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2008年12月

2008年12月31日 (水)

シソーラス

440 『MUSEUM』440号で、コンピューターの特集を組んだのは、1987年11月号でした。ちょうど、その年の6月に東芝のJ-3100というラップトップを大枚はたいて買って、悪戦苦闘中だった時です。その頃は、大型コンピューターでしかできなかったことが、いわゆるパソコンでも可能なレベルに近づいた時期でした。そのため、この特集は論文というよりも、パソコンで何ができるか、というパソコンの機能の紹介のようなものでした。美術史学としての興味は、画像処理の方にむいていたようにおもいます。

しかし、パソコンという得体の知れない物を手元に置いて、何をしようかと考えたとき、個人でできるのは、文献目録しかないとおもいました。まだまだ画像処理は大型機でしか、できるレベルにはなっていませんでした。

それで、データベースソフトを使って、データベースの構築に労力を使うことにしました。『MUSEUM』454号(1989年1月)に「機械処理による目録データの加工」という論文が掲載されました。これは、東京国立博物館の所蔵品の目録をデータベースにするという作業についての経験談のようなものでした。

Photo_2 紙に書かれた収蔵品目録をいかにしてデータベースソフトに入力するかという論考でしたが、要は、紙に書かれたデータはそのままでは、書式が統一されておらず、文章での解説は、データベースとしての機能におさまらないので、紙台帳を加工しなければならなかったのですが、そのために、新たに紙台帳をつくりなおしたり、データの入力を外部委託したために、その作業要領を作成しなければならなかったり、実に非効率なやり方でした。しかも、使用するソフトはバージョンが古いものを使用するといった具合でした。

これは、コンピューターのソフトを扱える、または、その機能に熟知している美術史研究者がいないために、データベース設計が自由に行えなかったことによるものでした。当時、その論文を読んで、何てめんどくさいことをやっているのだろうと、歯がゆさを感じたものでした。

 

 

Photo その一方で、美術史のデータベース作成の研究もすこしずつですが、進んできました。筑波大学では、『日本美術シソーラスデータベース』の研究が1992年からはじまりました。おもに絵画のデータベースの構築をめざしたようです。ここで、問題となったのが、日本美術のシソーラス作成の問題です。シソーラスとは、『類義語辞書』とでもいうべきもので、言葉(専門的主題語=ディスクリプタ)をグルーピングして、階層化することによって、検索もれを防ぐものです。つまり、美術史に使われる用語をピックアップして、その上下関係を明確にした、木構造にすることなのです。

ということは、美術史において使われている用語のしっかりとした定義が必要となるのです。また、新しい概念が現れれば、その更新もしなければなりません。

筑波大学は、結局のところ、データベースの構造と、いくらかの分類をしただけで、このプロジェクトは終了してしまいました。

既存の美術史用語を蒐集し、それからシソーラスを構築しようとしたことに、何らかの問題があったようにおもいます。美術史用語のしっかりとした、定義がなければ、木構造として配置することは不可能です。

「半跏像」とは、「踏下像」とは、といった定義がなければ無理なのです。その作業ができていなかったのではと思います。

そして、今や検索は、自然言語によるのが主流になってしまっていますが、それでもシソーラスの有効性はまだ消え失せてはいないと思います。誰がやるのかだけなのですが。

今年3月よりはじまったこのブログ、何とか年を越せそうです。読者の皆様には、影日向に、ご支援をいただきまして、何とか続けることができました。来年もまた、今年と相変わりもせず、ご支援ご鞭撻をよろしくお願いいたします。 謝。

2008年12月28日 (日)

運慶の思い出

Photo 『芸術新潮』が久しぶりに仏像の特集をしました。このところ注目をあびている「運慶」です。

運慶の判明している全作品を時系列に見ていくと、改めて運慶のすごさがわかります。いままでは、断片的にしか見てこなかったせいか、今ひとつ運慶の作品の流れがつかめなかった一面がありました。

それは、願成就院像と浄楽寺像がどうも結びつかなかった気がしたからでした。しかし、全体的に見てみると、運慶の作風の共通性がなんとなく感じられるような気がします。

それにしても、運慶という作家の変遷を整理してまとめてくれると、なるほどと納得することしきりです。

昔、大学院生だった頃、先輩から誘いを受けて、浄楽寺の調査に同行することができました。調査者は久野健氏。写真は田枝幹宏氏でした。浄楽寺の収蔵庫で、田枝氏は助手の人にライテイングをさせて、8×10のカメラで写真を取っていました。久野健氏は仏像を見ながら、大学ノートにちょこちょことメモをしていました。

