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2009年1月21日 (水)

石貫穴観音千手観音立像について(考察編)

Photo_4 まず第一に、屋根が果たして本瓦葺なのかについて考察してみよう。写真にはないが、図面で見ると、円筒形のものは、屋根の中に埋まるような形をしている。つまり、屋根の葺材が萱や藁のようなもので、そこから丸太が突き出ている表現なのである。これがもし、本瓦葺ならば、円筒は屋根にそって、半円形に延びていなければならない。これは、たとえ、稚拙な表現だとしても、天井とのせまいスキマに、わざわざ彫りにくい形に彫るのだろうか。そこには、屋根材から突き出るという表現を意識的にしたかったのだろうと思わざるを得ない。

『玉名郡誌』絵図 大正12年4月

 

 

 

 

 

Photo_3 もしこれが、本瓦葺の表現だとしたら、その造立年代は7世紀から8世紀ということになる。しかし、この石貫穴観音からほんの数キロの場所に立願寺廃寺がある。そこからは、白鳳時代の軒丸瓦が出土している。とすると、石貫穴観音の造立者はすくなくとも、本瓦葺の建物を見ているはずであり、それを石造で表現するとしたら、このような表現になるのだろうか。本瓦葺の建物を見ていたのなら、どんな稚拙な表現だとしても、こんな形にはならないであろう。むしろ、本瓦葺の表現ではないと見るべきであろう。

 

 

 

 

 

Photo 次に、千手観音が追刻か否かについて考察すると、まず奧壁の中心部を矩形に彫りこんだところに、千手観音像を浮彫している。ということは、彫り込んだ矩形の端から定規を当ててみて、それが、千手観音像の厚さ以下になっているか、検証してみる必要がある。それが、追刻の根拠とはならなくても、追刻かどうかの判断のひとつにはなるだろう。

 

 

 

 

Photo_6左写真 [石貫ナギノ横穴8号。 彩色がよく残っている横穴。奧壁にも彩色文様がある。]

もうひとつ気になることは、宮本氏の論考で、「奧壁が朱に塗られ、それが、線刻部には見られない。」と言っていることである。石貫ナギノ横穴8号のように、奧壁に彩色されていたとするなら、しっかりと科学的な調査をして、奧壁の彩色がどの場所に残存しているかを特定すべきであろう。また、高木正文氏の論考で「玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」という意味がよくわからない。これも、しっかりとした説明がほしいところである。

清水寺式千手観音像は、少ないサンプルながらも形態を分類すると、頭上の二手の形で2つに分類できる。

一つは頭上の二手の形が五角形をしている仏像である。これは、三十三間堂の長寛時の仏像の納入品の刷仏や、中尊寺観音院泉沢石窟観音窟龍峰寺がそれにあてはまる。

Photo_2 もう一つは、二手を肩より垂直にのばしそれから臂を斜めにのばし化仏を捧げる像。いはば水晶形をしている像。京都清水寺前立像、西国三十三所の清水寺の千手観音像として表現される像である。この水晶形の仏像は、おそらく京都清水寺前立像の形態のマネとして全国に普及した形とおもわれ、時代は室町時代以降となる。

熊本県では、清水寺式千手観音像はいままで二例が確認されている。菊池市の東福寺の立像と、宇土市の西安寺の坐像である。この二像の頭上にあげる二手は水晶形である。

松本雅明氏が言っているように、千手観音の経典は日本で天平7年に書写されたのを初めとする。しかも、その当時の像容は唐招提寺や葛井寺像のように清水寺式ではない。清水寺式の初見は、三十三間堂の創建時の長寛2年(1164年)である。それ以前にも図像として請来されていたかもしれないが、直接、熊本の地にそれがもたらされたとは考えにくい。少なくとも、一旦中央にもたらされてからの普及であろう。

一般に千手観音像は右に錫杖、左に宝戟をもつ。その形式は、地面につくくらい長いものと、手に持つ短い形がある。しかし、この石貫穴像のように錫杖だけというのは図像でも、彫像でもその例がない。また、台座が蓮華座でなく、箱状になっている。というと、何か長谷寺式十一面観音像の形態を連想させる。千手観音と十一面観音の違いはあるが、ちょっとひっかかることではある。

錫杖の上に円形の浮彫物がある。これが何かは不明である。また、頭上に捧げる化仏も円形である。はたしてこれは化仏なのであろうか。

結論として言えることは、屋根は本瓦葺とはどうしても見えなかった。

千手観音像の両脇にある矩形の彫り込みが気になるところである。奧壁の科学的調査が望まれるところである。

Photo_5 屋根が本瓦葺で、千手観音像が当初という前提で、造立年代を古くは白鳳か奈良時代とすると、図像から考えて無理がある。もっと下げて平安初期とすると、横穴の編年、形態および、清水寺式千手観音像の図像の時代から考えても、矛盾をきたすことになる。

つまり、本瓦葺、当初の千手観音像では説明がつかないのである。

総合的に考えると、千手観音像は追刻、横穴の築造年代は当地に仏教建築が伝来する以前とするのが現時点での判断であろう。

では千手観音像はいつの追刻かというと、清水寺式千手観音像としては古い形式とみられ、時代は平安後期から鎌倉とするのが、妥当なところであろう。

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