仏像

2009年12月23日 (水)

半跏趺坐考

 宝菩提院の菩薩半跏像の文献を調べていたら、紺野敏文「虚空蔵菩薩像の成立(中)ー求聞持形の展開ー」『佛教藝術』229 1996年11月30日 に行き当たりました。それによると、額安寺虚空蔵菩薩像は求聞持軌(「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」)に説く求聞持法本尊形をもとにあらわした作例であることは疑い得ない。としています。

この「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」『大正蔵』20-3 密教部三所載 P602 には「身作金色。寶蓮華上半加(跏カ)而坐。以右壓(押カ)左。容顔殊妙作熙怡喜悦之相。於寶冠上有五佛像。結加趺坐。菩薩左手執白蓮華。微作紅色。於華臺上有意寶珠。吠琉璃黄光發焔。右手復作與諸願印。五指垂下現掌向外。是與願印相。」と記載しています。つまり、蓮華の上に半跏趺坐し、右足を左脚部の上に乗り、左手に白蓮華を執り、右手は与願印をあらわす。としているのです。

Photo 紺野敏文氏は、この坐勢について、本軌の記載の「半跏」は必ずしも片足踏み下げを意味しない。としています。というのも、「図像抄」『大正蔵』図像部三 巻五菩薩 NO.47 の図像がそれを図にあらわした基本であり、この図は片足を前あるいは垂下しない形の半跏趺坐を表しているようです(片方の足裏しか描いていない。)。

 

 

Photo_3 しかし、額安寺像はこの経意とは、逆の手勢で、坐勢は左足が膝から垂下しています。この相違について、紺野氏は、「一方、彫像にみられるような片足を踏み下げるかたちにつくるのも、画像法による「半跏坐」の一形式にほかならないから、左手を施無畏印ふうにあらわす場合は前記の上に組んだ右足を前方にはずして下ろすのが自然である。」さらに、「図像の逆転写を行うごとくである。」としています。それで、求聞持法に拠る正統な半跏坐本尊像は、宝菩提院菩薩半跏像もそうではないか。というのが、紺野氏のこの章の趣旨です。

ここで、問題となるのは、儀軌、図像に記載描写されている虚空蔵菩薩像は、片足を垂下する像ではないことです。この片足垂下像をを画像法による「半跏坐」の一形式ときめつけるのは、ちょっと乱暴のような気がします。彫像の片足垂下の形式はもっと別の図像なり、根拠を示す必要がありそうです。

Photo_2 すると、おなじ「図像抄」『大正蔵』図像部三 巻六 観音上 の「如意輪」の頁(P28)に、「石山寺像頗有相違。從昔所造畫二臂。皆右手作施無畏。左手於膝上作與願印。垂下左足坐盤石上。大和国龍蓋寺丈六如意輪像亦同之。東大寺大佛殿左方如意輪亦同之垂下左足。」と書かれており、図像には片足を垂下する如意輪観音像が描かれています。しかし、これを「半跏趺坐」と書いていないのです。

 

 

Photo_4実に、まどろっこしい話です。“半跏趺坐”とは、片方の足をもう一方の大腿部にのせる坐勢であるという定義は、「虚空蔵菩薩求聞持法」の経軌にしっかりと書かれていながら、実際の彫像では、片足を垂下する坐勢になってしまうというのは、そういうふうに変化したことの説明が必要でしょう。また、如意輪観音像でも、片足垂下像を明確に“半跏趺坐像”と記載されている文献がみつからないと、何ともいえません。
要は、宝菩提院像や、額安寺像のような、片足を前に出し、もう一方の片足を垂下する坐勢が“半跏像”であるという文献上での証明があれば、いままで、述べてきたことが解決するのですが。

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2009年12月19日 (土)

腰布考(その2)

 腰布(腰巻ストール)を着ている仏像を探してみると、かなりの例がでてきました。それで、収拾つかなくなり、どうまとめてみたらいいのか迷っていながら、いたづらに日にちが過ぎていきました。
とりあえず、側面、背面の写真のある『日本彫刻史基礎資料集成』の平安時代編を見てピックアップしてみました。

  • 東寺五菩薩像・五大明王像・梵天帝釈天像
  • 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像
  • 広隆寺虚空蔵菩薩坐像
  • 観心寺如意輪観音坐像
  • 安祥寺五智如来のうち大日如来坐像
  • 東寺御影堂不動明王坐像
  • 清凉寺阿弥陀三尊のうち観音菩薩坐像
  • 個人蔵不動明王立像(康平7年銘)
  • 滝谷不動明王寺不動明王二童子立像
  • 長岳寺阿弥陀三尊像のうち観音勢至菩薩半跏像
  • 円成寺大日如来坐像
  • 大覚寺五大明王像
  • 横蔵寺大日如来坐像
  • 三仏寺蔵王権現立像
  • 吉祥寺大日如来坐像
  • 妙楽寺不動明王立像
  • 長谷寺不動明王立像
  • 鞍馬寺三尊像のうち左右脇侍
  • 今養寺大日如来坐像
  • 神童寺不動明王立像
  • 常禅寺不動明王坐像
  • 八劍神社不動明王立像

ざっと、見てみると、この腰布(腰巻ストール)は仏像の種類に関係なく、裳(裙)のうえに着するものだというのがわかります。しかし、同じ仏像の種類でもこの腰布(腰巻ストール)を着けない仏像もかなりあり、どうも仏像によって決まった着衣形式ではなさそうです。
その他、法隆寺如意輪観音坐像(唐時代)、大安寺伝楊柳観音立像、宝菩提院菩薩半跏像が気になる仏像です。

Photo
法隆寺の如意輪観音坐像は、唐の請来仏像といわれており、腰布のルーツは中国にあることの一例です。

Photo_2 坐像では、側面を見てみると、ほんの一部分の布を尻の下に敷いたり、また、腰にまわして、残りを後ろに垂らすことも多く見られます。とすると、前回推測した、腰掛ける時、お尻に布を敷くという機能のために使われていないということになります。しかし、東寺御影堂の不動明王坐像は、腰布をちゃんとお尻の下に敷いています。これが、本来のすわり方なのでしょうか。

