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2018年3月18日 (日)

狛坂磨崖仏 その1

 2月の小雪の舞う寒い日に、狛坂磨崖仏に行ってきました。40数年前に登って以来です。今回は、数ヶ月前から、足腰のトレーニングや、装備などの準備をした上での挑戦です。
まず、車で、道の駅こんぜの里りっとう から林道にはいり、金勝寺を通りすぎて、馬頭観音堂の駐車場で車を置いて登山の開始です。出発地の駐車場は、すでに標高が高く、それほど登らなくてもすむので、一番楽なコースとおもっていましたが、道は、細い尾根沿いの道で、アップダウンの激しい急坂の連続でした。準備していたストックで、なんとか進むことができました。途中、茶沸観音という石をくりぬいた中に仏像が彫られています。この石仏を太田古朴氏は飛鳥時代で、現存最古の仏像である。〔文献6〕といっていますが、何の根拠で言っているのかわかりません。
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「写真:茶沸観音」

歩き始めておよそ一時間で、磨崖仏に到着しました。本物の迫力は、写真をいくら見てもまさるものはありません。これだけ体力を使っても実物を見る価値がありました。しかし、時折,舞う小雪と、膝の疲労が、十分に作品を味わう余裕がありませんでした。第一印象は、鳥の糞とおもわれる白いしみが至る所についていることでした。さらに、頭や肩に落ち葉が溜まっていて、随分と外観を損ねていました。

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「写真:狛坂磨崖仏全体(新)」

40数年前の写真と比べてみると、その当時は9月だったのに、周りの様子は、40数年前とほとんど変わっていないようで、草木が覆っているわけではなく、現状よりも格段に状態がよかったのがわかります。これだけの重要な文化財に十分なメンテナンスがされていないのは、なんとも悲しいかぎりです。

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「写真:狛坂磨崖仏全体(旧)」

 さて、自宅に戻って旅行記でも書こうとおもって調べてみると、この石仏には、さまざまな問題があることに気づきました。その整理をするのにずいぶんと時間がかかってしまいましたが、いくつかの点を指摘しながらこの磨崖仏の実情に迫りたいと思います。

【印相】
 この石仏の中尊の印相は、いままでの論考では、転法輪印(説法印)という説明がほとんどですが、一部の執筆者は、「説法印とおもわれる」といった、断定しないあいまいな表現を使っていて、さらに田中日佐夫氏は説法印に疑問を呈しています(文献11)。

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「写真:狛坂磨崖仏印相(旧)」

転法輪印(説法印)については、光森正士氏が、7種類に分類した図解を発表していますが(文献32)、

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「写真:阿弥陀仏印相図解」

それよりももっと大雑把に分類してみると、右手は掌を正面にむけ、左手は手の甲を正面にむけて、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅰ・Ⅱ)と、両手の掌を正面にむけ、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)に分けられます。狛坂磨崖仏の中尊は、明らかにⅠ・Ⅱ式を表現したものと考えられます。
Ⅰ・Ⅱ形式の印相は、インド・サールナート出土の初転法輪像 インド・サールナート考古博物館(グプタ時代、5世紀後期)に現れています。

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「写真:初転法輪印像(サールナート出土」

中国では、金銅如来坐像 メトロポリタン美術館(中国・唐)があり、

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「写真:金銅如来坐像(メトロポリタン)」

朝鮮半島では、雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊像(統一新羅)が例としてあり、

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「写真:雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊)」

日本では、法隆寺献納宝物の中の押出仏、法隆寺所蔵の塼仏・押出仏もこの形式で表されています。

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「写真:押出阿弥陀五尊(Nー198)」

石仏では、頭塔にある三尊像の中尊もこの形式です。

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「写真:頭塔三尊像」

一方、Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ形式は、インド、中国、朝鮮にもその例がなく(文献34)、日本の法隆寺伝法堂西の間の中尊がその初現とおもわれます。東の間像は掌が正面に向いていないので微妙ですが、造形意図としては、西の間像と同様と考えてもいいかとおもいます。その後日本では、興福院阿弥陀如来、西大寺伝宝生如来、平安時代に入って、広隆寺阿弥陀如来、伏見寺如来、孝恩寺伝弥勒菩薩など、この形式の説法印が主流になっていきます。

