建築

2017年4月 9日 (日)

鎌倉近代建築の旅

 昨日(4月8日)に鎌倉に行ってきました。あいにく一日中雨の中、歩き回りました。

まずは、浄妙寺の境内の奥にある、石窯ガーデンテラスへ。ここは、浄妙寺の谷戸の奥の山の中腹にある、洋館をレストランにした大正11年(1922)の旧犬塚邸です。

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内部は、改装されていますが、外観はよく残されているようでした。ここには、2ヵ所のステンドグラスがあります。

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このステンドグラスのデザインは、名古屋の撞木館にあるステンドグラスとよく似ています。もう一つは、階段室にあるパネルです。

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この建物の設計は、ドイツ人だそうですが、ステンドグラスは日本製でしょう。

すぐ近くの華頂宮邸が春の公開日なので、また見にいきました。

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ここのステンドグラスは、シンプルなデザインのものばかりで、あまり特徴がありません。

もうひとつこの土日に公開している、大佛次郎茶亭へ。

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大正8年(1919)の建物ですが、ガラス戸は改装されていて、ガラスは見るべきものがありませんでした。

つぎに最近新築した川喜多映画記念館の建物の奥に、旧川喜多邸別邸があります。この建物は、江戸後期の民家を練馬で和辻哲郎が居宅として使っていたのを、鎌倉に移築したものだそうです。土間があって、江戸の農家の雰囲気が残っていました。

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鎌倉駅のすぐ近くに、古我邸がありました。駅からこんな近くの広大な敷地に洋館が建っていました。現在はフランス料理のレストランとして、使われています。大正5年(1916)荘清次郎の別邸として建てられた洋館です。結婚式開催中で、中にはいれませんでした。

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長谷の方を歩いて行くと、 吉屋信子記念館があります。この建物は戦後の昭和37年(1962)に建てられていますが、設計が吉田五十八で、シンプルな作りになっていました。

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そして、このすぐ近くに 鎌倉文学館があります。旧前田利為邸です。昭和11年(1936)竣工の建物です。

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内部からのステンドグラスの撮影ができませんが、2ヵ所の丸窓を除いて、シンプルなデザインのステンドグラスをランマに使用しています。その2ヵ所の丸窓も、なぜか、あまりオパールセントグラスを使っていません。流し模様のある、透明な硝子を使っています。この時代になると、ステンドグラスのデザインの流行も少しづつ変化してきたのでしょうか。

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もうひとつ、旧諸戸邸がこの近くにありました。今は、長谷こども会館として使われていますが、内部は非公開です。あの、桑名の森林王諸戸清六が大正10年(1921)に買った建物です。創建は明治41年(1908)だそうです。

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建築ばかりでは、何か物足りないので、長谷寺へ、リニューアルした旧長谷寺宝物館に入館。現在では、觀音ミュージアムと言うそうです。観音三十三応現神像がガラスケースからよく見えるようになりました。仏像の着衣にちょっと示唆をあたえるような仏像です。

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今回のメインは、石窯ガーデンテラスのステンドグラスでした。その他の戦前の住宅は、窓ガラスにに見るべきものがありませんでした。それにしても、雨なのに、シーズンなので、人はどこもいっぱいでした。

2016年10月19日 (水)

福井県・高岡・富山の旅(3日目)

富山は、まず、ライトレールという、市電のような電車で、「競輪場前」駅下車。

ちょっと、開館時間にははやいので、近くの富山港展望台へ。

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ここからは、富山港の全貌と、東岩瀬の町並みの様子がよくわかりました。

東岩瀬の町並みの中にある北前船廻船問屋「森家」はこの町並みでの一番大きな住宅のようでした。

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中の小さな庭の縁側に嵌まっているガラス戸のガラスは、手吹き円筒法による、泡の入ったガラスが多く嵌まっていました。建物は明治11年に建てられているので、おそらく創建当初のガラスかもしれません。

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富山駅にもどって、バスで富山市民俗民芸村へ。ここには、江戸期から明治の頃の民家を移築して、展示施設として利用している施設群です。

その中のひとつ、富山市陶芸館は、明治27年に市内で建てられた豪農の館で、昭和55年に移築し、全国各地の民藝陶器と呼ばれている焼き物が展示してありました。

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と、廊下の引き戸を見ると、模様入りのケシガラスが嵌まっていました。

