« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月28日 (日)

製本(2)

 このところ、更新がご無沙汰になってしまいました。ちょっと、ネタに苦労していることもあって、なかなかキーボードに手が進みませんでした。というのも、以前からのコピーがたまってしまって、とうとう一括して製本しないと片付かなくなってしまったからでした。いつも、5月の連休かお盆休みか正月休みのまとまった日にやらなければいけないのを、さぼってしまったために、たまりにたまってしまいました。やっと、この2週間位かけて、製本をしていました。

Photo

製本した本は

  • A5 34冊
  • B5 28冊
  • A4 52冊
  • B4 27冊

計 141冊に及びました。これから、3方を裁断して、裏表紙の接着をして、それから本の題を印字して、背表紙に貼り付ける工程があります。そのために2~3日根を詰めてやらなければなりません。まだまだ道半ばです。

これだけたまると、コピーをとった記憶も薄れて、ダブリという失敗をしでかすことになります。以前コピーですました本が後に古本市場にでて、買うことも増えてきましたので、ますますダブリが増えていきます。コピーがあるから、改めて買う必要もないのですが、やはり、原本でないとということもあると勝手におもったりして、買うことになってしまいます。

最近は調査報告書や市町村史でも、カラー図版を豊富に挿入することが多いので、やはり原本でということになります。

写真は確かに以前と比べて格段によくなっていますが、最近気になっている、“無眼”の仏像も顔のアップの写真でないと、よくわからないことがあります。そうなると、さらにもっと詳細な写真が欲しくなります。

そんなわけで、欲望は尽きないのですが、まあ、あまり深入りしない程度で、本論をはずさないようにやっていこうとおもっています。

このところ、旅行の計画もなく、動きがにぶくなっていますが、2~3ヶ月先の予定を今考えているところです。今年は9月と10月に連休がありますので、この期間をうまく使う方法を考慮中です。なにかヒントがあれば御教授を・・・

2009年6月22日 (月)

日吉館の取り壊し

Photo 今日(22日)から、日吉館の取り壊しが始まるという記事があったそうです。地方版とはいえ、建物が取り壊されるだけで、記事なるというのは、すごいことだなあ、と改めて日吉館の偉大さを感じることとなりました。それだけ、多くの人の思い入れがある旅館だったのでしょう。単なる建物という箱ではなく、そこに詰まった思いこそが、真の文化財としての価値なのでしょう。

日吉館の思い出の写真をさがしていたところ、拓本の写真が見つかりました。日吉館に泊まった人ならば、よく思い出せばわかるかもしれません。

 

 

Photo_2 それが1階にあったのか、記憶にありませんが、拓本をちりばめて貼り付けた屏風がありました。何回か泊まるうちにそれが気になってしかたがありませんでした。そして、そのうちのいくつかを写真にとりました。どうも、鏡、画像石の拓本のようでした。その中で、文袮麻呂墓誌の拓本がありました。その当時おそらくそれがどういうものか知っていたので、写真を撮ったのでしょう。

あいにくと、全体の写真がありませんので、思い出していただけるかわかりませんが、何気ないところに、大変なものがあったような気がします。

前回のブログで、友人が日吉館で手伝いをしていた、と書きました。彼は、サークルの合宿のとき、その世話役をしている様子が、おばさんに気に入られ、彼が、大学卒業の時に、学生時代の思い出にと、日吉館で、1ヶ月程手伝いをしていました。就職先が大阪だったので、就職してからも、ちょくちょく出入りしていたようです。結婚して、新居を奈良に決めてからも、ずっと出入りをしていたようです。彼は、それで日吉館の内情を熟知していました。彼の言うには、日吉館で出されるすきやきの肉は相当質のいい肉だったそうです。彼いはく、これで採算がとれるのかわからない、といっていました。

Photo_3 その彼が結婚するとき、おばさんは、東大寺大仏蓮弁の拓本をお祝いに贈りました。彼はそれを大切に飾っていました。

その友人は、数年前突然、彼岸へと旅立ちました。暇になったら、昔話に花を咲かせようとした時期でした。日吉館の話ももう聞けなくなりました。

日吉館は木造の建物なので、1週間もすれば、きれいに更地になっていることでしょう。そうなっても、記憶には、しっかりと焼き付けておきましょう。本当の文化財としての価値はそれぞれの頭の中にあるのですから。

2009年6月17日 (水)

無眼

仏像の形状を記述するとき、普通、眼の記述では、“彫眼”と“玉眼”という言葉を使います。しかし、眼の形状を表すのに、どうもその2つの分類に、こだわってしまっているように思います。いはば、玉眼でなければ、彫眼と記述しておけば、無難な表現であろうと思ってしまうのは当然だろうと思います。

