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2010年2月

2010年2月28日 (日)

安土,大津,神戸博物館旅行

朝、自宅を出るときは、雨がふっていました。新幹線にのると、名古屋付近では快晴になっていました。そして、関ヶ原をこえると、雲がどんよりと垂れ下がった空になっていました。米原におりると、風は北風でつめたく顔をさしていました。

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まずは、安土におりて、滋賀県立安土城考古博物館で『湖西の風土と遺宝』を見学しました。仏像は平安時代を中心におよそ20数体出品されていました。その中で、北比良天満宮の「神将形立像」がでていました。いわゆる“鉈彫”で“無眼”の仏像です。この地域での鉈彫は非常にめづらしく、これが西限かといわれていました。眼は眼球のふくらみのみですが、墨で眼を描いているようです。

この博物館は何回か来たことはあるのですが、近くの「信長の館」は入ったことがなかったので、ついでに入ってみました。安土城天守の上層部の復元建物がありました。これは、内藤昌氏の復元案に基づいてつくられたもので、あくまでも復元です。

 

 

 

 

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そして、歩いて安土城に行きました。入口には杖が置いてありました。たしかに自然石の階段なので、足元をしっかりと見ていないと、つまずきかねない石段です。

いまのところ、この大手道付近を整備しただけのようで、整備工事はまだこれからのようです。いまのところは、往時の想像ができるような景色にはなっていないようです。

それでも、近世初期の城郭としては、非常におもしろい城ではあります。

安土城でずいぶんと時間をかけてしまいました。

 

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つぎは「大津市歴史博物館」の『元三大師良源』展です。元三大師像が21体もならぶと、壮観です。良源という僧は非常に個性の強い風貌だったといわれているので、その個性の出し方もそれぞれ個性的でとてもおもしろい企画ではありました。しかも良源像は銘記によって時代を特定できる像が多いのも特徴です。

 

 

 

 

 

 

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さて、いそいで、湖西線大津京駅まで歩き、京都から三宮まで、新快速で50分、神戸市立博物館の『海の回廊』展の見学へ。

この展覧会では、孝恩寺の仏像が出ているのを楽しみにしていました。久し振りの対面です。しかし孝恩寺像もさることながら、転法輪寺の天部形立像や堺・光明院の十一面観音立像など、なかなかおもしろい仏像がありました。

詳細はまた整理してから考えてみようとおもいます。

さすがに、安土城の山登りが堪えたので、博物館の喫茶店で一服すると、この博物館にはステンドグラスがあると気がつきました。喫茶店の親切なおばさんに聞くと、喫茶店入口のステンドグラスともうひとつはわからないというのです。もう一箇所あるはずだというと、それでは聞いてきますというのです。それで、もうひとつは1階にあるのがわかりました。そんなに古いものではなさそうですが、なかなかおもしろいデザインでした。

 

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帰りはひさしぶりに、元町でも歩こうかと思い、ぶらぶらと歩いていきました。神戸の繁華街はやはり洗練された店があり、東京や横浜とはちょっとちがった雰囲気をみせている感じがします。どこがといわれても何ともいえないのですが。

詳細はそれぞれまとめて、また書きましょう。新幹線の帰りの駅弁は奮発して、1200円の神戸ステーキ弁当にしました。

2010年2月24日 (水)

開運なんでも鑑定団

 昨日、夜9時頃、拙ブログをなんとなく見ていると、やけに、カウンターの数字が増えているのに気がつきました。

何だろうと思って、アクセス解析をしてみると、その多くが「渡辺与平」で検索して拙ブログにアクセスしているのがわかりました。

すぐに、新聞のテレビ欄をみると、やはりテレビ東京の「開運なんでも鑑定団」の放送している時間でした。その内容には「竹久夢二に匹敵!?幻の天才画家鑑定士絶賛」とありました。

すぐにテレビをつけると、ちょうど渡辺与平の作品が画面に出たところでした。さっそく例によって、出品者に本人評価額はいくらくらいですか?と聞きます。「では100万円」といいます。そして、紳助が「オープン・ザ・プライス!」と叫びます。鑑定士の上の表示板には「¥4,500,000円」の数字がでます。鑑定士の意見はおおむね好評でした。