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これは、どうもガラスに貼った紙を切り抜いて、サンドブラストをかけたガラスのようです。パターンは殆ど一緒のようですが、ケシが非常に薄い加工をしています。

もうひとつ、4連の引き戸に模様入りケシガラスがありました。

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この模様は、高橋是清邸、大阪・泉布観にある模様と同じです。型紙は違うようですが。

ここからバスには時間がありすぎなので、路面電車のある駅まで歩き、富山城にある富山市郷土博物館へ。この博物館の建物は、一見天守閣風の建物ですが、この建物の場所は門のあった石垣の上に建てられたもので、よくみると、実におかしな建物になっています。

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よくこんな、時代考証を無視した建物を造ったのでしょう。

富山市は、ガラス工芸に力を入れ、ガラス工芸をテーマに市ぐるみで普及に取り組んでいるようです。そのひとつの目玉が、去年開館した富山市ガラス美術館です。

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設計は、あの隈研吾です。図書館と美術館の機能を一緒にした建物です。

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6階建ての建物の中は、木の板とガラス、鏡をふんだんに使い、吹き抜けの空間が6階まであり、エスカレーターでつながっています。建物の中がまるで、ひとつの空間のようで、図書館部分は開放的な空間になっていて、本を読むにはちょっと落ち着かないかな、と思います。そのために、美術館の展示スペースが、階をわたってあり、エレベーターで行き来しなければならないのは、使い勝手が図書館の方を重点的に意識した設計なのかなと思います。
展示品のガラス工芸は、現代物なので、原色をつかった、華やかな色彩の作品だらけなので、これは、建物にマッチしているようにも見えます。

富山といえば、薬の町でもあります。薬種商の館 金岡邸へ行ってきました。

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建物の母屋は明治初期、新屋部分が大正の頃だそうです。金岡家は薬商だけでなく、銀行を設立したり、今ではコンピューター企業の設立にも関与した富山県の経済界に業績を残した家です。

建物の中に入ると、母屋と新屋の繋ぎの廊下の窓に全面結霜ガラスが嵌まっていました。よく見ると、その他の窓にも、結霜ガラスが多用されていました。

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ということで、今回は4件もの北前船の館を見て回りましたが、廻船問屋という情報を早く採り入れることが出来る職業柄、かなり先進的な文化を持っている印象を受けました。明治時代の時代の早い変化に素早く対応できる情報力が廻船問屋にはあったということでしょう。

今回は、仏像では、まだ半跏趺坐の仏像が見出されること、半跏趺坐の認識をもった人が一人でもいたことが、収穫だったのかな。

また、ステンドグラス、色板ガラス、模様入りケシガラス、手吹き円筒法のガラス を見ることができて、目的は達成出来たということでしょうが、もうひとつ解決できない問題をかかえてしまったような気がします。

ガラスも仏像もまだ道半ばです。

2016年10月10日 (月)

小笠原伯爵邸

 先月、旧小笠原貞幹邸の見学に行って参りました。新宿区河田町にある洋館です。現在は都の所有ですが、「小笠原伯爵邸」という高級レストランとして営業されています。なので、見学はいつでも出来たのですが、何せ高級レストランで、結婚式もやる施設ですので、なかなか行けませんでした。ところが、たまたま、9月の午後、レストランの営業時間外の1時間ほどの間を無料見学できると知りまして、出かけた次第です。

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建物の竣工は昭和2年、設計は曽根中條設計事務所、スパニッシュ様式のRC2階建てです。
玄関をはいるとホールの天井に鳩のステンドグラスがありました。

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この建物のステンドグラスの制作は小川三知といわれています。パンフレットによると、この鳩のステンドグラスは当時の写真をもとに、イタリアで復元したものだそうです。

現存しているステンドグラスは、客間の窓1箇所だけのようです。

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客間には、3箇所の両開き窓がありますが、そのうち、中央の1箇所のみ残っています。
建物にあった、当初の建築設計図面によると、窓3箇所とも、同じ図柄のステンドグラスが嵌まっていたようです。

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建築当初の設計図面が見られるのは、大変貴重なことです。この図面から読み取れることは、設計者とステンドグラス制作者との関係が理解できることです。
とくに、設計図面に、ステンドグラスの絵柄を書き込んでいるということは、施主、設計者、ステンドグラス制作者との、打ち合わせによって室内空間のデザインが決められていたことが、わかるからです。