Photo_3

大安寺の伝楊柳観音立像は、他とは違って幅の細い腰布を巻いています。これについて『大和古寺大観』の田辺三郎助氏の解説では、「石帯の下方には別に幅広い布紐を結んでいる。」としています。また、「仏像 一木にこめられた祈り」展の岩佐光晴氏の解説では、「裙の上方を折り返し石帯で締めた際に、腰帯を腹部の下方でゆるやかに結び、その両端が結び目から左右の長さを変えて垂れ下がる表現など精彩さがあり、布の質感を巧みに捉えている。」としており、これを腰布(腰巻ストール)と認めていないようです。
Photo_4 宝菩提院の菩薩半跏像は明らかに腰布(腰巻ストール)を巻いているのに、それについて言及している解説がありません。どういうことなのでしょうか。どうも研究者によって腰布(腰巻ストール)に気づいていない人もいるようです。『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 にも、あきらかに腰布があるのに、形状の項目の記述には抜けているのがあります。また、腰布を腰帯と表現している記述もあります。
ざっと見てみた印象では、どうも腰布(腰巻ストール)は今まで、知っていても注目していなかった着衣形式のようです。

何のために着けるのか、そのルーツはどこにあるのか、日本でどういう展開をしていったのか、この疑問に誰か答えてくれる人がいませんでしょうか?

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2009年12月 9日 (水)

腰布考(その1)

 気がつかなかったのか、知らなかったのか、腰布という着衣形式があったのを。
写真集を見てみると、さまざまな仏像の着衣に用いられているのがわかりました。とくに、菩薩立像、明王立像ばかりではなく、大日如来坐像にも纏っていました。
Photo_5 佐々木あすか「平安時代末期から鎌倉時代初期奈良仏師の新形式形成とその展開ー菩薩形・明王坐像における裙・腰布の着衣形式の検討よりー」『美術史』161 平成18年10月20日 では、腰布の着衣形式の分類から仏師系統を判断する材料となりうることを論証しています。
坐像では、円成寺の大日如来坐像も腰布をしているのがわかりました。また、その形式から、山本勉氏は東寺講堂像などの平安初期像との関連を指摘しています。

 

 

Photo_6 立像では、金剛峯寺の八大童子像は実にバリエーションに富んだ表現をしています。その中でも矜羯羅童子立像は、腰布の結び目を体の横にずらしているというのは、ちょっと粋がっているようにも見えます。しかし、こんなにゆるく結んでいたら、ずれ落ちてしまいますので、おそらくは、腰帯といっしょに腰布を結んでいるのでしょう。

 

 

 

 

Photo_7 ところが、大報恩寺六観音のうちの准胝観音立像は、どう見てもずれ落ちそうな結び方です。どうも、腰布の機能がどういうものか、あるいはどういうものだったかがわからなくなってきたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_8 それにしても、腰布という着衣方法は、当然中国からの移入であることは明らかでしょう。宝慶寺の石仏の菩薩像にはその表現があります。そこから、どこまで遡れるか調べてみたいところです。
また、この腰布が本来どういう目的で纏うようになったのかは、興味あるところです。腰掛けるとき、お尻にその布が当たるようにしたというものだとしたら、坐像では、その布がお尻の下になくてはいけないのに、腰にまわっていたのでは、本来の役目を果たしていないということになります。もっと別の機能のためなのでしょうか。

“腰布”という言葉がどうもまた引っかかります。単に腰布というと、裳(裙)も腰に布を巻くので、それを連想してしまいがちです。その混同を避けるためには「裙をつけ、その上に腰布を巻く」という表現が必ず必要になります。もっと違う表現方法がないものでしょうか。使用している布が細長い布を使用しているので、服飾界では“ストール”が最適な言葉のようです。ストールは肩からかけるのが一般ですが、アフガンストールのように腰に巻くファッションもありますし、生憎と“ストール”の最適な日本語訳が見つからないので、妥協策として“腰巻ストール”というのはどうでしょうか。

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2009年12月 6日 (日)

「善光寺式阿弥陀および脇侍像現存作例一覧概要」補遺

307  最新の『佛教藝術』307号は善光寺如来特集です。これは今年善光寺の前立本尊御開帳の年で、展覧会などさまざまなイベントがありました。これを受けての特集です。

そのなかに、古幡昇子氏の「善光寺式阿弥陀および脇侍像現存作例一覧概要」という、善光寺式仏像のリストがありました。

この手の善光寺如来リストは『國華』866号(1964年5月)、『佛教藝術』82号(1971年10月)、小林計一郎『善光寺史研究』(2000年5月)とその採録数が増えていきましたが、どうも、その採録方法に難があり、リストに載っていながら、実際には存在しないといった、そのリストの信頼性に問題が多くありました。とくに『佛教藝術』のたなかしげひさ氏のリスト、『善光寺史研究』の小林計一郎氏のリストは文献から採録したり、寺へのアンケートで調査したりといった、実際に自ら見たものではないのも含まれていました。

別に、全て実物に当たらないとリストに挙げてはいけないということではなく、すくなくとも再検証の担保できる資料からの採録でなければ、その信頼性に疑問がでてきてしまいます。

今回のリストも、どうもその手の二次資料が入っているようです。こういった資料は他の手段で検証してみるべきでしょう。

そんなで、私がいままで入力してきたデータから、善光寺式仏像の写真・解説のある書籍・雑誌をリストしてみました。その中で、この『佛教藝術』のリストにない仏像、リストにありながら、法量などの記載のない仏像(後尾に*をつけたもの)を挙げてみました。

