仏像

2009年11月 8日 (日)

ガンダーラ仏真贋論争(経過編)

 先日手に入れた、主に毎日新聞記事のスクラップから、ガンダーラ仏真贋論争の経過をたどっていこうとおもいます。

  • 62. 5. 2 奈良博で4月29日~5月31日まで開催中の『菩薩』展に出品されている「石造弥勒菩薩立像」が贋作であると、古代オリエント博物館研究部長の田辺勝美から奈良博に内容証明郵便で質問状が送られていた。
  • 62. 6. 3 所有者の亀廣記念医学会の亀廣市右ヱ門が記者会見。「奈良博の松浦正昭普及部長の仲介によって、ニューヨークの美術商、ウイリアム・H・ウォルフから37万5千ドルで注文、前払いとして、12万5千ドルを送金した。奈良博が輸入者となって、100年以上経た古美術品として、大阪空港に到着した。日本に到着後精算の残りの25万ドルはまだ送金していない。」
  • 62. 6,18 奈良博の西川杏太郎館長は「ガンダーラ仏研究協議会」を7月3日にメンバー13人で開催することを発表。
  • 62. 6.20 美術商から、残金遅延料を払えと要求。
  • 62. 6.26 亀廣氏、奈良博を批判。
  • 62. 6.30 石仏を亀廣記念病院から、奈良博へ搬送。
  • 62. 6.30 毎日新聞が「真贋論争」の解説記事を掲載。
  • 62. 7. 2 毎日新聞が田辺氏の自説を掲載。

Photo

  • 62. 7. 3 奈良博講堂で「ガンダーラ仏研究協議会」を非公開で開催。13:30~17:30に及ぶ。出席者は奈良博から西川杏太郎、河田貞、光森正士、河原由雄、松浦正昭の5人、それ以外から田辺勝美、高田修、樋口隆康、肥塚隆、秋山光文、西村公朝、馬渕久夫の7人、オブザーバーとして、亀廣市右ヱ門。以上計13人
  • 62. 7. 3 18:30より記者会見。座長の樋口隆康氏は「これ(協議会)によって、ガンダーラ仏が本物か、偽物か、断定はできなかった。研究者として、シンポジウムで相手を負かした方が勝ちという結論にはできない。結局、こういう(真贋)問題は、全部が偽物、一部に他の材料をつぎ足すケースなどがあり、どれをとって偽物とするかという問題がある」と説明した。
  • 62. 7. 4 毎日新聞が各出席者の意見を掲載。大勢は「補修部分など疑問が残るが、それだけでは偽物とは言えない。」。田辺氏は「全部が偽物」。亀廣氏「残金の支払は保留」。毎日新聞の解説(斎藤清明)は樋口隆康氏の個人的見解として「今のところ、ホンモノでもニセモノでもない」と書いている。奈良博はこれで、「本物」と決着したと判断。以後これにもとづいて反論。
  • 62. 7. 7 亀廣氏が記者会見で、未公表のX線写真を公開。
  • 62. 7.10 奈良博は亀廣氏に抗議。「信義に反し、極めて遺憾。」
  • 62. 7.12 亀廣氏は奈良博に石仏を預かって再調査をしてほしいと要望。
  • 62. 7.14 奈良博の西川館長は記者会見で、亀廣氏に不快感を表明。再調査を拒否。法的手段をとることを考えている。
  • 62. 7.17 石仏を亀廣記念医学会「関西記念病院」へ搬送。亀廣氏、協議会の資料を提出することを条件に引き取る。
  • 62. 7.23 奈良博、石仏の返却業務のを完了した、と表明。
  • 62. 7.28 江上波夫古代オリエント博物館館長の記者会見。「9月中旬から調査委員会を設置し6ヶ月をめどに研究。」と宣言。
  • 62. 8.25 亀廣記念医学会は、補修による価値低下分を差し引き、残金を支払った。
  • 62. 9.16 古代オリエント博物館に調査のため石仏を移送。
  • 62.10.23 田辺勝美氏の記者会見。「偽作説の新たな根拠を示す。」
  • 62.11.26 亀廣氏の記者会見。「世界の博物館・大学に出したアンケートの回答で19通の内、6通が偽物。」と発表。
  • 62.12.25 亀廣氏の記者会見。「非破壊検査の結果、首や腕を接着材で接合。」と発表。
  • 63. 3. 7 亀廣氏の記者会見。「パキスタン政府考古局総裁の書簡を公開→本物には見えない。」 奈良博西川館長の反論→断定を避けた極めて穏当な表記。
  • Photo_4 63. 3.14 亀廣記念医学会は、奈良博に対して、「奈良博が十分な調査を怠り、偽物の立像を買わせた」として、国を相手に、5100万円の損害倍賞請求の訴訟を大阪地裁に起こした。
  • 63. 3.14 衆院法務委員会で坂上富男氏(社会党)が取り上げ、参考人として、田辺勝美氏、内田弘保氏(文化庁文化財保護部長)に聴取。
  • 63. 4.15 奈良博西川館長の記者会見。「国会に出された、田辺氏の30項目の贋作説に反論。」
  • 63. 4.22 田辺氏の記者会見。「奈良博の本物説に再反論。」
  • 63. 5.30 大阪地裁で口頭弁論。
  • 63. 6.20 古代オリエント博物館の協議会の調査報告。「100%の贋物。大小14個の石をエポキシ系接着剤で接合。」
  • 63. 8.11 奈良博の西川館長、二度目の反論。「近年の補修個所以外は接着剤は使われていない。奈良博の調べでは接合部は五カ所しかない。」
  • 04. 2.10 大阪地裁判決。海保寛裁判長。「奈良博に違法行為なし。したがって、ガンダーラ仏の真贋は検討するまでもない。」
  • 04. 2.10 大阪高裁に控訴。
  • 08.11.26 最高裁判決。第3小法廷尾崎行信裁判長。「上告棄却。真贋は判断せず。」

    ここまでの感想をあげると、
    ・まず、奈良博が石仏購入の仲介をしたのは、問題であったことは指摘されている。権力を利用して策を労しすぎたということだろう。
    ・展覧会に展示する前の調査がおろそかだったことは、奈良博も認めている。それだからといって責任はないといっているのは役人のよくいう言い訳である。
    ・奈良博での研究協議会はそれなりの学者があつまっているが、結局、あまりにもせまいコミュニティの中での議論なので、十分にものが言えていないのは明白である。
    ・様式論は、傍証にはなるが真贋の決定的な判断にはならない。材質での判断も贋作者はいくらでもそれに対応できる技術をもっている。
    ・田辺氏は権力に立ち向かう学者として、新聞の格好のヒーローにまつりあげられたが、それを田辺氏自身利用したようにも見受けられる。
    ・亀廣氏が訴訟を起こしたのは、それなりに評価できる。しかし、古美術品の贋物をつかまされるのは、購入者の責任であることは、この世界の暗黙のルールである。
    ・真贋の判定には、それなりの情報公開が必要である。つまり、補修の詳細な客観的資料が必要なのである。結論は白と黒だけではないということもある。
    ・翻って、今、古美術品の補修はどのようにしているのだろうか。後世の人がこのように判断に苦しむ補修をしていないだろうか。

Photo_3

| | コメント (0)

2009年10月21日 (水)

金戒光明寺渡海文殊

以前、神奈川仏教文化研究所の訪れ帖に書いたことがある仏像のことですが、もう一度、そのいきさつを話します。

Photo もう30数年前のことですが、私が商売を始めた頃、京都に遊ぶことがありました。一緒に行動したのは、写真評論家だった故H君、某役所調査官のB・B君、某大学教授のN君でした。夕方、京都の夜景を見ようというので、金戒光明寺の三重塔にやってきました。そして、三重塔の中を覗くと、渡海文殊が安置されていました。裏にまわってみると、扉が開いていました。我々はそっと中に入りました。善財童子1体のみが欠けていましたが、獅子に乗った文殊菩薩が目の前にあらわれました。江戸時代の極彩色に覆われていましたが、なかなか古そうな様式をしていました。これは、鎌倉時代までいくのかもという印象でした。しかし、三重塔は江戸時代の建物ですし、極彩色がどうも気になり、その場では判断ができませんでした。

その後、大学院生だった、B・B君とN君はその仏像について調べたようですが、文献的にもよくわからなかったようです。B・B君は修士論文に文殊菩薩をとりあげ、調べたようですが、行き詰まり、とうとう論文を出さずに、中退してしまいました。それが、けしかけた本人にとって、心残りでした。

Photo_3Photo_4  数年前、京都国立博物館の平常展を見ていると、金戒光明寺藏の最勝老人像が展示されていました。説明板を読むと、この渡海文殊を順次修理しているとのことでした。

この仏像は京都国立博物館で行われた、1995年の社寺調査で、注目をあびたようです。その後2002年に京都市指定文化財となり、5ヶ年計画で1体づつ修理をおこなってきたようです。

Photo_5Photo_6 そして、去年、金戒光明寺では、4体そろっての公開をしました。その時は、失った善財童子も新しく作られ、優填王の欠失した手も補修されたようです。その時は、江戸時代の極彩色はすっかりとれて、もとの落ち着いた彩色に変わっていました。

ただ、この仏像についての来歴など、疑問がとけていなかったので、ずっと気になっていました。すると、この仏像についての論文を発見することができました。淺湫毅「金戒光明寺の文殊騎獅像および眷属像について」『戒律文化』第6号 2008年3月15日 です。

京都国立博物館『京都社寺報告』17 には簡単な調査報告がありますが、来歴等は記述されていません。『京都市の文化財』第21集 には市文化財指定に際しての解説があります。それぞれは、簡単な記述でしたが、淺湫毅の論文はその来歴の推定から、仏所の推定にまで、その論考が及んでいます。

