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2015年8月

2015年8月25日 (火)

『半跏趺坐』再考(作品編)その13 大安寺釈迦如来(その1)

 このシリーズは、なんとなく尻切れトンボになってしまいました。また、再開するには、前後の脈絡がなくなってしまいましたが、いままでのような事実の羅列で、単なる資料の提供だけしていると、それから先が進んでいかないようです。
というよりも、”半跏趺坐”についてこれだけセンセーショナルな事実を提供しても、その事実の持つ重要性を認識してくれる読者がいないようですので、すこしは、この事実から考察できることも書いていこうとおもいます。
まだ、この事実から導き出せる結論がでませんが、もうすこし積み重ねればいくらかの結果がだせるかもしれません。とおもいつつ、書いていこうをおもいます。

○大安寺乾漆釈迦如来坐像
 この仏像は、現存していないのに、論文のテーマとして、しばしば取り上げられてきました。それは、史料がのこっていることと併せて、その造立年代の考察、さらに薬師寺金堂薬師如来坐像との比較によって、ある程度その像容が推測できるのではないかという、期待があったからなのでしょう。それが解明できれば、白鳳時代の基準作例としてその位置を確立できると信じて、彫刻史研究者はこのテーマに挑んでいったとおもわれます。
大安寺釈迦如来像の像容について書かれている史料の中で、まず『七大寺巡礼私記』をとりあげることにします。

『七大寺巡礼私記』大安寺の条

 一、大安寺
   金堂一宇、五間四面瓦葺、四面有歩廊、
  中尊丈六釋迦坐像 以右足敷下、左足置上、迎接引[印カ]也、

この”以右足敷下、左足置上、迎接印也” という一文について最初に解釈したのは、毛利久氏でした。

毛利久「大安寺安置仏像の復原」『日本史研究』3 1946.12.30(『日本佛像史研究』1980.3.31所収)

 ”即ち結跏の法は降魔坐であり、印相は迎接印というが、これは『諸尊図像』に見えているから、左手を膝の上に置き、右手を施無畏にあげたものであることが分明する。”

毛利氏は、この一文を、”結跏趺坐のうち降魔坐である”と解釈しました。それ以後、この解釈を受け継いだ論文は以下のとおりです。

田中嗣人「大安寺の造営と諸尊の造立」『佛教藝術』187 1989.11.30
片岡直樹「大安寺釈迦像の像容について」『新潟産業大学人文学部紀要』6 1997.3
三好直「『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』にみられる大安寺釈迦像について」『博物館学年報』34 2002.2.25

その他に、直接言及をしていませんが、結跏趺坐と解釈していると推測される論文があります。

大橋一章「川原寺の造仏と白鳳彫刻の上限について」『佛教藝術』128 1980.1.25

大橋一章氏は、この史料について直接的に言及していませんが、紀寺跡出土の塼仏を”結跏趺坐”と言い、初唐様式の作品として、さらに中国の貞観元年(627)銘をもつ方形三尊塼仏を取り上げ、”中尊は説法印を結んで右足を前に結跏趺坐し、”としています。大橋氏は、大安寺釈迦像も初唐様式を採り入れた仏像としていますので、当然、『巡礼私記』の一文は”結跏趺坐”という解釈であることは推測できます。

吉村怜「飛鳥白鳳彫刻史試論ー一時代一様式理論への疑問」『佛教藝術』227 1996.7.30

吉村怜氏は、”『七大寺巡禮私記』によると、右足を下に、左足を上に置く坐像で・・・”と言及し、”白鳳時代の幕開けを決定づけたのは、・・・百済大寺の乾漆丈六釈迦像であった。”としています。当然『巡礼私記』の一文を解釈した上で書かれているので、これが結跏趺坐のことだおもったのですが、その判断に不安がよぎり、”坐像”という言い方で逃げたのでしょうか。

