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2010年9月

2010年9月29日 (水)

仏像の防犯対策

このところ、仏像の盗難についての話題が新聞をにぎわせています。

8月18日付の朝日新聞には、「地蔵・狛犬 各地で盗難」という見出で、小見出には「3年で105件 文化庁が初の調査」と書いています。要は、2007~09年度の3年間に盗まれた仏像の調査を文化庁が初めてしたら、すくなくとも105件あったという話です。

文化庁は、有名な仏像の盗難事件があるたびに各地方公共団体に防犯対策の通達をだしています。いまさら何をいっているの?という感じです。

すると、8月28日の中日新聞には、「文化財Gメンを新設 仏像・経典・・・盗犯増に対応」という見出の記事がでました。これは、“総合対策を担う「美術品危機管理対策専門官」を来年度に新設する方針で、警察や消防との情報交換や監視態勢づくりに乗り出す。” としています。

これも要するに、防犯防火対策のPR活動を積極的にしましょう。という話です。同様の記事は同日に東京新聞が、9月15日には読売新聞の関西版が記事にしています。

すると、和歌山では、9月15日から23日にかけて、たてつづけに仏像盗難事件が起きています。

そして、9月24日、奈良県明日香村の向原寺の観音菩薩像が、京都のオークション会社のカタログに載っていたのを、仏像研究者に発見され、寺はそれを買い取り、36年ぶりに寺にもどった。メデタシ!メデタシ! という記事がでました。

すると、間髪いれず、文化庁は9月26日に「無人寺社の防犯対策に補助金=仏像などの盗難多発でー文化庁」という見出の記事が時事通信からでました。

文化庁によると、「無人寺社の多くは収入が少なく、防犯設備の設置は難しい」という。こうした寺社は人の目が少ないこともあり、盗難の被害に遭いやすく、重点的に支援する必要があると判断した。そして、同年度概算要求に緊急対策費として5500万円を計上した。とあります。

いかにも、文化庁は迅速に対策を打っているという印象です。ところが、文化庁のHPを見ると、HOME>文化財>文化財の防火、防犯に関する通知について を見てみると、昭和41年から平成22年までに、16件もの通達が出されているのがわかります。“文化庁においては、過去に様々な通知を発出し文化財の防火、防犯対策の徹底等を図っています。”と懸命に仕事をしています。と言いたいのでしょうが、16件も通達をだしただけで、すこしでもその対策に効果がでたのですか?その検証はしたのですか?ということがまるで抜け落ちています。これでは、単なる言い訳をしているだけでしょう。

“文化財Gメン”を来年度から設置する、ということも、結局は、所有者(それは、地域でまもっている人々)に、金と労力をもっとつぎこんで防犯対策をやりなさい。と過去の文化庁通達を宣伝するための機関でしかないのでしょう。

文化財は金持ちや、拝観料をかせげる寺院が持っているのはごく小数です。大部分は、地域の文化を支える重要なものなのです。つまり、地域の文化を支えている人々に、身銭をきって防犯対策をしろとか、盗まれるのは、金をかけないからだとか、いえるのでしょうか。

また、金をかけて防犯カメラを取り付ければ、盗難に遭わないのでしょうか。たった5500万円でどれだけの無人の寺社に防犯カメラが取り付けられるのでしょうか。

以前拙ブログに、「防犯という考え方」という題で、書いておきましたが、泥棒は狙った獲物は逃さないということを、知った上で対策を練るべきです。文化財Gメンが防犯対策のPR活動をすること事態、むだなことではありませんが、それだけしかしないの?というのが疑問なのです。有名寺院でさえ盗難事件はおきているのですから。

向原寺の観音菩薩像が発見されてもどった事例では、結局被害にあった寺が、自分の所有していた仏像を買わなければならないハメになってしまったのです。しかも、仲介した京都のオークション会社(産経新聞ではこの会社名を公表しています)は、以前にも、盗品をカタログの表紙にかざっていた会社です。単に仲介しているだけなので、法律的に責任がないといえばそうでしょうが、その売買経路も不明だというのではいかにも不条理です。

しかも、文化財の防犯対策として、写真をとるなど、しっかりとした調査をしておくのも、もし盗難にあったとき有効になります。と文化庁はPRしています。たしかにもっともな話です。わたしもそのことを何度か書いてきました。

しかし、そこから先が問題なのです。文化庁はもし盗難にあったら、速やかに警察に届けなさい。写真もあったら提出すれば、取り戻す可能性が高くなります。というのです。

はたして、そうですか?そうなりますか?それなら、文化庁は盗難にあった仏像のリストを写真とデータ付ですぐに公表できますか?大体、盗まれた写真もデータも公表されていなければ、どれが盗品なのかわかるはずがありません。どうやって取り戻せるのですか?