その番組が流れているうちにも、ブログのカウンターの数字はどんどん増えていきます。

番組の終わる10時にはすでにアクセス数が450にもカウントされました。その後、その日のアクセス数は9時から12時まででも、687アクセスに達しました。

今日でも、9時の時点で426アクセスがありました。

こんなに渡辺与平について関心があるとは思いませんでした。テレビという媒体の威力なのでしょうか。

しかし、改めて、テレビ東京のサイトを開いて、鑑定に出された絵の一部を見てみると、見覚えのある絵がありました。実際の出品は12点だったそうですが、そのうちのサイトでわかる4点は、2008年1月17日~3月9日に長崎県美術館で開催された『長崎の美術3 渡辺与平展』カタログの目録に作品リストとして載っているものでした。つまり、出品された絵は“未発表の作品ではない。”ということです。テレビではそのことに一言もふれてはいません。個人が所蔵していた作品で、それを“大発見だ”と鑑定士が言うのは、それが初めて世に出たと想像させる言動で、実にだましに近いあやうい演出です。

『開運なんでも鑑定団』は、最初は実にユニークな発想で始まった番組で、毎回楽しみにして見ていました。単なる娯楽番組としてよりも、より教養番組に近い作り方をしていました。たしかに、美術品(骨董品)の商売の内実をテレビ画面で見せたのですから、金銭的ナマナマしさはあっても、隠れた美術品をテレビでみて、視聴者の審美眼を試されるスリルと、その真贋の判定がお茶の間でできることのおもしろさを味あわせてくれました。

しかし、最近、見なくなったのは、そのマンネリさもさることながら、番組に出品する作品の事前調査、鑑定に緻密さが見られなくなったことでした。テレビを通して見てもどうもあやしいのが、堂々と本物になってしまったり、骨董屋さん特有の値段の付け方、つまりキズがないか、箱があるか、など作品と直接関係のないところで、作品の価値を金額で評価する、といったやり方にやはり違和感を持ち始めたからです。

さらに、高尾曜氏のHP『蒔絵博物館』の「研究日誌」を読んでいると、すくなくとも2回「開運なんでも鑑定団」にその鑑定の間違いを指摘していながら、それに対して、テレビ東京は真摯な対応をしていない。と書いていることです。

  • 「開運なんでも鑑定団 池田泰真(テレビ東京)」2010.1.20 池田泰真?作の煙草箱
  • 「開運なんでも鑑定団の柴田是真」2008.3.25 柴田是真?作の青海波貝尽蒔絵硯箱

どうも、テレビ番組をエンターテインメントとして捉え、多少の事実誤認、あるいは、演出によって事実を隠蔽したり、あたかも本物のように表現しても、それは視聴率の前では許されるといった傲慢さがでてきているようです。

高尾氏の指摘するように、すぐに訂正すれば澄むのに、幅広い専門家の意見を聞く耳を持たなくなり、錯誤をすぐに訂正する勇気がテレビ局になくなったとき、それはもう番組の硬直化は進んでいると見たほうがいいでしょう。この番組の先は短いと見ました。

2010年2月21日 (日)

仏像の移動

 浄土宗HPによると、平成22年1月18日、玉桂寺から浄土宗に阿弥陀如来立像の所有権を移す契約を両者間で締結、2月1日午前、玉桂寺にて遷座式を行った。と記しています。

玉桂寺は滋賀県信楽の山里にある高野山真言宗のお寺で、阿弥陀如来立像とは、重要文化財で、作者が行快ではないかといわれている仏像です。何故、現在あるお寺から宗教団体へ移動したのでしょう?