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「写真:伝法堂西の間阿弥陀如来」

その後、Ⅰ・Ⅱ形式が日本で消滅したわけではなく、平安後期~鎌倉時代と言われている金屋石仏の伝釈迦如来はこの印相で、例外的に、この形式の作例はあります。

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「写真:金屋石仏伝釈迦如来」

藤岡氏は、8世紀後半にⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式の印相が現れたのは『陀羅尼集経』(史料42)に説く阿弥陀説法印によるものとしています(文献34)。このように、経典によって規定された印相が、主流になっていったとおもわれます。
とすると、狛坂磨崖仏の印相は、左手の指の位置を見れば、どうみても日本で奈良時代に発生したⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式とは見えません。Ⅰ・Ⅱ形式の印相を表現しようとしたと説明するのが常道でしょう。

【坐法】

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「写真:狛坂磨崖仏坐法」

 足を交差している形式を見た歴代の研究者は、戸惑ったのでしょう。交脚像というのは、インド・中国に多数見られるのは承知していても、日本に存在するとは思わなかったとおもいます。なので、毛利久氏はX状に両足を交叉しているとしながら、交脚像と関係があるか(文献8)と判断しかねています。佐々木進氏は、結跏趺坐を崩し、両足を交差させる坐法はいかにも不自然である。(文献25)としていますが、発想が結跏趺坐を崩したとみる執筆者もおり(文献20)、結跏趺坐と言い切っている執筆者も多数います(文献13・16・19・24)。いまさら申すまでもないことですが、結跏趺坐とは、両方の足の甲が他方の股の上のる坐法をいうのです。狛坂磨崖仏は、結跏趺坐の定義に当てはまらないのはあきらかです。作家は、足を交差させる造形を意図していることは見て判断がつきます。

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「写真:雲崗第7窟交脚像」

その交脚像は、石松氏によるとインドでは特定の尊像に限らないで造像され、中国は5世紀代の菩薩像の主役的存在だったが、朝鮮および日本では交脚像の作例は知られていないとしています(文献38)。ただ、石松氏は、中国で交脚坐から結跏趺坐へ変化したという結論は、半跏趺坐の概念を抜きにして論じているため、説得力がありません。狛坂磨崖仏の中尊は日本で唯一交脚坐で造形された尊像であることに反論の余地はないでしょう。ちなみに、小磨崖仏の中尊は蓮華坐のうえに降魔坐の半跏趺坐のようです。

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「写真:狛坂磨崖仏小磨崖仏」

【格狭間】

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「写真:狛坂磨崖仏格狭間」

 中尊は、宣字座にすわり、両脇侍像は蓮華座の上に立ち、ともに3つの格狭間のある須弥壇のうえに乗っています。横の小磨崖仏も、2つの格狭間をもつ須弥壇の上に三尊とも蓮華座の上にのっています。小磨崖仏の格狭間は摩耗していますが、ほぼ同じ形式とみていいでしょう。

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「写真:狛坂磨崖仏横」

この鋭角にしのぎのある形式の格狭間は、四十八体仏の辛亥銘観音菩薩像の台座の格狭間と非常に類似しています。

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「写真:辛亥銘格狭間」

石田茂作氏は、格狭間の形式を5形式に分類し、辛亥年銘像台座の格狭間は、第三類 肘木式に当たるとしています(文献39)。この肘木式は、飛鳥、白鳳、奈良時代に盛行したが、奈良時代に入ると、発展型が優勢になっているとしています。小杉一雄氏は、韓国および四十八体仏の格狭間は、六朝仏の唐草系格狭間の系統ではなく、後漢以来の典型的格狭間の系統で、飛鳥時代の造像の主流が中国直系ではなく、韓国系であったのではないか(文献40)としています。さらに、曽布川直子氏も、7・8世紀の格狭間は中国直系ではなく、一度朝鮮で保持された様式がほぼ同じくして、混交して日本に移入された可能性(文献41)を指摘しています。狛坂磨崖仏の格狭間が辛亥銘の台座と非常に近いこと、その形式が奈良時代には変化していることを考慮すれば、狛坂磨崖仏の格狭間の形式が奈良時代以降である可能性は少ないとみるべきでしょう。

その2に続く

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コメント

春秋堂先輩ご無沙汰しています。
狛坂磨崖仏に行かれましたか・・・。
もう43年も前の夏のこと・・・。
最寄りのバス停までは、当時の石彫班のメンバー全員で行きましたが・・・
私とT夫妻以外のメンバーは、バス停から引き返し・・・
結局私たち3人が此処を訪れました。

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