« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2010年11月

2010年11月28日 (日)

仏像の名称(その2)

Photo

 今月発行の『日本の美術』NO.535は伊東史朗著「京都の鎌倉時代彫刻」という題でした。
今回は、鎌倉時代の彫刻を地域別に分類してシリーズ化したはじめの本のようです。

次回は奈良の鎌倉時代彫刻、そして、東国の鎌倉時代彫刻とつづくようです。
いわゆる、メジャーな仏像のみをとりあげるのではなく、きめ細かく仏像をとりあげるこのシリーズは期待がもてる企画だとおもいます。

さて、ざっと読んでいて、アレ!と思うことがありました。
写真のキャプションに、「坐像」、「立像」が書かれていないのです。例えば、「地蔵菩薩像」「阿弥陀如来像」のように、仏像の種類のみの名称の付け方を採用しているのです。

これは、以前にも書きましたが、『基礎資料集成』方式とよばれる記述方法で、仏像の「種類」のみ記述する方法で、「材質」+「種類」+「形状」という『指定名称』方式とは違う記述方法です。
この記述方法は、一般の論文等では、『指定名称』を採用しており、この『基礎資料集成』方式は、ほとんど使われていません。何故、伊東史朗氏は、この雑誌でこの名称の記述をしたのでしょうか。
伊東氏は今まで、この『日本の美術』シリーズでは、7冊執筆しています。以下掲げておきます。

 「薬師如来像」 NO.242 1986.7.15
 「狛犬」 NO.279 1989.8.15
 「弥勒像」 NO.316 1992.9.15
 「八部衆・二十八部衆」 NO.379 1997.12.15
 「平安時代後期の彫刻」 NO.458 2004.7.15
----------------------------------------
 「十世紀の彫刻」 NO.479 2006.4.15
 「京都の鎌倉時代彫刻」 NO.535 2010.12.10

最初の「薬師如来像」から「平安時代後期の彫刻」までは、材質を除いた『指定名称』方式を採用していましたが、「十世紀の彫刻」になると、とたんに、『基礎資料集成』方式を採用したのです。しかし、この号では、「表紙解説」P86の三軀のみ、「千手観音立像」「地蔵菩薩立像」「普賢菩薩騎象像」と形状(坐勢)も記述しているのです。おそらく、校正ミスか、そこまで、目が行き届かなかったからでしょうか。

そして、「京都の鎌倉時代彫刻」では、表紙解説からすべて形状(坐勢)の記述はなくなって、完全に『基礎資料集成』方式になっています。
名称の記述方法の変更に関して伊東氏は、「十世紀の彫刻」でも、そのことを説明していません。まして近刊の「京都の鎌倉時代彫刻」でもふれることはありませんでした。

伊東氏がこのような名称記述の変更を行った背景は、以前にも書きましたように、「踏下像」の跋扈と遠からず関係があろうかとおもいます。ここでまた繰り返すことは差し控えますが、すくなくとも、仏像の名称の記述方法を変えるのなら、その説明をするのが基本でしょう。それがくりかえされると、さまざまな名称の記述が作り出されてますます混乱することは必至です。

いわゆる、“モノ”の名称を記述する方法は、複数あっていいものではありません。別称というのは、また別の次元の問題であって、公式な名称はその記述方法を決めておかなければなりません。
たとえば、美術品の他の分野でいえば、工芸では「色絵花鳥文八角有蓋壺」というように「絵付方法」+「文様」+「形状」+「種類」という記述方法で記述しています。絵画でも、「風神雷神図屏風」のように「主題」+「形状」といった既定の記述方法で、その分野ではおおむね合意がなされているようです。

ふりかえって、このように、モノの名称の記述がバラバラなのは、美術作品の中で、彫刻だけなのではないでしょうか。
そのことの解決策として、「種類」だけの記述という『基礎資料集成』方式を採用して論文の記述をするのは、ただ問題を先送りにしただけの話で、何の解決にもなっていません。他の美術作品の記述方法とは、明らかに後退した不親切な記述方法です。モノの名称にはどういう役割を持つものなのかの思慮が欠如しています。また、他の美術分野と同じ記述方法を採用するためには、「半跏像」の定義も定かでなかったり、「踏下像」なる用語を何の定義もなく使ったりと、まるで統一がとれていない状況では、仏像の形状の記述も不統一にならざるをえません。