善光寺式如来作例補遺
岩手県・花巻市 高橋二郎 22.0 19.5 19.5 銅造    
佐藤瑞圭「1,市内の仏像について/八躰佛 金銅製五躰 高橋二郎 」 『花巻市文化財調査報告書 第十集』 1984年3月25日 花巻市教育委員会 1p~3p
岩手県・北上市 新山神社     34.0 銅造 鎌倉 市指定
「菩薩像 北上市更木町新山神社 」 『きたかみの古仏』北上川流域の自然と文化シリーズ(13) 1991年3月20日 北上市立博物館 23p~23p
秋田県・由利本庄市 長禅寺 7.0     木造 近代  
「13,長禅寺/4,善光寺三尊立像(84) 」 『本荘の神仏像』本荘市史神社仏閣調査報告書 1998年3月31日 本荘市史編さん室 77p~77p
福島県・白河市     16.9 銅造 室町    
原田文六郎「第一編 文化 第一章 美術・工芸 第二節 彫刻/銅造菩薩立像 関山 」 『白河市史 第10巻 各論編2 文化・旧町村沿革・人物』 1992年3月31日 福島県白河市 100p~101p
福島県・東和町 土屋栄作 39.6     銅造 鎌倉  
「3,銅造阿弥陀如来立像 土屋栄作蔵 」 『福島の佛像展~安達・田村地方~』 1974年9月0日 福島県文化センター
福島県・鹿島町 阿弥陀寺 43.0 34.5   銅造    
石原敬彦「第四編 仏像・仏画・工芸品 第一章 仏像 第二節 鹿島町内の仏像/8,善光寺式程見如来立像 阿弥陀寺 」 『鹿島町史 第3巻 資料篇2 原始・古代・中世』 1999年3月10日 鹿島町 906p~907p
茨城県・古河市 大善寺 44.5     銅造 鎌倉  
峯照男「1銅造阿弥陀如来立像 上片田・大善寺蔵 」 『三和の文化遺産』 2006年3月31日 古河市立三和資料館 1p~1p
群馬県・太田市 長勝寺   8.3 8.5 銅造 室町  
岡部央「第六章 中世太田の遺跡と遺物/第四節 中世の仏像・神像/二 仏像/長勝寺蔵/金銅造阿弥陀三尊のうち両脇侍像 」 『太田市史 通史編 中世』 1997年8月31日 太田市 873p~874p
群馬県・太田市 洞谷寺   30.5   銅造 鎌倉~室町  
岡部央「第六章 中世太田の遺跡と遺物/第四節 中世の仏像・神像/二 仏像/洞谷寺蔵/金銅造観音菩薩立像 」 『太田市史 通史編 中世』 1997年8月31日 太田市 876p~876p
群馬県・太田市 曹源寺   22.0 23.5 銅造 室町  
岡部央「第六章 中世太田の遺跡と遺物/第四節 中世の仏像・神像/二 仏像/曹源寺蔵/銅造阿弥陀三尊のうち両脇侍像 」 『太田市史 通史編 中世』 1997年8月31日 太田市 884p~885p
群馬県・榛名町 個人 26.2 22.6 22.1 銅造 室町
山田磯夫「作品解説 1,関東の出土金銅仏を中心に/24,善光寺式阿弥陀三尊像 群馬県群馬郡榛名町・個人 」 『甦る光彩ー関東の出土金銅仏ー』 1993年10月0日 埼玉県立博物館 65p~65p
「Ⅲ 善光寺信仰の受容と展開 11,各地の善光寺仏/55,阿弥陀三尊立像(善光寺式) 群馬県・個人 」 『古代・中世人の祈りー善光寺信仰と北信濃ー』第39回特別展 1997年4月0日 長野市立博物館 76p~76p
埼玉県・東松山市 浄光寺 32.6 22.9 22.9 銅造 中尊室町・脇侍江戸
「図版/29,浄光寺/29-6 阿弥陀如来及び両脇侍立像」 『仏像ー東松山市仏像調査報告ー』1985年3月31日 東松山市 134p~134p
埼玉県・江南村 弁天島 5尺     石造板碑 鎌倉(1227)  
川勝政太郎「武蔵須賀廣の嘉禄・寛喜板石塔婆について 」 『史迹と美術』 27-10(278) 1957年11月1日 史迹美術同攷会 362p~368p
埼玉県・江南村 江南小学校 7尺5寸     石造板碑 鎌倉(1230)  
川勝政太郎「武蔵須賀廣の嘉禄・寛喜板石塔婆について 」 『史迹と美術』 27-10(278) 1957年11月1日 史迹美術同攷会 362p~368p
埼玉県・小川町 萬福寺 49.2 34.2   銅造 鎌倉~南北朝
林宏一「第二編 中世/第四章 小川町の仏教美術ー仏像ー/小金銅仏」『小川町の歴史 通史編 上巻』 2003年8月29日 小川町 313p~315p
千葉県・袖ヶ浦市 常照寺 44.7 31.5 21.5 銅造 鎌倉  
「全作例 寺院 根形地区 20,常照寺(野田)/20-1~3,善光寺式阿弥陀三尊 」 『袖ヶ浦の仏像・仏具』袖ヶ浦市史基礎資料調査報告書1 1995年2月28日 袖ヶ浦市教育委員会 32p~32p
千葉県・袖ヶ浦市 松源寺 1尺     木造 江戸  
「全作例 寺院 平岡地区 39,松源寺(岩井)/39-2,善光寺式阿弥陀三尊像 」 『袖ヶ浦の仏像・仏具』袖ヶ浦市史基礎資料調査報告書1 1995年2月28日 袖ヶ浦市教育委員会 52p~52p
千葉県・白井市 神宮寺観音堂   6.0   銅造 室町  
「全作例篇/神宮寺[観音堂]/10 菩薩立像 」 『白井市の仏像』白井市文化財基礎調査報告書 第3集 2005年3月25日 白井市教育委員会 26p~26p
千葉県・白浜町 紫雲寺   32.0   銅造 鎌倉  
川崎暁「重要作例図版解説/3,銅造観音菩薩立像(20)原色図版3 紫雲寺 」 『白浜町の仏像』 1999年3月0日 白浜町教育委員会 28p~29p
東京都・港区 善光寺 41.5 30.7 30.3 銅造 江戸 区指定*
「銅造阿弥陀如来及両脇侍立像」『港区 文化財のしおり(区指定・登録文化財編)』 1995年12月 港区教育委員会社会教育課文化財係 22p~22p
東京都・荒川区 南泉寺       銅造 室町 区指定*
「有形文化財(彫刻)/銅造菩薩立像 南泉寺」『荒川区の文化財(一)』 1989年3月0日 東京都荒川区教育委員会 19p~19p
神奈川県・横浜市栄区 長谷寺 4.2 3.5 3.5 銅造押出仏 江戸  
皆川祥子「調査目録 (四)彫刻 長谷寺/2,銅造善光寺式阿弥陀三尊像 」 『横浜の文化財ー横浜市文化財綜合調査概報(7)ー』 1988年3月31日 横浜市教育委員会社会教育部文化財課 93p~93p
神奈川県・横浜市磯子区 金臺寺 25.8 20.5 20.5 木造 近代  
塩澤寛樹「調査目録 (四)彫刻 金臺寺/4,木造阿弥陀如来及び両脇侍像 」 『横浜の文化財ー横浜市文化財綜合調査概報(11)ー』 1993年3月31日 横浜市教育委員会社会教育部文化財課 102p~102p
神奈川県・横浜市磯子区 願行寺 42.6 27.4 27.4 銅造 江戸  
塩澤寛樹「調査目録 (四)彫刻 願行寺/3,銅造阿弥陀如来及び両脇侍像 」 『横浜の文化財ー横浜市文化財綜合調査概報(11)ー』 1993年3月31日 横浜市教育委員会社会教育部文化財課 102p~103p
神奈川県・横須賀市 西徳寺 8.4 6.5 6.5 銅造 江戸(1780)光雲銘
皆川祥子「彫刻 調査内容 西徳寺/6,銅造阿弥陀如来及び両脇侍菩薩立像」 『横須賀市文化財総合調査報告書』第1集 浦賀地区 1981年3月31日 9p~10p
