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2009年10月

2009年10月31日 (土)

鎌倉・横浜・青山

関東地方はまだ紅葉には早いですが、鎌倉から横浜、そして青山と急ぎ旅をしてきました。

  • 横須賀線で鎌倉へ→小町通りを人をかきわけて国宝館へ
  • 『大本山光明寺と浄土教美術』展を見学。相変わらず閑散としていました。
  • 歩いて北鎌倉へ→道を間違えて浄光明寺へ→亀ヶ谷切通
  • →北鎌倉駅→横浜→馬車道→神奈川県立歴史博物館へ
  • 『鎌倉の日蓮聖人 中世人の信仰世界』展へ→東横線で渋谷へ
  • 東京メトロで表参道へ→根津美術館

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久し振りに浄楽寺阿弥陀三尊像にお会いしてきました。やはり運慶です。この展覧会では、いわゆる「運慶流」と「快慶流」の作品が展示されており、その比較ができたのはいい企画だと思います。惜しむらくはもうちょっと作例がほしいところです。

Photo_3 北鎌倉から電車に乗って帰ろうと歩いているうちに、浄光明寺へたどり着いてしまいました。この寺は学生時代、手紙で拝観の申込をして見た記憶があります。普段は公開していないと思ったら、木・土・日曜日に公開しているようです。

 

 

 

 

Photo_4 石仏も昔見た記憶がありますが、ずいぶんと様子が違っているようです。記憶違いだったのかな。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 亀ヶ谷切通は昔は舗装はしていなかったはずで、ずいぶん昔の記憶と違います。

 

 

 

 

 

 

Photo_10 『鎌倉の日蓮聖人』展にも京博と同じように日蓮上人坐像が数多く展示していました。ほぼおなじ像容なので、あまりインパクトはありません。まあ資料集めとしての見学です。

 

 

 

 

 

Photo_6 旧横浜正金銀行のステンドグラスです。オパールセントグラスを使ったなかなかいいデザインのステンドグラスです。今まで何回も来ていますが、こんなにじっくり見たのは初めてです。気がつかなかった。

 

 

 

 

 

Photo_7 新しく建てられた根津美術館のエントランスです。いわゆるモダニズム建築ですが、ご時世なのかだいぶ安あがりに造っているようです。

それよりも、庭をひとまわりしてみると、意外と古い石仏があります。

平日の人がまばらの時にまた来ようとおもいます。人が多すぎました。

 

 

 

 

Photo_8 帰り道にあるプラダビル。以前から気になっていたビルです。ガラスをふくらませるというのも、ぶっとびものですが、そのガラスを接着材だけで止めているというのも、ぶっとびです。

2009年10月28日 (水)

藤田喬平のガラス作品

Photo 前回お話したように、藤田喬平美術館は展示品の写真撮影が全てOKでしたので、その作品のいくつかを紹介しようとおもいます。

この美術館はホテル松島一の坊の社長が館長をつとめています。しかし、藤田の生前に開館していますので、いはば藤田公認の美術館といえるかもしれません。それだけ、いいものを集めているようです。

 

 

 

Photo_2 第一展示室には藤田喬平の定番ともいえる、飾箱がありました。これは、琳派の作品をガラスで表現しようとした。ということですが、むしろ、ガラスの発色の鮮やかさを生かして、さらに日本的なモチーフをとりいれた作品で、非常にユニークな作風をつくりだしています。

最初にこれを見たときは、何で、琳派をガラスで表現しようとしたのか理解できませんでした。今になって見ると、むしろ、ガラスという素材を最大限引き出している作品なのかな、とおもったりします。

 

 

 

Photo_3 昔、藤田作品を所蔵しているある美術館の学芸員に聞いたことがあります。この金箔はガラスに溶着しているはずですが、はがれやすく、取り扱いがむずかったそうです。

 

 

 

 

 

Photo_4 このヴェネチアン・グラスの伝統文様といわれるカンナ文様(注:カンネでは?)を使った花瓶は、比較的後で作り始めたようです。

昔、バブル絶頂期に百貨店で藤田の展示即売会を見に行ったことがありました。そのときは、飾箱とレースグラスの椀くらいしかなかったと記憶しています。

 

