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2011年7月

2011年7月21日 (木)

空海と密教美術展

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 初日に、東京国立博物館で開催の『空海と密教美術展』を見てきました。台風なので、ちょうど狙い目かな、と思いましたが、見事に空いていました。

最初の部屋は、空海の書を中心とした展示でした。空海自筆の『聾瞽指帰』上巻がすべて広げられていたのにはビックリです。

そして、空海の請来品がならび、東寺、神護寺、高野山、醍醐寺関係の美術品がならびます。

彫刻では、まず、醍醐寺の五大明王像がそろって展示していました。そして、仁和寺阿弥陀三尊、上醍醐薬師三尊と9世紀末から10世紀にかけての基準作例がつづきます。あと、棲霞寺阿弥陀三尊と、法隆寺上御堂釈迦三尊があればもう言うことなしなのですが、仁和寺と上醍醐がこれだけ近くで比較できたことじたい、まず希有なことなので、これでよしとしましょう。

最後の部屋は、例によって、バルコニー風のちょっと高い位置からの、東寺講堂像群の俯瞰です。四天王立像、梵天帝釈天像という、立体曼荼羅のいはば端の像がそろってはいましたが、五菩薩、五大明王像、五如来像は中心の像がないので、立体曼荼羅を売りにしていても、何だが歯抜けで、芯がぬけた感がいなめません。

個々の像は、すべて、ぐるっと全体が見える心遣いは、よく行き届いていました。

まあ、これだけの名品ばかりを集めたのは、さすが東博と言わしめるのに充分でしょう。

しかし、キャッチフレーズが、“国宝・重要文化財98.9%” というのはあまりにもセンスがありませんな。そういう問題ではないでしょう。

今回、これだけの平安前期から中期の仏像をまとめて見て、いくつか気になることがありました。それは、以前から注目していた、「坐勢」と「腰にまく布(腰巻ストール)」です。過去のブログで、問題点を指摘してきましたが、いままでそれに注目して見てこなかったために、以外と見落としていた新しい発見がありました。ただぼんやりとみていたのでは、気がつかなかったのです。

仏像を見るとき、仏像の全体像を把握することは、重要なことなのでしょうが、ある部分について注目してみることも、新しい発見があるものだと、最近つくづく思います。

これから、すこしずつ、その点をまとめて書いていこうとおもいます。

初日をねらったのは、ひょっとして、また、仏像のフィギュアを売っているのでは、という期待があったからです。

売店にいくと、何と、7体ものフィギュアを売っていました。

まず、東寺講堂の梵天・帝釈天、不動明王、持国天、神護寺蓮華虚空蔵菩薩、醍醐寺如意輪観音、金剛峯寺西塔大日如来像 です。

1体4200円はちょっと高いかな、阿修羅人気で強気になったのかな、明らかに柳の下のドジョウねらいだな、それにしても7体も作るとは節操がないな、製作が海洋堂でないのもちょっとな、ウーン!!

2011年7月10日 (日)

negotiation

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 私は、中高一貫校だったので、クラブ活動も、中学高校とも同じ、陸上部に所属していました。別に、足が早かったわけでもなく、中学に入ったとき、先輩連中に、必ず運動部に入れ、と半ば強制的な指導があったからです。

ボール競技は得意ではないし、体がぶつかる競技もいやだったので、必然、体操部か陸上部しかありませんでした。

なんとか、高校2年まで、続けていくうちに、部長になってしまいました。この学校は、クラブ活動はほとんど生徒の自主性にまかせられていました。一応顧問の先生はいますが、練習や合宿にはほとんど顔をみせませんでした。

そんなこんなで、部長になると、まずやるのは、部費の予算折衝でした。今年度の予算要求を生徒会に提出し、まず査定がおります。そして、生徒会の役員との復活折衝を経て、予算が確定し、使えるようになるのです。

まるで、国家予算の決定方法と少しもかわりません。それをすべて生徒がとりしきるのです。

最初の予算提示は、私達の部の要求よりも下回った額でした。そこで、生徒会の役員との一対一の復活折衝です。

その時の状況は、新しく部に昇格するクラブがあり、当然、前年度より減額される雰囲気でした。それで、いろいろと理由を考えながら、折衝に臨みました。

相手の生徒会役員はY君で、一応予め考えてきた理由を述べて何とか金額を上積みできないかと訴えました。Y君はただその話を聞くだけでした。

どうもその場の雰囲気は、厳しそうなようすでした。というよりも、すでに我々はあきらかにY君にのまれていました。

それで、何とかならないかと、御願いする態度になってしまいました。

最後にY君は、“それで、いったいいくらほしいの”と最終回答をせまってきました。

私  :“何とか現状維持で去年の額になりませんか”

