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2009年8月

2009年8月30日 (日)

総選挙

Photo  総選挙です。あまり政治的な話題は好きではありませんが、役人の質の低下には、何度か言及させていただきました。それは、所謂公務につく人間に『権力』とは何かについての認識がないというか、公務員になった時に『権力』の行使についての教育がなされていないのではないかという疑問があったからです。
どんなに下っ端の公務員であっても、国民に対して『権力』を行使できる地位にあるという認識が感じられないのです。ただ上司から言われて仕事をしていることが、何で権力の行使かということがわかっていないのです。下っ端の役人は高級官僚と違って、単なる労働者で、権力なんて行使したこともないと思っているのです。
しかし、全然権力のない国民にとって、役人はどんな下っ端でも、権力の行使者にかわりはないのです。国民は役人を選べないのです。
 今度の選挙では、自民党が自ら政権という権力を握っているのに、『権力』の行使に対する謙虚さをまるで忘れてしまっていて、自らの保身に奔走しています。
自ら権力を握っている人間は、他からの批判には真摯に受け止める度量がなければなりません。そして、誠実にその批判に対して、説明して説得する責任があります。
そして、失政に対しては、しっかりとした責任をとるべきです。
すくなとも、権力者は他を批判して、責任をなすりつけてはいけません。それも、含めて失政の責任なのですから。
Photo_2 民主党のマニフェストは、選挙公示後すぐに手に入ったのに、2・3日前にやっと、自民党のマニフェストが手にはいりました。ところが、その日、郵便ポストに入っていたのは、自民党のネガティブキャンペーンのチラシでした。それと同時に自民党の小選挙区の候補者の選挙用葉書が入っていたので、単なる反対陣営の怪文書ではありません。
今日の朝刊には、自民党の全面広告がありました。これも、民主党を攻撃するキャンペーンであることは、ひと目でわかりました。
もう、これで、決まりです。自民党は明らかに権力を捨てています。当の自民党はわかっていないのでしょうが、政権党は、その前の選挙に出したマニフェストの評価をした上で、これからのビジョンを示すのがマニフェストなはずです。いままでの成果を強調しないで、他政党の非難をするのは、政権政党のすることではありません。

Photo_3 政権政党がこんな下品なみっともない状態になってしまったのでは、結果は見えてしまいます。候補者はどんなにえげつなくても、当選すれば、すべてが消え去るとでも思っているのでしょうか。もうそんな時代ではありません。下品な人は当選しても下品です。
このブログは投票締め切りの前に書いています。きっと開票がはじまれば、予想どおりの結果になるでしょう。ネガティブキャンペーンでゆれもどしは今回はないような気がします。明らかに自民党は直前戦略の失敗です。

2009年8月25日 (火)

国会図書館の本ネット公開構想

今日(8月25日)の朝日新聞の夕刊の一面に、“国会図書館の本ネット公開構想”という見出しで記事が載っていました。それによると、蔵書のデジタル化を進め、新設する「電子出版物流通センター」(仮称)にデータを無償で貸し出し、センターがネットで利用者に有料で公開する。というものだそうです。

実現すれば、絶版本などが自宅で手軽に読めるようになる。という利点を述べています。

いかにも、いいことづくめのようですが、どうも、この構想の中には隠れているものがありそうです。

まず、「電子出版流通センター」という非営利の第三者機関をつくるとは、どういうことなのでしょうか。単なる天下り先をまた作るにすぎないのは見え見えです。

利用者から、使用料を徴収して、作家や出版社に分配する。としていますが、そもそも公開は、著作権が切れた書籍・雑誌からはじめるのがスジというものです。そのために、まず国会図書館がやらなければならないことは、特に、明治期および大正期の雑誌の欠本をなくすことが先決です。

だいたい、出版物すべてに、納本の義務を法律で国民に負わせているのですから、国会図書館も、欠本の補充して、もれのない蔵書にするのが、国会図書館としての義務でしょう。国民に義務を負わせて、自身は、何の義務もないのでは、片手落ち以外何物でもありません。

国会図書館の館長の給与は、以前は、国務大臣なみの3,041万円でした。現在はやっと局長なみの2,912万円に下がったと聞いています。

衆・参院事務総長が交代で天下るポストにそんなに給料が必要なのでしょうか。そんな給料をもらっているのなら、全国の古本市に足を運んで、欠本の補充でもしたらどうでしょう。

