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2009年7月

2009年7月31日 (金)

京都・清凉寺木造毘沙門天坐像

Photo 今日発売の『佛教藝術』305号に奧健夫氏執筆の「京都・清凉寺木造毘沙門天坐像」という論文が掲載されていました。この仏像は今年、新しく重要文化財に指定された仏像で、その解説です。

私がこの論文に注目したのは、この像は明らかに世間で流布している“踏下像”なのに、奧氏は“坐像”と表現していることです。しかも、その形状の記述では、「正面し左足垂下、右足は膝を外に張り踵を腹下に引き付けて坐る。」として、「踏み下げる」という言葉を使っていないことです。

同じ文化庁の人が書いたと思われる『月刊文化財』549号では、新指定の文化財の解説に、「左足を踏み下げて坐る毘沙門天の像」と書いています。

 

 

 

 

Photo_2 奧健夫氏は、どうも“踏下像”あるいは“踏み下げる”という言葉を意識して使わないようにしているようです。奧氏の他の論文「清雲寺藏 観音菩薩坐像」『國華』1288号でも、「右膝を立てて右手を置き、左足は垂下させ、左手をついてくつろいだ坐勢を示す。」と記述しています。

奧氏の論文では、このように、足を垂下させるという、ごく当たり前の表現を用いていて、実に違和感なく読める書き方をしています。

私が以前、このブログで書いたように、わざわざ“踏み下げる”といった広辞苑にも載っていない用語を使わなくても、“足を垂下する”で充分に表現できるのです。

奧氏は私がブログで書いた以前から、そのような表現を採用していたのでしょうが、私としても、同様な考えをもつ学者がいたことを心強く思います。

しかし、一点、この仏像を“坐像”と表現するのはいかがなものかとおもいます。“踏下像”を使いたくないので、代わりに“坐像”としたというのでは、能がなさすぎます。

いわゆる“坐像”とは、結跏趺坐のように、一般的には、足を下に垂下しない坐勢をいうのであって、片足垂下像まで、坐像の範疇にいれるのは、ちょっと無理があります。何のために“半跏像”“倚像”という表現方法があるのかが問われてしまいます。

現に国宝の宝菩提院像は、文化財保護法に基づく指定文化財名称で「菩薩半跏像」になっています。それなのに、今回指定した清凉寺像は「木造毘沙門天坐像」です。整合性がとれていません。

文化庁はこういう指定名称の用語の統一を何故しないのでしょう。一度指定しまうと、それが、現実と違ってもなかなか修正できないのが公文書のようです。でも、違った眼から見ればそれは、行政が硬直化しているとしか見えません。しっかりとした仕組みを構築するとともに、結果責任をもってほしいとおもいます。

このところ、“踏下像”あるいは、“踏み下げる”という記述をしている論文が出るのを手ぐすね引いて待っています。もしそのような論文が出たら、“踏み下げるって一体何を踏んでるの?”とツッコミを入れましょう。

その答えが“それは空を踏んでいるのです。”とでも答えたら、それは仏教の深大な思想を理解している人間だと見ていいのかな。いやもっといいボケがあると思うのですが、いまのところ浮かびません。

2009年7月29日 (水)

伊勢神宮と神々の美術

Photo 東京国立博物館で、『伊勢神宮と神々の美術』展が開催されています。この展覧会は平成25年の第62回式年遷宮を記念して開催されたものだそうです。ずいぶんと先の話で、もっとも準備はすでにはじまっているのでしょうが、こんな時に、展覧会でもりあげようとしているのでしょうか。それにしては、ちょっと目玉不足の感がいなめません。

会場も『染付』展と同時開催ですので、展示会場も通常の半分になっています。

展示品も伊勢神宮に関係するもの、伊勢地方の作品の展示だけでは足らなくて、神像では、大分・奈多宮や京都・松尾大社、京都・岩清水八幡宮などの神像を動員しています。

Photo_2

彫刻では、伊勢関係の彫刻ばかりではなく、他地域の神像が出品されていたので、それもよしか、とおもいます。

Photo_3 さて、その神像の中で、例によって、“無眼”の彫刻を見ることができました。ひとつは、奈多宮の八幡三神の内の女神像です。この3体の内、1体の女神像はどうも他の2体と同作ではないようですが、宝冠をかぶる神功皇后像だけが、“無眼”です。解説では「神功皇后は伏し目がちで穏やかな姿に表される。」としていますが、果たして、これは伏し目なのでしょうか。

