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2008年10月 8日 (水)

『鎌倉大仏殿』考

源護謨長さんから、鎌倉大仏の建物が津波によって流されたというコメントを読んで、エエ!と思いました。まず、海岸からおよそ800mはなれている場所まで、津波がおそってきたのだろうか。おまけに、大仏のある場所は、鎌倉地方独特の谷戸の中にあり、標高も十数mはあるはずです。現に今でも歩くと長谷からゆるい坂道をのぼって高徳院にたどりつきます。

Photo

まず、その史料をさがしてみると、『鎌倉大日記』(昭和12年頼朝会刊)の明応4年の条に

 八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とあるのが根拠になっているようです。しかし、山本武夫氏は『続古地震ー実像と虚像』の第Ⅱ部 各論/第13章『古地震』補説/二 明応七年(一四九八)の海洋地震ー伊豆以東における諸状況(P343~P356)のなかで、この『鎌倉大日記』の記載文について詳細な検討をしています。

明応4年8月15日は、他の史料から、明応7年(1498)8月25日であり、『鎌倉大日記』の日付は誤記であるとされています。一番信頼される文書の『塔寺八幡宮続長帳』によると

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 山本氏によると、津波の到達点は、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。大仏殿まで、津波が届いたのかという問題については、考えにくいとしています。『日本被害津波総覧』によると、津波の高さは最大で8m以上としていますが、山本氏は大仏の殿舎が津波によって破壊されたというのには、疑問を差し挟んでいます。大仏殿はそれ以前の文明18年(1486)の時点ですでに建物はなく、露坐の状態であったことが『梅花無尽蔵』(『続群書類従』12下)に書かれており、その当時の寺の状況は無住で、荒れた状態のため、1498年までに建物が建てられる財政状況にはない、と推測しています。

ちなみに、関東大震災のとき、鎌倉を襲った津波は最大6m程度だったとされています。このとき、鎌倉大仏は基壇が破壊され、前面で一尺沈下、大仏は一尺以上前に辷り出し、僅かに西寄に向いたとされ、津波の被害はありませんでした。

つまり、大仏殿は、応安2年(1369)9月3日大風で転倒してから、建物は建てられず、大仏は露坐のまま現在にいたったということのようです。

Photo_3 さて、昭和36年の修理で、免震工事をしたと、書きましたが、その当時の免震工事はどのような方法だったのかが興味あるところです。もちろん、平城宮の大極殿のような今の最先端技術ではなく、その当時の免震技術がどのようなものだったかは、もうちょっと調べてからご報告します。とりあえず、昭和36年には、ジャッキで大仏を55cm揚げたそうです。そのとき測定した重量が122トンだったそうです。

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コメント

  やっぱし、私もよくあんなに奥まで津波が来るものかな、と思っていました。でも、三陸海岸のようなリアス式ではないにしろ、相模湾は入江だし、そのようなことがあったかもしれないと思っていました。しかし、津波で倒れたとはよく出てくる話です。やはり、伝聞は確認しなければいけませんね。

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