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2009年1月

2009年1月30日 (金)

雨の川越

Photo 仕事で急遽川越に行くことになりました。ひととおり仕事がおわって、さてどうしようかと思ったら、川越といえば蔵造りの町並があったっけ、ということで、そこまで、歩いていきました。その町のはずれに、いかにも復元したようなイオニア式の列柱のある建物が目にとまりました。1階は歯科医院になっていましたが、この建物は保岡勝也の設計で昭和11年に山吉デパートとして建てられたものを復原修理してよみがえらせたようです。

 

 

 

 

Photo_2 その入口の欄間にステンドグラスが嵌っていました。そして、左右の窓の欄間も同じ図柄のステンドグラスがありました。左右の図柄はよく見ると、二匹の孔雀にヤシの木という南洋っぽい図柄で、正面も花に海の図柄でした。雨で外が暗いのが幸いして、内部からの明かりで、その色づかいがよくわかりました。

 

 

 

 

Photo_3 制作は、現代のものだろうとおもいますが、こういう風景や、花鳥の図柄は、デザインの妙をあじわえる意味でステンドグラスの中でもその力量がよくわかる作品です。

そういえば、川越には旧山崎家別邸にステンドグラスが嵌っているのですが、それは今、川越市の所有になっているそうですが、めったに公開していません。おまけにサイトを見てみると、どうも内部撮影が禁止のようで、内部からの写真がありません。これは、小川三知の作品とわかっているものなのですが、どんなものかがわかりません。

ステンドグラスは内部から見ることを前提に造られているので、外からみても何の価値もありません。何か差し障りでもあるのでしょうか。所有者が市なら、それは、一個人のものではなく、ひろく公共のものなはずですが、市は何故所有者の権限を行使するのでしょう。

Photo_4 川越の蔵造りの町並には、電柱が一本もなく、実にスッキリとした風景を見せています。でも、普段の日のせいか、車がひっきりなしに走っています。昔の風景を再現したというのなら、車はその風景にあいません。せっかく、銀行もその風景に協力しているのですから。

2009年1月27日 (火)

熊本城の今昔

そういえば、高校の修学旅行は九州でした。長崎から熊本へぬけて、阿蘇から別府へという旅程でした。

PhotoPhoto_2 このときの旅行で、是非とも見たかったのが、熊本城でした。城の本から、熊本城天守閣と、縄張りの図面をトレーシングペーパーに書き写し、青焼きでコピーしました。よく見ると、城内をどのようなコースで見たらいいか線が書いてありました。たぶん、城内までは団体行動で、中に入ったら自由行動になるので、この地図をたよりにひとりで、歩き回ったのだろうとおもいます。写真アルバムをみると、熊本城の櫓の写真が数多くありました。

Photo_3Photo_4 天守閣から宇土櫓を見下ろした写真で、今と昔が比較できました。昔の写真でバスの駐車場になっているところは、今は、復元された西大手門を入った西出丸にあたります。そのむこうに建物がならんでいますが、今は三の丸広場になっています。藩校時習館の跡地なのですが、これは何の建物群なのかわかりません。遠くを見てみると、45年の時間の流れがわかります。木造の建物しかなかったのが、ビルがあちこちに建っています。

Photo_5 今回は、新しく復元された本丸御殿がどのようになっているかに興味がありました。佐賀城の御殿と較べて、その規模は格段に大きい建物ですが、御殿の一部の復元に留まっています。本来ならば、おおよその復元をすべきなのでしょうが、予算の関係もあったのでしょうか。これからが楽しみです。

 

 

 

 

 

Photo_6 一部屋根裏をみせた所がありましたが、ちゃんとチョウナの跡をのこして、本格的な木造建築の造作をしています。

 

 

 

 

 

 

Photo_7 本丸御殿の目玉は昭君之間の極彩色の絵です。しかし、これを見せるのに、横の廊下から覗かないと見せてもらえません。おまけに、色があせてしまうのでストロボは禁止。ライトは特殊な退色しないものを使っているとか。せめて、廊下からではなく、正面の座敷から見てみたいものですが、ダメなようです。

 

 

 

 

 

Photo_8 復元建物は本丸御殿ばかりではなく、この飯田丸五階櫓のような大きな櫓の復元もしています。これに塀や門の復元が進むと、本当にお城の中にいるという感覚が持てるようになるとおもいます。

今は、城跡にいるという感じなのです。実際に機能しているお城を見てみたいと思うのですが、もうすこし先の話かな。

 

 

 

 

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2009年1月23日 (金)

成田山参詣

Photo 去年は喪中につき参拝しなかったので2年ぶりの成田山です。一昨年完成した、総門をはじめて見ました。総欅造の門です。現代に造られた木造の門は、貴重な建築です。実に、落ち着いたしっかりとした外観で、安心して見られる建築でした。素木の欅造というのが、また成田山にあっていいですね。

 

 

 

 

 

Photo_2 今年は、今ご時世がこのような時期ですので、雨ということもあって、参道も活気がありません。いつもでしたら、1月中は普段の日でも参道が人でごったがえすのですが。

 

 

 

 

 

 

Photo_3 いつも参拝のまえに、米屋総本店で、売り切れる前に塩大福といちご大福を買うのですが、こんな調子では、帰りに寄っても残っていたかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 皆は護摩に参加するのですが、私は今回は、総門の横にある光輪閣にいきました。この建物は昭和50年にできた鉄筋コンクリートの建物ですが、窓にはふんだんにステンドグラスが嵌っています。これは、4階の窓ですが、1階の窓にもおおきなステンドグラスがありました。しかし、この建物は中には、簡単にはいれないので、そのステンドグラスがどんなものかはわかりません。しかし、製作は松本ステンドグラス製作所ということはわかっています。