おそらく、文化庁は防犯対策まではやりますが、泥棒を捕まえるのは警察の仕事だから、あとは警察におまかせなのでしょう。役所間の連携がまるでとれていない証拠です。

こんなのは、警察庁がHPで仏像盗難リストを作って、写真やデータを公表すればいいことです。そして、全国の古物商に取引する際には、必ずそのHPをチェックするように通達を出せばすむことです。仏像は2つとして同じものはないのですから。

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今年3月盗まれた、大阪・今養寺の大日如来坐像(重要文化財)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2010年9月25日 (土)

旧中込学校

Photo旧中込学校校舎は、長野県佐久市にあります。明治8年(1875)に竣工しました。

設計施工は地元の大工の市川代治郎でした。

この市川代治郎という棟梁は、一説によると、アメリカで西洋建築を学んだといわれています。しかし、明治の初めにアメリカに渡ったというのは、どうも違うようで、横浜あたりで修行したのではという憶測もあります。

この建物は、1階の出入口のランマ2個所と、2階の廊下突き当たりにある丸窓に色硝子がはまっています。また、その他の窓もこの時代ではめづらしく、硝子の窓にしています。

 

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この色硝子は解体復元修理のときに、新しく入れ替えたらしく、キャセドラルガラスのように、多少ゆがみがあるガラスを使用しています。ガラスを通して外の景色が見通すことができる程度の透明なガラスです。

もう一箇所の2階の廊下の突き当たりの丸窓も色を通して外が見えるガラスです。

たしかに、松本の開智学校では、窓すべてにガラス窓をつけていませんし、色硝子1個所だけだったはずです。

こんな田舎にこれだけ先進的な建物を建てた市川代治郎という大工は、やはりただものではないようです。

材料の調達も、ガラスを除いては、ほぼ現地の材料を使っていたようです。

 

 

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さて、この建物の前に資料館がありました。

中を覗くと、解体修理の時にはずした、創建当初の色ガラスが展示してありました。

おや!よく見ると、建具に飲み込んでいる部分は全くの透明になっています。

ガラスは清掃していないので、色がくすんだままになっていますが、どうもあやしい感じがします。

ひょっとして、この色硝子は透明ガラスに色を塗ったのではないのでしょうか。

ガラスの表面も、一般にステンドグラスとして用いていたいわゆる鋳造で作られたような凸凹な感じがありません。むしろ手吹円筒法でつくられた平滑な感じの表面です。

 

 

 

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その当時、これだけ大きな色ガラスの入手が不可能だったために、透明ガラスに色をぬったのではないのかなとおもいます。

これは、あくまでも、実際に見た印象です。「修理工事報告書」にも、そのことは何も書いてありませんでした。

2010年9月23日 (木)

宇野澤辰雄の世界

Photo やっとこの本を手にいれました。先月から予告はあったのですが、いつ発売されるかわからなくて、新刊本屋に日参していたのですが、ついに、堪忍袋の緒が切れて通販で買うことになりました。

そうしたら、発注してなんと、2日で届いてしまいました。これでは、新刊本屋さんは商売上がったりでしょうね。

この本は一昨年出版された『日本のステンドグラス 小川三知の世界』の第二弾となるものです。第一弾は、テレビの特番で脚光をあびた小川三知を世に知らしめた本として、注目をあびました。

今回は二匹目のドジョウをねらったにしては、ちょっともの足りないところがありました。

たしかに、写真はふんだんに掲載されていますし、硝子ならではのあざやかさや、デザインの新鮮さに対するおどろきは、以前にもましてありますが、何かすっきりしないものがあります。

宇野澤辰雄という人は、日本で最初のステンドグラス製作者であるのに、実際に手がけた作品は2、3点だったようです。つまり、この本に掲載されている33軒の建物に嵌っているステンドグラスは、その後の後継者が起こした会社での作品がほとんどということになります。

