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2010年4月

2010年4月24日 (土)

早苗のおばちゃん

夢さんのブログに「早苗のおばさんの訃報」という題で、早苗のおばちゃんが去年なくなったことを書いていました。

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私が麻雀をおぼえたのは、おそらく大学に入ってからだとおもいます。父が麻雀をやっており、家庭でもやっていたので、少しは知識があったかもしれません。雀荘でクラブの同輩や先輩のやっているのを後ろで見ながら、おぼえたのだろうとおもいます。その頃の大学生の遊びは麻雀が全盛でした。面子が集まれば、すぐに雀荘へ直行でした。

いつも行っていたのが、大学の門の前にあった『早苗』でした。『早苗』はご主人と息子とおばちゃんの3人家族で、息子がまだ中学生くらいだったとおもいます。旦那は朝から酒を飲んでいたりして、ろくに仕事もしていないようでした。雀荘の切り盛りから、家族の食事の世話など、すべておばちゃんがてきぱきと仕切っていました。ときには面子が足りないと、いっしょに雀卓を囲みました。

おばちゃんの麻雀は、格段にうまいというわけではないのですが、時には大勝したり、また負けることもあって、いわゆる接待麻雀ではなく、いっしょに楽しんで打ってくれました。

雀卓が満杯のときは、2階の居間まで使わしてくれました。もう家庭のありのままをすべて解放しているようでした。

そこが、おばちゃんの人気のあったところだとおもいます。何か母親のような暖かさと、友達のような気楽さを持ち合わせていました。おばちゃんには、ずいぶんと無理を言ったり、わがままをしましたが、すこしも嫌な顔を見たことがありませんでした。

我々が麻雀を打っていてお昼になると必ず、「メルシーのラーメン」か「尾張屋のランチ」を出前で取りました。とくに「尾張屋」の出前のあんちゃんは、出前にくると、我々の仲間だった鎌田がランチを食べる間、そのあんちゃんに麻雀を代わりにさせていました。

雀荘は、我々の大事なコミュニケーションの場でした。バクチですから、多少の金銭のやりとりもあるので、それぞれの性格がでてきます。また、同級だけではなく、先輩や後輩とも卓をかこみましたから、上下関係のコミュニケーションも取れました。私が2年のときは、大学がロックアウトされて授業がほとんどなく、時間をもてあそんでいた時期だったこともあったので、思う存分やっていました。

5,6年前でしたか、クラブのOB会の始まる前に『早苗』に集合しようと声をかけると、お昼ごろ三々五々、昔の仲間が集まってきました。おばちゃんは、昔の雀仲間をひとりひとりおぼえていてくれました。もう昔とちがって、雀卓が埋まるほど、お客はきていないようでした。おばちゃんは昔と少しもかわらず、よろこんでくれました。

もう麻雀のブームは去って久しいのに、昔の客が尋ねてくれるのを待っているために、雀荘を開けているようでした。

その後、OB会の始まる前に、『早苗』によると、鍵がかかっていました。去年の11月に行われたOB会のときも、誰かいる気配がありませんでした。

どうしたんだろう?と気になっていました。

2010年4月17日 (土)

霊木化現という考え方

 まず、井上正氏の唱える「霊木化現」について、その要旨を述べると、神の依り代であった神木が、神に代わって仏が出現する霊木として造形されたのが、一連の未熟で粗雑に見える素木の仏像であり、霊木に宿った仏が徐々にその姿を現し、霊木から仏が姿を見せる途中の各段階と解釈されるのが、立木仏、鉈彫、目や耳、螺髪、宝髻などを彫らないままの像がそれに当たる。というのが論旨の一部です。井上氏は行基との関係、檀像の問題とからめて論じていますが、ここでは、神の宿る霊木を御衣木として仏像を彫るという点についてとりあげてみようとおもいます。