神奈川県・横須賀市 東林寺 60.0 43.3 43.5 銅造 室町  
山田泰弘「彫刻 調査内容 東林寺/3,銅造阿弥陀如来及び両脇侍菩薩立像」 『横須賀市文化財総合調査報告書』第1集 浦賀地区 1981年3月31日 24p~24p
新潟県・柏崎市 香積寺   33.0 33.0 銅造 室町  
籠島浩恵「彫刻/聖観音立像1体 善光寺仏2体 香積寺 」 『柏崎市の文化財とその周辺』第16回特別展 1990年10月10日 柏崎市立博物館 24p~24p
新潟県・新井市 上野清定     26.4 銅造 鎌倉  
「第三章 斐太仏山出土善光寺仏と摩尼王寺 」 『上越後善光寺仏の研究』 1962年1月15日 直江津市史蹟保存会・直江津市教育委員会 11p~16p
久野健「勢至菩薩像 大字雪森蔵(新井市雪森) 」 『新井周辺の仏像』郷土の新井 特集号 1965年11月3日 新井市郷土史研究会 26p~27p
新潟県・柏崎市 根埋地蔵立地蔵       石造 鎌倉  
「第六章 柏崎一光三尊仏 」 『上越後善光寺仏の研究』 1962年1月15日 直江津市史蹟保存会・直江津市教育委員会 24p~25p
新潟県・新井市 摩尼王寺   7.4   銅造 鎌倉~室町  
久野健「伝観音菩薩像 摩尼王寺(新井市堂庭) 」 『新井周辺の仏像』郷土の新井 特集号 1965年11月3日 新井市郷土史研究会 6p~8p
新潟県・妙高高原町 杉の沢部落 52.0 48.0 48.0 木造 室町  
「第九章 室町期の善光寺仏/第一節 杉の沢善光寺仏 」 『上越後善光寺仏の研究』 1962年1月15日 直江津市史蹟保存会・直江津市教育委員会 34p~36p
新潟県・妙高市 関山神社妙高堂 47.7 31.0 31.0 銅造 鎌倉~室町  
「第四章 関山神社善光寺仏 」 『上越後善光寺仏の研究』 1962年1月15日 直江津市史蹟保存会・直江津市教育委員会 16p~21p
「善光寺式三尊像 関山神社妙光堂(中頚城郡妙高村関山) 」 『新井周辺の仏像』郷土の新井 特集号 1965年11月3日 新井市郷土史研究会 12p~13p
石川県・金沢市 玄光院       木造   (写真なし)
「第Ⅰ部 美術・工芸・書跡編/寺院別所蔵品/11,玄光院/(36)木造善光寺式阿弥陀如来立像 」 『寺町台の寺院調査』金沢市文化財紀要 13 1977年3月31日 金沢市教育委員会 14p~14p
福井県・武生市 大宝寺 190.0 63.7   綴織 江戸(1819)  
「作品解説/46 綴織 阿弥陀三尊像(善光寺式阿弥陀像) 武生市本町・大宝寺 」 『慈悲の造形ー越前の観音ー』福井県立博物館第15回特別展 1991年10月0日 福井県立博物館 101p~101p
長野県・諏訪市 教念寺   26.0   銅造 南北朝 市指定
「教念寺善光寺仏脇士仏 」 『改訂 諏訪市の文化財』 1997年3月27日 諏訪市教育委員会 174p~175p
静岡県・修善寺町 薬王寺 47.7     銅造 鎌倉  
「彫刻・工芸/銅製阿弥陀如来立像 薬王寺 」 『修善寺の文化財』 2004年3月1日 修善寺町教育委員会 4p~4p
愛知県・蒲郡市 真如寺 36.0 24.0 24.0 木造 江戸  
「形原地区 64,真如寺/9,善光寺三尊像 」 『蒲郡市寺院悉皆調査報告書』 1986年12月1日 蒲郡市教育委員会 150p~150p
愛知県・阿久比町 済乗院 40.0     不明    
「十、彫刻/済乗院善光寺如来 」 『阿久比の建造物と彫刻』阿久比町文化財調査報告 第3集 1980年3月0日 阿久比町教育委員会 57p~57p
愛知県・吉良町 長福寺 46.4     銅造 鎌倉  
天野信治「図版解説/4,善光寺式阿弥陀如来立像 愛知県吉良町・長福寺 」 『特別展 ものがたり 善光寺如来絵伝』 2002年10月12日 安城市歴史博物館 116p~116p
滋賀県・大津市 園城寺(近松寺伝来) 33.9     銅造    
「Ⅲ 善光寺信仰の受容と展開 11,各地の善光寺仏/51,阿弥陀三尊立像(善光寺式) 滋賀県・園城寺 」 『古代・中世人の祈りー善光寺信仰と北信濃ー』第39回特別展 1997年4月0日 長野市立博物館 72p~72p
大阪府・茨木市 安養寺 40.0 27.5 27.7 木造 室町  
藤岡穣「第Ⅵ章 西国街道沿いの美術/1.安養寺の彫刻/1 阿弥陀三尊像 安養寺(耳原) 」 『新修茨木市史 第九巻 史料編 美術工芸』 2008年3月31日 茨木市 178p~181p
奈良県・奈良市 霊厳院 37.2 21.2 20.0 木造 江戸  
「椿井地区/189 林小路町 霊厳院/⑤ 阿弥陀三尊像(善光寺式) 」 『昭和59年度実施 奈良市彫刻調査中間報告書(その三)ー大安寺・帯解・東市・飛鳥・椿井・済美地区ー』 1985年3月31日 奈良市教育委員会 49p~49p
奈良県・奈良市 安養寺 50.5 36.4 36.5 木造 江戸  
「済美地区/197 鳴川町 安養寺/③ 阿弥陀三尊像(善光寺式) 」 『昭和59年度実施 奈良市彫刻調査中間報告書(その三)ー大安寺・帯解・東市・飛鳥・椿井・済美地区ー』 1985年3月31日 奈良市教育委員会 63p~63p
奈良県・奈良市 唐招提寺       摺仏    
「善光寺三尊像(摺仏) 奈良市・唐招提寺 」 『全国善光寺如来展』 1967年0月0日 信濃美術館 26p~26p
奈良県・奈良市 奈良国立博物館     23.3 銅造 鎌倉  
「新収蔵品紹介/3 金銅勢至菩薩立像[1371] 」 『鹿園雑集 奈良国立博物館研究紀要』 9 2007年3月31日 奈良国立博物館 147p~147p
「図版・解説/3 金銅勢至菩薩立像 」 『古玩逍遥ー服部和彦氏寄贈仏教工芸展ー』 2007年6月9日 奈良国立博物館 18p~18p
奈良県・生駒市 宝山寺観音堂 38.2 23.2 23.2 木造 江戸  
「Ⅰ 総覧/4 宝山寺 観音堂/29 善光寺式阿弥陀三尊像 」 『生駒市の仏像 Ⅱ 北・中地区篇』生駒市文化財調査報告書 第21集 2006年3月31日 生駒市教育委員会 20p~20p
和歌山県・日高町 浄恩寺            
「浄恩寺の佛像/善光寺式阿弥陀三尊 」 『日高町の文化財 第4集 日高町の仏像』 年12月15日 日高町教育委員会 33p~33p
徳島県・美馬町 願勝寺 57.2 41.5 38.0 銅造 室町  
「91,善光寺三尊像 美馬郡美馬町、願勝寺 」 『阿波のほとけ』徳島郷土双書17 1969年3月25日 徳島県教育会出版部 136p~137p
福岡県・久留米市 善導寺 48.7     銅造 江戸(享保頃)  
「図版/18,銅造善光寺式阿弥陀三尊像 」 『筑後大本山 善導寺』九州寺社シリーズ 5 1981年3月27日 九州歴史資料館 9p~9p
大分県・杵築市 正覚寺 49.2     銅造 鎌倉  
「浄土への憧れー阿弥陀仏の系譜/中世の阿弥陀信仰と阿弥陀如来像/46 銅造阿弥陀如来立像 宇佐市・善光寺 」 『み仏の美とかたちー大分の仏教美術1400年の輝きー』開館25周年特別展 2006年10月20日 大分県立歴史博物館 48p~48p

