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2009年3月

2009年3月28日 (土)

大報恩寺の美術と歴史

このところ書評ばかりになってしまいました。仏像探求の旅、美術館めぐり、近代建築散策も、だんだんとハードルが高くなってきていて、簡単に見られない物件が多くなってきました。ちゃんと準備しないと、なかなか気軽に見られないのです。なかなか機動力が生かせません。そんなわけで、ちょっと今ネタぎれぎみで、再度調べなおさないと新しいものがみつかりません。

Photo 『大報恩寺の美術と歴史』は京都大報恩寺の寺宝および寺史が書かれている本です。この手の本は、寺が発行元になって、非売品にすることが多いのですが、これは、ちゃんと市販されていますので、今回はネットで手にいれました。

京都の寺院の悉皆調査は、京都国立博物館が毎年1ヶ寺程度を決めて行ってきましたが、この2~3年その調査報告がでていません。京都市内は他自治体でやっているように、地域的に網羅してやる調査ではなく、寺院ごとに悉皆調査をやってきました。寺院の数が多いので、そのほうが効率的なのでしょうが、それでも、かなり長期的にやらなければ、とても調査が終了するとは思えません。

それでも以前紹介した、仏教大学などでは、ある寺院をきめて調査をやっているようですし、大学、研究所など調査できる機関が複数あるので、手分けすればかなり調査が進むと思うのですが、なかなか進んでいないようです。

この『大報恩寺・・』の本の定価は8,400円(税込み)は、高いのか安いのかは何ともいえませんが、寺宝に清水寺式千手観音立像を発見しました。清水寺式千手観音像は、本家の清水寺は別として、京都市内では絵画が智積院に、版画が三十三間堂にあるくらいです。また彫像では、近辺にあるのは、大阪府池田市の常福寺ぐらいで、意外に清水寺の近辺にはその例がないのです。

そういった意味では、本家の清水寺のそばに清水寺式千手観音があったのは、注目に値します。その仏像の来歴などが解ればそれにこしたことはないのですが、これからの研究しだいということでしょうか。

2009年3月25日 (水)

仏像新書本

PhotoPhoto_2 

この2月3月でたてつづけに新書版で仏像の本が新刊本屋の店頭に並びました。いづれも彫刻研究者による執筆です。

去年の秋にも数冊仏像の入門本が出版されましたが、それは、あくまでも仏像を理解するための基礎的な知識を述べるといった内容が多かったように思います。その時の執筆者は美術史研究者ばかりでなく、仏教史研究者、仏像修理者、仏像愛好家など多彩でしたが、基本は仏像を理解するための基礎的知識を披瀝するのが主のような本でした。

読者もこのような本では、もう飽き足らなくなってきたのでしょう。出版社も二匹目のドジョウはねらえなくなり、もうすこし専門的な知的好奇心をくすぐる論考を読者に提供しようと考えても不思議ではありません。

というわけで、まずは紺野敏文著『奈良の仏像』、長岡龍作著『日本の仏像』はそれぞれに、その興味というか着眼点は微妙に違ってはいますが、いわゆる美術史的観点から、造形的考察、その背景にある仏教教義の考察といった主流的な考察方法で展開しています。この2冊は著者の論文を読むための前知識としてのいはばダイジェストとしての性格が強く感じられます。

山崎隆之著『一度は拝したい奈良の仏像』はそれとは、ちょっと視点がちがった見方をしています。というのも山崎氏は東京芸術大学で仏像の修理を長年にわたって行ってきた人ですので、仏像をどのようにして製作したかの、技法的な関心に多くが向けられています。そのために、いわゆる美術史学者が気がつかなかった視点をもっています。

たとえば、飛鳥大仏の手の爪の輪郭線がつながっていない、とか百済観音宝冠の飾り紐の長さが短いことの不自然さを指摘するなど、実際に、仏像にさわってみたり、ひっくり返してみなければわからない視点をもってみているのがわかります。ただ、外面的に観察しただけでは知り得ない情報が掲載されているのです。

以前単行本で多数の入門本が出ていた中でも、山崎隆之著『仏像の秘密を読む』(平成19年4月刊)はそういった作り手側からの視点で書かれた本としてとても参考になる本でした。

こういった、実際に仏像に手をふれたり、あるいは仏像の内部を観察したりできるのは、ほんとに極く限られた人間にしかできないことなので、その体験記は非常に貴重なのです。できれば、もっと細部にわたった調査報告あるいは見聞記を記録に残してほしいと願うばかりです。

2009年3月22日 (日)

