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2012年1月

2012年1月29日 (日)

子規庵

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 鴬谷の子規庵に行ってきました。子規庵は、台東区立書道博物館の目の前にあります。いつも書道博物館に行くたびに、入ろうか迷っていました。というのは、この建物は戦後、復原した建物だと知っていたからでした。

意を決して行こうとしたのは、子規が病に伏せっていた一室のガラス戸を見たいとおもったからでした。

この建物には、明治27年2月から、子規が亡くなる明治35年9月まで、子規は住んでいました。そして、子規の死後も、母八重が住み、関東大震災で、破損した後、建物を解体し、また建てなおし、昭和20年戦災で焼失した後、昭和26年に復原しました。

2回も建て直したにもかかわらず、子規が住んでいたころを忠実に復原したようです。

子規は、この建物の6畳間で、病に伏せりながら、短歌を読んでいました。

雪見んと思ひし窓のガラス張ガラス曇りて雪見えずけり

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このガラス戸は、明治33年12月頃、高浜虚子たちが、子規のために贈ったものでした。

虚子は、上京した後、ここに居候していたので、そのお返しでもあったようです。

さて、明治33年というと、まだ、日本では板ガラスが生産されていない時期でした。したがって、子規庵に嵌めたガラスは、舶来品だったということになります。

統計によると、板硝子の輸入額は、明治元年には、10,144円だったのが、明治32年では、1,246,200円にまで増加し、明治34年の帝国議会に、窓硝子製造業保護奨励に関する建議案までだされ、何とか、貿易赤字の解消のために、板硝子製造の国産化を勧めようとしました。

そんな頃でしたので、高浜虚子が贈ったとはいえ、相当な金額だったのだろうとおもいます。

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建物には、雨戸があるとはいえ、昼間は明障子のみでは、寒さがこたえたのでしょう。せめて、子規の寝ている部屋でも、寝ていて外の景色が見えることの安らぎを虚子は味合わせたかったのかもしれません。

子規の歌に、ガラス窓の短歌が、10数首残っています。

日本の住宅は、障子を簡単に、ガラス戸に換えることができる構造になっていることが、明治時代になって、急速にガラスが普及していった要因のひとつになっていたようです。

しかも、縁側の外側には、透明のガラスをいれ、内側には、障子の真ん中にだけ透明ガラスにするか、模様入のガラスにするなど、室内を見られないようにする配慮もされていました。

日本人の窓硝子という新しい素材の受け入れ方は、全く新しいコンセプトという意識でもなく、ちょっとした生活空間の修正だけで済んでしまっているような気がします。

しかも、ガラスという透明な隔てによって、外部が見えるという長所よりも、ガラスの単に光が入るという性質の方を重要視しているようにおもえます。

というのは、ガラスを透明なまま使うのではなく、スリガラスにしたり、模様を付けたりするのは、新しい素材を簡単にかみ砕いてしまう日本人の能力によるもののような気がします。

2012年1月22日 (日)

伊達藩下屋敷の板ガラス

 どうも気になってしようがありません。板ガラスの歴史を調べてみると、江戸時代の元禄の頃、仙台伊達藩の品川の下屋敷に、400枚もの板ガラスが嵌っていたというのです。

その、出典を探しているのですが、なかなか原典にぶちあたりません。

ひとつ見つけたのが、森鴎外が大正5年(1916)1月に発表した随筆です。「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に掲載されています。「椙原品」(すぎのはらしな)という題名で、伊達家3代当主綱宗の側室で、椙原氏の品(しな)という女性について書かれています。

伊達綱宗は、万治元年(1658)19才で藩主となり、万治3年(1660)21才で、隠居させられ、品川の下屋敷にいはば蟄居の身となり、正徳元年(1711)72才で死去するまで、品川に住んでいました。

余談ですが、寛文11年(1671)に原田甲斐による刃傷事件がおきます。綱宗は隠居の身のため、事件とは関わりがありませんでしたが、それは例の『伊達騒動』です。歌舞伎の「伽羅先代萩』、山本周五郎『樅の木は残った』などの題材になった事件です。

森鴎外の書によると、

「品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかった硝子板四百余枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買ったと云ふことである。」

と書いてあります。

綱宗という人は、書画、和歌ばかりでなく、蒔絵や陶器も作っていたなど、芸術に造詣が深かったようです。

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しかし、その当時、日本では、建具に嵌めるような板硝子は、製造していませんでした。海外に目をむけると、ヨーロッパでの板硝子の製造は、鋳造法かクラウン法でしかできませんでした。鋳造法は、1675年、フランスのド・ヌゥーが開発しましたが、それは、鏡の製作のためでしたし、板厚がどうしても厚くなり、また、研磨が必要でした。

 

 

 

 

Photoクラウン法にしても、そんなに大きな板硝子は製造できませんでした。

つまり、綱宗が品川に住んでいた時期1660年から1711年という頃は、手吹き円筒法が開発されて板硝子の大量生産がはじまる前の時代なのです。

そんな頃に、輸入したとしても、もう鎖国がはじまっていますので、中国かオランダからしか入ってきません。

ほんとうに、400枚もの板硝子が建物の建具に嵌っていたのでしょうか。

ところが、仙台の善応寺、通称ギヤマン寺という寺に、品川屋敷で使ったギヤマンの障子が残っているというのです。

善応寺は、四代伊達綱村の建てた寺です。いかにも、ありそうな話です。

でも、その真偽がわかりません。善応寺で、現物を見たという人の書き物が見あたりませんので、やはり、行って見ないとわからないのかな。

2012年1月 2日 (月)

新春の東博

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 新年あけましておめでとうございます。

  本年もご贔屓の程よろしくおねがいいたします。

新春の第一弾は、初詣と、運動をかねて、東博へ行ってきました。開館早々に行けば、特別展の『北京故宮博物院200選』展をゆっくりと見られるかと思いきや、すでに長蛇の列。入場には、40~50分待ちとのこと。

 

 

 

 

 

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何も今日見なくても、パスポートのハンコ欄にまだ空きがあることだし、すぐにパスしました。

それで、平常展で彫刻で目新しいのが展示されているのか、彫刻室を覗いてみました。

すると、例によって、腰布とその上に腰巻ストールをしている、不動明王立像がありました。この手の着衣方法は、平安後期には、すでにメジャーになっていたようです。

 

 

 

 

 

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本館では、今年が東博140周年だということと初日だけあって、さまざまなイベントがおこなわれていました。

まずは、1階で、特別展にあわせて紫禁城の映像を上映していました。画面がタテ2.7m×ヨコ12mの大スクリーンに映し出された映像は、すべてCGでした。たしかにVR(バーチャル・リアリティ)映像なのでしょうが、願わくば本物を見たかった。

 

 

 

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また、新春イベントとして、浅草寺の金龍の舞の披露がありました。本館の階段から、平成館の前庭での演技は、たくさんの見物客で、よく見えませんでした。

しかし、こんなめでたい時に、館長との記念写真はないでしょう。だれが客なのかわかっているのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

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東博では、本館2階中央の貴賓室を公開していました。この部屋ははじめて見ました。

 

 

 

 

 

 

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そんなこんなで、人混みを避けて、輪王寺根本中堂で、やっと初詣を済まして、帰宅の途につきました。

 

 

 

 

 

 

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去年大晦日の東京スカイツリーのライトアップ。いまいちですな。

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