Photo_2 収蔵庫の中には、寺側の人が立ち会っておらず、我々しかいませんでしたので、仏像の背面を撮影しようということになりました。どうも、仏像を動かすことは、寺側の許可を取っていなかったらしく、お寺の人がいないうちに取ってしまおうということになって、仏像を台座ごとを回転することにしました。撮影の間、じゃまがはいるとまずいので、収蔵庫の外で、見張りをすることになりました。私と、久野健氏の娘さん(当時はまだ高校生だった。)と収蔵庫のそとで、見張番でした。彼女はその当時はあまり仏像には興味がなかったらしく、入口の外の階段に坐って文庫本を読んでいました。

 

 

 

 

 

Photo この時の写真は、のちに『運慶の彫刻』(昭和49年10月刊)という本として出版されました。今、この本を見てみると、そこにとりあげている運慶の仏像は、円成寺、願成就院、浄楽寺、東大寺南大門、興福寺北円堂、金剛峯寺、六波羅蜜寺の諸像だけでした。

最近発見の光得寺、真如苑、称名寺光明院像はもちろんのこと、滝山寺、興福寺仏頭、東大寺重源像もこの本ではとりあげていなかったのです。

その間30数年にこれだけ作品がでてくるとは、実に隔世の感があります。

快慶も作品が数多く発見されています。最近でも、善光寺にある像がそうかもしれないという報道がありました。快慶はさらに多くの作品がありますので、それを時系列で見せてくれる日が待ち遠しくおもいます。

2008年12月24日 (水)

『坐勢』考

最近、仏像の入門本が相次いで出版されているようで、ある人から、今は仏像ブームなんだって?と聞かれます。たしかに、仏像研究者による、仏像入門の本が先月相次いで本屋の店頭にならんでいました。

ざっと立ち読みしていると、どうも基礎的な説明は、どれも似たり寄ったりとした構成になっているようです。私の興味ある“坐勢”についての項目をみても、、相変わらず、“半跏踏下像”という名が跋扈しています。しかも、“半跏趺坐”の説明に、足の裏が衣に隠れて見えない図を載せています。これが“半跏趺坐”ですといっても、読者は理解できているのだろうかと、疑問がわいてきます。

Photo_2

上記は『望月仏教大辞典』に載る「半跏趺坐」の項の説明です。

また、真鍋俊照編『日本仏像事典』(平成16年12月1日発行)の「半跏趺坐」の頁(p64)では、

「半跏趺坐 仏教における坐法の一つ。両足をそれぞれ反対の大腿部の上にあげる坐法を全跏趺坐(結跏趺坐)というのに対して、いずれかの片足を大腿部からおろして膝前におくのを半跏趺坐という。(中略) 片足垂下像や片足踏下げ像を半跏として用いるのは誤用である。」(田村隆照)

として、望月仏教辞典とおなじ図を載せていますが、それ以外の坐法についての記載がありません。

読者が知りたいのは、ある仏像を初めて拝したとき、この坐勢は何というのだろうか?という素朴な疑問です。ところが入門本は坐勢に関しては、いままでどおりの既定の単純な分類を押しつけているだけです。

たとえば、野中寺菩薩像が「半跏踏下像」というのなら、宝菩提院の菩薩像は何というのでしょうか。瑞林寺の地蔵菩薩像は、何という坐勢なのでしょうか。普賢寺の普賢菩薩像は「半跏像」でいいのでしょうか。

これらの入門書は、このことに何も答えていません。いわゆる“半跏踏下像”は四十八体仏のような金銅仏ではよくありますが、半跏ではない“片足垂下像”の作例のほうがはるかに多いのです。片足を前に投げ出している坐勢も坐像の中に数多くあります。そういう仏像についての説明をしないのは、入門書としての機能を果たしているのでしょうか。どうも、何か同じマニュアルに基づいて書かれているような気がしないでもありません。

“踏下げる”という言葉がいつごろから使われるようになったのか、いろいろ調べていたところ、現在一番古そうな資料をみつけました。

Photo 『日本國寶全集』第九輯(大正12年12月1日発行)に、観心寺蔵釋迦如來像が掲載されています。その解説には、

「須彌座の上に半跏趺坐する像で、踏下げた左足は此種の像に屢ゝ見る如く宣字座から擡頭する蓮華に支えられてゐる。」

とあります。“踏下げる”という言葉はどうも相当古くから使われているようです。それにしても、これが半跏像?