論文の執筆者は、自らがその表現に責任を負うものであるから、表現方法が違っても当然であるという理屈や、いずれ時が過ぎればある一定の表現方法に収斂していくだろう、という気の長い議論は、学界という団体がいかに機能していないかの証拠でしょう。
“モノ”の名称がバラバラなことの弊害が、端的に現れているのは、データベースの分野です。ここでひとつその例をインターネットであげておきましょう。

まず、「文化庁ホームページ」を開きます。
その中に「国指定文化財等データベース」をクリックしてください。
「条件を指定して検索する」の欄の「名称」の項目のところへ、“観音菩薩”と入力して、検索ボタンをクリックしてください。
“観音菩薩”像のリスト57件がでてきました。この中に“観世音菩薩”像はありましたでしょうか。“観世音菩薩” の名称の仏像19件と典籍1件が抽出モレをしているのです。

これは、仏像の名称を統一して入力していなかったために起こった問題です。グーグルや、ヤフーは強力なシソーラスが組み込まれており、“観音菩薩”でも“観世音菩薩”でも同義語と認識できるようになっています。しかし、文化庁の造ったこの程度のデータベースでは、新旧漢字のシソーラスもないために、旧漢字で入力してもヒットしません。まして“観音菩薩”と“観世音菩薩”なんて及びもつきません。
つまり、これは、シズテムソフト上の問題以前に、仏像の名称の統一基準をつくらなかったことが、第一義の欠陥なのです。

データベースシステムの抽出作業において、データの重複あるいはゴミはある程度受認されますが、抽出モレは致命的欠陥です。
このように、仏像の名称の不統一は、学問の発展に重大な障害を引き起こすのです。いや、もう引き起こしているのかもしれません。そのことを研究者は真摯に受け止めなければいけません。

文化庁の『国指定文化財等データベース』については、他にいろいろ言いたいことがありますが、まずは、読者の皆様、文化庁にアクセスしてぜひその使い心地を試してください。役所が税金に見合ったサービスをしているのかどうか、しっかりと検証してみてください。

参照ブログ

 ・仏像の記述 (2008.07.06)
 ・仏像の名称 (2008.07.09)
 ・『踏下像』考 (2008.08.07)
 ・『遊戯坐像』考 (2008.08.09)
 ・『半跏像』考 (2008.08.13)
 ・『坐勢』考 (2008.12.24)
 ・シソーラス (2008.12.31)
 ・検索キーワード (2009.01.06)
 ・霞ヶ関界隈 (2009.05.19)
 ・『坐像と半跏像』考(2009.08.23)
 ・半跏趺坐考 (2009.12.23)

2010年11月22日 (月)

早稲田大学33号館

今日(11月22日)から、早稲田大学文学部33号館の解体工事が着工されたようです。

Photo

2007年には、中の研究室が引越をして、そのまま使われないままになっていましたが、やっとのことで、33号館(通称国連ビル)の解体工事が着工という運びになったそうです。

早稲田大学文学学術院HPによると、解体完了は2011年4月頃だそうです。そして、およそ5年かけて、高層棟と低層棟の建替工事が行われる予定だそうです。

そして、その計画がすこしずつ明らかになってきました。このHPには高層棟の完成イメージとしてイラストが4点掲載されています。高さが今より高くなっているのかは、よくわかりませんが、以前のマッチ箱のような形状ではなく、直方体の形状になっているようです。

全体の外観イメージは以前の建物から大きく変わることはないようです。というよりも、あまりにも最近どこにでもあるようなおとなしい設計イメージです。

ちょっと、個性がないかな、といった感想をもちました。もっとも、村野の設計から大きく変えることじたいむずかしいことなのは、理解できますが、それにしても、誰が基本設計にかかわっているのかの公表ぐらいはしてほしいものです。

Photo_3

以前、美学会で、この建物の内部を見学させてもらいましたが、高層棟の1階の壁にあるモザイク、便所の目隠し壁のモザイクなど、どうなるのでしょうか。

現実には保存はむずかしいとおもいますが、何らかの形で記録に残すことはできるとおもいます。

 

 

 

 

Photo_4

 

 

 

 

 

 

Photo_5

それよりも、以前、内部を見学したとき、気になった部分がありました。

それは、便所の壁の上部に明り取りとして、樹脂の塊に2つの大きな穴をあけて、ブロックのように積み上げた開口部があったことです。

このような素材そのものも、いままで見たことがありませんし、まして、ブロック状の樹脂(アクリらしい)に穴をあけるという技法も大変めずらしいものです。(穴を開けて成形したものではありません。)