Photo もうひとつ、戦前の雑誌などは、おおよそマイクロフィルム化が進んでいますが、そのマイクロフィルムはひどいもんです。ちゃんと読めるように、フィルムに映っていないのです。ページごとに露出を設定していなくて、同じ露出で撮影しているものだから、とくに写真などは、見られたものではありません。こんな製品を納入されたら、民間では、即出入り禁止か、無償でやり直しです。おそらく天下り先の業者に隨意契約でさせたものでしょう。利用者はよくガマンしているとおもいます。

おまけに、そのマイクロフィルムをプリントすると、ピントがあまく、字もよく読めません。写真などは、白黒のコントラストが強く、見られたものではありません。よく見ると、同じページをダブって撮っている個所があります。さすがに、これでは見られたものではないと認識したので、再度露出を変えて撮っているのです。つまり失敗作まで製品として納入しているのです。こんな不良品に金を払って国民に提供しているのです。民間では考えられないことです。

国会図書館は、利用者がもっと監視しないと、役人は何をするかわかりません。

2009年8月23日 (日)

『坐像と半跏像』考

Photo_3  先日、奈良国立博物館に行ったおり、常設展を見ていると、「虚空蔵菩薩坐像 奈良・北僧坊」というキャプションをつけた仏像がありました。片足垂下像なのに、坐像という名称なの?と例によってひっかかりました。そのことが、この一週間、頭から離れなくなって、どう解説したらいいのかと思案していました。

まず、『国宝・重要文化財総合目録』美術工芸品編 で、指定名称を調べることにしました。

北僧坊像は “木造虚空蔵菩薩坐像”(明39.9.6)

とありました。奈良博のキャプションは指定名称で書かれているのかな、と一瞬思いました。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 しかし、『総合目録』には、その前のページに額安寺の項目がありました。それには 

“乾漆虚空蔵菩薩半跏像(虚空蔵堂安置)”(明43.4.20)

と書かれています。

両像とも、いわゆる片足垂下像であって、厳密にいう半跏像ではありません。それなのに、別の名称になってしまっています。指定年月日も明治時代とはいえ、かなり近いので整合性を考えて指定名称をつけたのか疑問が残ります。

まあ宝菩提院像でも、『総合目録』では

“木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)”(本堂安置)(明42.4.5)国宝(昭32.2.19)

とありますから、奈良国立博物館、東京国立博物館の出品時のカタログには “菩薩半跏像” としているので、指定名称で記述しているという理由は成り立ちます。

 

 

 

Photo_4 最近の例では、鳥取県関金町地蔵院の “木造地蔵菩薩半跏像”(昭54.6.6)(指定名称)です。この時期頃までは、従前の方法で、片足が垂下していれば、片方の足がもう一方の大腿部の上になくても、半跏像と記述しているようです。

ところが、平成に入ると、指定名称の付け方にも変化があったようです。たとえば、神奈川・清雲寺の “木造観音菩薩坐像”(平10.6.30)がそうです。像容は片足を垂下し、もう一方の足は立て膝をたてています。片足を垂下していれば、半跏像という名称にするという暗黙のルールを変えてきています。

 

 

 

 

 

Photo_5 さらに、平成14年に指定した、北向不動院の像は “木造不動明王坐像” としています。

こうなると、明らかに指定名称の付け方に方針変更が行われたと見るのが正解でしょう。

つまり、片足の一方をもう一方の大腿部にのせなければ、半跏像とは言わない。というルールを決めたと見るべきでしょう。

そうすると、いわゆる北向不動院像のような片足垂下像はそれに替わる名称にしなければならなくなります。

ところが、いい名称が浮かばないので、とりあえず “坐像” にしておこうとしたと推測されます。

たしかに、おおきな分類では、坐っている像ですから、“坐像”でしょう。

しかし、以前にも書いたように、そのような大きな分類で、“坐像”を使ってしまうと、半跏像や倚像という名称は必要なくなってすべて “坐像”になってしまいます。いったい、半跏像や倚像の仏像も坐像と記述しなおすのでしょうか。これではまったく整合性がとれなくなってしまいます。