どうも「踏下像」を抹殺するには、相当根が深かそうで、大変な労力が必要なようです。

参考ブログ

2008年12月22日 (月)

旧三河島汚水処分場喞筒場施設

Photo 「喞筒場」は何と読むかわかるでしょうか。

『旧三河島汚水処分場喞筒場施設』が平成19年に重要文化財に指定されました。いわゆる「近代化遺産」のひとつです。

建物は大正11年竣工の煉瓦造で、東西両翼をもつ左右対称の建物です。軒は出が少なく、垂直線と水平線を用いた平坦な面で構成されています。

 

 

 

 

Photo_5 屋根を支える下部はアーチ形を呈する変形キングポストトラス鉄骨で、屋根を支えています。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 内部には平成11年まで稼働していた10台のポンプと大正9年、東京石川島造船所製の天井クレーンがあります。プレートには「六噸半」と最大揚重が鋳出されています。

 

 

 

 

 

 

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では、どういう建物かというと、手前の小さな建物が「ろ格機室」、後ろの大きな建物がポンプ室です。

場所は都電荒川二丁目のすぐ前にあります。木造平屋の細い路地の建て込んだ、下町の中に忽然と木々に蔽われた敷地があります。敷地の中に入ると、これが、下町かとおもわれるほどゆったりとした敷地に建物が建っています。まるで、別世界に入り込んだようです。

この建物の後ろには汚水を撹拌する池があり、一部は人工地盤を造って、上部は公園になっています。

汚水処理というと、匂いがするという印象がありますが、まるで汚水を扱っている施設とはおもわれないほど清潔です。これだけのことをしないと、近隣住民の理解はえられないのでしょう。

むかしの隅田川の臭さを知っている世代にとっては、こんなすばらしい施設はないでしょう。

正解 「喞筒」とは「ポンプ」でした。

2008年12月18日 (木)

まぼろしの邪馬台国

Photo 宮崎康平著『まぼろしの邪馬台国』を読んだのは、高校卒業の頃だったようです。奥書の年号を見てみると、昭和42年1月24日が第一刷で、3月25日には第三刷にもなっていました。

たしか、卒業後のぶらぶらしている時期に買ったのだと思います。邪馬台国論争のことは、高校時代に他の本で大体の概略は知っていましたが、マスコミで取り上げたことで、新説かと思って興味をもったのだとおもいます。

買ってから、どこかへ出かけるときも必ず手にもって、電車などで読んだのだとおもいます。本屋の包み紙で本のカバーをしていたのが、手に持っていたところだけ破けていました。

そのころの学界での邪馬台国論争は、いはば膠着状態で、新しい証拠も新説も出ない状況でした。そんな時に、盲目のしかも在野の考古学者が新説を発表したので、マスコミはいっせいに取り上げたのでした。テレビのドキュメンタリーでも見た記憶があります。

Photo_2 私はその本を一気に読んだ記憶があります。しかし、その本に感動したのは事実ですが、それは、宮崎康平の生き様に心うたれたので、学説については読んでいくうちに、ちょっとおかしいのでは、と思うことがありました。案の定、実に意外な、何ともおかしな結論が導かれていました。学説としての論の立て方に錯誤があり、特に、言葉の意味について、論拠のない独断的な解釈が目につきました。

つまり、推理小説の謎解きとしては、おもしろくても、学問としての論の立て方は、当時高校生の私でさえ稚拙さが見えて、納得がいくものではありませんでした。

読み終わって、なーんだ! というのが感想でした。

しかし、宮崎康平という人の生き様は、すごいものがあります。そして、その夫をささえた和子夫人は、ほんとに目立たない、ただひたすら影の支えになっていた人だというのが言葉の間から見えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3 実は、大学生の頃、いつものように、茶房で煎餅をかじりながら、ぐだぐだしていると、突然、着物で袴をはいて、杖をついた人が入ってきました。私はひと目で、宮崎康平とわかりました。すぐそばには、和子夫人が手を添えていました。旧知の茶房のおじさんを訪ねてきたのでした。入口の席で、ひとしきり、おじさんと話をし、帰っていきました。