その要点は、善派仏師の作とみられること。X線で判明した文殊菩薩頭部にある納入品の形状は西大寺像と似ていること。そのこと等から、叡尊教団に関係する造像の可能性が高い。という結論のようです。

今現在は納入品を取り出すことができないため、推論に終わっているようですが、いつか、修理のときに、納入品が取り出せる機会があるかもしれません。そのときまで、結論はおあづけのようです。

| | コメント (0)

2009年10月18日 (日)

香炉岡弥勒石仏

PhotoPhoto_2  比叡山西塔の釈迦堂の正面左から細い山道をのぼっていくと、正面に金銅の相輪橖が見えてきます。この相輪橖は、明治28年頃の完成だそうで、旧国宝(現重文)に指定されています。中央部には音声菩薩が浮彫されていました。その手前に右に折れる道があって、ちょっと歩くと、左側に石仏の側面が見えてきます。

Photo_3Photo_4  花崗岩製で、高さはざっと2m位はあるでしょうか。光背まで丸彫で、彫られています。光背は二重円光光背で、梵字が月輪内に彫られています。さらに、光背の背面には大きな月輪と小さな月輪が2個彫られています。下部には四角い奉籠孔があります。

Photo_5

Photo_6 この石仏の印相はどうも降魔相のようで、光背背面の月輪内の梵字は釈迦三尊の種子のようです。

以下、川勝政太郎「比叡山香炉岡石佛とその様式」『史迹と美術』300 昭和35年1月1日よると、『比叡山堂舎僧坊記』にはもと、ここには弥勒堂があり、その本尊がこの弥勒石仏であろう、としています。

同書によると、昭和34年、横川に参詣の篤信の一老女が釈迦堂の後方に大きい石仏のあるのを語り、調べたところ、熊笹の中に石仏を発見した、ということだそうです。この石仏の発見は以外と新しく、それまで、忘れられた石仏であったようです。

川勝政太郎氏によると、鎌倉初期の造顯と見ています。この石仏に限らないのですが、丸彫の石仏は、奧行があまりありません。そのために非常に安定感がありません。何故なんだろうと思うことがあります。技術的に彫る手間を少なくするためだったのでしょうか。この石仏も光背の一部が破損しても、よく倒れないでいたと思います。

Photo_7Photo_8 川勝氏の論文では、これに関連して、北白川西町の弥陀石仏との共通点をあげています。この石仏は未見ですので、見にいかなくてはと思っていると、そういえば、崇福寺に行く途中にある阿弥陀石仏をおもいだしました。この石仏と北白川石仏は、旧山中越の両方の始点にあたる場所にあり、その中間がこの香炉岡石仏ということになります。

| | コメント (0)

2009年10月 7日 (水)

大寺薬師の菩薩像

Photo 今回の旅行は、『石見の仏像』展を見ることでしたが、以前から気になっていた仏像をもう一度確認したいという目的もありました。

そのひとつが、大寺薬師です。薬師如来坐像と四天王立像、そして、日光・月光菩薩と2躯の観音菩薩像が安置されています。

その中で、4躯の菩薩像の“目”がどんな彫法をしているのかを確認したかったのです。

Photo_2

Photo_3 まず、観音菩薩立像(大像)です。眼球のふくらみを表していて、それから瞼を彫っています。しかも、かなり下の位置に瞼を彫っているのが気になるところです。

Photo_4

Photo_5 この月光菩薩像も上像と同様ですが、目の中に墨で黒目を書き込んであります。当初のものかはわかりません。

Photo_6 薬師如来坐像です。目の彫法はごく一般的な位置に彫られています。目は墨と白色で彩色されています。

 

Photo_7

Photo_15  日光菩薩像の目の位置は一般的な場所にありますが、上マブタふくらんでおり、そのマブタの下に墨で黒目が書かれています。

Photo_13Photo_16

観音菩薩像(小像)は、フシがいたるところにある仏像です。目の位置は普通の場所に上下のマブタとも彫られています。

このように、目の彫法に限って見てみると、観音菩薩像(大像)と月光菩薩像が特異な彫法をしているのがわかります。伏し目の表現にしては、あまりにも、眼球の下の位置にありすぎます。近づいて、見上げても、目の位置は下にあって目が合いません。

これは、井上正氏が唱えている“化現の始まったばかりの表現”なのでしょうか。今回は見られなかった、仏谷寺の伝虚空蔵菩薩像は井上氏のあげた例証にはいっていますが、写真で見るかぎり、眼球の中央にうっすらとマブタを彫っています。こんな下の位置にマブタを彫っていません。

実際に、この2躯の仏像を見てみると、マブタは当初から彫られていたのか疑問がわきます。もとは“無眼”だったのではと思いたくなります。他の像を見比べても、あまりにも異様です。

また異様なのは、観音菩薩像(小像)です。この仏像はフシだらけの木材を使っています。頭部もそうですが、腰部にも2個所のフシがあります。こんな木材では、きれいな仕上ができないのは当然です。そのままでは彩色などできるはずがありません。素木でそのままだったのか、あるいは塑土で補修したのでしょうか。

| | コメント (0)

2009年10月 1日 (木)

古本市から

所用で、新橋に行ってきました。仕事をこなした後、新橋駅のSL広場を通ると、青空古本市が開かれていました。ちょっと、覗いていると、ファイルが10数冊ならんでいるのが目にとまりました。その中に背表紙に「仏像」とかかれたものが1冊ありました。手にとってみると、仏像に関する新聞の記事の切り抜きでした。好事家が几帳面に貼り付けたものかな、それにしても、そんなものが古本に並ぶのがちょっと不思議でした。よっぽど価値があると、古本屋が認めたものなのかな、ともおもいました。値段を見ると、300円です。それにしては、古本屋は切り抜いた本人の手間に対して、あまりにも低い評価しかしていないようです。

家に帰って、見てみると、およそ昭和54年から平成10年3月までの、おもに、毎日と日経新聞の切り抜きのようです。それをパラパラとめくっていくと、いはば、現代の彫刻史か、彫刻話題史というものが見えてきました。

昭和55年8月7日の記事は、山口の菩提寺山の石仏の記事でした。そして、同年11月6日には、清水俊明氏の反論記事が載っています。

昭和58年には、交野・八葉蓮華寺や、奈良・安養寺で快慶作の阿弥陀如来像が発見された、という記事があります。

Photo そして、このファイルで一番多く切り抜かれていた記事は、奈良国立博物館で開催された『菩薩展』に出品されていたガンダーラ仏の真贋論争です。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2 発端は昭和62年5月2日の記事からでした。その後、その仏像の購入経過に不透明なことがあり、本来の真贋論争とは話がずれていきましたが、

 

 

 

 

 

 

Photo_3 昭和62年7月3日、専門家による研究協議会なるものが行われましたが、決着がつかないまま真贋論争は裁判で決着をつけることとなったようです。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 結局、購入者の亀廣氏は、国に損害賠償をを求めた裁判に敗訴し、結果最高裁判所は、真贋の判断をしないという結論で終わってしまいました。それが平成8年11月26日のことだったようです。

最終的には、真贋の判断がいまだ不明という状態で、何とも消化不良で終わっています。今も亀廣医院には、その石仏が誰も注目されず、あるということのようです。

それにしても、この新聞切り抜きファイルはよく整理されています。古本市にはおなじ人とおもわれるファイルがありましたが、鉄道とか、事件という分類でファイリングをしていたようです。ほんとに几帳面な人だったようです。

| | コメント (3)

2009年9月 3日 (木)

仏像盗難の顛末

 先日のブログで、NHKの“クローズアップ現代”の放送で仏像盗難の特集をしていたことを書きましたが、その後、ある人からメールをいただきました。曰く、このNHKの放送の中で、盗まれた黒滝村の権現堂の蔵王権現立像を見て、すぐに京都のあるオークション会社のカタログに写真が掲載されている仏像と同じと直感したそうです。それで、黒滝村役場にすぐに連絡をいれたそうです。

今日の産経ニュースによると、山添村の自作寺から4体の仏像を盗んだ疑いで男を逮捕する方針と書かれています。さらに、5月に中吉野署に被害届が出された黒滝村の権現堂の蔵王権現立像が京都市内のオークションに出品され、捜査を進めた結果、この男の関与が浮上。自作寺から盗まれた千手観音像などを京都市内の古物商に転売していたことが判明したという。県警はこの古物商から、男が売った仏像計20体を押収している。ということです。

これで一件落着ということなのでしょうか。NHKのニュースの映像を見てみると、確かに押収品の中に、蔵王権現像があります、しかも、天衣と光背がとれて、像の前に置かれています。

以前このブログで紹介した『黒滝村の仏像』に掲載されている蔵王権現像は、光背、天衣もついていました。ところが、オークションのカタログの写真では、その天衣もはずされ、光背もありませんでした。NHKの映像とおなじ状態のようです。

この押収品の蔵王権現像はあきらかに盗まれた権現堂像です。ということは、記事によると、京都の古物商は盗品と知らずに購入してオークションにだしたということになります。

盗まれた権現堂像が載ったオークションのカタログは4月16日には発行されたようです。ということは、すくなくとも、カタログ出版以前のかなり前に盗まれたことになります。しかも、それがばれないうちにすぐに、古物商に売却したようです。

まだこの段階で、この事件の問題点を論評することは危険がともないますが、あえて、疑問と問題点をあげてみます。

まず、盗まれたと判明した時期があまりにも遅すぎました。これは、仏像を管理する側にも問題があったと言われても仕方がない部分です。

つぎに、古物商はなぜ仏像を購入したのでしょうか? 盗品でなければ、善意の所有者になってしまいます。そんな簡単に盗品と知らなかったといえるのでしょうか?また、盗品と知らなければ、オークションにだしても構わないのでしょうか?これは実にもっともらしい“いいわけ”です。

