建築

2009年6月22日 (月)

日吉館の取り壊し

Photo 今日(22日)から、日吉館の取り壊しが始まるという記事があったそうです。地方版とはいえ、建物が取り壊されるだけで、記事なるというのは、すごいことだなあ、と改めて日吉館の偉大さを感じることとなりました。それだけ、多くの人の思い入れがある旅館だったのでしょう。単なる建物という箱ではなく、そこに詰まった思いこそが、真の文化財としての価値なのでしょう。

日吉館の思い出の写真をさがしていたところ、拓本の写真が見つかりました。日吉館に泊まった人ならば、よく思い出せばわかるかもしれません。

Photo_2 それが1階にあったのか、記憶にありませんが、拓本をちりばめて貼り付けた屏風がありました。何回か泊まるうちにそれが気になってしかたがありませんでした。そして、そのうちのいくつかを写真にとりました。どうも、鏡、画像石の拓本のようでした。その中で、文袮麻呂墓誌の拓本がありました。その当時おそらくそれがどういうものか知っていたので、写真を撮ったのでしょう。

あいにくと、全体の写真がありませんので、思い出していただけるかわかりませんが、何気ないところに、大変なものがあったような気がします。

前回のブログで、友人が日吉館で手伝いをしていた、と書きました。彼は、サークルの合宿のとき、その世話役をしている様子が、おばさんに気に入られ、彼が、大学卒業の時に、学生時代の思い出にと、日吉館で、1ヶ月程手伝いをしていました。就職先が大阪だったので、就職してからも、ちょくちょく出入りしていたようです。結婚して、新居を奈良に決めてからも、ずっと出入りをしていたようです。彼は、それで日吉館の内情を熟知していました。彼の言うには、日吉館で出されるすきやきの肉は相当質のいい肉だったそうです。彼いはく、これで採算がとれるのかわからない、といっていました。

Photo_3 その彼が結婚するとき、おばさんは、東大寺大仏蓮弁の拓本をお祝いに贈りました。彼はそれを大切に飾っていました。

その友人は、数年前突然、彼岸へと旅立ちました。暇になったら、昔話に花を咲かせようとした時期でした。日吉館の話ももう聞けなくなりました。

日吉館は木造の建物なので、1週間もすれば、きれいに更地になっていることでしょう。そうなっても、記憶には、しっかりと焼き付けておきましょう。本当の文化財としての価値はそれぞれの頭の中にあるのですから。

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2009年6月 7日 (日)

旧西尾家住宅

 旧西尾家住宅(吹田市文化創造交流館)はJR吹田駅より徒歩で10分位の住宅地の中にありますが、敷地がおよそ4500㎡もあります。西尾家は江戸初期より、この地の庄屋で、14代続いていましたが、当主没後、相続税として物納し、今は吹田市が管理しているとのことです。建物は明治中期の主屋と、大正14年、武田五一によって設計された離れがあります。

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武田五一の後妻がこの西尾家で育てられており、いはば、妻の実家のような家であったらしく、11代の隠居所として、離れを設計したとのことです。建物は木造平屋で、洋風棟と和風棟にわかれ、渡廊下によってつながれています。

洋館は撞球室と洋間で構成されています。その洋間の出窓とサンルームとの入口と窓のランマにステンドグラスが嵌っていました。

Photo_2 デザインはおおざっぱな花の模様ですが、すこし抽象化しているようです。

サンルームとの出入口のランマは、花瓶にはいったシンメトリーな花のデザインです。

Photo_3Photo_4  窓の上のステンドグラスも同様なデザインをしています。

この洋室のステンドグラスは、デザインが抽象化しているところを見ると、武田自身のデザインかどうかだったかは、むずかしいところです。

Photo_5 武田はこの建物に面取りガラスを多用しています。主屋の増築の戸にはすべて面取りガラスを使っていますし、洋館の窓も面取りガラスです。面取りガラスはキラキラと輝き一見華やかに見えますが、普通は木造の建物の外部の窓にはあまり使われていません。

もうひとつ、ステンドグラスの位置ですが、出窓は和風棟の前になっています。またサンルームのランマも、天井のすぐ下で、サンルームの天井は勾配があり、直接ステンドグラスに光が当たらない位置にあり、室内にいても、ステンドグラスの色のあざやかさを楽しめないという欠陥があるようにおもいます。そのために、洋館としての華やかさがありません。