 

 

 

 

Photo_5 また、大塔の天井にも全面に入っているらしいのですが、それも見られませんでした。現代のステンドグラスのデザインがどんなものかを見るのもいいかなと思ったのですが。

そんなこんなで、参拝のあとの宴会も盛りあがらず、そそくさと、成田をあとにしました。

元気がないなあ。

2009年1月21日 (水)

石貫穴観音千手観音立像について(考察編)

Photo_4 まず第一に、屋根が果たして本瓦葺なのかについて考察してみよう。写真にはないが、図面で見ると、円筒形のものは、屋根の中に埋まるような形をしている。つまり、屋根の葺材が萱や藁のようなもので、そこから丸太が突き出ている表現なのである。これがもし、本瓦葺ならば、円筒は屋根にそって、半円形に延びていなければならない。これは、たとえ、稚拙な表現だとしても、天井とのせまいスキマに、わざわざ彫りにくい形に彫るのだろうか。そこには、屋根材から突き出るという表現を意識的にしたかったのだろうと思わざるを得ない。

『玉名郡誌』絵図 大正12年4月

 

 

 

 

 

Photo_3 もしこれが、本瓦葺の表現だとしたら、その造立年代は7世紀から8世紀ということになる。しかし、この石貫穴観音からほんの数キロの場所に立願寺廃寺がある。そこからは、白鳳時代の軒丸瓦が出土している。とすると、石貫穴観音の造立者はすくなくとも、本瓦葺の建物を見ているはずであり、それを石造で表現するとしたら、このような表現になるのだろうか。本瓦葺の建物を見ていたのなら、どんな稚拙な表現だとしても、こんな形にはならないであろう。むしろ、本瓦葺の表現ではないと見るべきであろう。

 

 

 

 

 

Photo 次に、千手観音が追刻か否かについて考察すると、まず奧壁の中心部を矩形に彫りこんだところに、千手観音像を浮彫している。ということは、彫り込んだ矩形の端から定規を当ててみて、それが、千手観音像の厚さ以下になっているか、検証してみる必要がある。それが、追刻の根拠とはならなくても、追刻かどうかの判断のひとつにはなるだろう。

 

 

 

 

Photo_6左写真 [石貫ナギノ横穴8号。 彩色がよく残っている横穴。奧壁にも彩色文様がある。]

もうひとつ気になることは、宮本氏の論考で、「奧壁が朱に塗られ、それが、線刻部には見られない。」と言っていることである。石貫ナギノ横穴8号のように、奧壁に彩色されていたとするなら、しっかりと科学的な調査をして、奧壁の彩色がどの場所に残存しているかを特定すべきであろう。また、高木正文氏の論考で「玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」という意味がよくわからない。これも、しっかりとした説明がほしいところである。

清水寺式千手観音像は、少ないサンプルながらも形態を分類すると、頭上の二手の形で2つに分類できる。

一つは頭上の二手の形が五角形をしている仏像である。これは、三十三間堂の長寛時の仏像の納入品の刷仏や、中尊寺観音院泉沢石窟観音窟龍峰寺がそれにあてはまる。

Photo_2 もう一つは、二手を肩より垂直にのばしそれから臂を斜めにのばし化仏を捧げる像。いはば水晶形をしている像。京都清水寺前立像、西国三十三所の清水寺の千手観音像として表現される像である。この水晶形の仏像は、おそらく京都清水寺前立像の形態のマネとして全国に普及した形とおもわれ、時代は室町時代以降となる。

熊本県では、清水寺式千手観音像はいままで二例が確認されている。菊池市の東福寺の立像と、宇土市の西安寺の坐像である。この二像の頭上にあげる二手は水晶形である。

松本雅明氏が言っているように、千手観音の経典は日本で天平7年に書写されたのを初めとする。しかも、その当時の像容は唐招提寺や葛井寺像のように清水寺式ではない。清水寺式の初見は、三十三間堂の創建時の長寛2年(1164年)である。それ以前にも図像として請来されていたかもしれないが、直接、熊本の地にそれがもたらされたとは考えにくい。少なくとも、一旦中央にもたらされてからの普及であろう。

一般に千手観音像は右に錫杖、左に宝戟をもつ。その形式は、地面につくくらい長いものと、手に持つ短い形がある。しかし、この石貫穴像のように錫杖だけというのは図像でも、彫像でもその例がない。また、台座が蓮華座でなく、箱状になっている。というと、何か長谷寺式十一面観音像の形態を連想させる。千手観音と十一面観音の違いはあるが、ちょっとひっかかることではある。

錫杖の上に円形の浮彫物がある。これが何かは不明である。また、頭上に捧げる化仏も円形である。はたしてこれは化仏なのであろうか。

結論として言えることは、屋根は本瓦葺とはどうしても見えなかった。

千手観音像の両脇にある矩形の彫り込みが気になるところである。奧壁の科学的調査が望まれるところである。

Photo_5 屋根が本瓦葺で、千手観音像が当初という前提で、造立年代を古くは白鳳か奈良時代とすると、図像から考えて無理がある。もっと下げて平安初期とすると、横穴の編年、形態および、清水寺式千手観音像の図像の時代から考えても、矛盾をきたすことになる。