南部の仏像

Photo 『南部の仏像』を手に入れました。青森県の仏像及び絵画の悉皆調査報告書です。平成20年12月刊です。

青森県史叢書としては、『下北の仏像』についで2冊目になります。

青森県では、青森県立郷土館が平成2年から5ヶ年計画で仏像調査が行われ、『青森県立郷土館研究年報』の15号から20号まで報告が掲載されています。

さらに、青森県立郷土館では、『青森県の仏像ー西北五地方編ー』として平成10年に刊行されています。

また、弘前市では、『弘前の仏像』という調査報告書が平成10年に刊行されました。

今後、『津軽の仏像』の刊行でおよそ、県内のすべての悉皆調査報告書が刊行されることになります。

 

Photo_2 『南部の仏像』の中で書かれていますが、青森県での仏像調査は当時、弘前大学にいた笠原幸雄氏の貢献が大きいとおもいます。さらに、その後、須藤弘敏氏にバトンタッチされ、このような形で調査を完了させることができたのは、おそらく他の県でもないことだと思います。

全国の仏像の悉皆調査を俯瞰してみますと、その都道府県あるいは地元の大学に仏像調査のできる専門研究者がひとりでもいるかいないのか、でおおきな差がでているようにおもいます。その県内にたった一人の専門家がいるだけで、県内の悉皆調査がかなりできるのです。そういった計画を進められるのは、国の補助金行政の指導でできるのでしょうが、それでも、都道府県はがんばって行っています。

結局のところ、日本全国すべての悉皆調査を行わなければ、そのデータを有効に使えないのです。

それが、完了するにはまだまだ時間がかかりそうです。

2009年3月18日 (水)

『展覧会カタログ総覧』

Photo 『展覧会カタログ総覧』上下2冊は平成21年1月26日に日外アソシエーツから出版されました。定価\52,500円です。一般人では手がでません。というよりも図書館のリファレンスコーナーに置かれるための本です。

データは「東京国立近代美術館」「横浜美術館」「国立西洋美術館」「東京都写真美術館」「東京国立博物館」「東京都江戸東京博物館」の蔵書の中から、展覧会カタログを集めたものです。収録図録は61,300点になると書いてあります。

分類はその内容によって「総記」「宗教」「歴史・地理」「社会科学・自然科学」「工学・産業」「建築」「芸術・美術」「彫刻」「絵画」「書」「版画」「写真」「工芸」「音楽・演劇・映像」「スポーツ・諸芸・娯楽」「文学」に大別して、各大見出の下はテーマ、人名ごとに適宜細分して小見出を立てた。としています。

この分類は図録という性格にあった分類法だとおもいます。分類法そのものに問題はないのですが、各博物館美術館の蔵書目録は、おそらくデータ1件について、1分類という分類のしかたをしているとおもいます。たとえば、『かみとほとけのかたち』栗東歴史民俗博物館、『役行者と修験道の世界』大阪市立美術館 などは「宗教」の分類にはいっています。「彫刻」あるいは「絵画」の分類には掲載されていないのです。こういった分類方法をとると、その分類に信頼性がなくなります。

これはコンピューターでデータ化されたものを、プリントしたためにおこったことです。というよりも、データを項目に入力するときの問題が露呈しているのです。データベースではインデックスとしての分類項目をあげて入力しているのですが、それには、1項目1データという原則で入力されていたとおもわれます。『かみとほとけのかたち』という図録は「宗教」だけでなく「彫刻」「絵画」をテーマとしているのです。したがってその分類に図録データがなくてはいけません。

この問題を解決する方法は、実に簡単なのです。インデックスに複数のデータを入れるようにすればいいだけの話です。私の今使っているACCESS2007はやっと1項目に複数のデータを入れることができるようになりました。いままでは、1項目に無理に複数項目を入力して、部分抽出という方法をとらざるをえなかったのです。もっともこの方法を使うと、この項目での並び替えができません。

この総覧はたしかに便利です。しかしさらに望むのならば、その本に掲載されている論文の目録をいれてほしかったのです。そこまでは、おそらく、もとのデータベースの入力項目にないのでしょう。各美術館博物館のデータベースの構造の更新が必要になってきます。そこまでできるようになるには、まだ時間とお金が必要なのでしょう。

2009年3月15日 (日)

法隆寺再建の謎

今見終わって正直いってがっかりしました。「NHKスペシャル 法隆寺金堂再建の謎」という番組です。最初に新たにおどろくべき発見があったということから話が始まります。金堂の天井板の年輪年代測定が668年と出たことが、新発見だといっています。つまり。670年の若草伽藍焼失以前だということが、新発見なのだそうです。しかも、釈迦三尊像と夢殿救世観音像は聖徳太子を写したものだという伝承から、若草伽藍焼失以前に今の場所に金堂が建てられたと言っています。しかもこの堂は聖徳太子をまつるための堂だったとしています。