その他、大安寺釈迦像について書かれている論文は、

いわゆる白鳳時代の造立である。
様式は、初唐様式を採り入れた。
後世にわたって、すぐれた仏像と認められていた。

という趣旨で、坐法について言及はしていませんでした。

足立康「大安寺金堂本尊について」『國華』564 1936.12(『日本彫刻史の研究』所収)
小林剛「大安寺の丈六釋迦如来像について」『美術研究』163 1951.11.30
田村吉永「大安寺の平城京移轉年代を丈六釋迦像について」『史迹と美術』252 1955.5.1
田中恵「大安寺釈迦像の周辺(その1)(その2)ー日本佛教彫刻における「宗教彫刻」と「信仰造形」について(その2)ー」『岩手大学教育学部研究年報』55-1,55-2 1995.10.29、1996.2.29
奥健夫「清凉寺釈迦如来像の受容について」『鹿島美術財団年報』別冊13 1996.11
中野聰「霊験仏としての大安寺釈迦如来像」『佛教藝術』249 2000.3.30
皿井舞「模刻の意味と機能ー大安寺釈迦如来像を中心にー」『京都大学文学部美学美術史学研究室 研究紀要』22 2001.3.31

はたして、”右足を下に敷き、左足を上に置く”とは、結跏趺坐のことを言っているのでしょうか?以下、いくつかの史料から、その用例を検討してみます。

「起信論疏筆削記」 宋子璿錄(大蔵経 第44巻)398P下

正脚等者。押一脚爲半加。於中以右押左爲降魔坐。
以左押右爲吉祥坐。若兩脚相押爲全加。

「一切經音義」 唐慧琳撰(大蔵経 第54巻)353P中

第五百七十七巻 能斷金剛分
跏趺
・・・
結跏趺坐略有二種一曰吉祥二曰降魔*凡坐皆先以右趾押
左股後以左趾押右股此即右押右手亦左居上名曰降魔
坐諸禪宗多傳此坐若依持明藏教瑜伽法門即傳吉祥爲
上降魔坐有時而用其吉祥坐先以左趾押右股後以右趾
押左股令二足掌仰於二股之上手亦右押左仰安跏趺之
上名爲吉祥坐

「起信論疏筆削記」では、半跏趺坐のうちで、吉祥坐と降魔坐に分類できること、両脚を押すことを全跏(結跏)としていますが、「一切經音義」では、右足、左足の組み方を記述した上で、左右の足のどちらかが上になるかで、吉祥坐と降魔坐をわけています。
いずれにしても、”結跏趺坐”を説明するには、両方の足の置き方をちゃんと記述していますし、省略して、”右足を下に敷き、左足を上に置く”といった説明はしていません。

実際の図像を、半跏趺坐と説明している史料があります。

「圖像抄」巻第八 忿怒 不動明王(『大正図像』3)P35上

護摩儀軌云。畫四臂不動尊。青肉色。二手
金剛拳。頭指小指各曲如鈎形。安口兩角
相如牙。右手持刀令竪。左持索。半跏右押
左坐盤石上。威熖光明遍身如火

Photo

とあり、半跏趺坐とことわり、さらに右足が左足を押すと説明しています。

以前にも書きましたが、薬師寺金堂の薬師如来坐像について、
「圖像抄」巻第二 藥師如來(『大蔵図像』3)P6下

 世流布像有二様
一者揚右手垂左手。是東寺金堂幷南京藥師寺像也。但以左足押右〔月+坒〕坐像也
二者左手持藥壺。以右手作施無畏。或右手曲水指。或火空相捻

Photo_2

とあり、薬壺をもった、半跏趺坐の図像を掲げていますし、実際の薬師寺金堂薬師如来坐像は”半跏趺坐”です。

このように、”半跏趺坐”という言葉はあまり人口に膾炙していないので、丁寧な説明をしたのだとおもいます。ですから、字義通り”右足を下に敷き、左足を上に置く”を形に表せば半跏趺坐になることは明らかでしょう。

毛利氏は『諸尊図像』の釈迦如来坐像の画像をみて、結跏趺坐と判断したのは、この図像の釈迦如来坐像が”結跏趺坐”のように見えたためだろうとおもいます。しかし、この図像は大安寺釈迦如来像を描いたものではなく、一般的な釈迦如来坐像を描いているにすぎないのを見誤ったためなのでしょう。
Photo_3
 ”大安寺釋迦像 左手置膝上 右手揚施無畏
            天下以之為規様(カ)皆用此様矣”

と、手印についての一文です。

2015年8月20日 (木)

三都旅行(京都編)京博ー鉄舟寺千手観音

 最後の京都は、これまた見学箇所は京都国立博物館のみです。
京都国立博物館平成館の常設展に展示されている、寄託品の静岡県清水の鉄舟寺千手観音立像を見るのが目的でした。