 

 

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レースグラス作品は、藤田作品の中では比較的おとなしい作品です。しかし、これが私には一番藤田らしいとおもったのですが、どうも他を見ると、あまりにもインパクトがないようです。

技法的には非常に高度なテクニックを使っているのですが。

 

 

 

 

Photo_7そのバブルの時の展示即売会では、こんな碗がその当時、私のポケットマネーでも買える値段で売っていました。

ガラス工芸は、陶磁器とくらべて、一段低く見られていたので、安く買える値段だったのですが、購入はしませんでした。

いまさら後悔してもはじまりませんが、今となってはコレクターにならなくてよかったとおもいます。所有欲というのは誰もが陥る悪魔の誘惑です。クワバラ、クワバラ。

 

 

Photo_8 外の庭には、チャペルが建っています。窓にはステンドグラスが色鮮やかに嵌っていますが、藤田の作品とおよそ不釣り合いなステンドグラスです。

まあ、人生色々~♫、ガラスも色々~♪ ということですか。

2009年10月25日 (日)

山寺・多賀城・松島旅行

24日・25日と旅行をしてきました。今回は毎年恒例の高級旅館一泊旅行という仕事です。旅程は以下のとおりです。

  • 24日
  • 仙台まで新幹線→仙山線で山寺へ→奧の院まで踏破
  • 仙台にもどり→東北本線で国府多賀城駅へ
  • 東北歴史博物館で『東北の群像』展へ→多賀城廃寺
  • →多賀城碑→多賀城→東北本線で松島駅→タクシーで宿松庵へ
  • 25日
  • 松島より島めぐり観光船に乗る→瑞巌寺→円通院→五大堂
  • 藤田喬平美術館→高城町駅→仙台→新幹線

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山寺の紅葉は奥の院がちょうど見頃でした。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 電車で山寺のひとつ仙台よりの駅、面白山高原駅付近の車窓。途中下車したくなるような、紅葉真っ盛りでした。

 

 

 

 

Photo_3 東北歴史博物館の特別展は水神社の鏡像と、新潟・瑞光寺の聖観音が注目でした。水神社の鏡像は非常に精緻にほられています。よく線刻が薄れないで残っています。

 

 

 

 

Photo_4 以前から、気になっていた東北歴史博物館のガラスベンチ。ガラスを縦に貼り合わせています。ガラスの特性を無視した設計屋さんの発想です。よく考えたと感心しているのです。

 

 

 

 

 

Photo_5 宿の松島佐勘/松庵は松島中心部から人里はなれた、半島の突端にある11室しかないこじんまりした旅館です。部屋からは入江が見渡せます。お忍びで行く旅館かな。

 

 

 

 

 

Photo_6 風呂場のひとつにはステンドグラスが4個所嵌っていました。

 

 

 

 

 

 

Photo_7 松島遊覧船の島めぐりです。これでないと日本三景のひとつだと実感できないというので乗ってみましたが、芭蕉は今の遊覧船のコースを船にのって見て感動したのかな?

 

 

 

 

 

Photo_8 瑞巌寺の本堂は改修工事中なので、庫裏のみの拝観です。西国三十三所の石仏の中の清水寺千手観音です。ちゃんと二手を頭の上にあげていますが、化仏をもつという表現をしています。

 宝物殿には、木造の清水寺式の千手観音坐像がありました。これは由来がよく判明しているようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_9 藤田喬平美術館はホテルの敷地内にあります。あまり期待してはいなかったのですが、藤田喬平の代表作が展示されていました。入場料1000円はちと高いとおもいましたが、なんと、展示物の写真はすべてOK。こんなサービスのいい美術館はありません。

2009年10月21日 (水)