堂内は正面に釈迦三尊、阿弥陀如来像が今あるところに救世観音像があったと、CGで見せています。玉虫厨子も金堂にあったと。

非常にあいまいに見せていますが、肝心なとことろはぼやかしです。

まず、それでは、薬師如来像のあったところには、何を安置していたの? CGでは今の薬師如来像らしきものが写っていましたが、どうなんですかね。

Photo この説はむかしの足立康の「釈迦堂一郭後身説」、さらには、鈴木嘉吉の最近の説(「法隆寺新再建論」『文化財論叢Ⅱ』1995年9月))にもとづいて立てられています。それをさらに進めて最初の堂は聖徳太子をまつるために等身の仏像を安置したというような印象をあたえようとした演出です。

そこまで踏み込んでいいの?というのが私の印象でした。それにいたるまでは、さまざまなストーリーが必要です。金堂釈迦三尊像はほんとうに623年建立でいいのか?それがそもそもどこにまつるためにつくられたのか?今の金堂が聖徳太子をまつる堂ならば、どうして三体まつる配置になっているのか?などなどさまざまな疑問に答えられなければなりません。

テレビとはいえちょっとおおげさすぎない? というのが私の印象でした。しかもNHKにしては、あまりにも論点がぼやけています。何を言いたいのかわからずじまいで終わってしまいました。疑問をのこして終わるのも演出でしょうが、なーんだ、で終わると何ものこりません。

2009年3月14日 (土)

世田谷巡り

Photo 午後から雨がやむという予報を信じて、世田谷美術館へ「平泉 みちのくの浄土」展を見にいきました。東京展が最後となるので、もうすでに仙台、福岡で見てこられた方の報告もあるので、あえて、コメントは差し控えて、砧公園を横断して、静嘉堂まで歩いていきました。ここは、以前「タモリ倶楽部」でやっていた国分寺崖線があるところです。

今回の目的は静嘉堂ではなく、そのすぐそばに「瀬田四丁目広場」なる公園のようなところがあり、その中に旧小坂邸があります。ちょうど国分寺崖線の上に建っている住宅です。

この岡本から瀬田にかけては、かつて別荘が立ち並んでいました。高橋是清邸は小金井のたてもの園に移築され、旧第一銀行クラブにあった、誠之堂、清風亭は深谷に移って残っているくらいで、移築されていないのは、この小坂邸ぐらいのようです。

Photo_2 建物は昭和12年に清水組の設計施工で建てられ。まあごく普通のお金持ちの和風住宅とでも言ったらいいのでしょうか。ただ、崖上に建っているので、庭はその崖を利用して斜面に作られています。

 

 

 

 

 

 

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何故この建物が気になっていたかというと、この小坂邸にはステンドグラスが嵌っていたという情報を得ていたからです。中をざっと見渡してみても、嵌っているような窓がありません。と、中にある土蔵の中を見てみると、木枠に入ったままのステンドグラスが二枚、壁の奥に置かれているではありませんか。職員の方に話をして、廊下まで出してもらいました。あいにくと、まだ外は雨が降っていて、外光がよくはいりませんので、ステンドグラスの鮮やかな色がわかりませんでしたが、それでも、トーチのデザインのステンドグラスが二枚おなじ図柄でありました。トーチ部分など細い鉛線をつかって、確かな技術で作られているようでした。惜しむらくは、ガラスが湾曲していること、ガラスが1枚破損していること、など補修の必要が生じている状態です。これがどこに嵌っていたのかわかりませんが、両側の透明のガラスで挟み込まれているので、よく保存されているほうでしょう。クリーニングして外光を通して見ればそのすばらしさがわかると思うのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 『世田谷区文化財調査報告集ー10ー』平成13年刊に「旧小坂家住宅」の調査報告があります。それによると、小坂家の追加工事に関する資料として、「玉川御別荘窓ステンドガラス御入費・請求書・見積書」があると書いてあります。それには、

  • 寝室窓欄間ステンドガラス2尺6寸/1尺(4枚)
  • 同            2尺6寸/8寸5分(2枚)

とありますが、現在ある2枚は高さがざっと見ても4尺以上はありますし、巾も1尺もありません。どうも資料と現物は違うようです。しかし、見積書にはひょっとしてステンドグラスの製作所の名があったかもしれません。とすると誰が作ったかがわかるのですが。

それにしても、この2枚のステンドグラスはどこに嵌っていたのでしょう。

2009年3月13日 (金)

