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2009年4月

2009年4月29日 (水)

根津神社

Photo  先週の土曜日の大雨の日、根津神社のつつじがどうなっているのか、見てきました。結果はまあ満開というのでしょうか。それでも、花の咲く時期をすこしづつずらしているようなので、まだまだ見頃は続きそうです。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 神社は本殿と楼門にはシートがかぶっており、修理中でした。それでも、この雨の中、結構人がでていました。根津神社のつつじはずいぶんとメジャーになったようです。

 

 

 

 

 

 

Photo 社殿の横には、根津神社の神輿が展示してありました。これを渡御しているのをまだ見たことはありませんが、かなり迫力があるとおもいます。下谷や鳥越に匹敵する大きな神輿です。と言っておきましょう。

2009年4月25日 (土)

求道会館

大雨の中、根津神社から、本郷へ散策をしてきました。根津神社のツツジは半分くらい見頃です。というよりも桜と違って長期間楽しめるので、神社もそのような育て方をしているようです。

Photo 今回の目的は求道会館の見学でした。月の第4土曜日の午後からしか見学ができないので、大雨でも出かけた次第です。求道会館とはどんな建物かをまず説明しなければなりませんが、簡単にいうと、真宗大谷派の教会です。建物はいはば、仏教の教会といえばいいのでしょう。外観、内部はまるでキリスト教の教会です。ひとつ違うのは、祭壇ではなく六角堂がありその中に阿弥陀如来立像をまつっていることです。内部に入ると、非常に不思議な空間を体験しました。

 

 

 

 

Photo_3 宗教家近角常観が、大正4年に完成させた建物です。設計は当時この近所に住んでいた東大の助教授の武田五一です。2階の窓のランマ5枚を使って、一本の菩提樹をデザインしたステンドグラスが嵌っています。まわりは円形のオレンジの硝子で縁取りしていますが、菩提樹以外は透明硝子をつかっているので、外の景色が見えるデザインになっています。いわゆる、外の景色も窓のデザインの一部となる、といったコンセプトを持っています。こういったデザインは小川三知の宮越邸で見られるように、西洋にはない発想のデザインだとおもいます。一種の借景でしょうか。

 

 

 

Photo_4近角常観は、明治3年(1870)滋賀県湖北町の真宗大谷派の寺院で生まれ、明治22年(1889)上京し、第一高等学校、東京帝国大学に進んだ人です。大学在学中に本願寺の改革運動に加わり、また帝大卒業後に、山県内閣の宗教法案の反対運動をするなど、行動的な宗教家だったようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_5その功績もあってか、明治33年(1899)から明治35年(1902)まで東本願寺から派遣されて外遊をし、その後、本郷のこの地に土地と建物をもらいうけ、学生寮を経営しながら布教活動を始めています。そして、武田五一に設計を依頼し、設計から12年の歳月をかけて大正4年(1915)に、この求道会館を建設し、さらに、大正15年には、やはり武田五一の設計で、いままでの古い学生寮の求道学舎を建て替えています。昭和16年(1941)72才で、常観は死去しますが、その後、求道会館は荒れるにまかせていたところ、東京都の文化財に指定され、平成8年から平成14年にかけて復原工事が行われ、今のような状態になったということです。

 

 

 Photo_9あとで調べてわかったことですが、本日、この経過を話していただいたのが、近角常観の孫の真一氏でした。この方は建築家で、この復原工事にたずさわった人で、この求道会館と求道学舎の建物を維持するため、さまざまな工夫をしている方だと知りました。いわゆる文化財指定の建物でも、それをいかに維持管理するかは、財政的な問題も含めてさまざまなハードルがあります。それを求道学舎リノベーションという方法で乗り越えたひとつの例としては、注目に値するとおもいます。

 

 

 

 

Photo_7近代にはいってからの、仏教の改革はどのように行ってきたのか、という経過は実に興味ある問題です。その渦中にあった近角常観の思想も興味ありますし、この建物の設計者武田五一もまだ残っている建物があり、特徴ある建物を造っています。興味が尽きないですな。

 

 

 

 

 

Photo_8

 

 

 

 

 

 

2009年4月22日 (水)

大法寺十一面観音・普賢菩薩像

Photo 大法寺十一面観音立像・普賢菩薩立像について、今までの解説ではどのような表現をしていたのか、ここで少しまとめてみたいとおもいます。

まず、『長野県文化財図録 美術工芸編』昭和30年2月刊 この解説は倉田文作氏によって書かれています。

木造十一面観音及び脇侍普賢菩薩立像(観音堂安置)

