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2018年3月

2018年3月18日 (日)

狛坂磨崖仏 その1

 2月の小雪の舞う寒い日に、狛坂磨崖仏に行ってきました。40数年前に登って以来です。今回は、数ヶ月前から、足腰のトレーニングや、装備などの準備をした上での挑戦です。
まず、車で、道の駅こんぜの里りっとう から林道にはいり、金勝寺を通りすぎて、馬頭観音堂の駐車場で車を置いて登山の開始です。出発地の駐車場は、すでに標高が高く、それほど登らなくてもすむので、一番楽なコースとおもっていましたが、道は、細い尾根沿いの道で、アップダウンの激しい急坂の連続でした。準備していたストックで、なんとか進むことができました。途中、茶沸観音という石をくりぬいた中に仏像が彫られています。この石仏を太田古朴氏は飛鳥時代で、現存最古の仏像である。〔文献6〕といっていますが、何の根拠で言っているのかわかりません。
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「写真:茶沸観音」

歩き始めておよそ一時間で、磨崖仏に到着しました。本物の迫力は、写真をいくら見てもまさるものはありません。これだけ体力を使っても実物を見る価値がありました。しかし、時折,舞う小雪と、膝の疲労が、十分に作品を味わう余裕がありませんでした。第一印象は、鳥の糞とおもわれる白いしみが至る所についていることでした。さらに、頭や肩に落ち葉が溜まっていて、随分と外観を損ねていました。

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「写真:狛坂磨崖仏全体(新)」

40数年前の写真と比べてみると、その当時は9月だったのに、周りの様子は、40数年前とほとんど変わっていないようで、草木が覆っているわけではなく、現状よりも格段に状態がよかったのがわかります。これだけの重要な文化財に十分なメンテナンスがされていないのは、なんとも悲しいかぎりです。

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「写真:狛坂磨崖仏全体(旧)」

 さて、自宅に戻って旅行記でも書こうとおもって調べてみると、この石仏には、さまざまな問題があることに気づきました。その整理をするのにずいぶんと時間がかかってしまいましたが、いくつかの点を指摘しながらこの磨崖仏の実情に迫りたいと思います。

【印相】
 この石仏の中尊の印相は、いままでの論考では、転法輪印(説法印)という説明がほとんどですが、一部の執筆者は、「説法印とおもわれる」といった、断定しないあいまいな表現を使っていて、さらに田中日佐夫氏は説法印に疑問を呈しています(文献11)。

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「写真:狛坂磨崖仏印相(旧)」

転法輪印(説法印)については、光森正士氏が、7種類に分類した図解を発表していますが(文献32)、

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「写真:阿弥陀仏印相図解」

それよりももっと大雑把に分類してみると、右手は掌を正面にむけ、左手は手の甲を正面にむけて、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅰ・Ⅱ)と、両手の掌を正面にむけ、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)に分けられます。狛坂磨崖仏の中尊は、明らかにⅠ・Ⅱ式を表現したものと考えられます。
Ⅰ・Ⅱ形式の印相は、インド・サールナート出土の初転法輪像 インド・サールナート考古博物館(グプタ時代、5世紀後期)に現れています。

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「写真:初転法輪印像(サールナート出土」

中国では、金銅如来坐像 メトロポリタン美術館(中国・唐)があり、

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「写真:金銅如来坐像(メトロポリタン)」

朝鮮半島では、雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊像(統一新羅)が例としてあり、

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「写真:雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊)」

日本では、法隆寺献納宝物の中の押出仏、法隆寺所蔵の塼仏・押出仏もこの形式で表されています。

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「写真:押出阿弥陀五尊(Nー198)」

石仏では、頭塔にある三尊像の中尊もこの形式です。

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「写真:頭塔三尊像」

一方、Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ形式は、インド、中国、朝鮮にもその例がなく(文献34)、日本の法隆寺伝法堂西の間の中尊がその初現とおもわれます。東の間像は掌が正面に向いていないので微妙ですが、造形意図としては、西の間像と同様と考えてもいいかとおもいます。その後日本では、興福院阿弥陀如来、西大寺伝宝生如来、平安時代に入って、広隆寺阿弥陀如来、伏見寺如来、孝恩寺伝弥勒菩薩など、この形式の説法印が主流になっていきます。