しかも、このようなデザインを誰も注目していないようなのです。この素材は解体工事で跡形もなくなってしまう運命になるのでしょうか。

Photo_7

もうひとつ、解体で気になることは、以前のブログでも書いておきましたが、玄関に嵌っていたアートブリックです。もうすでに、エレベーターホール側の1ヶ所は解体されてしまいましたが、もう1ヶ所の中階段の踊り場にあるアートブリックはどうなったのでしょう。

このアートブリックについては、カガミクリスタル社の市販品だと言いましたが、この早稲田大学に嵌っているアートブリックはちょっと特殊な製法で造られているのがわかりました。

このアートブリックの製法は、以前大森の工場で見学したことがありますが、まず、金属の箱に溶けた硝子を流し込み、それを徐冷して造ります。ですから、普通は、表面は火づくりの平らな面になります。この早稲田のアートブリックは、表面を硝子が固まる寸前に、棒のようなものでかき混ぜて、模様をつけているようです。

他の施工例を見ても、このような模様がついているアートブリックは見たことがありません。

 

 

 

 

 

 

Photo_6

これが、村野の指示によってこのような模様が造られたかどうかは、その当時カガミクリスタルの担当者と工場で作業していた人をさがしてみないとわかりませんが、非常に特殊な形状であることは間違いありません。

しかも、アートブリックのカタログでは、その形状はすべて長方形と直角のはいった台形で、形が二等辺台形の形は載っていません。おそらくこの建物のために特注で、型をつくったのかもしれません。

つまり、このアートブリックはかなり貴重な逸品です。産業技術史資料として、せめて、解体前に、二等辺台形の1枚でも確保して保存してほしいものです。

2010年11月18日 (木)

三都紅葉狩の旅(第二日目)

14日

  • 朝7:30AMより歩きはじめ→奈良女子大学→聖武天皇陵→
  • 多聞城→転害門→正倉院大仏池→講堂跡→大湯屋→
  • 二月堂→法華堂→手向山八幡宮→春日若宮→若草山麓→
  • 水谷茶屋→春日奥山→仏頭石→春日大社→不空院→
  • 新薬師寺→浮見堂→飛火野→浮雲園地→奈良博→
  • 興福寺五重塔→東金堂→奈良より別れをつげ大津へ→
  • 園城寺光浄院→京都にもどって→妙法院門跡→京博→
  • 京都駅→帰京

朝は早目に食事をすませ、近鉄奈良駅で荷物を預け、北の方角に歩きはじめました。

Photo_2

まづは奈良女子大の横を通り抜け、聖武天皇と光明皇后陵へ、それから、坂をのぼり、多聞城跡へ、しかし、ここは学校になっていて、中には入れず。転害門をすり抜けると、正倉院の前にある池に着きます。

この池もまわりには、オオイチョウや、ナンキンハゼの木があり、東大寺の中で隠れスポットのようです。

 

 

 

 

Photo_3

そこから講堂跡をとおりぬけると、右に大湯屋がみえてきます。この前にはオオイチョウが空たかくそびえていました。

 

 

 

 

 

 

Photo_4

二月堂に登ると、目の前に、四月堂と開山堂が見えます。

法華堂は、今、須弥壇の改装中で、礼堂のところに、仏像を出して見せています。正面には吉祥天立像、その両脇には地蔵菩薩坐像と不動明王三尊像、その両脇に日光菩薩、月光菩薩像、両端には梵天帝釈天像を安置していました。
梵天帝釈天は奈良博の金剛力士像と同じく、その大きさと迫力に圧倒されます。日光・月光菩薩像はみじかに見ると、かなり修理されているようで、奇麗な像容をしていました。
吉祥天立像も、かなり破損しているイメージでしたが、それほどでもなくその立体感を感じることができました。

Photo_5

そして、手向山八幡宮から、若草山の麓を歩いて行くと、若草山は桜の木が紅葉しており、緑とオレンジのコントラストがでていました。

 

 

 

 

 

 

Photo_6

そして、水谷茶屋にたどり着くと、残念ながら、ここは紅葉はまだでした。もみじはいまだに青々としています。あと1~2週間後でしょうか。

 

 

 

 

 

 