以上です。詳細に検討はしていないので、重複などがあるかもしれません。そのほか、記録にないものも多数あるはずです。これは全国の悉皆調査が進まないとどうにもなりません。

Photo ひとつ、三重県の新大仏寺の境内で見た善光寺式阿弥陀三尊像です。これもリストに入れないといけませんかな。ただ、寸法も測っていませんので、ちょっと信頼性に欠けるかな。

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2009年12月 4日 (金)

日吉神社(赤後寺)菩薩立像

Photo 先日、拝観した日吉神社(赤後寺)の二体の平安仏のうち、菩薩像を見ていると、腰の部分に布を巻いているのがその時、気になりました。

 

Photo_2 写真をとりながら、腰の中心をみると、釘のような痕跡がありました、正面で布が絞られているので、結び目の表現を後で付けただろうという想像はつきました。

あとで、側面や背面の写真を見てみると、確かに幅の広い布を装飾のように巻いているのがわかります。

3

他に、こんな着衣の仏像があるのか、写真集などでざっと見てみましたが、見あたりません。

この仏像に関しての論考は、数編あり、それも読んでみましたが、これに注目している論文は見あたりませんでした。以下この仏像を記載している論文を挙げると、

○田中義恭「日吉神社の二菩薩像」『MUSEUM』219 1969.6.1

○久野健「日吉神社の千手観音菩薩像及び菩薩立像」『美術研究』266 1969.11.29

○田中日佐夫「湖北の美術」『古美術』29 特集湖北の美術 1970.3.30

 以上の3編には、この腰布のことは記載されていない。

○文化庁『昭和45年度 指定文化財修理報告書』 1978.3.