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「写真:伝法堂西の間阿弥陀如来」

その後、Ⅰ・Ⅱ形式が日本で消滅したわけではなく、平安後期~鎌倉時代と言われている金屋石仏の伝釈迦如来はこの印相で、例外的に、この形式の作例はあります。

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「写真:金屋石仏伝釈迦如来」

藤岡氏は、8世紀後半にⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式の印相が現れたのは『陀羅尼集経』(史料42)に説く阿弥陀説法印によるものとしています(文献34)。このように、経典によって規定された印相が、主流になっていったとおもわれます。
とすると、狛坂磨崖仏の印相は、左手の指の位置を見れば、どうみても日本で奈良時代に発生したⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式とは見えません。Ⅰ・Ⅱ形式の印相を表現しようとしたと説明するのが常道でしょう。

【坐法】

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「写真:狛坂磨崖仏坐法」

 足を交差している形式を見た歴代の研究者は、戸惑ったのでしょう。交脚像というのは、インド・中国に多数見られるのは承知していても、日本に存在するとは思わなかったとおもいます。なので、毛利久氏はX状に両足を交叉しているとしながら、交脚像と関係があるか(文献8)と判断しかねています。佐々木進氏は、結跏趺坐を崩し、両足を交差させる坐法はいかにも不自然である。(文献25)としていますが、発想が結跏趺坐を崩したとみる執筆者もおり(文献20)、結跏趺坐と言い切っている執筆者も多数います(文献13・16・19・24)。いまさら申すまでもないことですが、結跏趺坐とは、両方の足の甲が他方の股の上のる坐法をいうのです。狛坂磨崖仏は、結跏趺坐の定義に当てはまらないのはあきらかです。作家は、足を交差させる造形を意図していることは見て判断がつきます。

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「写真:雲崗第7窟交脚像」

その交脚像は、石松氏によるとインドでは特定の尊像に限らないで造像され、中国は5世紀代の菩薩像の主役的存在だったが、朝鮮および日本では交脚像の作例は知られていないとしています(文献38)。ただ、石松氏は、中国で交脚坐から結跏趺坐へ変化したという結論は、半跏趺坐の概念を抜きにして論じているため、説得力がありません。狛坂磨崖仏の中尊は日本で唯一交脚坐で造形された尊像であることに反論の余地はないでしょう。ちなみに、小磨崖仏の中尊は蓮華坐のうえに降魔坐の半跏趺坐のようです。

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「写真:狛坂磨崖仏小磨崖仏」

【格狭間】

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「写真:狛坂磨崖仏格狭間」

 中尊は、宣字座にすわり、両脇侍像は蓮華座の上に立ち、ともに3つの格狭間のある須弥壇のうえに乗っています。横の小磨崖仏も、2つの格狭間をもつ須弥壇の上に三尊とも蓮華座の上にのっています。小磨崖仏の格狭間は摩耗していますが、ほぼ同じ形式とみていいでしょう。

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「写真:狛坂磨崖仏横」

この鋭角にしのぎのある形式の格狭間は、四十八体仏の辛亥銘観音菩薩像の台座の格狭間と非常に類似しています。

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「写真:辛亥銘格狭間」

石田茂作氏は、格狭間の形式を5形式に分類し、辛亥年銘像台座の格狭間は、第三類 肘木式に当たるとしています(文献39)。この肘木式は、飛鳥、白鳳、奈良時代に盛行したが、奈良時代に入ると、発展型が優勢になっているとしています。小杉一雄氏は、韓国および四十八体仏の格狭間は、六朝仏の唐草系格狭間の系統ではなく、後漢以来の典型的格狭間の系統で、飛鳥時代の造像の主流が中国直系ではなく、韓国系であったのではないか(文献40)としています。さらに、曽布川直子氏も、7・8世紀の格狭間は中国直系ではなく、一度朝鮮で保持された様式がほぼ同じくして、混交して日本に移入された可能性(文献41)を指摘しています。狛坂磨崖仏の格狭間が辛亥銘の台座と非常に近いこと、その形式が奈良時代には変化していることを考慮すれば、狛坂磨崖仏の格狭間の形式が奈良時代以降である可能性は少ないとみるべきでしょう。