Photo_6 それにくらべて、和風館の玄関はさすがに、武田は茶室建築の研究をしていることもあって、実におちついた設計をしています。西尾家には5つもの茶室があるほどで、藪内家が茶室、露地の指導をしており、武田はそれだけ力をいれたのでしょう。

建物はボランティアの方がづっとついて案内していただきました。最近、この手の案内方法によく出会います。建物の維持管理には最良とは言はないまでも、いい方法だとおもいます。しかし、もっとお金をかけて、ちゃんと維持管理はしてほしいものです。建物は使わないとその維持ができないものだと思うのですが。

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2009年5月17日 (日)

日吉館

2003_2 神奈川仏教文化研究所のHPを覗いていたら、日吉館がとうとう取り壊されるという記事が載っていました。いつか来ることだとは、わかっていながら、とうとう来るときが来た、という気持ちです。ここ数年、奈良に行くたびに、日吉館の前を通って、まだ建っていると確認してきました。屋根瓦が一部壊れて、その補修もしないでそのままになっている様子をみると、その時期ももうそろそろか、と覚悟を決めていました。

200811 はじめて日吉館のことを知ったのは、高校3年の時でした。その時、入試を終えたその日の夜行で、奈良旅行をしました。名古屋に朝着いて、まずは近鉄で室生寺にいきました。そして、多武峰ユースホステルに泊まり、次の日は飛鳥を歩き、奈良市内に入って、タマルのユースホステルに3泊しました。その時、日吉館に泊まっている人が、ユースホステルに来て、日吉館の様子を話してくれました。食事はいいが、凄いギュウギュウ詰めで寝させられるなどということを聞いて、ずいぶん変わった旅館だなと思いました。

それが、大学に入って、古美研の合宿で、初めて泊まることになりました。最初の印象は、食事にすき焼きが出たことでした。雑魚寝同然で寝ることには、まるで違和感はありませんでしたが、食事のマナーを先輩からやかましく言われるのには、やはり普通の旅館ではないな、と感じました。いままで、キャンプはずいぶんしてましたので、どこで寝ようが別に困りませんでしたが、食事が腹イッパイ食べられるのには、感激しました。

それからは、毎年のように、泊まりに行きました。大学3年のときは、正月に行って、結局1週間くらい泊まったでしょうか。一時、友人が日吉館で手伝いをしたこともあって、奈良では、日吉館以外に泊まったことがありませんでした。

19679 日吉館には、大学時代の思い出がいっぱい詰まっています。ひとつひとつ思い出すと、いくらでもでてきそうです。楽しい思い出、悲しい思い出、さまざまな思いがわき出てきます。

今は、なかなかその時の記憶が甦りませんが、友人と昔話をすれば、すぐに思い出すことでしょう。その時の酒の肴にすべくいろいろ思い出しておいておくことにしましょう。

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2009年5月 3日 (日)

予習と復習

モノ(美術作品)を見るとき、あらかじめその作品の予習をしますか?それとも、何もしないで見に行きますか?

どちらかというと、私は、後者のほうです。目的の場所に、一応何があるかの予習はしますが、それ以上はあまり調べないようにしています。というのは、美術史学徒が一度は聞いたことがある、あのエピソードが頭から離れないからです。

「君たちは、薬師寺の薬師三尊像をまだ見ていないというのは幸せだ。あの感動を味わえるのだから」といった、岡倉天心の言葉です。

いかに、第一印象が大切なことか、ということを言い表しています。何の知識も入れずに美術作品に出会えるというのは、現在では、ほとんどないといってもいいでしょう。少なからず、事前に知識が入ってしまいます。それで、本当の感動がえられるのかという疑問がいつも脳裏から離れないのです。予備知識からはなれて、作品に向き合うのは至難の技というべきでしょう。

私がいつも思うことは、ある作品に出会えたとき、あとで、もう一度見に行きたいという、欲求がでてくるかどうかが、その時の感動を計るバロメーターだと思うことにしています。あとで、調べてみると、肝心なことを見落としていたり、頭の中の記憶があいまいだったりすると、もう一度確認のために見に行きたくなります。その想いが強いほど、その作品に感動していた証拠なのでしょう。

Photo 先日、見に行った、求道会館のステンドグラスを調べてみると、『求道会館修理工事報告書』には、修理前の写真が掲載されていました。ところどころに割れて穴があいています。報告書によると、戦後、この建物が荒れて、近所からはお化け屋敷のようになっていたとき、近所の子供が投石して遊んでいたそうです。そんな歴史を経て、いま補修されたステンドグラスを見ると、その歴史を刻んだ作品の奥深さを見ていなかった気がするのです。何か表面的な鑑賞しかしていなかったのかなと、後悔の念がおきてきました。忘れ物をしてきた感覚です。

