« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月23日 (日)

不空羂索観音合掌手の水晶珠

 東大寺ミュージアムの開館時の目玉は、もちろん不空羂索観音像と日光・月光菩薩像でしょう。

法華堂の中で拝観するよりも、各段によく見ることができるからです。

Photo

そのミュージアムの宣伝文句に、あの不空羂索観音像の合掌手の間に水晶が挟んである。というのがありました。

以前から、そんな話は記憶の片隅にありましたが、何度も法華堂で不空羂索観音像を拝観しても、それに気がつくことはありませんでした。

おそらく、遠くてよく見えなかったのでしょう。まして、暗い堂内で、キラリと光れば別ですが、そんなこともなかったのでしょう。

それで、今回は、果たして、本当に水晶が挟んであるのだろうかということを、気をつけて見ることにしました。

正面に立って、合掌手を見てみると、わづかに両手の指を内側に向けていて、掌は合わさってはいませんでした。両手の間から、胸が見えましたので、水晶はなかったのは確かです。

ところが、ミュージアムショップで売っている絵葉書の表紙には、水晶が挟まっている写真がありました。

どういうことなのでしょうか。

不空羂索観音像について解説している文献をあさってみると、『奈良六大寺大観』10 東大寺2 1968.8.30 で、水野敬三郎氏の解説には、

「掌中に水晶珠をはさむ」としており、白黒写真にもはっきりとあることがわかります。

Photo_2

『日本美術全集』4 東大寺と平城京 1990.6.8 講談社 で浅井和春氏は「法華堂本尊不空羂索観音像の成立」という論文で、この不空羂索観音像は、この宝珠から“金光明最勝王経 如意宝珠品”によって造像された可能性を指摘しています。

さらに、鷲塚泰光氏は『東大寺のすべて』 2002.4.20 で、「この水晶は如意宝珠で、後の如意輪観音に通じ、密教像の早い例ではなかろうか。」

としています。

ところが、最新の論文ともいえる、『国宝の美』彫刻1 2009.8.23 で川瀬由照氏は、

「宝珠は後に嵌められた可能性もあり、・・・」とあり、もとから嵌っていたか疑問視しています。

たしかに、戦前の解説をいくつか見てみると、この合掌手の宝珠のことについて、ふれている論文が見あたりません。

正面から見れば大変目立つのに、なぜ注目されなかったのでしょうか。

もっとも、宝冠の盗難事件があったりしたために、宝冠のほうに注目が向くのはわかりますが、合掌手の水晶とおなじ珠が宝冠の上についているのです。それとの比較もしなかったのでしょうか。

なぜ、今現在、ミュージアムにある不空羂索観音像の合掌手に水晶珠がないのでしょうか。

そんなに簡単に取り外しがきくのでしょうか。

2011年10月15日 (土)

京都・滋賀・奈良の旅(第3日目)

3日目は、朝早くでて、近鉄で生駒へ、そこからケーブルカーにのって宝山寺に着いたのは、8時前でした、寺の従業員が朝の掃除をしている最中でした、もちろん参拝客は数人しかいませんでした。

Photo

寺の境内をざっとみても、まだ開館の8時になりませんでしたが、獅子閣で準備をしている人に頼み込んで、時間前に中を拝観させていただきました。

獅子閣は明治17年に竣工した擬洋風建築です。建物は迎賓館(客殿)として建てられたようです。1階は板敷の洋間に和室があります。2階は和室が2間あります。1階2階ともにベランダを設けています。

 

 

 

 

 

 

Photo_3

色硝子は1階の洋間に3個所、半円の欄間と、両開きのドアに6枚はいっています。そのほかの窓も透明のガラスが嵌っていますが、すべて見てみましたが、ほとんどが創建当初のガラスのようです。泡が細長くのびているのは、手吹き円筒法の製法によるものです。

 

 

 

 

Photo_2

説明では、オランダ製だということですが、入れ替えたガラスが見あたらないのは、建具も含めて、実に手入れがよかったのだろうとおもいます。

その当時、日本の宮大工の技術が新しい洋式にも容易に対応できる技術をもっていたという証拠のような建物でした。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

いそいで、奈良にもどり、東大寺ミュージアムに着いたのは、開館15分前の9時15分でした。およそ100人前後が並んでいました。中にはいると、第2室に、不空羂索観音と日光・月光菩薩がありました。その前で開館の法要が営まれていました。法要中は、正面の高さが3~5mもあるガラスのスクリーンを開いて、直接不空羂索観音を拝観できました。