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まず、玉桂寺阿弥陀如来立像についての概略を述べてみます。

昭和49年5月29日:文化庁の文化財集中地区特別調査で、田辺三郎助は地藏堂脇壇に立てかけられていた一躯の阿弥陀如来立像を発見し、鎌倉時代初期の安阿弥様の三尺弥陀像であると断定した。さらに像内に納入品が納められている可能性のあることを示唆した。

その後:像は保存管理に万全を期すため滋賀県立琵琶湖文化館に移して保管することとなった。

昭和52年2月21日:琵琶湖文化館でX線写真の撮影が行われ、躰部の内刳り部に多数の納入品が込められていることが明らかになった。

昭和53年3月17日:滋賀県教育委員会は同像を滋賀県指定有形文化財に指定した。

昭和54年8月23日:玉桂寺は滋賀県の補助金を得て、本像の保存修理事業を実施するため、財団法人美術院において、像の解体が行われた。

 

 

 

 

 

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躰部から発見された納入品は、13件で、これらのほとんどが結縁交名であった。その中に造像願文が一通あり、それには、建暦2年(1212)12月24日に僧源智が先師すなわち浄土宗祖法然の恩徳に報いるために、師の一周忌を期して三尺の弥陀像を造立し、像内に数万人の姓名を納め、これら衆生の極楽往生を願ったことが記されている。

昭和55年3月~昭和56年3月:仏教大学史学科で納入品の解読がおこなわれ、昭和56年3月、『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』 玉桂寺発行 として刊行した。

結縁交名には信空、証空ら法然教団の主要人物や藤原氏の氏長者にもなった兼実、源頼朝・頼家・実朝の源家三代、後鳥羽上皇・土御門天皇などの物故者を含む歴史上の人物に加え、運慶・快慶などの名も見られる。

昭和56年6月9日:国指定重要文化財に指定された。

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本像は、この玉桂寺で製作されたものではなく、宝暦三年(1753)の台座修理銘によると大阪の「堺稲荷宝生院」という醍醐三宝院の末寺にあった。つまり、宝暦三年時には大阪にあって、その後、どういう経過か不明だが玉桂寺に移された、ということのようです。

さて、そういう移動の歴史のある仏像が、今回はその所蔵者からまた移動することとなったのです。本来仏像はそれが製作され、納入された寺院にあるべきなのは当然なのでしょうが、時代を経るうちにか何らかの理由で、移動せざるをえない状況があっても不思議ではありません。

仏像の移動の歴史の中で、明治維新の廃仏毀釈で、廃寺になった寺院の仏像が移動するのはやむを得ないでしょう。また、明治11年、法隆寺が寺院の復興のため、四十八体仏を皇室に献納し、下賜金1万円を獲たというのも、苦汁の決断だったとおもいます。

そのように、仏像はよほどの明確な理由がないかぎり、そう簡単に手放して他に移動してこなかったのではないかとおもうのです。今回の玉桂寺から浄土宗へ仏像を譲渡したというのは、どういう理由があったのでしょうか。

浄土宗HPでは、来る平成23年が宗祖法然上人の800年大遠忌にあたることから、高野山真言宗の玉桂寺に積極的にアプローチしてきたと書かれています。

あるニュースによると、譲渡価格は1億8000万円ということが報道されています。こうなると、どうも玉桂寺と浄土宗の両方の思惑が一致したと見るのが妥当のような気がします。

仏像は、仏心のはいった崇拝対称物なのに、単なる自由主義経済のもとの商品としか見ていなかったのかと思われてもしかたありません。

仏像が単なる骨董品となった時は、こんなことは当たり前になるのでしょう。そうすると、仏像の由来を研究する術をますます奪っていくことになり、その仏像がどんな思いで作られたのかは、どうでもいいことになってしまいます。この阿弥陀如来像の結縁交名には4万6千名の祈りが込められていたのです。そのことを仏教者である当事者たちは重く受け止めていたのでしょうか。

和歌山県立博物館で4月24日~6月6日まで『特別展 移動する仏像ー有田川町の重要文化財を中心にー』という展覧会が開かれます。どういう切り口でこの問題をとらえるのか期待するところです。

2010年2月17日 (水)

水戸拓

Photo前回紹介した「水戸拓」について、すこし調べてみました。この「水戸拓」は、江戸時代末期、文政年間に、水戸の薬問屋だった岩田健文が長崎で中国人から拓本の技術を学び、持ち帰ったのが始まりだそうです。その後、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家に受け継がれ、現在の北澤彦一氏で4代目だそうですが、彦一氏も亡くなり、写真の人はおそらくその奧さんだと思います。