Photo_7

そこから、春日奥山にちょっとだけ踏み込んでみましたが、ここもまだのようです。
奈良1300年祭で、開帳している不空院へ。不空羂索観音像を拝観してきました。
ついでとはなんですが、近くの新薬師寺へ。

 

 

 

 

 
Photo_8浮見堂へ。人力車のあとをついていくと、ここの絶景スポットを教えてくれました。

 

 

 

 

 

 

Photo

飛火野は、おもにナンキンハゼが紅葉していましたが、もう散り始めていました。

 

 

 

 

 

 

Photo_2

そして、奈良で一番の紅葉スポットは浮雲園地でしょう。もみじ、イチョウ、ナンキンハゼと青葉のコントラストは絶景でした。

奈良博は、なら仏像館へ、受付で写真を撮りたいと告げると、腕章を差し出し、注意書を読まされ、許可をもらいました。ただし、撮影可能なのは館蔵品のみで、そのほかは禁止でした。

日吉館の跡地では、基礎工事が進んでいました。来年草々には形になっているのでしょう。

 

 

Photo_3

いそいで、近鉄奈良駅にもどり、三条にでて、京阪で三井寺へ。昨日大津市立歴史博物館で、光浄院客殿の公開を今日するというポスターを見て、急遽の大津行です。
光浄院客殿は、同じく園城寺勧学院客殿と同様で、書院造の初期的な建物です。建物じたいはそれほど大きくはありませんが、書院造の典型が各所に見られるといったいはば通ごのみの建物です。
ある大学がこの公開に関与しているようで、学生と教師とおぼしき人が説明をしていました。ところが、門を入って建物の写真を撮ろうとすると、撮影禁止だというのです。中にはいると、その禁止だと注意した説明員とおぼしき人が、縁側にすわっている仲間の記念撮影をしているのです。しかも、私の目の前に坐って。どういう神経をしているのでしょう。

Photo_4

そして、京阪で、七条にもどり、昨日の京都非公開文化財特別公開のひとつである妙法院門跡へ。さすがに、門跡寺院だけあって、庫裏の天井の高さ、庭も広く、何故普段でも公開しないのか不思議です。
別棟に安置してある普賢菩薩像を見てきました。

 

 

 

 

Photo_5

まだ時間があったので、京博へ、特別展の『高僧と袈裟』は地味な展覧会でしたが、もっとじっくり見たかったのですが、体力も限界に近づいて、入口の喫茶店でしばしの休憩をしました。
京博は開館時間が6:00までなのがうれしいですね。返りの新幹線の時間待ちには最適な所だと発見しました。

2010年11月15日 (月)

三都紅葉狩の旅(第1日目)

 13日14日と旅行に行ってきました。例によって旅程は以下のとおりです。

  • 13日
  • 京都→瀬田→バスで滋賀県立近代美術館・・・『白洲正子 神と仏 自然への祈り』展
  • 瀬田→膳所→京阪→別所→大津市立博物館・・・『大津国宝への旅』展
  • 京都地下鉄東西線→蹴上→南禅寺(南禅院・本坊・三門・水路閣)
  • 地下鉄で四条烏丸→大行寺→佛光寺→平等寺
  • 歩いて→西本願寺(飛雲閣・経蔵)
  • 近鉄で奈良→アカダマ→泊

とりあえず第1日目は、大津・京都を回りました。

まず、『白洲正子 神と仏 自然への祈り』展は、来年には世田谷美術館で開催されますが、その前にどうしても見ておきたかった仏像がありました。33年ごとにしか開帳しないという観菩提寺の十一面観音立像です。確かに異様に頭の大きい仏像です。私は、天衣の表現に注目しました。どうも天衣の端が見あたらないのです。ということは、両手第2手の腕にかかるはずなのに、その第2手にはその痕跡がないのは、おそらく後補なのではとおもわせます。

Photo

そのほかに、旧白洲正子蔵の十一面観音立像は、化仏の顔をまるで彫っていません。いわゆるノッペラボーなのです。これは単に、未完だとは思えません。

カタログが箱に入っていました。中はテーマごとに白洲の文章と図版が掲載された冊子が綴じないで入っていました。

近代美術館のあるびわこ文化公園≪文化ゾーン≫の日本庭園の紅葉は今が見頃でした。

『大津市国宝への旅』展では、新発見の清水寺式千手観音画像がありました。求法寺蔵と比較できるように並んで展示されていました。これで、画像では13例目になります。

以前のブログに画像のリストを掲載していましたが、それを更新しておきました。

Photo_2

南禅寺は、京都有数の紅葉の見所なので、本当の京都の紅葉を見たかったのと、以前見落として心残りだった、水路閣を見ることでした。

人が多くでていましたが、さすがもみじの紅がすばらしい色を見せています。またところどころにあるイチョウの黄と青葉とのコントラストの妙はさすが京都の紅葉のすばらしさを満喫しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3

