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2010年5月

2010年5月29日 (土)

肩布考(六)

 以前のブログで、「肩布」と「領巾」とは違うものだ、ということを書きましたが、別の観点から、同様な論考を見つけました。
宮本勢助「肩巾考」(第一回)(第二回)『民俗學』5-9,5-10 昭和8年9月18日、11月5日 民俗學會 です。
この論文は、“「肩巾」と「領巾」とは全く異なれる服物と解せられるのみではなく、肩布は全く獨自の服物として考ふべきもの”という結論ですが、私とはアプローチの仕方に違いがあります。

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宮本氏はまず、埴輪土偶や天寿国曼荼羅に“一條の帯状のキレ(巾)の宛ら現代の勲章の綬の如き服物を一方の肩から斜めに他の一方の脇へ懸けて居るものが存在する。”ことに注目して論を始めています。

この綬の如き服物について、従来の研究から四説を検証しています。

  • 明治三十年 ヒレ(領巾・肩巾)説 八木奘三郎「常武兩國新發見の埴輪に就て」『東京人類學會雜誌』131、137 明治30年2月28日、8月28日 東京人類學會
  • 明治四十年 袈裟説 福地天香『裁縫雜誌』5-6 【筆者未見】
  • 大正九年 チハヤ説 高橋健自「奈良時代の服飾に對する二三の考」『人類學雜誌』10-8 大正9年4月5日
  • 昭和二年 スキ(繦)・巾明衣説 高橋健自「古墳墓壁畫の一二に就いて」『考古學雜誌』17-5 昭和2年5月

 まず、それぞれの説を批判して、宮本氏は「領巾」と「肩巾」とも「ヒレ」と読んでいたために両者を混同して使われてきたことに注目し、これを整理しています。それは、書紀編纂当時普通ヒレは領巾と書かれていたのに、日本書紀に「肩巾、此云比禮」と殊更に訓を示したのは、領巾とは違うことを示している。と考え、しかも、領巾は女服のみで、肩巾は男女通服としたのです。領巾は唐代服飾であり、天武十一年以前にはなかったとし、その当時のヒレとは肩巾であった。その肩巾とは、長さは五尺程度で、綬の如き肩に懸けるものだったのではと推測しています。

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確かに、埴輪や天寿国繍帳の人物の肩から斜めに懸けている布を、「肩巾」とするのは理解できます。以前にも書きましたように、「領巾」とは仏像では「天衣」です。しかし、これを「肩巾」としてしまうと、以前取り上げた仏像の両肩にかけて胸元で結んでいる布を何と呼んだらいいのでしょうか。埴輪の布と仏像の布が同じ「肩巾」でいいのでしょうか。形状はおなじようでも、着装方法は明らかに違います。現代人のファッションから見れば、前者はいわゆる「襷(たすき)」であり、後者は「スカーフ」です。

というふうに考えていくと、もうひとつひっかかることがあります。埴輪や天寿国繍帳の人物の肩に懸ける布は、仏像でいう「条帛」とそっくりなのです。これを何故「条帛」と言わないのでしょうか。これも、「領巾」と「天衣」との関係と似ています。普通の人物では「肩巾」で、崇拝対称物では「条帛」というのでしょう。今までぼんやりと「条帛」を見てきましたが、この「条帛」の歴史についても調べなければならなくなりました。

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と書いていくと、東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存専攻保存修復彫刻研究室『年報2008』の研究実績のコーナーで、「個人蔵木造矜羯羅童子・制多迦童子立像修復研究」P205~P218 の形状の項目で、

<制多迦童子像>条箔(筆者注:条帛か)を肩にかけて胸前で結ぶ。

と書いているのにひっかかりました。矜羯羅童子像は普通に条帛を着けていますが、制多迦童子像はいわゆる肩布を両肩から懸けて、胸前において左手でその先を掴んでいる、という願成就院の制多迦童子像と同じ形状です。これを「条帛」というのは初めてです。すごい発想です。

 

 

参照ブログ

2010年5月22日 (土)

横浜市開港記念会館ステンドグラス施工法

Photo  横浜市開港記念会館ステンドグラス修復記念誌『甦る光』という本を手に入れました。

これは、以前書きましたように、この建物の2階に嵌っている3個所のステンドグラスの修復過程の記録です。

序文には、

「今後、この横浜で行われたステンドグラス修復技法を後世に伝えるための指南書としていただければ幸いです。」

としていますが、いくつかの点で、これは修理工事報告書とよべるものではないことがわかります。

まず、後世に修復の機会が訪れた時、この本によって、今回の修復の状況が正確に把握できるのでしょうか。まず、修復前の現状調査では、ガラスの破損個所の部分的な写真が掲載されていますが、図面で指摘していません。各部分にどのような色のガラスを使っていたのかの調査記載がありません。

 

 

 

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組み直し時に、11枚の新規ガラスを使ったと書いていますが、新規ガラスはどの部分なのかの記載がありません。

