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2016年3月

2016年3月20日 (日)

半跏趺坐再考(作品編)その14 福光園寺吉祥天坐像

 吉祥天は、佐和隆研『仏像図典』によると、功徳天ともよばれており、経軌では、菩提流支譯『不空羂索神變眞言経』第十一(大正蔵,20-282中)

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で、半跏趺坐と書いています。また、覚禅抄には、2種類ある坐像の吉祥天像は、半跏趺坐に描かれています。

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いままでの、日本における半跏趺坐の系譜をたどってみると、坐像で、半跏趺坐につくるのは、およそ10世紀後半頃までで、それ以後は、ほぼ坐像は結跏趺坐になってしまいます。これは、例外をのぞいて、平安後期以降の坐像は結跏趺坐といってもいいでしょう。
その例外ですが、例えば以前書きました、随心院の金剛薩埵像です。鎌倉時代快慶の作品ですが、この仏像は、金剛薩埵という特殊な像容のため、あきらかに図像を参照して、半跏趺坐にしているということがわかります。福光園寺像も、吉祥天像の図像をあきらかに参照して制作されていることがわかります。しかも、随心院とおなじ慶派の仏師です。慶派は、図像をかなり調べた上で、その時の流行に惑わされずに造像活動をしていることが見えてきます。

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それでは、福光園寺の吉祥天像は半跏趺坐なのでしょうか、出来るだけ近づいてよく観察してみました。左足の足裏はどう見ても確認出来ませんでした。しかも、結跏趺坐ならば、左足は、すくなくとも右太腿にのっていなければなりません。右太腿には、その痕跡も、衣の膨らみもありません。あきらかに 半跏趺坐 です。反論があるのなら、証拠を示して否定してください。(私は聞く耳をもっております。)

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福光園寺吉祥天について、解説されている論文を次にあげてみます。

△塩田義遜「福光園寺の吉祥天像と廃満願寺の十一面観音 」 『甲斐路』 2  1961年9月20日 山梨郷土研究会 34p~39p
▲「彫刻/木造吉祥天女坐像 付・二天立像 御坂町・福光園寺 」 『県指定山梨県の文化財 改訂第1集』 1980年3月31日 山梨県教育委員会 18p~18p
●鷲塚泰光「口絵解説/山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について 」 『佛教藝術』 149  1983年7月30日 毎日新聞社 116p~117p
△「3,中部地方 山梨県/吉祥天坐像及二天像 福光園寺 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 178p~179p
△守屋正彦「山梨県/211,吉祥天坐像及び二天像 福光園寺 」 『日本の仏像<中部>』仏像集成 2 1992年1月15日 学生社 161p~161p
▲丸山尚一「甲斐・伊豆/福光園寺【吉祥天】 」 『東日本 わが心の木彫仏』 1998年11月20日 東京新聞出版局 138p~139p
●鈴木麻里子「第3章 彫刻/49,木造吉祥天及二天像 福光園寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県 555p~557p
●副島弘道「129,吉祥天像、持国天像、多聞天像 福光園寺/銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 194p~200p
△近藤暁子「作品解説/26 吉祥天及二天像 福光園寺(笛吹市) 」 『祈りのかたちー甲斐の信仰ー』山梨県立博物館開館一周年記念特別展 2006年10月14日 山梨県立博物館 144p~145p
△近藤暁子「資料解説/13 吉祥天及二天像 福光園寺(笛吹市) 」 『山梨の名宝』企画展・富士の国やまなし国文祭り記念事業 2013年10月19日 山梨県立博物館 122p~122p

坐法について記述してあるか無いかの分類をしてみると以下のようになります。

▲「趺坐する」
  『県指定山梨県の文化財 改訂第1集』
  丸山尚一『東日本 わが心の木彫仏』

●「結跏趺坐」
  鷲塚泰光『佛教藝術』 149
  鈴木麻里子『山梨県史 文化財編』
  副島弘道『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』