金戒光明寺渡海文殊

以前、神奈川仏教文化研究所の訪れ帖に書いたことがある仏像のことですが、もう一度、そのいきさつを話します。

Photo もう30数年前のことですが、私が商売を始めた頃、京都に遊ぶことがありました。一緒に行動したのは、写真評論家だった故H君、某役所調査官のB・B君、某大学教授のN君でした。夕方、京都の夜景を見ようというので、金戒光明寺の三重塔にやってきました。そして、三重塔の中を覗くと、渡海文殊が安置されていました。裏にまわってみると、扉が開いていました。我々はそっと中に入りました。善財童子1体のみが欠けていましたが、獅子に乗った文殊菩薩が目の前にあらわれました。江戸時代の極彩色に覆われていましたが、なかなか古そうな様式をしていました。これは、鎌倉時代までいくのかもという印象でした。しかし、三重塔は江戸時代の建物ですし、極彩色がどうも気になり、その場では判断ができませんでした。

その後、大学院生だった、B・B君とN君はその仏像について調べたようですが、文献的にもよくわからなかったようです。B・B君は修士論文に文殊菩薩をとりあげ、調べたようですが、行き詰まり、とうとう論文を出さずに、中退してしまいました。それが、けしかけた本人にとって、心残りでした。

 

 

 

 

Photo_3Photo_4  数年前、京都国立博物館の平常展を見ていると、金戒光明寺藏の最勝老人像が展示されていました。説明板を読むと、この渡海文殊を順次修理しているとのことでした。

この仏像は京都国立博物館で行われた、1995年の社寺調査で、注目をあびたようです。その後2002年に京都市指定文化財となり、5ヶ年計画で1体づつ修理をおこなってきたようです。

 

 

Photo_5Photo_6 そして、去年、金戒光明寺では、4体そろっての公開をしました。その時は、失った善財童子も新しく作られ、優填王の欠失した手も補修されたようです。その時は、江戸時代の極彩色はすっかりとれて、もとの落ち着いた彩色に変わっていました。

ただ、この仏像についての来歴など、疑問がとけていなかったので、ずっと気になっていました。すると、この仏像についての論文を発見することができました。淺湫毅「金戒光明寺の文殊騎獅像および眷属像について」『戒律文化』第6号 2008年3月15日 です。

京都国立博物館『京都社寺報告』17 には簡単な調査報告がありますが、来歴等は記述されていません。『京都市の文化財』第21集 には市文化財指定に際しての解説があります。それぞれは、簡単な記述でしたが、淺湫毅の論文はその来歴の推定から、仏所の推定にまで、その論考が及んでいます。

その要点は、善派仏師の作とみられること。X線で判明した文殊菩薩頭部にある納入品の形状は西大寺像と似ていること。そのこと等から、叡尊教団に関係する造像の可能性が高い。という結論のようです。

今現在は納入品を取り出すことができないため、推論に終わっているようですが、いつか、修理のときに、納入品が取り出せる機会があるかもしれません。そのときまで、結論はおあづけのようです。

2009年10月18日 (日)

香炉岡弥勒石仏

PhotoPhoto_2  比叡山西塔の釈迦堂の正面左から細い山道をのぼっていくと、正面に金銅の相輪橖が見えてきます。この相輪橖は、明治28年頃の完成だそうで、旧国宝(現重文)に指定されています。中央部には音声菩薩が浮彫されていました。その手前に右に折れる道があって、ちょっと歩くと、左側に石仏の側面が見えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4  花崗岩製で、高さはざっと2m位はあるでしょうか。光背まで丸彫で、彫られています。光背は二重円光光背で、梵字が月輪内に彫られています。さらに、光背の背面には大きな月輪と小さな月輪が2個彫られています。下部には四角い奉籠孔があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Photo_6 この石仏の印相はどうも降魔相のようで、光背背面の月輪内の梵字は釈迦三尊の種子のようです。

以下、川勝政太郎「比叡山香炉岡石佛とその様式」『史迹と美術』300 昭和35年1月1日よると、『比叡山堂舎僧坊記』にはもと、ここには弥勒堂があり、その本尊がこの弥勒石仏であろう、としています。

同書によると、昭和34年、横川に参詣の篤信の一老女が釈迦堂の後方に大きい石仏のあるのを語り、調べたところ、熊笹の中に石仏を発見した、ということだそうです。この石仏の発見は以外と新しく、それまで、忘れられた石仏であったようです。