Photo_2作品は、ガラスケースに入っていて、ぐるりと見ることができました。
この仏像に対する事前の知識は、奈良時代末から平安時代初期の作品といわれていることで、この点についてじっくり観察したいとおもったこと。
当然、頭上で組まれている脇手は、当初のものかどうかの検証をすること、でした。
まず、多くの脇手は、合掌手と、宝鉢をもつ手の二の腕に取付けていました。普通は、背中にカバンのような膨らみに手を取りつけるのが普通ですが、二の腕に取付るのは、いかにも後から付けたというのが明白です。
頭上手も肩に取付ています。あきらかに、当初は千手観音ではなかったことがうかがえます。
淺湫毅氏は「古代檀像の一遺例ー静岡鉄舟寺の千手観音立像」『学叢』24 平成14年5月20日 で、造像当初は六臂または八臂像であった可能性もある としています。

なぜ、奈良から平安初期の作品かの説明は、淺湫氏の論文にまかせて、ひとつ気になったのは、その着衣です。
肩にかかる布は、背面からみると2枚になっています。外側の幅の狭い布は、天衣で、腰の両脇で、輪のように結び、下にたらしています。内側の布は、スカーフのような、長方形の布のようで、前をあけて肩にかけているようです。

Photo_7

下半身の着衣は、まず裙をつけ、さらにその上に腰巻ストールを2枚つけています。仮に幅広ストールと幅狭ストールとします。幅広ストールは、布の端に連珠などの模様がほどこされていますが、幅狭ストールにはそれがありません。つまり、この腰巻ストールはあきらかに2枚別で、1枚の布を折って着けているのではないことがわかります。さらにバンドは、模様付きであらわされていますが、その上にある前後の折り返しの布がいったい、裙の端なのか、腰巻ストールの端なのか判定に苦しみます。

Photo_4Photo_5

普通は、裙の折り返しがバンドを覆って、バンド自体表現されることは少ないのですが、前部分がこんな小さな折り返しでは、2枚の腰巻ストールの結び目が隠れませんし、腰巻ストールがどう着けられているのか想像がつきません。
また、この折り返しが腰巻ストールのものだとすると、見えるバンドの内側に、裙をとめるバンドがなければなりません。つまり、バンドを2つ締めているということになります。
また、2枚の腰巻ストールは、前中央部分に対称的な折り返しをしており、布の端が不明です。
2枚の腰巻ストールを着ける仏像は、古代では見かけません。また、菩薩像でスカーフをするのも大変珍しい形状です。
この辺は、もうすこし、他の作例を検討した上で、考察すべきかもしれません。
ちなみに、淺湫氏以下、普通の彫刻史研究者は、着衣の部位について、上記の表現とはちがった言い方をしています。

 スカーフ→肩布
 腰巻ストール→腰帯・腰布
 バンド→石帯・腰紐
 裙→裳(裙)

以前、春秋堂日録にも書きましたが、紛らわしい意味を持つ用語は、できるだけさけて、言葉からもつイメージと実物をできるだけ一致したものにしないと、正確な説明ができません。たとえば、”腰布”という言葉の一般的なイメージはポリネシア人が着ている”パレオ”を連想します。すると、普通の読者は”裙”と”腰布”の区別がつきません。これは、美術史で使われる用語だといってもだれも納得してくれないでしょう。また”腰帯”という表現は、普通は、着物を固定する為の細長い布を連想します。しかし、仏像に着けている”腰帯”は、そのような目的で着けていません。つまり、特定の分野しか通用しない言葉は使わないようにしましょうということです。

さて、最近、清水寺式千手観音について、新しい情報が2件ありました。

その1つは、福島県南相馬市小高区にある泉沢石窟のうち、観音堂石仏の清水寺式千手観音の製作年代が特定できる発見があったことです。

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観音堂石仏の前には、覆屋がありましたが、東日本大震災とその余震により倒壊してしまいました。それで、市教育委員会は、新たに覆屋を建設することにし、事前に石仏前の覆屋跡の発掘調査をおこないました。
すると、倒壊した覆屋以前に、2乃至3期にわたる建物遺構を掘り当てました。そして、平安時代の土層から、煤のついた赤焼土器が発見されました。時代は10世紀前半で、灯明器として使われていたものです。
これによって、10世紀前半には、千手観音像の礼拝施設があったということになります。
いままで、清水寺式千手観音で、年代の特定できるものは、三十三間堂の胎内納入品の版画(長寛2年(1164))が最古でしたが、これで10世紀前半までさかのぼることができました。
国指定観音堂石仏発掘調査 現場説明会 Part1 (平成26年1月21日)https://youtu.be/MbSgb919lCc

