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2010年1月

2010年1月24日 (日)

肩布考(三)

 「領巾」とは、首に掛ける細長い薄布のこと。女子が首から肩へ掛け垂らし、その布は左右へ長く垂れる。と定義しています。すると、「天衣」とその着衣形式がよく似ています。「領巾」と「天衣」とはどう違うのでしょうか。
Photo すぐに思いつくのは、「領巾」は女性という人間の装身具のひとつであるのに対して、「天衣」は菩薩・神将・天部などいはば崇拝対称が着けている布である。その長さも、「領巾」はおおよそ身長の2倍程度の長さに対して、「天衣」はそれよりももっと長く、数mにおよび、仁王像は、腰紐としても使われている。ということでしょうか。
それでは、女子の服装をした仏像がこの「肩布」をかけていたら、何と呼ぶのでしょうか。その例が、「薬師寺吉祥天画像」と「薬師寺神功皇后坐像・仲津姫命坐像」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2 「薬師寺吉祥天画像」の解説を見てみると、確かに執筆者によって「領巾」と「天衣」と二通りの記述があります。泉武夫氏は「領巾(天衣)」と併記しています。(『日本美術名宝展』カタログ 1986年9月23日)

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3

それでは、「薬師寺神功皇后坐像・仲津姫命坐像」はどうでしょうか。いつくかの解説を見てみると、どうも「肩布」を着装している記述が少ないようです。『奈良六大寺大観』6 薬師寺の解説者(上原昭一)の解説ではその布の記述がありません。古くは白畑よし氏が『美術研究』39 1935年3月28日 の図版解説で、「領巾」の記述があるのに、その後展覧会には何回か出品されていても、その解説では、その記述が抜けています。着衣の説明ですから、当然記述しなければいけないのですが、あまり関心がなかったかもしれません。
最近の展覧会図録によると『神仏習合展』 奈良国立博物館 2007年4月7日 で稲本泰生氏の解説には、「注目すべきは、女神像の首のうしろにかけた布が、肩から前に出て、腋をくぐって後方に至る表現であり、天衣をあらわしたものと考えられる。」と「天衣」と断定しています。その翌年の『国宝薬師寺展』東京国立博物館 2008年3月25日 では、丸山士郎氏の解説では「肩を覆う領巾」と記述しています。
どうも微妙な問題です。崇拝対称であっても、その表現が、その当時の女性の着衣形式を採用したのなら、これは「領巾」でしょう。しかし、「吉祥天画像」は、「天衣」のように肩から臂にかけていて、「領巾」よりも長い布を使っています。こうなると、これは「天衣」でしょうか。法隆寺塔本塑像では、「領巾」の片方の端を胸の衣の中にいれて、片方を垂らしています。この方が実用的なのでしょう。つまり、実際に着用している様子を写しているように見えます。しかし「天衣」は、風になびく様子や、布の垂れ方は実際には、あり得ない表現が多くあります。そんなところが、違いなのでしょうか。

2010年1月21日 (木)

肩布考(二)

 肩に布を掛け、胸元でそれを結ぶ着衣形式について、仏像の形状の記述で、「領巾」という用語を使っている研究者がいます。いま、ざっと挙げてみると以下のようになります。

  • 濱田耕作「法隆寺金堂の四天王像」『東洋美術』1 1929年4月8日
  • 石崎逹二「勝軍寺四天王像」『夢殿』16 四天王の研究 1936年12月20日
  • 井上正「四天王像 教王護国寺」『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 重要作品篇1 1973年7月30日
  • 山本勉「持国天像、多聞天像 覚音寺」『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代 造像銘記篇1 2003年4月15日
  • 松田誠一郎「當麻寺金堂持國天立像(四天王像のうち)」『國華』1337 2007年3月20日
  • 奧健夫「[新指定重要文化財紹介]京都・清凉寺木造毘沙門天坐像」『佛教藝術』305 2009年7月30日
  • 川瀬由照「厨子入羅睺星立像 輪王寺蔵」『國華』1367 2009年9月20日