帰ったあと、あれが、宮崎康平だよ。と日下さんに話しましたが、まわりの人も、宮崎康平のことはまだ、あまり知られていないようでした。

今、映画が上映中だそうです。和子夫人を吉永小百合さまが演じています。あまりにも、役と本人の様子が似ています。しかし、私が見た和子夫人は吉永小百合さまほど華やかな人ではなかったような気がします。また宮崎康平役の竹中直人はずいぶんイメージが違います。

フィクションだといえばそれまでですが、和子夫人はほんとに目立たない人のようでした。吉永小百合さまとどうしてもイメージをだぶらせることはできません。

それで、映画は見ないことにしました。永遠のサユリストでいたいものですから。

2008年12月16日 (火)

また茶房早稲田文庫

Photo そういえば、茶房早稲田文庫にもステンドグラスがあったっけ。写真を見ると、もうだいぶ時間がたってからのもので、色がかなりあせてしまっています。これは、建具を直すときに、徳本先生にガラス絵を書いてもらったものです。このとき、建具屋さんと打ち合わせして、ガラスのはいる溝や格子の形状などを決めたのですが、芸術家というのは気がよくかわるもので、徳本先生は格子がどういう形ではいるのかを考慮せずに描いたものだから、絵が完成して、いざ建具に嵌める段になって、絵と格子の位置が合わなくなってしまいました。

しかたなく、黒いビニールテープを貼ってごまかしたのでした。時間の経過とともにビニールテープがところどころ剥がれてしまっています。せっかく、先生の描きやすいようにと、段取りしたのに、つくづく芸術家とはこういう人種かと思ったものでした。

徳本先生はとても、温厚な方でしたが、いざ絵を描くということに関しては、絶対に妥協しないという姿勢を、垣間見たことがあります。それは、先生のお宅によばれて、飲んでいたときのこと、色紙を2,3枚持ってきて、筆で、絵の修正をしているのです。それは、私たちのために描いた茶房の絵でした。私はつい、興にのると一杯やりながらでも、絵をお描きになるのですか?と聞いてしまいました。すると先生は、絵を描くときは、絶対に酒は飲まない。と強い調子でおっしゃいました。私はしまった!またやってしまったとおもいました。そのとき先生に、仕事に対するきびしい姿勢を教えていただきました。

Photo_2

そんなこんなで、今回は新たに手にいれた茶房のありし日の写真を2枚掲載します。

Photo_3

写真をクリックすると画像が大きくなります。なつかしさを満喫してください。

2008年12月14日 (日)

誠之堂、清風亭

Photo 埼玉県深谷市からタクシーで15分ほどのところの川沿いに、大寄公民館があります。まわりは、ネギ畑で、その公民館の敷地に誠之堂と清風亭が建っていました。

誠之堂は大正5年竣工で、渋沢栄一の喜寿を記念して建てられました。煉瓦造で、外観は英国の農家風に造られています。施工は清水組。平成15年に国重要文化財に指定されました。

 

 

 

Photo_2 清風亭は大正15年、当時第一銀行頭取だった佐々木勇之助の古稀を記念して建てられた建物です。鉄筋コンクリート造で、部分的にタイルと煉瓦をつけ、スペイン風の様式をとっています。施工は同じく清水組です。埼玉県指定文化財に指定されています。

この2棟は、以前世田谷にあって、第一勧業銀行の所有でした。平成9年になって、取り壊されることを知った深谷市は急拠、銀行からこの建物を購入し、平成10年にこの地に移設をしたのでした。

誠之堂には両開き窓3個所に6面、内部の化粧室入口の両開き戸に1個所2面のステンドグラスが嵌っています。

 

Photo_3 両開き窓は中国漢代の画像石を題材にとった庶民貴人を饗するの図としています。図案は図案科出身の清水組の技師森谷延雄に描かせたもので、「建築雑誌」によると関野・佐野両正員より援助してもらった。としています。関野とは関野貞ですが、佐野とは誰なのかはわかりません。

 

 

 

 

 

