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2015年8月20日 (木)

三都旅行(京都編)京博ー鉄舟寺千手観音

 最後の京都は、これまた見学箇所は京都国立博物館のみです。
京都国立博物館平成館の常設展に展示されている、寄託品の静岡県清水の鉄舟寺千手観音立像を見るのが目的でした。

Photo_2作品は、ガラスケースに入っていて、ぐるりと見ることができました。
この仏像に対する事前の知識は、奈良時代末から平安時代初期の作品といわれていることで、この点についてじっくり観察したいとおもったこと。
当然、頭上で組まれている脇手は、当初のものかどうかの検証をすること、でした。
まず、多くの脇手は、合掌手と、宝鉢をもつ手の二の腕に取付けていました。普通は、背中にカバンのような膨らみに手を取りつけるのが普通ですが、二の腕に取付るのは、いかにも後から付けたというのが明白です。
頭上手も肩に取付ています。あきらかに、当初は千手観音ではなかったことがうかがえます。
淺湫毅氏は「古代檀像の一遺例ー静岡鉄舟寺の千手観音立像」『学叢』24 平成14年5月20日 で、造像当初は六臂または八臂像であった可能性もある としています。

なぜ、奈良から平安初期の作品かの説明は、淺湫氏の論文にまかせて、ひとつ気になったのは、その着衣です。
肩にかかる布は、背面からみると2枚になっています。外側の幅の狭い布は、天衣で、腰の両脇で、輪のように結び、下にたらしています。内側の布は、スカーフのような、長方形の布のようで、前をあけて肩にかけているようです。

Photo_7

下半身の着衣は、まず裙をつけ、さらにその上に腰巻ストールを2枚つけています。仮に幅広ストールと幅狭ストールとします。幅広ストールは、布の端に連珠などの模様がほどこされていますが、幅狭ストールにはそれがありません。つまり、この腰巻ストールはあきらかに2枚別で、1枚の布を折って着けているのではないことがわかります。さらにバンドは、模様付きであらわされていますが、その上にある前後の折り返しの布がいったい、裙の端なのか、腰巻ストールの端なのか判定に苦しみます。

Photo_4Photo_5

普通は、裙の折り返しがバンドを覆って、バンド自体表現されることは少ないのですが、前部分がこんな小さな折り返しでは、2枚の腰巻ストールの結び目が隠れませんし、腰巻ストールがどう着けられているのか想像がつきません。
また、この折り返しが腰巻ストールのものだとすると、見えるバンドの内側に、裙をとめるバンドがなければなりません。つまり、バンドを2つ締めているということになります。
また、2枚の腰巻ストールは、前中央部分に対称的な折り返しをしており、布の端が不明です。
2枚の腰巻ストールを着ける仏像は、古代では見かけません。また、菩薩像でスカーフをするのも大変珍しい形状です。
この辺は、もうすこし、他の作例を検討した上で、考察すべきかもしれません。
ちなみに、淺湫氏以下、普通の彫刻史研究者は、着衣の部位について、上記の表現とはちがった言い方をしています。

 スカーフ→肩布
 腰巻ストール→腰帯・腰布
 バンド→石帯・腰紐
 裙→裳(裙)

以前、春秋堂日録にも書きましたが、紛らわしい意味を持つ用語は、できるだけさけて、言葉からもつイメージと実物をできるだけ一致したものにしないと、正確な説明ができません。たとえば、”腰布”という言葉の一般的なイメージはポリネシア人が着ている”パレオ”を連想します。すると、普通の読者は”裙”と”腰布”の区別がつきません。これは、美術史で使われる用語だといってもだれも納得してくれないでしょう。また”腰帯”という表現は、普通は、着物を固定する為の細長い布を連想します。しかし、仏像に着けている”腰帯”は、そのような目的で着けていません。つまり、特定の分野しか通用しない言葉は使わないようにしましょうということです。

さて、最近、清水寺式千手観音について、新しい情報が2件ありました。

その1つは、福島県南相馬市小高区にある泉沢石窟のうち、観音堂石仏の清水寺式千手観音の製作年代が特定できる発見があったことです。

Photo_6

観音堂石仏の前には、覆屋がありましたが、東日本大震災とその余震により倒壊してしまいました。それで、市教育委員会は、新たに覆屋を建設することにし、事前に石仏前の覆屋跡の発掘調査をおこないました。
すると、倒壊した覆屋以前に、2乃至3期にわたる建物遺構を掘り当てました。そして、平安時代の土層から、煤のついた赤焼土器が発見されました。時代は10世紀前半で、灯明器として使われていたものです。
これによって、10世紀前半には、千手観音像の礼拝施設があったということになります。
いままで、清水寺式千手観音で、年代の特定できるものは、三十三間堂の胎内納入品の版画(長寛2年(1164))が最古でしたが、これで10世紀前半までさかのぼることができました。
国指定観音堂石仏発掘調査 現場説明会 Part1 (平成26年1月21日)https://youtu.be/MbSgb919lCc

2つ目は、清水寺式千手観音像に関する論文が発表されたことです。

濱田瑞美「清水寺式千手観音の四十手図像に関する調査研究」『鹿島美術研究』年報第31号別冊 2014年11月15日 P297~P308

濱田氏は、まず絵画の清水寺式千手観音像を12件とりあげて、化仏手のあらわし方をしらべ、文献からは、『千光眼觀世自在菩薩秘密法経』に「二手拳頂上安置化佛」とあることに注目し、清水寺式千手観音はしかるべき経軌に基づいていることを証明しました。さらに、経典には、この図像が大陸に由来していることを記しており、実際、四川省邛崍石筍山磨崖の千手観音(中唐8世紀後半)にすでにあらわれているとしています。
中国の千手観音像は、たしかに頭上で化仏をささげている形をとりますが、日本のように手の平と甲をあわせて、その上に化仏をのせる形とは違い、両手をささげて、指を上に向け化仏を挟んでいる形に見えます。
ちょっと、これは日本の像と同じ像容だといわれてもというところはありますが。
清水寺式千手観音像の像容は、すくなくとも日本で発生したものではないということが証明されたのは、確実な進歩だと思います。あとは、濱田氏も記しているように、中国での源流の究明と、日本での展開の究明という次の課題が待ち受けています。そのためには、前記の観音堂石仏もそのきっかけをつくってくれるかもしれません。

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