同作の僧形像がちゃんと眼を表現しているのに、この女神像は同様の表現をしていません。同時期に造られたものでも、眼の表現を変えるというのは、どういうことなのでしょうか。ますますわからなくなってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 おなじ奈多宮の若宮神坐像は6体のうち小女神像2体を除いた4体が、“無眼”像のようです。しかし、そのうち写真左下の菩薩形像はうっすらと、瞼を彫っており、どうも、眼を表現しているようです。それが、後でつけられたのかは、わかりません。

それは、井上正氏が言っていた、これから化現している途中を表しているのでしょうか。しかし、どうもこの説には、まだ納得がいかないのです。もうすこしサンプルを集める必要があるような気がします。

2009年7月25日 (土)

アカダマ

毎日新聞奈良版に“アカダマ”のマスターの記事が載っているのを、アカダマのマスター本人のブログで知りました。この記事でやっと、“アカダマ”のマスターのこと、その歴史がわかりました。

Photo 初めて、奈良の一人旅をした高校3年生のとき、奈良の案内書には、“文殊庵”という喫茶店のことが書いてありました。案内書を片手に行ってみると、そこは、骨董屋が喫茶店をしている、古ぼけた店でした。でも何となく骨董品に囲まれて飲むコーヒーに古都奈良らしさを感じたものでした。今は、喫茶店をやめて骨董屋のみになっています。

大学に入って、はじめての奈良合宿の前だったか、先輩に教えられたのかはわかりませんが、“アカダマ”という奈良に通の人が行く喫茶店があるというのを知りました。

 

 

Photo_3 中に入ってみると、店内は暗くて、低いカウンターの中に坐って、サイホンにコーヒーを入れているマスターらしき人がいました。べつに“いらっしゃいませ”といわれたわけでもなく、ホットコーヒーをたのんだ記憶があります。そこでは、コーヒーしかメニューがないというか、通の人はなにもいわなくてもコーヒーがでてくるといった雰囲気でした。お客は大声で話すでもなく、こそこそと話しているか、黙って黙々とコーヒーを飲んでいる人だけでした。まあ、なんとなく、奈良通の人間になった気分を味わうために、通ったような気がします。

 

 

 

 

 

Photo_2 それから、しばらくして、数年前から奈良に通うようになってから、よく、寄るようになりました、学生時代は1階に店があったのですが、今は、同じ場所で2階に移っていました。

店の中に入ると、見覚えのあるマスターが相変わらずサイホンでコーヒーを入れていました。しかし、今はカウンターに坐っているだけではなく、カウンターの中で動き回っていました。すっかり白髪になってはいましたが、昔と少しも変わらない風貌でした。

別に、眼を合わせて話すでもなく、40年ぶりであっても、私を覚えているわけがありません。最近通い出していても、マスターは私をたまに来る単なる旅行者の客としてしか見ていないでしょう。

そんな雰囲気が好きです。マスターがどんな人物なのかは知らなくてもいいのです。一日中奈良を歩き回ると、見逃してはいけないという緊張感で、どっと疲れがでるのです。それで、ただ、歩き疲れた旅人をホッとさせてくれる空間があると、それだけで、奈良に来た実感が得られるのです。

新聞によると、マスターは「奈良まほろばソムリエ」にもなっている奈良通で、南都楽所で笛と舞を演じており、県かるた協会の会長でもあるそうです。まさに、奈良を知り尽くしている人のようです。

でも、そんなの知らなくても、なんとない話を遠くからちょっと小耳にはさむ程度で、聞くのがいいとおもうのですが。

今度もまた、寄れたらいいなと、楽しみにしています。

2009年7月20日 (月)

TAOISM ART

Photo 『道教の美術展』を日本橋の三井記念美術館で見てきました。カタログでは、およそ400点の出品になっています。カタログのページも400ページにおよび、辞書並の厚さです。

 

 

内容は12章におよび、以下のような構成になっています。

  1. 中国古代の神仙思想
  2. 老子と道教の成立
  3. 道教の信仰と尊像
  4. 古代日本と道教
  5. 陰陽道
  6. 地獄と冥界・十王思想
  7. 北斗七星と星宿信仰
  8. 禅宗と道教
  9. 仙人/道教の神々と民間信仰
  10. 道教思想のひろがり
  11. 近代日本と道教
  12. 拡散する道教のイメージ