秋山光和先生

 大学院の2年目、夏休みにはいった頃でしょうか、同期の秋山光文君から電話があり、平等院に調査があるので、京都にいっしょにいってくれないか、宿代はだすので、その後、彫刻の調査もあるので。という話でした。秋山君はそれ以上くわしいことは言わないので、どういう調査なのか、私は何をしたらいいのかもわからず、また平等院の後、どこへ行くのかさえわからず、「じゃあ行きます。」と二つ返事をしました。前日、彼の家に泊まり、朝早く、彼の車で出かけました。途中、当時東大の助手だった、田口氏をひろって、東名に乗りました。まず行ったところは、湖東の西明寺でした。三重塔の内部の壁画を見せていただきました。夕方、平等院近くの旅館に到着。Photo 翌日から、平等院の境内の観音堂に行きました。調査は観音堂の中で行われていました。中には鳳凰堂の扉があちこちの立てかけてありました。光和先生は、その中で、いろいろと段取りなどをしていました。立てかけた扉に顕微鏡を取り付けて、のぞいているオバサンがいました。ジーパンに大工がしている道具袋をさげ、顕微鏡をのぞきながら、秋山先生になにか、気がついたことを話しかけていました。光文君にあの人は誰?と聞くと、柳沢孝さんだよ、というのです。「柳沢孝」という名は論文でよく見かけましたが、女性だとは知りませんでした。「たかし」ではなく「たか」というんだよ。と光文君に教えていただきました。観音堂の外の、池のほとりに、中年の男性が、池の鯉にエサをやっていました。どうも、この調査の関係者らしかったので、光文君に聞くと、「高田修さんだよ。」と言うのです。高田修先生は、観音堂の中で、調査らしきことをするのでもなく、池の鯉にエサをやっていたという記憶しかありません。柳沢孝オバサンは、休憩時間になると、「加藤さん一服しましょうか」と私を誘って、境内で唯一灰皿のあるベンチに行って、いっしょにタバコをくゆらせていました。光和先生はというと、タバコも酒もやらない人で、昼食の後、宇治金時をたのんで食べていました。先生曰く、「宇治に来たらかならず宇治金時をもうこれが最後だと思って食べるのです。」と言うのです。私は学者とはそんな発想をするのかと、感嘆することしきりでした。
Photo_3  調査の手伝いといっても、これといった仕事があるわけではなく、先生がときおり指示されることをするだけなので、観音堂の中に置いてある、扉絵、鳳凰(本物)、観音堂本尊の十一面観音立像を眺めていました。光文君とX線撮影も経験させてもらいました。携帯用のX線発生装置を、扉の前に設置して、撮影個所の扉の裏に袋に入ったままの印画紙を固定して、電源をいれるのです。光文君は使い方を知っているのか適当に、このくらいの距離なら、30秒くらいか、といってタイマーをかけるのです。こんなんで、撮影できるのかと思いましたが、後で発行された、『平等院大観』には、その写真があるようです。これも、あとで、光文君に聞いた話ですが、X線は金属には反射するのだそうです。つまり、機械のうしろにいたからといって、X線をあびないとは限らないということなのです。安全対策もしないでよくやっていたとおもいます。今では考えられないことです。

 

 

 

 
Photo_2  2~3日して、水野敬三郎先生がやってきました。水野先生は、観音堂の十一面観音立像を調査しにきたのです。自らライテイングをしながら、写真を撮っていきました。つぎの日だったか、今度は西川新次先生がやってきました。観音堂の中においてある鳳凰をしきりに見つめていました。そばによっていっしょに見ていると、メジャーはありますか?と聞くのです。先生にメジャーをわたすと、鳳凰のおしりにあいている穴からメジャーを差し込んだのです。すると、メジャーの先があたり、何か土のようなものが穴から落ちてきました。あれ!といった感じだったでしょうか。これも私は、学者とはこんなこともするのか、とまたまた感心することしきりでした。その日は、日が落ちるまで、平等院にいました。夜暗くなったところで鳳凰堂の内部にライトをいれて、阿弥陀如来坐像を観察しました。西川先生は細部にライトをあてて細かく観察していました。私と光文君はこれは、正面から写真を撮る絶好のチャンスだということで、三脚を持って、鳳凰堂正面の池の前で写真を撮りました。
つぎの日、西川先生を車に乗せて、観心寺へ向かいました。『日本彫刻史基礎資料集成』の仕事で、観心寺の宝物館の仏像の調査のためでした。その日まで私は観心寺の調査のことは全然知りませんでした。
 あとで、考えてみると、光和先生は、息子の光文君に仕事を見せたいと思ったのと同時に、調査機材運びをさせるために呼び寄せたようです。ただ東京から京都まで、ひとりで車を走らせるには心配で、誰か、興味がありそうで、同行しそうな人間をさがして、私に白羽の矢が立ったのではと思います。そうであっても、私にしてみれば、一生に一度あるかないかの経験です。こんな経験をさせてもらった光和先生には感謝することしきりです。しかも、調査とはどういうことをするのか、実際に経験できたことは、大収穫です。平等院だけではなく、観心寺の調査は、水野・西川両先生の彫刻の調査の方法もじかに経験させてもらいました。
 それにしても、何の準備もなくこんな経験をさせるなんて。
 昨日、秋山光和先生の通夜に行ってきました。こんな経験をさせていただいたお礼をいいたくて、その日以来お会いしていないのですが、参列させていただきました。