普通の修理工事報告書の体裁ならば、まず修理前の現状を記述あるいは図示し、修理後の状況、どこをどのように修理したかの記述あるいは図示が最低条件です。

この本はサブタイトルにもあるように、「修復記念誌」であって、「修理工事報告書」ではありませんので、後世の修復時にこれがどの程度役に立つかはわかりません。まあ市民にわかりやすい体裁にしたというコンセプトの本ということでしょう。

さて、このステンドグラスの修復後に、元の位置に取り付ける方法について、いくつかの問題点をあげておきましたが、その時は、取付後の状況のみで判断していたので、実際の取り付け工程とは多少の推測の違いがありました。以下、この本によって修正します。

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まず、修復後のステンドグラスを取付る前に、すでに、階段ホール側に透明ガラスが嵌っていました。これは、修復前のステンドグラスを取り外した後、透明ガラスを入れ、それにステンドグラスの写真のシートを貼って、修復中にも現状があまり変わらないようにしたためでした。

そのために、階段ホール側からの施工ができず、資料室側からのステンドグラスの施工となりました。まず、ステンドグラス4段を仮に組みあげて、その上から、格子状の補強棒を固定するといった工程になりました。何故階段ホール側のガラスを外してから、ステンドグラスを取り付けなかったのでしょう。先に取り付けた透明ガラスは、両面シーリングによって固定してしまっています。この状態ですと、ステンドグラスを取り付け、資料室側の透明ガラスを取り付けてしまうと、もう階段室側のガラスは取り外せなくなってしまいます。つまり、ステンドグラス側の内側のシーリングによってガラスが接着されてしまっているので、ガラスを割らないかぎり外せないことになってしまいました。例えば、透明ガラスの内側に汚れが付いたとき、もう対処のしようがないということになります。これは、ステンドグラスを取り付ける前に資料室側の透明ガラスのように内側をクッション材をはさむだけにして接着しないようにすればよかったのです。

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透明ガラスが嵌っていない状況ならば、まず格子状の補強棒を取り付けてから、順次下からステンドグラスを組みあげていった方が、位置の調整や、下からステンドグラスをひとつづつ固定できるので、安全に施工できたはずです。

また、この本によると、補強棒に結びつける針金は鉛桟に直接ハンダ付けしないで、座金付パイプを鉛桟にハンダ付けして、パイプに銅線を通してから、補強棒に結ぶ方法を採っています。この方法について以下のように説明しています。

「ステンドグラスパネルの補強方法は様々あるが、丸棒を使い針金や鉛の帯で結び付けてしまう伝統的なこの手法は、パネル自体のたわみを無理には抑えない免震構造に似ており、自重による変形、地震による振動に対してフレシキブルにエネルギーを吸収する方法になっている。」(「16 針金ハンダ付け」P84)

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しかし、この銅線は補強棒の縦横のあらゆる位置で結んでおり、説明のように地震による振動に対してフレシキブルに吸収する方法になっているのでしょうか。

補強棒は縦横の交差を溶接しており、また、結果的に木枠に差し込まれているので、この補強枠はフレキシブルに変形しません。つまり、地震による層間変位に対応できないのです。13mmのステンレス丸棒がどの程度、地震の応力に耐えられるのか、どの程度までなら変形しないのかについての、検証をしたのでしょうか。

説明書によると、補強棒はあらかじめ開けておいた穴に差し込んで取り付ているようです。ということは、補強棒は枠の中で多少動くということかもしれませが、上下左右に木枠に固定していては、フレキシブルに動きません。

結局、木枠に固定された格子状の補強棒は、躯体に取り付けられた枠に固定されたもので、変形できない補強棒に針金でステンドグラスを固定しているという状態になっているとしか見ることができません。地震による層間変位には対応できていないということでしょう。

参考ブログ

2010年5月16日 (日)

平城宮大極殿

平成の壮大な木造建築のひとつに数えられる『平城宮第一次大極殿』という名の建物を詳細に見てみようとおもいます。

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踏切を渡って、第一次朝堂院前あたりからの遠望です。第一次大極殿のまわりには、簡単な塀で囲まれています。

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大極殿正面です。本来は正面が吹き抜けで、扉もないのですが、ガラススクリーンを入れて、外気と遮断しています。これだけ軒が深いのですから、ガラスで隔てる必要があったのでしょうか。外観からも違和感を覚えます。

 

 

 

 

 

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                    内部の高御座と朱雀                       玄武

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白虎                                青龍

この絵は上村淳之氏のデザインだそうです。いままでの例にとらわれない図柄にしています。

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高欄の上には宝珠が付けられています。中の玉は硝子製でしょうか。

 

 

 

 

 

 

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この建物で最も見られたくないもの、基壇の中に入る扉です。この中に何を隠そう免震装置が隠されているのです。

 

 

 

 

 

 

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古代衣装の体験。領巾(比礼)もこうやって纏うのかと感心したりして。 

 

2010年5月 7日 (金)