この問題は、あきらかに、“踏下像”という名称が使われるようになって、起きた現象です。それまでは、片足が垂下していれば、“半跏像”という定義ができていたのに、変に言葉尻を捕まえて、片方の足がもう一方の大腿部にのっていなければ、半跏像ではないとしたために、それに替わる “踏下像” なる名称が正確な定義もなくひとり歩きしたためです。かといって、新しく ”踏下像”を指定名称に採用するには、その言葉が定着していないために使うのに躊躇したのでしょう。それで、とりあえず “坐像”にしたというのが本当のところだと思います。

もうこの際、昭和50年代以前の、仏像の名称の付け方にもどすしか方法はありません。いたづらに、新語を作ったりすれば、ますます混乱がおきてしまいます。まして、インターネットとちがって、紙に印刷した媒体は、永久に残ります。いまのうちに修正しておかないと、いまから定義してもそれが、定着するにはさらに長い時間を必要とすることになります。

2009年8月16日 (日)

神戸と京都のステンドグラス

今回の旅行で見たステンドグラスをご紹介します。

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 まずは、異人館の内で一番上にあるうろこの家。この建物には、入口のランマ、食堂のFIX窓に2面、内部の階段室のFIXの1面の合計4面、また、応接室にある売店の仕切に5面あります。その中でも、入口のランマにあるステンドグラスは、一番デザインもいいような気がします。いつの頃かはわかりません。どうも、かなりの補修がはいっているようで、鉛線をメッキしていないのが気になります。食堂のはちょっと、キャセドラルの色硝子を多用しすぎているようにも思えます。

Photo_4 風見鶏の館は食堂の暖炉の両脇にステンドグラスがあります。このデザインはなかなかできがよさそうです。

 

 

 

 

 

 

Photo_5 2階の子供部屋の両開きのドアのガラスは模様を絵付けしたステンドグラスです。ちょっとめずらしいと思いました。

まだ、異人館にはステンドグラスがあるようですが、全部網羅して見る時間がなかったので、今回はこの程度にしておきました。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_17 Photo_16島津創業記念資料館は、創業者島津源藏の自宅を資料館にしたものです。外部のランマにステンドグラスが嵌っていますが、内部は塞いでいるため、内部からみることができません。外部には養生のために透明ガラスが嵌っているため光ってよく見えません。

 

Photo_14 中に入ると、おなじデザインの3面のステンドグラスが展示してありました。これは、別の建物に嵌っていたものだそうです。製作時期は昭和初期のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 紫織庵は2階の洋間にステンドグラスはありました。廊下にでる扉の上部に2枚、その横のFIXに1枚ありました。袖FIXのステンドグラスはいまいちですが、ランマの2枚のステンドグラスはなかなかいいデザインです。これが、武田五一によるものかはわかりませんが、洋間の意匠は吹田の西尾邸と共通点があるようでした。

2009年8月14日 (金)

神戸、奈良、京都旅行

 昨日、日帰りで関西を旅してきました。お盆の最中で、切符がとれるか心配していましたが、往復とも、隣の座席は空席で、ゆったりと旅行できました。例によって旅程は以下のとおり。

  • 新幹線新神戸→北野異人館(うろこの家→風見鶏の館)
  • 三宮→神戸市小磯記念美術館で「亀高文子とその周辺」展
  • 阪神電鉄の直通で奈良へ
  • 奈良博「聖地寧波」展→県庁屋上
  • 京都三条→島津創業記念資料館→紫織庵→京都文化博物館
  • 京都駅→帰京

Photo 今回のメインの小磯美術館の開館時間が10時なので、その前に、北野異人館へ。そのうちステンドグラスのある2館を見学。

両館とも、明治時代の建築ですが、ステンドグラスは建築当時のものかはよくわかりません。

 

 

 

 

Photo_2 亀高文子展は、期待していたとおり、なかなかの展覧会でした。亀高文子という女性の魅力に改めてとりつかれてしまいました。とくに、デッサンは、それだけでその力量がわかります。また、与平と結婚した後、そして没後の油絵は、与平の画風との関連に興味がわきます。このことは、あとで詳しく考えます。

事前調査不足で、肝心の泉屋博古館藏の「離れ行く心」と「ネルのきもの」が9月15日からの展示だとわかり、くやしいことしきりです。

奈良博の「聖地寧波」展はテーマは地味ですが、“寧波”という日本との玄関口の地をとりあげたのはいい発想です。しかも、長い間その接点が日本とあったというのは、注目すべきなのでしょう。彫刻に限ると、南宋の彫刻をとりあげることになってしまいますが、どうせなら、日本全国にある南宋彫刻を出してもよかったのかな。しかし、楊貴妃観音も、清凉寺釈迦ももう見られないのでは、目玉がないのです。会場は空いていました。

Photo_9 日吉館は更地になっていました。よく見ると、石燈籠がひとつポツンとあります。こんな石燈籠あったっけ?