2009年3月10日 (火)

平木収君

 平木君にはじめて会ったのは、茶房早稲田文庫でした。たしか、私が大学院に入った年だから、昭和47年だったとおもいます。いつものように茶房へ行くと、店長の日下さんといっしょにカウンターの中で仕事をしている人がいました。日下さんが新人だと紹介すると、実は二文の学生で美術の専攻に行きたいのですが、と私に相談を持ちかけてきたのが最初だったとおもいます。あとで、わたしと同様に茶房の常連だった齋藤君がじつは平木君の高校の後輩だったことがわかり、大学では先輩で、高校では後輩になるといったややこしいことから、打ち解けていきました。平木君は茶房には1年位しかアルバイトはしていなかったと記憶していますが、持ち前の人づきあいのよさから、やめたあとも、茶房にかかわりをもって、オーナーの富安さんや我々常連と話をしたり、飲みにいったりしていました。Photo_5
 ある時、私が研究室で仏像の調査をしたとき撮った写真の焼付を平木君にたのみました。調査のとき撮った写真は6×9のネガだったので、それに対応する引伸し機がなく、当時写真部に籍を置いていた平木君にたのんで、写真部の引伸し機をつかわしてもらったのです。5~60枚をてなれた仕草で、焼き付けをしてもらいました。そして、乾燥ドラムが美術史研究室にあったので、それを使いに研究室にいくと、バッタリと佐々木剛三先生に出会ったのです。先生は平木君を学部の授業で知っていたらしく、「なんだ君は写真をやるのか」とおっしゃったのです。その後、先生はいろいろ写真のことで、平木君にたのみごとや、相談をしていたようです。
 私が大学院の修士を卒業して、家の商売をはじめた5月の連休に平木君と、大学院の美術史にいた齋藤君、仲嶺君の4人で京都旅行をしました。平木・齋藤君は京都出身で、仲嶺君は大学が同志社だったので、私が京都を案内してもらうということでした。宿は平木君の伏見の実家に泊めさせてもらいました。平木家の父君は会社勤めながら、趣味で篆刻をやっている人で、それも趣味の域をこえた実力の持主で、たのまれて書を揮毫したこともあったようです。ものしづかな御尊父で、子供を遠くからあたたかくみまもっているといった風情でした。しかし、本人はじつに調子よく気配りの人生をあゆんでいました。
 旅行中、私が京都でそばのうまい店があるのか尋ねたところ、まかせてくだいと胸をはって言うのです。その店にいくと、何やら老舗のお茶屋という玄関のつくりです。平木君はようようと、玄関にはいって空いていますかと尋ねると、そこの女将は、彼の風体をみて「すみません。あいにくと満員でおことわりしているのです。」というのです。あの格好で、京都の老舗にいって予約なしで入れるわけがありません。京都人が京都のしきたりを知らなかったのです。
 そうこうしているうちに、平木君と齋藤君の伏見高校の先輩後輩は、既定の学年を過ぎていってしまいました。そんなとき、佐々木先生か加藤先生の紹介だったかは定かではありませんが、二人そろって図書館の特別資料室でアルバイトをすることになりました。その時の室長は柴田光彦氏、その下に松本さんというユニークな人がいました。特別資料室に遊びにいくと、和本の修復の手伝いをしていました。紙に古色をほどこしたり、とその中でも、実に要領よく仕事をしていたなという印象でした、というよりも、松本さんに二人ともよくかわいがられていたなという印象でした。
 その後、佐々木先生の紹介で、京都の光村推古書院で仕事をしていたようです。奈良国立博物館でもアルバイトをしていたようです。そして、ヨーロッパに単身旅行をして、いよいよ写真で生きる覚悟ができたようです。それからは、写真雑誌のコラムや、展覧会の企画などをやり、着々と写真評論家の地位をかためていったのです。
 平成10年の秋だったか、突然、私の会社に電話が入りました。じつは、佐々木先生の古稀のお祝いの会があるので、来ませんかという誘いでした。私はこの業界(学界)から遠ざかっていましたので、情報が入ってきませんでした。平木君は私と佐々木先生の関係をじつによく知っていました。彼の気配りに感謝しました。先生はその一年後に亡くなり、これが最後の対面でした。Photo_4
またその翌年だったか、私のゼミの先輩だった多摩美のヨコチューこと横田忠司さんの葬儀の時に会いました。そのときは、昼食をともにしながら、今やっていること、これからのことなどを、じっくりと二人で話しました。その当時は、大学の非常勤講師や、雑誌にコラムなどを書いていましたが、もうそろそろおちついたらどうだ、というようなことを私が言うと何となくうなづいているようでした。さらに、これから、もうそろそろ体系的な写真史の本を書いたらどう、とけしかけると、まんざらでもなさそうでした。
それから、風のたよりに平木君が九州産業大学に就職したのを知りました。やっと落ち着いてくれたか、というのが私の印象でした。きっとこれからは、腰を落ち着けて研究にとりくんでくれるだろうと思っていました。
平木君は、平成21年2月24日なくなりました。 残念です。