三門に上がると、全山の紅葉が織りなす景色は絶景です。

 

 

 

 

紅葉を充分堪能して、地下鉄に乗り、京都の町の中に入りました。

 

京都古文化保存協会が毎年開催している京都非公開文化財特別公開が14日まで行われていて、そのうちの、下京区にある寺院を3寺訪れました。

まずは、大行寺は快慶の阿弥陀如来立像。遠くてよく見えません。

佛光寺は、市内ではかなり大きな寺院です。本尊の横に厨子に入った聖徳太子立像がありましたが、これもよく見えませんでした。

Photo_4

平等寺は本堂横の土蔵に薬師如来立像があり、これはよく見えました。

 

 

 

 

時間があったので、西本願寺へ。飛雲閣は建物なのに、写真は厳禁ということは知っていたので、あまり期待はしませんでしたが、一見にしかずということで、見てきました。まあ、写真通りということでしょうか、経蔵の渡邊康雲作、傳大士、普建普成像が注目でした。

この京都非公開文化財の公開は学生が説明と監視役をしています。それぞれの寺でスケッチブックを片手に初々しい説明をしていました。それぞれが、調べて説明方法を考えたのでしょう。

でも、一様にその寺の歴史は語りますが、仏像の像容について特徴・見所といった説明がありません。なかなかその道の専門家の指導が得られなかったのでしょうか。

Photo_5

飛雲閣は、隣の興正寺からは、裏側がよくみえます。てなわけで、バッチリと撮ってきました。

第2日目につづく。

2010年11月12日 (金)

桜紅葉

そういえば、桜は落葉樹です。したがって、その葉は寒くなると枯れて落ちてしまいます。とすると、桜も落ちる前に紅葉するのです。こんなことが気がつきませんでした。

桜というと、春の花の華やかさだけかと思っていましたが、これだけ、都内に桜の木があるのに、桜紅葉のあでやかさが話題にのらないのは何故でしょうか。

Photo_6

というわけで、まずは谷中の墓地に行ってみました。 たしかに、桜並木はオレンジ色になっているところもありましたが、同じ木の中でまだ青葉もあって、真っ赤に染まるという景色にはなっていませんでした。

というのも、場所によって紅葉するところが違っていて、もう枯葉として落ちていたり、青葉があったりで、めりはりのない景色になっているからなのでしょうか。

 

 

 

Photo_7

つぎに、上野公園の桜並木を見てみると、どうもぼやけています。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_11

 

 ついでに、東照宮に行ってみると、唐門のうしろにある本殿がシートに絵で描かれていました。何だとおもったら、足場に掛けるシートに本殿の写真を原寸大で表していたのでした。これはスゴイ! ちょっと見ると本物と間違うほどです。

 

 

 

 

 

Photo_8 ところが、不忍池におりてみると、ここの桜並木は一斉に紅葉していました。とくに、中の通路と、ボート池のまわりは、いまが見頃です。

もみじの赤やイチョウの黄の色づきとちがって、桜紅葉は、オレンジがかった赤で、ちょっとくすんだ感じが、いまいちの感がありますが、それはそれで、紅葉としてもっと、愛でてもいいのではないでしょうか。

 

 Photo_9

Photo_10

 というわけで、今のスカイツリーと弁天堂とのツーショットということで。

2010年11月 7日 (日)

貨物フェステバル2010

最初に言っておきますが、私は“鉄ッチャン”ではありません。

Photo_7

先週の土曜日(6日)に、JR貨物隅田川駅で、『貨物フェスティバル2010』を1日だけ開催していました。

いつも外から眺めていますが、その中のようすがどうなっているのか興味がありました。

むかし、国鉄だった頃、車庫の建物の新築工事で硝子をいれましたが、その建物はずっと駅よりで、まだその建物はありますが、その当時は全然鉄道なんて興味がありませんでした。