 形状の項目に「裳の上に腰布をつけ、・・・・・」

○西川杏太郎『日本の美術』224 近江の仏像 1985.1.15

 腰帯の記載はあるが、腰布の記載はない。

○宮本忠雄「湖北の仏像たち」『仏像を旅する「北陸線」』 1989.10.10

 「腰布や裳を締める紐、裳の折り返し部などの表現は古様である。」

○高梨純次「滋賀・高月町日吉神社木造千手観音立像をめぐってー近江彫刻史の地域研究(一)湖北における仏教彫刻の成立ー」『滋賀県立近代美術館研究紀要』4 2002.3.20

 「幅の比較的に狭い腰布を巻き、正面では平滑としてその中心に鉄釘が残っており、結び目を別材で表していたとみられる。」

宮本忠雄氏の「この表現は古様である」とは、他にその例をご存知なのでしょうか。この腰布は機能として巻いているのではなく、この仏師は何か今までとは違った表現をしようとしたのか、その当時の最先端ファッションを直ちに取り入れたのか、いずれにしても、既成の表現を変えようとした意図が見えるような気がします。

読者の皆様、こんな例をもし御存知ならばお教えください。

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2009年11月25日 (水)

興福寺十大弟子像

 このところ、調べが中途半端で、ブログにどう書こうか悩んでいるうちに、ずいぶんと時間が経ってしまって、読者の皆様にはご心配をおかけいたしております。そんなわけで、別に筆者に何かアクシデントがあったわけではありません。単に怠惰が出ただけです。すいません。
さて、以前のブログ「ガンダーラ仏真贋論争」の最後に十大弟子像の写真を掲載したのに、注目していただけたでしょうか。この仏像は旧興福寺十大弟子像の1躯といわれている仏像です。現興福寺には十大弟子像は6躯しかありません。寺外にでた4躯のうちの1躯といわれています。
興福寺は享保2年の火災によって、西金堂が焼失し、そのとき中尊釈迦の首と、八部衆八体と十大弟子像十体が救い出されています(『享保弐丁酉日次記』)。つまり、その当時は十大弟子像は10体存在していたのです。
それ以降、寺外にでた4躯は、一体、どこにいったのでしょうか。これが、以外と追跡できるのです。
Photo まず、個人藏の1体です。この仏像は昭和5年刊の『古美術研究資料』日本之部 に写真が掲載されていました。その後、所在が不明になり、平成12年、大倉集古館で行われた個人藏の仏像を集めた『拈華微笑』という展覧会に出品され、注目をあびました。

Photo_2

そのカタログには、胎内に大正11年の修理記があり、その全文が載っていました。それによると、木骨と隻手・片足のみ残存していたのを、東大寺三月堂の残片もあつめて作り上げた像のようです。この修復にあたって、武藤山治氏が資金をだし、菅原大三郎が修理にあたったと書かれています。
Photo_3 1躯は大倉集古館に優婆離像としてありました。この像は『大倉集古館列品要略』大正9年刊によると、明治の末葉に竹内久一によって修理されたようです。さらに前出の修理記によると、この像は頭部のみが古いものだったようです。この像は関東大震災で焼失してしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 1躯は現在東京芸術大学所蔵の木骨のみで、裾の一部が残存している像です。この像は大正2年に購入したもののようです。
そして、最後の1躯は旧田万コレクションで現在大阪市立美術館所蔵だということですが、この写真が見あたりません。大阪市立美術館発行の『田万コレクション』昭和56年刊 の目録には「250 乾漆 僧形像頭部 1 23.7 奈良時代」がどうもそのようですが、残念ながらその番号の写真がありません。
興福寺のホームページに「古写真ギャラリー」というコーナーがあります。その中に腰部の破損した八部衆の沙羯羅像と、木骨だけの十大弟子像とおもわれる2躯の合計3躯が写っている写真があります。この中の真ん中の1躯は胴部と手、足が残っており、個人藏の像のようですが、両肩の残っている左の像は衣が片方の肩にしかかかっていないので、大倉集古館像ではないかもしれません。
どうも、個人藏像と大倉集古館像はその修理の時に、様々な残片を寄せ集めて作ったようです。それが一体どの部分なのかは、現在残っている個人藏像を調査してみる他はありません。しかし、東大寺三月堂像の残片までも使ったとすると、これは、修理といえるのでしょうか。また復原なのでしょうか。どこまでが本物なのでしょうか。まさしく、ガンダーラ仏の真贋と共通する問題のように見えるのですが。
この問題はちょっと消化不良です。もうすこし時間をかけて調べてみようとおもいます。

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2009年11月 8日 (日)

ガンダーラ仏真贋論争(経過編)

 先日手に入れた、主に毎日新聞記事のスクラップから、ガンダーラ仏真贋論争の経過をたどっていこうとおもいます。

  • 62. 5. 2 奈良博で4月29日~5月31日まで開催中の『菩薩』展に出品されている「石造弥勒菩薩立像」が贋作であると、古代オリエント博物館研究部長の田辺勝美から奈良博に内容証明郵便で質問状が送られていた。
  • 62. 6. 3 所有者の亀廣記念医学会の亀廣市右ヱ門が記者会見。「奈良博の松浦正昭普及部長の仲介によって、ニューヨークの美術商、ウイリアム・H・ウォルフから37万5千ドルで契約、前払いとして、12万5千ドルを送金した。奈良博が輸入者となって、100年以上経た古美術品として無税で、大阪空港に到着した。日本に到着後精算とした残りの25万ドルはまだ送金していない。」
  • 62. 6,18 奈良博の西川杏太郎館長は「ガンダーラ仏研究協議会」を7月3日にメンバー13人で開催することを発表。
  • 62. 6.20 美術商から、残金遅延料を払えと要求。
  • 62. 6.26 亀廣氏、奈良博を批判。
  • 62. 6.30 石仏を亀廣記念病院から、奈良博へ搬送。
  • 62. 6.30 毎日新聞が「真贋論争」の解説記事を掲載。
  • 62. 7. 2 毎日新聞が田辺氏の自説を掲載。