Photo_6Photo_4背景は白のオパールセントグラスを用い、人物はかなり細かな線でつないでいますが、眼や鼻、口などは、ガラスの上にハンダを載せて、輪郭を表しています。つまり、このステンドグラスはいわゆるグリザイユの技法を使わず、すべてガラスと鉛線で表現しているのです。このような人物像を表現するには、いわゆる硝子に筆で描くことが普通ですが、このステンドグラスの職人は敢えてそれをしなかったのか、絵付けの技術がなかったのかのどちらかだとおもいますが、よくわかりません。

『誠之堂ステンドグラス調査報告書』によると、製作者は宇野澤組ステンドグラス製作所だとしています。その当時は別府七郎か木内眞太郎が宇野澤組で仕事をしており、そのどちらかの手によるものかと思いますが、何故、筆で絵を描かなかったのかはわかりません。

このステンドグラスはオパールセントグラスという不透明の硝子を使っていますので、いはば、窓としての機能よりも、額入の絵画としての意匠を狙ったのではないかとおもいます。

Photo_7 化粧室入口扉は鳳凰と龍をモテイーフにしていますが、これも、鉛線のみで表現しているのと、硝子の色使いがどうもしっくりいかないのか、よく見ないと、龍か鳳凰かわかりません。

 

 

 

 

 

 

Photo_8 清風亭は大部屋の両妻を曲面で膨らまして、そこに、3個所の上がアーチ状の窓硝子をつけています。その窓の三方のまわりにキャセドラルガラスをつかって抽象模様のステンドグラスをはめています。この窓はいはば、窓硝子の装飾としてアクセントを付けるためのようです。

誠之堂のステンドグラスはその図案製作者がわかっています。ステンドグラスの製作が宇野澤組だとすると、施主・設計・製作の3者が判明している作品ということになります。たしかに、図案はのちにインテリアデザイナーになった森谷延雄ですが、実際の図案と現物との違いは相当あったようにおもいます。とても森谷が描いたいたとおりにはできていなかったのではないのでしょうか。どうもそんな気がしてなりません。

帰りに深谷市役所によって、『誠之堂ステンドグラス調査報告書』が手に入らないか問い合わせにいきました。すると、ロッカーからその本をとりだして、もう在庫が少なくなってしまって、わけられません。というのです。この本はカラー図版の部分が多いので、コピーではだめなので、どうしてもほしい。と頼むと、担当者は近くの上司に相談しに行きました。上司はチラッと私の人相を見て、やはりダメだというのです。まあ、役所とはそんなもんです。

2008年12月10日 (水)

泉沢石窟

高山奇人さん、木毎三尺さん、今日泉沢石窟に行かれたそうで、いかがでしたでしょうか。充分に見られたでしょうか。小生が見たのは、もう20数年前にもなります。その後、崩れはどんな具合になったのか心配しておりました。

Photo これがその時撮った薬師堂窟の写真です。ちょうど修理のための足場がかかっていて、近くまで寄ることができました。それでも、各尊像は顔はほとんどわからない状態で、わずかに判明するのは、岩面に線刻された光背でした。

堂内は真っ暗で、懐中電灯でやっと像の部分が判明するだけで、全体像がわかりませんでした。

写真は如来像の間にある観音菩薩立像とされる仏像です。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 昭和43年の修理工事報告書によると、それに美術院の復元想像図がありますが、これもあくまでも想像の域をでないものです。

でもこんな具合だったのかはわかりましたでしょうか。

 

阿弥陀堂窟はもう全然、形もわからない状態になっていました。

 

 

 

Photo_3 観音堂窟はいかがでしたでしょうか。頭部から下は崩れてわからなくなっていますが、明らかに清水寺式千手観音坐像です。

 

 

 

 

 

 

Photo_5 その左右上部に仏像がいくつかあるのがみえます。しかも彩色がよく遺っているのがあります。

これは賢劫の千仏だといっているのですが、何を根拠にそう言っているのかわかりません。この点はもっと調べる必要があるように思います。

 

 

 

 

Photo_4この石窟についての史料はなく、その様式からおそらくは平安時代であろうということしかわかっていません。しかし、場所が東北の福島県ということと、清水寺式千手観音ということを考えると、坂上田村麻呂との関係は少なからずあったと想像することはできます。そういった伝承なり推測と、周辺の平安時代の状況がどこまで判明するかが、その造像背景の論証のためのこれからの課題となるのでしょう。

2008年12月 8日 (月)