ミュージアムは展示室が5部屋で、東大寺にしては、展示スペースがせまく、展示品がおもったより少ない印象でした。膨大な文化財があるのに、この程度の展示スペースでは、いったいどれ程公開できるのでしょう。

もっともこの建物は、ミュージアムだけではなく、図書館、ホール、会議室、研究所などが入っており、結果この程度の展示スペースに落ち着いたのでしょうが、長期的には、展示スペースの拡充がせまられるのは、時間の問題でしょう。

そんなわけで、奈良博で展示してあった仏像などが、ここに戻ってきた程度で、メインの不空羂索観音、日光・月光菩薩以外は、あまり印象がありませんでした。

Photo_5Photo_6

Photo_7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近鉄奈良駅にもどり、西大寺から平端にいきました、そこから15分ほど歩くと、額安寺があります。この寺のよみは“かくあんじ”と濁らない読みだそうです。

境内には、本堂の外、収蔵庫が2棟建っています。1棟は虚空蔵菩薩像、もう1棟は忍性の骨蔵器を入れている建物です。虚空蔵菩薩像はガラスケースに収まっていますが、どの程度の補修がはいっているのか不明で、奈良時代にしては、彩色があまりにもきれいすぎの印象でした。

Photo_9

近鉄平端駅にもどり、橿原神宮前で下車。駅前でレンタサイクルを調達して、まずは、万葉文化館へ。

飛鳥地方3館で、“飛鳥・藤原ミュージアム・ネットワーク”として、特別展を同時開催しているのですが、開催時期が合っていないので、飛鳥資料館だけは、特別展が見られませんでした。どうもちぐはぐです。

 

 

 

 

 

 

Photo_8

万葉文化館では、「大飛鳥展」が開かれていました。この展覧会は、明日香村所在の仏像が出品されており、初見の仏像も多くありました。例の盗難からもどったという向原寺の観音菩薩像もありました。

そこから、飛鳥寺を通過して、飛鳥資料館へ、ここでは、10月14日からの特別展なので、平常展のみを見学。

自転車で藤原京跡を通って、橿原考古研博物館へ、ここの特別展は「仏教伝来」という名称ですが、考古学的な観点によって、構成されていますので、展示品で仏像は塼仏がどうしても中心になってしまいますが、昨今の調査の成果で、かなりの数の発見がありますので、この辺で、しっかりと整理してほしいものです。

というわけで、橿原神宮前にもどり、特急で京都へ。

今回は、展覧会カタログの重さが、ズッシリとリュックの肩を食い込ませました。

2011年10月13日 (木)

京都・滋賀・奈良の旅(第2日目)

 第二日目は、レンタカーを借りました。

Photo

まずは、柳生街道を通って、柳生から笠置寺へ行きました。車ですと、山の中腹にある寺の近くに駐車場があり、坂道を登らなくて済みます。寺に入ると、一周800mの修行場めぐりがあり、まず、弥勒如来の磨崖仏があります。火災によって、その像容が判明できなくなっていますが、最近の調査によって復原した絵がありました。

それによると、左右の足元に僧形の供養者らしき人物があります。この磨崖仏を模写したのが、大野寺の磨崖仏なので、大野寺にも、この供養者があったのかもしれません。

大野寺像との比較をしてみるのもいいかもしれません。

 

 

 

 

 

Photo_2

さて、もうひとつの磨崖仏、虚空蔵菩薩像は、よく残っています。しかし、見る位置があまりにも近すぎて、全体像がこれまたつかみきれません。

この虚空蔵菩薩像は、結跏趺坐で、儀軌の中でも、半跏趺坐と明記していない経典からとったものということができるとおもいます。

虚空蔵菩薩像は、儀軌によって、半跏であったりそうでなかったりとあるようです。その辺はもうすこし整理してもらえないかな、と思います。

ここから、カーナビにMIHO・MYUSEUMの住所を入力して、画面通りに車を走らせると、やっと対抗車とすれ違える山道を通り、何度か右折したり、左折したりしているうちに、いつのまにか到着してしまいました。 カーナビは恐ろしい。