亀高文子伝

亀高文子伝Photo
・明治19年(1886)7月9日横浜で、風景画家の渡辺豊州の一人娘として誕生。
・明治35年(1902) 女学校を2年で中退し、女子美術学校洋画科に入学。寄宿舎に入る。
・寄宿舎を出て、谷中清水町に横浜から引っ越してきた両親と同居。
・その後、本郷千駄木町へ転居。
・明治40年(1907) 女子美術学校を卒業。満谷国四郎に入門。
・その後、太平洋画会研究所に入所。同期の女性に長沼智恵子、埴原久和代がいた。

 
・明治42年(1909)4月、宮崎与平と結婚。
・同年     10月、第4回文展に『白絣』で入選。
・明治43年(1910)8月、長女美代子誕生。Photo_2
・明治45年(1912)3月、夫の看病のため、築地に転居。
・明治45年(1912)4月、長男一郎誕生。
・同年     6月9日、夫与平死去。
・大塚の両親のもとに同居。体調を崩し、順天堂病院に入院。
・大正2年(1913)11月号「少女画報」に挿絵を掲載。

 

 

 

 

 

 

・大正2年(1913)頃より大正6年(1917)頃まで、平尾贊平商店広告部で広告の仕事をする。Photo_3
・この頃、「少女画報」「子供之友」「少女の友」「新少女」などに挿絵を掲載。
・大森(荏原郡入新井村)に子供二人と女中とともに転居。
・大正4年(1915)、父豊州死去。母を引き取る。
・大正7年(1918)4月、東洋汽船の船長亀高五市と再婚。
・大正8年(1919)年末、女子の美術団体朱葉会を創立。
・同年    10月、次男洋介誕生。
・大正12年(1923)6月、夫の転職により、神戸に転居。
・大正13年(1924)、赤艸社女子洋画研究所を設立。

 
・同年     、三男素吉誕生。Photo
・昭和4年(1929)、神戸市葺合区に南信設計の家を新築。
・昭和6年(1931)8月、亀高五市死去。54才。
・戦争中は、愛知県渥美郡赤羽村に疎開。
・昭和23年(1948)、神戸にもどり、西宮に転居。赤艸社を再開。
・昭和50年(1975)、西宮市大谷美術館で「亀高文子自選展」を開催。
・昭和52年(1977)9月6日、死去。91才。
・昭和56年(1981)10月、『日本の童画(第五巻)ー加藤まさを・須藤しげる・渡辺文子ー』に作品を掲載。

その後
・長女美代子は、瀬尾貫二と結婚。瀬尾美代子となる。洋画家。
・長男一郎は、洋画家。
・次男洋介は、神戸商大教授。
・三男素吉は、元神戸製綱会長。最近82才で薬学博士になったことで注目。

 与平と文子の結婚について、文子は上笙一郎編著『聞き書 日本児童出版美術史』1974年7月5日 太平出版社 で次のように語っています。

「ーーーわたくしが、与平と知り合った最初でございますか。年こそ下でしたけれど研究所の先輩でしたから、おたがいに顔と名前はよく知っておりました。でも、何しろ明治時代の若者と娘でございますもの、正式に先生からでも紹介されないかぎり、口もきくことなど思いも寄りません。それなのに与平は、わたくしがデッサンを終って家へ帰ろうとしますと、一定のあいだを置いて、そのあとをついて来るのでございますの。その頃わたくしの家は、本郷の千駄木町に移っておりましたのですが、与平はその途中まで、毎日わたくしを送ってまいりました。そしてこれがきっかけで、与平とわたくしは、明治四二年の四月に結婚したのでございます。」

 文子は個性の強い父の庇護のもとで育てられたので、同期の長沼千恵子のような、自我にめざめた女性ではなかったようです。しかし、たった3年の結婚生活でも、与平との結びつきは、強固なものであったことがわかります。年下の夫をたてていたのは、与平の才能を充分に認めていただけではなく、人間的魅力に惹かれたからなのでしょう。
 与平の死後、文子は母として、たくましく生きることになります。父の庇護からはなれ、画家としての自活の道に進みました。文子自身語っているように、苦しい生活であっても画業を捨てることはなく、文展などに出品しつづけていました。