もっとも仕事で中にはいったので、すべて見られるわけでもありませんが。

フェスティバルというからには、きっと機関車が動いていたり、と、昔の万世橋にあった子供の頃の遊び場だった鉄道博物館を想像していました。

中にはいると、コンテナの間をすり抜けると、これまたコンテナを並べて、それを一面解放して、展示スペースや、販売所にしていました。

 

 

 

Photo_8 

このフェスティバルの目玉は電気機関車の展示でしょう。

1台は、EF65 535 でブルートレインを引っ張った車両で、もう1台はJR貨物の専用電気機関車 EF210ー161 だそうです。

わざわざ架線のない引き込み線にもってきて展示しています。

 

 

 

Photo_9

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_13

 

 

 

EF65 はもう一方の正面には、最後に走ったときの“惜別”のプレートがついていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_10

もう1方のEF210は最新の機関車のようで、通称“桃太郎”というのでしょうか、なかなか精悍なデザインです。

 

 

 

 

その他というと、“鉄ッチャン”むけに、鉄道の部品(といってもガラクタにしか見えませんでしたが)を売っていたり、高いものはオークションをしていました。

Photo_11

ナンバープレート EF15 105 では、最低価格30万円からということで、入札をしていました。いくらで落札したのか見ていると、31万円でした。

かなり重そうな感じでしたので、鋳物でできているのでしょうか。

それにしても、“鉄ッチャン”は金持が多いようで、JR貨物もウハウハではないでしょうか。

 

 

 

Photo_12

むしろ、私が興味をもったのは、コンテナを運ぶ専用のフォークリフトです。むかしアルバイトで、フォークリフトを動かしたことがありましたが、こんなデカイフォークリフトを動かすのは、きっと気持ちがいいのではと思いました。子供が順番に並んで、運転席に坐らせてもらっていましたが、まさか、こんなオジサンが並べないのでやめましたが。

 

 

 

 

Photo_14

返り道は“モミジバフウ”という街路樹がもう紅葉していました。まだ完全には紅くなってはいませんが、確実に紅葉狩りの季節となりました。

来週の京都・奈良がたのしみです。

起雲閣(その2)

根津嘉一郎が建てたもうひとつの建物は、金剛の間とローマ風浴室です。

Photo

まづ、金剛の間の前室に入ると、天井は、切妻になっていて、そこにステンドグラスが嵌っています。

床にはタイルを敷いていて、いわゆるチューダー式の意匠をしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2

金剛の間の間仕切りの両側にステンドグラスのハメコロシが同じデザインで嵌っています。

中央の開いている部分には、扉はもともとなかったようです。

 

 

 

 

 

11

これも、玉渓の間のステンドグラスのように、花の模様で、華やかな感じをだしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo

金剛の間の、暖炉の両脇の上方に、両脇に2個所づつ、ステンドグラスの窓があります。

このステンドグラスは、今までと打って変わって、中国風のデザインをしています。

この窓の外側が廊下になっているため、外からの光が入らないので、次の写真は廊下側から撮ったものです。

 

 

21

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2

そして、梁や柱には、彫刻で模様を彫って、部分的に象嵌をしています。

部分的に見てみると、玉姫・玉渓の間のように、和・洋・中の玉石混交となっています。

こういった何にでも取り入れてしまうというのは、根津が非常に好奇心がつよい性格だったからなのでしょうか。

 

 

 

Photo_3この窓は、現在の洗面脱衣室にあるステンドグラスの丸窓ですが、これは、新しいようです。

創建当初の図面では、現在と脱衣室の位置が違います。また、この建物はもともと独立した建物なので、玄関や、和室がついていました。その部分は改装しているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

ローマ風浴室の窓は、この写真のように曲面になっている窓と、その横に平面でやはり3連の窓がついています。合計6個所のステンドグラスはすべて同じデザインで統一されています。

この窓は上げ下げ窓になっており、両脇の窓枠のなかに重りをつけて、そのバランスで開けられるようになっているものです。

 

 

 

Photo_5

ところが、この写真の窓は窓枠自体が浅い曲面になっており、したがって、ステンドグラスも曲面になっています。

こういった曲面のついた建具を造ること自体、高度な技術が必要です。両脇の溝の中に建具を滑らせないといけないので、ちょっとしたソリも許されません。

また、ガラスもその曲面になった、溝に収まるように組み上げなければならないので、技術的にもむづかしい仕事です。ガラス自体は曲面ではないのですから。

 

 

 

 

 

