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2012年2月

2012年2月26日 (日)

旧堀田邸

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 戸定邸に続いて、元藩主の明治時代の邸宅を見てきました。千葉県佐倉市にある旧堀田邸です。

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佐倉藩主だった堀田正倫は、東京暮らしをやめて、地元の佐倉市に明治23年(1890)邸を構え、そこで暮らしました。

建物はその後、民間の所有になり、平成9年に佐倉市へ寄贈されています。場所は、小高い丘にあり、建物のまわりは、老健施設、老人ホームなどが建っており、その敷地内にあるような場所にあり、わかりにくい所です。

さて、建物はおよそ五区画にわかれており、台所棟だけが壊されていますが、それぞれ渡廊下で繋がっています。

例によって、この建物の注目点は、廊下に嵌っているガラス戸でした。

 

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まず、玄関棟の廊下には、ガラス戸がついていませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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次に、居間棟の廊下は、柱間の上部には、障子を入れる溝が彫ってある鴨居が付いていますが、、下部は敷居ではなく、溝がありません。これがどういうことなのか、理由がわかりません。もともとガラス戸があったのなら、下の敷居に溝がなければならないのですが、どういう改造がなされたのか不明です。

 

 

 

 

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座敷棟の廊下には、ガラス戸が嵌っていました。ガラスは、波を打っているものがあり、おそらくは、昭和にはいってからの普通板だろうとおもいます。泡もありませんでした。

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 もうひとつ書斎棟の裏側の廊下にもガラス戸があり、これも普通板のようでした。

こうしてみると、明治23年竣工時には、ガラス戸はなかったのではないかとおもわれます。建物の材料は確かに吟味されたものを使っているようですが、装飾に凝ったりするでもなく、元藩主の住居にしては、質素な造りをしています。

この建物の平面は、江戸時代の城の中で、大名が住んでいた御殿の形式を踏襲しているようで、いはば伝統的な住空間なのでしょう。明治時代の新しい感覚を取り入れるのではなく、意匠もかなり保守的ということができるでしょう。

ガラス戸という発想も、創建当初にはなかったのかもしれません。

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と思いながら、おなじ佐倉市にある佐倉順天堂記念館に行ってみると、廊下のガラス戸の一部に手吹き円筒法で作られたとおもわれるガラスが嵌っていました。

写真でうまく撮れましたので、お見せします。

このところ、明治頃の建物に嵌っているガラスを見ていると、手吹き円筒法のガラスと、フルコール法や、コルバーン法による普通板との区別はつくようになりましたが、その間の機械吹き円筒法(ラバース法)で作られたガラスが、判別できません。

というよりも、ラバース法で作られたガラスの規準作を見ていないので、どうにも判別のしようがないのです。

もうすこし修行が必要です。

2012年2月19日 (日)

伊達藩下屋敷の板ガラス(考察編)

 まず、『伊達騒動實錄』第八十三篇に採録されている「善應寺舊記」を掲げてみます。

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この『伊達騒動實録』は明治42年11月刊で、国会図書館の近代化デジタルライブラリーに全文UPされており、面倒な手続きをしなくてもこのような貴重書が読めるのは大変ありがたいことです。

といいながら、上の文は、私が新たにワープロで打ち起こしたものです。それは、近代化ライブラリーにUPされているデータは、欠陥品のマイクロフィルムをただPDFに変換したものだからです。

以前にも書きましたが、そもそもマイクロフィルムに写すのに、その内容が読めるかどうか、写真がしっかり見られるものなのかの検討も一切しないで、ただ写真に撮っただけのものなので、字がつぶれて読めないとか、写真を白黒のコントラストのみで撮ったりして、何が写っているのかまるでチェックもしないで、公開しているものです。まったく、こんなひどい製品に税金を払っているです。

文句はこれまでにしといて、本題のこの文書の検討にはいります。

びいどろひしき板」 : これは、板ガラスにはまちがいないとおもいますが、“ひしき”という意味がまだよくわかりません。“引敷”という言葉がありますが、修験道の行者が携帯している敷物で、熊皮でできているものだそうです。

四十年以前、唐渡り物にて、長崎より到来申候」 : 享保3年(1718)から40年前というと、延宝6年(1678)年ということになります。伊達綱宗は、万治元年(1660)に品川屋敷で隠居生活にはいり、寛文11年(1671)刃傷事件が起きていますので、その後状況が落ち着いていた時期だったようです。