2つ目は、清水寺式千手観音像に関する論文が発表されたことです。

濱田瑞美「清水寺式千手観音の四十手図像に関する調査研究」『鹿島美術研究』年報第31号別冊 2014年11月15日 P297~P308

濱田氏は、まず絵画の清水寺式千手観音像を12件とりあげて、化仏手のあらわし方をしらべ、文献からは、『千光眼觀世自在菩薩秘密法経』に「二手拳頂上安置化佛」とあることに注目し、清水寺式千手観音はしかるべき経軌に基づいていることを証明しました。さらに、経典には、この図像が大陸に由来していることを記しており、実際、四川省邛崍石筍山磨崖の千手観音(中唐8世紀後半)にすでにあらわれているとしています。
中国の千手観音像は、たしかに頭上で化仏をささげている形をとりますが、日本のように手の平と甲をあわせて、その上に化仏をのせる形とは違い、両手をささげて、指を上に向け化仏を挟んでいる形に見えます。
ちょっと、これは日本の像と同じ像容だといわれてもというところはありますが。
清水寺式千手観音像の像容は、すくなくとも日本で発生したものではないということが証明されたのは、確実な進歩だと思います。あとは、濱田氏も記しているように、中国での源流の究明と、日本での展開の究明という次の課題が待ち受けています。そのためには、前記の観音堂石仏もそのきっかけをつくってくれるかもしれません。

2015年8月16日 (日)

三都旅行(奈良編)『白鳳』展

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 奈良行きの目的は、ただ1箇所「奈良国立博物館」の『白鳳』展のみです。
全体からいえば、これだけの同時代の作品をそろえたのは、さすが国立だけはあるという印象でした。
ただ、「白鳳」といういまだ評価がさだまらない言葉を使ったからには、それなりの定義をしなければならないのでしょうが、
そこのところは、まだ、掘り下げ不足を感じざるをえません。
内藤栄氏は総論のなかで、「白鳳」について以下の説明をしています。

”平成十六年(二〇〇四)、東京・京都・奈良・九州の国立博物館四館で、展示室内及び出版物等における時代表記を日本史の教科書で用いられている表記に統一する方針が打ち出された。これによって、国立博物館においては白鳳時代は「飛鳥時代後期」もしくは「飛鳥時代(白鳳期)」などと表記されることになり、それは今日も続いている。しかし、明治時代以来、多くの研究者が飛鳥時代と奈良時代の間に一つの時代を設定しようとした理由は、そこに飛鳥や奈良とも違う独自の個性を持つ時代を見いだしていたからであろう。本展では白鳳が一つの時代精神を有し、固有の文化を作り上げたと考え、時代表記に「白鳳時代」と用いた。”

たしかに、いわゆる白鳳期は、どういう様式をもった時代なのかについての資料を提供したのは、この展覧会の主旨のように思えますが、いささか消化不良です。

具体的に2点、その問題点を述べることにします。
まず第1点は、坐法という視点です。今回出品された仏像で、衣でかくれて、結跏趺坐か半跏趺坐か判別できない作品をのぞいて、坐像の作例をピックアップすると以下のようになります。

        作品                  坐法       解説

15 独尊塼仏(崇福寺跡出土)         半跏趺坐?  解説:岩井→結跏趺坐
34 如来坐像(櫻本坊)             半跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
79 薬師如来坐像(見徳寺)          半跏趺坐   解説:岩田→記載ナシ
84 阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)      半跏趺坐   解説:岩田→記載ナシ
91 法隆寺金堂外陣旧壁画(六号壁)    結跏趺坐   解説:谷口→記載ナシ
93 大型多尊塼仏(二光寺廃寺出土)    半跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
94 阿弥陀如来塼仏(唐招提寺)       結跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
97 押出阿弥陀五尊像(法隆寺献納宝物) 結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
98 厨子入押出阿弥陀五尊像(法隆寺)   結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
99 金銅板如来三尊像(慶州市月池出土) 結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
100 金銅板菩薩像(慶州市月池出土)   結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
124 塼仏片(小山廃寺(紀寺跡)出土)   半跏趺坐?  解説:岩井→結跏趺坐