Mihomyuseum

滋賀県の三館でおこなわれている“神仏、います近江”展のうちの最初の1館です。この館のテーマは「天台仏教への道ー永遠の釈迦を求めてー」だそうです。

仏像でいえば、奈良時代から平安中期頃までの作品をそろえていたようです。とくに、唐時代とおもわれる僧形像2軀、善勝寺千手観音立像などが、目にとまりました。

 

 

 

Photo_3

次のカーナビの入力先は、善水寺です。これも、いまは、本堂のすぐ脇に駐車場ができ、山の中腹にある寺も、登らなくて着いてしまいました。昔、修論のために、拝観の許可をもらって訪れたときは、足の悪い住職がわざわざ我々のために、長い階段を登って来られたので、大変恐縮したのを覚えています。月日の経過は夢のごとくです。

 

 

 

Photo_4

第2館目は、滋賀県立近代美術館です。ここのテーマは「祈りの国、近江の仏像ー古代から中世へー」です。ここでの仏像の展示は、滋賀の仏像を平安から室町までまんべんなくそろえているようです。

それでも、各時代、尊像の像容に特徴のある仏像をそろえており、バリエーションゆたかな展示でした。まあここの目玉は石山寺の快慶作大日如来坐像でしょうか。

 

 

 

 

 

 

Photo_5

 第3館目は、大津市歴史博物館、テーマは「日吉の神と祭」です。展示室にはいると、一面に神像がならびます。これだけそろうと実に圧巻です。

その中で、あきらかに“無眼”の神像がありました、地主神社の8軀の神像のうちの僧形像です。ほかにもそれらしき神像はありましたが、未完成とおもわれる像もあり、明確にいえるのはこの像のようです。

3館で、これだけの仏像、神像を見ると、滋賀の仏像の数の多さ、バリエーションの多彩さに、ただただ驚愕します。

 

 

 

 

Photo_7Photo_9

Photo_8

あまりの多さに整理がつきません。おまけに3館共通のカタログは、厚さ3.5㎝にも及び、こんな重いカタログでは、持ってかえるのもつらいことになります。

最初の総論は共通でも、それぞれの館ごとの構成になっているので、わざわざ1冊にする理由がわかりません。2400円は安くても、帰りのリュックの肩にのしかかる重量は半端ではありませんでした。

 

 

 

 

 

 

Photo_6

奈良に帰る道すがら、蟹満寺によってみました。修理がおわったばかりなので、どうかなとおもいましたが、なんと、本堂は新築されていました。中も明るく、充分にみることができました。

2011年10月11日 (火)

京都・滋賀・奈良の旅(第1日目)

 10月8日~10日に旅行してきました。今回は、3回に分けて、ご報告します。

まずは、第1日目

京都駅から、嵯峨野線に乗り換えて、嵯峨嵐山駅で下車。徒歩でまずは、大河内山荘へ。

Photo

大河内伝次郎という役者は、すごい人物です。これが一個人が造った庭園とは、ただただ驚きです。

紅葉の時期に是非とも訪れたいところですが。

そこから、渡月橋をわたり、阪急で、松尾大社へ、神像3軀をまじかに拝観。この神社の境内にはいたるところに庭園があり、すべて、重森三玲の作だそうです。いささか食傷ぎみですが。

さらに、阪急で大山崎下車、お迎えの車で、アサヒビール大山崎山荘美術館へ。

Photo_2

この洋館には、ステンドグラスが嵌っていましたが、透明に近い色硝子を使っており、教会のステンドグラスを思わせるデザインで、住宅にはちょっと違和感がありました。

Photo_3

この美術館の新館部分は、安藤忠雄の設計なのですが、円形の展示室を地下に埋め、そこに行く通路に長い階段を造っています。外観は、木々の中に埋もれていますが、この階段が安藤のアピールするところなのでしょう。

この、美術館のすぐとなりには、宝積寺があります。美術館からは、三重塔の相輪が見え隠れしています。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

宝積寺には、閻魔大王以下眷属像が4軀あり、なかなか優れた仏像でした。

 

 

 

 

 

 

そこから、今度は、JR山崎駅より、京都へもどり、そこから徒歩で西本願寺方面へ、住所をたよりに、龍谷ミュージアムをさがしたところ、なんと、西本願寺の目の前にありました。