この建物は、図面によると、他にもステンドグラスが嵌められていたのがわかります。
今の食堂の窓を見てみると、型ガラスを斜格子状の鉛線でつないでいるだけですが、

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図面では、窓の中心にエンブレムのようなステンドグラスがあったようです。

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また、図面では、廊下の窓にステンドグラスがあったようですが、これは、まだ正式に決定した図柄ではなかったようです。田辺氏は「木立の中のエンジェル」という題のステンドグラスだったとしていますが、実際に嵌められたのかはわかりません。

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また、食堂前の中庭から見て左端にある格子のついた窓に、ステンドグラスがあったようです。

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図面には、ステンドグラスだけではなく、ガラスの種類も銘記しているのがあります。

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客間から喫煙室へ入るドアですが、ドアのガラスは「面取硝子」と書いてあります。
また、斜め格子の図柄を入れた窓には、「鉛硝子」とかいてあります。鉛線で斜め格子状に組み込んだ硝子窓を指しているのでしょう。2階へあがる階段室の窓にも同様に書いてありました。

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この建物の中では、一番大きな窓で、普通は、色硝子を使うのが一般的ですが、この建物は階段の上がプライベートな部屋なので、目立たないようにしたのかもしれません。「グラスエッチング仕上 鉛硝子」と書いてあります。

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現在は、透明のガラスが入っていますが、当初は、不透明なガラスが入っていたのでしょう。「エッチングガラス」が今でいう「タペストリー加工」なのか、単なる「スリガラス」なのかは不明です。

丸く出っ張った、喫煙室の外観には、花模様の装飾タイルが貼ってありました。

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内部は、寝室、和室などプライベートな部屋の間仕切りを外し、レストランの大部屋にしたり、厨房に改造されたりしていますが、主要部分は残しつつ、改修されているようです。もともと取り壊す寸前までいった建物ですから、忠実に復元するということにこだわらなくて、これだけ残っているだけでもいいとすべきでしょうか。

2016年2月14日 (日)

滋賀、奈良、大阪、神戸の旅

2月11日から13日まで、旅をしてきました。
例によって、ステンドグラスと、仏像探訪の旅です。

まずは、滋賀県立安土城考古博物館で開催している『大湖北展』です。
この展覧会の目当ては、浄信寺の「清水寺式千手観音画像」と、庵寺観音講の「大日如来坐像」です。

浄信寺の仏画は残念ながら、展示替えで見られず、庵寺観音講の仏像を見て来ました。

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以前は上野庵寺蔵と言っていましたが、地域で守ってきた仏像ということで、今の所有者名になったようです。カタログでは、山下立学芸員の解説にちゃんと、半跏趺坐 とかいています。これで、山下氏を「半跏趺坐クラブ」の会員に推挙します。

電車を乗り継ぎ、JR片町線の鴻池新田駅で降り、駅のすぐ近くの広大な敷地に『鴻池新田会所』がありました。江戸時代新田開発の拠点になった屋敷です。

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次に訪れた所も、新田開発の拠点になった八尾市の「安中新田会所(旧植田家住宅)」です。

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両方とも、建物は江戸時代ですが、近年まで使っていた建物なので、窓ガラスに古いものが嵌まっているのではないかという期待があったのですが、旧植田家住宅で、昭和の初めに増築した風呂場の入り口の引き戸に結霜ガラスが嵌まっているだけでした。

奈良市内にもどって、去年奈良を訪れた時、旧日吉館の場所に立て替えられた建物にテナント工事をしていたのが、気になっていました。

1階はシャッターがまだしまっていましたが、2偕に茶華という喫茶店のような店がOPENしていました。

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中に入ると、日本茶をベースとした、喫茶店で、ソバなど軽食も出しているようでした。私は抹茶アイスと、コーヒーを頼みました。日本茶のテイスティングも無料でします。ということなので、頼むと、まだ慣れていない店員が小さな茶碗にお茶をいれてきましたが、これはどこのお茶ですか?と聞いても、京都のお茶です。とトンチ問答のような答えでした。

内部は30席くらいはあったでしょうか、むかしの日吉館の2階の間取りを想像しながらひとときを過ごしました。

日が落ちると、なら瑠璃絵がはじまります。まずは、今回は、一応見学コースが決まっていて、興福寺から始まります。そして、奈良博の前でプロジェクション。東大寺南大門は仁王像のライトアップ。