形状 一、十一面観音

 立像。頭頂に諸化仏、天冠台彫出、彫眼。左手屈臂して宝瓶を執り、右手垂下、五指を伸し施無畏の印をあらわす。(以下略)

二、普賢菩薩

 立像、高髻、天冠台彫出、彫眼。(以下略)

解説 更級郡観音寺の十一面観音像についで、藤原中期の作風を伝えるもの、十一面、普賢の二像とも製作の年代は同じであろう。[以下、彫法がおだやかであること、一木造の技法等一般的な解説に終始する。(編者注)]

『長野県史 美術建築資料編(一)美術工芸』平成4年3月刊 解説は松島健氏。

7 木造十一面観音及脇侍普賢菩薩立像(観音堂安置)

(前略)造像当初から別材を用いた部分を後補するほかは、本体木部は健全といえるが、髻は天衣・条帛・裳の縁を刻出するのみであり、かなり簡略化された造形になる。しかし、天冠台の列弁・臂釧などの装身具の彫りは入念で、面相部も鑿痕を残さず平滑に仕上げている。髪の黒塗、唇の朱彩のほか彩色および下地塗の痕跡はなく、形をきめるいわゆるアタリの鑿痕の中にも顔料は認められず、本来素地仕上げの像として造られたものであろう。 上瞼のふくらみと下瞼の刻線のみで表わされた両眼のつくりは異色であり、本像のきわだった特色の一つといえるが、平安時代一〇世紀ごろの一木彫成像にままみることができる。造像当初には瞳や眼の輪郭を墨描し、白眼に白色顔料を賦彩したのであろうが、金銅仏の鋳成後の鑿彫を施す前の眼の形にも似ており、あるいはそこに仏像にふさわしい俯瞰と慈悲相を見出したがゆえに、開眼の鑿を加えないままに仕上げたもののようにも思われる。(以下略)

[編者注:造像当初に瞳や眼の輪郭を墨描したならば、その痕跡は残っているはずである。墨は一度描くとそう簡単には消えないものである。開眼供養をしていないと認めているということは、眼を完成させていないということになるが。]

『定本信州の仏像』平成20年8月刊 解説は小倉絵里子氏。

Photo_2 46 十一面観音菩薩立像・普賢菩薩立像

(前略)等身の十一面観音像と、その脇侍とされ、普賢菩薩と称される約三尺の菩薩立像は、ともにカツラの一木造り、素地仕上げの像である。もともと一具のものではないだろうが、構造、作風ともによく似ていることから、同時期に制作されたものとみて間違いないだろう。十一面観音は、天冠台の列弁や臂釧などを入念に仕上げているにも関わらず、頭上面に隠れた髻は荒彫りするだけにとどまり、背面も衣の縁を表すのみの、かなり簡略化した表現をみせる。また両眼を上瞼のふくらみと下瞼の刻線のみであらわしているが、これは十世紀の作例にまま見られる特徴で、本像の最も注目すべき特色といえよう。(後略)

[編者注:松島健氏も小倉絵里子氏もこのような眼の表現は10世紀の作例にままみられるというならば、これは単なる時代的な傾向だったのか。最も注目すべき特徴というのならば、眼を完成させていないということが注目すべきなのか、明確に指摘されていない。]

三者の解説を読んでみると、いかにも苦しい解説をしていることが、行間からにじみでています。倉田氏はあきらかに、この問題から逃げていますし、松島・小倉両氏は眼を完成させていないということを明確に示せないために、あいまいな表現しかできないでいるのがわかります。

この問題はむしろ、どのように解釈するかは、まだ先の話にしておいて、現状の形をもっと客観的に表現をしたほうがいいような気がします。無理矢理解釈しようにも、まだその材料がそろっていません。ただ、しっかりとした、現状の記述はしておくべきでしょう。

2009年4月18日 (土)

目のない仏像二例

Photo 先日、東京芸術大学文化財保存修復彫刻研究室の受託研究成果報告内覧会に出ていた、長禅寺の十一面観音立像2体を、現地の取手市に行って見てきました。ちょうど、4月18日が年一回の御開帳の日にあたり、三世堂の中で拝観してきました。三世堂は、いわゆるさざえ堂形式になっていて、1階から3階まで交差せずに参拝できるようになっている堂です。