そこが小川三知と違うところなのでしょう。小川三知の作品は、小川自身が美術学校の出身なので、そのデザインに深く関与したであろうことは、想像できますが、「宇野澤ステインドグラス製作所」には、複数の職人がおり、その後、独立して別の会社をおこして、製作しています。この本に載っている作品は、いはば、宇野澤系の作品ということになるのでしょう。

Photoそんなで、この本に掲載されている33軒のステンドグラスの内、実際に見た数はまだ2桁にも及んでいません。当然、未公開の建物もあるので、すべて見るわけにはいきませんが、この本を見ながら、本物の想像をしていますが、こと、ステンドグラスは写真と実際に見るのとでは、雲泥の差がでます。それは、その時の外の天気による光の違いで、まるでその印象が変わってしまうからです。人工光を通してみるのでも、光源が違えば、全然印象が違って見えます。

この本の「あとがき」で、増田彰久氏は、2つのステンドグラスの紹介をしています。ひとつは、宇野澤辰雄の数少ない作品の「旧渡邊千秋邸(現トヨタ記念館)」です。この建物は非公開なので、見られませんが、もうひとつ新宿の伊勢丹のステンドグラスを挙げています。

 

 

 

 

Photo_2 このステンドグラスは以前にも紹介しましたが、屋上に上がる階段の躍場の窓に嵌っています。今でも、いつでも見られるステンドグラスです。淡い色調で、数種類の型硝子をうまくつかっています。

増田氏はこんなシンプルさに気品を感じていて、これが日本的なステンドグラスの在り方だと感じられてならない。といっています。

次は『大正、昭和期のステンドグラス』として、全3巻としたいと抱負を述べていますので、是非期待したいところです。

2010年9月20日 (月)

復元と模造と創造

Photo 三菱一号館は、昭和43年に取り壊しの上、一部移築という方針が決定され、解体されました。平成15年、所有者の三菱地所は、正式に三菱一号館の復元を決定しました。これは、丸ビルの竣工した後で、丸の内街区の全体的な整備の一環として考えられたもののようです。以下『三菱一号館 誕生と復元の記録』(『新建築』85-3 臨時増刊)2010.1.25)によって述べてみます。

さて、その計画は、竣工当時の図面や解体時の実測図、保存部材など多くの史料が残っていることから、竣工当時の忠実な復元をめざしました。

たしかに、現在の建築関係法令を遵守しながらの復元ですので、地下に免震装置を付けたり、防火区画の設置など、竣工当時にはない構造を付加してはいますが、構造体の煉瓦積は当初の施工方法に則った方法をとっているようです。

 

 

 

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たとえば、230万個の煉瓦は、当初の化粧面に近づけるため、中国で生産されたり、当初使われた石は、その原石が調達できないため、色が近いものを使い、さらにその仕上げのために、石工の多くいる中国に運んで加工したりしています。また、ガラスは、竣工当初の明治期では、手吹円筒法による製法しかなかったため、それを復元することはむずかしいので、丸ビルに嵌っていたガラスを解体時に取り外し保存していたのを使用しています。

たしかに、そういった意味では、“復元”しようという思想のもとに、行われた建築工事であることは間違いのないことでしょう。

しかし、これは、「建築」という分野にのみ通用する“復元”です。たとえば、正倉院宝物の復元は、その当時の材料と製作方法にできるだけ近い方法でおこないます。彫刻でも漆、金箔など、その当時の製法も復元した上で行います。

それほど、材料、製作工程に関しては、  “復元”のハードルは非常に高いはずです。また、彫刻で、欠失した個所を復元するには、それなりの根拠と説明が必要です。

そうでなければ、“模造”という概念も危うくなってしまうのです。彫刻を型どりして、プラスチックで本物と同じものを作れば、それは“模造”といえるのでしょうか。

Photo_3 “できるだけ忠実に復元しました”というのが、一番の曲者なのです。すべて当初の材料と技術で作ることは、実際のところ、現代ではむずかしいでしょう。そのとき、この部分は現代の材料あるいは技術で、“創造”しましたと明確に言えなければなりません。

それは、現在の技術力の限界だということを認識した上での発言です。それがないと、将来、修理あるいは復元ということがあった時に、役にたたなくなるのです。

三菱一号館の復元した建物のガラスは、丸ビルに嵌っていたものを転用していますが、そのほとんどはサッシ入れ替え時の昭和9年頃製作された硝子です。

明治期の手吹の硝子と、工場のオートメーションで作られた普通板(いわゆるS板)では、全然見た目も違うものです。普通板が今のフロートガラスよりゆがんでいるので、古そうな感じが出ていいだろうというのは、あまりにも乱暴です。