Photo

  • 62. 7. 3 奈良博講堂で「ガンダーラ仏研究協議会」を非公開で開催。13:30~17:30に及ぶ。出席者は奈良博から西川杏太郎、河田貞、光森正士、河原由雄、松浦正昭の5人、それ以外から田辺勝美、高田修、樋口隆康、肥塚隆、秋山光文、西村公朝、馬渕久夫の7人、オブザーバーとして、亀廣市右ヱ門。以上計13人
  • 62. 7. 3 18:30より記者会見。座長の樋口隆康氏は「これ(協議会)によって、ガンダーラ仏が本物か、偽物か、断定はできなかった。研究者として、シンポジウムで相手を負かした方が勝ちという結論にはできない。結局、こういう(真贋)問題は、全部が偽物、一部に他の材料をつぎ足すケースなどがあり、どれをとって偽物とするかという問題がある」と説明した。
  • 62. 7. 4 毎日新聞が各出席者の意見を掲載。奈良博館員以外の大勢は「補修部分など疑問が残るが、それだけでは偽物とは言えない」。田辺氏は「全部が偽物」。亀廣氏「残金の支払は保留」。毎日新聞の解説(斎藤清明)は樋口隆康氏の個人的見解として「今のところ、ホンモノでもニセモノでもない」と書いている。奈良博はこれで、「本物」と決着したと判断。以後これにもとづいて反論。
  • 62. 7. 7 亀廣氏が記者会見で、未公表のX線写真を公開。
  • 62. 7.10 奈良博は亀廣氏に抗議。「信義に反し、極めて遺憾。」
  • 62. 7.12 亀廣氏は奈良博に石仏を預かって再調査をしてほしいと要望。
  • 62. 7.14 奈良博の西川館長は記者会見で、亀廣氏に不快感を表明。再調査を拒否。法的手段をとることを考えていると表明。
  • 62. 7.17 石仏を亀廣記念医学会「関西記念病院」へ搬送。亀廣氏、協議会の資料を提出することを条件に引き取る。
  • 62. 7.23 奈良博、石仏の返却業務を完了した、と表明。
  • 62. 7.28 江上波夫古代オリエント博物館館長の記者会見。「9月中旬から調査委員会を設置し6ヶ月をめどに報告する」と宣言。
  • 62. 8.25 亀廣記念医学会は、補修による価値低下分を差し引き、残金を支払った。
  • 62. 9.16 古代オリエント博物館に調査のため石仏を移送。
  • 62.10.23 田辺勝美氏の記者会見。「偽作説の新たな根拠を示す。」
  • 62.11.26 亀廣氏の記者会見。「世界の博物館・大学に出したアンケートの回答で19通の内、6通が偽物。」と発表。
  • 62.12.25 亀廣氏の記者会見。「非破壊検査の結果、首や腕を接着材で接合。」と発表。
  • 63. 3. 7 亀廣氏の記者会見。「パキスタン政府考古局総裁の書簡を公開→本物には見えない。」 奈良博西川館長の反論→断定を避けた極めて穏当な表記。
  • Photo_4 63. 3.14 亀廣記念医学会は、奈良博に対して、「奈良博が十分な調査を怠り、偽物の立像を買わせた」として、国を相手に、5100万円の損害倍賞請求の訴訟を大阪地裁に起こした。
  • 63. 3.14 衆院法務委員会で坂上富男氏(社会党)が取り上げ、参考人として、田辺勝美氏、内田弘保氏(文化庁文化財保護部長)に聴取。
  • 63. 4.15 奈良博西川館長の記者会見。「国会に出された、田辺氏の30項目の贋作説に反論。」
  • 63. 4.22 田辺氏の記者会見。「奈良博の本物説に再反論。」
  • 63. 5.30 大阪地裁で口頭弁論。
  • 63. 6.20 古代オリエント博物館の協議会の調査報告。「100%の贋物。大小14個の石をエポキシ系接着剤で接合。」
  • 63. 8.11 奈良博の西川館長、二度目の反論。「近年の補修個所以外は接着剤は使われていない。奈良博の調べでは接合部は五カ所しかない。」
  • 04. 2.10 大阪地裁判決。海保寛裁判長。「奈良博に違法行為なし。したがって、ガンダーラ仏の真贋は検討するまでもない。」
  • 04. 2.10 大阪高裁に控訴。
  • 08.11.26 最高裁判決。第3小法廷尾崎行信裁判長。「上告棄却。真贋は判断せず。」

    ここまでの感想をあげると、
    ・まず、奈良博が石仏購入の仲介をしたのは、問題であったと指摘されている。権力を利用して策を労しすぎたということだろう。
    ・展覧会に展示する前の調査がおろそかだったことは、奈良博も認めている。それだからといって責任はないといっているのは役人のよくいう言い訳である。
    ・奈良博での研究協議会はそれなりの学者があつまっているが、結局、あまりにもせまいコミュニティの中での議論なので、十分にものが言えていないのは明白である。
    ・様式論は、傍証にはなるが真贋の決定的な判断にはならない。材質での判断も贋作者はいくらでもそれに対応できる技術をもっている。
    ・田辺氏は権力に立ち向かう学者として、マスコミの格好のヒーローにまつりあげられたが、それを田辺氏自身利用したようにも見受けられる。
    ・亀廣氏が訴訟を起こしたのは、それなりに評価できる。しかし、古美術品の贋物をつかまされるのは、購入者の責任であることは、この世界の暗黙のルールである。
    ・真贋の判定には、それなりの情報公開が必要である。つまり、補修の詳細な客観的資料が必要なのである。結論は白と黒だけではないということもある。
    ・翻って、今、古美術品の補修はどのようにしているのだろうか。後世の人がこのように判断に苦しむ補修をしていないだろうか。

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2009年10月21日 (水)

金戒光明寺渡海文殊

以前、神奈川仏教文化研究所の訪れ帖に書いたことがある仏像のことですが、もう一度、そのいきさつを話します。

Photo もう30数年前のことですが、私が商売を始めた頃、京都に遊ぶことがありました。一緒に行動したのは、写真評論家だった故H君、某役所調査官のB・B君、某大学教授のN君でした。夕方、京都の夜景を見ようというので、金戒光明寺の三重塔にやってきました。そして、三重塔の中を覗くと、渡海文殊が安置されていました。裏にまわってみると、扉が開いていました。我々はそっと中に入りました。善財童子1体のみが欠けていましたが、獅子に乗った文殊菩薩が目の前にあらわれました。江戸時代の極彩色に覆われていましたが、なかなか古そうな様式をしていました。これは、鎌倉時代までいくのかもという印象でした。しかし、三重塔は江戸時代の建物ですし、極彩色がどうも気になり、その場では判断ができませんでした。

その後、大学院生だった、B・B君とN君はその仏像について調べたようですが、文献的にもよくわからなかったようです。B・B君は修士論文に文殊菩薩をとりあげ、調べたようですが、行き詰まり、とうとう論文を出さずに、中退してしまいました。それが、けしかけた本人にとって、心残りでした。

Photo_3Photo_4  数年前、京都国立博物館の平常展を見ていると、金戒光明寺藏の最勝老人像が展示されていました。説明板を読むと、この渡海文殊を順次修理しているとのことでした。