つまり、本瓦葺、当初の千手観音像では説明がつかないのである。

総合的に考えると、千手観音像は追刻、横穴の築造年代は当地に仏教建築が伝来する以前とするのが現時点での判断であろう。

では千手観音像はいつの追刻かというと、清水寺式千手観音像としては古い形式とみられ、時代は平安後期から鎌倉とするのが、妥当なところであろう。

2009年1月18日 (日)

石貫穴観音千手観音立像について(研究史編)

石貫穴観音横穴についての過去の論考をここでまとめておこうと思う。ここでは、前述の横穴の築造年代、および千手観音像が追刻か否かにかぎってとりあげることとする。

Photo

  1. 浜田耕作・梅原末治著『京都帝國大學文科大學考古學研究報告』第一冊[肥後に於ける装飾ある古墳及横穴] 大正6年3月刊
    ・浜田耕作「第五章 高瀬附近の遺跡/第二節 玉名郡石貫村の横穴群」および「第六章 後論/第三節 装飾古墳の年代」
    ・・調査は大正5年12月より翌6年1月にかけて行われた。
    ・・奧壁の千手観音像は平安初期の様式
    ・・庇は本瓦葺の屋根を表しており、これから7世紀頃と推定できる。
    ・・結論として、千手観音像は追刻、
    ・・横穴の築造年代は第六世紀の中頃より奈良朝以前第七世紀頃まで。
  2. 『豊後磨崖石佛の研究』大正14年8月 京都帝國大學
    ・浜田耕作「其の奧壁の千手觀音像の浮彫は、果して横穴穿成以後平安朝に至って附加せられたものであるか、將た横穴に同時代であって、それが奈良朝にも溯り得可きか、平安朝迄降り得可きか等に就いて、未だ議論は決着しない。但し當時私は後刻説を提唱して置いた。」
  3. 松本雅明・乙益重隆「肥後における平安・藤原時代の佛像」『熊本史学』第2号 昭和27年7月
    ・千手観音像は奈良朝の古墳構築の際彫られたとするのが適当。
  4. 松本雅明「肥後石貫穴観音古墳の彫刻ー大陸文化の滲透と古墳成立の時期ー」『考古学雑誌』45-4 昭和35年3月
    ・庇は瓦葺の宮殿建築を表わしている。千手観音は築造当時と仮定した論。
    ・千手観音経典の日本の書写は天平7年からである。
    ・「真に仏教が理解されず、従ってそれを屍床に刻ることが冒涜であると意識されなかった時代の産物であると見るときのみ、正しく解釈できるであろう。」
    ・天平15年以前が古墳の築造の時期
  5. 小林行雄編『装飾古墳』昭和39年10月刊 平凡社
    ・九州の装飾古墳変遷図に石貫穴観音は600年の後半の位置におかれている。
    ・各個解説の頁では執筆者の乙益重隆氏は千手観音像の年代にはふれていない。
    ・庇も本瓦葺とは断定せず、家型石棺の蓋につくりだした縄掛突起の変形とみることもできる。と他の見方を示している。
  6. 斎藤忠『古墳壁画』日本原始美術 5 昭和40年4月 講談社
    ・「熊本県穴観音横穴の千手観音像浮彫りの如きは、すでに松本雅明氏の研究もあるが、私はこの横穴の時代を奈良時代に下降させることも不自然でないと考えており、同じときに刻まれたものと見ている。」
    ・七世紀頃の古墳にも仏像を表しているものがある。
    ・解説(田辺哲夫) 45.穴観音横穴群
    ・・「軒丸瓦とおもわれるが、石棺の縄掛突起の変形とみるむきもある。」
    ・・「千手観音は一説では平安時代初期の追刻であろうといわれているが、最近、この像について、横穴構築のものとなす説があり注目をあびている。」
  7. 日下八光『装飾古墳』 昭和42年1月 朝日新聞社
    ・石貫穴観音横穴
    ・・「奧壁に彫られた千手観音像は、仏像全体としてのバランスもよく、とくに下半部は良い形である。・・・仏像そのもから時代の判定は困難である。」
    ・・「奧壁石屋形の瓦葺は当初のものと考えられ、寺院建築の影響とみられないこともない。もしそれが肯定されるならば、千手観音像も当初のものとして不合理でないわけである。」
  8. 斎藤忠『日本装飾古墳の研究』 昭和48年3月 講談社
    ・「本論(一)装飾古墳・横穴の諸形式とその分布/第一章 諸形式とその種類/第二節 装飾横穴の諸形式とその種類」
    ・・「穴観音横穴の中央のものは、入口に三重のくりこみの縁がアーチ状に設けられ、内部には、奧壁に沿って一段高くして石屋形の施設を造りだし、その屋根には軒丸瓦を配したような造作を示し、左右の側壁に沿ったところにも一段高い縁をつくりつけ、それぞれ両側にも屍床を構成している。恐らく、横穴の構造としては、日本でも最も複雑なかつ整備した例であろう。この石屋形施設の奧壁の正面に浮彫りされた千手観音の立像は、同一時期のものと考えてよく、一つの彫刻図文とも見られる。また、軒丸瓦を配した屋根の造作も、装飾的な要素とみなしてよい。しかも、これには入口のの三重の飾縁にも円文と並列三角文とが赤色で描かれている。」
    ・「本論(三)装飾古墳・横穴の編年と序列/第二章 装飾横穴の編年とその序列/第四節 内部の奧壁に石屋形施設がとりつけられ、これに図文のほどこされている横穴」
    ・・八世紀から九世紀 石貫穴観音横穴
    ・「古墳および横穴遺跡解説/68 穴観音横穴群」
    ・・「龕状の施設の奧壁に千手観音像が半肉彫されている。平安時代初期の作とみなされる特色をそなえている。従来、これは横穴に直接関係するものでなく、追刻されたものと考えられてきたが、松本雅明氏は、横穴を平安時代初期のものとみなし、同時の営造という説を発表した。横穴自体の年代については、出土品等の失われた現在、的確に知ることはできないが、その下限を平安時代初期とすることも必ずしも矛盾を覚えない。もし然らば、この仏像と同時で、むしろ横穴の被葬者に仏教的な信仰のあらわれのあったものとも考えられる。」
  9. 西住欣一郎・宮本千絵『石貫ナギノ・石貫穴観音横穴群ー熊本県菊池川流域における横穴墓研究(1)-』 昭和55年8月 金曜会
    ・宮本千絵「Ⅳ 石貫穴観音横穴群」
    ・・「4号において最も問題となるのは奧壁の千手観音の浮彫りと奧屍床上のいわゆる軒丸瓦の表現である。奧屍床奧壁の千手観音については松本雅明氏の論文によれば築造年代を示す重要な要素となっているが、奧壁に塗られている朱が線刻部には見られず、また、床面プランからみても奧壁は築造当時より後にわずかに刳りこまれている様子であることから、築造当時のものとは即断できない。奧屍床外側面上部廂部分の表現は廂の上部から円筒が突出しているため、たるきと見るより軒丸瓦を表現したものと思われるが、瓦頭部分に赤の彩色が残っており、他の横穴群にもわずかではあるが類似の表現がみられることから築造当時のものであると考えられる。また、軒丸瓦であるとすればセットとなるべき軒平瓦の表現がなされていないため、軒平瓦を用いる以前の段階の建築物を模したものであるとも思われ、当横穴築造の年代決定の重要な要素となる可能性も充分に考えられる。」
    ・西住・宮本「Ⅴ まとめ」
    ・・「石貫穴観音横穴4号横穴は本文Ⅳで述べた如く奧屍床外側面上の軒丸瓦の浮彫からみて7世紀末までには築造されたと思われる。またその内部形態、構造は石貫ナギノ横穴群中で新しい段階であるⅠーC類に属する横穴との類似性が強く、両横穴群の終末期を示すものであろう。すなわち、石貫ナギノ横穴群、石貫穴観音横穴群は6世紀中葉から7世紀末までの期間その築造が続けられたと考えられるのである。」
  10. 熊本県教育委員会『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書第68集 昭和59年3月
    ・高木正文「Ⅲ 装飾ある横穴墓/73.石貫穴観音横穴墓群」
    ・・「奧壁には中央よりいくぶん左寄りに千手観音の立像の浮き彫りが見られる。この浮き彫りが横穴墓築造時のものであるかどうかは判断が難しい。一説では横穴墓の築造年代を下降させ庇の円形浮き彫りを軒丸瓦の表現でとみて、千手観音像を当初からのものとする考えがある。他方庇の円形浮き彫りは垂木の表現などとも見ることができ、千手観音像が奧壁面の完成後、彫られているので当時のものとする見方に否定的な意見もある。筆者にもどちらか判断できないが、この横穴墓はその構造や造られた位置からこの横穴墓群で初期に造られた横穴墓と推定しているので、後者の可能性が強いのではないかと考えている。」
  11. 『装飾古墳の諸問題』国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 平成11年3月
    ・高木正文「肥後における装飾古墳の展開/12 菊池川下流域の装飾横穴墓」
    ・・「なお、千手観音像が彫られていることで有名な石貫穴観音2号横穴墓も形態からこの時期[6世紀半頃:編者注]に位置づけられ、あまり知られていないが、玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」