これは、いってみれば、阿修羅像を復元したけれど、奈良時代の台座が見つからないので、ちょうど江戸時代の台座がひとつ余っていたので、付けてみました。というのと同じです。そこのところは、もうすこしデリカシーがあってもいいのでは。

2010年9月16日 (木)

丸の内近代建築

くしくも、3棟の近代建築を丸の内で見てきました。

Photo

最初は、『三菱1号館』です。今美術館としてオープンしているので、その見学を兼ねてみてきました。もとの建物は明治27年、ジョサイア・コンドルの設計で建てられたましたが、昭和43年に解体されました。その後、平成21年、復元工事をして、現在のような建物となりました。建物の解体時には、保存運動がおこりましたが、結局解体され、その後、新たに建物を以前と同じように建てることしました。

これを復元というと、詳細の部分で問題がありますが、創建当初の設計図面など、史料が残っている上での、建築でしたので、おおざっぱには“復元”なのでしょう。

 

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1階のもと銀行の窓口だったところも、2階までの吹き抜け空間を利用して、ゆったりとした雰囲気を作った喫茶店として使われています。

なかなかレトロ感覚が出て、落ち着いた空間でした。

 

 

 

 

 

 

 

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丸の内の北口に近く、和田倉門の前には、『東京銀行協会ビル』があります。これは、もともとは、大正5年に竣工した、煉瓦造の建物でしたが、平成5年ビルの建て替えの時、外観のみ(厚さ7mの西壁と南壁)復元しました。ほんとに外観のみの復元ですので、いかにも薄っぺらな印象はぬぐえません。

 

 

 

 

 

Photo_4この東京銀行協会の通りを東京駅方面に行くと、『日本工業倶楽部』が高層ビルから突き出ています。この建物は大正9年、東京銀行協会ビルと同じ、横河工務所の松井貫太郎の設計で建てられています。しかし、この建物は、煉瓦造ではなく、鉄筋コンクリートで造られ、その当時のアメリカ式オフィスビルの典型としての外観です。

この建物は、それほどいじることなく済んでいるようです。ただ、三菱信託銀行ビルが覆い被さってしまったようになってしまいました。

 

 

 

Photo

この建物には、ステンドグラスがいくつも嵌っています。田辺千代さんの本によると、宇野澤ステンド硝子工場、別府ステインド硝子製作所、小川三知の3者が制作にかかわっていたということです。

私が見たところ、玄関のランマ、階段室の踊り場が4カ所、2階大会堂入口のランマと扉、3階大食堂入口のランマに3カ所ステンドグラスがあるようです。それぞれに、味のあるデザインをしています。

ステンドグラスについては、この近辺のものといっしょに、書くことにしますが、この3棟の建物は、それぞれに保存の方法、コンセプトが違って、比較には格好の材料のような気がします。

「三菱1号館」は全く無から、建物を作り上げましたが、「東京銀行協会」は単なる外観だけのごく薄っぺらな復元をしています。「日本工業倶楽部」は建物の内部もできるだけ残す努力をしていますが、外観のロケーションは妥協せざるを得なかったのでしょう。

この3棟の建物のどれが、復元建物として、よかったのかは、白黒のつける問題ではないと思いますが、長い目でみて、それぞれの、長所、短所はしっかりと検証すべきでしょう。

2010年9月12日 (日)

マフラーとストール

Photo  最近、若い人で、女性に限らず、男性でも取り入れているファッションに、首にゆるく巻いている細長い布があります。これを、マフラーと言ったらいいのか、ストールと言ったらいいのか、疑問に思っていました。名前がなければ買うにも不便であることは間違いのないことです。

デパートの中に入ると、売れ筋なのか、1階の目立つ所に展示していました。それには、「マフラー」と「ストール」の両方が併記してあります。

一般に「マフラー」といえば、毛織物など防寒用として使われる布なので、夏に着用するものではないという、先入観がありますが、こと流行に関してはそんな常識は通用しないようです。夏にマフラーをしたければ、涼しい汗を吸い取る素地にすればいいことで、現に、これを「コットンガーゼマフラー(ストール)」と言うのだそうです。

 

 