Y  :“じゃあ、それで決めましょう。”

私  :”-----”

しまった! ヤラレタ! というのが、そのときの感想でした。

 

 

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そのY君は、クラスが同じだったわけでもなく、親しくもしていませんでしたが、去年の同窓会で、講演をしていたのが、同窓会誌に載っていました。

彼は、東大で博士号をとって、ハーバードに移り、教授を勤め、その後東大に帰ってきた経歴を持っていました。

彼の講演の中で、ハーバードの教師はどこから給料をもらっているのかについて、書いてありました。契約期間があるのは当然としても、学部長からの通達書には、「雇用期間中、あなたの給与の源泉である外部資金が停止した場合、12ヶ月間は、大学はあなたに給与を支払います。」

つまり、自分で外部資金を調達できなければ、雇用期間中でも給与はナシですよ、ということのようです。

それで、外部資金獲得のために研究提案書を一生懸命書くのだそうです。

いはば、自分の給与をかせぐためには、そういうプレゼンテーション能力と、ネゴシエーションの能力が必要なのです。これは、日本の中学高校大学では、教えてくれません。自らが身につけて獲得する術のようです。

彼は立場が違っても、高校の時の、ネゴシエーション能力が役にたったのでしょうか。

Y君は、東大を定年で退職した後、今年4月、わが母校の校長に就任しました。

いまの日本の教育状況のさらに先を見据えてのことでしょうか。

2011年7月 2日 (土)

ある縁

 記憶があまり確かではないのですが、昭和53年頃だったか、ある土曜日に例によって、茶房早稲田文庫で、後輩2人とグダグダしていると、マスターの日下さんから、ちょっと奧座敷に来てと、3人が呼ばれました。

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そこには、オーナーのオバサンと、中年の男性がなごやかに話をしていました。

と、紹介されると、その中年男性は上原昭一氏でした。

その当時、奈良国立博物館に勤務していたとおもいます。ちょうど、早稲田大学で、美術史学会があったので、その合間に、茶房に寄ったようでした。

上原氏は、私以外の2人が美術史学科の大学院生だと聞くと、何でも聞きたいことがあれば答えようと、言ってくれました。

私は、すでに大学院を卒業して、目標がなかった時で、ひたすら遠慮しましたが、後輩2人はここぞとばかり、それぞれの思いをぶつけていました。

どうして、上原昭一氏が冨安さんと知り合いなのか、その時はわかりませんでしたが、2人の話を聞いていると、オバサンが戦前に、長野で下宿屋をしていて、その時の下宿生が上原昭一氏だったようでした。

上原氏の経歴を調べてみると、旧制長野中学から、松本高校へ行き、東北大学を卒業しています。おそらく、長野中学の頃だったのでしょう。

しかし、オバサンは、その頃の姓は冨安ではなかったのに、上原氏はどうして茶房のことがわかったのでしょうか。

その疑問は、すぐにわかりました。その当時の1・2年前に、奈良国立博物館でバイトをしていたのが、あの故平木収氏だったのです。

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例によって人なつこい平木氏は、上原氏と話をなんとなくしながら、茶房のご主人冨安さんのことを、上原氏に話したのではないでしょうか。

それで、学会という機会に茶房に訪れたのだとおもいます。なつかしそうに、長野時代の話をオバサンとしていました。

上原昭一氏の話題は、私が大学院のころ、佐々木剛三先生からも、一度聞いたことがあります。それは、ハリー・パッカードが奈良国立博物館に銅造蔵王権現像を持ち込んで、上原氏に見てもらいたいと来たときでした。

上原氏はこの仏像が指定物件にも匹敵する秀作であると、看破しましたが、海外に流出するのを阻止するため、パッカード氏には、たいした仏像ではないと話したそうです。

しかし、パッカード氏は上原氏の表情を見抜き、ついにこれを購入し、最終的には、メトロポリタン美術館に収蔵されることになってしまったのです。

上原氏は地団駄ふんで悔しがった。ということだったそうです。

ハリー・パッカードのほうが、美術作品よりも人間の目利きがあったということでしょうか。

東北大学の雑誌『美術史学』31・32号を見てみると、2010年7月9日、上原昭一氏は逝去されたそうです。

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