古物商といういはばプロが盗品と見抜けないというのは、どういうことでしょうか。まるで自分が見る目がないといっていることと同じです。道義的に恥ずかしいと感じるのが普通でしょう。

とくに、仏像はいわゆる頻繁に流通にのるものではありません。書画骨董とは違って、必ずその由来があるものです。すくなくとも、どういう経路を経てきたのかの追跡はできるはずです。古物として流通するいわゆる骨董品というものは、以前の所蔵者の名を伏せるのが常識になっている、という商慣習があるようです。しかし、そういうあやしさを持っているので、世間では何かあやしい商売という印象をもたれるのです。

すくなくとも、仏像のような信仰対象物は、骨董とはちがってその由来をはっきりとさせるべきです。古物商は明確な由来のない仏像の売買は、まず盗品と疑うべきです。

今回の事件も、古物商なり、オークション業者は、しっかりとその由来なり、過去の所蔵者の経路をちゃんと調査すべきだったはずです。そのための時間をかければ、盗品と見抜けたはずです。

警察も盗まれた段階でせめて写真でも公開していれば、すぐに発見できたはずです。そういったすばやい連携をしなければ、善意の所有者があらわれてしまって、盗まれた人がお金をださなければ返ってこないという、実に社会的に不条理な状態をつくることになります。

盗まれた被害者に責任を押しつける社会というのは、どこかおかしいと思いませんか?

| | コメント (1)

2009年8月23日 (日)

『坐像と半跏像』考

Photo_3  先日、奈良国立博物館に行ったおり、常設展を見ていると、「虚空蔵菩薩坐像 奈良・北僧坊」というキャプションをつけた仏像がありました。片足垂下像なのに、坐像という名称なの?と例によってひっかかりました。そのことが、この一週間、頭から離れなくなって、どう解説したらいいのかと思案していました。

まず、『国宝・重要文化財総合目録』美術工芸品編 で、指定名称を調べることにしました。

北僧坊像は “木造虚空蔵菩薩坐像”(明39.9.6)

とありました。奈良博のキャプションは指定名称で書かれているのかな、と一瞬思いました。

 

Photo_2 しかし、『総合目録』には、その前のページに額安寺の項目がありました。それには 

“乾漆虚空蔵菩薩半跏像(虚空蔵堂安置)”(明43.4.20)

と書かれています。

両像とも、いわゆる片足垂下像であって、厳密にいう半跏像ではありません。それなのに、別の名称になってしまっています。指定年月日も明治時代とはいえ、かなり近いので整合性を考えて指定名称をつけたのか疑問が残ります。

まあ宝菩提院像でも、『総合目録』では

“木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)”(本堂安置)(明42.4.5)国宝(昭32.2.19)

とありますから、奈良国立博物館、東京国立博物館の出品時のカタログには “菩薩半跏像” としているので、指定名称で記述しているという理由は成り立ちます。

Photo_4 最近の例では、鳥取県関金町地蔵院の “木造地蔵菩薩半跏像”(昭54.6.6)(指定名称)です。この時期頃までは、従前の方法で、片足が垂下していれば、片方の足がもう一方の大腿部の上になくても、半跏像と記述しているようです。

ところが、平成に入ると、指定名称の付け方にも変化があったようです。たとえば、神奈川・清雲寺の “木造観音菩薩坐像”(平10.6.30)がそうです。像容は片足を垂下し、もう一方の足は立て膝をたてています。片足を垂下していれば、半跏像という名称にするという暗黙のルールを変えてきています。

Photo_5 さらに、平成14年に指定した、北向不動院の像は “木造不動明王坐像” としています。

こうなると、明らかに指定名称の付け方に方針変更が行われたと見るのが正解でしょう。

つまり、片足の一方をもう一方の大腿部にのせなければ、半跏像とは言わない。というルールを決めたと見るべきでしょう。

そうすると、いわゆる北向不動院像のような片足垂下像はそれに替わる名称にしなければならなくなります。

ところが、いい名称が浮かばないので、とりあえず “坐像” にしておこうとしたと推測されます。

たしかに、おおきな分類では、坐っている像ですから、“坐像”でしょう。

しかし、以前にも書いたように、そのような大きな分類で、“坐像”を使ってしまうと、半跏像や倚像という名称は必要なくなってすべて “坐像”になってしまいます。いったい、半跏像や倚像の仏像も坐像と記述しなおすのでしょうか。これではまったく整合性がとれなくなってしまいます。

この問題は、あきらかに、“踏下像”という名称が使われるようになって、起きた現象です。それまでは、片足が垂下していれば、“半跏像”という定義ができていたのに、変に言葉尻を捕まえて、片方の足がもう一方の大腿部にのっていなければ、半跏像ではないとしたために、それに替わる “踏下像” なる名称が正確な定義もなくひとり歩きしたためです。かといって、新しく ”踏下像”を指定名称に採用するには、その言葉が定着していないために使うのに躊躇したのでしょう。それで、とりあえず “坐像”にしたというのが本当のところだと思います。

もうこの際、昭和50年代以前の、仏像の名称の付け方にもどすしか方法はありません。いたづらに、新語を作ったりすれば、ますます混乱がおきてしまいます。まして、インターネットとちがって、紙に印刷した媒体は、永久に残ります。いまのうちに修正しておかないと、いまから定義してもそれが、定着するにはさらに長い時間を必要とすることになります。

| | コメント (0)

2009年8月 6日 (木)

仏像盗難

 8月4日(火)の午後7時30分から、NHKの番組『クローズアップ現代』で「仏像盗難~地域の“宝”どう守る」を放送したそうです。というのは、私はそれを見逃してしまいました。あわてて、NHKのサイトを開いてみましたが、その要約しかわかりませんでした。ゲストには東大寺の森本公誠長老が出ていたところをみると、おおよその主旨は推測できました。

このところの、仏像の盗難件数が増えて、いわゆるヤミ市場が形成されているとしています。その原因として、おそらく、仏像が単なる”お宝”になり、信仰対象と見られなくなったことが一因としてある、としているのでしょう。(このところは、番組を見ていないので、推測です。)

そして、奈良県警では、「文化財保安官」なる職種の人員を配置し、盗難対策に乗り出した。とあります。

現在取り得る仏像盗難に対処する方法としては、一般の窃盗犯として捕まえることしか、手をうっていないような気がします。

仏像は本来的にも、現在でも、信仰対象なのです。したがって、基本的には参拝者の目にふれなければならないのです。そこに、セキュリティを施すことには、矛盾がおきます。

そうはいっても、盗難対策としては、厳重に管理された場所に保管するしかないのでしょうか。ある程度の管理は必要でしょうが、泥棒はどんな対策をしても、狙った獲物ははずさないはずです。

むしろ、次の段階として、盗むメリットを失わせることが重要になってきます。たとえ、盗んだとしても、それが、お金にならなければ、徒労におわります。それには、闇市場を造らせないこともそうですが、いわゆる骨董品として、仏像が堂々と売買されている現状を見直すべきでしょう。仏像の出生が不明なものが、流通のルートに合法的に乗ってしまうというのは、どうみても変です。以前、熊本のお堂にあった仏像が盗まれ、海外に流出し、それを買い戻すということがありました。これなど、流通にかかわった人間に何の罪も問われないのであれば、また起きるという可能性があるということです。

NHKの番組で、森本長老をゲストに呼んだということは、仏像は崇拝対象であって、モノでないということを言いたかったのでしょうが、そういう精神論のみでは、仏像の盗難は減少しないでしょう。

仏像を文化財として見るということは、信仰対象から外れて、単なる“お宝”としてしか見なくなるというのは、論点をすりかえた議論です。信仰対象と文化財は矛盾しません。むしろ、所蔵者である寺院は積極的に人の目にふれさせることによって、盗難を防ぐ効果があると思うのです。いたづらに“秘仏”と称して、人目にふれさせなかったりすると、泥棒の格好のターゲットになりやすくなります。

大部分の寺院は仏像の写真撮影を通常は許可しません。これも、寺院側からすれば信仰対象に対してフラッシュをあてることに抵抗があるのでしょうが、考え方によっては、信仰対象を多くの人に見てもらえる(言い方がわるければ、拝める)絶好のチャンスなはずです。仏像の写真がいけないのであれば、寺院で仏像の写真は売るべきではないはずです。

また、仏像の悉皆調査をして、仏像1体1体の戸籍を作ることによって、自由な流通を防止したり、管理したりすることが出来ます。そのような、調査が進めば、戸籍のない仏像は盗難品であることがすぐに判明します。

そのためには、早急にもれのない悉皆調査が必要なのですが、結局、国の補助金頼みで、地方では金がないので、できないという現状のようです。

Photo 左写真は、NHKで放送された、今年6月に盗難にあった、黒滝村の権現堂の蔵王権現立像です。黒滝村では、悉皆調査が行われ、その報告書が出ており、これだけの写真とデータが公開されています。

また、神奈川仏教文化研究所のサイトでは、日本全国の盗難文化財の情報を載せています。しかし、自治体の調査不足か、その状況判断のミスかはわかりませんが、盗まれた仏像の写真もないのです。これでは見つかるわけがありません。

この仏像がもし流通に乗ったとしたら、当事者は知らないではすまされないはずです。

こういった調査によって、仏像のデータを公開することが、盗難に対する、有効な防止策になると思うのですが。

役所の縦割り行政がそれを阻害しているのでしょう。まったく!!

| | コメント (3)

2009年8月 2日 (日)

鶏足寺兜跋毘沙門天立像から

鶏足寺兜跋毘沙門天立像の“無眼”についてこのブロクに書いてから、もう少し、この仏像について調べてみようとしたら、近藤謙「滋賀県・鶏足寺己高閣および福井県・小浜市加尾区、高浜町和田薬師堂の兜跋毘沙門天作例」『佛教大学アジア宗教文化情報研究所研究紀要』第三号(平成19年3月刊)という論文を目にしました。