Photo_5

これが、大学附属の博物館かと信じられないくらいの設備です。展示スペースも広くとってあり、地下の中庭やエントランスホールも、じつにゆったりとした空間を確保しています。そして、ショップや喫茶店まであり、観光スポットを意識しているようです。普通の都道府県レベルの博物館とすこしも遜色がありません。

まして、展示内容も、大学で所有しているものもかなりあるようで、しかも、宗派系列の寺院からの展示も多く、見せる物には、事欠かないのかなといった印象でした。

いそいで、京都駅にもどり、近鉄で奈良へ。

Photo_6

夕方、5時すぎに到着し、すぐに、“アカダマ”へ。6時閉店なので、客が少なくなったところで、室内の写真を撮らしてもらいました。今年中に、もう一度奈良に来られるかわからないので、最後のコーヒーになるかもしれません。

マスターとも、40年も通っていながら、ほんのちょっとしか話をしていません。でも、帰り際にマスターから、記念品をいただきました。

長い間ご苦労様でした。また、どこかで、お会いすることがあるかもしれませんね。

と言って、アカダマを後にしました。

 

 

 

 

 

Photo_7
もうひとつ、奈良で気になっている場所、日吉館がどうなっているのかでした。

Photo_8
建物は、もう奇麗に竣工していましたが、2階部分のテナントを募集していました。

ということは、1階部分は、もうテナントが決まったのでしょうか。

2011年10月 5日 (水)

ボランティア

 東日本大震災では、数多くのボランティアが活躍していました。これほどまでに、ボランティアの役割が世に知られるようになったのは、社会の在り方として、いい方向にいっているなと、実感します。

昔、はじめてボランティアなるものを経験したのは、高校1年生の3月でした。その当時、“ボランティア”というと、“奉仕”という言葉が頭に浮かびました。

ボランティアをしている人は、キリスト教の精神に則って活動する、といっても一般人には、布教活動としか映りませんでしたし、また、お金持ちのヒマ人がやる上から目線の道楽としか見えませんでした。それは、“蟻の町のマリア”北原怜子の話が、世間の記憶にあったからだと思います。

友人に誘われて、ボランティア活動に参加するにしても、そういったまわりの偏見と立ち向かわなければならなかったのです。というよりも、理解してもらえないので、誰にも話すことができませんでした。

参加した、ボランティア団体は、“よりよき社会を建設する”という実に、漠然とした目標で、集まった人々でした。高校の時は、いはば入門程度で、それほどの思考力は必要ありませんでしたが、大学に入って、主力が大学生になると、その社会的矛盾と対峙しなければならず、また、学生運動の最盛期で、常に、社会の矛盾とどう向き合うのかを迫られていました。

学生運動の理論的脅迫の嵐に飲まれないためにも、実際に体を動かした“ボランティア”活動のほうに、力をいれて、凌いでいたというのが本当のところでした。

しかし、もう一つの文化サークルと、ボランティア活動の二股は、時間的にも限界にきていました。両方とも、もうただ上の人について行くだけではすまなくなってしまったのです。

責任ある行動をするには、いずれひとつに絞らなくてはならなくなりました。“ボランティア”活動は、私にとって大変魅力的な集団でした。しかし、集団とは、個人が自らの責任で行動するということです。一度行動をおこしたら、最後まで責任を追わなければならないのです。

と、その当時考えていました。実際、この団体では、自らの手で建物を建てていました。この建物が完成すると、その運用から維持管理まで、最後まで責任を追わなければならないと、思いつめていました。

一生“ボランティア”にかかわらなければならないという覚悟を求められたのです。それは、あまりにも、荷がおもすぎました。

Photo

結局、ボランティア活動から遠ざかることになってしまいました。大学の先輩だった、阿木さんに、説得を受けましたが、もう自信がなくなってしまいました。

しかし、自身の言い訳としては、今は、この団体で、新しい行動を起こすアイデアが自分にはないので、いずれ、仲間をつのってこれをやろうという提案ができるまでの充電期間にしよう、と自分に言い聞かせました。

なにか、仲間を裏切っているという気後れと、申し訳けなさが、その後も続きました。いつか復帰しようと思いながら、どんどん時が過ぎていきました。

今、それでは、できる状況か、というと、まだまだ、充電期間がおわりません。

でも、“いつかは”という気持ちだけは持ち続けていたいとおもっています。

追、もうひとつのサークルW大の○美研のOB・OG会は、12月10日の予定だそうです。

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