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そして、今回初めて、大仏殿の観想窓を開けて、大仏の顔を拝めたことです。

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奈良国際フォーラムへの道から始まるLEDライトが今回の最大の見せ場になります。
国際フォーラムの中へは、500円を徴収されますが、庭全部にLEDライトを敷き込み、川のような、海のような、白と青のライトで埋め尽くされています。

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最後は、春日大社の参道の木にミラーボールをつり下げ、そこから光りのシャワーを浴びせるという演出です。

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春日大社の門もライトアップされ、燈籠にも火が入っていました。
それにしても、春日大社の参道は、街路灯がなく真っ暗です。私は調査用に懐中電灯を常備していますので、足下を照らせますが、舗装もしていない道をよく皆様は歩けるものだと感心します。

翌日は、近鉄で、難波を通過して、伝法駅で下車。歩いて数分のところに、鴻池本店の建物を見に行きました。

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入口の欄間にステンドグラスが嵌まっています。内部には、孔雀の柄のステンドグラスがあるのですが、今回は外観だけで、次回に期待するということで。

南海電鉄で、住吉大社へ。祀っている社殿が4社あるのですが、その配置が並列ではなく、おもしろい配置になっていました。

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地下鉄で谷町四丁目で降り、お堀沿いに歩いて、大阪府庁舎へ。ここの5階の正庁の間は、毎週水・金曜日限定で公開しています。

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色ガラスの選定、使い方がなかなか素晴らしいステンドグラスでした。

すぐ近くの大阪城は、中国人観光客で大混雑なのに、この部屋には、私一人しかいませんでした。

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地下鉄で天王寺へ、あべのハルカス美術館『長谷寺の名宝と十一面観音の信仰』展へ。

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岡寺の銅造如意輪観音半跏像が出陳されていました。腰から、細長い布が両脇から途中に結び目を作って垂れています。これは、誰かさんが唱えている腰帛 と形状がそっくりです。しかし、以前にも書いているとおり、腰帛という言葉にはちゃんと定義があって、仏像に着するものではありません。

奈良にもどって、奈良国立博物館の『伊豆山神社の歴史を美術』展を見学。伊豆山神社にも行ったことがありますが、これだけ神像がそろったのは、見たことがありません。

最終日は、まずは、新大阪駅まで行き、本だらけで重くなったリュックをコインロッカーにあずけ、梅田から阪急で、芦屋川駅へ、坂道を歩いて登ると、坂の途中にヨドコウ迎賓館があります。旧山邑邸といって、フランクロイド・ライトの設計の数少ない日本での住宅です。

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大谷石を多用した、RCの建物です。

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2階の応接室です。

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4階食堂

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4階バルコニー

池袋の自由学園もそうですが、ライトの設計は、天井が低く圧迫感を感じることがあります。ライトは背が低い人だったのでしょうか?

阪急御影駅からすぐのところにある大豪邸の一角に「香雪美術館」があります。

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仏像は、石造如来五尊像(北斉)が半跏趺坐。観音・勢至菩薩立像(金)、菩薩立像2軀(金~元)と、中国の木彫像が4体もあります。着衣に大変興味をそそりました。腰巻ストールのようでもあり、裙の折り返しのようでもあり、もっとくわしく観察しないと着衣方法がわかりませんが、残念ながら、カタログの写真も販売していませんでした。誰か調査してくれないかな。

元町までいき、相楽園へ、ここは、今は神戸市管轄の庭園になっています。レンガ造の旧小寺家厩舎は、明治43年竣工なので、窓ガラスにかなりゆがんだ、手吹き円筒法とおもわれる板ガラスがはまっていました。すぐとなりの旧ハッサム邸は、工事中で足場が架かっており、中の様子もわかりませんでしたが、情報によると、内部に模様入りケシガラスがあるようです。残念ながら、これも次回ということで。

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近くの兵庫県公館も、周囲に足場架かって工事中でしたが、内部は公開していました。

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内部を展示スペースに改修しており、また窓ガラスも殆ど入れ替えているようです。

歩いて、神戸市立博物館「須磨の歴史と文化」展へ。

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須磨の寺社における仏教美術だけではなく、近代、別荘地として栄えたころの資料も展示されており、なかなかおもしろい展覧会でした。