Photo_2 まあ、道教に関係するものすべてのテンコもりです。1~3章は中国における道教です。4~8章までは、日本における仏教などの信仰のなかにある道教をとりだしています。さらに、9~10章も、日本の民間信仰のなかの道教的なものをとりあげ、さらに、11~12章では近代の岡倉天心から現代絵画・彫刻にまでおよんでいます。

カタログの中で齋藤龍一氏が書いているように、日本国内に道教尊像がほとんど伝世しなかった現実があるために、展示品も、直接道教に関係する尊像というのがないのです。

彫刻では、石造の道教像、役行者、大将軍神、十王像、妙見菩薩、伽藍神、媽祖が出品されていましたが、単発での出品なので、これらの彫刻のルーツが道教かといったことでしかないように感じました。

それにもまして、この展覧会は次に開催する大阪市立美術館がメインのようで、東京では、会場の関係か、ずいぶんと間引きされています。

大将軍神が4体出品されていたのは、現地で見るよりもしっかりと見られたのはよかったです。とくに、51号像は“無眼”とそうじゃないとの微妙な神像です。こういうあやふやな眼の彫り方をしている彫刻はむずかしいですな。

それにしても、これがルーツは道教かとおもわれるものが多数あり、道教とはつくづく奧深いものだと、感心しました。いはば、中国の自然宗教のルーツといってもいいもので、しかも、ありとあらゆる物を包含して生き残っているというのは、日本の自然宗教よりも、もっとしたたかな宗教のような気がします。

2009年7月16日 (木)

北野天満宮鬼神像

Photo  高山奇人さんから、北野天満宮鬼神についての情報をいただきました。この鬼神像は平成14年、本殿の奧より発見され、修理の後、重要文化財に指定されました。去年、北野天満宮宝物館で初めて公開された像です。展覧会が始まる前に宝物館を訪れて、このパンフレットを見ました。残念ながら、実物を未だ見ていません。

写真でしか判断はできませんが、これは“無眼”の像ではありません。あきらかに眼を表現する目的で彫刻をしているからです。私が以前、“無眼”の像の定義として、上も下も瞼(マブタ)を彫っていない像を“無眼”というとしました。つまり、眼を表現する最低限の方法である、瞼(マブタ)を立体的に彫刻していれば、“無眼”とはいえません。

ただ非常に微妙なのは、上瞼ふくらませて、眼の表現であるかのような彫刻をする仏像があることです。今具体的に出てきませんが、その他、眼球のふくらみを表した上にうっすらと瞼を彫って眼を表現している像もあります。これは、もともとそのように眼を表現したのか、“無眼”だったのを後補で瞼を彫ったのかはなかなか判定できません。眼を彩色するのも同様です。しかし、素木の仏像であっても、眼に墨をいれる例は数多くありますので、眼を彩色で表現することには別に問題があるわけではありません。要は、“無眼”の仏像に眼の彩色をしてあるのなら、それは後補の彩色である可能性のほうが高くなるでしょう。

Photo_2 以前写真をのせた、藤里智福愛宕神社の兜跋毘沙門天立像は、現物を見たとき、“無眼”に見えました。ところが、顔のアップの写真を改めて見てみると、薄く上下の瞼を彫って、眼を彫りくぼめていました。

しかし、よく見ると、眼球のふくらみを彫ってから、瞼の線を彫っているようにみえます。ということは、後で瞼の線を彫った可能性もあるわけで、もともと“無眼”であったとも考えられます。

こうなるとよくわからなくなります。ちなみに、兜跋毘沙門天立像で、あきらかに“無眼”の例をあげておきます。

 

 

 

Photo_3 滋賀・鶏足寺の兜跋毘沙門天立像です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 もうひとつ“無眼”の像に、京都・西徃寺宝誌和尚立像があります。顔が割れ、その中に、観音の顔が出てくるという像ですが、両方とも“無眼”です。これは伝承との整合性がとれているのでしょうか。観音菩薩が“無眼”でいいのでしょうか。ますますわからなくなってきました。

2009年7月15日 (水)

大仏開眼日

天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の式次第は、『東大寺要録』に次のように書かれています。