 

 

 

写真は徳川斉昭筆「梅花詩」。

その奧さんといろいろ質問しながら、その技法を聞いてきました。「水戸拓」では、ふ糊入りの水を版木に湿らせ、その上に画仙紙(厚手)を貼り付け、完全に乾かしてから、タンポで墨を打っているようです。墨は油墨ではなく、墨汁です。かなり、強く板に打ち付けていました。糊で貼り付けているので、剥がすときは大変なのでは?と問うと、やはりむずかしいと言っていました。版木は摩滅しないのですか?とたてづつけに聞くと、それはない、とのことでした。

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紙を剥がした後の、版木の彫りをみてみましたが、字の彫りは浅く、きれいなままでした。保存が非常にいい版木のようでした。もっとも、北澤家は、大日本史の出版をしていた家ですから、版木の彫りはお手のものだったのでしょう。また、光圀、斉昭、藤田東湖の書も多数所持していたようで、それをもとに版木にして、拓本を打っていたようです。拓本用の版木も百点を超えるのだそうです。売店には数千円程度で買えるものが多くありました。

それにしても、拓本の専門家であった恩師加藤諄先生の拓本の取り方とは、ずいぶんと違います。この「水戸拓」では、でこぼこの多い石碑、あるいは浮彫の仏像などでは無理でしょう。あくまでも、板に彫った書にのみ通用する技法のようです。

 

 

 

 

Photo_3加藤先生の拓本は、大体が墨が薄く、このような中国式の拓本を好みませんでした。しかも、拓本は写真と違って、今でいう原寸コピーであり、資料として非常に価値の高いものだ、とおっしゃっていました。そのためには、一般に文学碑の拓本をとるように、字の部分のみをとるのは邪道であり、かならず、碑面の大きさまでとらなければいけない、と教えられました。

この素盞雄神社の芭蕉旅立の碑の拓本は、先生の手拓にしてはちょっとタンポのムラが多すぎます。あまりいい出来ではないようです。しかし、この碑は碑面の剥落がひどく、現在では、拓本によって復原した新しい石碑に替わっています。

 

 

 

 

 

 

 

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ちなみに、これは私の手拓。世田谷伝乗寺の画像板碑です。本来の加藤先生の拓本はこれよりも墨が薄かったようなきがします。

2010年2月13日 (土)

水戸旅行

小雪も混じる日、水戸に日帰り旅行をしてきました。旅程は以下の通りです。

  • まずは偕楽園へ→ぐるっとひとまわりして茨城県立歴史館へ
  • 歴史館内の旧水海道小学校の建物→『親鸞』展→
  • 偕楽園方面にもどって彰考館徳川博物館→常盤神社義烈館→
  • 水戸芸術館タワー→弘道館→水戸城跡薬医門→水戸駅

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一日中小雪が舞う寒い日でした。偕楽園の梅まつりは2月20日からはじまるようで、梅は1分咲というところでしょうか。しかし、まだ人より梅の木のほうが多いので、よしとしました。

2、3日前に降った雪が芝生をおおって一面の冬景色です。その中に早咲きの梅がところどころに咲いていても、まだ春の足音も感じられない寒さでした。

 

 

 

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今回は歴史館の『親鸞展』がメインの目的でしたが、真宗関係の仏像というと、聖徳太子像、善光寺式阿弥陀如来像、僧形像が主になってしまいます。それでも、県内所在の仏像が20~30体位出ていましたので、まあまあの収穫でした。

 

 

 

 

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歴史館の敷地に移築してある、旧水海道小学校の校舎の窓に色ガラスをつかっていました。

 

 

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 彰考館徳川博物館は偕楽園から10分程度歩いた所にあります。モダンな建物ですが、展示の内容は徳川家の工芸品でそのギャップをねらっているにしてはチョットという気がします。

 

 

 

 

 

