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2011年9月

2011年9月29日 (木)

増上寺三門公開

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 先日、増上寺の三門の公開に行ってきました。これは、3月に行う予定が、大震災のために延期され、やっとのことで半年おくれの公開です。

急な階段も、登りやすくするために、この公開のために手すりをつけたり、安全な設備が施されていました。

 

 

 

 

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上にあがると、正面には釈迦如来三尊像、その両脇には十六羅漢像。そして、羅漢像の前には、増上寺歴代上人像のひとまわり小さい像がならんでいます。

釈迦三尊像は漆箔ですが、十六羅漢、祖師像は彩色像で、江戸時代の劣悪は彩色が剥落していて、かなり破損が進んでいました。

さて、この釈迦三尊像と十六羅漢像は、淺湫毅氏の調査報告(「増上寺三解脱門の釈迦三尊像および十六羅漢像についてー近世彫刻の諸相 1ー『学叢』30 平成20年5月19日)があり、それによると、両脇侍像の像内頭部前面(玉眼押さえ材)に“大仏師 宗印”等の墨書銘があり、下御門仏師の宗印一門の作と判明しました。

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論文の結論は、製作年代は天正末年から慶長前半あたりで、長門の泰然寺に安置されていたが、元和10年(1624)に土佐徳悦が彩色をし直して、増上寺に移座したものとしています。

論文によると。長門の泰然寺は不明の寺院で、特定はされていないようです。

たしかに、いわゆる江戸の彫刻にしては、かなりできの良い仏像に見えました。一般的な江戸期の仏像のように、技法にのみ走る精気のなさはありません。それなりの仏師の作と見受けられました。

 

 

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さて、もう一ヶ所、特別公開している徳川将軍家霊廟を見てきました。増上寺には御霊屋と称する将軍6人、5人の正室および5人の側室等の墓所があり、それぞれに本殿・拝殿が建てられていましたが、空襲によりほとんどが焼失してしまいました。

現在墓所は、1ヶ所にまとめられて、今回の公開となりました。

今は、宝塔が8基きれいにならんでいますが、往時の豪華絢爛さは偲ぶべきもありませんでした。

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2011年9月23日 (金)

藤田記念庭園洋館

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 藤田記念庭園の中にある洋館のステンドグラスをご紹介します。

 

 

 

 

 

 

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まず、玄関に入ると、右横の窓に2個所同じデザインのステンドグラスが目にはいります。オパールセントグラスを多く使った抽象柄です。

この硝子をよく見ると、左の硝子は全体にヒビが入っています。

このヒビは、打撃による割れではなく、ガラスパネルの変形による割れのようです。

しかも、最近の割れのようで、ひょっとしたら、今回の大地震によるものかもしれません。

 

 

 

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これと同じデザインで、玄関の中扉の両脇に2枚づつ、計4枚のステンドグラスがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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中のホールに入ると、その脇に暖炉のある一郭があります。その左右の窓にステンドグラスが2枚づつ嵌っています。一方は外部の窓で、もう一方は内部の窓になります。

 

 

 

 

 

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外光が入ってくる窓は、ステンドグラスの色がよくでていますが、内部の窓は鉛線が目立ちすぎて、色硝子のあざやかさがみられなくなってしまいます。

やはり、ステンドグラスは、外光を通して見るのがベストなのでしょう。

しかし、これは、鷲に見えたのですが、くちばしをみると、どうも違うようだし、何の鳥なのでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

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1階で、円くふくらんだ場所にある窓は、前面に結霜硝子が嵌っていました。何枚かは補修で、別の硝子が嵌っていますが、それにしても、これだけ結霜硝子が嵌っているのは壮観です。

結霜硝子は、どうも、日本で発達した技法のようです。窓硝子が輸入されていたころ、いわゆる不透明な硝子がなかなか手に入らなかったようです。そのために、透明硝子に膠を塗って、乾かした後、その膠をはがすと、硝子の表面が剥がれて、霜のような模様になるという技術です。すくなくても戦前までは、そういう加工をする工房があったようです。

いま、国産ではその技術が途絶えてしまっているようです。ただ、ステンドグラス用に、輸入品は存在しているようで、どこかで造ってはいるようですが。

2011年9月19日 (月)

雨の弘前

 昨日、弘前は一日中雨でした。あいもかわらずの日帰りのいそがしい旅でした。まずは見た場所から、

  • 新幹線で新青森から弘前へ、11:25着
  • 弘前市立博物館・・・『津軽のほとけ』展へ、およそ30体ほどの仏像の展示。
  • 弘前城→藤田記念庭園・・・ステンドグラスのある洋館です。
  • 禅林街・・・およそ33の寺院が集まっている寺町
  • 旧弘前市立図書館→旧東奧義塾外人教師館→青森銀行記念館→
  • 最勝院・・・五重塔
  • 盛美園→清藤氏書院庭園→
  • 弘南鉄道で弘前駅へ
  • 弘前発 17:35で新青森へ新幹線で帰宅。

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弘前に滞在していた時間はちょうど6時間、電車に乗っている時間が10時間でした。

それでも、雨のなか、できるだけ町の雰囲気を味わいたくて歩きまわりました。

まず、博物館の特別展は、ほとんどが江戸時代のもので、とりたてて注目する仏像はありませんでした。悉皆調査の終了した段階での展覧会でしたので、その中で何か注目すべき仏像があるのかと期待したのですが。

 

 

 

 

 

 

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弘前城は、平地に建てられた平城だとおもっていましたが、西側は1段と下がっており、弘前という町じたいも、高低のある土地にあることがわかりました。