殘品川ヘ被買収」 : 長崎に到着したガラス板を残らず買い入れたようです。その総額を計算してみますと、大のうち特大を1枚だけとしますと、

大 11枚×30両= 330両
大  1枚×70両=  70両
中 46枚×20両= 920両
小348枚× 3両=1044両

計2364両となります。江戸時代の物価を現代に換算すると、計算方法によって違いがありますが、おおざっぱに 1両=10万円 とすると、

2364両×10万円=2億3千6百4拾万円 となります。

しかも、これを買い上げるにあたって、他で買い名乗りをあげるところがなかったと云っています。伊達藩あげての買い入れだったのが、金額をみてもわかるとおもいます。

品川にても、御凉處の御座敷へ、あなた、こなたへ、御張せ被遊候て、冬之内、御池などを御覽被遊候」 : ガラス戸をいれて、冬でも外の景色が見られるようにした、ということでしょう。板ガラスを現代とおなじ使い方をして、窓ガラスとしたのです。

厚さ、遠目鏡の位に御座候」 : 板ガラスの厚さがレンズのようだったといっています。ということは、この板ガラスは鋳造で作られたとみることができます。しかし、これは、大板の場合のようです。善応寺のギヤマン枠の大きさは、内法で578mm(1尺9寸)×753mm(2尺5寸) です。買い入れたガラスの内で一番大きなガラスに相当するようです。

ちなみに、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間(1678~1686)の鏡の1枚当たりの大きさは、760×1070 厚さ 6mm だそうです。これは鋳造法で作られています。

上方にて、蝋障子と申もの御座候」 : 蝋障子とは、どういうものかはよくわかりませんが、想像するに、蝋紙のようなものではなかったのかとおもいます。透けて見えることはできますが、ぼんやりとぼやけて見えるガラスということでしょうか。しかも「びいどろ板よりは、ことの外うすく御座候」というのは、これこそ手吹き円筒法によるガラスではないかとおもわれます。

その当時ヨーロッパでも、手吹き円筒法は、ほそぼそと行われていたようで、大きな寸法のものはまだ、生産されておらず、工業化して、大量に大板を生産できるようになったのは、1851年ロンドン博のクリスタルパレス建築からです。

日本では、口傳によると、長崎で修業した播磨屋清兵衛が、大坂で硝子製造業を宝暦年間(1751~1764)に開始した(『日本近世窯業史』)とされ、それが、大坂におけるガラス製造の始まりだとしていますが、それ以前にすでにガラス板が作られていたことになります。また、司馬江漢は大阪の硝子板職人について記載していますので(天明8年(1788))、それ以前からすでに板ガラスの製造は行われていたということがわかります。

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ということを勘案してみると、善応寺のギヤマン枠には、一番大きな70両もする鋳造法によってつくられた板ガラスが嵌っていた可能性があります。

今回、善応寺を訪問して、この「善応寺舊記」の存在を確認できませんでしたが、寺蔵文書で、天保頃の寺の什物帳では、「硝子が4枚」あったと記載されており、この406枚の板ガラスは善応寺に納められたとしていいのかもしれません。

 

 

 

 

 

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2012年2月12日 (日)

松戸市戸定邸

 松戸市戸定邸は、松戸駅から徒歩で10分程度の小高い丘の上にあります。入口は茅葺きの門で、いかにも質素な造りの建物を連想させます。

というのも、この建物のもとの所有者は、徳川慶喜の弟で、水戸藩11代藩主、徳川昭武だったからです。

徳川昭武は、明治維新後の明治4年から、水戸藩の下屋敷だった小梅邸に住んでいましたが、明治16年家督を篤敬に譲り、明治17年(1884)に竣工した、戸定邸に移り住み、明治43年(1910)小梅邸で、死去しました。享年53才。

その後、昭武の子・武定が、1951年松戸市に寄贈し、一般公開することになりました。

昭武は、小梅邸を本邸とし、戸定邸を別邸とした使い方をしていたようです。

兄慶喜は昭武と趣味の写真など共通するものがあり、明治30年に静岡から東京に転居後、よく戸定邸を訪れていたそうです。

建物は、その間取りなど、当時の様子がよく残っています。あまり大きな改修はされていないようです。

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 さて、明治31年に徳川慶喜が撮影した、戸定邸の写真があります。これを現在の写真と比較してみると、明治31年当時には、まだ、外のガラス障子がないことがわかります。縁側と座敷の間にある、明障子の真ん中にガラスが嵌っているだけのようです。

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昭武の母が住んでいた離れ座敷の外障子のガラス戸を見てみると、手吹き円筒法によって作られたガラスが数多く嵌っています。泡が多く、円筒を回すときにできるスジもついています。