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駅方面に歩いていると、突然タワーが目に入りました。水戸芸術館のシンボルタワーです。当初はチタンパネルがキラキラ光るインパクトのある建物だったのでしょう。私はその後がどうも気になります。今はよごれが目立ってそれが気になります。

 

 

 

 

 

 

 

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駅近くの弘道館へ。確かに藩校としてはかなりの規模だったようです。建物入口の横に売店がありました。中をのぞくと、奧でオバサンが拓本を打っていました。それを見ながら、いろいろを拓本について質問をすると、いわゆる「水戸拓」といって、ここの独特な拓本の取り方をしてるようです。くわしくは後ほどまとめることとします。

 

今回は手もこごえる寒さでしたが、歩きまわったおかげで、比較的気持ちよく過ごせました。これが2~3週間後になると、梅の花より人の数が多くなるのでしょう。どちらがいいかな。

2010年2月 7日 (日)

肩布考(五)

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 肩に布を掛け、胸元でそれを結ぶ着衣を何と呼ぶのがいいのか、考えてみました。

まず、『田中千代服飾事典』 1973年6月15日 同文書院、丹野郁編『総合服飾事典』 1980年10月5日 雄山閣 で用語を拾ってみますと、以下の項目がありました。

  • えりまき【襟巻】
  • かたかけ【肩掛】
  • ショール【Shawl】
  • スカーフ【Scarf】
  • ストール【Stall】
  • ひれ【領巾】
  • マフラー【Muffler】

まず【襟巻】ですが、事典では、首に巻き付けるものの総称を言うようで、おもに防寒などの目的で使う布の意のようです。

【肩掛】も襟巻と同様の総称としての意味に使われるようです。

【ショール】は婦人用の正方形、三角形、長方形の布製、あるいは毛糸製の肩かけのことで、言葉の起源はペルシャ語だそうです。ヨーロッパでは19世紀に作られたようです。日本では、明治時代に洋風化にのって、ショールは和服の肩に装飾用にかけるようになり、一般化していったようです。

【スカーフ】は一般に首に巻いたり、頭をおおったりするのに用いられる正方形、あるいは長方形の薄手の布または編物のことをいっています。西洋風のスカーフは戦後以降の流行ですが、日本の女装に「御高祖頭巾」(おこそずきん)というのが江戸から明治時代にあったようです。

【ストール】は主として、長方形の帯状の装飾用布片で、長さは床にとどくほど長いのもあります。カトリックの聖職者がしているのも「ストール」と言い、中世期以来使用されているものです。

【マフラー】えり巻の一種。19世紀以降は、防寒用として使われ、素材は毛織物、絹織物など多様のようです。ふつうは男子用の襟巻きを指すことが多く、婦人用は「ショール」と呼んで区別しているらしいです。

これらの用語の中では、仏像の肩に着装している布は、現代でいう【スカーフ】が一番近いように思います。胸元で結んでいることから、薄物の布を使用しているようですし、マフラーのように防寒用に着けているようにも見えません。またストールほど長い布ではないようです。

また、現代のスカーフは普通、90㎝角程度の大きさで正方形をしているのが多いようですが、有名ブランドのエルメスのサイトを見てみると、必ずしも正方形とは限らなくて、長方形(ロングスカーフというらしい。33㎝×130㎝~53㎝×160㎝程度)もあるようです。

今の女性は普通、正方形のスカーフを対角線に折って肩に掛けているのですが、それを長方形に折って(バイアス折りというらしい。)肩に掛けて胸元で結ぶ方法もあり、それならば、仏像のようになります。

使い方も仏像と現代の女性も同じように装飾用として、着装しているのがわかります。

ということは、仏像の肩に掛けて、胸元で結ぶ布は、それが仏像に着けるものか否かにかかわらず【スカーフ】あるいは【ロングスカーフ】といってもいいのではないでしょうか。

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このスカーフはかならずしも肩に掛けるばかりでなく、腹上のところで、胸甲を固定するために結んでいる仏像があります(頂法寺毘沙門天立像)。これもスカーフと言った方がいいのではと思います。

ところで、アントキノ猪木は赤いタオルを肩から掛けていますが、本物のアントニオ猪木は「マフラー」を肩からかけているのでしょうか。それとも、かなり長いし、結んでいるように見えないところを見ると、「ストール」かな?