  • 井上正「古仏巡歴 1~36」 『日本美術工芸』 527~562  1982年8月1日~1985年7月1日 日本美術工芸社
  • 井上正「古密教系彫像研究序説 ー檀像を中心にー」 『論叢仏教美術史』 1986年6月10日 吉川弘文館 501p~530p
  • 井上正「古密教彫像序説 」 『古佛ー彫像のイコノロジーー』 1986年10月25日 法蔵館 9p~26p
  • 井上正「古密教彫像巡歴 1~36」 『日本美術工芸』 580~615  1987年1月1日~1989年12月1日 日本美術工芸社
  • 井上正「化現する仏と立木仏 」 『日本の美術』 253 檀像 1987年6月15日 至文堂 76p~80p
  • 井上正「第一章 神仏習合の精神と造形/3,霊木化現の仏と神 」 『図説日本の佛教 第6巻 神仏習合と修験』 1989年12月5日 新潮社 70p~81p
  • 井上正「霊木化現仏への道」『芸術新潮』 42-1(493) 【美術史の革命】 出現!謎の仏像 1991年1月1日 新潮社 79p~94p
  • 井上正「行基仏への旅 」 『芸術新潮』 42-2(494) 【美術史の革命】第二弾! ローカル・ガイド大特集 謎の仏像を訪ねる旅 1991年2月1日 新潮社 103p~108p
  • 井上正「Ⅱ 奈良時代/9 檀像と霊木化現仏 」 『7ー9世紀の美術 伝来と開花』岩波日本美術の流れ 2 1991年12月13日 岩波書店 81p~90p
  • 井上正「古仏への視点 1~24」 『日本美術工芸』 652~675  1993年1月1日~1994年12月1日 日本美術工芸社

 この問題について、初めて反論らしき論考を目にしました。 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業ーなぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのかー」『明星大学研究紀要[日本文化学部 言語文化学科]』15 2007.3.25 です。
山本陽子氏はまず、“神木に刃物を入れるという行為に、恐怖や抵抗感がなかったのだろうか。”という疑問から論が始まります。史料には神木を切ったために、神が怒り祟りがあったという話が多くあることを指摘しています。その一例が長谷寺十一面観音像の縁起です。それには、観音像の御衣木がその霊木の祟りのためにしばしば中断し、その困難を克服して造仏したという物語になっています。(寺川眞知夫「御衣木の祟ー長谷寺縁起ー」『仏教文学とその周辺』 1998.5.30 和泉書院) 奧健夫氏は、もともとこの木は人々に死をもたらす「疫木」であったと指摘しています。(奧健夫「木彫像の成立」p226~p227『日本美術館』 1997.11.20 小学館)
 つまり、山本陽子氏は、井上正氏の論じるように、神木を用いた未熟あるいは未完成の仏像は、山林修行者が霊木の中から出現した仏の姿を感得し、その過程を霊木に表現した「霊木化現仏」であるという解釈だと、祟る霊木の場合の説明ができなくなる。と反論しています。

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【大寺薬師観音菩薩立像(小像)】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、なぜ祟る霊木で神仏の像を刻むのか、という疑問がわいてきます。山本陽子氏は“霊木での造仏とは、祟る木を仏となして祀り鎮めてしまうことに他ならない。”と結論づけています。仏像を彫ることは神木の抵抗と祟りに会いながら、仏師は霊木と対決していたという説話の例を紹介しています。
 井上正氏は、目を彫らないなどの未完成の像は、霊木から化現している過程の像である、という推測をしていましたが、山本陽子氏は、“御衣木に尋ねながら彫る。未完成であっても霊木が拒否すれば、それ以上は刃を入れずにそのまま仏として祀る。目的は仏像を仕上げることではなく、霊木の祟りを封じることが目的なので、仏像の完成度は問われない。”としています。
 両者の論考を比べてみると、たしかに、仏像の造像説話には、霊木の抵抗にあって願主・仏師と対決したという話が多くあります。霊木の中に潜んでいる仏像を化現させるという“いい話”ばかりではありません。このことについて井上正氏は、あえて触れてこなかったのではないかとおもわれます。
 山本陽子氏の論では、霊木を使った造像が、祟り封じのためであるのは理解できても、それが未完成でもいいというのは、説得力に欠けるようです。たとえば、太平寺阿弥陀如来像のように、目のみ未完成で他はすべて完成している像は、どこが霊木を封じている像なのでしょうか。現存している像での具体的な説明がほしいところです。

注:山本陽子氏の論文は CiNii - NII論文情報ナビゲータ に掲載されています。フリーワード【仏像】でさがすとヒットします。PDFファイルで論文全文が公開されています。直接論文をリンクしてみましたが、リンクできないようです。

2010年4月 8日 (木)