 

 

 

 

 

Photo_7Photo_8 本尊の十一面観音立像は鎌倉時代の漆箔の像で、その前に右肩を欠失し、左手も肘から欠失して、かなり破損の進んだ平安時代の十一面観音立像があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その前立の十一面観音立像を芸大の内覧会では、顔を近づけてみることができましたが、どうみても、目が彫ってありませんでした。芸大の修理報告がパネルで展示してありましたが、品質構造の項目では、「彫眼」になっています。しかし、写真で下から見上げて撮ると、眼球のふくらみの下部に線刻があるように写りますが、実際、現物では彫ってありませんでした。

 

 

 

 

Photo_10 Photo_9 さて、先日長野旅行で、一カ所まだ、書いていない仏像がありました。大法寺の十一面観音立像です。この仏像も目を彫っていない仏像なのです。それを確かめに実物を見に行ったというわけです。大法寺には同時代の作品とおもわれる普賢菩薩立像も作風が共通しており、やはり目がない仏像でした。本尊の十一面観音立像は下から見上げることしかできませんでしたが、やはり見上げると眼球のふくらみの下に線が見えてしまいますが、普賢菩薩像のように、おなじ目線でみると、眼球のふくらみの下には彫った形跡がありませんでした。

大法寺の十一面観音像は、さらに、口をわずかにあけているのです。口の中に歯を彫っていますか?と住職に聞いたら、それはないとのことでした。住職の説明では、この本尊は目を閉じていらっしゃいます。と言っていました。しかし、最後に私ははこの仏様は、目を彫っていないのでは? というと、たしかにそうかもしれません。と言うのです。

人の思い込みというのは、実におそろしいものだと思います。眼球のふくらみだけで、目を彫っていなくても、それが、目を閉じている表現だとおもえば、そう見えるのです。それは、客観的に見て、果たして目を閉じている表現なのでしょうか。ちゃんと説明できるのでしょうか。

もっといえば、長禅寺の十一面観音像の修理報告ではこれを彫眼と記述しています。もし後世に、目を彫ってしまったら、これこそ彫眼として通用してしまいます。当初に目が彫っていなかったという証拠さえもなくなってしまいます。

修理では、これが一番恐ろしいことなのです。写真を撮ってあるからそんなことはないといえるでしょうか。写真ほど、撮る角度によって、瞼の線が見えたりみえなかったりするのです。理解できることも、できないことも、詳細かつ正確にありのままに記述することが、調査報告の基本であるはすです。

2009年4月17日 (金)

寺院美術館

Photo 今回、善光寺では、三つの博物館(宝物館)を見ることになりました。ひとつは、忠霊殿という塔の1階にある史料館です。ここに、快慶か?といわれた阿弥陀如来立像が展示されていました。東京芸術大学で修理したために、芸大の簡単な調査及び修理報告がパネル展示されていました。胎内納入文書銘によると「定快」という人物名があり、快慶の工房であろうとしています。たしかに、快慶風ですが、快慶の弟子は以前にも書きましたが、全く作風を継承しているわけではないので、こればかりは何ともいえません。行快に似ているといえばそうかな?といった印象でしか語れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2

お前立も山門の文殊菩薩も参拝できなかったので、大勧進・大本願の宝物館へ行きました。両方とも、本堂の脇の迷路のような廊下を通って、宝物館にたどりつきます。中は外の騒がしさとうってかわって、ほとんど見学者がいませんでした。宝物のカタログがないので、すべておぼえてはいませんが、仏像も何体かあったような気がします。

もっとも子院もふくめれば、かなりの寺院の数です、善光寺すべての悉皆調査をやれば、かなりの仏像がでること請け合いですが、そこまではいっていないようです。

別所温泉の安楽寺には、重文の頂相2体がありましたが、ガラスのスクリーンごしに見るようになっていて、ガラスの反射でとても見られたものではありませんでした。

Photo_3 常楽寺は何もなかったかなと思って、常楽寺美術館を覗いてみると、中国宋時代の木彫像がありました。この時代の木彫像といえば、他には大倉集古館像ぐらいでしょう。なかなか珍しい仏像です。

2009年4月15日 (水)