 

 

 

 

 

 

Photo_4 時間がないので、すぐ京都に行く予定が、そういえば、今日は平日だったと気がつき、急遽県庁の屋上へ、学生時代に行って以来です。

 

 

 

 

 

 

Photo_6

三条で降りて、高瀬川沿いに北へ行くと、木造の建物があります。窓のランマにはステンドグラスが嵌っていますが、内部は塞いでいるため、透明ガラスが反射してよくみえません。内部には別の建物にあったステンドグラスが3枚展示してありました。時間がないので、中の展示はざっと見て、あわてて、烏丸御池の紫織庵へ。

 

 

 

 

Photo_7 紫織庵は“じゅばん”の美術館で、ちょっと男一人では入りにくい美術館です。しかし、建物は京の町屋で、しかも、武田五一が増築に関与しており、2階の洋間にはステンドグラスが嵌っています。

 

 

 

 

 

Photo_8 三条は京都の近代建築が多くあるところです。京都文化博物館もそのひとつで、赤煉瓦の洋館です。博物館の中にはいると、羅城門の模型がありました。高欄には、蟇股がついています。何?高欄にこんな蟇股をつけるの?いったいどういう根拠なの?

2009年8月 6日 (木)

仏像盗難

 8月4日(火)の午後7時30分から、NHKの番組『クローズアップ現代』で「仏像盗難~地域の“宝”どう守る」を放送したそうです。というのは、私はそれを見逃してしまいました。あわてて、NHKのサイトを開いてみましたが、その要約しかわかりませんでした。ゲストには東大寺の森本公誠長老が出ていたところをみると、おおよその主旨は推測できました。

このところの、仏像の盗難件数が増えて、いわゆるヤミ市場が形成されているとしています。その原因として、おそらく、仏像が単なる”お宝”になり、信仰対象と見られなくなったことが一因としてある、としているのでしょう。(このところは、番組を見ていないので、推測です。)

そして、奈良県警では、「文化財保安官」なる職種の人員を配置し、盗難対策に乗り出した。とあります。

現在取り得る仏像盗難に対処する方法としては、一般の窃盗犯として捕まえることしか、手をうっていないような気がします。

仏像は本来的にも、現在でも、信仰対象なのです。したがって、基本的には参拝者の目にふれなければならないのです。そこに、セキュリティを施すことには、矛盾がおきます。

そうはいっても、盗難対策としては、厳重に管理された場所に保管するしかないのでしょうか。ある程度の管理は必要でしょうが、泥棒はどんな対策をしても、狙った獲物ははずさないはずです。

むしろ、次の段階として、盗むメリットを失わせることが重要になってきます。たとえ、盗んだとしても、それが、お金にならなければ、徒労におわります。それには、闇市場を造らせないこともそうですが、いわゆる骨董品として、仏像が堂々と売買されている現状を見直すべきでしょう。仏像の出生が不明なものが、流通のルートに合法的に乗ってしまうというのは、どうみても変です。以前、熊本のお堂にあった仏像が盗まれ、海外に流出し、それを買い戻すということがありました。これなど、流通にかかわった人間に何の罪も問われないのであれば、また起きるという可能性があるということです。

NHKの番組で、森本長老をゲストに呼んだということは、仏像は崇拝対象であって、モノでないということを言いたかったのでしょうが、そういう精神論のみでは、仏像の盗難は減少しないでしょう。

仏像を文化財として見るということは、信仰対象から外れて、単なる“お宝”としてしか見なくなるというのは、論点をすりかえた議論です。信仰対象と文化財は矛盾しません。むしろ、所蔵者である寺院は積極的に人の目にふれさせることによって、盗難を防ぐ効果があると思うのです。いたづらに“秘仏”と称して、人目にふれさせなかったりすると、泥棒の格好のターゲットになりやすくなります。

大部分の寺院は仏像の写真撮影を通常は許可しません。これも、寺院側からすれば信仰対象に対してフラッシュをあてることに抵抗があるのでしょうが、考え方によっては、信仰対象を多くの人に見てもらえる(言い方がわるければ、拝める)絶好のチャンスなはずです。仏像の写真がいけないのであれば、寺院で仏像の写真は売るべきではないはずです。