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2009年1月16日 (金)

石貫穴観音千手観音立像について(調査編)

Photo 石貫穴観音横穴は、玉名駅から、車で15分ほどのところの山の中腹にある。
菊池川の支流の繁根木川のさらに支流の川沿いの道から、山の方を見上げると、民家の上方に壁のない建物があり、その後ろに横穴が見え隠れする。
何軒かの民家の間の路地を通ると、石段があり、そこを上がると礼堂のような建物があり、その奧には石垣でステージをつくっている。

 

 

 

 

Photo_2 そこの山肌に3基の横穴が掘ってあり、そのステージからはずれて、右側の山肌に2基と合計で5基の横穴が石貫穴観音横穴群である。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3 むかって右から数えての3、4,5窟は同じ石垣のレベルにあり、その中心のいわゆる4号窟の入口は、ちょっとしゃがんで入れる高さで、中は充分立っていられる高さになっている。
中に入ると左右に屍床があり、正面は床が一段高くなった屍床となっている。

 

 

 

 

 

Photo_4 正面の上には、庇がでており、その庇の上に5つの丸い円筒が突き出している。また、左右の屍床のうえにも、奧壁の庇より一段下に庇をもうけているが、円筒はない。

 

 

 

 

 

 

Photo_5 松本雅明氏の調査によると、寸法は奧壁は高さ1m26㎝、幅2m20㎝で、そのほぼ中央部分77㎝を矩形に彫りくぼめ、その中に舟形光背をつくりだし、その中央に仏像を浮彫りにしている。

 

 

 

 

 

 

Photo_6Photo_7 彫りの厚みは、光背の外側が2.5㎝、光背は中央がややへこみ、そこに仏身を彫る。仏身の彫りの深さは、頭部がもっとも深く7㎝、頂上手の内側が3㎝、腹部の側面が3.2㎝である。
仏像は二手を胸で合掌し、二手を頭上におき、円形状のものを捧げている。体躯の右側に四手、左側に三手が認められる。体躯からでる手は摩耗がはげしくそれ以上は判明しない。