これは、近藤謙氏が主要な研究課題としている兜跋毘沙門天像についての調査の過程として、3例の兜跋毘沙門天像についての調査報告という形式をとった論文です。

Photo

Photo_5

Photo_4

まず、鶏足寺像についての現状には、「眼球の膨らみは彫り出されるが眼は表されていない。」と、いわゆる“無眼”であることを記述しています。

そして、加尾区像についても、「眼球の膨らみは表されるが、眼は彫り出されていない。」としています。

和田薬師堂は寺で四天王像とよばれる4体の天部像がありますが、そのうちの2体は兜跋毘沙門天像で、他の2体は通常の天部像となってます。また、そのうちの天部像1体は、眼を通常通りに彫り出していて、他の3体は、瞼を彫らないで、彩色で目を描いています。

近藤氏は加尾区像の考察のところで、「現在は素地を表しているが、わずかに白土が認められる点は、かつてはこの像が彩色されていた可能性を窺わせる。この事実は重要な可能性を示唆するものである。すなわち現在眼は彫られていないが、かつては描き込まれていた可能性が考慮されるためである。」

また、加尾区と和田薬師堂の共通点として、「本体の眼球がおぼろになっていること、地天女の顔面が彫り表されないことは仏師の技量に起因する省略であるとは考えられず、なんらかの明確な根拠にもとづく特殊な表現であると考えられる。推定したようにこの上から彩色に目などを描いていたとしても、なぜ彫り出すことなくわざわざそのような手段をもちいたのかという点は今後の課題である。」

近藤氏は“無眼”の像は、彩色によって眼を描いていた可能性を、和田薬師堂像から推測をしてみたものの、それだけでは、説明がつかないことを承知しているようです。

この論文は、天部像についての考察ですが、“無眼”の像は、天部像ばかりではなく、如来、菩薩像や、神像にまでその例が確認され、天部だからという理由ではないのです。

たしかに、彩色像は、当然、眼の部分も彩色を施すはずですし、その際は眼も描くのが普通でしょう。しかし、瞼をわざわざ彫らないで彩色で眼を描く何か理由があったのでしょうか。同時代同地域の像が眼を通常通り彫っているのに、その像だけが彫らない理由が見つからないのです。

また、以前写真を載せた、二上射水神社の神像は、眼球部分まで鑿跡を残した鉈彫像で、彩色をしていない素木像であるのは明白です。

つまり、“無眼”の像に彩色で眼を描くと、実に不自然な像容になってしまう像もあるのです。これをどのように解釈したらいいのかが、今後の課題となることなのです。もっと違う造像思想があったと見た方がいいかもしれません。

| | コメント (0)

2009年7月31日 (金)

京都・清凉寺木造毘沙門天坐像

Photo 今日発売の『佛教藝術』305号に奧健夫氏執筆の「京都・清凉寺木造毘沙門天坐像」という論文が掲載されていました。この仏像は今年、新しく重要文化財に指定された仏像で、その解説です。

私がこの論文に注目したのは、この像は明らかに世間で流布している“踏下像”なのに、奧氏は“坐像”と表現していることです。しかも、その形状の記述では、「正面し左足垂下、右足は膝を外に張り踵を腹下に引き付けて坐る。」として、「踏み下げる」という言葉を使っていないことです。

同じ文化庁の人が書いたと思われる『月刊文化財』549号では、新指定の文化財の解説に、「左足を踏み下げて坐る毘沙門天の像」と書いています。

Photo_2 奧健夫氏は、どうも“踏下像”あるいは“踏み下げる”という言葉を意識して使わないようにしているようです。奧氏の他の論文「清雲寺藏 観音菩薩坐像」『國華』1288号でも、「右膝を立てて右手を置き、左足は垂下させ、左手をついてくつろいだ坐勢を示す。」と記述しています。

奧氏の論文では、このように、足を垂下させるという、ごく当たり前の表現を用いていて、実に違和感なく読める書き方をしています。

私が以前、このブログで書いたように、わざわざ“踏み下げる”といった広辞苑にも載っていない用語を使わなくても、“足を垂下する”で充分に表現できるのです。

奧氏は私がブログで書いた以前から、そのような表現を採用していたのでしょうが、私としても、同様な考えをもつ学者がいたことを心強く思います。

しかし、一点、この仏像を“坐像”と表現するのはいかがなものかとおもいます。“踏下像”を使いたくないので、代わりに“坐像”としたというのでは、能がなさすぎます。

いわゆる“坐像”とは、結跏趺坐のように、一般的には、足を下に垂下しない坐勢をいうのであって、片足垂下像まで、坐像の範疇にいれるのは、ちょっと無理があります。何のために“半跏像”“倚像”という表現方法があるのかが問われてしまいます。

現に国宝の宝菩提院像は、文化財保護法に基づく指定文化財名称で「菩薩半跏像」になっています。それなのに、今回指定した清凉寺像は「木造毘沙門天坐像」です。整合性がとれていません。

文化庁はこういう指定名称の用語の統一を何故しないのでしょう。一度指定しまうと、それが、現実と違ってもなかなか修正できないのが公文書のようです。でも、違った眼から見ればそれは、行政が硬直化しているとしか見えません。しっかりとした仕組みを構築するとともに、結果責任をもってほしいとおもいます。

このところ、“踏下像”あるいは、“踏み下げる”という記述をしている論文が出るのを手ぐすね引いて待っています。もしそのような論文が出たら、“踏み下げるって一体何を踏んでるの?”とツッコミを入れましょう。

その答えが“それは空を踏んでいるのです。”とでも答えたら、それは仏教の深大な思想を理解している人間だと見ていいのかな。いやもっといいボケがあると思うのですが、いまのところ浮かびません。

| | コメント (0)

2009年7月16日 (木)

北野天満宮鬼神像

Photo  高山奇人さんから、北野天満宮鬼神についての情報をいただきました。この鬼神像は平成14年、本殿の奧より発見され、修理の後、重要文化財に指定されました。去年、北野天満宮宝物館で初めて公開された像です。展覧会が始まる前に宝物館を訪れて、このパンフレットを見ました。残念ながら、実物を未だ見ていません。

写真でしか判断はできませんが、これは“無眼”の像ではありません。あきらかに眼を表現する目的で彫刻をしているからです。私が以前、“無眼”の像の定義として、上も下も瞼(マブタ)を彫っていない像を“無眼”というとしました。つまり、眼を表現する最低限の方法である、瞼(マブタ)を立体的に彫刻していれば、“無眼”とはいえません。

ただ非常に微妙なのは、上瞼ふくらませて、眼の表現であるかのような彫刻をする仏像があることです。今具体的に出てきませんが、その他、眼球のふくらみを表した上にうっすらと瞼を彫って眼を表現している像もあります。これは、もともとそのように眼を表現したのか、“無眼”だったのを後補で瞼を彫ったのかはなかなか判定できません。眼を彩色するのも同様です。しかし、素木の仏像であっても、眼に墨をいれる例は数多くありますので、眼を彩色で表現することには別に問題があるわけではありません。要は、“無眼”の仏像に眼の彩色をしてあるのなら、それは後補の彩色である可能性のほうが高くなるでしょう。

Photo_2 以前写真をのせた、藤里智福愛宕神社の兜跋毘沙門天立像は、現物を見たとき、“無眼”に見えました。ところが、顔のアップの写真を改めて見てみると、薄く上下の瞼を彫って、眼を彫りくぼめていました。

しかし、よく見ると、眼球のふくらみを彫ってから、瞼の線を彫っているようにみえます。ということは、後で瞼の線を彫った可能性もあるわけで、もともと“無眼”であったとも考えられます。

こうなるとよくわからなくなります。ちなみに、兜跋毘沙門天立像で、あきらかに“無眼”の例をあげておきます。

Photo_3 滋賀・鶏足寺の兜跋毘沙門天立像です。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4 もうひとつ“無眼”の像に、京都・西徃寺宝誌和尚立像があります。顔が割れ、その中に、観音の顔が出てくるという像ですが、両方とも“無眼”です。これは伝承との整合性がとれているのでしょうか。観音菩薩が“無眼”でいいのでしょうか。ますますわからなくなってきました。

| | コメント (2)

2009年7月12日 (日)

開眼供養

Photo_3 “無眼”の仏像のことを書いてから、どうも気になることがありました。それは、眼のない仏像は開眼供養をしたのだろうか、ということでした。つまり、開眼供養をして仏心を仏像に注入しなければ、仏像はただの木片にしかすぎない、というなんとない先入観があるからでした。

それは、はたして本当なのだろうか、というのが疑問でした。それで、まず東大寺大仏の開眼供養について調べることとしました。

それを調べようとすると、いろいろ史料をさがさなければなりません。そんなこんなで、これがブログの更新が遅れた言い訳です。

 

 

 

Photo 東大寺大仏は天平勝宝4年(752)4月9日、貞観3年(861)3月14日、文治元年(1185)8月28日、元禄5年(1692)3月8日~4月8日 の4回の開眼供養をしています。

そのうち最初の開眼供養は文献ではあまり、くわしく載っていませんが、文治元年の開眼供養は『東大寺續要録』などにくわしく書かれています。

それには、後白河法皇が大仏殿の麻柱を登り、自ら筆をとって開眼したことが書かれています。また、その後、前もって登っていた3人の近臣が、開眼の後、仏面の前に貼ってあった板をはがすことをしています。文治の開眼供養の時は大仏殿はまだ仮屋だったようで、どうも足場を組んで、大仏の顔の前まで登れるようにしたようです。