Photo しかし、眼のない仏像は厳然として存在するのです。大阪府堺市の太平寺の阿弥陀如来坐像は明らかに、瞼を彫っていません。以前掲載した、長野県の大法寺の十一面観音立像は眼球のふくらみの下に線が入っていました。これを眼を閉じた瞼と解釈しようとした人がいました。しかし、閉じた瞼の線はそんなに下につくはずはありません。この太平寺像にいたっては、眼球のふくらみをあらわしてはいますが、下に線ははいっていません。眼を閉じた表現とするには、明らかに無理があります。

彫眼とは、眼の瞼を彫ることによって、眼の表現をしている形状を言うのであって、瞼を彫っていなければ、彫眼という定義にあてはまりません。

それでは、瞼を彫っていなくて、仮に筆で眼を描いたら、これは何と言ったらいいのでしょう。いままで、私の見た経験から言うと、後補で眼を描いている彫刻はありましたが、瞼を彫っていなくて、眼を描いている仏像を見たことはありません。

これは、眼のない仏像に、後補で眼を描いた例でしょう。もともと眼のない仏像でも、後世に眼を彫る可能性もあるので、注意が必要でしょう。

それで、仏像の形状の記述に、このような眼のない形状を表す“無眼”という用語を用いることを提唱したいと思います。“玉眼”、“彫眼”、“無眼”と3種類の眼の形状についての用語を用いれば、より正確な記述となることでしょう。

Photo 神像には、この“無眼”の像が多くあります。その中にはあきらかに未完成像もあります。また、神像固有の単純化した彫出方法で、眼を彫っていないように見えるのもあります。

この辺は、鉈彫像もふくめて、充分に精査する必要があるかもしれません。

いまのところは、せっせとサンプルを集めなくてはいけませんが、写真ではその表現がわからないことがあります。できるだけ現物に接しなければと思うのですが、なかなか・・・・

2009年6月13日 (土)

旧土岐邸洋館

Photo 旧土岐邸洋館は群馬県沼田市の沼田城跡の沼田公園にあります。建物は大正13年東京都渋谷区に建てられ、平成2年に沼田市に寄贈して、移築しました。木造2階建のドイツ風といわれる洋館ですが、もとは和館が付属していましたが、それは移築されませんでした。

 

 

 

 

 

Photo_2

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4玄関を入った左側の窓に3枚のステンドグラスがはまっています。建具は木製で、一枚のパネルではなく、鉛線でつないでいるのは、菱形の部分のみで、硝子はそれぞれ木製の枠に嵌めてあります。鉛線のハンダは全面にかけられ、丁寧な仕事をしています。この建物は洋館ではありますが、1階に和室があり、2階には上段の間つきの和室もあって、洋風な生活スタイルとは、ちがう生活をしていたようです。

 

 

Photo_5 2階のベランダに出る扉に結霜ガラスがはまっていました。今回はその模様がうまく撮れました。結霜ガラスは、明治時代からあった加工法で、どうも日本で作られていたらしいのですが、どこで加工していたのかがわかりません。大正から昭和初期の建物にはよく使われていたようです。日本ではもう作っていないようですが、外国では、ステンドグラス用にグルーチップグラスとして、今でも作っているようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_6 外部の玄関や窓にはモルタルで彫刻がほどこされ、装飾を施していますが、内部ではそういった彫刻がなく、すっきりとしたインテリアでした。唯一、階段の手摺の柱に彫刻があるのを見つけました。

今回は最近買った一眼レフカメラを使いこなすために、急遽出かけたのです。というのは、前回の旅行で撮った写真がブレていたのを見て、しょうがなく大枚叩いてカメラを買ったのです。ステンドグラスを撮るのは、やはりコンパクトカメラでは、限界がありました。ステンドグラスを撮るのには、フラッシュが使えないので、どうしても、ISOが高くなる機種でないとうまく撮れないとわかったからでした。

しかし、最近の一眼レフは携帯電話と同じで、機能がいっぱいありすぎて頭の回転がにぶったオジサンには使いこなせません。もっと、経験を積んで、体でおぼえなければなあ。

2009年6月10日 (水)

富士ラビット

Photo 京都駅から歩いて5分ほどの七条通沿いに、富士ラビットという建物があります。竣工は大正12年といっていますが、正面にはAD1922-2002.2の数字があり、おそらくその近辺の完成でしょう。もとは、日光社という自動車販売とタクシー業をしていた会社の社屋として建てられました。その当時ですから、T型フォードの輸入販売をしていたそうです。戦後は富士重工業のスクーター、いわゆるラビットスクーターの販売をしていたようです。

その後取り壊しを検討していたところ、国登録文化財に指定されたのを期として、改装して、1階を「なか卯」に2階をホールに3階を住居にしたそうです。

 

 

Photo_2Photo_3  1階の窓のランマに嵌っているステンドグラスは建築当初のものだそうです。T型フォードとおもわれる自動車がデザインされています。車で郊外にドライブしている様子でしょうか。

 

 

 

Photo_4 中央はタイヤのデザインです。タイヤの溝もちゃんと鉛線であらわしています。

図柄そのものは、単純化しており、ステンドガラスの職人のデザインのようです。しかし、大正時代のステンドグラスがこういう形で残っているのは、京都ならではでしょうか。

ちなみに、ラビットスクーターをご存知の方は団塊の世代以前の方か、自動車マニアの方でしょう。ホンダのカブがでる前は、ラビットスクーターの全盛でした。

 