まだ、この「領巾」という記述をしている仏像解説は他にあると思いますが、その作例から見ると、ほんの一部の研究者が使用しているだけで、その用語が定着してはいないようです。
しかし、この「領巾」という言葉はかなり前から使っているようで、何かの根拠があってのことなのでしょうが、誰が最初に使ったのかの追跡は今のところ、濱田耕作氏までです。
Photo それでは、「領巾」という言葉は、いつ頃から用いられていたのでしょうか。唐代の服飾については、原田淑人著『支那唐代の服飾』東京帝國大學文學部紀要第四 1921年 が文献・遺物から考究をおこなっています。それによると、「女子肩背に掛くる被帛披子といふ巾あり。・・・本邦奈良朝前後に行はれし領巾(比禮)亦之と關係あらんか。」としていますが、宮本勢助は「唐代の領巾及び裙帯」『考古学雑誌』12-2 1921年10月5日で、「領巾」という語は、早く隋書五行志に見え、其他唐代には樂府雜錄・支諾皐・酉陽雜爼などに書かれている、としています。その後、原田淑人はこの本の再版に際し、発掘調査で判明した服飾資料を加えて、『唐代の服飾』東洋文庫論叢第51 として1970年3月25日に刊行して、増補した唐墓の壁画人物の服飾の検討で、侍女などの人物に「領巾」を着装していることを述べています。

 

 

 

Photo_2 それでは日本では、どうでしょうか。古くは『万葉集』巻5に松浦左用姫が夫大伴狭手彦との別れ際に高い山の嶺に登り「領巾」を振ったという。この左用姫が「領巾」を振った山を「領巾振の嶺」と呼ぶようになった。と書かれています。また、『延喜式』第14 縫殿寮 の中宮 春季の項に、「領巾四條料。沙三丈六尺。別九尺。」と書かれており、「領巾」を「ヒレ」と読んでいます。他の史料をみても、日本では「領巾」のことを「比礼」「比例」(ひれ)と読んでいます。何故訓読みが「ヒレ」になったのかは、不明ですが、「領巾」という語が輸入される前に、日本ではすでに「ヒレ」という着衣方法があったとみるべきでしょうか。

 

 

 

 

Photo_3Photo_4 関根真隆著『奈良朝服飾の研究』 1974年3月31日 には「領巾」の項目があり、日本での用例をあげています。それによると、薬師寺の「吉祥天画像」、正倉院の「鳥毛立女屏風図」、法隆寺五重塔塔本塑像(西10号、西13号、東11号)に見られ、また、彫刻では、薬師寺神功皇后像、仲津姫像にも見られます。正倉院の楽装束に「□呉女領巾」の墨書のある「呉女夾纈羅領巾残欠」(中202 90号櫃 玻92 墨書No195)があり、これが「領巾」の現在残っている実例のようです。
延喜式などの史料によると、「領巾」は沙で、長さが九尺のものを使っていたようです。神祇式では七尺と書かれています。関根氏は「つまり、「領巾」とは、女性がショール様に着用した薄物の巾で、四季にわたって身にまとったようである。」とし、「中国における領巾着装の習俗は、確実な記録、遺品からみれば唐代からのようで、」日本では「隋唐のそれによってもたらされたものと解釈すべきであろう。」としています。
Photo_5 ずいぶんと、話がそれてしまいましたが、「領巾」とは、仏像の肩に掛けて、胸元で結ぶという短い布とはあきらかに違うものだ、ということです。濱田耕作氏は、何で法隆寺金堂の四天王立像に着装している布を、「領巾」と言ったのでしょう。その根拠がわかりません。以後の執筆者は、単に踏襲して記述してきたのでしょうか。

諸橋『大漢和辞典』では、「領」を「えり」 としています。それからすると、襟に巻く布で、「領巾」としたのでしょうか。しかし「領巾」とは 「古、夫人の頸にかけて飾とした布帛。」 としています。
どうみても仏像に着用している布を「領巾」というのはいただけません。それでは「肩布」でいいのでしょうか。(次に続く)