その2に続く

狛坂磨崖仏 その2

承前

【狛坂寺】
 狛坂寺の歴史を語る前に、金勝寺の歴史を知る必要があります。金勝寺は、奈良時代、良弁僧正によって創立された後、弘仁年中に興福寺僧の願安によって再興され、天長10年(833)に定額寺に列せられ(史料45)長く信仰を集めていました(史料46)。仏像も十世紀の造像と思われる仏像から平安後期の仏像が多数残っています。狛坂寺は、大永6年(1526)の縁起によると(史料47)、弘仁7年(816)、僧願安によって金勝寺の別院として建立されたとしています。ただ、この縁起には磨崖仏の記載がないことが気になるところです。林博道氏によると、その後、回禄と再建をくりかえし、明治維新に廃寺となったとしています(文献30)。現在の狛坂磨崖仏のそばには、石垣があって、建物跡があります。

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「写真:狛坂寺址石垣」

斉藤氏は、金勝寺所蔵「金勝寺寺領牓示絵図」に狛坂寺伽藍が金勝寺西方の山中に描かれている(文献7)としていますが、この絵図は平安の原本ではなく、鎌倉中期の写本だと注記していて、平安時代に狛坂寺が金勝寺の末寺であったとの根拠としています。しかし、嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』の大菩提寺(金勝寺)の項に二十五箇別院が列挙されていますが、狛坂寺に該当する寺院がありません。ということから考えると、大永6年以前の、金勝寺と狛坂寺との関係は不明としたほうがいいと思います。
林博道氏によると(文献29)、石山寺に狛坂寺出土と伝えられる軒丸瓦二点が保管されていると言うのです。寛政年間、石山寺座主だった尊賢僧正が収集したもので、拓影集『古瓦譜』にその収集のいきさつが著されています。この拓本は4点で、3つは7~8世紀の複弁蓮華文の軒瓦で、ひとつは斜め格子状の模様がある平瓦です。林氏は、この平瓦と同じ模様の瓦片を現地で採集しているというのです。この論文は、ほとんどの研究者が注目していません。(李廷冕氏がその論文でとりあげてはいますが、懐疑的な言及をしています(文献22))。これだけの証拠がありながら、発掘調査などで検証しないのはどういうことでしょう。

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「写真:駒坂寺出土瓦」

 もうひとつ、狛坂寺址の地理的な位置について考察する必要があります。金勝寺は、金勝山頂の北側に位置し、草津方面から南に金勝山に向かってのぼるルートが主要だったとおもいます。『興福寺官務牒疏』に書かれている二十五箇別院は(史料48)、皆、金勝寺から北北西から北東方面に存在しています。

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「写真:金勝山地形図」

狛坂磨崖仏へは、3つのルートがあります。ひとつは北の鶏冠山を通って、白石峰から、下るルート。もうひとつは上桐生からなだらかな山道を登るルート。最後は大戸川沿いの桐生辻から一気に北上して登るルートです。3ルートとも、西および南側からのルートです。狛坂磨崖仏と金勝寺は、尾根伝いに通る道です。しかも途中に竜王山、白石峰と2つの頂を通るルートになっています。標高でいうと、金勝寺は530m、馬頭観音堂595m、竜王山は605m、白石峰は580m、狛坂磨崖仏は480mとなります。つまり、もともと狛坂寺が、金勝寺の別院として創立したにしては、連山の東西の端に位置していること、距離的に離れていること、また、寺にはそれぞれ別々のルートで行かなければならないことを考えると、二つの寺院がもともと関係があったのかは、もう少し精査が必要です。

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「写真:金勝山断面図」

【時代判定】
 この磨崖仏の製作年代を今までの執筆者から分類すると次のようになります。

  1. 白鳳(奈良前期)・・・太田古朴(文献4・6)、田中日佐夫(文献11)
  2. 奈良(8世紀)・・・・・・秦秀雄(文献5)、斉藤孝(文献7)、水野敬三郎(文献20)、李廷冕(文献22)、佐々木進(文献25)
  3. 奈良末~平安初期(8世紀末~9世紀初)・・・毛利久(文献8)、宇野茂樹(文献9)、久野健(文献10)、川勝政太郎(文献2・3)、宮本忠雄(文献16)、水野さや(文献26)
  4. 平安後期・・・堀井三友(文献1)

この磨崖仏の製作者は、渡来した新羅の工人ではないか、と推測したのは、川勝氏でした(文献2)。それをさらに発展して、詳細な論考をしたのが斉藤孝氏でした(文献7)。まず、斉藤氏の論文から新羅的要素を三点述べています。

  1. この三尊は花崗岩に刻まれた磨崖仏である。
  2. この三尊は唐風の様式で、木彫仏に迫るような本格的な様式で表現されている。
  3. この三尊は壁面から完全な浮彫りになっている。