Photo_2 平成17年に文京ふるさと歴史館で武田五一の展覧会を開催していました。求道会館の復原修理完成紀念のような展覧会でした。

また、『求道学舎再生』という単行本がでているのを見つけました。これは、求道学舎を定期借地権によって、求道会館の維持管理しようという、近角よう子氏の奮戦記です。

建物に刻まれた歴史は、復原修理された建物を表面的に見ただけでは、よくわからないものだと思いました。それにもまして、まだまだ見る目がないなと思うことしきりです。

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2009年1月27日 (火)

熊本城の今昔

そういえば、高校の修学旅行は九州でした。長崎から熊本へぬけて、阿蘇から別府へという旅程でした。

PhotoPhoto_2 このときの旅行で、是非とも見たかったのが、熊本城でした。城の本から、熊本城天守閣と、縄張りの図面をトレーシングペーパーに書き写し、青焼きでコピーしました。よく見ると、城内をどのようなコースで見たらいいか線が書いてありました。たぶん、城内までは団体行動で、中に入ったら自由行動になるので、この地図をたよりにひとりで、歩き回ったのだろうとおもいます。写真アルバムをみると、熊本城の櫓の写真が数多くありました。

Photo_3Photo_4 天守閣から宇土櫓を見下ろした写真で、今と昔が比較できました。昔の写真でバスの駐車場になっているところは、今は、復元された西大手門を入った西出丸にあたります。そのむこうに建物がならんでいますが、今は三の丸広場になっています。藩校時習館の跡地なのですが、これは何の建物群なのかわかりません。遠くを見てみると、45年の時間の流れがわかります。木造の建物しかなかったのが、ビルがあちこちに建っています。

Photo_5 今回は、新しく復元された本丸御殿がどのようになっているかに興味がありました。佐賀城の御殿と較べて、その規模は格段に大きい建物ですが、御殿の一部の復元に留まっています。本来ならば、おおよその復元をすべきなのでしょうが、予算の関係もあったのでしょうか。これからが楽しみです。

Photo_6 一部屋根裏をみせた所がありましたが、ちゃんとチョウナの跡をのこして、本格的な木造建築の造作をしています。

Photo_7 本丸御殿の目玉は昭君之間の極彩色の絵です。しかし、これを見せるのに、横の廊下から覗かないと見せてもらえません。おまけに、色があせてしまうのでストロボは禁止。ライトは特殊な退色しないものを使っているとか。せめて、廊下からではなく、正面の座敷から見てみたいものですが、ダメなようです。

Photo_8 復元建物は本丸御殿ばかりではなく、この飯田丸五階櫓のような大きな櫓の復元もしています。これに塀や門の復元が進むと、本当にお城の中にいるという感覚が持てるようになるとおもいます。

今は、城跡にいるという感じなのです。実際に機能しているお城を見てみたいと思うのですが、もうすこし先の話かな。

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2008年12月22日 (月)

旧三河島汚水処分場喞筒場施設

Photo 「喞筒場」は何と読むかわかるでしょうか。

『旧三河島汚水処分場喞筒場施設』が平成19年に重要文化財に指定されました。いわゆる「近代化遺産」のひとつです。

建物は大正11年竣工の煉瓦造で、東西両翼をもつ左右対称の建物です。軒は出が少なく、垂直線と水平線を用いた平坦な面で構成されています。

Photo_5 屋根を支える下部はアーチ形を呈する変形キングポストトラス鉄骨で、屋根を支えています。

Photo_2 内部には平成11年まで稼働していた10台のポンプと大正9年、東京石川島造船所製の天井クレーンがあります。プレートには「六噸半」と最大揚重が鋳出されています。

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では、どういう建物かというと、手前の小さな建物が「ろ格機室」、後ろの大きな建物がポンプ室です。

場所は都電荒川二丁目のすぐ前にあります。木造平屋の細い路地の建て込んだ、下町の中に忽然と木々に蔽われた敷地があります。敷地の中に入ると、これが、下町かとおもわれるほどゆったりとした敷地に建物が建っています。まるで、別世界に入り込んだようです。

この建物の後ろには汚水を撹拌する池があり、一部は人工地盤を造って、上部は公園になっています。

汚水処理というと、匂いがするという印象がありますが、まるで汚水を扱っている施設とはおもわれないほど清潔です。これだけのことをしないと、近隣住民の理解はえられないのでしょう。