2010年1月17日 (日)

肩布考(一)

 仏像の着衣で、「肩布」というのをご存知でしょうか。いわゆる、肩に布をかけ、胸元でそれを結ぶ着衣です。現代で言えば、スカーフを肩にかけ、それを胸元で結ぶ、というよく見かけるファッションです。ボーイスカウトでは、「ネッカチーフ」というらしいです。もっとも、ボーイスカウトでは、結ぶのではなく、布をリングに通しているようですが。

仏像にかける布は、現代のスカーフとはちがって、どうも細長い布を使用しているようです。その使用例は、飛鳥時代から江戸時代まで、ほぼ全時代の仏像で見られます。尊像の種類は、不動明王二童子のうち、制吒迦童子像に多く、四天王立像ではどれという決まりはなく使われています。その他、法隆寺五重塔塔本塑像のうち北16号像、興福寺八部衆像のうち迦楼羅像、観世音寺大黒天立像、興福寺板彫十二神将立像、三十三間堂風神雷神像、金剛峯寺八大童子のうち制吒迦童子像、興福寺天燈鬼龍燈鬼像にも着用しています。

Photo なぜ「肩布」というのかについては、例によって、それについて解説している論文が見あたりません。日本での最初の例である、法隆寺金堂の四天王立像の着衣が肩の下のほうで巻いていることからきたのでしょうか。

当麻寺金堂の四天王立像も、肩の下の方にまで覆っています。この像の着衣形式について、毛利久氏は、「当麻寺の彫刻」『当麻寺』近畿日本叢書 1962年10月20日 でこの源流は中国の斉・隋式であり、唐になると、肩に巻く布はなくなる。としています。

ところが、法隆寺像、当麻寺像は、肩を覆うような着衣になっていますが、それ以後、奈良時代にもその使用例があり、たとえば、戒壇院厨子扉絵の四天王立像、東大寺法華堂四天王立像の内増長天立像、新薬師寺十二神将像の内珊底羅大将・摩虎羅大将立像などです。毛利久氏は唐時代にはこの「肩布」はなくなるとしていますが、日本の奈良時代にその例がありますので、その着衣形式での様式の源流の判定はできないとおもいます。

Photo_2 平安時代の東寺講堂の四天王立像の内、持国天立像になると、肩よりもむしろ首に巻いているといったほうがいいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4  また、不動明王二童子のうち、制吒迦童子像では、結び目をつくらないで、単に巻いている表現もあり(十輪院制吒迦童子像)、肩にかけた布を左手でつかむといった表現をしている像(願成就院制吒迦童子像)もあったり、個性的なファッションセンスを表しています。

さて、この「肩布」という用語は、適切な表現なのでしょうか。腰に巻くのが「腰布」で、単に肩にかけるから「肩布」なのでしょうか。使用位置だけでその言葉がちがうというのは、その機能を表しているとはいえません。前回書いたように「帯状布」では、その形を単に表現しているにすぎません。単体で見ると、単なる布でしかないということになります。

こういう形状で、素材はこういうもので、このように使うというものが、「○○」である。という定義をしたいのですが、そこまでの検討はまだおこなわれていないようです。

ところが、肩布を着装している仏像の形状を記述している論文の中に、この布を「領巾」と表現しているのがあります。この「領巾」とは一体どういう意味をもった言葉なのでしょうか。それに、これは何と読むのでしょうか。それは次回ということで。

2010年1月10日 (日)

腰布考(その3)

 いわゆる腰布の使用例を探していると、いろいろなことがわかってきました。まだまとまりがつかないのですが、中間報告ということで勘弁してください。

Photo まず、西村公朝著『仏像の再発見ー鑑定への道ー』1976年2月20日発行 の「裳(裙)」の頁の図(P254)をみると、「腰布」の着装方法がよくわかります。私がいままでイメージしていた「腰布(腰巻ストール)」とはずいぶん違います。