この条件は、新羅の南山七仏庵三尊磨崖仏とおなじ条件で満たされている。さらに、花崗岩を刻む技術は、日本では鎌倉時代にまで下るということなど、その石匠は半島の帰化系民か、あるいは新羅文化と深いかかわりをもった本邦人ではないか。としています。
毛利久氏もそれに付け加えて、中尊の形状がブロック状積み重ね式で構成されている。さらに、脇侍菩薩像の一八〇度的立ち方、胡桃形の連弁は、南山七仏庵磨崖仏に見いだされる(文献8)。としています。この新羅系工人説は、さまざまな周辺情報を根拠として付け加えながら、その後の研究者に受け継がれていきました。そのため、2 奈良説をとる研究者は、この新羅工人説を採用して時代判定をし、さらに、3 奈良末~平安初期説をとる研究者は、奈良時代の願安の活躍から、金勝寺の創立時期を考慮したうえで、時代判定をしているように見えます。
それに対して、田中日佐夫氏は、格狭間の様式、仏像の形体から、この磨崖仏は白鳳時代の様式を持っているとし、狛坂の狛は「高麗」であり、「高句麗」を意味するので、高句麗からの渡来人による造像の可能性を指摘しています(文献11)。

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「写真:南山七仏庵磨崖仏」

また、李廷冕氏は、新羅七仏庵三尊磨崖仏との比較から、七仏庵像を八世紀初半の造立とし、狛坂磨崖仏は八世紀初半から中期に至る間に造立され、百済系渡来人による造像と結論づけました(文献22)。この田中氏と李氏の新羅工人説の否定は、説得力があります。というのは、新羅工人説を唱える執筆者は、一様に、この金勝山の花崗岩が露出する風景が、慶州南山の風景と類似することを根拠としているからです。しかし、磨崖仏は、彫刻する素材の石があれば、どこであっても造像が可能です。風景が造像の根拠であるというのは薄弱な材料です。

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「写真:狛坂磨崖仏見上げ」

さらに、花崗岩という堅い石を刻む技術が日本にはないから、新羅工人によるものという推測も、たとえば、頭塔の石仏は花崗岩製ですし、奈良時代には花崗岩の加工を日本でおこなっている事実を考えればあてはまりません。石工の技術は、道具がそれに対応したものがその当時あったかどうかが問題なのであって、石の大小で判断されるべきではありません。様式の比較も、個人の感覚に依拠するような見た目の判断は慎まなければなりません。これとこれ、似ているでしょう。といわれてもどこがどう似ているの?ということに客観的に答えられなければ学問として成り立たなくなります。
 美術史の様式論は、その時代を反映したものであり、基本は時代を超えて存在するものではありません。例外的に過去の様式の複製、模倣という形が存在しますが、その違いを判断できるのが美術史としての学問でしょう。ということは、その時代の様式とその時代がしっかりと把握されていれば、時代判定の確実なものとなるのは明白です。

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「写真:狛坂磨崖仏中尊(新)」

 狛坂磨崖仏の中でいくつかの形状とその様式について検証してきましたがそれにもとづいて判定することにします。

まず、印相についていえば、狛坂磨崖仏中尊の印相は、Ⅰ・Ⅱ式の説法印との判定からすると、このⅠ・Ⅱ式の形式の印相は日本では、奈良時代にⅣ・Ⅴ・Ⅵ式に代わっていることがわかります。Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ式は平安時代には主流になっていることを考慮すれば、平安初期の造像とは考えにくいことになります。

坐法についていえば、日本にも、朝鮮半島にもない交脚坐は、すくなくとも朝鮮半島から経由した様式ではないことがわかります。中国からの直接的な流入として考えるべきでしょう。

格狭間についていえば、白鳳時代の基準作例のそれと類似していること、格狭間のような装飾の様式は、時代とともに変化していくのが普通であるということを考慮すれば、白鳳時代と判定するのが本来です。

狛坂寺の創立については、史料の不足もあり、断定的なことはいえませんが、新羅工人説を全面的に信用はできないこと、さらに、林博道氏の発見された瓦に対して検証すべく、磨崖仏周辺の発掘調査の必要性を感じます。

また、良弁、願安とのかかわりは、あくまでも奈良時代にかかわったという前提ですので、狛坂寺の創建がそれ以前ということならば、その接点はないというべきでしょう。白鳳時代には、崇福寺の例もあるように、すでに山岳寺院は存在していたのであり、山岳寺院創建の根拠となる理屈も存在していたとすべきで、狛坂寺の白鳳時代創建説に支障はないとおもわれます。