長谷寺式十一面観音立像

Photo 伊東史朗著『調査報告長快作長谷寺式十一面観音像』を通販で手にいれました。最近、パラミタミュージアムが購入した仏像です。この報告書の写真を見て、おや!とおもいました。台座が方形の箱状になっているのです。そう、先日、長谷寺の本尊の足元の台座が方形の板状になっているのを、お話しましたが、この十一面観音像はそれよりも、背の高い箱のような台座です。『豊山長谷寺拾遺』第三輯 彫刻という長谷寺の彫刻悉皆調査報告書によると、10数体ある長谷寺式十一面観音立像のうちほとんどが、方形の台座になっています。

これは、錫杖と同じくいわゆる長谷寺式の特徴として表現しているものとおもわれます。

長谷寺縁起によると、長谷寺十一面観音がはじめて造像されたときの伝承として、徳道に対する夢告で、地中にある金剛宝盤石を掘り当てその上に仏像を置くよう告げられたとあり、だから長谷寺の本尊は、この大盤石の上に宝座蓋という方形の台座の上に立っているというのです。

 

 

 

Photo_2Photo_3

このパラミタミュージアムの十一面観音立像も、長谷寺本尊の形を模して造られたことがわかります。もっとも、長快は快慶の弟子であり、快慶は建保7年に長谷寺本尊を再興していますので、その快慶像の忠実な摸刻像といえなくもありませんが、伊東氏によると、この像は快慶像とちがって頭上面が11面だったり、装飾が金属製と、違いをみせており、伊東氏は“近代的な意味でいう「模す」とは別次元の行為であったと考えられる。”として、模像についての厳密さを求めないのが長快の態度だったようだとしています。

模造については善光寺式阿弥陀如来や清凉寺式釈迦如来、清水寺式千手観音についても同様に検討していかなければならないと伊東氏は言っていますが、そこが一番重要な問題だろうとおもいます。

この仏像が長快作と判明したことで、快慶及その弟子行快、栄快、長快の師弟たちのすべてに仏・菩薩形像の遺品がそろったことになり、師弟関係の作風を捉えやすくなったのは事実です。

しかし、快慶の弟子たちは、たしかに快慶の作風を受け継いではいますが、それぞれに個性をだしているようにおもえます。単なる様式の継承だけではないようです。それだけ快慶は師匠として弟子の養成に長けていたことも、快慶の快慶たる所以なのでしょうか。

2008年12月 6日 (土)

旧島津邸ステンドグラス

PhotoPhoto_2 旧島津邸のステンドグラスを全てお見せいたします。

玄関の外側のランマは家紋が、両袖は2つのトーチが描かれています。

 

 

 

 

 

 

Photo_4  

 

 内側の玄関です。ランマはこの島津邸で標準仕様のデザインの箱とリボンです。扉は下部に透明の楕円形の面取りガラスを入れて外が覗けるようになっています。

 

 

 

 

 

 

Photo_5 外玄関と内玄関の横の間仕切と扉です。扉は内玄関と同じデザインですが、間仕切りはシンプルなデザインにしてあります。

 

 

 

 

 

 

Photo_6Photo_7 階段室の大窓です。下部のリボンが結んで下がっている部分に小さいクラウンガラスが嵌っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_8  

 1階の窓のランマです。真ん中に緑の箱状のものがあり、リボンを左右に延ばして、赤い玉を下げています。

 

 

 

 

 

 

Photo_9 2階の窓のランマです。これは3連ですが、2連の窓は中心に箱が左右に分かれる形になります。

 

 

 

 

 

 

Photo_10 裏玄関の内側の扉です。色は押さえていますが、ステンドグラスにしてあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_11 外玄関の両袖に嵌っているFIXです。ここだけが他と違ったデザインになっています。反対側が見えないように、色ガラスを多用したデザインにしたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_12 バルコニー側の窓です。透明の曲げガラスが入っています。曲げガラスは非常に高度な技術で、建具に巧く取りつけるためには精度が必要です。建具が国産ならば、曲げの加工も国内で製作されたものでしょう。

全体的に島津邸のステンドグラスは色ガラスとしてのオパールセントグラスをあまり使わないで、余白としてキャセドラルガラスを使っているのが、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