 

 

 
Photo_8 左側には棒状のようなものがみとめられ、上部に丸いものがついていて、さらにその上に円形状の物が掘り出されている。足先は左右に広げているようにみえ、台座は厚い板状のものとなっている。
下腹部はかなり出て、その下に三角の彫りくぼみがある。光背頂部から板状台座まで1m6㎝である。

 

 

 

 

 

Photo_9 さらにこの仏像の斜め右前(以前は中央)に、石造(凝灰岩)丸彫の千手観音坐像(高さ1m13㎝)が置かれている。
十一面をもつ頭部はきわめて巨大で48.5㎝(頂上仏を加えて)、身部が63.5㎝、台座の厚みは13.5㎝。大臂は三対あって、二手は胸前で合掌し、二手は前にあげ(おそらく蓮華を持し)、二手は膝で入定印を結ぶ。
他の小手は段をなして舟形光背いちめんに陰刻している。膝は薄く、衣文や足を略し、蓮華座も三角形を二段にならべているにすぎない。胡粉をぬったあとがみえる。
以上松本氏の採寸及び調査報告をもとに述べてみた。現状は松本氏調査当時とほぼ変わっていないようである。

まずこの仏像の考察の前に、その問題点を列挙してみよう。
第一の問題、この横穴の造立年代である。その手がかりとなるものは、正面奧の円筒形つきの庇である。
これは、当然造立当時のものであるので、それがはたして、本瓦葺を表現しているのか否かということが問題となる。
本瓦葺だとするならば、仏教渡来以後の造立と考えられるからである。単に草葺屋根に丸太をのせた形式とすれば、もっと時代をあげてもいいということになる。
第二の問題、浮彫の千手観音立像の造立年代はいつか。また追刻なのか、当初の造立かという問題である。
これは、清水寺式の千手観音であるということとあわせて像の様式的検討が必要となる。
第三の問題、第二の問題を発展させると、清水寺式千手観音の伝播状況、この千手観音は清水寺と関係があるのかといった問題にまでひろがる可能性がある。
さらに、この地域にどのようにして清水寺式千手観音がもたらされたのかという問題に発展する。

以上できるだけ客観的にこの石仏の現状に就いて述べてみた。次回は今まで、この仏像について先学はどのように論じてきたかについて述べてみようと思う。

2009年1月14日 (水)

ステンドグラス

Photo_6 ステンドグラスとは、と大上段にかまえると、以外とつかみどころがないのです。まず、ステンドグラスを日本語に訳すと、Stain とは著色のことを意味しているので、いはば色ガラスをつかっていれば、ステンドグラスといえなくもないのです。

水前寺公園のすぐそばにあるジェーンズ邸は明治でも初期の洋館です。一部当初の泡だらけのガラスも嵌っていました。

 

 

 

Photo このジェーンズ邸のドアのガラスはまさに、色ガラスをつかっているので、ステンドグラスといってもいいのでしょうが、ちょっとそう呼ぶのに違和感があります。

藤森照信氏はこういうガラスが、明治初期の擬洋風建築によく使われていたので、「擬洋風ステンドグラス」と呼ぶべきだと言っています。

なるほど、鉛ではなく、木の桟にはめられたガラスとしては、実にいい名前かもしれません。

 

 

Photo_3 そういえば、松本の開智学校のファンライトには色ガラスを使った窓がありました。

 

 

 

 

 

Photo_4 また、横浜の山手聖公会の教会のステンドグラスはこのような色ガラスを使ったものでした。

 

 

 

 

 

Photo_2 ところが、今井兼次設計の大隈記念館の2階正面の窓は、スチールサッシに真っ赤な色ガラスをはめ込んでいるのです。正面中央下の2枚のみ黄色のガラスでその他すべて真っ赤な色ガラスなのです。

内部の撮影が禁止でしたので、内部からの映像が見せられませんが、中はまるで、夕やけの中にいるようです。

こんな色ガラスの使い方は、明治初期の「擬洋風建築」に使われたのなら、藤森氏の説で納得するのですが、この建物は昭和41年の建物です。これもステンドグラスなのでしょうか。記念館のパンフレットによると、大隈侯が早大総長時代に愛用したえび茶のガウン(早稲田のスクールカラー)を表している。と書かれていますが、ちょっとコジツケのしすぎかなと思います。

それにしても、今井兼次はなぜこのような色ガラスを大胆に使ったのでしょう。ずいぶんと思い切ったことをしたもんだと感心することしきりです。

Photo_5 よく見ると、建物自体もたいへんユニークな外観をしています。惜しむらくは、コンクリート打ちっ放しはいいのですが、汚れが非常に目立ってきています。十分なメインテナンスが必要な時期です。

2009年1月12日 (月)

佐賀熊本旅行

1月10日・11日と佐賀熊本旅行を敢行しました。雪がときどき舞う寒さの中、予想以上の成果でした。いつものように強行軍の旅程は以下の通りです。

10日

  • 福岡空港→博多→佐賀
  • 佐賀県立美術館・・・「運慶流展」山口県立美術館とダブってしまいました。
  • 佐賀城本丸御殿・・・復元した木造の建物
  • 大隈記念館・大隈家住宅・・・記念館は今井兼次の設計。色ガラスが嵌っていました。
  • 佐賀市歴史民俗館・・・といっても、古い建物群で、とくに旧古賀銀行は内部がすばらしい。
  • 佐賀→鳥栖→玉名
  • 石貫穴観音横穴群・・・石室の奧の壁に清水寺式千手観音が彫られている。
  • 石貫ナギノ横穴群・・・すぐ近くの装飾古墳群
  • 玉名市歴史博物館→熊本