善光寺展

Photo_2  善光寺の御開帳にあわせて、2つの展覧会を見てきました。ひとつは信濃美術館の“いのり”のかたち 善光寺信仰展 です。

この展覧会の目玉はリンデン民族学博物館の善光寺式阿弥陀三尊像です。解説によると、この仏像は最初パッカードコレクションで、ネルソンギャラリーに保管されていたのが、リンデン民族学博物館の所有になったという経緯のようです。

今回の展覧会には善光寺式阿弥陀三尊像が20数件もそろって、しかも微妙にその形の違いがあると、何かその中で様式の共通点を見出したくなります。そして、どういう系統になるのかまとめたくなります。しかし、善光寺式に限っていえば、解説の中で武笠氏が書いているように、同じ木型を用いる場合もあり、いわゆる模造とコピーとの違いという問題もあるようです。

模造あるいは模刻という概念をもうすこし整理しないと、清凉寺式や清水寺式の例をだされてもということはあります。清水寺式千手観音像が1体発見されただけでも、私はいいのですが。

また、善光寺仏師妙海の作品が2件でていましたが、妙海の作品の中では、上島観音堂の十一面観音像がやはり傑作と思いました。

Photo_3 長野県立歴史館のほうは、いわゆる歴史的な面をより重視したコンセプトをもって、展示していました。ただ、古代の渡来文化から説き起こしていくと、あまりにも時代が長すぎます。また、善光寺信仰の面からとらえるにしてもあまりにも総花的になってしまいます。

同じ県立の美術館博物館で、同様のテーマというのでは、もっとしっかりとした棲み分けが必要だったのではなかったのでしょうか。

2009年4月12日 (日)

阿修羅フィギュア

Photo_3 Photo_2 阿修羅像フィギュアが送られてきました。なるほど、よくできています。小さいのがいいですね。ヤッパリ写真という2次元で見るのと、立体という3次元で見るのでは、その迫力というか、想像力の発揮するところが全然違います。まさに、現実により近いものが見られるのですから、本物との比較に、実に余計な想像力を働かせなくてもできるというのが、いいのか悪いのかわかりませんが。いずれにしても、今までの見方を変えなければいけません。

これによって、本物との比較が容易にできることによって、その記述にも画像を使うか、CGで見せるかという方法を、近い将来使わざるを得なくなるでしょう。

そういえば、善光寺史料館だったか、快慶の阿弥陀如来像を見る目線の角度によって、仏像の顔の表情が違ってくるのを写真パネルで見せていました。そこまで、立体で表現できるとしたら、すごいことになるのですが、いまのところ、その点は写真や図面にはおよばないようです。

Photo_4 Photo_5 このフィギュアは限定15,000体だそうです。その数が多いのか少ないのかわかりませんが、10数年後には、プレミアがついているかも。その時のために、箱も大切にとっておこうっと。

2009年4月11日 (土)

長野の旅

長野旅行をしてきました。旅程は以下の通り。

  • 新幹線で長野へ。長野駅でレンタカーを借りる。
  • 善光寺へ。朝9時なのにもう大渋滞。やっとのことで、駐車場に入る。
  • まず史料館へ。快慶か?という阿弥陀如来像を拜す。
  • 長野県信濃美術館“いのり”のかたち善光寺信仰展へ
  • 本堂の拝観の列はすでに仁王門まで並んでいで、あきらめる。
  • 山門の参拝も30分以上待ちのため、断念す。
  • 大勧進・大本願の宝物館へ
  • 長野県立歴史館“善光寺信仰展”へ。ここは空いていた。
  • 別所温泉へ、安楽寺、常楽寺、北向観音を参拝。
  • 青木村の大法寺へ、十一面観音像を参拝。
  • 修那羅峠の安宮神社へ、すごい山道を登り、足がガクガク。
  • 麻績インターより高速道路にはいり、長野駅へ。
  • 車を返却したあと、善光寺の参道を散策。
  • 新幹線にて、帰京。

PhotoPhoto_2 まあ、善光寺の御開帳はすごい人でした。とても週末に行くべきではありません。何も前立の仏像をわざわざ見なくても、善光寺式の仏像は、信濃美術館で20体ほど、長野県立歴史館でも7~8体出品されていました。これだけ善光寺式の仏像がそろって見られるのは滅多にありません。

 

Photo_3Photo_4 今回のメインは大法寺でした。この仏像については、またの機会にお話いたしますが、およそ40年ぶりの再会でした。長野県の仏像は、むかし東京国立博物館の収蔵庫で見たのです。なぜなのかは、これも次回ということで、とりあえずは、旅行の報告のみで、あとゆっくりとまとめてから、ということでご勘弁を。