かなり幅の広い布を裳(裙)の上から巻いています。しかも、裳の折り返しで結び目(あるかないかわからない)が隠れてしまっているので、裳の折り返しと混同していました。これだと腰布は結び目がありません。

西村氏のいう“二段折り返し”とは、腰布と裳の折り返しで2段になるという意味だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

『基礎資料集成』造像銘記編2 によると、滝谷不動明王寺の不動明王の形状の項目に、「裳(二段折返)をつけ、腰布を腹前で結び、」と解説しています。この結んでいる布は、図示したように、「腰布」ではなく「腰帯」というべきでしょう。

Photo_2

『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代 造像銘記篇3によると、大報恩寺六観音像すべてに「腰帯」という名称を使っています。とくに如意輪観音像は坐像で、表現は観心寺像と同じなのに「腰帯」に統一しています。『基礎資料集成』平安時代 では、わずかに、大覚寺五大明王像だけが形状の項目で、「腰帯」という名称を用いています。

Photo_3この混乱は、たとえば、浄楽寺阿弥陀如来像の左右脇侍は、かなり幅のひろい「腰布」を着装しています。このような「腰布」の使用例が、平安時代後期以降の菩薩立像に数多くでてきたため、これを「腰布」と呼ぶようになったのです。

とすると、今まで記述してきた、日吉神社菩薩立像のような使用を「腰布」と言ってきたのとはちょっと違うと思った人がいても不思議ではありません。

この着装形式について整理して論じたのは、水野敬三郎氏でした。

「鞍馬寺聖観音像について」『国際交流美術史研究会第五回シンポジウム 観音ー尊像と変相ー』1987年3月刊(『日本彫刻史研究』所載)では、鞍馬寺聖観音像と大報恩寺六観音像に共通する下半身の着衣形式を解説しています。ここで、「腰布」と「腰帯」の使用例をあげてその違いを論じています。『基礎資料集成』の滝谷不動明王寺の解説では「腰布」といい、大覚寺五大明王像の解説では「腰帯」といったのは、同じ水野敬三郎氏なので、ここで、初めて、明確に定義したもののようです。

これについて、もうひとつ論文があります。深山孝彰「肥後定慶の菩薩像について」『佛教藝術』187 1989年11月30日 です。深山氏は、腰布の上にさらに帯のように幅の狭い布をつけているのを注目し、これを “帯状衣”と仮に呼んでおく としてますが、“帯状衣”では次の問題とからんでちょっといただけないような気がします。

「腰布」はいいとしても、「腰帯」では、本来の腰で裳を抑える「腰紐(ベルト)」と混同しがちですし、手前味噌ですがやはり、「腰帯」を“腰巻ストール”というのはいい命名だと思うのですが・・・

それと、次に取り上げようと思っている問題で、“肩布”というのがあります。これも”帯状衣”ということになると、かならずしも腰に巻くだけの着装形式ではないということになり、さらに用語の混乱がおきてしまいます。

衣の着装形式も、かなりはっきりしてきました。望むらくは、報告書などには、その記述に「腰布」「腰帯」の名前の正確な使用をお願いしたいのです。

2010年1月 2日 (土)

新春の上野浅草

Photo “博物館で初詣”のキャッチコピーにのせられて、東京国立博物館に行ってきました。まずは本館正面で、獅子舞。入口正面では、和太鼓の演奏と、正月気分を盛り上げてくれます。

 

 

 

 

 

Photo_2 地下のミュージアムショップにいると、そこまで、獅子舞が侵入してきました。客は一瞬おどろいているようでしたが、そういえば、幼少のころは、正月になると獅子舞が各家の玄関に入り込んでちょこっと舞を舞って、お金を獅子の口にいれるというのが、普通の正月風景でした。子供は獅子の口の中に入ると、ご利益があるといったようなのがあったっけ。小さい頃の私は、獅子舞のおじさんがこわかった印象があります。人の家に勝手にはいって、たいした芸でもないのをちょこっと見せてお金を無理矢理取っていくという感じだったのでしょう。それにくらべて、三河漫才は七福神みたいでユーモラスでした。