川勝政太郎氏によると、鎌倉初期の造顯と見ています。この石仏に限らないのですが、丸彫の石仏は、奧行があまりありません。そのために非常に安定感がありません。何故なんだろうと思うことがあります。技術的に彫る手間を少なくするためだったのでしょうか。この石仏も光背の一部が破損しても、よく倒れないでいたと思います。

Photo_7Photo_8 川勝氏の論文では、これに関連して、北白川西町の弥陀石仏との共通点をあげています。この石仏は未見ですので、見にいかなくてはと思っていると、そういえば、崇福寺に行く途中にある阿弥陀石仏をおもいだしました。この石仏と北白川石仏は、旧山中越の両方の始点にあたる場所にあり、その中間がこの香炉岡石仏ということになります。

2009年10月15日 (木)

崇福寺塔址狸堀事件

 原田仁は明治41年、宮崎県児湯郡妻町(現西都市)に生まれた。家業の印刷所を手伝いながら、測量技術を営林署で学んだという。その技術が濱田耕作に認められ、昭和9年から11年にかけて、西都原古墳群の実測をした。その成果は濱田耕作と共著という形で『西都原古墳の調査』日本古文化研究所報告 第十 に出版された。その後、濱田耕作は、京都大学に関係した遺跡の測量技師として原田に仕事を依頼していた。原田の調査方法は、トランシットと平板測量を併用するやり方で、その当時はかなり画期的な方法だったようで、その後京都大学ではその方法が受け継がれたという。

昭和13年8月頃から、柴田実は、大津京址の発掘調査をはじめていたが、2つの遺跡のうち、まず南滋賀廃寺から発掘調査を主に行っていた。その最中の昭和13年9月下旬に、崇福寺跡付近で山崩れがあり、その土砂から、軒丸瓦や塼仏の破片が地元の塚本権右衛門によって発見された。そのため、急拠、10月から12月にかけて、断続的に崇福寺跡の調査をしていたが、柴田は、崇福寺跡の本格的調査を行うために、実測調査の必要を感じた。そして、昭和14年3月頃京都大学の梅原末治に実測担当者の推挙を依頼した。梅原は、原田仁という人物を推薦した。しかし、梅原はこの人物は普通の人とは違った性格の持主であることを知っていたので、そのことを柴田に充分に注意し、監督するように付け加えた。

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Photo_2 昭和14年4月から、原田は、崇福寺跡の実測調査に着手した。調査中、原田は塔址に心礎がないのに製図上に不満を感じた。それで、柴田に塔址の発掘調査を再三にわたって進言していた。柴田は南滋賀廃寺の発掘調査に忙殺されており、どうも簡単に許可してしまったようだ。あるいは、昭和3年の肥後和男の調査では、もう心礎は取り出されてないという報告だったので、掘ってもないだろうという先入観があったのかもしれない。

原田は、地元の塚本権右衛門一家とともに、塔址の発掘を開始してしまった。5月14日から発掘をはじめて、15日に表面下4尺の処で、心礎を堀り当てた。その頃、梅原は原田から一週間も連絡のないのを案じて、16日、京都大学の学生の、今井富士雄、岡崎卯一の両人を現地に派遣した。その日の夕刻、両君の報告は、原田が心礎を発見したこと、そして、その発掘を手伝ってきたという報告であった。梅原は2人に発掘の重要性を説いて、素人の発掘に考古学徒が手伝うといったことに反省をもとめるとともに、すぐさま、柴田に連絡をとるように手配した。しかし、翌17日は、柴田と連絡がとれず、その間、原田は、17日には舎利奉納孔を発見して、遺物をとりだしてしまっていた。

 

 

 

 

Photo_3 18日、梅原が大学に出勤すると、思いがけず、原田が舎利容器と銀銭を示し、私かに賛辞を得ようとする様子だった。梅原は原田を叱責するも、ただ唖然とするばかりだったようだ。翌19日に、梅原は柴田氏をはじめ、小林行雄、羽舘易など、人員を整えて現場に赴き、発掘者を立ち会わせて再調査を行ったのである。