 

Photo_5 私の父は、車キチガイで、サイドカー付のオートバイにのっていました。もう知っている人はごく小数になったでしょうが、ハーレー・ダビットソンの日本でのライセンス生産で、「陸王」というメーカー品でした。排気量は1248cc で、タイヤは小形乗用車並でした。独特のエンジン音がして、父がさっそうと乗っているのを見てカッコイイなとおもったものでした。いつか、ほんもののハーレーに乗ってみたいとおもっていましたが、それもかなわなくなりました。もうこんな重い車を動かす力がありません。残念です。

2009年6月 7日 (日)

旧西尾家住宅

 旧西尾家住宅(吹田市文化創造交流館)はJR吹田駅より徒歩で10分位の住宅地の中にありますが、敷地がおよそ4500㎡もあります。西尾家は江戸初期より、この地の庄屋で、14代続いていましたが、当主没後、相続税として物納し、今は吹田市が管理しているとのことです。建物は明治中期の主屋と、大正14年、武田五一によって設計された離れがあります。

Photo

武田五一の後妻がこの西尾家で育てられており、いはば、妻の実家のような家であったらしく、11代の隠居所として、離れを設計したとのことです。建物は木造平屋で、洋風棟と和風棟にわかれ、渡廊下によってつながれています。

洋館は撞球室と洋間で構成されています。その洋間の出窓とサンルームとの入口と窓のランマにステンドグラスが嵌っていました。

Photo_2 デザインはおおざっぱな花の模様ですが、すこし抽象化しているようです。

サンルームとの出入口のランマは、花瓶にはいったシンメトリーな花のデザインです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4

 

 

 

 

 

 

 窓の上のステンドグラスも同様なデザインをしています。

この洋室のステンドグラスは、デザインが抽象化しているところを見ると、武田自身のデザインかどうかだったかは、むずかしいところです。

Photo_5 武田はこの建物に面取りガラスを多用しています。主屋の増築の戸にはすべて面取りガラスを使っていますし、洋館の窓も面取りガラスです。面取りガラスはキラキラと輝き一見華やかに見えますが、普通は木造の建物の外部の窓にはあまり使われていません。

もうひとつ、ステンドグラスの位置ですが、出窓は和風棟の前になっています。またサンルームのランマも、天井のすぐ下で、サンルームの天井は勾配があり、直接ステンドグラスに光が当たらない位置にあり、室内にいても、ステンドグラスの色のあざやかさを楽しめないという欠陥があるようにおもいます。そのために、洋館としての華やかさがありません。

 

Photo_6 それにくらべて、和風館の玄関はさすがに、武田は茶室建築の研究をしていることもあって、実におちついた設計をしています。西尾家には5つもの茶室があるほどで、藪内家が茶室、露地の指導をしており、武田はそれだけ力をいれたのでしょう。

建物はボランティアの方がづっとついて案内していただきました。最近、この手の案内方法によく出会います。建物の維持管理には最良とは言はないまでも、いい方法だとおもいます。しかし、もっとお金をかけて、ちゃんと維持管理はしてほしいものです。建物は使わないとその維持ができないものだと思うのですが。

2009年6月 4日 (木)

南海線駅舎

Photo_15 南海本線の駅舎には古い建物が残っています。浜寺公園駅は辰野金吾設計の明治時代の駅舎です。岸和田市の蛸地蔵駅も大正末年の建物です。その窓に5枚のステンドグラスが嵌っています。

 

 

 

 

 

 

Photo_16

Photo_17Photo_18

 

 

 

 

Photo_26Photo_27

蛸地蔵伝説と言うのは、昔、岸和田に大津波があったとき、その被害がなかったのは、海岸にいた地蔵菩薩と蛸によるものとして、地蔵菩薩をまつっていたが、戦乱のとき、地蔵菩薩を掘の中にいれて隠した。紀州勢が攻めてきたとき、白法師と蛸が敵を死者も出さずに撃退した。あとで、夢告に白法師が地蔵菩薩の化身であると知らされる。という話だそうです。その話を絵にしたものだそうです。

写真でみると、人物の顔は絵付けしているようです。それにしても、かなり複雑な図柄で、おそらく原画を書いた作家がいただろうとおもいます。

Photo_21 堺市西区にある諏訪ノ森駅も駅舎は、大正8年の建物です。5枚のステンドグラスがあります。このデザインは、海岸と松の図柄です。松の葉はキャセドラルガラスを使っているようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_22Photo_23Photo_24   

 

Photo_25 かえりの電車を待っていると、南海電鉄の特急電車が通りすぎていきました。何だ!最初にイメージしたのは鉄人28号か!という感想でした。あとでサイトで調べてみると、別名は鉄人28号なのだそうです。たしかにイメージ通りでした。

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