 

 

Photo_3 さて、やはり気になる仏像のことをひとつ。常設展に展示してあった、東博蔵の不動明王立像です。平安時代11世紀頃の作品といわれています。この仏像の裳の着衣の仕方がどうも気になりました。

正面右側に寄せて、布をむすんでいるようですが、これは、腰布(腰巻ストール)を結んでいる表現ではないのです。

しかも裳の折り返しが3段になっています。普通は1段か2段です。というのも、2段とは、下裳と上裳の折り返しで2段になるので、3段というと裳を3枚も付けているということになります。

折り返しの布を正面右で結んでいるために、裳の衣文が垂れ下がっている表現になっているのでしょうか。

 

 

 

 

Photo_4Photo_5 左右面を見ると、どうも左右の整合性がとれていないようです。左側面を見ると、腰布(腰巻ストール)のようにみえますが、右側面では、3段の裳の折り返しの表現です。

普通にこのように着衣して、こういう形にはならないと思うのですが、ただ図像か何かの見本を何となく写したような気がします。

もともとか、ずっとか、日本人はこういう布を腰に巻くという習慣がなかったのではと思わせます。

次に、浅草へ。地下鉄を降りると、もうすごい人だかりです。しかも改札口に沢山の人が待っているのです。携帯で待ち合わせすると、こういうことになるようです。

それで、観音様はあきらめて、松屋の古本市に行ってきました。かなりの量がありましたが、手が延びそうなのはありませんでした。

Photo_6 松屋のサイトにある、屋上に上がれば、東京スカイツリーがよく見えます。という記事に踊らされて、遊園地になっている屋上に上がると、まわりには松屋と同じ高さの建物が建っているし、おまけに、まわりは金網でかこっていて、やっと撮影スポットを探して、写してきました。

2010年1月 1日 (金)

謹賀新年

あけましておめでとうございます

旧年中は、拙いブログ「春秋堂日録」にアクセスいただきありがとうございました。このところ、いささか息切れぎみですが、今年も頑張って更新するつもりですので、応援をよろしくお願いいたします。

元旦は運動もかねて、初日の出といきたいところですが、家の近くで、初日の出の最適な場所がありません。今年は、ちょっと足をのばして、東京スカイツリーまで散歩してきました。

Photo

去年中で、およそ250mまで完成したようです。まだまだ予定の半分もいっていません。今年はもう我が家から見ることができるようになるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2近づいて見ると、その大きさに驚きます。はるか昔、初めて東京タワーを真下で見たときの感動を思い出しました。その時は、自らの身長も低かったので、見た目はちがうのでしょうが

 

 

 

 

 

 

2009_05 去年の5月、見た時よりも、ずいぶんと進んでいるのがわかります。 最近の建造物は、基礎に日にちがかかりますが、立ち上がるとみるみるうちに高くなっていきます。実に合理的な工程で工事が進捗しているという施工技術の進歩があります。まさにあらゆる生産技術を結集した成果を見せつけられるような気がします。

 

 

 

 

Photo_3 向島を歩いていると、はからずも、隅田川七福神めぐりをすることになってしまいました。一番北の多聞寺の毘沙門天は行けませんでしたが、向島百花園は閉園中は門の前まで、福禄寿がお出まししていました。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 昔は、三囲神社(みめぐりじんじゃ)で、まず素焼きの宝船を買って、お寺ごとにひとつづつ神さまを買って、すべて宝船に七福神をのせて完成となったのですが、今でもやっているのかな。

元旦の朝でも、初まいりの人が多くでていました。

2時間も歩くとさすがに疲れて、ずいぶんと家から遠くにきてしまったので、帰りは電車で、ということで。これでは、運動にならないな。

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