頭塔の二仏並坐像

先日の奈良旅行の際に撮った写真の整理をしていると、頭塔の二仏並坐像が目に止まりました。

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この二仏並坐像は東面5段にある石仏で、発掘調査によって発見されたうちの1基です。見学者通路からは、見上げる位置にあるので、上半分しか見ることはできません。下部にある左右六侍者像は見えませんが、中央の如来像の真ん中に上から石に亀裂が入っているように見えます。右のパンフレットの写真では、そんな黒い線は入っていません。白い線状の模様も、現状では見られますが、パンフレットにはありません。

これは、亀裂ではなく、何か黒い塗料か汚れなのでしょうか。あいにくと、この一枚しか写真を撮っていませんでした。

奈良国立文化財研究所『史跡頭塔発掘調査報告』には、白黒の石仏の写真とともに、拓本を掲載していますが、何故か、この石仏と立像の石仏の2基のみ拓本がないのです。

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どういうことなのでしょうか。他のサイトで最近の写真を探してみると、やはり黒い線が写っていました。これは亀裂なのでしょうか。それとも単なる汚れなのでしょうか。もう一度確認しに行かなければならないのかな。

『報告書』によると、この石仏は発見当初から、その位置を動かしていないとしています。また、この位置は復原整備していない所で、そのままの状態で保存してある場所です。奈良県『史跡頭塔復原整備報告』にも、この石仏の発掘当時の写真がありますが、亀裂らしきものはありませんでした。

 

 

 

 

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やっぱりこれは亀裂ではないのかな、単なる汚れなのでしょうか。

2010年5月 5日 (水)

奈良3日の旅

この連休3日間、奈良にひたりに行きました。例によって旅程は以下のとおりです。

5月2日

  • まず和歌山県博で『特別展 移動する仏像』を見学→大阪難波にもどり西大寺下車
  • シャトルバスでエントランス広場へ→遣唐使船復原展示→朱雀門→
  • 踏切をこえ→大極殿→第二次大極殿跡をとおり→法華寺
  • 満員のバスで近鉄奈良駅→古本屋めぐり→ホテル

5月3日

  • JRで桜井駅→バスで多武峰→談山神社→徒歩で山を下る
  • 石舞台古墳→岡寺→橘寺→弘福寺→万葉文化館
  • ここでレンタサイクルを使用→飛鳥坐神社→飛鳥資料館→山田寺跡
  • 奥山久米寺跡→大官大寺跡→元薬師寺跡→橿原考古研博物館
  • 近鉄で奈良へ→奈良博→アカダマ→ホテル

5月4日

  • 春日山遊歩道→月日亭→仏頭石→鶯塚古墳→若草山山頂
  • 奈良奥山ドライブウェイを歩いて→首切地蔵→春日山石窟→石切峠茶屋
  • 地獄谷石窟→柳生街道(朝日観音・夕日観音・寝仏)→頭塔
  • 璉城寺→十輪院→元興寺極楽坊→なら奈良館

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覚悟はしてきましたが、すごい人です。しかし、踏切で待たされる以外はスムーズに動けました。もっとも大極殿以外の施設の中は一切見なかったからでしょうが。

 

 

 

 

 

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大極殿はそれなりの大きさを実感できました。正面は吹抜のはずが、ガラスが嵌っていました。

 

 

 

 

 

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遷都祭のイベントでしょうか、法華寺本堂前に舞台をつくってインド舞踊の奉納です。 

 

 

 

 

 

 

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昔、談山神社から飛鳥に降りる道の途中に飛鳥を一望できる所があったのですが、道が変わったのか、そのような場所がありませんでした。 

 

 

 

 

 

 

 

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岡寺の本尊を横から間近に見てきました。台座は石でした。 

 

 

 

 

 

 

 

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興福寺南円堂前の藤棚は、ちょうど見頃でした。

 

 

 

 

 

 

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春日山遊歩道を歩くと、月日亭という料亭があります。紅葉の時はいいのでしょうが。 

 

 

 

 

 

 

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春日山石窟は、昔とくらべて心なしか崩れがすすんでいるようです。

 

 

 

 

 

 

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石切峠の茶屋。ここは昔とすこしも変わりがありませんでした。

 

 

 

 

 

 

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地獄谷石窟。今はずいぶんと楽に行けるようになりました。色彩がまだ残っていますが、もう少し保存を考えないと。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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頭塔のうちで、発掘調査で掘り出された二仏並坐像。

 

 

 

 

 

 

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璉城寺では、脇侍の観音菩薩像がなかなかの優作です。

 

 

 

 

 

 

 今回は久し振りの2泊の旅行なのに、貧乏性のせいかゆったりとはいきませんでした。おまけに、一日中歩き詰めで、もう足はパンパンになりながらそれでも歩き続けました。連日の晴天で、日焼けはするし、汗びっしょりでの苦行でした。このような交通の不便なところは、足腰の丈夫なうちに行かなければもう行けない、という脅迫観念での踏破でした。しかしまだ見落としがあり、もう一度行かなければというのが、今回の旅行の感想です。

仏像については、和歌山県博の仏像など、いくつか気になることがありました。これはまた整理してからご報告します。

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