 

 

 

 

 

 

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城を出ると、すぐに藤田記念庭園があります。そこにある洋館には、3種類10枚のステンドグラスが嵌っています。また出窓には一面に結霜硝子がはまっています。ステンドグラスは、なかなかおもしろいデザインでした。これは後ほどということで。

 

 

 

 

 

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禅林街の入口に黒門という高麗門をくぐると、左右に33もの寺院がならびます。そのつきあたりには、長勝寺の三門がそびえています。城下町の寺町としては実に整然とした配置をしています。

 

 

 

 

 

 

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お城のほとりに、旧弘前市立図書館、旧東奧義塾外人教師館など、みどころの建物がまとめて移築されており、それぞれによく整備されています。とくに青森銀行記念館は銀行が公開している施設だけあって、階段の床がピッカピカに磨かれていました。

 

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弘前郊外の平川市にある盛美園は、庭と洋館のある施設です。鎌倉時代から続く清藤家が、明治時代に造った庭ですが、なかなかいい庭でした。洋館は、1階が和風で、2階が洋風のつくりとなっていますが、2階は見られませんでした。

 

 

 

 

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さて、盛美園からでて帰ろうとすると、すぐ隣の木造民家に、清藤氏書院庭園のカンバンがありました。まだ帰りの電車に余裕があったので、時間つぶしにはいってみました。

書院といっても、ちょっとした和風住宅で、枯山水の庭園がありました。すると、老人が奥からでてきて、庭の説明をするのです。その話を聞いているうちに、お茶がでてきて、すぐ帰るわけにいかなくなりました。聞いていると、この清藤家のご当主のようでした。清藤家の歴史などをいろいろ聞いていると、あの洋館に幼少の頃住んでいたのだそうです。住み心地はどうでしたか? と聞いてみるとよかったようです。

そんなこんなで、長話につきあっていると、もう帰りの電車の時間がせまってきましたので、腕時計にチラチラと目をやりながら、タイミングをはかって、何とかその場から帰ることができました。時間があれば、もっと聞いてもいいかなとおもいましたが。

弘前は、以前から行ってみたいと思っていた町でした。その思い入れは、むかし中学生のころ、文通をしていた相手が弘前の女子高生だったからでした。そう年上の人と文通していたのです。

あれから、いろいろなことがあったな!!

2011年9月13日 (火)

『日本の美術』休刊

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 一ヶ月余りの夏休みをとらせていただきました。といっても、休んで何もしなかった訳ではなく、我が家の大震災復興事業をしておりまして、何とか、倒壊した本棚の復旧が終わりました。後は、どう本がはみ出ないかに、シフトすることになります。

さて、そうこうしている内に、至文堂発行の雑誌『日本の美術』が今月の545号をもって休刊となりました。

実に45年あまりにわたって続いた雑誌でした。

 

 

 

 

 

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第1号が発行されたのは、私が高校3年の新学期がはじまる頃でした。新聞の広告か何かで知ったのだとおもいます。すぐに、近所の本屋さんに定期購読の申し込みをしました。定価が490円と高校生の小遣いでも買える値段だったのと、カラー写真が豊富に掲載されていたのが、魅力だったとおもいます。

受験勉強をしながら、毎月、今度はどんなテーマででるのだろうかとわくわくして、待っていました。それにもまして、1年間購読すると、帙がもらえるというオマケも魅力でした。

そして、その近所の本屋も閉まり、そこで勤めていた人が宅配専門の本屋をはじめ、毎月届けてもらうようになりました。それも10数年つづくと、そのオジサンも高齢になり、廃業してしまい、また、近所の本屋に定期購読の申し込みをしたりして、1号も欠かさず手元に置くことができました。

この雑誌は、毎月欠かさず発行されていたのではなく、たった1回だけ、月が空いたことがありました。それは、41号(1969年9月)から42号(1969年11月)になるとき、10月が抜けたのです。

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また、最終号の巻末に全タイトルが掲載されていますが、それ以外に、2004年1月25日に発行された宮島新一「風俗画の近世」というタイトルの別冊がでているのです。したがって、『日本の美術』は全546冊になるのです。

休刊のお知らせにもあるように、この雑誌は、今までの雑誌の概念を越えるもので、各号がちょうどひとつの展覧会のカタログのような体裁で編集されていました。

この雑誌の編集の方針で、各国立博物館の職員に執筆させたことが、実にうまく機能していたのです。

まず、博物館員は、美術品などの写真を、実際に豊富に提供できる立場にあり、その博物館員に執筆させたのですから、写真の掲載に手間がかからなくなります。

 

 

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しかも、博物館員は、自らの研究テーマを存分に書ける機会が与えられたのですから、両者ともうまくいかないはずはありません。

しかし、500号を越えると、さすがに、テーマの選定に四苦八苦している様子がうかがわれました。もうそろそろかな、というときに、発行所が“至文堂”から“ぎょうせい”に移りました。しかも、経費節減で、帙の提供を中止してしまいました。

こうなると、もう昔のひと時代が、終わってしまった感がありました。

惜しい というよりもご苦労さまでした。ということでしょうか。

この本は普通の雑誌とは違って、持っていても、すこしも邪魔になるものではありません。ちょっと知りたいときに、いつでも使うことができるからです。その当時、興味のないテーマであっても、我慢して購読していたのが、役立つことになるような気がします。

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いま、『春秋堂文庫』にその内容も含めて、文献目録を掲載すべく、校正をしています。

近々にUPできるとおもいます。乞うご期待。

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