原田は、もとより発掘の専門家ではないが、京都大学での実測調査の仕事で、ある程度の知識をもっていたようである。塔の心礎も、昭和9年四天王寺の心礎が地中深く位置していたのが判明したこと、昭和9年から11年にかけて梅原が担当した高麗寺址の調査で、塔心礎は横に舎利孔があったことを事前に知っていたため、いわゆる“タヌキ堀”をしたのである。その証拠に、心礎を発見すると、その心礎の南側を堀りすすんでいる。これは、高麗寺址の塔心礎の舎利孔が南側にあったのを知っていたからなのであろう。“タヌキ掘”とは、いわゆる盗掘屋がやる手口である。ある程度見込みをつけて効率よく掘って、お宝をゲットできる方法である。
実際の、発掘調査は土層を丁寧にはがしていくのを基本とする。したがって、発掘場所の断面の土層を記録としてのこさなければいけないのである。決して、見込みで集中的に掘ってはいけないのが、常識である。

 

 

 

Photo_4 この再調査では、発掘者の聞き取りから、ある程度の納置状況は判明したが、心礎のまわりの土層など、もうすでにわからなくなってしまったものもあったようだ。しかも、梅原は、この問題の徹底的な究明を進言していたが、聞き入れられなかったようだ。これが、梅原をして、大きな禍根を残すこととなった。

 

 

 

 

Photo_7 原田が示した発掘品は舎利容器と銀銭9枚だったが、舎利容器の痕跡から銀銭は12枚あったと後で判明したため追求すると、発掘者が一部をネコババしたのが発覚した。原田と塚本は警察で追求をうけ、塚本は鏡1枚と銀銭2枚をネコババしたのを白状し、返却をしたが、原田は頑として追求をはねのけ、ついには釈放された。

 

 

 

 

Photo_6 昭和15年になって、水野清一は原田を雲岡石窟の実測調査につれていった。その時の打ち上げの席で、酔った原田は、「実は崇福寺の秘宝はまだ残っている」と口走り、それを羽舘が聞いてしまった。つぎの日、原田はことの重大さを感知し、北京から行方をくらましてしまった。羽舘はすぐさま梅原に「ジンニゲタテハイコウ」と電報を打ち、捜索を依頼した。そして、京城で有光教一が発見し、「ジンツカマエタ」と電報がとんだ。それでまた大津警察署に連行されたのである。

警察で原田は、京都の疎水の川の中に銀銭を捨てたと証言し、そのために疎水の川ざらいをやったが、銀銭は発見されず、結局原田は釈放され、宮崎にもどった。
昭和18年、坪井清足は、九州の岡崎敬の家に遊びにいった折、牧師で教誨師であった父君から考古学者の囚人が宮崎県新田原の刑務所にいることを聞かされた。刑務所のガリ版刷の雑誌には「宮崎刑務所構内遺蹟及び遺物に就いて」という原田が書いた論文があった。

戦後、東京に出てきて、数人の考古学者とかかわっていたようだが、また刑務所にはいり、昭和25年死去した。享年42才。
原田が発見した、舎利容器などは、昭和19年国宝に指定されたが、結局指定件数は無文銀銭11枚となった。ネコババした残りの1枚は原田のみぞ知ることとなってしまった。

  • 参考文献
    ・濱田耕作・原田仁『西都原古墳の調査』日本古文化研究所報告 第十 昭和15年11月
    ・柴田実『大津京阯(下) 崇福寺阯』滋賀県史蹟調査報告 第十冊 昭和16年3月30日
    ・梅原末治「近江滋賀里崇福寺の塔阯(上)(下)ー特に心礎と其発見品ー」『宝雲』33・34 昭和19年12月10日・昭和20年8月20日
    ・梅原末治「崇福寺問題とその経緯」『史迹と美術』173 昭和21年10月1日
    ・坪井清足「原田仁さん」『古代追跡ーある考古学者の回想』 1986年5月31日 草風館
    ・日高正晴「原田仁の思い出」『宮崎県史叢書 宮崎県前方後円墳集成』「宮崎県史叢書しおり」 1997年3月31日
    ・齋藤忠「原田仁」『日本考古学人物事典』 2006年2月28日 学生社