参考ブログ

2010年2月 3日 (水)

六本指

 薬師寺吉祥天画像に関する論文を漁っていると、野間清六「藥師寺吉祥天畫像雜感」『国宝』4-8 昭和16年8月1日 という論文が目にとまりました。最初の1頁から2頁上段までは、普通の解説の文章が綴られていましたが、2頁目下段になると、突然この吉祥天の手の指が五本か六本かという問題を語り始めたのです。

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何のことかと読み進んでいくと、大正年間の頃摂政宮(昭和天皇)に瀧精一がご進講している時、この畫像を取り寄せたことがあったそうです。進講の後、その場にいた東郷元帥が「この左の手は指が六本だ」と言ったそうです。すると、その場にいた白鳥庫吉は、「支那の奥地にはそうした異状體形のものが少なくなく、却って尋常でないために尊敬される」と説明したそうです。まさに苦し紛れでしょう。それにもまして、筆者の野間氏は、「佛教では千手観音の如きや十一面観音の如き、多手多面の姿が通行してゐる」また、「畫家として指を一本多く描くことは有り得ることである」と懸命に弁解しています。しかし、以後は冷静になって、図まで描いて詳細に分析しています。それによると、「確かに指は六本に見える。併しそれは、指は五本に描いたのであるが、その描法によって偶然に六本に見えるに過ぎないのであって、東郷元帥の眼も強ち誤りとはいひ切れないのである。」としています。野間氏は、手の部分を拡大して詳細に検討して、どうして六本に見えたかの検証までしています。

こうまでして、ムキになって弁明ともいえる検証をするのは、読んでいてちょっとやりすぎじゃないのという感がします。それは、その問題を指摘した人間が、とりもなおさず“東郷元帥閣下”であったからでしょう。

いつの世にも、権力者のひとことが、下の者を大パニックにさせるものです。権力者の顔を立ててフォローした上で、しかも、説明者が知らなかったではすまされないので、こういった発言をするのでしょう。実に滑稽な話なのですが、よくある言い訳の典型的な例です。今だったら、「あなたがそう見えるだけじゃないの。」と取り合わないか、「気がつきませんでした。」と言って謝るかのどちらかです。権力におもねるとは大変なことですね。

ところが、多指症という先天性異状の病気があるのだそうです。しかも豊臣秀吉の右手がそうだったと、フロイスの記録や、前田利家の回想録に書かれているそうです。こうなると、白鳥庫吉の説明もあながちデマカセで言ったのではないというのがわかります。

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それ以降、この薬師寺吉祥天画像に関する論文には、六本指の話題はでてきませんでした。一昨年、奈良国立博物館・東京文化財研究所編『薬師寺所蔵 国宝 麻布著色吉祥天像』 2008年5月15日 という調査報告書が出版されました。そこには詳細な赤外線・X線写真とともに、梶谷亮治「国宝 麻布著色吉祥天像の彩色技法」という論文があります。それには「左手は胸前に挙げ、3・4指を屈し掌を上に向け宝珠を持している。肉線は淡墨線、指先には強い朱隈を施す。指先が細くさらに下描き線と重なり合い、一見すると指数が多く見える。」としています。

その当時、こんなことが言えなかったのでしょう。この問題の対処の仕方で時代がどんな状況だったのか想像することができます。いや、こういうヨイショは、今でも全然変わってはいないのかな?