Photo_6

今回は、暴風雨の中だったので、広い庭から眺めることができませんでした。もっと季節のいいときにでも、近くの双柿舎といっしょにまた訪れようとおもいます。

 

 

 

 

2010年11月 3日 (水)

起雲閣(その1)

Photo

 起雲閣の歴史を簡単に述べると、

大正8年(1919)内田信也が麒麟・大鳳の二階建の建物と、孔雀という平屋の建物を建てました。この2棟は日本の伝統的な建物です。

その後、根津嘉一郎が、大正14年(1925)に内田から買い取り、昭和4年(1929)に金剛・ローマ風浴室を竣工させ、昭和7年(1932)に玉姫・玉渓の棟を竣工させました。

根津は、昭和19年に桜井兵五郎に売却し、桜井は昭和24年(1949)に起雲閣として旅館の経営をはじめました。旅館の営業中は、いくつかの建物を建てています。

平成11年(1999)に旅館を廃業し、熱海市が土地建物を購入し、貸し部屋・ギャラリーとして整備して、一般公開をしています。

旅館時代に何度か宿泊していますが、その当時とあまり変わってはいないようです。敷地の中心は広大な庭になっており、そのまわりを囲むように建物があり、それを廊下でつないでぐるりと一周できるようになっています。

さて、内田時代の建物は、純粋な和館ですが、根津時代の建物は実にユニークな様式を表現しています。

Photo_2

まずは、玉姫の間。最初に部屋に入ると、床がタイル貼りで、天井一面にステンドグラスが嵌っているサンルームにはいります。

これだけ広い面にステンドグラスを嵌めようという発想がすごいです。

硝子は色硝子はキャセドラル硝子を用い、透明部分はカスミ柄の型硝子を使っているようです。

 

 

 

Photo_3この天井の上の屋根はどうなっているのかが気になり、となりの麒麟の棟の2階の大鳳の間から見ると、鉄骨で組み上げたトップライトに透明ガラスを嵌め込んでいました。

 

 

 

 

 

Photo_4

 サンルームと隣の玉姫の間のランマにもステンドグラスが3カ所嵌っています。中央部はオパールセントグラスのようです。しかし、この裏側すなわち、玉姫の間の側には、格子状の装飾があり、内側から光を通して見られないようになっていました。

 

 

 

 

Photo_5

もっとも、この玉姫の間は、天井は折り上げ格天井ですし、長押の上には、斗栱と蟇股があり、寺院の装飾です。それでいて、洋室になっているとは、実に玉石混交な装飾になっています。

 

 

 

 

 

Photo_6

サンルームから次の玉渓の間に入ると、そこは、柱を斧で模様をつけて、いわゆるチューダー様式を取り入れているようです。

暖炉の向かって左側に、円くて太い柱が鉄輪で巻かれていますが、何かいわれのある柱だったのでしょうか。よくわかりません。

 

 

 

 

Photo_7

出窓の横には、ステンドグラスの窓があります。

このステンドグラスは花をモチーフにして華やかなデザインをしています。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_8

さて、その暖炉の上にある仏像のレリーフです。

石造のようですが、よくわかりません。様式は唐時代のようです。しかし、両脇侍像はそれぞれが、片足を垂下していますが、両尊像も垂下した足は本尊側になっています。

何かおさまりが悪そうなので、調べてみますと、日本の仏像の三尊像では、長講堂像と長岳寺像が両脇侍を片足垂下させています。

しかし、両者とも垂下している足は、中尊の外側になっています。このほうが見た目もおさまりがいいようです。何故このレリーフが逆になっているのかわかりません。

もっとも、立像の両脇侍をいれて三尊なので、片足垂下像は別で、あるいは五尊像の内にいれるということなのでしょうか。それとも、中国ではこのような例があるということなのでしょうか。よくわかりません。

Photo_10

もうひとつこのレリーフで気になったのは、脇侍の上にある屋根の意匠です。

人字束があります。法隆寺再建非再建論争のとき、村田治郎はこの人字束が唐時代になると、曲線になることを主張していました。

とすると、これは唐よりも前の時代なのでしょうか。

その下の格狭閒の形式も検討すべきかもしれません。

 

 

 

Photo_9

この玉姫と玉渓の建物の外観は、一見、普通の和館のようにみえますが、柱には斧で装飾をほどこし、欄干までつけています。

実に不思議な建物です。

根津嘉一郎が造ったもうひとつの建物については、次回にまわします。

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