2009年10月12日 (月)

和歌山・神戸・京都・大津・比叡山旅行

 10月10日・11日と旅行してきました。旅程は以下の通りです。

  • 10日
  • 新幹線新大阪→特急で和歌山へ→和歌山県立博物館
  • 和歌山市より南海電鉄→難波→阪神電鉄で→魚崎→六甲ライナーで
  • 小磯記念美術館→阪神で梅田にもどり→淀屋橋より京阪電鉄で→七条
  • 京都国立博物館→三条のホテル
  • 11日
  • 京阪三条より→石山寺駅へ→歩いて石山寺へ→さらに京阪で三井寺へ
  • 大津市歴史博物館→京阪で南滋賀駅→南滋賀廃寺→崇福寺跡
  • 滋賀里より→坂本へ→旧竹林院→日吉大社→坂本ケーブルで比叡山へ
  • 東塔根本中堂→国宝殿→歩いて西塔へ→釈迦堂裏山の弥勒石仏・相輪橖へ
  • バスで比叡山頂→ロープウェー・ケーブルで八瀬へ
  • 瑠璃光院→叡山電鉄で出町柳→三条→京都駅

Photo 熊野速玉大社の国宝の神像が三躯そろっていました。その他調査によって判明した神像・仏像の展示があり、懸仏もかなりの数展示されていて、かなり充実した展覧会でした。

無眼の神像も一躯ありました。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 小磯記念美術館へもう一度どうしても行きたかったのは、泉屋博古館藏の渡辺与平の『ネルの着物』と亀高文子の『離れ行く心』を何としても見たかったからです。見ていると何か万感の思いがしました。

 

 

 

 

Photo_3 京都国立博物館の『日蓮と法華の名宝』展は、日蓮像が数多く見られたことと、等伯の仏画を見ることができました。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 石山寺の本尊の如意輪観音像を目の前で拝することができました。この大きさは実感しないとわからないかも。

その他、塑造心木、胎内金銅仏などが本堂にありました。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5 三井寺観音堂も秘仏公開のひとつです。

如意輪観音坐像と愛染明王坐像を拝することができました。

大津市歴史博物館は泉涌寺悲田院藏の快慶作宝冠阿弥陀如来坐像がありました。

それにしても、今回の展覧会のカタログは最近はやりの仏像入門書とおなじ形態です。ちょっと物足りない。

 

 

Photo_6 南滋賀廃寺は塔の心礎と土壇のみ残っています。しかしまわりには礎石とおもわれる石が散乱していました。

 

 

 

 

 

 

Photo_7 崇福寺跡は本当の山の中にあります。しかも尾根を隔てて三箇所に分かれています。白鳳時代の山岳寺院とはどういったものなのかを感じるのにいい場所です。しかもこの寺院はさまざまな話題を提供した遺跡でした。

 

 

 

 

 

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ちょうどお昼時に坂本に着きました。有名な本家鶴喜そばはこんなに並んでいました。

 

 

 

 

 

 

Photo_9 比叡山から見る琵琶湖。竹生島がこんなに大きい島とは思いませんでした。いつか行こうとおもっているのですが、なかなか実現しません。(竹生島ではなく沖島でした。訂正します。)

 

 

 

 

 

Photo_10 比叡山西塔の釈迦堂の裏山を登っていくと、目の前に相輪橖が見えてきます。その手前の道を通ると、木々の間から石仏が見えてきました。

この2日間、初日は電車に乗りっぱなし、2日目は山道を歩きづめで、足の筋肉痛がでて、降りるときはやっとの思いでかえってきました。

それにしても今回は、目的地と交通機関の距離がこんなにあるのかと実感しました。せめて、駅前に寺院があるとはいいませんが、駅からこんな距離を歩かせるのは実にしんどいです。神社仏閣の参拝は物見遊山ではなく、修行である。ということなのでしょうか。神社仏閣の参拝は足腰の丈夫なうちに済ませておかないと、とおもうことしきりです。

ツカレター。

2009年10月 7日 (水)