帰りの電車には時間があったので、すぐ近くのビルの2階にあるKOBEトンボ玉ミュージアムへ、。1階のロビーの受付の欄間と、入口横の窓にステンドグラスが嵌まっていました。

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トンボ玉ミュージアムといっても、個人で経営しているような、販売もしている美術館です。
トンボ玉ばかりではなく、ガラス板、ミリフォリなど、古い物もありましたが、むしろ、現代作家の作品を展示していました。おまけに、制作体験ができるということで、工房がしつらえてありました。手軽にガラス工芸ができるので、人気があるようです。

ということで、今回は大収穫があったわけでもなく、まあまあの旅行だったのかな。しかし、新しい靴があわなくて、歩くのに苦労の連続でした。といってまた、新しい靴を買っても慣らすのに時間がかかっては同じことだし、困ったな。

2015年9月24日 (木)

備中高梁、岡山の旅

 3日目は、広島を朝早く立って、岡山へ、伯備線に乗り換え、備中高梁へ。
伯備線は、高梁川沿いに谷間の中をくぐり抜けながら、走って行きます。これが日本の原風景のような感覚を覚えました。

備中高梁駅に降り、タクシーで、「お城まで」と告げると、ふいご峠駐車場まで連れてってくれます。自家用車は、その手前の城見橋公園駐車場までで、そこからシャトルバスで、ふいご峠駐車場まで運んでくれます。

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ふいご峠からお城まで、700m、徒歩20分 と書いています。歩き始めると、山道で登りの連続です。これは、今回訪れて正解だったと納得しました。これ以上体力がなくなれば、とてもたどり着くことは出来なかったでしょう。

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やっとのことで、大手門跡までたどり着きました。ここからは、二ノ丸を通って、天守閣に至ります。

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天守閣の前の本丸南御門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などは復元建物です。
天守閣の後ろのある二重櫓は現存建物です。

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標高430mの天守閣からは、備中高梁市が一望に見渡せ、いかに高い所に天守閣を作ったのかを知らされることになりました。

帰りは、山道を降りる近道もありましたが、車で来た道を歩いて降りました。
山から下りた所には、土塀で囲まれた、武家屋敷が2件ありました。いづれも江戸時代の建物です。
駅に向かって歩いていくと、高梁市郷土資料館という洋風建物がありました。

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中をのぞくと、一般の民俗資料館とは違って、ありとあらゆる生活道具が展示されていました。これだけの道具類を集めた郷土資料館はいままで見たことがありません。
建物は、明治37年建築の元尋常小学校で、窓硝子は、当初のものも残っていました。
玄関のランマには、結霜ガラスも嵌まっていました。

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岡山市へもどり、まずは、後楽園へ。

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これで、日本三大庭園をやっと制覇しました。

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そして、岡山城へ。

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最近、お城めぐりが多くなってきましたが、時間があるときは、必ず城の周囲のお堀を一週することにしています。すると、お城の搦手がわかりますし、天守閣のロケーションも変化して新しい発見があります。

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石垣の積み方から時代の流れを感じることも出来ます。

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これで、現存天守閣12棟のうち、10棟に登城することができました。あとは、四国の高知城と宇和島城だけです。近いうちになんとか制覇したいと思う今日この頃です。

2015年9月23日 (水)

島根・広島の旅

 2日目は、朝7時に宿をでてひたすら走り、2時間ほどで津和野に到着。

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民俗資料館、郷土館など大正時代の建物の外観から見ると、窓硝子は、殆どが透明とスリガラスで、板ガラスに関しては、見る物がありませんでした。
ふらっと入った、昭和4年の津和野カトリック教会の色ガラスには、当初と思われる泡入りのガラスがありました。

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津和野の町からはなれた山間に、旧堀氏庭園がありました。

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山裾に幾つかの建物を配置し、明治33年の「楽山荘」という2階建の客殿の前には池泉回遊式の庭園がありました。しかし、残念ながら、古い板硝子は見当たりませんでした。
紅葉の季節にはきっとすばらしいロケーションになるのでしょう。