むかしの隅田川の臭さを知っている世代にとっては、こんなすばらしい施設はないでしょう。

正解 「喞筒」とは「ポンプ」でした。

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2008年12月 1日 (月)

JR大社駅

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Photo_2 出雲大社からは歩いて15分位でしょうか、人家がぽつぽつとある道に旧JR大社駅があります。平成2年3月に大社線が廃線になって、この駅の役割を終えました。大社線は明治45年の開業ですから、70数年の歴史を刻んだ駅になります。駅の建物は大正13年に改築されたものだそうです。瓦は、地元の石州瓦で葺かれ、つやのある瓦になっています。

昔は東京からの直通列車が大社まで運行したことがあったそうで、出雲大社詣がさかんなころは、相当な賑わいだったのでしょう。

Photo_3 それだけ、駅舎も立派に造られています。駅の天井にはシャンデリアが下がり、格天井で豪華さをだしていますし、駅の切符売り場の造りは実に凝っています。

単なる田舎の木造駅舎とは違って、その洗練さは群を抜いています。ちょっと気軽にはいっていけるような駅ではなく、襟をたださないと入れないような感じさえします。

Photo_4駅のホームに立つと、見慣れていた架線がありません。架線を下げる柱もありません。東京人は、線路の上には架線があるものと思っていますから、架線がないというだけで、そのすっきりとした風景が、田舎の駅を連想してしまうのです。そばにいるSLから蒸気の音が聞こえてきそうです。

線路に立ってもう使われていないホームを見ると、何か一抹の寂しさを感じると同時に、どこかで見たような懐かしさを感じてしまいます。

駅前のソバ屋で名物の割子そばを食すると、あまいタレのソバでした。出雲そばもいろいろあるのですね。

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2008年11月16日 (日)

旧前田侯爵邸

Photo 駒場公園の中に、旧前田侯爵家駒場本邸があります。和館と洋館がありますが、写真はその内の本邸と呼ばれる洋館です。鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階で、イギリス・チューダー式の建物です。外観はスクラッチタイルを貼り、落ち着いた雰囲気を見せています。内部は各室に大理石を用いたマントルピースががあり、柱や、家具など木部にはそれぞれ彫刻をほどこしており、非常に豪華な内装になっています。

Photo_2 2階にあがる階段には、背の高い窓が3箇所あり、それぞれにステンドグラスが嵌っていますが、キャセドラルガラスによる、抽象柄の模様になっています。色も濃さのちがう黄色のガラスを使った配色です。階段の下の窓にもステンドグラスがありますが、上の階段室を同じもようです。

 

Photo_3 1箇所、ひと部屋のみ、ちがった柄のステンドグラスがありました。これは色ガラスをつかわず、花の模様をデザインしています。しかし、花と花の間のガラスの形は、入り隅の切り方をしているので、技法的にはむずかしい形ですが、しっかりと造られています。

内部はさまざまなところで、彫刻をほどこしており、非常に装飾的なので、窓ガラスのステンドグラスがあまり派手にならないようにこのような落ち着いたデザインにしているのでしょうか。ガラスだけを見ると、何かもの足らない感じがしますが、バランスとしては、その方がよかったのでしょう。

Photo_6もうひとつ気になったのは、普通の両開きの窓です。ここに嵌っている透明ガラスは二重に入っています。現代ならば、結露防止のために複層ガラスをいれるところですが、その頃にはまだ生産されていなかったようです。しかし、二重にするという発想はもうすでに考えられていたということで、断熱ということも考慮されていたようです。しかし、木製サッシで、このような施行では、結局内部結露をおこしたでしょう。

Photo_4 外部の反対側にまわると、外観もかなり装飾的になっています。やはり、昭和4年(1929)年建築の建物としては、非常に豪華な造りです。

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2008年11月10日 (月)

奈良女子大学

Photo 奈良女子大学は大学祭 “恋都祭”でした。中庭には舞台がつくられ、さまざまなイベントが行われていました。若い学生さんがいきいきとしている姿はいつみても初々しさが見えていいもんです。実際は違うのでしょうが、オジサンには昔の頃が甦ります。

さて、お目当ての奈良女子大学記念館は、明治42年、奈良女子高等師範学校の本館として建てられた木造2階建ての建物です。建物自体は、あまり改造されずにすんだようで、平成6年に改修工事をして、重要文化財に指定されました。