△「記載ナシ」
  塩田義遜『甲斐路』 2
  『日本仏像名宝辞典』
  守屋正彦『日本の仏像<中部>』仏像集成 2
  近藤暁子『祈りのかたちー甲斐の信仰ー』
  近藤暁子『山梨の名宝』

「趺坐する」という表現は、この坐し方が結跏趺坐に見えないと判断したのは正解ですが、それでは、この坐し方が”半跏趺坐”とは知らなかった(実際は、入門書に書いてあるのに知らないはずはない。)か、誰も”半跏趺坐”と言っていないので、まわりを見て、どちらでもとれるあいまいな表現で”趺坐する”と書いたのでしょう。こんなネタばれの表現は、読者を混乱させるだけです。
また、「記載ナシ」とは、普通一般的な結跏趺坐と判断したので、わざわざ記述することはないと判断したという言い訳でしょう。”半跏趺坐”という見立てならば、こんな特殊な坐し方は珍しいので、解説文にそのことを記述しなければ、当然解説文としての形にならないのは明白で、どちらも苦しい言い訳でしかありません。

 昨日(3月19日)山梨県笛吹市の福光園寺に行ってきました。福光園寺で主催の『第3回歴史シンポジウム 吉祥天信仰~祈りとかたち~』に出席するのと、併せてじっくりと吉祥天像の服装と坐法を観察できると予想したからでした。
シンポジウムは、まず基調講演で、「「吉祥天の寺」福光園寺の歴史」とい題で、主に吉祥悔過をおこなう場所としての寺院の歴史を大胆な予測で講演をしていました。ちょっといいすぎかも というところもあったのですが、講演者の室伏徹氏は昔、山梨でいっしょに発掘調査をした人物で、40年ぶりの再会でしたが、氏は小生を全く覚えていないようで、ちょっとがっかり。
つぎに海老澤るりは氏の「福光園寺における吉祥天の造像と信仰」という題で、吉祥天像の所依経典と、像容の特色についての講演でした。最後は、近藤暁子氏の「甲斐における慶派の造像活動」という題で、山梨所在の慶派の仏像についての説明とそれぞれの造像銘についての解説でした。
さて、その後討論の時間が設けられました。事前に質問用紙に記入を求められましたので、吉祥天像は結跏趺坐なのかを質問してみました。海老澤氏は講演中で、福光園寺吉祥天は、結跏趺坐 といっていたからです。氏曰く「片方の足が衣に隠れている可能性もあるので、半跏趺坐とはいえないのでは、もう一度精査してみます。」とのことでした。私は、「この席にいる鈴木麻里子氏は大善寺の薬師如来坐像を半跏趺坐と「山梨県史」で書かれているので、氏の見解を伺いたい」と発言しました。鈴木麻里子氏は「昔のことなので、覚えていません。上から俯瞰でみたこともないのでわかりません」ということでした。
ここで、私の発言は打ち切られましたが、いまの美術史学者の作品に対する向き合い方の、いい加減さが浮き彫りにされました。”知らない”、”もう一度調べてみます”は、いままで何も見てこなかったと白状しているのと同じです。ろくに調査もしないでどうして”結跏趺坐””半跏趺坐”といえるのでしょうか。もうこんな言い訳は聞きたくありませんし、みっともないとおもいませんか。過去の自身の言動に対してあまりにも無責任すぎます。何故、胸襟を開いてちゃんと主張しないのでしょうか。

いままで、このブログで10数回にわたって”半跏趺坐”についての、資料を提供してきましたが、いままでこの件について、なんの反論も、意見もありません。機会を見ては、知り合いの美術史学者に訴えてきましたが、反論することもなく、完全にスルーされてしまいました。それならば、今回はシンポジウムというこういう複数の聴衆のいる前で訴えた方が効率的だとおもい、意を決して発言しました。美術史学者全体の問題にならないのなら、ピンポイントで狙うしかありません。これから、モグラたたきのスタートです。

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