11日

  • 熊本城・・・宇土櫓→天守閣→本丸御殿→平櫓群→飯田丸五階櫓
  • 熊本県立美術館→熊本博物館→旧細川刑部邸→
  • 熊本大学五高記念館・・・他にも煉瓦造の重文の建物が2棟ある。
  • 水前寺成趣園→夏目漱石旧居→
  • ジェーンズ邸・・・色ガラスの嵌っているドアがある。
  • 熊本県立図書館→鶴屋→阿蘇くまもと空港

今回は、運慶流展がダブったので、石貫穴観音の千手観音像がメインの目的となりましたが、いままで、このブログで書いていた仏像以外の分野で、新しい出会いがいろいろありました。

Photo 佐賀城本丸御殿の内部です。これは復元の建物ですが、ちゃんと資料にもとづいて木造で造られています。お城というとまず天守閣の復元ですが、佐賀の場合は御殿からというのがいいですね。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 大隈記念館へは、ほんとに偶々行ったのですが、なんとこの建物は今井兼次の設計で、しかも、ステンドガラス風の色ガラスを使った建物です。なかなかおもしろい建物でした。

 

 

 

 

 

 

Photo_3 佐賀駅にもどる道すがら、佐賀市歴史民俗館へ行きました。ところが、民俗館とは、建物群の総称で、入場料もなし、旧古賀銀行の洋館の内部は浪漫座というレストランになっていました。おまけに、ピアノの生演奏付です。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 石貫穴観音横穴群は山の中腹のところに5ヵ所の横穴があり、正面3ヵ所の中央に千手観音が彫られています。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5 これも復元された、熊本城本丸御殿です。規模は佐賀城よりずっと大きいです。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_6熊本城は櫓や塀の復元もすこしずつ行われているようで、単なる史跡ではなく、昔のお城の様子が想像できるようになってきました。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_7 熊本大学の校内は広くてゆったりとしています。東京の大学のキャンパスがいかにせせこましいかがわかります。

旧五高の校舎です。五高の卒業者で有名人を見てみたら、池田勇人、佐藤栄作、そして、美術史界?では、福山敏男が卒業生だそうです。

 

 

 

 

 

Photo_8 熊本洋学校教師ジェーンズ邸という洋館がありました。明治4年着工ですから、洋館としてはかなり初期のものです。入口のドアに色ガラスが嵌っていましたが、何枚かは補修されています。当初のものかは定かではありません。

そんなこんなで、仏像ばかりでなく、お城、復元建物、近代個人住宅、洋館、古ガラス、ステンドグラス、とテンコもりの2日間でした。

疲れた。整理が大変だ。

2009年1月 9日 (金)

時代区分

表6 時代区分

大時代 西暦 時代区分 時代名・様式
古代 BC - 538 先史・古墳時代 上古、石器、金石、古墳、縄文、弥生、上代、太古
古代 538 - 794 飛鳥・奈良時代 推古(593-628)、飛鳥朝・飛鳥(538-663,671)、飛鳥後期(645-675)、奈良時代・奈良朝(645-794)、奈良前期・白鳳時代(645-710)、奈良後期・天平(710-794)
古代 794 - 969 平安時代前期 弘仁時代、弘仁貞観時代、藤原時代、平安朝
古代 969 - 1185 平安時代後期 藤原、王朝、平安後期
中世 1185- 1392 鎌倉南北朝時代 中世、中世初期、鎌倉(1185-1333)、吉野・南北朝(1331-1392)
中世 1392- 1568 室町時代 中世、中世後期、足利(1336-1568)、北山(1398-1467)、東山(1467-1531)、戦国(1532-1600)
近世 1568- 1615 桃山時代 近世(1568-1624)、安土桃山(1568-1615)、戦国(1532-1600)、聚楽
近世 1615- 1716 江戸時代前期 近世、江戸初期、徳川、慶長元和(1596-1623)、江戸前期(1615- 1715,1736)、元禄(1688- 1703)
近世 1716- 1804 江戸時代中期 近世、徳川
近世 1804- 1868 江戸時代後期 近世、江戸末期、徳川末、化政(1804-1829)、幕末
近代 1868- 1945 近代 明治(1868-1911)、明治大正(1868-1925)、大正(1912-1925)、大正・昭和前期(1912-1945)
現代 1945- 現代 戦後(1945-)、昭和後期(1945-1989)、平成(1989-)

上記は、筑波大学で行われた、日本美術シソーラスで使われた「時代区分」です。“大時代”“時代区分”と木構造にしてその下位に“時代名・様式”として同レベレの名前を配しています。これはこれで、シソーラスとしてはいいのでしょうが、細部にわたって検討が必要です。