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とくに注目する作品は、大正2年の文展に出品した『離れ行く心』(上右)という自画像です。文子によると、この作品は与平の死去の直前に書いたといっています。ところが、与平の作品で明治43年に描かれた『習作』(上左)という文子をモデルにした絵とそっくりなのです。文子の絵は帯の部分まで描かれ、着物の柄が違っていますが、全く同じ構図なのです。どうして文子は『離れ行く心』という題をつけたのでしょうか。それが、時間とともに薄れゆく記憶に対して、文子の与平に対する愛の確認であったような気がしてなりません。どんな他人も2人の間には入り込む余地はなかったのだろうと思います。
 再婚相手の亀高五市については、神戸新聞学芸部編「亀高文子」『わが心の自叙伝<一>』昭和42年(1967)10月刊 の中に亀高家私刊『亀高五市の追憶』から引用した満谷国四郎の文がつぎのように書かれています。

「文子君と結婚の席上私は文子君に、ごく普通の人妻としての務めの上に氏に満足を与える様話した。処が後で氏より不足を言われたのだ。自分は文子君を後援して、芸術家としてなによりよく立たせたいから結婚したのである。人妻としてより芸術家として一層の鞭撻を希望するというのである。私は恐縮し、且つ感謝した。」

 文子は父から女子美術学校へ転校させられてから、絵の道に一貫して進んできました。与平と結婚したのも、いっしょに絵が描けるからであり、与平死後は、生活の糧として絵を書き続けました。亀高五市と再婚して、金銭的余裕ができれば、後輩の女流画家に援助をし、さらに絵画団体にも積極的にかかわってきました。80才をすぎても、創作に意欲をみせていたそうです。
 文子はその当時珍しかった女流画家であることで、世間から非難、中傷を受けて悩んだ。と書いています。そして波瀾万丈の生涯ながら、一貫して創作活動をつづけてこれたのは、周囲の援助や、理解があったからなのでしょうが、それにもまして、文子の強い創作に対する意志があったからなのでしょう。本当の明治の女に会ったような気がします。

2009年3月 8日 (日)

渡辺与平伝

渡辺与平伝Photo
・明治22年(1889)10月17日、長崎市西古川町に宮崎徳三、ケイの次男として誕生。
・明治35年(1902) 4月、13才、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。その間、鹿子木孟郎の私塾に入門。水彩画を習う。
・明治39年(1906) 3月、17才、京都市立美術工芸学校を卒業。
・同年      4月、上京。5月頃、大平洋画会研究所に入所。
・同年      7月頃より『中学世界』『文章世界』『ホトトギス』にコマ絵を掲載しはじめる。
・この頃、平尾贊平商店の広告部に籍を置く。日暮里七面坂下の三枝館に下宿。
・明治40年(1907) 3月、渡辺文子、女子美術学校を卒業し、その後、大平洋画会研究所に入所。
・同年      秋、18才、与平、脚気と肋膜炎を患い、療養のため長崎に帰省。
・明治41年(1908) 9月初旬、再上京。
・同年     10月、19才、第2回文展に『金さんと赤』(長崎県美術館所蔵)で入選。
・明治42年(1909) 4月、渡辺文子と結婚、渡辺姓となり、巣鴨の文子の両親の家に同居。
・同年     10月、20才、第3回文展に、落選。
・明治43年(1910) 5月、挿絵を担当した『笛の力』が出版される。
・同年      8月、長女美代子誕生。
・同年     10月、第4回文展に『ネルのきもの』(現泉屋博古館分館所蔵)で三等賞受賞。
・同年     11月、コマ絵画集『コドモ 絵ばなし』を出版。
・同年     12月、挿絵を担当した『おとぎばなし集 赤い船』が出版。『ヨヘイ画集』を出版。
・明治44年(1911)10月、21才、第5回文展に『帯』(渡辺与平展表紙、長崎美術館所蔵)、『こども』(個人蔵)で入選。
・明治45年(1912) 1月、大川端の佐々木病院に入院。
・同年      3月、退院。築地へ転居。
・同年      4月、長男一郎誕生。日本橋病院に入院。Photo_3
・同年      6月9日、咽頭結核と肺炎のため死去。享年22才。
・同年      6月、「渡辺ヨヘイ遺作展覧会」が長崎図書館で開催。
・同年      9月、「故渡辺与平氏遺作展覧会」が上野竹之台陳列館で開催。

 

 

 

 

 

・大正2年(1913) 6月、『ヨヘイ画集 愛らしき少女』が出版される。

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・平成20年(2008) 1月、「渡辺与平展」が長崎県美術館で開催。Photo_4

・平成21年1月30日、毎日新聞大阪版に「夢二と張り合ったイラストの元祖」というタイトルで記事を掲載。

 

 

 

 

 

 

 

実質わずか6年間の画業しかない画家ですが、その人世は内容の濃い生き様だったようにおもいます。とくに、3才年上の才媛、文子と結婚したことは、与平はほんとうに幸せだったろうとおもいます。しかし、その幸せの時間があまりにも短すぎたのでした。