吉祥天の服装

 法隆寺金堂吉祥天立像を例にとって、どういう服を着ているかの記述をしていこうとおもいます。

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まず、腰に裙(裳)を巻きます。裙とは足元から胸まである長方形の布で、腰紐でむすびます。つぎに内衣を着ます。胸元で袷せ、袖は筒袖になっています。内衣とは、服の名称ではなく、下着という意味です。「正倉院の遺品の中には内衣として、半臂、襖子、襦、布衫などがある。半臂は短い袖がつき、裾に襴がついている垂領の衣である。襖子・襦はいずれも筒袖の短衣であり、布衫は単の窄衣で夏の内衣として用いられた。」(谷田閲次・小池三枝共著『日本服飾史』 1989.1.10)としていますが、この仏像の内衣はそのどれに当たるか不明のため、とりあえず「内衣」としました。
次に、盤領大袖を頭からかぶります。盤領とは「あげくび」とも読み、いはば、まるえりで、大きな袖をもつ衣ということになります。大きく開けた襟は、後述の衤蓋襠衣の下に隠れて、表に現れているのは大袖のみのようです。
その上に鰭袖のついた衤蓋襠衣を被ります。これも、臂の部分と、裾にわずかに現れる程度です。
そして、一番上には背子を被ります。背子とは『和名類聚抄』では「からぎぬ」と読んでいますが、ここでは「はいし」とします。これは、半袖の盤領で、裾は膝上までの短衣です。襟に巾広の置口をつけています。
腰に蔽膝を着けますが、腰紐は蔽膝に付いているものかは不明です。天衣は肩からかけ、両腋にはさんでいるので、長さはそれほど長いものではないようです。
以上ですが、衤蓋襠衣と盤領大袖が、袖と裾しか現れておらず、襟元からは見えないので、どうもこれでいいのかな、と思いますが、袖を見てみると、あきらかに上半身は4枚の衣を着ているのが確認できます。
ただ、いまだによく納得できないのは、背子の襟の巾広の置口です。これは、背子の折り返しなのか、輪状の巾広の布を被っているのか、彫刻からはよくわかりません。これについて、江馬務は「Ⅰ 王朝の服装/奈良朝から平安前期に亘る服飾界ー特に女装の動向」『江馬務著作集』第三巻 S51.6.20 で

「さて平安初期の女装で、先ず特筆すべきことは背子の斬新な形式が生まれたことである。それは襟の形がV形にならずに円く刳られた形式のもので、その襟には置口がついていた。」

としています。また、「背子が襟や袖口にフリル様のものをつけたのは、裲襠の模倣である。」としています。

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しかし、東大寺法華堂塑造吉祥天立像は襟は袷ですが、法隆寺塑造吉祥天立像は、円い被る形の襟ですので、猪川和子氏の指摘しているように、この襟の形では時代の判定はできないようです。(「吉祥天彫像」『美術研究』 210 S38.7)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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また、醍醐寺吉祥天立像を見てみると、服装の着方はほぼ法隆寺金堂像と同じなのですが、裾に盤領大袖と衤蓋襠衣が背子に隠れて表現されていません。根立研介氏は『醍醐寺大観』第1巻 2002.10.29 の解説に

「内衣、大袖の衣を纏った上に、襟際と裾に縁飾りのついた衤蓋襠衣を着けて腰紐で締め、両肩からは天衣を垂らしている。下半身には、裙、蔽膝の着用が認められる。」

として、注釈で、衤蓋襠衣に縁飾りをつける例を広隆寺薬師如来像に求めています。伊東史朗氏も、「27 吉祥天立像」『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』 1992.7.21 で、

「衤蓋襠衣の上下についている大きな縁飾りは、ほかの吉祥天の彫像では見られないもので、珍しい表現である。」

とし、これを宋風表現のひとつと解釈しています。しかし、醍醐寺像の袖を見ると、衤蓋襠衣の鰭袖の上の二の腕部分に背子の端があるので、胸の縁飾りは背子のそれであることは明確に解ります。これを宋風表現とすると、法隆寺塑造吉祥天像との形態の違いを説明しなければなりません。これについては、例をあげて、もう一度検証してみることとします。

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服装について調べ始めると、これがなかなか奧が深いテーマと解りました。まして、服飾史という分野があり、彫刻史とは別のアプローチをしているのですが、それぞれが、もう一方の分野と一線を画しているので、両方の分野での研究を阻害しているように見えます。そのため、彫刻での、服装の記述が実に不揃いの用語を使い、服飾史の研究成果の吟味すらしていないように見えます。服装の用語など、まだまだ調べなければならないことがありそうですので、この問題は、今後の課題として、また登場することになるでしょう。
消化不良のままで書いてしまいましたが、これ以上このブログをほったらかしにできないので、まとまらないままでとりあえずの執筆となってしまいました。お許しください。

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