 

 

 

Photo_5  「修那羅峠 安宮神社」

2009年4月 8日 (水)

桜吹雪

Photo 花見時は上野の山は遠ざけるといったのに、今日、上野の山に行ってきました。というよりも、上野に行かざるを得なかった、というべきでしょう。

というのは、取引先の先代社長の通夜が上野であったからです。それも、何の因果か、前回言っていた、天秤秤のメーカーの社長でした。

というわけで、広小路から、東京国立博物館に向かって歩いて行くと、まあ人はでていましたが、桜はもう先週末が満開で、今まさに桜吹雪となって散っている最中でした。きっと、花見酒のコップには花びらが浮かんでいることでしょう。このままでいくと、今週末には、葉桜になってしまうのではないかと思います。

 

Photo_2 桜はいかにもはかなく、散っていきます。その後は新緑が目に鮮やかになるのですが、桜が散った儚さは、その後、何ともいいがたい寂寥感に見舞われます。春の浮き浮きした感情がでてくる前に、もうすこし散った桜の余韻を楽しんでいたいとおもう今日でした。

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4

2009年4月 5日 (日)

文京区散策

この週末は、東京では、桜が満開でどこも人でいっぱいとはわかっていながら、これを逃すと一生見られないとおもうと、ついつい出かけたくなります。

先週、新聞を見ていると、枝垂桜のランキングに六義園の枝垂桜が三位にはいっていました。三春の滝桜は二位でした。三春まで行ってみなくても、東京に三位の枝垂桜があったとは、知りませんでした。

Photo それで、まずは、六義園へ。園内にはいると、すぐに枝垂桜はありました。しかし、もう満開はすぎて散り始めていました。この桜は早咲の桜で、夜のライトアップも先月で終わっていました。ちょっとスカスカの桜を堪能してきました。

絵はがきを見ると、実際はもっとピンクがかった色のようです。

 

 

 

 

 

Photo_2 そして、小石川植物園へ、この敷地に東京大学にあった、旧東京医学校本館という明治9年に建った洋館が移築されています。木造2階建で、2階は赤、1階は白の塗装をしています。この建物は総合研究博物館小石川分館として使われ、動物標本、測定機械などが展示されていました。

 

 

 

 

 

Photo_3 その中で、久しぶりに見たのは、天秤秤でした。これは、いわゆる化学天秤といって、薬品の重さを計るのに使われていたものです。そのために、天秤の台は黒い硝子を使っています。厚さはいろいろあるようですが、20mmから25mmはあるでしょうか。これは、薬品がこぼれても、化学変化しないようにということで、硝子を使っているのです。

というのは、実は、この黒板硝子は私の祖父が商売していた商品だったのです。黒い硝子はその当時、国内では生産しておりませんでした。そのために、ドイツから輸入して、天秤を固定する穴をあけ、小口を磨いて、計量器メーカーに出荷していました。計量器メーカーといっても、家内工業でほとんど一品生産の手作り機械でした。特殊な製品なので、実際にどのように使われていたのかは、ほとんど見たことはありませんでした。というよりも、もう今となっては製造されていないので、記憶から抜けていたのかもしれません。

小石川植物園は東京大学の研究施設だけあって、桜並木もあれば、ツツジの道もあり、モミジロードもありました。季節ごとに訪れると、それなりに楽しめる所だというのが解りました。ちょくちょく足を運ぶにはいい所かもしれません。

Photo_4 さて最後は、小石川後楽園です。後楽園は野球場のイメージが強すぎて、昔行って、すぐそばに野球場が見えて、とても庭園鑑賞にはほど遠い雰囲気だったので、しばらく遠ざかっていました。

それでも、さすが名園です。それなりに見せるものはありました。ここも、季節ごとに楽しめるようです。4月の藤、6月の花菖蒲、11月の紅葉と静かなときに行ってみたいところです。

2009年4月 3日 (金)

華原磬

阿修羅展には、仏像の他に法隆寺の橘夫人念持仏と厨子も展示されていました。何でとおもったら、八部衆像と十大弟子像は、光明皇后が母、橘三千代の一周忌供養のために造像したものという、理由で出品したようです。

Photo その他に華原磬が展示してありました。それに、最近発見されたと話題づくりになった、波羅門像がありました。この像は頭部を輪切りにして、その継面から天正五年(1577)源三郎の銘が発見されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2Photo_3