この時、法皇が点晴をするのは、単なる儀式のようで、その後、隠していた覆いをとることによって、完成された眼をみせるという演出のようです。

ちなみに、正倉院には「天平宝物筆」と「天平宝物墨」があり、筆には「文治元年八月廿八日 開眼法要法皇用之 天平筆」と書かれています。筆の長さは65.2㎝ あります。天平勝宝と文治の開眼供養に使われた筆のようです。実際の開眼供養では、12本の綱をこの筆につけ参集した人にその綱をつかませたと書いてありますが、これは、本当かな? 実際には、そんな筆を持てるわけがありません。

この開眼供養はいわゆる儀式として確立したものではなかったようです。谷信一「佛像造顯作法考」『美術研究』54・55・56 によると、堂に安置されてから開眼供養をするとはかぎらなかったようですが、東大寺の文治の開眼供養の場合は実際に開光点眼の儀式をしたようです。

天下の東大寺が奈良時代に行った開眼供養はたしかに、仏教儀式としてはその後普及していったであろうと、想像できますが、それでは、仏像が完成したときは、すべてそのようなことをしたのだろうかというのは、さらに儀式として確立したものかどうかということを含めてもう少し史料がほしいところです。また、開眼供養にはより精神的要素があるので、仏像の内容的成身の成立を意味し、それによって仏像としてのあらゆる意味での完成とみなすことができる。(谷信一論文)としています。それからいくと、開眼供養とは単なる儀式で、実際に点晴をしなくてもいいということになります。その辺の判断は現時点ではむずかしいところです。

ひとつの考えとしては、“無眼”の仏像であっても、開眼供養の儀式をしていれば、仏体として完成されたものとしてもいいということにもなります。

Photo_2

ところで、天平勝宝4年の大仏の開眼供養は何で4月9日に行ったのでしょうか?これは、大学時代、吉村怜先生の授業でいわれたことでした。先生曰く、こういう疑問をもってしらべることが学問の一歩なのだ、という話でした。

その当時、こんな些細なことが学問なのかよー、とつっぱっていましたが、まあ、それもひとつかな、と今は思ったりして。

正解はわかりますか?

| | コメント (2)

2009年6月17日 (水)

無眼

仏像の形状を記述するとき、普通、眼の記述では、“彫眼”と“玉眼”という言葉を使います。しかし、眼の形状を表すのに、どうもその2つの分類に、こだわってしまっているように思います。いはば、玉眼でなければ、彫眼と記述しておけば、無難な表現であろうと思ってしまうのは当然だろうと思います。

Photo しかし、眼のない仏像は厳然として存在するのです。大阪府堺市の太平寺の阿弥陀如来坐像は明らかに、瞼を彫っていません。以前掲載した、長野県の大法寺の十一面観音立像は眼球のふくらみの下に線が入っていました。これを眼を閉じた瞼と解釈しようとした人がいました。しかし、閉じた瞼の線はそんなに下につくはずはありません。この太平寺像にいたっては、眼球のふくらみをあらわしてはいますが、下に線ははいっていません。眼を閉じた表現とするには、明らかに無理があります。

彫眼とは、眼の瞼を彫ることによって、眼の表現をしている形状を言うのであって、瞼を彫っていなければ、彫眼という定義にあてはまりません。

それでは、瞼を彫っていなくて、仮に筆で眼を描いたら、これは何と言ったらいいのでしょう。いままで、私の見た経験から言うと、後補で眼を描いている彫刻はありましたが、瞼を彫っていなくて、眼を描いている仏像を見たことはありません。

これは、眼のない仏像に、後補で眼を描いた例でしょう。もともと眼のない仏像でも、後世に眼を彫る可能性もあるので、注意が必要でしょう。

それで、仏像の形状の記述に、このような眼のない形状を表す“無眼”という用語を用いることを提唱したいと思います。“玉眼”、“彫眼”、“無眼”と3種類の眼の形状についての用語を用いれば、より正確な記述となることでしょう。

Photo 神像には、この“無眼”の像が多くあります。その中にはあきらかに未完成像もあります。また、神像固有の単純化した彫出方法で、眼を彫っていないように見えるのもあります。

この辺は、鉈彫像もふくめて、充分に精査する必要があるかもしれません。

いまのところは、せっせとサンプルを集めなくてはいけませんが、写真ではその表現がわからないことがあります。できるだけ現物に接しなければと思うのですが、なかなか・・・・

| | コメント (1)

2009年5月29日 (金)

奈良博より

 奈良博へは、『鑑真和上展』を最終日の前日にすべりこみました。鑑真像は数年前、唐招提寺御影堂で、東山魁夷の襖絵を背景に厨子の中にはいっているのを見ました。今回はガラスケースの中に入っている像です。どちらがいいかというと、遠くからでも、御影堂の中に安座している像のほうが威厳があって、ありがたさが違います。博物館では、確かに四方からみることができましたが、それがどうした?という気がします。鑑真の像としての威厳の感じ方は細部を観察することではないとおもいます。細かいことをいうときりがないので、鑑真像については論評しないこととします。

Photo さて、この展覧会で、はた、と足がとまった仏像があります。木心乾漆造の菩薩頭です。乾漆部分はほとんど剥落していますが、目をみると、右目は完全に乾漆層が剥落して、木部が現れています。その彫りは、まさしく大法寺の観音菩薩像のように、眼球のふくらみをあらわしていました。そのうえに乾漆層があって、そこから眼の表現をしたのでしょうが、それにしても、眼球がふくらみすぎています。これから、数ミリでも乾漆層を重ねると、眼がとびでるようになってしまうのでは、と危惧するほどです。

最近、仏像の眼の彫り方が気になり、注意して見ているのですが、普通の仏像(如来、菩薩像)では、あまり眼球にふくらみをつけることがないのですが、その中でも眼球のふくらみをつけて、そこにマブタを彫るという仏像があるのが、見受けられます。

Photo_2 その一例が、奈良博の常設展にありました。セゾン美術館の聖観音菩薩立像です。この仏像は元奈良市・瑞景寺の所蔵で一木造です。この仏像の眼は、眼球にふくらみをつけて、それに上下のマブタを彫っています。

 

 

 

 

 

 

Photo_3 今回は出品されていませんでしたが、唐招提寺の木心乾漆造の仏頭もまさしく同様の彫り方をしています。この像は右眼はマブタが残っていますが、左眼は乾漆が剥落しているため、大法寺のように眼球の下に線が見えるような彫りをしています。

如来、菩薩像で、このように眼球にふくらみをつけ、それからマブタを彫るという表現方法は、何かとってつけたというか、元から、眼の表現を計画して彫っているようには、どうも見えないのです。現に、大半の如来、菩薩像はそんなに眼球がふくらんではいませんし、ちゃんと眼の表現を計画した上で彫り進んでいます。

このような、眼球にふくらみをつけて、それから上下のマブタを彫るという表現が、いわゆる「目のない仏像」とどういうかかわりがあるのかは、いまのところわかりません。関係ないのかもしれません。しかし、眼球のふくらみをつける顔の表現方法とは、どういうことなのかは、もうすこし作例をピックアップしてみないと、何ともいえません。いまのところ、どうも眼の表現も多様な方法があるということを認識しておくべきかなとおもいます。

| | コメント (2)

2009年4月22日 (水)

大法寺十一面観音・普賢菩薩像

Photo 大法寺十一面観音立像・普賢菩薩立像について、今までの解説ではどのような表現をしていたのか、ここで少しまとめてみたいとおもいます。

まず、『長野県文化財図録 美術工芸編』昭和30年2月刊 この解説は倉田文作氏によって書かれています。

木造十一面観音及び脇侍普賢菩薩立像(観音堂安置)

形状 一、十一面観音

 立像。頭頂に諸化仏、天冠台彫出、彫眼。左手屈臂して宝瓶を執り、右手垂下、五指を伸し施無畏の印をあらわす。(以下略)

二、普賢菩薩

 立像、高髻、天冠台彫出、彫眼。(以下略)

解説 更級郡観音寺の十一面観音像についで、藤原中期の作風を伝えるもの、十一面、普賢の二像とも製作の年代は同じであろう。[以下、彫法がおだやかであること、一木造の技法等一般的な解説に終始する。(編者注)]

『長野県史 美術建築資料編(一)美術工芸』平成4年3月刊 解説は松島健氏。

7 木造十一面観音及脇侍普賢菩薩立像(観音堂安置)

(前略)造像当初から別材を用いた部分を後補するほかは、本体木部は健全といえるが、髻は天衣・条帛・裳の縁を刻出するのみであり、かなり簡略化された造形になる。しかし、天冠台の列弁・臂釧などの装身具の彫りは入念で、面相部も鑿痕を残さず平滑に仕上げている。髪の黒塗、唇の朱彩のほか彩色および下地塗の痕跡はなく、形をきめるいわゆるアタリの鑿痕の中にも顔料は認められず、本来素地仕上げの像として造られたものであろう。 上瞼のふくらみと下瞼の刻線のみで表わされた両眼のつくりは異色であり、本像のきわだった特色の一つといえるが、平安時代一〇世紀ごろの一木彫成像にままみることができる。造像当初には瞳や眼の輪郭を墨描し、白眼に白色顔料を賦彩したのであろうが、金銅仏の鋳成後の鑿彫を施す前の眼の形にも似ており、あるいはそこに仏像にふさわしい俯瞰と慈悲相を見出したがゆえに、開眼の鑿を加えないままに仕上げたもののようにも思われる。(以下略)

[編者注:造像当初に瞳や眼の輪郭を墨描したならば、その痕跡は残っているはずである。墨は一度描くとそう簡単には消えないものである。開眼供養をしていないと認めているということは、眼を完成させていないということになるが。]

