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2011年6月

2011年6月25日 (土)

東京国立博物館の彫刻

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 東京国立博物館の常設展を見てきました。彫刻室にはいると、入口には、四十八体仏のひとつ1光三尊像がありました。

今回の常設展の彫刻のチョイスは、銅造をとりあげていたようです。善光寺式三尊、那智経塚出土観音菩薩像、など、数点がありました。

もちろん木彫像もありましたが、今回は、館所蔵品が多く、撮影可がいつもより多くありました。

もっとも、場内は照明をかなり落としているので、なかなかうまく撮れません。

おまけに、いつもスケッチをしているオジサンがいて、近くで写真をとろうとすると、どなりちらすので、ゆっくりと見ることができません。

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善光寺式三尊像は、2階にも、いわき市の旧如来寺像があり、合計3件の善光寺式像が見られました。

いわゆる、おなじ見本でつくられているのに、細部ではこうも違うのかといつもおもいます。

 

 

 

 

 

 

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 脇侍の宝冠の模様も正面の水瓶、化仏はおなじでも、横の模様は違っています。

その他、気がついたことが何点かありました。

四十八体仏の三尊像の光背には、蓮華化生の仏像の表現がありました。

 

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また、康円作の文殊五尊像の、文殊菩薩像の光背には、左右に迦陵頻伽が彫刻されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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以前、書いたことがある、不動明王立像の腰巻ストールについて、よく見ると、2枚着けているようです。あるいは、1枚を折り返しているのかもしれませんが、こういう例はやはり、見たことがありません。

これが、鎌倉時代になると、大報恩寺像のように腰布をして、さらに、腰巻ストールを着けるという着衣になるのでしょうか。 よくわかりません。

2011年6月11日 (土)

阿修羅の天衣

南亭琴音袮氏のブログに、『天平の阿修羅再び』という本の紹介がありました。

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そういえば、本はすでに買ってありましたが、まだ読んではいませんでした。それで、パラパラめくっていると、松永氏が阿修羅像の模造を製作するにあたって、最初の注文は現状模造だったのに、当初の赤い極彩色を復元した後、古色づけをする予定をやめて、そのままで押し通した。と書かれていました。

編著者のコメントには、

「この阿修羅像の模造は、模造事業が現状模造から復元模造へと替わっていくきっかけになったということで注目された。

とあります。

この阿修羅像は「復元模造」なのでしょうか?なにかひっかります。

松永氏は、この阿修羅像の復元率は100パーセントではないにしても、一つの提示になるのではないか、

と書いていますが、いったいどこが、100パーセントでないのかが、書いてありません。

思うに、阿修羅像の二本の腕は、新納忠之介が明治年間に新たに付けたものです。いはば、松永氏は、新納忠之介の復元の模造をしたのです。

100パーセントでないと、松永氏が言うもうひとつは、想像するに天衣の復元ができなかったことだと思います。

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天衣は、肩にかかる部分にのみ残っていて、両肩から前に垂れるはずが、肩のうえで切れています。

結局、この天衣がどう垂れていたのか、まるで想像がつかなかったために、復元をとりやめたのでしょう。

ということは、極彩色の赤は、復元しましたが、天衣は復元できませんでした。ということなのです。

「復元模造」で、思い出すのは、森川杜園の模造した、法隆寺九面観音像です。

この像は、頭頂の仏面の復元をしています。また、耳朶の穴が現状ではかなりうすくなっているのを、当初の形状にもどしています。

まさに、本物が製作された当初の像を作り上げたのです。

こうなると、模造と本物の違いがわからなくなってしまいます。いはば模造は贋作と紙一重なのです。

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では、模造と贋作の明確な違いは、何なのでしょうか。製作段階での、取り組む意識が違うという、精神的な問題なのでしょうか。

「永仁の壺」事件のように、昔の技術の習得のために、「模造」製作をしたとしても、製作者の手から離れれば、製作者の意図などどこにも作品に現れてきません。簡単に贋作となり得るのです。

そのことを、修復技術者は、そうならないための仕組みを考えているのか、とても危惧しています。

そうならないための仕組みは、徹底的な情報公開にしかありません。模造、修復に際して、材料、技法、製作工程など、すべて公開することなのです。

修復技術者は、いわゆる創作者とふたつの役割をもっているのに、その意識としての使い分けをどうもあいまいにしているようです。

創作者は、作品こそが、すべてを語るものだという信念をもっているのは当然ですが、それでは、修復技術者が、同じように、作品のみで、何も説明をしなかったとしたら、後世の人は、その修復が何時の時代か判別できなくなるのは、あきらかです。

修復者は、そのために、模造にかかわることで、判明したこと、どうしてもわからなかったこと、などあらゆる情報を公開すべきなのです。模造は、その解説書とセットではじめて模造作品といえるのです。

この問題は非常におおきな問題なので、もうすこし整理してから、掘り下げてかんがえてみようとおもっています。

阿修羅の天衣は、あるのはわかっていたけれど、どうしても復元する材料がなかった、と模造の解説書にしっかりと書いておくべきだったのでしょう。

2011年6月 5日 (日)

山武市の仏像

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 東京駅から特急に乗ると、1時間で成東に着きます。市といっても、合併した普通の地方都市です。駅前のシャッター商店街を抜けると、すぐに田園がひろがります。およそ15分で、山武市歴史民俗資料館に到着です。

 

 

 

 

 

 

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仏像はおよそ20体ほど展示されていました。その中では、善光寺式阿弥陀三尊像が2件ありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 そして、西照寺の十一面観音立像が目にとまりました。この仏像は化仏が欠損していますが、十一面観音像とわかります。ところが、服は如来が着用する衲衣なのです。

このことについて、解説では、宋より伝来した仏画や仏像を手本として十三世紀中頃に鎌倉で生み出された像容と云える。 としていますが、どういう根拠でそう云えるのかの説明がありません。

実例がほしいところですが、今の私の現状では調べる術がありません。宋の仏画や、仏像の例があげられるといいのですが、

この山武市歴史民俗資料館の隣には、伊藤左千夫の生家が保存されています。伊藤左千夫というと、『野菊の墓』がすぐ浮かびます。

この小説のあらすじは覚えているので、読んだことがあったのでしょうが、その記憶がありません。もともと、小説はほとんど読まないので、数少ない読んだ小説のひとつかもしれません。

そんな淡い少年の恋ごころは、少年時代の記憶を甦らせます。

と思いながら、帰りの電車をホームで待っていると、何か見覚えのある風景が目にとまりました。

 

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そうだ、夢さんのジオラマにあった、田舎の駅の跨線橋だ。波形スレートの屋根をつけて、そのスレートの合わせ目にはボルトが飛び出ています。

夢さん、これでしょう!

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