『七大寺巡礼私記』によると、当時、西金堂の正面の壇の下にあって、金皷の傍らに波羅門像が撞木を執って金皷を打つ姿勢をしていた。 と書かれています。

また、この像容は、金光明最勝王経 巻第二 夢見金皷懺悔品第四(大正蔵 第16巻) に妙幢菩薩が夢に大金皷を見て、波羅門が金皷を打つと大音聲がした。 とあるのを再現したのではないか、といわれています。

とすると、今は桃山時代の波羅門像ですが、西金堂創建当初にあった、金皷は当然波羅門像もあったはずです。しかも、金光明最勝王経に忠実に再現するならば、単なる彫刻ではなく、ひょっとしたら、ゼンマイ仕掛の人形で、自動的に波羅門が撞木で金皷を打ったのではないか、とおもったりして。

単なるオブジェとして置いてあったとしたら、この金皷は打つこともしなかっただろうとおもいます。

さて、以前とあるブログに”華原磬クイズ”を投稿してみました。その時の正解率は50%でした。あなたは、どうでしょうか?

華原磬クイズ!!
第1問、華原磬には4匹の竜がありますが、雌雄の区別は何でわかるのでしょう?
第2問、中心上部に台のようなのがありますが、そこには何があったのでしょう?
第3問、一時期、華原磬は鎌倉時代の作という説がありましたが、何の根拠でそういわれたのでしょう?
第4問、竜はなぜ皆、口を開けているのでしょう?

答えはブログ『時のあかしに』「興福寺のこと」に掲載しています。

阿修羅展の解説をみると、第3問は、また、別の解釈がでてきて、ちがった回答になってしまったようですが、とりあえず参照してください。

2009年4月 1日 (水)

阿修羅展

Photo_6 阿修羅展に行ってきました。開館後に着くと、もうすでに、入口の中まで並んでいましたが、止まることなく、スムーズに会場の中に入ることができました。展示室の中は比較的余裕をもった配置をしているので、じっくりとみることができましたが、十大弟子、八部衆像は、前宣伝がききすぎて、実際に見てもいささか食傷ぎみで、ざっとながしてきました。

さて、メインの阿修羅像の部屋にはいって最初の印象は、こんなに白っぽいの、という感じでした。興福寺国宝館で見た記憶のせいでしょうか。それとも、ライティングのせいでしょうか、随分と印象がちがいました。

 

 

Photo_7 この阿修羅像は明治35年に新納忠之介によって、六手あるうちの二手の肘から先を復元修理しています。合掌手の手のひらが合わさっていないのは、もとからそうなっていたのか、新納がそう復元したのかはわかりません。よく見てみましたが、修理の部分がよくわかりませんでした。さすが新納というべきか。

どうも、最近の東博の展示方法は、たしかに周囲すべてから見られる。視点の位置を高くして、おなじ目線で見られる。といった多様な視点を提供するのは、実に画期的なことなのでしょうが、どうもライティングという演出に走っているいやらしさが目につくことがあります。

立体造形は、ライティングひとつで、その印象は各段に違いがでてきます。個々が持っている印象という記憶はそれぞれが違うのは当然なので、その印象は様々なのは理解できますが、ライティングという演出によって、印象を創作してしまうとしたら、それは違うのではないかとおもいます。

今回は、むしろ、西金堂本尊の運慶作の仏頭、また両脇侍像、光背の飛天、四天王立像、といった、中金堂諸仏が見られたほうが、新鮮でした。四天王像の彩色の鮮やかさ、それに光背化仏の如来形坐像はまさに運慶作でした。

 

Photo_8 カタログは年々、豪華さをだしてきています。今回はクロスのハードカバーで、分厚さが増していますが、それでは中身はというと、写真ひとつとっても今いちの感があります。

阿修羅像のフィギアを買おうとしたら、初日で売り切れとのこと。予約で後で送りますというので、結局送料分余計に払わされてしまいました。これだけ前宣伝をしときながら1日で売切れはないでしょう。もっとも、私のようなミーハーがいるから売り切れになるのですが・・・。

 

 

 

 

 

 

Photo_9 帰りに東博の庭園を見てきました。しだれ桜も満開までもうちょっとというところです。気温がもちょっとあがれば、今週末は上野の桜は満開ということになるでしょう。週末は上野近辺を遠ざけることにしましょう。

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