コンドルの図面を見ると、ステンドグラスの絵は書いていません。普通はデザインまで書かないものですが、それでは、このステンドグラスは誰がデザインしたのでしょうか。

建築施行の段取りは、今とそれほど違わないと思いますが、ステンドグラス業者と設計、施主との何らかの合議によって決められたのだろうと思いますが、そのうち誰が主導で進められたかが問題でしょう。

2008年12月 4日 (木)

旧島津邸

Photo 先日申し込んでいた、旧島津邸の邸内見学の許可証をもって、清泉女子大学の校内に入りました。女子大というと何か緊張感がはしります。五反田の閑静な住宅街の中の高台にその女子大学はありました。この辺はその地名どおり、島津山です。島津邸のあったところがいまは清泉女子大学の敷地になってます。

設計はジョサイア・コンドル、大正4年竣工、大正6年に落成披露が行われたそうです。建物は地上2階、地下1階の煉瓦造りで、ベランダが一部曲線で膨らんでいますが、建物も、その部分は曲線を用いて、窓ガラスも非常にめづらしい曲面の加工をしています。

 

 

Photo_2 この建物の前は広い庭になっていて、学生がこの芝生の上で昼食をとっていました。じつに優雅なキャンパスです。

さて、この建物にはふんだんにステンドグラスが嵌っています。

 

 

 

 

 

Photo_3 まずは、玄関正面の丸に十の字の島津家の家紋がはいったランマがあります。

内部の入口もランマ、ソデのFIXから、ドアのガラスもすべてステンドグラスになっています。

 

 

 

 

 

Photo_4 玄関横のドアのステンドグラスです。下部の中央のガラスはいわゆるベベリング(面取り)した透明のガラスになっていて、反対側が覗けるようになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5 斜め上に覗いてみると、玄関のランマの家紋が見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_6 2階に上がる階段の踊り場にあるステンドグラスの窓です。中央ホールから上る大階段の正面に堂々としたデザインを見せています。いはば、メインの見せ場なのですが、実にさりげなく見せています。島津邸のステンドグラスは、この他に、窓の上部のみに使ってみたり、ドアの額に使っていますが、ガラス全体に色ガラスを使うということはなく、窓枠にひとつの模様のみ表現するような使い方をしているようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_7 これは玄関脇の両そでにあるステンドグラスですが、窓に嵌っているのとはちがって、窓枠全体に幾何学模様をあしらっています。

このようにこの島津邸のステンドグラスはさまざまな形式の模様を使っています。

しかも、補強の真鍮棒は、丸棒で留め金で留めていますが、ガラスに密着していないので、反対側(見る側)からはその影が見えにくくなっています。

さらに、そのハンダの技術はすばらしいものがあります、鉛線に全体にハンダをかけていますが、実に滑らかなハンダ作業です。相当の腕のある職人の技と見ました。

2008年12月 1日 (月)

JR大社駅

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出雲大社からは歩いて15分位でしょうか、人家がぽつぽつとある道に旧JR大社駅があります。平成2年3月に大社線が廃線になって、この駅の役割を終えました。大社線は明治45年の開業ですから、70数年の歴史を刻んだ駅になります。駅の建物は大正13年に改築されたものだそうです。瓦は、地元の石州瓦で葺かれ、つやのある瓦になっています。

昔は東京からの直通列車が大社まで運行したことがあったそうで、出雲大社詣がさかんなころは、相当な賑わいだったのでしょう。

 

 

 

Photo_3 それだけ、駅舎も立派に造られています。駅の天井にはシャンデリアが下がり、格天井で豪華さをだしていますし、駅の切符売り場の造りは実に凝っています。

単なる田舎の木造駅舎とは違って、その洗練さは群を抜いています。ちょっと気軽にはいっていけるような駅ではなく、襟をたださないと入れないような感じさえします。

 

 

 

 

Photo_4駅のホームに立つと、見慣れていた架線がありません。架線を下げる柱もありません。東京人は、線路の上には架線があるものと思っていますから、架線がないというだけで、そのすっきりとした風景が、田舎の駅を連想してしまうのです。そばにいるSLから蒸気の音が聞こえてきそうです。

線路に立ってもう使われていないホームを見ると、何か一抹の寂しさを感じると同時に、どこかで見たような懐かしさを感じてしまいます。

駅前のソバ屋で名物の割子そばを食すると、あまいタレのソバでした。出雲そばもいろいろあるのですね。

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