時代区分
原始 1100
縄文 1110
古代 1200
弥生 1210
古墳 1220
飛鳥 1230
白鳳 1240
奈良 1250
平安 1260
平安前期 1263
平安中期 1265
平安後期 1267
中世 1300
鎌倉 1310
鎌倉前期 1313
鎌倉中期 1315
鎌倉後期 1317
南北朝 1320
室町 1330
室町前期 1333
室町中期 1335
室町後期 1337
近世 1400
安土桃山 1410
江戸 1420
江戸前期 1423
江戸中期 1425
江戸後期 1427
近代 1500
明治 1510
大正 1520
昭和 1530
現代 1600
時代未詳 1999
朝鮮古代 2100
朝鮮三国 2110
朝鮮高句麗 2111
朝鮮百済 2112
朝鮮新羅 2113
朝鮮統一新羅 2120
朝鮮中世 2200
朝鮮高麗 2230
朝鮮近世 2300
李氏朝鮮 2340
朝鮮近代 2400
朝鮮時代未詳 2999
中国古代 3100
中国仰韶文化 3110
中国竜山文化 3115
中国夏 3121
中国殷 3122
中国周 3123
中国春秋 3124
中国戦国 3125
中国秦 3126
中国漢 3127
中国後漢 3128
中国六朝 3130
中国三国 3131
中国魏 3132
中国晉 3133
中国蜀 3134
中国呉 3135
中国五胡十六国 3136
中国南北朝 3140
中国南朝 3141
中国宋 3142
中国斉 3143
中国梁 3144
中国陳 3145
中国北朝 3150
中国北魏 3151
中国西魏 3152
中国東魏 3153
中国北斉 3154
中国北周 3155
中国隋 3160
中国唐 3170
中国渤海 3177
中国中世 3200
中国五代 3210
中国遼 3215
中国北宋 3217
中国南宋 3218
中国西夏 3220
中国金 3230
中国元 3240
中国明 3250
中国近世 3300
中国清 3310
中国近代 3400
中華民国 3410
中国時代未詳 3999
東南アジア 4000
インド 5000
西アジア 6000
ヨーロッパ 7000
アフリカ 8000

上記は、私のデータベースで作った、時代コード表です。大ざっぱには、これですましています。というのも、たとえば、平安時代としか書かれていないデータでも、厳密に平安前期か後期かを決めなくてもいいように、大分類としての平安時代を設定しています。また、もっと大きな分類としての、古代、中世、近世といった項目も設けていますので、時代が確定できなくても大きな分類に納めておけるようにしたものです。

さて、彫刻作品のデータベースでは、どういう時代コードの設定をしたらいいのでしょうか。というのも、作品データの場合、それを加工するには、抽出と並べ替えがいかに的確にできるかが問題なのです。

確かに、時代コードで設定したとしても、抽出によってその時代のグルーピングはできますが、並べ替えができないのです。作品の前後関係をデータとして表すことは、現在のところむずかしいという結論に至りました。前後関係を区別するコードがつくれないのです。

そこで、考えたのが、「時代コード」でした。これは、4~5桁の数値にしたコード表です。最初の1~2桁は時代コードで、1 飛鳥 2 白鳳 3 奈良・・・10 江戸 というように時代名をコードにしたもの、次の2桁は世紀、末尾の1桁は世紀区分というものです。

世紀区分とは、0 頃、1 初期(0~9)、3 前半(10~39)、5 中頃(40~59)、7 後半(60~89)、9 末期(90~99)というふうに便宜的につけたコード番号です。カッコ内は西暦の末尾2桁です。

たとえば

  • 鎌倉時代13世紀後半   6137
  • 室町時代15世紀頃    8150
  • 江戸時代(世紀不明)   10990
  • 1250年造立        6135

のようにつけられます。これですと、並べ替えはできなくとも、かなり細部にわたってのグルーピングができますので、あとは、手作業での並べ替えということになります。

このコード表の長所は、たとえば、円成寺大日如来坐像の1176年をこのコード表で表すと、6127 となります。つまり、鎌倉時代12世紀後半 というくくりになります。平安後期にのくくりには入ってこないことになります。

このコード表は、現時点では、我ながらいいコード表だと思っています。データの入力をこなしていくうちにその使い方にも安定感がでてきました。

ただそれでも、このコード表ではどうにもならないことが数多くあります。たとえば、彫刻作品の時代判定が、室町~江戸 というもの、藤末鎌初 院政期 といった、時代をまたがるものについては、何ともしがたく、あくまでも便宜的に古い時代にいれるということにしています。したがって、その精度はどうしても落ちざるをないのです。

コンピュータの並べ替えの威力を十分に使いたいのですが。 

2009年1月 6日 (火)

検索キーワード

Photo 滋賀県立琵琶湖文化館の『研究紀要』第18号の論文の末尾に[キーワード]という項目があります。それは、筆者が自ら、その論文のキーワードを設定して、項目としてリストアップしたものです。このような書き方をする論文がわずかではありますが、出てきています。

図書館のNDCのような分類方法の他に、文献目録データベースの中には検索しやすいようにキーワードを設定しているものがあります。たとえば、日本印度仏教学会のデータベース(INBUDS)では、キーワードとして、[地域][時代][分野][人物][文献][述語]の6項目を設定しています。しかし、これは、データベースの入力者が設定したもので、論文の筆者が設定したものではありません。

その意味で、筆者自らがキーワードの指定をするのは、画期的といえるかもしれません。また、その設定の責任が明確になることで、そのキーワードの的確性がでてくることは明らかです。

 

 

Photo_2 ところが、そのキーワードの設定の仕方にも、一定のルールが必要なのです。たとえば、この紀要の論文に山下立「新出の在銘習合像二例」という論文の末尾にある[キーワード]には 神仏習合、本地仏像、神像彫刻、心の御柱 の4語があげられています。

この論文を読んでみると、雷八幡神社木造阿弥陀三尊像と樋之上八幡神社木造男神像の2件の仏像、神像の紹介です。とすると、キーワードに 阿弥陀三尊像や男神像 があってもいいのかなとおもいます。

 

 

 

Photo_3 つまり、キーワードを選択する方法として、この論文の主題を的確に表現する言葉でなければならないことと、一般につかわれている言葉でなければならないのです。

