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2012年9月

2012年9月17日 (月)

余呉湖

40

40年ぶりに、賎ヶ岳の山頂に上りました。あの時とほとんど変わらない風景でした。

大学院の2年の時だったか、小浜で調査旅行がありました。今の季節と同じ夏の終わりだったとおもいます。午前中に解散した後、私は、長浜にいる友人に会いに行く約束をしていました。卒業して以来の再開でした。

その友人は、長浜の工場勤務で、独身寮に住んでいました。平日だったので、夕方に会う約束をしていました。それで、時間つぶしに、賎ヶ岳に登ったのだと思います。でも、賎ヶ岳のリフト乗り場までは、木之本からかなりの距離があるので、自転車を借りて行ったのだろうとおもいますが、記憶がありません。

リフトをおりてから、山道を汗かきながら登ると、そこに、静かな山の中にひっそりと余呉湖がありました。雲の影がところどころ水面に影を落としていました。水面は波ひとつなく、鏡のようでした。

この小さな湖を眺めながら、ひと夏の終わりを実感したと思ったのでしょう。

その夕方、長浜で待ち合わせた友人は、長浜いちのホテルでステーキをご馳走してくれました。といっても、その当時の長浜は、何の観光施設もないような単なる田舎町でした。ホテルのレストランといっても、平日は閑散としていて、しかも窓ガラスもろくに磨いていないようなところでした。

せっかくのもてなしに、彼はちょっと不満化でした。そこをすぐに切り上げて、なじみの飲み屋へつれてってくれました。

カウンターとちょっとした座敷しかないような飲み屋でした。近くの工場労働者が帰りにちょっとひっかけるような店でした。

彼はその店に毎日のように通っているようでした。というよりも彼の人なつっこいキャラクターならば、すぐになじみの客になってしまうのは自明でした。

カウンターには、我々とおなじ位の年の妹と姉の姉妹で切り盛りしていました。もっぱら我々の相手をしてくるのは、妹のほうでした。

東京からきた、大学出の人の相手ですから、その飲み屋のオネエちゃんも、他の人とはちょっとちがった待遇をしてきます。

また、友人も調子にのって、その妹をからかうと、気が強いその妹は反論してきます。すると、さすが、近江商人の県だけあって、すぐお金の話をするといって、またからかいます。そんなこんなで、友人と妹のかけあい漫才のような会話で、もりあがっていきました。

宿舎は、わざわざ独身寮の接待用の部屋を取ってくれ、朝、工場の始まる前に、駅まで車で送ってくれました。

それから、何度か再開はしましたが、ある時、年賀状に‘からだには気をつけろよ’という書込がありました。そして、その2、3年後突然、彼の訃報に接しました。

もうあれから10年位経ったのでしょうか。何時という記憶は薄れていきますが、長浜の飲み屋での楽しかった時間は、いつまでも覚えています。

いや、その記憶を甦らせるために、あえて賎ヶ岳に登ろうと思ったのでした。

2012

2012年9月 9日 (日)

『半跏趺坐』再考(作品編)その7

実査、写真では「結跏趺坐」か「半跏趺坐」か判定できない仏像(一)

13 東大寺金堂盧舎那仏坐像

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▲筒井英俊校訂『東大寺要録』巻第二 縁起章第二
‘大仏殿碑文
 ・・・・金銅盧舎那佛像一躰。結跏趺坐高五丈三尺五寸。・・・・’P34

▲倉田文作「盧舎那佛坐像」『奈良六大寺大観』10 東大寺二 1968.8.30
‘この、像内の土砂や構架した材のために、とくに本体の下半身の像内の観察はほとんど不可能であり、当初の部分を確認することは容易でないが、外部からの観察による限りでは、当初の面目を伝える部分は、右腋から下腹にかけての部分と、両手の前膊にかかる袖の大半、結跏趺坐する両脚のほぼすべてなどであり、頭部と右手首は、それぞれ明かに元禄および天正時の新造になるものであるとみてよい。’P52

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 俯瞰の写真を見ると、右足が表現されていません。東京芸術大学の調査では、その膝前部分は創建当初の部分が残っている箇所です。ということは、半跏趺坐だろうという想像はできます。しかし、これだけ大きな仏像が細部まで詳細に彫刻するのかという疑問がよぎります。創建当初、この部分は省略したのではないかという説も考えられなくもない、とおもいます。

14 新薬師寺薬師如来坐像

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▲西川新次「薬師如来坐像」『大和古寺大観』第四巻 1977.2.21
‘両脚は左足を上にして結跏する。’ P32