中国南北朝時代の仏像の坐法について概観すると、この時代の坐像は、衣で隠れて坐法が判別できない作品をのぞいて、膝部分は箱形をし、片方の足裏を表現しただけの造形が主流です。つまり半跏趺坐が主流であり、両足裏を彫刻した仏像は、壁画を除いて管見のおよぶかぎりほとんど見当たりません。(中国の仏像について、現在のところ調査があまりいきとどいていませんが、北魏の仏像で、2例のみ結跏趺坐の仏像を確認しています。)
中国で結跏趺坐があらわれるのは、おそらく隋からで、唐になると、あきらかに、膝部分の造形方法がかわります。それに伴って結跏趺坐に劇的に変化していったのがわかります。つまり、唐は半跏趺坐の坐法が消滅してしまったのです。(もし、唐時代で半跏趺坐の仏像の作例があればご教授ねがいたい。)

このような、中国における様式の変化から、日本の白鳳時代の仏像を見てみると、櫻本坊、見徳寺、橘夫人念寺仏は、唐様式ではなく、それ以前の様式を踏襲しているということになります。
さらに、塼仏、絵画をみると、一部をのぞいて、唐様式を忠実に採り入れた結跏趺坐に表現しているのです。
これについて、岩井共二氏は(コラム「押出仏と塼仏」P184)

”押出仏・塼仏は、飛鳥時代から作られているが、白鳳時代の早い段階から初唐様式を反映した作例が見られる。押出仏も塼仏も原型を使って制作されるものなので、新様式の受容・習得が容易であることが理由の一つであろう。これに対し、白鳳金銅仏や木彫仏では、中国における隋時代以前の6世紀後半の様式を基調にする作例が多い。これは前時代からの工人や伝統的技術が存在し、保守的な傾向が強いためと考えられる。”

と説明しています。さらに、岩井共二氏は結論として(各論「中国彫刻と白鳳仏」P205)

”「白鳳」という時代は、飛鳥時代から奈良時代への過渡期の時代として位置づけられる。そのため、我々は飛鳥=〔古拙〕と天平=〔古典〕の間を一本の線で繫いで、その一直線上に個々の白鳳仏を並べて様式展開を考えようとしがちであった。しかし日本の様式展開は中国のそれと完全にパラレルな関係にあるわけではない。「古拙な造形は古く、写実的な造形は新しい」というような単純な様式展開ではなかったのが、白鳳時代ではないだろうか。白鳳時代の日本には、中国の北斉・隋・唐、高句麗・百済・新羅の六世紀~七世紀までの新旧様々なスタイルがすでに伝えられている。それらが併存していても不思議ではない。”

坐法について注目すれば、上記のような結論の有効な材料を提供できたのに、その発想がなかったのは残念です。

第2点は、彫刻の白鳳時代を語るには避けてとおれない薬師寺論争についてです。
このカタログでは、薬師寺金堂薬師三尊像の製作年代について、資料の提供という立場に立っているようですが、その資料の提供に問題がありました。
薬師寺論争で、しばしばとりあげられる大安寺釈迦如来坐像について、岩井共二氏は、以下のように言及しています。(コラム「押出仏と塼仏」P184)

”この様式の差異は、塑像・乾漆像と金銅仏の間にもあてはまるようである。『七大寺日記』などで薬師寺金堂薬師三尊像より優れていると評された大安寺の乾漆釈迦像は、天智天皇による造立と伝えるが、現存していない。記録によれば左脚を上にして結跏趺坐する姿であったといい、白鳳時代の寺院出土の塼仏や、當麻寺金堂本尊の塑造弥勒仏坐像などと共通する。同時期の塼仏に表される写実的表現からみて、大安寺像は、遣唐使がもたらした初唐様式を反映した先進的な造形であったと考えられている。そうであれば、白鳳金銅仏にしばしば見られる童形仏とはかなり違った雰囲気の、偉丈夫相の仏像だったということになるだろう。”

『七大寺巡礼私記』には大安寺像を以下のように書いています。

一、大安寺
  金堂一宇、五間四面瓦葺、 四面有歩廊、
中尊丈六釋迦坐像以右足敷下、左足置上、迎接引也、

この右足を下に敷き、左足を上に置く という表現は、結跏趺坐をあらわすものではありません。結跏趺坐ならば、このような表現をするでしょうか。もう片方の足はどのようにしているのでしょうか。これは、あきらかに”半跏趺坐”であることを表現しているのです。古文書で、そのように表現している史料があります。