『定本信州の仏像』平成20年8月刊 解説は小倉絵里子氏。

Photo_2 46 十一面観音菩薩立像・普賢菩薩立像

(前略)等身の十一面観音像と、その脇侍とされ、普賢菩薩と称される約三尺の菩薩立像は、ともにカツラの一木造り、素地仕上げの像である。もともと一具のものではないだろうが、構造、作風ともによく似ていることから、同時期に制作されたものとみて間違いないだろう。十一面観音は、天冠台の列弁や臂釧などを入念に仕上げているにも関わらず、頭上面に隠れた髻は荒彫りするだけにとどまり、背面も衣の縁を表すのみの、かなり簡略化した表現をみせる。また両眼を上瞼のふくらみと下瞼の刻線のみであらわすているが、これは十世紀の作例にまま見られる特徴で、本像の最も注目すべき特色といえよう。(後略)

[編者注:松島健氏も小倉絵里子氏もこのような眼の表現は10世紀の作例にままみられるというならば、これは単なる時代的な傾向だったのか。最も注目すべき特徴というのならば、眼を完成させていないということが注目すべきなのか、明確に指摘されていない。]

三者の解説を読んでみると、いかにも苦しい解説をしていることが、行間からにじみでています。倉田氏はあきらかに、この問題から逃げていますし、松島・小倉両氏は眼を完成させていないということを明確に示せないために、あいまいな表現しかできないでいるのがわかります。

この問題はむしろ、どのように解釈するかは、まだ先の話にしておいて、現状の形をもっと客観的に表現をしたほうがいいような気がします。無理矢理解釈しようにも、まだその材料がそろっていません。ただ、しっかりとした、現状の記述はしておくべきでしょう。

| | コメント (0)

2009年4月18日 (土)

目のない仏像二例

Photo 先日、東京芸術大学文化財保存修復彫刻研究室の受託研究成果報告内覧会に出ていた、長禅寺の十一面観音立像2体を、現地の取手市に行って見てきました。ちょうど、4月18日が年一回の御開帳の日にあたり、三世堂の中で拝観してきました。三世堂は、いわゆるさざえ堂形式になっていて、1階から3階まで交差せずに参拝できるようになっている堂です。

Photo_7Photo_8 本尊の十一面観音立像は鎌倉時代の漆箔の像で、その前に右肩を欠失し、左手も肘から欠失して、かなり破損の進んだ平安時代の十一面観音立像があります。

Photo_3

その前立の十一面観音立像を芸大の内覧会では、顔を近づけてみることができましたが、どうみても、目が彫ってありませんでした。芸大の修理報告がパネルで展示してありましたが、品質構造の項目では、「彫眼」になっています。しかし、写真で下から見上げて撮ると、眼球のふくらみの下部に線刻があるように写りますが、実際、現物では彫ってありませんでした。

 

Photo_10 Photo_9 さて、先日長野旅行で、一カ所まだ、書いていない仏像がありました。大法寺の十一面観音立像です。この仏像も目を彫っていない仏像なのです。それを確かめに実物を見に行ったというわけです。大法寺には同時代の作品とおもわれる普賢菩薩立像も作風が共通しており、やはり目がない仏像でした。本尊の十一面観音立像は下から見上げることしかできませんでしたが、やはり見上げると眼球のふくらみの下に線が見えてしまいますが、普賢菩薩像のように、おなじ目線でみると、眼球のふくらみの下には彫った形跡がありませんでした。

大法寺の十一面観音像は、さらに、口をわずかにあけているのです。口の中に歯を彫っていますか?と住職に聞いたら、それはないとのことでした。住職の説明では、この本尊は目を閉じていらっしゃいます。と言っていました。しかし、最後に私ははこの仏様は、目を彫っていないのでは? というと、たしかにそうかもしれません。と言うのです。

人の思い込みというのは、実におそろしいものだと思います。眼球のふくらみだけで、目を彫っていなくても、それが、目を閉じている表現だとおもえば、そう見えるのです。それは、客観的に見て、果たして目を閉じている表現なのでしょうか。ちゃんと説明できるのでしょうか。

もっといえば、長禅寺の十一面観音像の修理報告ではこれを彫眼と記述しています。もし後世に、目を彫ってしまったら、これこそ彫眼として通用してしまいます。当初に目が彫っていなかったという証拠さえもなくなってしまいます。

修理では、これが一番恐ろしいことなのです。写真を撮ってあるからそんなことはないといえるでしょうか。写真ほど、撮る角度によって、瞼の線が見えたりみえなかったりするのです。理解できることも、できないことも、詳細かつ正確にありのままに記述することが、調査報告の基本であるはすです。

| | コメント (0)

2009年1月21日 (水)

石貫穴観音千手観音立像について(考察編)

Photo_4 まず第一に、屋根が果たして本瓦葺なのかについて考察してみよう。写真にはないが、図面で見ると、円筒形のものは、屋根の中に埋まるような形をしている。つまり、屋根の葺材が萱や藁のようなもので、そこから丸太が突き出ている表現なのである。これがもし、本瓦葺ならば、円筒は屋根にそって、半円形に延びていなければならない。これは、たとえ、稚拙な表現だとしても、天井とのせまいスキマに、わざわざ彫りにくい形に彫るのだろうか。そこには、屋根材から突き出るという表現を意識的にしたかったのだろうと思わざるを得ない。

『玉名郡誌』絵図 大正12年4月

Photo_3 もしこれが、本瓦葺の表現だとしたら、その造立年代は7世紀から8世紀ということになる。しかし、この石貫穴観音からほんの数キロの場所に立願寺廃寺がある。そこからは、白鳳時代の軒丸瓦が出土している。とすると、石貫穴観音の造立者はすくなくとも、本瓦葺の建物を見ているはずであり、それを石造で表現するとしたら、このような表現になるのだろうか。本瓦葺の建物を見ていたのなら、どんな稚拙な表現だとしても、こんな形にはならないであろう。むしろ、本瓦葺の表現ではないと見るべきであろう。

Photo 次に、千手観音が追刻か否かについて考察すると、まず奧壁の中心部を矩形に彫りこんだところに、千手観音像を浮彫している。ということは、彫り込んだ矩形の端から定規を当ててみて、それが、千手観音像の厚さ以下になっているか、検証してみる必要がある。それが、追刻の根拠とはならなくても、追刻かどうかの判断のひとつにはなるだろう。

Photo_6左写真 [石貫ナギノ横穴8号。 彩色がよく残っている横穴。奧壁にも彩色文様がある。]

もうひとつ気になることは、宮本氏の論考で、「奧壁が朱に塗られ、それが、線刻部には見られない。」と言っていることである。石貫ナギノ横穴8号のように、奧壁に彩色されていたとするなら、しっかりと科学的な調査をして、奧壁の彩色がどの場所に残存しているかを特定すべきであろう。また、高木正文氏の論考で「玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」という意味がよくわからない。これも、しっかりとした説明がほしいところである。

清水寺式千手観音像は、少ないサンプルながらも形態を分類すると、頭上の二手の形で2つに分類できる。

一つは頭上の二手の形が五角形をしている仏像である。これは、三十三間堂の長寛時の仏像の納入品の刷仏や、中尊寺観音院泉沢石窟観音窟龍峰寺がそれにあてはまる。

Photo_2 もう一つは、二手を肩より垂直にのばしそれから臂を斜めにのばし化仏を捧げる像。いはば水晶形をしている像。京都清水寺前立像、西国三十三所の清水寺の千手観音像として表現される像である。この水晶形の仏像は、おそらく京都清水寺前立像の形態のマネとして全国に普及した形とおもわれ、時代は室町時代以降となる。

熊本県では、清水寺式千手観音像はいままで二例が確認されている。菊池市の東福寺の立像と、宇土市の西安寺の坐像である。この二像の頭上にあげる二手は水晶形である。

松本雅明氏が言っているように、千手観音の経典は日本で天平7年に書写されたのを初めとする。しかも、その当時の像容は唐招提寺や葛井寺像のように清水寺式ではない。清水寺式の初見は、三十三間堂の創建時の長寛2年(1164年)である。それ以前にも図像として請来されていたかもしれないが、直接、熊本の地にそれがもたらされたとは考えにくい。少なくとも、一旦中央にもたらされてからの普及であろう。

一般に千手観音像は右に錫杖、左に宝戟をもつ。その形式は、地面につくくらい長いものと、手に持つ短い形がある。しかし、この石貫穴像のように錫杖だけというのは図像でも、彫像でもその例がない。また、台座が蓮華座でなく、箱状になっている。というと、何か長谷寺式十一面観音像の形態を連想させる。千手観音と十一面観音の違いはあるが、ちょっとひっかかることではある。

錫杖の上に円形の浮彫物がある。これが何かは不明である。また、頭上に捧げる化仏も円形である。はたしてこれは化仏なのであろうか。

結論として言えることは、屋根は本瓦葺とはどうしても見えなかった。

千手観音像の両脇にある矩形の彫り込みが気になるところである。奧壁の科学的調査が望まれるところである。

Photo_5 屋根が本瓦葺で、千手観音像が当初という前提で、造立年代を古くは白鳳か奈良時代とすると、図像から考えて無理がある。もっと下げて平安初期とすると、横穴の編年、形態および、清水寺式千手観音像の図像の時代から考えても、矛盾をきたすことになる。

つまり、本瓦葺、当初の千手観音像では説明がつかないのである。

総合的に考えると、千手観音像は追刻、横穴の築造年代は当地に仏教建築が伝来する以前とするのが現時点での判断であろう。

では千手観音像はいつの追刻かというと、清水寺式千手観音像としては古い形式とみられ、時代は平安後期から鎌倉とするのが、妥当なところであろう。

| | コメント (0)

2009年1月18日 (日)

石貫穴観音千手観音立像について(研究史編)