▲浅井和春「図版解説/1ー3 薬師如来坐像 国宝 新薬師寺 奈良 」 『日本美術全集 第5巻 密教寺院と仏像 平安の建築・彫刻Ⅰ』 1992.8.25  講談社
‘新薬師寺本堂円形土壇の中央、宣字形台座上に左脚を前に結跏趺坐し、左手に薬壺を持つ通形の薬師如来像で、また光背に六化仏を有する一尊七仏薬師の初期の遺品ともいえる。’ P199

▲紺野敏文「12 薬師の呪力を表す木彫像 新薬師寺薬師如来坐像 」 『奈良の仏像』アスキー新書095 2009.2.10  アスキー・メディアワークス
’左手に薬壺(後補)を載せ、右手は斜めにゆったりと構えた施無畏印です。左足を上に結跏趺坐し、大衣を偏袒右肩にまとい、豊かな肉身をのぞかせています。’ P138

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 正面から見た様子では、半跏趺坐をおもわせます。しかし、膝前の俯瞰を見ると、左手の袖が膝上にかかっており、その下にかくれて右足裏があるかもしれないという表現方法ですので、判定はできませんでした。

15 神護寺薬師如来坐像(木心乾漆造)

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▲浅井和春「31 薬師如来坐像 神護寺」『日本美術全集』第5巻 密教寺院と仏像 1992.8.25 講談社
‘左脚を前に結跏するいわゆる降魔坐は、この時期の薬師に一般的な形といえる.’

▲齋藤望「解説Ⅰ 神護寺/11,薬師如来坐像 」 『新修名宝日本の美術 第8巻 神護寺と室生寺』小学館ギャラリー 1992.2.10  小学館
‘その堂々とした手の構えや、大きな左足裏を見せてゆったりと結跏趺坐する姿態には、落ち着きのなかにも大きさが感じられる。’ P47

 左足が右太股の上にしっかりとのっており、右足が左太股にのるスペースも盛りあがりも見受けられませんが、新薬師寺像と同じく左袖が膝上にかかっており、判定は不可能です。

16 神応寺行教律師坐像

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▲長谷洋一「第一節 神応寺行教律師坐像について」『神応寺文化財調査報告書』2001.3.31 八幡市教育委員会
‘神応寺行教律師像は、像高七七.六センチを計り、剃髪、法衣を着し、左足を上にして結跏趺坐する僧形像である。’ P2

 この像は、膝前の奥行きがなく、膝前の衣文も不自然な表現をしており、疑わしいが断定するのはむずかしそうです。

17 室生寺釈迦如来坐像

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▲北川桃雄「室生寺の美術/2 彫刻/弥勒堂の二仏像」『室生寺』 1954.9.15 美術出版社
  釈迦如来像 平安初期
   ‘この像は肥った体を衣に包んで、結跏趺坐(坐禅の形)し、右手は与願の印、左手は施無畏の印を示している。’

▲齋藤望「解説Ⅱ 室生寺/59・60,釈迦如来坐像 」 『新修名宝日本の美術 第8巻 神護寺と室生寺』小学館ギャラリー 1992.2.10  小学館
‘大衣を偏袒右肩につけ、右手施無畏、左手与願印として結跏趺坐する。’ P95

▲清水眞澄「會津八一編/作品解説/仏像・仏教美術解説/87 釈迦如来坐像 室生寺 」 『平城遷都1300年記念 奈良の古寺と仏像ー會津八一のうたにのせてー』 2010.4.24  日本経済新聞社
‘本像は、左手の掌を上に向けて膝上におき、右手は屈臂し掌を上にして結跏趺坐している。’ P261

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 膝前の奥行きから見ると、右足裏を表現するスペースがなさそうです。左手の袖で隠れているので、判定は不能です。

18 黒石寺薬師如来坐像

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▲西川新次「二 藥師如來像」『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 造像銘記篇1 1966.6.1
‘形状
  左足を外にして結跏趺坐する。’P13

▲田中恵「第1部 旧江刺郡の主な仏像・文化財 ⅩⅣ 水沢市黒石町/1,黒石寺 (1)薬師如来坐像[379] 」 『江刺の仏像』江刺市文化財調査報告書 1985.3.31  江刺市教育委員会
‘<形制> 肉髻をつくり、螺髪をつくる。白毫を嵌入し、耳朶は環す。三道を彫出し、大衣を偏袒右肩につけ、左足を前にして結跏趺坐する。’ P144

 右足裏を表現していないようですが、詳細に実見していないので、不明としておきます。

このように、正面からみると、片方の足の表現しか見えない仏像がありますが、はっきりと結跏趺坐をしている仏像でも、目線が膝より下から見上げると、内側の足裏が見えないことがあります。そのために、膝前を上から俯瞰して見ないと、結跏趺坐か半跏趺坐かの判定ができません。
また、上記の仏像のように、袖の衣が膝前にかかると、判定が困難になります。膝の曲がり具合で想像することは非常に危険なので、それもできません。判断がつかない仏像もあるということも知っておく必要があるかもしれません。

