穂 「古墳壁画の図像学ー高松塚・キトラ両壁画墓をめぐってー」 12p~26p
  •  山田磯夫 「鶴林寺所蔵聖観音菩薩立像の復元と造仏工」 27p~41p
  •  岩佐光晴 「仏師稽文会・稽主勲をめぐって」 42p~60p
  •  川瀬由照 「唐招提寺の造営と智努王」 61p~73p
  •  東野治之 「『招提寺流記』資財部の復原的研究」 74p~86p
  •  松原智美 「『諸説不同記』の「現圖」ー像容記述の問題を中心としてー」 87p~105p
  •  長坂一郎 「滋賀県・鳥居堂男神像についてー立像神像についての一考察ー」 106p~123p
  •  原口雅樹 「三条南、京極東、明円堂ーある仏所の終焉ー」 124p~140p
  •  鈴木泉  「川崎市大楽院・木造釈迦如来坐像考ー主に胎内墨書銘の検討からー」 141p~154p
  • Ⅱ章 絵巻と水墨画
  •  山本陽子 「『鳥獣戯画』甲巻の的弓場面の逆向性について」 156p~168p
  •  山本聡美 「「病草紙」の典拠ー『正法念処経』身念処品と現存二十一場面との対応関係ー」 169p~192p
  •  梅沢恵  「法隆寺献納宝物四幅本聖徳太子絵伝について」 193p~209p
  •  相澤正彦 「石山寺縁起絵巻第四・五巻の絵師について」 210p~224p
  •  内田啓一 「法金剛院本「清凉寺大念仏縁起絵巻」について」 225p~239p
  •  山田烈  「明兆筆白崖宝生像」 240p~253p
  • Ⅲ章 近世の諸相
  •  榊原悟  「文字絵の図像学」 256p~280p
  •  大口裕子 「伊勢物語絵四段「西の対」享受考」 281p~288p
  •  井澤英理子「又兵衛風の曽我物語図屏風の量産について」 289p~303p
  •  菅野貴子 「京都国立博物館本≪探幽縮図≫にみる狩野探幽と武家との交流」 304p~320p
  •  竹内奈美子「三つの秋野蒔絵硯箱」 321p~334p
  •  杉本欣久 「京の町絵師・宮崎友禅の意匠性と友禅文様ー江戸時代の京都にみる淡雅の系譜ー」 335p~351p
  •  江村知子 「尾形光琳筆「四季草花図」について」 352p~365p
  •  斉藤全人 「始興再考ー光琳との関係性をめぐってー」 366p~380p
  •  福田道宏 「京都画壇の名門狩野正栄家についてー『狩野家一件』の紹介と歴代の事績を中心にー」 381p~399p
  •  吉田さち子「「大宋屏風」復古図様の検証ー出納平田家資料によるー」 400p~418p
  •  成澤勝嗣 「小原慶山が描いた二つの王陽明像」 419p~427p
  •  塚原晃  「田善とテンセンー亜欧堂系銅版江戸名所図における景観図像的諸問題ー」 428p~444p
  •  大久保純一「名所絵の流通」 445p~458p
  • Ⅳ章 中国への交感
  •  中野照男 「敦煌文書の真贋をめぐる覚書」 460p~472p
  •  橋詰文之 「宋時代の青銅器ー特に瓶の特色について」 473p~481p
  •  陳逹明  「山水画の画題と製作についてー「瀟湘八景図」を中心にー」 482p~500p
  •  近藤秀實 「望郷の虹橋ー呉彬の実像ー絵画編(1)」 501p~517p
  •  高橋亜季 「黄檗絵画における渡来明清絵画という「物」と「人」」 518p~531p
  • Ⅴ章 近代絵画と写真
  •  岡戸敏幸 「澄子ゑがくー沼波武夫『ミカヅキサマ』についてー」 534p~550p
  •  江川佳秀 「日本美術の後背地ー日本人美術家にとっての「満州」」 551p~567p
  •  佐々木利和「古写真『志村弥十郎』が齎す情報について」 568p~575p
  •  金井杜道 「眼の記憶から」 576p~588p
  •  堀宜雄  「『NIPPON』考・序」 589p~603p
  • 江村知子 「編集後記」 604p~606p
  • 「村重寧先生/略年譜・著作目録(抄)」 607p~610p
  • 「星山晋也先生/略年譜・著作目録(抄)」 611p~613p

定価¥23,000円はちょっと勇気がいりますが、読み応えはある論文集ではあります。

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