« 石貫穴観音千手観音立像について(調査編) | トップページ | 石貫穴観音千手観音立像について(考察編) »

2009年1月18日 (日)

石貫穴観音千手観音立像について(研究史編)

石貫穴観音横穴についての過去の論考をここでまとめておこうと思う。ここでは、前述の横穴の築造年代、および千手観音像が追刻か否かにかぎってとりあげることとする。

Photo

  1. 浜田耕作・梅原末治著『京都帝國大學文科大學考古學研究報告』第一冊[肥後に於ける装飾ある古墳及横穴] 大正6年3月刊
    ・浜田耕作「第五章 高瀬附近の遺跡/第二節 玉名郡石貫村の横穴群」および「第六章 後論/第三節 装飾古墳の年代」
    ・・調査は大正5年12月より翌6年1月にかけて行われた。
    ・・奧壁の千手観音像は平安初期の様式
    ・・庇は本瓦葺の屋根を表しており、これから7世紀頃と推定できる。
    ・・結論として、千手観音像は追刻、
    ・・横穴の築造年代は第六世紀の中頃より奈良朝以前第七世紀頃まで。
  2. 『豊後磨崖石佛の研究』大正14年8月 京都帝國大學
    ・浜田耕作「其の奧壁の千手觀音像の浮彫は、果して横穴穿成以後平安朝に至って附加せられたものであるか、將た横穴に同時代であって、それが奈良朝にも溯り得可きか、平安朝迄降り得可きか等に就いて、未だ議論は決着しない。但し當時私は後刻説を提唱して置いた。」
  3. 松本雅明・乙益重隆「肥後における平安・藤原時代の佛像」『熊本史学』第2号 昭和27年7月
    ・千手観音像は奈良朝の古墳構築の際彫られたとするのが適当。
  4. 松本雅明「肥後石貫穴観音古墳の彫刻ー大陸文化の滲透と古墳成立の時期ー」『考古学雑誌』45-4 昭和35年3月
    ・庇は瓦葺の宮殿建築を表わしている。千手観音は築造当時と仮定した論。
    ・千手観音経典の日本の書写は天平7年からである。
    ・「真に仏教が理解されず、従ってそれを屍床に刻ることが冒涜であると意識されなかった時代の産物であると見るときのみ、正しく解釈できるであろう。」
    ・天平15年以前が古墳の築造の時期
  5. 小林行雄編『装飾古墳』昭和39年10月刊 平凡社
    ・九州の装飾古墳変遷図に石貫穴観音は600年の後半の位置におかれている。
    ・各個解説の頁では執筆者の乙益重隆氏は千手観音像の年代にはふれていない。
    ・庇も本瓦葺とは断定せず、家型石棺の蓋につくりだした縄掛突起の変形とみることもできる。と他の見方を示している。
  6. 斎藤忠『古墳壁画』日本原始美術 5 昭和40年4月 講談社
    ・「熊本県穴観音横穴の千手観音像浮彫りの如きは、すでに松本雅明氏の研究もあるが、私はこの横穴の時代を奈良時代に下降させることも不自然でないと考えており、同じときに刻まれたものと見ている。」
    ・七世紀頃の古墳にも仏像を表しているものがある。
    ・解説(田辺哲夫) 45.穴観音横穴群
    ・・「軒丸瓦とおもわれるが、石棺の縄掛突起の変形とみるむきもある。」
    ・・「千手観音は一説では平安時代初期の追刻であろうといわれているが、最近、この像について、横穴構築のものとなす説があり注目をあびている。」
  7. 日下八光『装飾古墳』 昭和42年1月 朝日新聞社
    ・石貫穴観音横穴
    ・・「奧壁に彫られた千手観音像は、仏像全体としてのバランスもよく、とくに下半部は良い形である。・・・仏像そのもから時代の判定は困難である。」
    ・・「奧壁石屋形の瓦葺は当初のものと考えられ、寺院建築の影響とみられないこともない。もしそれが肯定されるならば、千手観音像も当初のものとして不合理でないわけである。」
  8. 斎藤忠『日本装飾古墳の研究』 昭和48年3月 講談社
    ・「本論(一)装飾古墳・横穴の諸形式とその分布/第一章 諸形式とその種類/第二節 装飾横穴の諸形式とその種類」
    ・・「穴観音横穴の中央のものは、入口に三重のくりこみの縁がアーチ状に設けられ、内部には、奧壁に沿って一段高くして石屋形の施設を造りだし、その屋根には軒丸瓦を配したような造作を示し、左右の側壁に沿ったところにも一段高い縁をつくりつけ、それぞれ両側にも屍床を構成している。恐らく、横穴の構造としては、日本でも最も複雑なかつ整備した例であろう。この石屋形施設の奧壁の正面に浮彫りされた千手観音の立像は、同一時期のものと考えてよく、一つの彫刻図文とも見られる。また、軒丸瓦を配した屋根の造作も、装飾的な要素とみなしてよい。しかも、これには入口のの三重の飾縁にも円文と並列三角文とが赤色で描かれている。」
