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2009年7月15日 (水)

大仏開眼日

天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の式次第は、『東大寺要録』に次のように書かれています。

Photo_3

つまり、3月21日に天皇は勅書を出して、4月8日に開眼供養会を開くように要請しているのです。そして、4月4日には、東大寺に到着しています。ところが、4月8日は留守官の3人の名前しか書かれていません。そして、儀式が始まったのは、9日です。

当初の予定は明らかに、仏生会の4月8日でした。それが、1日順延して9日になったのです。

吉村怜先生がこのことを言ったのは、その時「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9 昭和47年3月刊 を執筆中の時だったのでしょう。吉村論文の要旨は、大仏がまだ完成していないのに、天平勝宝4年(752)に開眼をすることにこだわったのは、仏教伝来200年に当たる年であることを意識したからだったという論考です。

この論文にちらっと、何故4月9日に開眼会が延びたのかの推測をしています。ここまで、ヒントをだせば想像がつきませんか。

Photo_2 東京芸術大学でおこなった、『東大寺大仏の研究』によると、一時期、論争になった、台座の鋳造が大仏より先か後かについての技術的な検討をしています。その検討の中で、台座を先に完成させてから、仏体の製作にかかると、足場を台座の外からかけなければならず(+の部分)、台座が後の方が仏体の部分に足場がかけやすく、技術的には合理的な手順と考えられる(・の部分)。傷つきやすい鋳物土の原型の上にこれだけの材木を組み立てるということは常識的にみても考えられない。としています。

つまり、開眼会のとき、眼に点晴するには、大仏の前に足場を組まなければならず、その場合は、台座が鋳造されていたとすると、足場材が林立するような状態になって、大仏がまるで見えなくなってしまう可能性があります。

現に、文治元年の開眼会では、堂の下にいる人は点晴の儀式は足場で見ることができなかったようです。

ところが、『東大寺要録』には、貞観3年の開眼供養会の式次第も書かれていて、それを何となく見ていると、

先是開眼師盛籠轆轤引上而開眼了。(是に先じて、開眼師、籠に盛り、轆轤にて引き上げ開眼しおわんぬ。)と書かれています。どうも、籠に乗って、それをロープで引き上げて、点晴をしたようです。そうすると、点晴のための足場はいらなくなります。

元禄の開眼会は、実際に点晴はしていないようです。

こうしてみると、東大寺大仏は巨大な仏像であるがために、開眼会も一般的なやり方ではなかったようです。もっと、普通の仏像の開眼会の儀式について調べる必要があるかもしれません。

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