Photo_3

つまり、3月21日に天皇は勅書を出して、4月8日に開眼供養会を開くように要請しているのです。そして、4月4日には、東大寺に到着しています。ところが、4月8日は留守官の3人の名前しか書かれていません。そして、儀式が始まったのは、9日です。

当初の予定は明らかに、仏生会の4月8日でした。それが、1日順延して9日になったのです。

吉村怜先生がこのことを言ったのは、その時「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9 昭和47年3月刊 を執筆中の時だったのでしょう。吉村論文の要旨は、大仏がまだ完成していないのに、天平勝宝4年(752)に開眼をすることにこだわったのは、仏教伝来200年に当たる年であることを意識したからだったという論考です。

この論文にちらっと、何故4月9日に開眼会が延びたのかの推測をしています。ここまで、ヒントをだせば想像がつきませんか。

Photo_2 東京芸術大学でおこなった、『東大寺大仏の研究』によると、一時期、論争になった、台座の鋳造が大仏より先か後かについての技術的な検討をしています。その検討の中で、台座を先に完成させてから、仏体の製作にかかると、足場を台座の外からかけなければならず(+の部分)、台座が後の方が仏体の部分に足場がかけやすく、技術的には合理的な手順と考えられる(・の部分)。傷つきやすい鋳物土の原型の上にこれだけの材木を組み立てるということは常識的にみても考えられない。としています。

つまり、開眼会のとき、眼に点晴するには、大仏の前に足場を組まなければならず、その場合は、台座が鋳造されていたとすると、足場材が林立するような状態になって、大仏がまるで見えなくなってしまう可能性があります。

現に、文治元年の開眼会では、堂の下にいる人は点晴の儀式は足場で見ることができなかったようです。

ところが、『東大寺要録』には、貞観3年の開眼供養会の式次第も書かれていて、それを何となく見ていると、

先是開眼師盛籠轆轤引上而開眼了。(是に先じて、開眼師、籠に盛り、轆轤にて引き上げ開眼しおわんぬ。)と書かれています。どうも、籠に乗って、それをロープで引き上げて、点晴をしたようです。そうすると、点晴のための足場はいらなくなります。

元禄の開眼会は、実際に点晴はしていないようです。

こうしてみると、東大寺大仏は巨大な仏像であるがために、開眼会も一般的なやり方ではなかったようです。もっと、普通の仏像の開眼会の儀式について調べる必要があるかもしれません。

2009年7月12日 (日)

開眼供養

Photo_3 “無眼”の仏像のことを書いてから、どうも気になることがありました。それは、眼のない仏像は開眼供養をしたのだろうか、ということでした。つまり、開眼供養をして仏心を仏像に注入しなければ、仏像はただの木片にしかすぎない、というなんとない先入観があるからでした。

それは、はたして本当なのだろうか、というのが疑問でした。それで、まず東大寺大仏の開眼供養について調べることとしました。

それを調べようとすると、いろいろ史料をさがさなければなりません。そんなこんなで、これがブログの更新が遅れた言い訳です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo 東大寺大仏は天平勝宝4年(752)4月9日、貞観3年(861)3月14日、文治元年(1185)8月28日、元禄5年(1692)3月8日~4月8日 の4回の開眼供養をしています。

そのうち最初の開眼供養は文献ではあまり、くわしく載っていませんが、文治元年の開眼供養は『東大寺續要録』などにくわしく書かれています。

それには、後白河法皇が大仏殿の麻柱を登り、自ら筆をとって開眼したことが書かれています。また、その後、前もって登っていた3人の近臣が、開眼の後、仏面の前に貼ってあった板をはがすことをしています。文治の開眼供養の時は大仏殿はまだ仮屋だったようで、どうも足場を組んで、大仏の顔の前まで登れるようにしたようです。

この時、法皇が点晴をするのは、単なる儀式のようで、その後、隠していた覆いをとることによって、完成された眼をみせるという演出のようです。

ちなみに、正倉院には「天平宝物筆」と「天平宝物墨」があり、筆には「文治元年八月廿八日 開眼法要法皇用之 天平筆」と書かれています。筆の長さは65.2㎝ あります。天平勝宝と文治の開眼供養に使われた筆のようです。実際の開眼供養では、12本の綱をこの筆につけ参集した人にその綱をつかませたと書いてありますが、これは、本当かな? 実際には、そんな筆を持てるわけがありません。