長谷川時雨『美人伝』のなかに「ネルのふみ子」という一文があります。その一節を紹介するにとどめておこうとおもいます。

初戀の人ー宮崎與平が初戀の人としてふみ子を描いてから『ネルの着物』時代までの、ほんの短い巣鴨の新居が又と繰りかへすことの出来ないふみ子の思出になってしまった。『ネルの着物』は文展の三等賞になって、後に伊太利の博覧會に出品された。・・・ふみ子の悦びはどれほどであったか。自分は藝術家の誇をすてゝも、子供の面倒を見ながら戀人の夫につかへる喜こびを樂しんでゐた。巣鴨の空に見ゆる雲は飛んでゆく行方まで二人で追って、二十四と二十二の年はふみ子の生涯にいつまでも幻となってゐるであろう。苔の下の屍の與平にも、生涯にその時ほどの人世の味はなかったことであらうと思われるほどであったが、その幸福は翌年の晩春までで、人世の花も其年の春の名残の雨と共に過ぎさつて、再び二人の顔には晴れやかな笑ののぼる日がかへって來なかった。

 ふみ子がさる年の文展に出した『はなれゆくこゝろ』といふのは、與平の描いた肖像の自分をそっくりそのま冩して體だけをだしたものであった。心に思出多く、故人となってもふみ子の魂の中に與平は生きてゐる。けれどもふみ子は此頃人にむかってかういったといふ。

『私の面影に昔のふみ子の殘ってゐるのは眉ばかりだ。目も口許もしっかりちがってしまった』と。

 何といふかなしい言葉であらう。ふみ子の心には、戀に生きてゐた時代、夫に描かれて殘ってゐる面影ほど自分に懐しい時はあるまい。二人の遺児を餓させまいとする努力、夫の藝術を繼いでゆかうとする決心、そのなみなみならぬ心づかひが、むかしの面影をなくさせたのは道理であるが、ふみ子にはそれがどのやうにか悲しいことであらう。

2009年3月 2日 (月)

早稲田文庫の版木 補遺

Photo 以前、「早稲田文庫の版木」で、竹久夢二の版木を2枚紹介しましたが、額にはいっているもうひとつの版木を渡辺与平の絵だといいました。そのときは、渡辺与平という人物がどういう人がわかりませんでした。その後、高山奇人さんのコメントで、渡辺与平の奥さんは會津八一の初恋の人だというのを教えていただきました。

それが、どうもひっかかっていたところ、たまたま茶房へ寄ったとき、その版木の話になって、それが、どの雑誌に掲載された絵なのか知りたくなりました。それには、まず反転している絵をもとにもどさないとわかりませんので、版木を借りて刷ることにしました。

 

 

 

Photo_2 額からはずしてみると、その版木の側面に墨で、“女學”と書いてあります。夢二の版木のほうには、“中學”と書いてありました。夢二の版木は「中學世界」10巻4号(明治40年3月20日)と11巻4号(明治41年3月20日)とわかっていましたが、与平はわかりませんでした。

それが、「女學世界」と判明したのです。与平の描いたいわゆる“コマ絵”は調べてみると、実に膨大な量を書いていたのです。たとえば、「ホトトギス」には明治39年11月から明治45年7月まで、裏表紙も含めて149枚にものぼります。さらに与平は「中学世界」の明治39年7月号をはじめとし、「ハガキ世界」「日本新聞」「国民新聞」「少年世界」「少女世界」「婦人世界」などの雑誌に“コマ絵”を掲載しているのです。

そんな中で、この版木が「女学世界」に掲載されていたものだとわかっただけで、手間がはぶけました。しかも西暦(1908)入りですので、すぐにわかりました。

 

Photo_3 「女学世界」第8巻第4号(明治41年3月1日)の135Pに載っていました。「コマ絵」というのはおもしろいもので、いわゆる“挿絵”とは違って、文章と何の関係もない絵なのです。この絵は 糸左近著の「分娩一ヶ月後の母子(母の攝生と子の養育法)」という文の中に挿入されています。

このコマ絵はその当時、竹久夢二と人気を二分していたようです。このような児童画や女性の描きかたから、「ヨヘイ式」ともよばれていたようです。

竹久夢二と渡辺与平との関係については、またの機会にして、与平は夢二のように世に知られないまま、その短い生涯を終えました。わずか22才で子供2人と愛妻をのこしてなくなったのです。

それにもまして、會津八一が恋こがれた人で、3才年上の渡辺文子と結婚した与平という人物とは、どんな人だったのだろうという、疑問がわいてきました。

渡辺文子という人もいったいどういう人だったのだろうとおもいます。写真や、与平が描いた文子をみると、気品の高い美人だったのがその絵からかもしだされてきます。こんな美人を射止めた男、渡辺与平と、そのつれあいの文子の生涯はどういうものだったのだろうか、とおもいました。

 

 

 

Photo_4 そんなわけで、次回は渡辺与平と文子夫妻の生き様を調べてみたいとおもいます。

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