    ・「本論(三)装飾古墳・横穴の編年と序列/第二章 装飾横穴の編年とその序列/第四節 内部の奧壁に石屋形施設がとりつけられ、これに図文のほどこされている横穴」
    ・・八世紀から九世紀 石貫穴観音横穴
    ・「古墳および横穴遺跡解説/68 穴観音横穴群」
    ・・「龕状の施設の奧壁に千手観音像が半肉彫されている。平安時代初期の作とみなされる特色をそなえている。従来、これは横穴に直接関係するものでなく、追刻されたものと考えられてきたが、松本雅明氏は、横穴を平安時代初期のものとみなし、同時の営造という説を発表した。横穴自体の年代については、出土品等の失われた現在、的確に知ることはできないが、その下限を平安時代初期とすることも必ずしも矛盾を覚えない。もし然らば、この仏像と同時で、むしろ横穴の被葬者に仏教的な信仰のあらわれのあったものとも考えられる。」
  9. 西住欣一郎・宮本千絵『石貫ナギノ・石貫穴観音横穴群ー熊本県菊池川流域における横穴墓研究(1)-』 昭和55年8月 金曜会
    ・宮本千絵「Ⅳ 石貫穴観音横穴群」
    ・・「4号において最も問題となるのは奧壁の千手観音の浮彫りと奧屍床上のいわゆる軒丸瓦の表現である。奧屍床奧壁の千手観音については松本雅明氏の論文によれば築造年代を示す重要な要素となっているが、奧壁に塗られている朱が線刻部には見られず、また、床面プランからみても奧壁は築造当時より後にわずかに刳りこまれている様子であることから、築造当時のものとは即断できない。奧屍床外側面上部廂部分の表現は廂の上部から円筒が突出しているため、たるきと見るより軒丸瓦を表現したものと思われるが、瓦頭部分に赤の彩色が残っており、他の横穴群にもわずかではあるが類似の表現がみられることから築造当時のものであると考えられる。また、軒丸瓦であるとすればセットとなるべき軒平瓦の表現がなされていないため、軒平瓦を用いる以前の段階の建築物を模したものであるとも思われ、当横穴築造の年代決定の重要な要素となる可能性も充分に考えられる。」
    ・西住・宮本「Ⅴ まとめ」
    ・・「石貫穴観音横穴4号横穴は本文Ⅳで述べた如く奧屍床外側面上の軒丸瓦の浮彫からみて7世紀末までには築造されたと思われる。またその内部形態、構造は石貫ナギノ横穴群中で新しい段階であるⅠーC類に属する横穴との類似性が強く、両横穴群の終末期を示すものであろう。すなわち、石貫ナギノ横穴群、石貫穴観音横穴群は6世紀中葉から7世紀末までの期間その築造が続けられたと考えられるのである。」
  10. 熊本県教育委員会『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書第68集 昭和59年3月
    ・高木正文「Ⅲ 装飾ある横穴墓/73.石貫穴観音横穴墓群」
    ・・「奧壁には中央よりいくぶん左寄りに千手観音の立像の浮き彫りが見られる。この浮き彫りが横穴墓築造時のものであるかどうかは判断が難しい。一説では横穴墓の築造年代を下降させ庇の円形浮き彫りを軒丸瓦の表現でとみて、千手観音像を当初からのものとする考えがある。他方庇の円形浮き彫りは垂木の表現などとも見ることができ、千手観音像が奧壁面の完成後、彫られているので当時のものとする見方に否定的な意見もある。筆者にもどちらか判断できないが、この横穴墓はその構造や造られた位置からこの横穴墓群で初期に造られた横穴墓と推定しているので、後者の可能性が強いのではないかと考えている。」
  11. 『装飾古墳の諸問題』国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 平成11年3月
    ・高木正文「肥後における装飾古墳の展開/12 菊池川下流域の装飾横穴墓」
    ・・「なお、千手観音像が彫られていることで有名な石貫穴観音2号横穴墓も形態からこの時期[6世紀半頃:編者注]に位置づけられ、あまり知られていないが、玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」

Photo_2

Photo_3

« 石貫穴観音千手観音立像について(調査編) | トップページ | 石貫穴観音千手観音立像について(考察編) »

仏像」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 石貫穴観音千手観音立像について(調査編) | トップページ | 石貫穴観音千手観音立像について(考察編) »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