石貫穴観音横穴についての過去の論考をここでまとめておこうと思う。ここでは、前述の横穴の築造年代、および千手観音像が追刻か否かにかぎってとりあげることとする。

Photo

  1. 浜田耕作・梅原末治著『京都帝國大學文科大學考古學研究報告』第一冊[肥後に於ける装飾ある古墳及横穴] 大正6年3月刊
    ・浜田耕作「第五章 高瀬附近の遺跡/第二節 玉名郡石貫村の横穴群」および「第六章 後論/第三節 装飾古墳の年代」
    ・・調査は大正5年12月より翌6年1月にかけて行われた。
    ・・奧壁の千手観音像は平安初期の様式
    ・・庇は本瓦葺の屋根を表しており、これから7世紀頃と推定できる。
    ・・結論として、千手観音像は追刻、
    ・・横穴の築造年代は第六世紀の中頃より奈良朝以前第七世紀頃まで。
  2. 『豊後磨崖石佛の研究』大正14年8月 京都帝國大學
    ・浜田耕作「其の奧壁の千手觀音像の浮彫は、果して横穴穿成以後平安朝に至って附加せられたものであるか、將た横穴に同時代であって、それが奈良朝にも溯り得可きか、平安朝迄降り得可きか等に就いて、未だ議論は決着しない。但し當時私は後刻説を提唱して置いた。」
  3. 松本雅明・乙益重隆「肥後における平安・藤原時代の佛像」『熊本史学』第2号 昭和27年7月
    ・千手観音像は奈良朝の古墳構築の際彫られたとするのが適当。
  4. 松本雅明「肥後石貫穴観音古墳の彫刻ー大陸文化の滲透と古墳成立の時期ー」『考古学雑誌』45-4 昭和35年3月
    ・庇は瓦葺の宮殿建築を表わしている。千手観音は築造当時と仮定した論。
    ・千手観音経典の日本の書写は天平7年からである。
    ・「真に仏教が理解されず、従ってそれを屍床に刻ることが冒涜であると意識されなかった時代の産物であると見るときのみ、正しく解釈できるであろう。」
    ・天平15年以前が古墳の築造の時期
  5. 小林行雄編『装飾古墳』昭和39年10月刊 平凡社
    ・九州の装飾古墳変遷図に石貫穴観音は600年の後半の位置におかれている。
    ・各個解説の頁では執筆者の乙益重隆氏は千手観音像の年代にはふれていない。
    ・庇も本瓦葺とは断定せず、家型石棺の蓋につくりだした縄掛突起の変形とみることもできる。と他の見方を示している。
  6. 斎藤忠『古墳壁画』日本原始美術 5 昭和40年4月 講談社
    ・「熊本県穴観音横穴の千手観音像浮彫りの如きは、すでに松本雅明氏の研究もあるが、私はこの横穴の時代を奈良時代に下降させることも不自然でないと考えており、同じときに刻まれたものと見ている。」
    ・七世紀頃の古墳にも仏像を表しているものがある。
    ・解説(田辺哲夫) 45.穴観音横穴群
    ・・「軒丸瓦とおもわれるが、石棺の縄掛突起の変形とみるむきもある。」
    ・・「千手観音は一説では平安時代初期の追刻であろうといわれているが、最近、この像について、横穴構築のものとなす説があり注目をあびている。」
  7. 日下八光『装飾古墳』 昭和42年1月 朝日新聞社
    ・石貫穴観音横穴
    ・・「奧壁に彫られた千手観音像は、仏像全体としてのバランスもよく、とくに下半部は良い形である。・・・仏像そのもから時代の判定は困難である。」
    ・・「奧壁石屋形の瓦葺は当初のものと考えられ、寺院建築の影響とみられないこともない。もしそれが肯定されるならば、千手観音像も当初のものとして不合理でないわけである。」
  8. 斎藤忠『日本装飾古墳の研究』 昭和48年3月 講談社
    ・「本論(一)装飾古墳・横穴の諸形式とその分布/第一章 諸形式とその種類/第二節 装飾横穴の諸形式とその種類」
    ・・「穴観音横穴の中央のものは、入口に三重のくりこみの縁がアーチ状に設けられ、内部には、奧壁に沿って一段高くして石屋形の施設を造りだし、その屋根には軒丸瓦を配したような造作を示し、左右の側壁に沿ったところにも一段高い縁をつくりつけ、それぞれ両側にも屍床を構成している。恐らく、横穴の構造としては、日本でも最も複雑なかつ整備した例であろう。この石屋形施設の奧壁の正面に浮彫りされた千手観音の立像は、同一時期のものと考えてよく、一つの彫刻図文とも見られる。また、軒丸瓦を配した屋根の造作も、装飾的な要素とみなしてよい。しかも、これには入口のの三重の飾縁にも円文と並列三角文とが赤色で描かれている。」
    ・「本論(三)装飾古墳・横穴の編年と序列/第二章 装飾横穴の編年とその序列/第四節 内部の奧壁に石屋形施設がとりつけられ、これに図文のほどこされている横穴」
    ・・八世紀から九世紀 石貫穴観音横穴
    ・「古墳および横穴遺跡解説/68 穴観音横穴群」
    ・・「龕状の施設の奧壁に千手観音像が半肉彫されている。平安時代初期の作とみなされる特色をそなえている。従来、これは横穴に直接関係するものでなく、追刻されたものと考えられてきたが、松本雅明氏は、横穴を平安時代初期のものとみなし、同時の営造という説を発表した。横穴自体の年代については、出土品等の失われた現在、的確に知ることはできないが、その下限を平安時代初期とすることも必ずしも矛盾を覚えない。もし然らば、この仏像と同時で、むしろ横穴の被葬者に仏教的な信仰のあらわれのあったものとも考えられる。」
  9. 西住欣一郎・宮本千絵『石貫ナギノ・石貫穴観音横穴群ー熊本県菊池川流域における横穴墓研究(1)-』 昭和55年8月 金曜会
    ・宮本千絵「Ⅳ 石貫穴観音横穴群」
    ・・「4号において最も問題となるのは奧壁の千手観音の浮彫りと奧屍床上のいわゆる軒丸瓦の表現である。奧屍床奧壁の千手観音については松本雅明氏の論文によれば築造年代を示す重要な要素となっているが、奧壁に塗られている朱が線刻部には見られず、また、床面プランからみても奧壁は築造当時より後にわずかに刳りこまれている様子であることから、築造当時のものとは即断できない。奧屍床外側面上部廂部分の表現は廂の上部から円筒が突出しているため、たるきと見るより軒丸瓦を表現したものと思われるが、瓦頭部分に赤の彩色が残っており、他の横穴群にもわずかではあるが類似の表現がみられることから築造当時のものであると考えられる。また、軒丸瓦であるとすればセットとなるべき軒平瓦の表現がなされていないため、軒平瓦を用いる以前の段階の建築物を模したものであるとも思われ、当横穴築造の年代決定の重要な要素となる可能性も充分に考えられる。」
    ・西住・宮本「Ⅴ まとめ」
    ・・「石貫穴観音横穴4号横穴は本文Ⅳで述べた如く奧屍床外側面上の軒丸瓦の浮彫からみて7世紀末までには築造されたと思われる。またその内部形態、構造は石貫ナギノ横穴群中で新しい段階であるⅠーC類に属する横穴との類似性が強く、両横穴群の終末期を示すものであろう。すなわち、石貫ナギノ横穴群、石貫穴観音横穴群は6世紀中葉から7世紀末までの期間その築造が続けられたと考えられるのである。」
  10. 熊本県教育委員会『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書第68集 昭和59年3月
    ・高木正文「Ⅲ 装飾ある横穴墓/73.石貫穴観音横穴墓群」
    ・・「奧壁には中央よりいくぶん左寄りに千手観音の立像の浮き彫りが見られる。この浮き彫りが横穴墓築造時のものであるかどうかは判断が難しい。一説では横穴墓の築造年代を下降させ庇の円形浮き彫りを軒丸瓦の表現でとみて、千手観音像を当初からのものとする考えがある。他方庇の円形浮き彫りは垂木の表現などとも見ることができ、千手観音像が奧壁面の完成後、彫られているので当時のものとする見方に否定的な意見もある。筆者にもどちらか判断できないが、この横穴墓はその構造や造られた位置からこの横穴墓群で初期に造られた横穴墓と推定しているので、後者の可能性が強いのではないかと考えている。」
  11. 『装飾古墳の諸問題』国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 平成11年3月
    ・高木正文「肥後における装飾古墳の展開/12 菊池川下流域の装飾横穴墓」
    ・・「なお、千手観音像が彫られていることで有名な石貫穴観音2号横穴墓も形態からこの時期[6世紀半頃:編者注]に位置づけられ、あまり知られていないが、玄室入口側上部の突帯には連続三角文が線刻されている。従って千手観音像は追刻である。」

Photo_2

Photo_3

| | コメント (0)

2009年1月16日 (金)

石貫穴観音千手観音立像について(調査編)

Photo 石貫穴観音横穴は、玉名駅から、車で15分ほどのところの山の中腹にある。
菊池川の支流の繁根木川のさらに支流の川沿いの道から、山の方を見上げると、民家の上方に壁のない建物があり、その後ろに横穴が見え隠れする。
何軒かの民家の間の路地を通ると、石段があり、そこを上がると礼堂のような建物があり、その奧には石垣でステージをつくっている。

Photo_2 そこの山肌に3基の横穴が掘ってあり、そのステージからはずれて、右側の山肌に2基と合計で5基の横穴が石貫穴観音横穴群である。

Photo_3 むかって右から数えての3、4,5窟は同じ石垣のレベルにあり、その中心のいわゆる4号窟の入口は、ちょっとしゃがんで入れる高さで、中は充分立っていられる高さになっている。
中に入ると左右に屍床があり、正面は床が一段高くなった屍床となっている。

Photo_4 正面の上には、庇がでており、その庇の上に5つの丸い円筒が突き出している。また、左右の屍床のうえにも、奧壁の庇より一段下に庇をもうけているが、円筒はない。