2010年2月 1日 (月)

肩布考(四)

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 「領巾」について、もう少しまとめて見ようと思います。
まず、前回紹介した原田淑人著『唐代の服飾』に、中国では「帔帛」と「帔子」と呼ぶものがあると言いましたが、事物紀原衣裘帯服部帔子の條を引いて、「處女帔帛を用ゐ、出嫁すれば帔子を用ゆることに徴すれば、帔帛の方おそらく長く、帔子の方短かきものには非るなきか。」としています。しかし、「領巾」という言葉も唐代には使われており、「帔帛」「帔子」とどう違うのかは不明です。岩崎雅美・岡松恵・片岸博子・原田順子・馬場まみ「薬師寺吉祥天像の服飾における中国西域の要素についてー髪型や衣を中心にー」『日本服飾学会誌』20 2001年6月1日 では、「領巾は帛・披帛・帛巾などと称されるもので、大別して二つある。幅が広くて稍短い「披帛(被巾)」(ショール)と、細くて長い「被子(被帯)」である。披子は大きなリボンのようであり、さらに薄いと飛天の天衣のようにもみえる。」として、唐代の絵画で、「披帛」と「披子」の使用例を挙げて分類しています。

この「披帛」「披子」について、論文で採用しているのは、島田修二郎「鳥毛立女屏風」『正倉院の絵画』1977年(島田修二郎著作集1『日本絵画史の研究』1987年11月7日)です。この論文では島田氏は原田氏の説を註で紹介していますが、鳥毛立女屏風に描かれる女性の肩には「披巾」をまとう、としています。

田中陽子「薬師寺吉祥天女像の服飾に関する一考察ー中国歴代女子服との比較からー」『国際服飾学会誌』16 1999年9月30日 では「帔帛」という言葉を使っています。
そうはいっても、薬師寺吉祥天画像、東大寺法華堂塑造吉祥天像などには、「領巾」という説明をして「ひれ」という読みを入れているのが多数です。しかし、「領巾」をいつから「ひれ」と呼ぶようになったのでしょうか。錦織竹香『古今服装の研究』1927年10月15日 によると、第九章第一節 領巾 の項で、「領巾」の書かれている史料を15冊ほど挙げていますが、「領巾」という語が出てくるのは、『日本書紀』巻五 崇神天皇10年、『倭名類聚抄』巻四衣服、『倭訓栞』前編二十五比、『永仁御即位用途記』、『歴世服飾考』巻三 ぐらいでしょうか。あとは、「比禮」がほとんどです。『日本書紀』天武天皇11年の項では「肩布、此云比例。」としています。つまり、「領巾」という語はあきらかに中国から入ってきた言葉で、それ以前に日本では、「ヒレ」という着衣があって、その着衣方法を「領巾」という語に当てはめたということのようです。

これについて、増田美子『古代服飾の研究ー縄文から奈良時代ー』1995年3月7日 では、古事記などで、「領巾」が呪力をもつ布であることが記述されていることについて、「領巾は古墳時代中期以降に入ってきた外来の不可思議な服飾であったのではないか。埴輪にその姿がみられないのは、関東まで普及していなかったため。」とし、「インドで発達し、特に領巾を掛けて空を飛ぶ飛天の姿と深く結びついて、その長い布が呪力を持つという概念が生まれたのであろう。・・・これらは、仏像等の装束と結び付いて特別な力を持つと考えられた領巾がわが国にも伝わり、装われるようになったのではないだろうか。」としています。

増田氏の論考は、「領巾」と「天衣」について、曖昧な形で述べているようです。仏像の「天衣」は呪力を持つために着装しているという根拠があるのでしょうか。また、「領巾」は呪力をもつために女性が掛けるものなのでしょうか。単なる装飾ではないのでしょうか。そのことについて『倭名類聚抄』では「領巾所謂婦人項上飾也」と明確に装飾品としています。

「領巾」と「天衣」については、田澤坦「藥師寺の繪畫」町田甲一・坂本万七『薬師寺』1960年5月15日 実業之日本社 では「領巾ー或は披子、佛教像では天衣ー」としています。どうみても、「領巾」と「天衣」は同じもののようです。前回書いたように、崇拝対称物か、人物(女性)が着装するかで言い方が違うとしていいのではないでしょうか。

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さて、まだ本題にもどれません。法隆寺四天王立像や観世音寺大黒天像の肩に掛けて、胸元で結んでいる布は、何と言ったらいいのでしょう。すくなくとも「領巾」ではありません。領巾=天衣だと、天衣を2つ着ていることになりますから。

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