『圖像抄』(大正蔵圖像三)巻第二 佛頂尊 の頁で、

藥師如來
 世流布像有二樣
一者揚右手垂左手。是東寺金堂幷南京藥師寺像也。但以左足押右(月+坒)坐也
二者左手持藥壺。以右手作施無畏。或右手曲水指。或火空相捻

左足で右股を押す とは、半跏趺坐のことを表現しているのです。図像には説明通り半跏趺坐の絵が描かれています。

春秋堂日録 『半跏趺坐』再考(作品編)その1(2012年7月20日) http://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-ee0e.html
でもすでに発表していますが、薬師寺金堂薬師如来坐像は”半跏趺坐”なのです。

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大安寺像は、遣唐使がもたらした初唐様式の先進的な造形であったならば、なぜ塼仏のように結跏趺坐ではなく半跏趺坐なのでしょうか。
大安寺像は、薬師寺像と形状は、ほぼ同じであったということでしょう。その上で薬師寺像よりすぐれていたと大江親通は判定したということなのでしょう。
ついでに言うと、當麻寺金堂弥勒仏坐像も半跏趺坐です。

白鳳時代の様式を語るにあたって、基本的な認識が共有できなければ、どんな画期的な論を展開しても砂上の楼閣でしかありません。
だいたい、”半跏趺坐”と”結跏趺坐”の違いについて、彫刻史研究者と称する人は、作品をみて判別できないのでしょうか。
それとも坐法などというのは、彫刻の様式にたいして問題となるものではないとでもいうのでしょうか。
それにもまして、美術史学徒が、学問の基本中の基本である作品の観察もろくにできないのでしょうか。

春秋堂日録で、薬師寺金堂薬師如来坐像は半跏趺坐である、と発表してからすでに3年が過ぎています。その間、某美術全集では、堂々と薬師寺像は結跏趺坐だといっています。また、某財閥系美術館館長は、新書で同様のことを書いています。
美術史研究者は、きっと絶海の孤島で、執筆しているのでしょう。それとも、ネットなどというくだらないことしか書いていないメディアなんて読むに値しないとおもっているのでしょう。
いままで、半跏趺坐について書いてきましたが、一編の反論もいただいていません。ネットサーフィンもできない学者しかいないのでしょうか。それとも無視が最良の反論だとおもっているのでしょうか。この学会の人は情報収集能力も分析力も発信力も持ち合わせていないようです。

2015年8月 8日 (土)

三都旅行(大阪編)大阪市中央公会堂

 先日、日帰りで大汗をかきながら、大阪、奈良、京都へ行ってきました。

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まずは、大阪編。中之島の大阪市中央公会堂の見学会を申し込んでいたので、その見学から。この建物は貸し部屋なので、使用していると見学が不可になるのですが、当日は、特別室のみの見学となりました。ステンドグラスは、他に中集会室と、小集会室にあるのですが、粘っても見学はだめでした。秋に抽選でその見学会があるそうです。

特別室は、正面の3階に半円形の窓がステンドグラスの嵌まっている窓です。

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天井には「天地開闢」、壁には「仁徳天皇」「商神素戔嗚尊」「工神太玉命」と大阪にゆかりのある?モチーフで描かれています。

さて、正面の半円窓は、

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両脇の窓にレースのカーテンがあって全体が見渡せませんが、その豪華さに圧倒されます。また、夏の明るい日差しが、より一層、色ガラスの鮮やかさを際立たせています。

特に、鳳凰の部分は、

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翼の一部でピンクのグラデーションのかかったガラスは、報告書によると、「硝酸銀蒸着イリデセント加工」をほどこしているガラスで、玉虫色に変化するのです。

外側からみてみると、その見え方がよくわかります。

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中央部の四角い窓は、可動窓で、円形の4隅には、大阪市の市章である「澪標」が配置されています。

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丸いガラスは、凸レンズで、3種類の大きさで224個使っているそうです。