この仏像は京都国立博物館で行われた、1995年の社寺調査で、注目をあびたようです。その後2002年に京都市指定文化財となり、5ヶ年計画で1体づつ修理をおこなってきたようです。

Photo_5Photo_6 そして、去年、金戒光明寺では、4体そろっての公開をしました。その時は、失った善財童子も新しく作られ、優填王の欠失した手も補修されたようです。その時は、江戸時代の極彩色はすっかりとれて、もとの落ち着いた彩色に変わっていました。

ただ、この仏像についての来歴など、疑問がとけていなかったので、ずっと気になっていました。すると、この仏像についての論文を発見することができました。淺湫毅「金戒光明寺の文殊騎獅像および眷属像について」『戒律文化』第6号 2008年3月15日 です。

京都国立博物館『京都社寺報告』17 には簡単な調査報告がありますが、来歴等は記述されていません。『京都市の文化財』第21集 には市文化財指定に際しての解説があります。それぞれは、簡単な記述でしたが、淺湫毅の論文はその来歴の推定から、仏所の推定にまで、その論考が及んでいます。

その要点は、善派仏師の作とみられること。X線で判明した文殊菩薩頭部にある納入品の形状は西大寺像と似ていること。そのこと等から、叡尊教団に関係する造像の可能性が高い。という結論のようです。

今現在は納入品を取り出すことができないため、推論に終わっているようですが、いつか、修理のときに、納入品が取り出せる機会があるかもしれません。そのときまで、結論はおあづけのようです。

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2009年10月18日 (日)

香炉岡弥勒石仏

PhotoPhoto_2  比叡山西塔の釈迦堂の正面左から細い山道をのぼっていくと、正面に金銅の相輪橖が見えてきます。この相輪橖は、明治28年頃の完成だそうで、旧国宝(現重文)に指定されています。中央部には音声菩薩が浮彫されていました。その手前に右に折れる道があって、ちょっと歩くと、左側に石仏の側面が見えてきます。

Photo_3Photo_4  花崗岩製で、高さはざっと2m位はあるでしょうか。光背まで丸彫で、彫られています。光背は二重円光光背で、梵字が月輪内に彫られています。さらに、光背の背面には大きな月輪と小さな月輪が2個彫られています。下部には四角い奉籠孔があります。

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Photo_6 この石仏の印相はどうも降魔相のようで、光背背面の月輪内の梵字は釈迦三尊の種子のようです。

以下、川勝政太郎「比叡山香炉岡石佛とその様式」『史迹と美術』300 昭和35年1月1日よると、『比叡山堂舎僧坊記』にはもと、ここには弥勒堂があり、その本尊がこの弥勒石仏であろう、としています。

同書によると、昭和34年、横川に参詣の篤信の一老女が釈迦堂の後方に大きい石仏のあるのを語り、調べたところ、熊笹の中に石仏を発見した、ということだそうです。この石仏の発見は以外と新しく、それまで、忘れられた石仏であったようです。

川勝政太郎氏によると、鎌倉初期の造顯と見ています。この石仏に限らないのですが、丸彫の石仏は、奧行があまりありません。そのために非常に安定感がありません。何故なんだろうと思うことがあります。技術的に彫る手間を少なくするためだったのでしょうか。この石仏も光背の一部が破損しても、よく倒れないでいたと思います。

Photo_7Photo_8 川勝氏の論文では、これに関連して、北白川西町の弥陀石仏との共通点をあげています。この石仏は未見ですので、見にいかなくてはと思っていると、そういえば、崇福寺に行く途中にある阿弥陀石仏をおもいだしました。この石仏と北白川石仏は、旧山中越の両方の始点にあたる場所にあり、その中間がこの香炉岡石仏ということになります。

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2009年10月 7日 (水)

大寺薬師の菩薩像

Photo 今回の旅行は、『石見の仏像』展を見ることでしたが、以前から気になっていた仏像をもう一度確認したいという目的もありました。

そのひとつが、大寺薬師です。薬師如来坐像と四天王立像、そして、日光・月光菩薩と2躯の観音菩薩像が安置されています。

その中で、4躯の菩薩像の“目”がどんな彫法をしているのかを確認したかったのです。

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Photo_3 まず、観音菩薩立像(大像)です。眼球のふくらみを表していて、それから瞼を彫っています。しかも、かなり下の位置に瞼を彫っているのが気になるところです。

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Photo_5 この月光菩薩像も上像と同様ですが、目の中に墨で黒目を書き込んであります。当初のものかはわかりません。

Photo_6 薬師如来坐像です。目の彫法はごく一般的な位置に彫られています。目は墨と白色で彩色されています。

 

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Photo_15  日光菩薩像の目の位置は一般的な場所にありますが、上マブタふくらんでおり、そのマブタの下に墨で黒目が書かれています。

Photo_13Photo_16

観音菩薩像(小像)は、フシがいたるところにある仏像です。目の位置は普通の場所に上下のマブタとも彫られています。

このように、目の彫法に限って見てみると、観音菩薩像(大像)と月光菩薩像が特異な彫法をしているのがわかります。伏し目の表現にしては、あまりにも、眼球の下の位置にありすぎます。近づいて、見上げても、目の位置は下にあって目が合いません。

これは、井上正氏が唱えている“化現の始まったばかりの表現”なのでしょうか。今回は見られなかった、仏谷寺の伝虚空蔵菩薩像は井上氏のあげた例証にはいっていますが、写真で見るかぎり、眼球の中央にうっすらとマブタを彫っています。こんな下の位置にマブタを彫っていません。

実際に、この2躯の仏像を見てみると、マブタは当初から彫られていたのか疑問がわきます。もとは“無眼”だったのではと思いたくなります。他の像を見比べても、あまりにも異様です。

また異様なのは、観音菩薩像(小像)です。この仏像はフシだらけの木材を使っています。頭部もそうですが、腰部にも2個所のフシがあります。こんな木材では、きれいな仕上ができないのは当然です。そのままでは彩色などできるはずがありません。素木でそのままだったのか、あるいは塑土で補修したのでしょうか。

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