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2008年10月25日 (土)

『鎌倉大仏殿』再考

Photo 一昨日(23日)に夕食をたべながら、テレビをみていると、フジテレビ『日本人テスト』というクイズ番組で、「鎌倉の大仏殿はなぜないのか?」という設問がありました。答えは、「津波で流されたから」が正解でした。おまけに、専門家らしき人のコメントがあり、「鎌倉大仏殿は津波で流されました。」と断言したのです。せめて、「・・・と古文書にあります。」ぐらい言ってくれると思ったのに、このブログで書いたことと違うことを言われたのでは、反論せざるをえません。そこで、2点にしぼって考察してみようとおもいます。

  1. 果たして、明応7年(1498)8月25日の地震で、大仏殿まで津波が到達したのか?
  2. そもそも、明応7年時に、大仏殿はあったのか?

1の考察

もう一度、その根拠となった史料を掲載すると、『鎌倉大日記』の明応4年8月15日の条に、

八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とありますが、この書物は、前掲の山本氏の論文(『続古地震』)によると、「日記とは称しながら、年表の類であり、・・・ 『塔寺八幡長帳』に次いで古い時代の成立と考えられる。」としています。さらに、「『塔寺八幡宮長帳』は毎年、その年の主な事件が記録されているもので、下記史料も明応7年に書かれたものとして間違いない。」としています。しかし、「『塔寺八幡宮続長帳』は、宝暦年間以降まとめて書かれているもの。」と言っています。

『塔寺八幡宮長帳』

明応七年八月二十五日、己刻ニ大地震アリ、此年鼠乱候、

『塔寺八幡宮続長帳』

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 さて、山本氏はまず、「千度壇」について、考察しており、『鎌倉大日記』に言う、“津波が千度壇に到った”というのは、先述したように、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。山本氏は明応の津波の高さはこの下馬四ツ辻の標高を規準にすべきとしていますが、下馬四ツ辻の標高を書いていません。そこで、「電子国土ポータル」で見てみると、標高は10m以上ではないようです。

そこで、平成12~13年度にかけておこなわれた鎌倉大仏周辺の発掘調査によると、現在の地表面は海抜約14m、大仏鋳造時の基盤面は約11mとしています。ここで気をつけなければいけないことは、関東大震災の時、地震によって約1~1.5m隆起していることです。つまり、隆起分を差し引いても、海面から大仏までの標高は10m前後となります。『鎌倉大日記』のとおりとすれば、大仏まで、津波がやっと届いたくらいでしょう。

Photo_3 また、大仏殿のある地形的特徴から、津波が急に狭い場所を通過するとき、その水位があがることもかんがえられますが、もし、大仏殿があったとしたら、その建物は今建築中の平城宮大極殿に匹敵する大きさとなります。地震で破損したとしても、直径70㎝にもなる柱を流すには、さらに1m以上の水位がなければ材木が流れません。しかも、このような巨大な建物をながすには、さらに水位が高くなければ、水の勢いもうまれないでしょう。

結論として言えることは、津波が大仏まで届いた可能性はあるが、建物を流し去るほどの水位にはなかった。とするべきでしょう。

 

2の考察

室町時代の禅僧だった、万里集九の書いた『梅花無盡蔵』(『続群書類従』12下)によると、文明18年(1486)10月23日に江戸城をたって、鎌倉に旅行しています。そして、翌24日には、寿福寺、長谷観音、大仏、八幡宮へと廻っています。

二十有四日丙申昧早。(中略) 遂見長谷觀音之古道場。相去數百步。而兩山之間。逢銅大佛。々長七八丈。腹中空洞。應容數百人。背後有穴。脱鞋入腹。僉云。此中往々博奕者白晝呼五白之處也。無堂宇。而露坐突兀。

万里集九は、大仏殿がなく、大仏は露坐だったこと、しかも、背中の穴から大仏の中に入り込んで、白昼、バクチをしている者がいた。と言っています。それだけ、寺は荒廃していたようです。

つまり、明応7年からさかのぼること12年前には、大仏殿がなかったということになります。それならば、その間に津波で流されるほどの建物が建ったのでしょうか。その可能性はほとんどゼロに近い。と言わざるをえません。

Photo_4 大仏殿は発掘調査によると、間口約44m、奥行約42m ということが判明しました。平井聖氏によると、建物の高さは、4Omにもなるだろうとしています。他と比較すると、現在の江戸時代建立の東大寺大仏殿は、間口約57m、奥行約52m、高さ約47mです。現在建築中の平城宮大極殿は、間口約44m、奥行約19.5m、高さ約29mです。いはば、東大寺大仏殿と大極殿の中間くらいの大きさになります。

江戸時代の東大寺大仏殿の工期を調べてみると、1688年釿始め、1696年に大工始め から上棟が1705年、落慶供養が1709年と、江戸時代でさえ、10数年の歳月がかかっています。また、現在建築中の大極殿でさえ、2001年から始まり、2010年の完成まで、工期はおよそ10年を見ています。鎌倉大仏殿は、発掘調査から、瓦が出土しないことから、萱葺か柿葺だろうとされていますが、それにしても、これだけの建物が工期的に12年の間で建つはずがありません。

しかも、室町時代の鎌倉は、都が移ったことにより急速に寂れていき、その当時、八幡宮でさえ、破壊された建物が造営できない状態で、大仏殿の再建の財政的な支えがどこにあったのでしょう。

ちなみに、今の大極殿の建設費はおよそ200億円だそうな。その当時、その程度の金が簡単にだせるパトロンが居たとは思えませんし、勧進した僧の記録もありません。

山本氏は、『鎌倉大日記』に言う「大仏殿の堂舎屋を破る」とは、高徳院の他の庫裏とか山門などの付属施設のことだろうとしています。しかし、発掘調査報告書によると、大仏の前面の土地は湿地帯で、建物の痕跡はなく、背後の山に近いところに、僧坊らしき痕跡があるとのことです。これは、まだ広範囲に発掘調査をしてみないとわからないところですが、どうも、『鎌倉大日記』の信憑性はさらに疑ってみないといけません。

大仏を覆う建物は、明応7年時点ではなかった。したがって、津波で流されたはずがないというのが結論です。

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