参照ブログ

2012年9月 2日 (日)

『半跏趺坐』再考(作品編)その6

実査・写真で「半跏趺坐」と判明する仏像

8 東大寺弥勒如来坐像(試みの大仏)

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●鷲塚泰光「図版解説 50 弥勒仏坐像」『日本美術全集』第6巻 密教の美術 1980.4.28
‘左手を膝上に伏せ、右手は立ててぐっと前方に出して結跏する尺余の像であるが、等身像にもまさる迫力がある。’P198

●伊東史朗「98 弥勒仏坐像」『日本美術名宝展』御在位六十年記念 1986.9.23
‘右掌を胸前で前方に向け、左手は膝上で伏せ、結跏趺坐する。’

●上原昭一「彌勒佛坐像」『奈良六大寺大観』10 東大寺二 1968.8.30
‘胸の厚みより奥行のある頭部や、それを支える広い肩幅、どっしりとした左足を深く腹前にひきよせて組んだ結跏の坐形、・・・’ P64

この仏像は、膝の奥行きが狭く、右足が、左足の太股の上にのるスペースがない。「東大寺ミュージアム」で実見。

9 獅子窟寺薬師如来坐像

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●斎藤経生「37 薬師如来像」『全集日本の古寺』15 四天王寺と大阪・兵庫の古寺 1985,5,21
‘また本像の形制で注目されるのは、左手を膝から放して胸前で、候補ながら藥壺のかわりに宝珠をとり、また結跏趺坐した足首まで衲衣でつつみ込んでいる点である。’

●根立研介「図版解説/102 薬師如来坐像 国宝 獅子窟寺」『日本美術全集』第5巻 密教寺院と仏像 1992.8.25 講談社
‘なお、結跏趺坐する左右足先を衣で包み込む形式は、中国盛唐期の彫像や、奈良時代の唐招提寺盧舎那佛像などに見られる古式なもので、乾漆を併用する技法などとともに、前代の影響を一部にとどめている点は注目されよう。’

去年、東博で開催の「空海と密教美術展」で実見。左足は、衣にくるまれているが、右足は、その足裏の形をあらわしていなかったのを確認した。

10 孝恩寺阿弥陀如来坐像(伝弥勒菩薩坐像)

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●井上正「大阪・孝恩寺弥勒菩薩坐像」『日本美術工芸』529 1983.7.1(『古佛ー彫像のイコノロジー』1986.10.25)
‘螺髪は植え付け(現在脱落)、衣を両肩にかけ、右肩は二重にかかり、右足を前にして結跏趺坐する。’

●吉原忠雄「作品解説/14,弥勒菩薩坐像 貝塚市・孝恩寺 」 『秋季特別展 大阪の仏像ー飛鳥から平安までー』 1991年10月3日 堺市博物館
‘この像は通肩の衣の上に偏袒右肩の着衣とする古式の服制で、右足を前にして結跏趺坐し、両手を胸前にして掌を見せ、各第一・三指を結ぶ。’P65

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大学院時代に孝恩寺の仏像の調査を行ったが、その当時、この阿弥陀如来像は、東博に寄託されており、収蔵庫から台車に載せられて、収蔵庫前の廊下にだしてもらい、そこで調査した時の写真です。その時の東博彫刻室長は佐藤昭夫氏でした。

11 松尾大社男神像(老年相)・男神像(壮年相)

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○伊東史朗『松尾大社の神影』2011.6.30 松尾大社

各個解説
‘三神像
 ・・・・二男神像はともに撲頭冠をかぶり、纓を垂らす。縫腋袍を着し、両手を筒袖の内衣にくるみ笏(候補)を持つ。右足を上にして、仏教でいう半跏趺坐のようにすわる。’P84

去年。松尾大社の宝物館にて、実見。

12 箱根神社万巻上人坐像

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●薄井和男「箱根神社藏 萬卷(滿願)上人坐像」『國華』1287 2003.1.20
‘脚部は左脚を上にして結跏趺坐する。’ P32

●久野健「万巻上人像についてー平安初期の肖像彫刻ー」『平安初期彫刻史の研究』 1974年10月1日 吉川弘文館 P366
‘まず全体観を見ると、肉づきのよい結跏の足がやや胴長な体軀を安定よくささえ、側面観などは、まことに木の量感を充分に生かした堂々たるものである。’

数年前に実見。

以上の仏像及び神像の内、孝恩寺像は、調査当時の写真をもとにして、検証した結果です。その他の仏像、神像は半跏趺坐、結跏趺坐が気になった頃から、実見したものです。したがって、そのことに注目して調査していますので、間違いがないとおもいます。

参照ブログ

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