この開眼供養はいわゆる儀式として確立したものではなかったようです。谷信一「佛像造顯作法考」『美術研究』54・55・56 によると、堂に安置されてから開眼供養をするとはかぎらなかったようですが、東大寺の文治の開眼供養の場合は実際に開光点眼の儀式をしたようです。

天下の東大寺が奈良時代に行った開眼供養はたしかに、仏教儀式としてはその後普及していったであろうと、想像できますが、それでは、仏像が完成したときは、すべてそのようなことをしたのだろうかというのは、さらに儀式として確立したものかどうかということを含めてもう少し史料がほしいところです。また、開眼供養にはより精神的要素があるので、仏像の内容的成身の成立を意味し、それによって仏像としてのあらゆる意味での完成とみなすことができる。(谷信一論文)としています。それからいくと、開眼供養とは単なる儀式で、実際に点晴をしなくてもいいということになります。その辺の判断は現時点ではむずかしいところです。

ひとつの考えとしては、“無眼”の仏像であっても、開眼供養の儀式をしていれば、仏体として完成されたものとしてもいいということにもなります。

Photo_2

ところで、天平勝宝4年の大仏の開眼供養は何で4月9日に行ったのでしょうか?これは、大学時代、吉村怜先生の授業でいわれたことでした。先生曰く、こういう疑問をもってしらべることが学問の一歩なのだ、という話でした。

その当時、こんな些細なことが学問なのかよー、とつっぱっていましたが、まあ、それもひとつかな、と今は思ったりして。

正解はわかりますか?

2009年7月 6日 (月)

下町七夕まつり

Photo 一昨日から今週金曜日まで、“下町七夕まつり”というイベントをやっています。場所は昭和通りの北上野から、浅草国際通りまで、東西におよそ1㎞のまっすぐな道です。、いわゆる合羽橋本通りという商店街があるところです。普段は、商店街といっても、アーケードがあるわけでもなく、店が並んでいるわけでもないのですが、こういうイベントがあると、老若男女が集まります。下町の人間は祭り好きですので、地元の人がこれほどいたかというくらいです。

神社でやる祭とはちがって、町内会や商店街の青年会が中心になって動いているようです。ですので、香具師がはいらないで、自前でやっている屋台がでています。下町は、いわゆるサラリーマンがあまりいないので、いってみれば、商売をしている人は時間の自由がききますので、こういうイベントにも充分に手が間に合うことになります。台東区は高齢者が多くなってきたとはいえ、まだまだ働き盛の人はいます。こういう地域で何か共同してやる土壌がまだまだ残っているということですか。

これが、住宅地でのイベントとなると、人の確保がむずかしく、時間の自由につかえる人は老人しかいなくなってしまいます。そういった意味では、商売人の多く住んでいる町は、結構活気があり、地域のコミュニティーも活気があるのです。

これは、戦後の日本の住宅政策が生んだ歪なのでしょう。職場と住居を分離するということが、より文化的と思ったのでしょう。そのために高度成長期には、1時間以上もかけて通勤するといったおよそ、非文化的なことが、当然のごとく行われたのでした。

たしかに、以前の下町は職住近接で、通勤の苦痛がないといったメリットがありましたが、住環境が劣悪だという宣伝に踊らされてどんどん住人が郊外に移っていってしまいました。しかし、そのために、交通の便利さが生かせず、コミュニティーが希薄になり、ますます住環境が劣悪になるといった悪循環におちいりました。

もう、職場と住宅をきりはなすのが、生活のステータスであるという幻想はやめるべきでしょう。そういった意味で、下町はまだまだ活性化するとおもいます。そして、ほんとうの理想的な住環境をもった町になる可能性を秘めているとおもいます。

Photo_2 かっぱ橋通りの角に浅草今半が新しいビルを建てたのを初めて見ました。玄関の横にはステンドグラスが嵌っていました。今半は相当儲けているようです。

かっぱ橋通りをすこしはいると、“どぜう”の飯田屋があります。むかし大学の先生にはじめてつれてきてもらったのが、この飯田屋でした。“どぜう”なんてその時まで、食したことがありませんでした。丸鍋をはじめて食して、あまりうまいとはおもいませんでした。“どぜう”にはあまりいい印象がありません。

 

 

 

Photo_3

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