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内障子の真ん中に嵌っているガラスはほとんど新しいフロートガラスのようです。

 

 

 

 

 

 

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ところが、庭に面している表座敷の外障子のガラス戸の中に、あきらかに波を打っているガラスがあります。

しかし、よく見ると、泡が入っていません。おまけにロールを通ったような波のようなゆがみです。おそらく、昭和初めから、生産されはじめた、フルコール法かコルバーン法によるもので、一般にはフロートガラスに対して、普通板と呼ばれるものだろうとおもいます。

建物全体を見てみると、明治時代の写真など、当時の史料もあり、あまり改変されていないようです。

元将軍家というセレブの家にしては、まだ輸入品しかなかったガラスを明治時代後半になっても、建物の周囲すべてに使っていないというのは、かなり質素な生活だったようです。

しかし、ガラス戸の効用は認知していたようで、母の住んでいた離れ座敷にまず使ったのではないかと想像されます。

 

 

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窓ガラスの普及は、このように明治末年でも、まだ一般に普及するまではいたっていなかったのではと思います。

 

 

 

 

 

 

【廊下の結霜硝子入の窓】

2012年2月 6日 (月)

伊達藩下屋敷の板ガラス(調査編)

 前回の続きで、史料の出所がわかりました。大槻文彦著『伊達騒動實錄』明治42年11月16日刊 は乾坤の二分冊になっていますが、そのうちの坤 「第83篇 若狭守綱宗入道嘉心君、卒去の事」に書かれていました。

その中に、善應寺舊記(享保三年(1718)六月九日付)が引用されています。それによると、

品川の下屋敷には、大、中、小、三通りの大きさの“びいどろひしき板”が合計406枚あった。

それは40年以前に長崎に渡ってきたのを買い入れた。

小348枚(1番より17番まで、長、6寸5分まで、幅、3寸5分より、2寸8分まで)、

中46枚(1番より12番まで、長、1尺4寸より、6寸5分まで、幅、1尺より、5寸まで)、

大12枚(1番より6番まで、長、2尺七寸より、1尺7寸まで、幅、1尺8寸より、1尺4寸まで)、

そして、小は1枚について、金3両、中は20両、大は30両、内大は70両までの値をつけた。

厚さは遠目鏡の位で、上方に蝋障子というものがあるが、それは、ことの外うすいので、品川のびいどろひしきとは違うものである。

と書かれています。

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大槻文彦氏は、別に注で、善応寺には今は、硝子1枚を蔵するのみと書いています。

以前、森鴎外が書いていたのは、この本からの引用だとわかります。

とすると、果たして、今、善応寺には、その当時の板ガラスが現存しているのでしょうか。

それを確かめるべく、仙台に飛びました。善応寺は、東仙台駅から徒歩15分程度の、住宅街の中にあります。

 

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アポイントが午後でしたので、午前中、綱宗の霊廟がある瑞鳳殿に行ってきました。ここは、政宗、忠宗、綱宗の三代の霊廟があるところです。戦争で焼失しましたが、昭和54年再建されました。再建にあたって発掘調査をして墓を堀り出し、資料館には、三代の髑髏が展示してありました。綱宗は、歯の病気が原因で亡くなったそうです。

 

 

 

 

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さて、午後善応寺に到着。さっそく、寺蔵の板ガラスを見せていただきました。うすい鉛ガラスのような黄色い色がついていました。厚さは2mm 2方は破損していて、現状で、高さ205mm、幅160mm で、破損していない2辺には、うすく面取りがしてありました。面幅は24mmです。また、小口はカマボコ状に磨いていました。

 

 

 

 

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持ってみた感じでは、鉛ガラスのような重量感はありませんでした。

箱書は、明治33年に書かれていました。

 

 

 

 

 

 

 

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もうひとつ、この寺にギヤマン枠というものがありました。現在は、衝立状の中に両面透明のガラスで挟んでありました。

枠の大きさは幅900mm、高さ1200mm で、中の空洞の枠の大きさは、内法で幅578mm、高さ753mm で、そのまわり縁は13mm程度で黒漆で塗られていました。

 

 

 

 

 

 

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そのまわり縁は今は、埋木がされていますが、溝があってガラスがはまっていたのだろうと推測されます。その埋木の幅は5mm位のようでした。

枠のまわりの装飾は、2頭の龍が右上と左下の位置に頭があり、中央上部には宝珠のようなものが彫られていました。

この彫刻は、裏面も同様の図様です。

さて、この板ガラスと、ギヤマン枠と称する建具は、伊達藩下屋敷にあったものだったのでしょうか。

その検討は、次回ということで。

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