Photo_2 すると、先日、ジュリア・ロバーツが来日したときの空港のファッションが、クソ暑いときになんと首に厚いマフラーをして現れたのが注目をあびました。これは、調べてみると、ある有名ブランドの秋冬物のストールだそうで、欧米のセレブでは、流行しているファッションだそうです。

こうなると、マフラーとは?、とかストールとは?、といった定義は現代のファッションでは必要ないのかもしれません。

でも、ほしい人が、ネットでさがすにも、その名前がわからなければ、探しようがありません。今の購買者はそんなことは、聞けばすぐわかることとして、問題にもならないのでしょうか。あるいは、誰それが着けているものがほしい。と言えばわかるのでしょうか。

 

 

 

 

 

翻って、美術史とくに服飾史の分野で、このような布を着用してると、その名前が確定していないと、執筆者がそれぞれ適当な名前をつけて混乱してしまいます。

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唐時代では、披巾あるいは披帛という名であることは、以前書きましたが、もう一回首に巻けば、現代の使い方とまるで一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 日本でも同じような長さで、領巾(比礼)というのがあると、述べましたが、法隆寺五重塔の塑造(東11、西13)侍者像では、もうすこし短い布を使っているようです。しかも、単に首に掛けているのではなく、ちょっとシャレて端の一方を襟に中に入れています。何か、今流行のマフラー(ストール)のシャレた巻き方に共通しているようです。

これは、現代でいうと、マフラーなのでしょうか、それともストール?

こればかりは、現代のファッションと違って、名前なんてどうでもいいじゃない。という訳にはいかないのです。

すくなくても、それが使用されていた当時は、名前があったはずです。そうでなければ、不便でしょうがないのは言うまでもないことです。

わからなければ、現代でいうと“こういうもの”と表現してもいいのではないかと思うのです。

現代では、「スカーフ」なのに「肩布」といったり、「襷」なのに、これも「肩布」といったのでは、混乱するばかりです。また、腰帯は「腰巻ストール」といってもいいのではないでしょうか。

ところが、現代でも「マフラー」か「ストール」かが確定できないのでは、どうしようもないか。

2010年9月 1日 (水)

掲載文献から(その2)

まるまる一ヶ月ご無沙汰してしまいました。

暑いですねぇ。

そんな具合で、暑さで頭の回転がにぶくなってしまいました。お盆休みも5日あったのに、何の行動もなくひたすら、家の中で暑さに耐えていました。

というわけで、しばらくブログに力を投入していたため手薄になっていた『春秋堂文庫』の更新作業を、この夏は重点的にシフトして作業することにしました。とりあえず、この1年間収集した文献の内容の入力に明け暮れる毎日でした。

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やっと、なんとか69冊の入力を終え、1年ぶりに更新することができました。ヤレヤレです。
この1年間に収集した文献、単行本は、「地域別彫刻所載文献目録凡例」の更新履歴に掲載してありますが、最近の傾向は、やはり不況の影響で、地方自治体の発行が減少しているのが感じられます。

とくに、悉皆調査報告が、今回では、「小山市の仏像」ぐらいでしょうか。あきらかに自治体の予算不足の影響でしょう。

 

 

 

 

 

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その他も、論文集としての発行の量が少なくなっているようです。その中で、前田博仁『近世日向の仏師たち』という単行本が目に止まりました。この本はいわゆる地方出版の本です。タイトルに「仏師」としていますが、著者が書いているように、修験僧の造仏について取り上げています。木喰、大円、円立院、延寿院、快然とおそらく木喰以外は知られていない仏師でしょう。これらの修験僧の作仏を丹念に追っています。こういう地方に根付いた仏師の発掘作業はなかなか容易ではありませんが、地元の地の利を生かして、丁寧に調べています。
こういった、仏師の足跡や生活がわかると、少なからず日本の彫刻史におおきな影響をおよぼしてくると思うのですが、まだ時期尚早なのかな。

 

 

 

 

 

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 もうひとつ、めづらしく、史料を買いました。文献目録には掲載していませんが、『安祥寺資財帳』です。これは、平安前期の寺院史を研究する上で重要な文献で、いままでは、『平安遺文』に載っているくらいだったとおもいます。久し振りに原典にあたることができるというのは、新鮮な気分です。

 

一ヶ月も更新をしていなかったら、ご心配のメールをいただきました。

だいじょうぶ! まだ生きています。

これから読者の皆様に、あまりご心配をかけない程度に更新をしていきますので、あたたかく見守ってくださるようお願いいたします。

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