そうでないと、検索者がそのキーワードを頭に浮かべるとき、非常に特殊な言葉では、検索の言葉を入力できないのです。

いわゆる自然言語による検索は、よく使われている言葉しか検索語として使われない傾向にあります。ところが、仏像といういはば特殊な分野では、仏教用語とか一般に使われない言葉が多いのです。誰でもそのキーワードを思いつくには限界があるということです。ということは、キーワード辞書をつくり、ある程度決まった言葉で検索する必要があるということになるのです。

そして、その辞書の記載されている言葉でのみキーワードとして使用するということになります。そうでないと、たとえば、この論文のキーワードで、「神像彫刻」を検索したとき、それに関する論文がもれなくヒットできるかという問題がでてくるのです。

先日、シソーラスの話をしましたが、これこそシソーラスの出番なのです。

いずれにしても、論文に筆者自らキーワードを付けるという習慣は、もっと普及してもらいたいとおもいます。いつかこれが役に立つときがきっときます。そのときのために、今からしっかりとしたルール作りが必要なのでしょう。

2009年1月 3日 (土)

年末年始の成果

正月休みが今回は9日もあったのに、あと1日になってしまいました。これだけの休みですから、まとまってやることができると、いっぱい計画を練っていましたが、結局全部消化できそうもありません。休みはまだ1日ありますが、休み期間中の成果をご披露します。

Photo まずは、年末からちょこちょこはじめていた、パンフレット用ファイルの本棚です。サイドボードの上に置くことにしました。ついでに、下部に引き出しをつけました。角には金物を装飾用につけて、船箪笥風にしました。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 もうひとつの大工仕事は、ごみ箱です。いままでは、ダンボールで簡易的に作っていましたが、みっともないので、木で作りました。板をできるだけ切らないようにしたために、下部に棚を作り、さらにキャスターをつけて移動しやすくしました。

中の袋はもちろんレジ袋を使用できるように、金物をつけています。

本棚も、ごみ箱もホームセンターにある既製品の板をできるだけ切断しないで、しかも接着剤は引き出し以外は使っていません。すべて、ビスで止めていますので、いつでもバラせるようになっています。

あと、大きなスライド本棚を計画していますが、まだ設計段階で、そのための材料の調査をかねての大工仕事でした。これで、だいたいスライド本棚のイメージが湧いてきました。

できなかったこと、夏休みに終わらなかった製本作業がまだ残っています。あと一日では終わりそうもありません。1月中になんとか終わらせたいと思いながら、いつまでおわるのやら。

もうひとつの計画は、全然着手までたどりついていません。それは、旅行用のトートバックを作ることでした。今まで、帆布のバックを改造して、ショルダー用に肩ヒモをつけたり、マジックテープをつけたりしていましたが、やはり、カタログを入りやすくしたり、カメラやノートがすぐ取り出せるようにしたりするには、新しく作らないとダメという結論で、藍染の帆布と一番安いソーイングマシンまで買ったのはいいのですが、結局いままで、一度も動かしていません。

どうも、この頃、お膳立てまではやるのですが、そこから先の製作する情熱がなかなか湧かないのです。「年かな」、というのは禁句です。まだまだと体力も知力も衰えてはいないと思うのですが。

いったいいつになったらできるのやら。 情熱! 情熱!

Photo_3

2009年1月 1日 (木)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

平成21年の幕開けです。今年は、激動の1年になるのだろうとおもいます。そんな覚悟をしても、やはり、個人の力ではどうにもならない、潮流に流されるのでしょう。

Photo_4

Photo_5  今朝、初日ノ出をを見に近所の汐入地区にいきました。隅田川がコブのように蛇行している所です。初日ノ出は、首都高速の橋桁から昇りました。その右手には、向島の防災マンション群が城壁のように続いています。

汐入地区は昔はニチボーの工場があったところで、広い空き地だったのが、ここ十数年の再開発で、20数棟の大マンション群が建ち、四棟の超高層マンションが林立して、近年、その計画がほぼ終了した所です。

これが、東京都内最後の大規模再開発といわれた場所です。いはば、近未来の東京の住環境の有り様を示しているところです。この都市計画が成功したのかは、いまでも、よくわかりません。都市設計者がほんとに住みやすい環境を作ってくれたのかは、住人の使い方によるのだろうと思います。

Photo_2 道路の両脇にマンションが建ち並び、あるいは、超高層マンションが林立する光景が住人にとって、日常の風景として、受け入れられるのかは、わかりません。

でも、考えて見ると、マンションのような住宅は、結局穴グラに住んでいるのと同じことなのです。部屋の中に入れば、外の環境と遮断されてしまい、窓から見えるまわりの景色は住むための重要な要素にはなっていないのがわかります。

住人は穴グラの生活で、プライバシーを獲得しましたが、まわりの景色やコミュニティーを失おうとしています。

 

Photo_6  たしかに、隅田川の川岸には薄(ススキ)を人工的に植えて、昔の川岸の風景を作ろうとしています。細かな配慮には以前と較べて格段の差があります。

しかし、都市計画者は、ほんとうに、生活者にとっての住空間に対する哲学をもって計画したのだろうか。また、良好な住空間とはいったいどういうものなのだろうか、という答えが見つかっていないのではないかと、この風景を見ていつも感じるのです。

住民の力が、お膳立てされた環境と、この風景に圧倒されてしまって、自由な活力が生まれてくるのだろうかということが隠されているのだろうと思います。

とにもかくにも、この一年、いや一日、大切に過ごしていきたいとおもいます。

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