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「写真:狛坂磨崖仏横(新)」

文献リスト

〔狛坂磨崖仏〕

  1. 三友生「狛坂寺磨崖佛踏査記 」 『東洋美術』 16  1932年11月10日 飛鳥園 140p~144p
  2. 川勝政太郎「第六章 古石佛巡禮/三一、金勝山彌陀三尊磨崖佛」『日本の石佛』 1943年6月1日 232p~235p
  3. 川勝政太郎「日本石佛の性格ー特に材質と彫成手法を中心としてー」『佛教藝術』 30 1957年1月30日 20p~32p
  4. 太田古朴・辰巳旭・細川政之介「近江金勝山狛坂寺跡奈良時代大磨崖丈六弥勒説法浮彫像 」 『石仏』 3  1964年10月10日 奈良石造美術研究会 33p~36p
  5. 秦秀雄「埋もれていた奈良朝の石仏 ー狛坂廃寺跡の大磨崖仏ー」 『芸術新潮』 17-12(204) 特集1: ボナールをつぐ色彩 [Pierre Bonnard]/特集2: 美のガラス3000年 1966年12月1日 新潮社 92p~93p
  6. 太田古朴「白鳳/八 日本第一の磨崖仏/丈六弥勒大説法磨崖仏ー近江狛坂寺ー 」 『飛鳥 奈良ー仏像鑑賞シリーズ1ー』 1971年2月20日 綜芸舎 40p~41p
  7. 斉藤孝「江州狛坂寺址大磨崖仏私見 ー我国奈良時代と統一新羅の石仏ー」 『原弘二郎先生古稀記念東西文化史論叢』 1973年1月20日 原弘二郎先生古稀記念会 315p~336p(『日本古代と唐風美術』 1978年5月20日)
  8. 毛利久「当麻寺弥勒仏像と新羅様式」『日本のなかの朝鮮文化』 20 1973年12月25日 4P~11P(『仏像東漸』 1983年3月10日 )
  9. 宇野茂樹「第二編 第二期の近江宗教彫刻/第四章 金勝山寺の諸尊像/(四)別院狛坂寺阯磨崖仏」『近江路の彫像』 1974年5月25日 雄山閣出版 161p~164p
  10. 久野健「日本の石仏/3,狛坂廃寺の磨崖仏 」 『石仏』ブック・オブ・ブックス 日本の美術・36 1975年12月10日 小学館 128p~131p
  11. 田中日佐夫「狛坂寺大磨崖仏とその周辺 」 『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』 1976年1月11日 柴田實先生古稀記念会 525p~539p
  12. 「遺品編/狛坂寺磨崖仏 滋賀県栗太郡栗東町 」 『日本石造美術辞典』 1978年8月25日 東京堂出版 96p~97p
  13. 久野健「図版解説 狛坂廃寺/20 狛坂磨崖仏・如来三尊像 」 『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年11月23日 集英社 127p~127p
  14. 毛利久「狛坂磨崖仏と金軆寺/狛坂磨崖仏 」 『近畿文化』 396 1982年11月1日 近畿文化会 1p~2p
  15. 「4,近畿地方(一) 滋賀県/狛坂磨崖仏如来形三尊像 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 233p~233p
  16. 宮本忠雄「作品解説 石山寺と近江の古寺/38,狛坂磨崖仏 如来形三尊像 」 『全集日本の古寺 5 石山寺と近江の古寺』 1985年7月21日 集英社 135p~135p
  17. 邊見泰子「近畿/狛坂寺跡磨崖仏 」 『磨崖仏紀行』 1987年1月23日 平凡社 46p~48p
  18. 佐々木進「栗太郡/167,狛坂磨崖仏 」 『日本の仏像<滋賀>』仏像集成 4 1987年2月1日 学生社 132p~133p
  19. 高梨純次「佛解説/狛坂磨崖仏 栗太郡栗東町荒張字狛坂 」 『滋賀の美 佛 湖南・湖西』 1987年3月26日 京都新聞社 196p~196p
  20. 水野敬三郎「図版解説/141 狛坂磨崖三尊仏 史跡 栗東町 滋賀 」 『日本美術全集 第4巻 東大寺と平城京 奈良の建築・彫刻』 1990年6月8日 講談社 228p~228p
  21. 佐々木進「滋賀県(湖東・湖南・大津)/良弁と金勝寺ー狛坂磨崖仏 」 『仏像を旅する 東海道線ー東下りと上方への道、民俗・文学・文化財ー』 1990年10月10日 至文堂 263p~265p
  22. 李廷冕「近江狛坂寺址磨崖佛についてー特に朝鮮渡来人と関連してー」『リベラル・アーツ(札幌大学教養部教育研究)』 4 1991年1月15日 73p~101p
  23. 「美術工芸編 第二章 彫刻/41,狛坂磨崖仏 荒張 」 『栗東の歴史 第四巻 資料編Ⅰ』 1994年3月31日 栗東町 228p~228p
  24. 村田靖子「第Ⅶ章 韓半島/顏貌表現・裳懸座/統一新羅時代/磨崖如来坐像 滋賀・狛坂廃寺 」 『仏像の系譜ーガンダーラから日本までー』 1995年5月19日 大日本絵画 240p~242p
  25. 佐々木進「本文/狛坂磨崖佛 」 『國華』 102-7(1216) 特輯 日本の石佛(下) 1997年2月20日 國華社 15p~17p
  26. 水野さや「図版解説/88 狛坂磨崖三尊像 」 『日本美術全集 第3巻 東大寺・正倉院と興福寺 奈良時代Ⅱ』 2013年9月2日 小学館 243p~244p
  27. 「第1章 滋賀の仏像の歴史/3 近江国での寺院の建立ー飛鳥時代から奈良時代/狛坂磨崖仏 (栗東市) 」 『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』 2015年1月30日 サンライズ出版 12p~12p