山道をひたすら走り、益田市内のグラントワ内にある島根県立石見美術館へ。
『祈りの仏像』展を見学。

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仏像は50体ほど出陳されていましたが、やはり、今回の目玉は新発見という奈良時代の木造観音菩薩立像でしょう。最近、奈良時代の木彫像がよく見受けられるようになりましたが、ちょっと違和感があります。
さらに、大寺薬師と古保利薬師堂の四天王立像が4体ずつそろっての展示は、なかなかのものでした。
唐時代から木喰の江戸時代まで、彫刻を網羅した展覧会でしたが、石見らしさという印象がどうも感じられないのです。地方的な独自の特色というのは、幻想なのでしょうか。

益田からは、191号線という山道をひたすら走り、北広島町(旧千代田町)の古保利薬師堂へ。ここは、45年前、友人と山陰山陽のドライブ旅行の折、拝観した仏像でした。
聞くと、この収蔵庫は、当時からあった建物で、この同じ場所で再会したのですが、全然記憶にありませんでした。

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四天王立像4体は、つい先ほど石見美術館で見てきましたが、それ以外全てがありました。

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中央の薬師如来坐像は、結跏趺坐をしています。この時代で、結跏趺坐というのは、逆に珍しいというべきでしょうか。

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この収蔵庫のまわりには、講堂と称する集会所、ちいさなお堂が2棟ありました。
そのうちの阿弥陀堂をのぞいてみると、如来坐像がありました。どうも頭部が古そうです。

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広島市内にはいる予定の時間に余裕ができたので、急遽、広島城へ。

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上は、復元した二ノ丸の櫓。

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その後、レンタカーを返却。2日間の走行距離は500kmになりました。

2015年9月22日 (火)

広島・山口の旅

 9月19日~21日まで旅に出てきました。まず、第一日目の旅程から

広島からレンタカーで呉へ、呉市入船山記念館(旧呉鎮守府司令官官舎)
→岩国、錦帯橋・・・岩国城見学は断念
→上関町、四階楼・・・明治時代の擬洋風建築と色ガラス
→防府、毛利博物館・・・入館時間に間に合わず、無理矢理交渉して入館
→防府で宿泊

旧鎮守府司令官官舎は、明治38年建築の洋館と和館の木造建物です。

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玄関の扉には、桜と錨の模様入りケシガラスが嵌まっており、ランマ、袖にステンドグラスがありました。明治38年竣工という時期を考えると、模様入りケシガラスは創建当初のものではないとおもいますが、それにしても、当時、これだけの1枚ものの板ガラスが手に入ったのかは、疑問が残ります。

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この建物は平成3年から7年にかけて解体修理を行っています。ステンドグラスはあまり修理が施されていないようですが、窓硝子は、和館とも透明とスリガラスのみで、透明ガラスはロールの跡があるところをみると、後にほとんどが入れ替えたもののようです。

つぎは、岩国の錦帯橋

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さすがの架橋技術です。

瀬戸内海を左にみながら、海岸沿いを走り、室津半島の先端にある上関町の四階楼へ。
明治12年に建てられた、木造4階建ての擬洋風建築です。

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その4階18帖ほどの部屋に両開き窓13箇所に青・黄・赤・緑の色ガラスを使っています。

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天井中央には、鳳凰の鏝絵があります。

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西面の3箇所の窓からは、畳に色ガラスを映し出しています。

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4階に上がると、見学者は思わず感嘆の声をあげていました。建築主の小方謙九郎の思惑にうまくはまってしまったようです。

建物は平成10年~12年にかけて保存修理工事が施されており、色ガラスも一部入れ替えていますが、現代のアンティークガラスを使用しているようで、当初のものとの見分けがむずかしいほどでした。

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上の写真では、透明ガラス両方とも泡が入っていますが、右が当初で、左は現代のアンティークガラスではないかとおもいます。
色ガラスも、現代製作のものには、意識的に泡をいれているようで、うすく規則的な線の入った模様があるのが特徴ですが、なかなか判別がむずかしいのが現状です。

車を走らせて、毛利博物館に着いたのは、入館時間の4時30分を数分過ぎた時でした。
受付の人に、閉館は5時なので、それまで入館できるように交渉して、あわてて見てきました。
目的は、毛利博物館の展示品ではなく、毛利邸の内部を見ることでしたので、ひたすら、窓硝子を見てまわりましたが、古いガラスは見つかりませんでした。

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これで、1日目は終了。次の日の旅程は、この次。

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2014年8月 3日 (日)