報告書によると、使用しているガラスの種類は、オパールセントグラス 10種類、キャセドラルガラス 6種類、透明型板 1種類、透明平凸レンズ 3種類で、

ガラスは、全5162片、そのうち、73片は破損のため取り替え、パネル数は、104枚だそうです。

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この建物の沿革を、『重要文化財 大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書』によって、述べると、大阪の株式仲買商 岩本栄之助が明治44年、100万円を大阪市に寄付し、公会堂建設のコンペを行って、早大教授岡田信一郎が1等となり、実施設計に辰野金吾・片岡安が当たり、大正2年6月着工、大正7年10月竣工しました。

岩本は、建設中に株式仲買で失敗し、大正5年10月22日ピストル自殺を図り、29日死去しました。享年39才。

ステンドグラス製作者は、「竣成記念冊子」によると、木内真太郎 ということです。

建物は、戦争で空襲にも会わず、残りましたが、平成11年保存・再生工事を着工し、免震構造を採り入れるなどし、現在でも使われている建物です。

それにしても、中集会室大天井にある「花卉と樹林」柄のシャンデリアのさがっている丸窓9箇所、回廊天井の「海と帆船と澪標」の丸窓10箇所、小集会室折り上げ天井の「果物」柄の四角窓3箇所を、まだ見ていません。

なんとか、全てのステンドグラスが見られる見学会を煩雑に開いてもらえないでしょうか。食事付きというオプションはいいですから、橋下さん。

2015年8月 1日 (土)

横浜のステンドグラス

 神奈川県立歴史博物館へ『仏のすがた 祈りのかたちー県博の仏教美術ー』を見に行ったついでに、近所のステンドグラスを再度見ることにしました。

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玄関入り口の天井にあるステンドグラスは、いつ見ても実にきれいです。ガラスの割れがひとちもありません。

南宋時代の”木造菩薩半跏(遊戯)像”という名称は、相も変わらずおかしいともおもわないのでしょうか。

そこから歩いて、横浜開港記念会館へ。ここのステンドグラスは、東日本大震災の後、見に行きましたが、その時から、さらに状況が悪くなっていました。

以前このブログで、修復後の取付方法に問題があることを書きましたが、その杞憂があたってしまいました。

横浜開港記念会館ステンドグラス施工法

では、ステンレス製の補強棒の取付方法に問題があることを指摘しましたが、東日本大震災でも、かなりゆれたようで、パネルの破損にまではいたらないものの、ダメージが見受けられました。

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格子状に取りつけられた、補強棒に結ばれていた針金がパネルのゆれによってゆるんでしまっていました。こうなると、パネルの重量を支えるという補強棒の役割はなくなってしまいます。かといって、簡単にガラスをはずして、締め直すという費用も出ないということでしょう。

このままだと、パネルにゆがみがでることはまちがいありません。

横浜開港記念会館ステンドグラス(改修後)承前

で指摘したことが現実になってしまいました。

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特に、正面向かって右の”箱根越え”のパネルは、透明ガラスの内側に施工時につけた吸盤のあとがはっきりと見えてきました。ガラスの内側は施工時に念入りにクリーニングしておくべきだったのに、今更どうにもなりません。

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さらに、問題なのは、”内部結露”がおこりはじめていたことです。これは、枠とガラスの間に充填したシールにピンホールがあったため、湿気が中に入って内部のガラスを結露させ、その痕跡が残ってしまう現象です。今のところ枠のそばの一部でしか起こっていませんが、そのうち、ガラス全体が真っ白になってしまいます。

これらも、透明なガラスを一旦はずして、クリーニングしなおすしか方法はありません。といっても、3mもあるガラスを簡単にはずすには、それなりの費用がかかります。

これらの現象はあきらかに施工ミスです。どうするのでしょう?

次は山下公園に停泊している氷川丸へ。

一等特別室に嵌まっている小川三知のデザインといわれるステンドグラスを見学。

オウムの図柄のステンドグラスは、六角形の枠は鉛ではなく、真鍮のような金属をビスで組み立てその中にガラスを嵌めているといった、珍しい技法を用いていました。

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もう一つの一等特別室は、草木の図柄ですが、椿の図柄は、いかにも小川三知らしさのする絵に見えました。

氷川丸は昭和5年竣工で、小川三知はすでに没していますが、田辺千代によると、デザインは残っていたようで、製作は、ベニス工房の天笠鐵五郎によるものといっています。

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そして、もうひとつひさしぶりに、内田定槌邸へ。

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ここのステンドグラスは、殆ど奇をてらわず、ごく標準的な図柄で、家の内部の意匠にうまくマッチしているようです。

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