〔狛坂廃寺〕

  1. 28 高梨純次「図版解説/狛坂廃寺」『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年7月21日 集英社 127p~127p
  2. 29 林博道「石山寺に蔵する『古瓦譜』およびその古瓦について」『考古學雜誌』 67-4 1982年3月31日 48p~62p
  3. 30 林博通「第二部 近江の古代寺院/狛坂寺跡(栗太郡栗東町荒張) 」 『近江の古代寺院』 1989年5月30日 近江の古代寺院刊行会 332p~337p
  4. 31 宇野茂樹「草創期の金勝寺」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 12p~14p

〔印相〕

  1. 32 光森正士「阿弥陀仏の印相図解」『阿弥陀仏彫像』 1975年4月15日 (『日本の美術』241 阿弥陀如来像 1986年6月1日)
  2. 33 神戸佳文「小野万勝寺阿弥陀如来坐像についてー説法印を結ぶ阿弥陀如来坐像の一例ー」『塵界』 6 1993年3月31日 91p~111p
  3. 34 岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」『美術研究』 373 2000年3月30日 1p~47p
  4. 35 藤岡穣「説法印阿弥陀如来像をめぐる試論」『待兼山論叢』 35 2001年12月20日 1p~27p
  5. 36 中野聰「法隆寺伝法堂西の間阿弥陀如来坐像の印相について」『美術史研究』 41 2003年12月15日 147p~264p(『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)
  6. 37 中野聰「頭塔の阿弥陀三尊石仏をめぐる一考察」『日本宗教文化史研究』 13-1 2009年 (『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)

〔坐法〕

  1. 38 石松日奈子「中国交脚菩薩像考」『佛教藝術』 178 1988年5月30日 55p~83p

〔格狭間〕

  1. 39 石田茂作「香様の起源と發展」『考古學雜誌』31-7・8 1940年7月・8月(『佛教考古學論攷』 六 雜集編 1977年12月30日)
  2. 40 小杉一雄「格狭間について」『美術史研究』 7 1969年3月20日 1p~26p
  3. 41 曽布川直子「格狭間の変遷ー東アジアにおける文化受容の一例としてー」『デザイン理論』 40 2001年11月11日 1p~14p

〔史料〕

  1. 42 「陀羅尼集經 巻第二」『大正蔵』18 800p下
  2. 43 「覺禪抄 巻第六」(阿彌陀上)『大正蔵図像』4 455p上
  3. 44 「阿娑縛抄 巻第五十三」(阿彌陀許可作法)『大正蔵図像』8 1103p上
  4. 45 「天長十年(833)九月八日条」『続日本後記 巻第二』
  5. 46 「寛平九年(897)六月廿三日太政官符」『類従三代格 巻第二 佛事上 年分度者事』
  6. 47 「史料篇/江州狛坂寺本尊縁起 」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 116p~117p
  7. 48 「興福寺官務牒疏」『大日本佛教全書』寺誌叢書三

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