また、仏像の悉皆調査をして、仏像1体1体の戸籍を作ることによって、自由な流通を防止したり、管理したりすることが出来ます。そのような、調査が進めば、戸籍のない仏像は盗難品であることがすぐに判明します。

そのためには、早急にもれのない悉皆調査が必要なのですが、結局、国の補助金頼みで、地方では金がないので、できないという現状のようです。

Photo 左写真は、NHKで放送された、今年6月に盗難にあった、黒滝村の権現堂の蔵王権現立像です。黒滝村では、悉皆調査が行われ、その報告書が出ており、これだけの写真とデータが公開されています。

また、神奈川仏教文化研究所のサイトでは、日本全国の盗難文化財の情報を載せています。しかし、自治体の調査不足か、その状況判断のミスかはわかりませんが、盗まれた仏像の写真もないのです。これでは見つかるわけがありません。

この仏像がもし流通に乗ったとしたら、当事者は知らないではすまされないはずです。

こういった調査によって、仏像のデータを公開することが、盗難に対する、有効な防止策になると思うのですが。

役所の縦割り行政がそれを阻害しているのでしょう。まったく!!

2009年8月 2日 (日)

鶏足寺兜跋毘沙門天立像から

鶏足寺兜跋毘沙門天立像の“無眼”についてこのブロクに書いてから、もう少し、この仏像について調べてみようとしたら、近藤謙「滋賀県・鶏足寺己高閣および福井県・小浜市加尾区、高浜町和田薬師堂の兜跋毘沙門天作例」『佛教大学アジア宗教文化情報研究所研究紀要』第三号(平成19年3月刊)という論文を目にしました。

これは、近藤謙氏が主要な研究課題としている兜跋毘沙門天像についての調査の過程として、3例の兜跋毘沙門天像についての調査報告という形式をとった論文です。

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まず、鶏足寺像についての現状には、「眼球の膨らみは彫り出されるが眼は表されていない。」と、いわゆる“無眼”であることを記述しています。

そして、加尾区像についても、「眼球の膨らみは表されるが、眼は彫り出されていない。」としています。

和田薬師堂は寺で四天王像とよばれる4体の天部像がありますが、そのうちの2体は兜跋毘沙門天像で、他の2体は通常の天部像となってます。また、そのうちの天部像1体は、眼を通常通りに彫り出していて、他の3体は、瞼を彫らないで、彩色で目を描いています。

近藤氏は加尾区像の考察のところで、「現在は素地を表しているが、わずかに白土が認められる点は、かつてはこの像が彩色されていた可能性を窺わせる。この事実は重要な可能性を示唆するものである。すなわち現在眼は彫られていないが、かつては描き込まれていた可能性が考慮されるためである。」

また、加尾区と和田薬師堂の共通点として、「本体の眼球がおぼろになっていること、地天女の顔面が彫り表されないことは仏師の技量に起因する省略であるとは考えられず、なんらかの明確な根拠にもとづく特殊な表現であると考えられる。推定したようにこの上から彩色に目などを描いていたとしても、なぜ彫り出すことなくわざわざそのような手段をもちいたのかという点は今後の課題である。」

近藤氏は“無眼”の像は、彩色によって眼を描いていた可能性を、和田薬師堂像から推測をしてみたものの、それだけでは、説明がつかないことを承知しているようです。

この論文は、天部像についての考察ですが、“無眼”の像は、天部像ばかりではなく、如来、菩薩像や、神像にまでその例が確認され、天部だからという理由ではないのです。

たしかに、彩色像は、当然、眼の部分も彩色を施すはずですし、その際は眼も描くのが普通でしょう。しかし、瞼をわざわざ彫らないで彩色で眼を描く何か理由があったのでしょうか。同時代同地域の像が眼を通常通り彫っているのに、その像だけが彫らない理由が見つからないのです。

また、以前写真を載せた、二上射水神社の神像は、眼球部分まで鑿跡を残した鉈彫像で、彩色をしていない素木像であるのは明白です。

つまり、“無眼”の像に彩色で眼を描くと、実に不自然な像容になってしまう像もあるのです。これをどのように解釈したらいいのかが、今後の課題となることなのです。もっと違う造像思想があったと見た方がいいかもしれません。

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