常総建物探訪

およそ半年ぶりの書き込みです。

その間、読者の皆様には、色々とご心配をおかけいたしました。まあ、今の所普通に生きております。生来の怠け癖がでて、ずるずると、怠けておりました。

そんな訳で、少しは改心して、このブログを続けていこうとおもいますので、あまり期待せずに見守ってくださるようお願いいたします。

あまり重い話題ですと、どうしても、下準備に時間がかかったりして、更新が滞ってしまいますので、できるだけ軽い話題ということで、

昨日、この暑さの中、常総地方に出かけていきました。それは、ネットに、朝日新聞の山形版で、旧青山邸に嵌まっているガラスについての記事がありました。写真を見ると、以前私のブログに何回も載せた、「蜀江文」の模様入りケシガラスでした。これを、有名な、家具の専門家が、明治期に長崎で作られた高価なガラスだと評していました。記事では、こんな高価なガラスをわざわざ長崎からとりよせた青山家はすごい財力の持ち主だった。という趣旨のようでした。

この先生、どうもガラスのことはドシロウトのようで、「蜀江文」もわからなかったようです。朝日新聞にそのことを投書しましたが、ナシのつぶてです。

今回は、その「蜀江文」の用例を増やしたく出かけた次第です。

まずは、茨城県常総市にある水海道風土博物館 坂野家住宅 です。関東鉄道で水海道まで行き、タクシーで3000円ほどの田園の中に、黒塀でかこまれた、広大な敷地をもった屋敷があります。いわゆるこの地域の名主で、新田開発で名をはせた名家です。

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茅葺きの主屋は国指定重要文化財になっていますが、それに接続して、二階建ての書院という建物があります。大正9年に建てられた建物ですが、その主屋との接続廊下に「蜀江文」のガラスが嵌まっていました。

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書院のまわりにガラス戸がありましたが、どういう製法でつくられたかは、まだ判断がつきませんでした。

つぎに行ったところは、常磐線我孫子駅から徒歩20分ほどのところにある、「旧村川別荘」です。この建物は、東京帝国大学教授村川堅固と子息堅太郎の別荘として建てられ、二棟の建物があります。母屋は大正10年に近くの宿を解体移築したものですが、かなりの補修がはいっているようです。

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もうひとつ新館は、昭和2~3年頃、朝鮮の建物を参考として作ったと書いていますが、屋根の形は日本風で、扇垂木が朝鮮風なのでしょうか。この建物はあまり補修が行われていないようですが、ガラス窓も当初のものが入っていました。しかし、このガラスの説明は、日本板硝子のコルバーン法によって作られたと断定しています。本当かな?

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最後は、新京成の習志野駅から徒歩10分の、陸上・航空自衛隊習志野駐屯地の中にある洋館です。今回は、イベントで、中に入れる日だったので、でかけました。駒場に「御馬見所」として、明治44年建てられた建物をこの駐屯地に移築したものです。いまは「空挺館」という名で、ここに駐屯している、第一空挺団関係の資料を展示していました。

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この建物の部屋に入るドアの上にある欄間にすべて「蜀江文」の模様入ケシガラスが嵌まっていました。これは、当初のガラスとすると、この「蜀江文」のガラスの初見かもしれません。細部を見てみると、今まで見た模様と比べて、多少稚拙さがあるように見えました。

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そんな具合で、模様入ケシガラス探訪の旅にはまっています。次に見に行くところを現在調査中です。

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2013年10月20日 (日)

旧三井家拜島別邸

公開日が決まっている旧三井家拜島別邸(啓明学園北泉寮)に行ってきました。建物は、幼稚園から高校まである私立学校の敷地にあります。

まず建物の説明をすると、明治25年頃、現在の首相官邸のところに、鍋島直大侯爵の邸宅として洋館とともに建てられました。大正12年の関東大震災で、洋館は倒壊しましたが、和館はほとんど被害を受けず、その後、三井八郎右衛門が、鍋島侯爵から買い受け、昭和2年に三井家別荘として、現在の拜島の地に移築し、大幅な増改築をして使っていましたが、昭和18年、三井家から敷地建物を啓明学園に寄贈され現在に至っています。

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玄関は、格式のある構えで、1階は客室で、天井は折り上げ格天井で、煙突のない暖炉があったり、和洋折衷様式になっています。

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2階は、居住空間で、居間、寝室などがありますが、書院風の間取りですべて和室になっていました。