これだけの建物は、使用用途が変わる度に内部の変更工事をするものですが、そういった改変工事はほとんどされなかったようで、平面も当時そのままです。

Photo_2 とくに2階の講堂は、キリスト教の教会のようで、明治時代の雰囲気を醸し出していました。

外観はいはゆるハーフティンバー様式で、木部を外に表す壁構造のデザインです。塗装の色も、改修時に淡い緑色に復原しています。

残念ながら、窓ガラスはどうも、当初のものではないようです。ところどころにサンドブラストで模様をつけたガラスが入っています。しかし、他でやっているような、窓枠をアルミサッシにいれかえることはしていません。そのために外観は、建築当初の姿を忠実に残しているようです。窓にはいっている格子も細くて、すっきりとしています。

Photo_3 重要文化財に指定されたのは、この本館だけではなく、正面入口にある守衛室も同様に指定されました。これは実際に使われている建物で、中に守衛がすわっていました。

大学の構内を散策するなんて、この頃したことがありませんでしたが、大学それぞれの醸し出す雰囲気が、何となく感じられて、ちょっと居場所がなかったり、ちょっと、場違いな感覚にとらわれたりと、妙な気持ちにさせられるのが、何か刺激的でもあります。

なにかゾクゾクするというのでしょうか。俺もまだまだ若いな!

今年は、2校ほど訪れたい大学があります。いまからワクワク、ドキドキしています。別に悪いことをしに行くわけではないのですが。

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2008年10月23日 (木)

桃華楽堂の歌碑

先日、皇居東御苑に久しぶりに行ってきました。源護謨長さんのブログを見て、三の丸尚蔵館へ、行ってみたくなったのと、どうしても気になることがあって、足を運びました。大手門から入って、三の丸尚蔵館から、本丸へ、一応、天守閣のあった石垣にのぼって、桃華楽堂を見渡しました。

Photo そう、今回の目的は、今井兼次の設計した桃華楽堂を見ることでした。しかも、その建物のまわりに五基の歌碑が建っているのです。それをなんとか見たかったのです。

建物は八角形で、西面しており、この西の壁面から日月星辰、松竹梅、楽、雪月花、鶴亀、春夏秋冬、風水火、居食住のテーマを主題とするモザイクタイルを貼っています。

そして、壁面の継目にスリットがあり、その1階部分に歌碑が配置されています。

Photo 建物の向かって左は宮内庁楽部の建物があり、桃華楽堂の裏側は書陵部の建物があって、この建物の壁面すべてを見ることができません。歌碑は平面図で見ると、イボのようにでっぱったところに配置されており、敷地内に入らないかぎり、歌碑すべてを見ることができませんでした。

せめて、正面右にある歌碑は望遠でやっと、歌の文字を撮すことはできましたが、正面左の歌碑は、斜めの位置にあり、非常に読みにくかったのですが、わずかに判読することばから、歌がわかりました。

Photo_2 これは、向かって右の歌碑です。

遠くなり近くなるみのはまちとり なくねにしほのみちひきそ知る

この歌は、太田道灌が上総出陣の折り、夜の偵察をするのに、浜千鳥の鳴き声を聞いて、潮がどこまで引いていたかを知った、という故事に、太田道灌が引用したといういわれのある歌なのですが、誰が詠ったのかは、まだ調べがついていないのでよくわかりません。

 

Photo_3 向って左の歌碑は

みわたせばやなぎさくらをこき まぜてみやこぞ春のにしきなりける

のようです。古今和歌集に載っている、素性法師の歌です。

残りの歌は、わかりませんが、『新建築』1966年4月号で、今井兼次「回想寸描 皇后陛下御還暦記念楽部音楽堂について」で、この歌碑は今井兼次の発案で5首を選んだ、といっています。そのうちの一首は、大伴家持の歌で、

はるのそのくれなゐにはふもゝの花 したてるみちにいてたつをとめ

だと言っています。あと2首がわかりません。

さて、何故、この歌碑が気になるのかというと、この歌碑を揮毫したのは、私の大学院時代のゼミの先生、加藤諄先生だからです。今回、カメラの望遠を使って撮影した歌碑を見てみると、確かに先生の書体です。しかし、学生の時、先輩からそのことを聞かされましたが、そもそも、この東御苑に入ることさえできなかった時代で、その当時は見るすべもありませんでした。

まして、先生からは、この歌碑について、直接一度も聞いたことがありませんでした。いったいどういう経緯で書かれたのでしょうか。5首の選も先生はタッチしなくて、今井兼次が自身で選んだのでしょうか。とうとう、生前に聞くことがありませんでした。

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