大寺薬師の菩薩像

Photo 今回の旅行は、『石見の仏像』展を見ることでしたが、以前から気になっていた仏像をもう一度確認したいという目的もありました。

そのひとつが、大寺薬師です。薬師如来坐像と四天王立像、そして、日光・月光菩薩と2躯の観音菩薩像が安置されています。

その中で、4躯の菩薩像の“目”がどんな彫法をしているのかを確認したかったのです。

 

 

 

 

 

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Photo_3 まず、観音菩薩立像(大像)です。眼球のふくらみを表していて、それから瞼を彫っています。しかも、かなり下の位置に瞼を彫っているのが気になるところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Photo_5 この月光菩薩像も上像と同様ですが、目の中に墨で黒目を書き込んであります。当初のものかはわかりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_6 薬師如来坐像です。目の彫法はごく一般的な位置に彫られています。目は墨と白色で彩色されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_7Photo_15  日光菩薩像の目の位置は一般的な場所にありますが、上マブタふくらんでおり、そのマブタの下に墨で黒目が書かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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観音菩薩像(小像)は、フシがいたるところにある仏像です。目の位置は普通の場所に上下のマブタとも彫られています。

このように、目の彫法に限って見てみると、観音菩薩像(大像)と月光菩薩像が特異な彫法をしているのがわかります。伏し目の表現にしては、あまりにも、眼球の下の位置にありすぎます。近づいて、見上げても、目の位置は下にあって目が合いません。

これは、井上正氏が唱えている“化現の始まったばかりの表現”なのでしょうか。今回は見られなかった、仏谷寺の伝虚空蔵菩薩像は井上氏のあげた例証にはいっていますが、写真で見るかぎり、眼球の中央にうっすらとマブタを彫っています。こんな下の位置にマブタを彫っていません。

実際に、この2躯の仏像を見てみると、マブタは当初から彫られていたのか疑問がわきます。もとは“無眼”だったのではと思いたくなります。他の像を見比べても、あまりにも異様です。

また異様なのは、観音菩薩像(小像)です。この仏像はフシだらけの木材を使っています。頭部もそうですが、腰部にも2個所のフシがあります。こんな木材では、きれいな仕上ができないのは当然です。そのままでは彩色などできるはずがありません。素木でそのままだったのか、あるいは塑土で補修したのでしょうか。

2009年10月 6日 (火)

首都高の子猫

Photo  外の道路が何かさわがしいので、見てみると、消防のはしご車が目の前の道路の真ん中に止まっていました。近所のおじさんがいうには、首都高に猫が挟まっているというのです。ひとだかりに行ってみると、猫の鳴き声が聞こえてきます。距離はかなり離れているのに、はっきりと聞こえてきます。

首都高をみると、道路の壁の隙間になにやら動く気配がしています。どうも、コンクリートの壁の隙間にはさまって出られないでいるようです。しばらくすると、猫の頭が見えてきました。

Photo_2 はしご車は消防士2人を籠に乗せて、猫に近づいていきます。すると、もがいていた猫が、ポトンと橋脚に落ちていきました。そして、橋脚の奥に逃げ込んでいってしまいました。

下からはハシゴをかけ、消防士が網を持って橋脚の中に入っていきました。しばらくすると、捕獲した。と声がしました。はしご車の籠にズタ袋が渡されました。そして、そのまま道路に降りていきました。

 

 

 

Photo_3 猫はダンボールの中に入れられ、無事救出ということになりました。一件落着。

ということですが、そもそも、何故猫が高速道路にいたのでしょう。そのこと自体が不思議です。

それにもまして、この日本は、動物の命にも公共は実におもいやりをもってくれます。消防士警察官など、2~30人はいたでしょうか。これだけの人数を動員してまで遂行するという任務を、いともあたりまえのように行っていきました。

2009年10月 4日 (日)

『石見の仏像』展から

Photo  今回の『石見の仏像』展はなかなか論評しずらい展覧会です。34体の仏像は、飛鳥から江戸時代まで、すべて網羅していますが、それでは、この展覧会の目玉は? というと、鎌倉・極楽寺が現所在の不動明王坐像というには、ちょっとインパクトがありません。石見国分寺の本尊の焼損仏に至っては、炭化した木材を見せられても、何の想像もできません。