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特に、奥様用洗面所は、畳敷きに椅子を備えていました。

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たしかに増改築をしていますが、関東大震災で倒壊しなかったのは、注目すべきでしょう。説明の人は、免震構造だといっていましたが、和風建築のしなやかさが倒壊をまぬがれたのでしょうか。

外側の開口部は、すべて、ガラス戸が嵌まっていますが、建具は、移築のときに入れられたものか、鍋島邸宅のときにあったものかはわかりません。

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明治25年当時に、こんなガラス戸がふんだんに嵌まっていたとはおもえません。ガラスを見てみると、たしかに、機械吹き円筒法らしきガラスがありました。それであっても、昭和2年の移築の時に入れたガラスと見るべきで、鍋島邸のときではないようです。

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もうひとつガラスで気になったことは、透明のガラス以外はすべてスリガラスになっていることです。この建物を見たいをおもったのは、大正から昭和にかけてつくられていた模様入りのスリガラスがひょっとして嵌まっているのではと期待したのですが、残念ながら1枚もありませんでした。

おそらくは、長い年月の間のいつかの時期にガラスの入れ替えがおこなわれたのかもしれません。

嵌まっているガラスの種類があまりにも貧弱で、入れ方にあまりにもアクセントがありません。

それにしても、学校の説明員は、この建物は、学校にとって何のメリットもないので、壊そうとしたところ、三井家の寄付で、改修され、都指定文化財になったと話していました。現在も何にも使われておらず、今でも学校にとってメリットがありません。と言っていましたが、果たして、学校にとってこんなすばらしい教材の存在に気がつかないのでしょうか。

この学校の卒業生に、オノヨーコがいるのだそうです。

2012年2月26日 (日)

旧堀田邸

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 戸定邸に続いて、元藩主の明治時代の邸宅を見てきました。千葉県佐倉市にある旧堀田邸です。

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佐倉藩主だった堀田正倫は、東京暮らしをやめて、地元の佐倉市に明治23年(1890)邸を構え、そこで暮らしました。

建物はその後、民間の所有になり、平成9年に佐倉市へ寄贈されています。場所は、小高い丘にあり、建物のまわりは、老健施設、老人ホームなどが建っており、その敷地内にあるような場所にあり、わかりにくい所です。

さて、建物はおよそ五区画にわかれており、台所棟だけが壊されていますが、それぞれ渡廊下で繋がっています。

例によって、この建物の注目点は、廊下に嵌っているガラス戸でした。

 

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まず、玄関棟の廊下には、ガラス戸がついていませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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次に、居間棟の廊下は、柱間の上部には、障子を入れる溝が彫ってある鴨居が付いていますが、、下部は敷居ではなく、溝がありません。これがどういうことなのか、理由がわかりません。もともとガラス戸があったのなら、下の敷居に溝がなければならないのですが、どういう改造がなされたのか不明です。

 

 

 

 

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座敷棟の廊下には、ガラス戸が嵌っていました。ガラスは、波を打っているものがあり、おそらくは、昭和にはいってからの普通板だろうとおもいます。泡もありませんでした。

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 もうひとつ書斎棟の裏側の廊下にもガラス戸があり、これも普通板のようでした。

こうしてみると、明治23年竣工時には、ガラス戸はなかったのではないかとおもわれます。建物の材料は確かに吟味されたものを使っているようですが、装飾に凝ったりするでもなく、元藩主の住居にしては、質素な造りをしています。

この建物の平面は、江戸時代の城の中で、大名が住んでいた御殿の形式を踏襲しているようで、いはば伝統的な住空間なのでしょう。明治時代の新しい感覚を取り入れるのではなく、意匠もかなり保守的ということができるでしょう。

ガラス戸という発想も、創建当初にはなかったのかもしれません。

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と思いながら、おなじ佐倉市にある佐倉順天堂記念館に行ってみると、廊下のガラス戸の一部に手吹き円筒法で作られたとおもわれるガラスが嵌っていました。

写真でうまく撮れましたので、お見せします。

このところ、明治頃の建物に嵌っているガラスを見ていると、手吹き円筒法のガラスと、フルコール法や、コルバーン法による普通板との区別はつくようになりましたが、その間の機械吹き円筒法(ラバース法)で作られたガラスが、判別できません。

というよりも、ラバース法で作られたガラスの規準作を見ていないので、どうにも判別のしようがないのです。

もうすこし修行が必要です。

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