それでは、石見地方らしい仏像とは、何か? と問われてもこれだけでは、何とも論じようがありません。石見地方としての特徴を探そうとしたことが違っているようです。むしろ、それだけ、中央、あるいは半島との交流があったと見るべきなのかもしれません。

 

 

 

 

 

Photo_2 その中で、大喜庵の観音菩薩立像に注目しました。大喜庵はこの展覧会の前に行った、雪舟が没した旧東光寺であり、その敷地に雪舟の郷記念館がある場所です。

この仏像は、“無眼”です。眼球の膨らみの下の線は彫られていますが、瞼の線はありません。彩色が全て剥落しています。こういう仏像を見ると、果たして、伏し目がちの眼の表現と解釈することができるのか、と思うことがあります。伏し目と目をつぶっているとは、全然別の表現方法です。

もし、仏像が眼をつぶっているとすると、教義からも、特殊な事例を別にして、崇拝対象が拝む人に眼をみせないというのは実に変です。目は口ほどにものをいうのであって、目の表現によって、教化するのが宗教だろうと思うのですが。

安立寺の千手観音立像は、地方色の強い、平安時代中期の仏像ですが、両肩部に施転文があり、目の彫法も、上瞼を前に出し、はれぼったく彫っています。

全体的に、それぞれの時代の、一般的にいう地方色がかなり希薄な感じを受けました。鎌倉時代にいたっては、院派の仏像も出現しており、とても辺境な地とは思えない印象でした。

この地では、数年にわたって、仏像の調査をおこなってきたようですが、その成果としての報告書を早急に見てみたいものです。そうでないと、この展覧会出品の仏像だけでは、石見の仏像の特徴が想像できません。

2009年10月 1日 (木)

古本市から

所用で、新橋に行ってきました。仕事をこなした後、新橋駅のSL広場を通ると、青空古本市が開かれていました。ちょっと、覗いていると、ファイルが10数冊ならんでいるのが目にとまりました。その中に背表紙に「仏像」とかかれたものが1冊ありました。手にとってみると、仏像に関する新聞の記事の切り抜きでした。好事家が几帳面に貼り付けたものかな、それにしても、そんなものが古本に並ぶのがちょっと不思議でした。よっぽど価値があると、古本屋が認めたものなのかな、ともおもいました。値段を見ると、300円です。それにしては、古本屋は切り抜いた本人の手間に対して、あまりにも低い評価しかしていないようです。

家に帰って、見てみると、およそ昭和54年から平成10年3月までの、おもに、毎日と日経新聞の切り抜きのようです。それをパラパラとめくっていくと、いはば、現代の彫刻史か、彫刻話題史というものが見えてきました。

昭和55年8月7日の記事は、山口の菩提寺山の石仏の記事でした。そして、同年11月6日には、清水俊明氏の反論記事が載っています。

昭和58年には、交野・八葉蓮華寺や、奈良・安養寺で快慶作の阿弥陀如来像が発見された、という記事があります。

Photo そして、このファイルで一番多く切り抜かれていた記事は、奈良国立博物館で開催された『菩薩展』に出品されていたガンダーラ仏の真贋論争です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2 発端は昭和62年5月2日の記事からでした。その後、その仏像の購入経過に不透明なことがあり、本来の真贋論争とは話がずれていきましたが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3 昭和62年7月3日、専門家による研究協議会なるものが行われましたが、決着がつかないまま真贋論争は裁判で決着をつけることとなったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 結局、購入者の亀廣氏は、国に損害賠償をを求めた裁判に敗訴し、結果最高裁判所は、真贋の判断をしないという結論で終わってしまいました。それが平成8年11月26日のことだったようです。

最終的には、真贋の判断がいまだ不明という状態で、何とも消化不良で終わっています。今も亀廣医院には、その石仏が誰も注目されず、あるということのようです。

それにしても、この新聞切り抜きファイルはよく整理されています。古本市にはおなじ人とおもわれるファイルがありましたが、鉄道とか、事件という分類でファイリングをしていたようです。ほんとに几帳面な人だったようです。

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