Photo_5 松本雅明氏の調査によると、寸法は奧壁は高さ1m26㎝、幅2m20㎝で、そのほぼ中央部分77㎝を矩形に彫りくぼめ、その中に舟形光背をつくりだし、その中央に仏像を浮彫りにしている。

Photo_6Photo_7 彫りの厚みは、光背の外側が2.5㎝、光背は中央がややへこみ、そこに仏身を彫る。仏身の彫りの深さは、頭部がもっとも深く7㎝、頂上手の内側が3㎝、腹部の側面が3.2㎝である。
仏像は二手を胸で合掌し、二手を頭上におき、円形状のものを捧げている。体躯の右側に四手、左側に三手が認められる。体躯からでる手は摩耗がはげしくそれ以上は判明しない。
Photo_8 左側には棒状のようなものがみとめられ、上部に丸いものがついていて、さらにその上に円形状の物が掘り出されている。足先は左右に広げているようにみえ、台座は厚い板状のものとなっている。
下腹部はかなり出て、その下に三角の彫りくぼみがある。光背頂部から板状台座まで1m6㎝である。

Photo_9 さらにこの仏像の斜め右前(以前は中央)に、石造(凝灰岩)丸彫の千手観音坐像(高さ1m13㎝)が置かれている。
十一面をもつ頭部はきわめて巨大で48.5㎝(頂上仏を加えて)、身部が63.5㎝、台座の厚みは13.5㎝。大臂は三対あって、二手は胸前で合掌し、二手は前にあげ(おそらく蓮華を持し)、二手は膝で入定印を結ぶ。
他の小手は段をなして舟形光背いちめんに陰刻している。膝は薄く、衣文や足を略し、蓮華座も三角形を二段にならべているにすぎない。胡粉をぬったあとがみえる。
以上松本氏の採寸及び調査報告をもとに述べてみた。現状は松本氏調査当時とほぼ変わっていないようである。

まずこの仏像の考察の前に、その問題点を列挙してみよう。
第一の問題、この横穴の造立年代である。その手がかりとなるものは、正面奧の円筒形つきの庇である。
これは、当然造立当時のものであるので、それがはたして、本瓦葺を表現しているのか否かということが問題となる。
本瓦葺だとするならば、仏教渡来以後の造立と考えられるからである。単に草葺屋根に丸太をのせた形式とすれば、もっと時代をあげてもいいということになる。
第二の問題、浮彫の千手観音立像の造立年代はいつか。また追刻なのか、当初の造立かという問題である。
これは、清水寺式の千手観音であるということとあわせて像の様式的検討が必要となる。
第三の問題、第二の問題を発展させると、清水寺式千手観音の伝播状況、この千手観音は清水寺と関係があるのかといった問題にまでひろがる可能性がある。
さらに、この地域にどのようにして清水寺式千手観音がもたらされたのかという問題に発展する。

以上できるだけ客観的にこの石仏の現状に就いて述べてみた。次回は今まで、この仏像について先学はどのように論じてきたかについて述べてみようと思う。

| | コメント (1)

2008年12月28日 (日)

運慶の思い出

Photo 『芸術新潮』が久しぶりに仏像の特集をしました。このところ注目をあびている「運慶」です。

運慶の判明している全作品を時系列に見ていくと、改めて運慶のすごさがわかります。いままでは、断片的にしか見てこなかったせいか、今ひとつ運慶の作品の流れがつかめなかった一面がありました。

それは、願成就院像と浄楽寺像がどうも結びつかなかった気がしたからでした。しかし、全体的に見てみると、運慶の作風の共通性がなんとなく感じられるような気がします。

それにしても、運慶という作家の変遷を整理してまとめてくれると、なるほどと納得することしきりです。

昔、大学院生だった頃、先輩から誘いを受けて、浄楽寺の調査に同行することができました。調査者は久野健氏。写真は田枝幹宏氏でした。浄楽寺の収蔵庫で、田枝氏は助手の人にライテイングをさせて、8×10のカメラで写真を取っていました。久野健氏は仏像を見ながら、大学ノートにちょこちょことメモをしていました。

Photo_2 収蔵庫の中には、寺側の人が立ち会っておらず、我々しかいませんでしたので、仏像の背面を撮影しようということになりました。どうも、仏像を動かすことは、寺側の許可を取っていなかったらしく、お寺の人がいないうちに取ってしまおうということになって、仏像を台座ごとを回転することにしました。撮影の間、じゃまがはいるとまずいので、収蔵庫の外で、見張りをすることになりました。私と、久野健氏の娘さん(当時はまだ高校生だった。)と収蔵庫のそとで、見張番でした。彼女はその当時はあまり仏像には興味がなかったらしく、入口の外の階段に坐って文庫本を読んでいました。

 

Photo この時の写真は、のちに『運慶の彫刻』(昭和49年10月刊)という本として出版されました。今、この本を見てみると、そこにとりあげている運慶の仏像は、円成寺、願成就院、浄楽寺、東大寺南大門、興福寺北円堂、金剛峯寺、六波羅蜜寺の諸像だけでした。

最近発見の光得寺、真如苑、称名寺光明院像はもちろんのこと、滝山寺、興福寺仏頭、東大寺重源像もこの本ではとりあげていなかったのです。

その間30数年にこれだけ作品がでてくるとは、実に隔世の感があります。

快慶も作品が数多く発見されています。最近でも、善光寺にある像がそうかもしれないという報道がありました。快慶はさらに多くの作品がありますので、それを時系列で見せてくれる日が待ち遠しくおもいます。

| | コメント (1)

2008年12月24日 (水)

『坐勢』考

最近、仏像の入門本が相次いで出版されているようで、ある人から、今は仏像ブームなんだって?と聞かれます。たしかに、仏像研究者による、仏像入門の本が先月相次いで本屋の店頭にならんでいました。

ざっと立ち読みしていると、どうも基礎的な説明は、どれも似たり寄ったりとした構成になっているようです。私の興味ある“坐勢”についての項目をみても、、相変わらず、“半跏踏下像”という名が跋扈しています。しかも、“半跏趺坐”の説明に、足の裏が衣に隠れて見えない図を載せています。これが“半跏趺坐”ですといっても、読者は理解できているのだろうかと、疑問がわいてきます。

Photo_2

上記は『望月仏教大辞典』に載る「半跏趺坐」の項の説明です。

また、真鍋俊照編『日本仏像事典』(平成16年12月1日発行)の「半跏趺坐」の頁(p64)では、

「半跏趺坐 仏教における坐法の一つ。両足をそれぞれ反対の大腿部の上にあげる坐法を全跏趺坐(結跏趺坐)というのに対して、いずれかの片足を大腿部からおろして膝前におくのを半跏趺坐という。(中略) 片足垂下像や片足踏下げ像を半跏として用いるのは誤用である。」(田村隆照)

として、望月仏教辞典とおなじ図を載せていますが、それ以外の坐法についての記載がありません。

読者が知りたいのは、ある仏像を初めて拝したとき、この坐勢は何というのだろうか?という素朴な疑問です。ところが入門本は坐勢に関しては、いままでどおりの既定の単純な分類を押しつけているだけです。

たとえば、野中寺菩薩像が「半跏踏下像」というのなら、宝菩提院の菩薩像は何というのでしょうか。瑞林寺の地蔵菩薩像は、何という坐勢なのでしょうか。普賢寺の普賢菩薩像は「半跏像」でいいのでしょうか。

これらの入門書は、このことに何も答えていません。いわゆる“半跏踏下像”は四十八体仏のような金銅仏ではよくありますが、半跏ではない“片足垂下像”の作例のほうがはるかに多いのです。片足を前に投げ出している坐勢も坐像の中に数多くあります。そういう仏像についての説明をしないのは、入門書としての機能を果たしているのでしょうか。どうも、何か同じマニュアルに基づいて書かれているような気がしないでもありません。

“踏下げる”という言葉がいつごろから使われるようになったのか、いろいろ調べていたところ、現在一番古そうな資料をみつけました。

Photo 『日本國寶全集』第九輯(大正12年12月1日発行)に、観心寺蔵釋迦如來像が掲載されています。その解説には、

「須彌座の上に半跏趺坐する像で、踏下げた左足は此種の像に屢ゝ見る如く宣字座から擡頭する蓮華に支えられてゐる。」

とあります。“踏下げる”という言葉はどうも相当古くから使われているようです。それにしても、これが半跏像?

どうも「踏下像」を抹殺するには、相当根が深かそうで、大変な労力が必要なようです。

参考ブログ

| | コメント (1)

2008年12月10日 (水)

泉沢石窟

高山奇人さん、木毎三尺さん、今日泉沢石窟に行かれたそうで、いかがでしたでしょうか。充分に見られたでしょうか。小生が見たのは、もう20数年前にもなります。その後、崩れはどんな具合になったのか心配しておりました。

Photo これがその時撮った薬師堂窟の写真です。ちょうど修理のための足場がかかっていて、近くまで寄ることができました。それでも、各尊像は顔はほとんどわからない状態で、わずかに判明するのは、岩面に線刻された光背でした。

堂内は真っ暗で、懐中電灯でやっと像の部分が判明するだけで、全体像がわかりませんでした。

写真は如来像の間にある観音菩薩立像とされる仏像です。

Photo_2 昭和43年の修理工事報告書によると、それに美術院の復元想像図がありますが、これもあくまでも想像の域をでないものです。

でもこんな具合だったのかはわかりましたでしょうか。

 

阿弥陀堂窟はもう全然、形もわからない状態になっていました。

Photo_3 観音堂窟はいかがでしたでしょうか。頭部から下は崩れてわからなくなっていますが、明らかに清水寺式千手観音坐像です。

Photo_5 その左右上部に仏像がいくつかあるのがみえます。しかも彩色がよく遺っているのがあります。

これは賢劫の千仏だといっているのですが、何を根拠にそう言っているのかわかりません。この点はもっと調べる必要があるように思います。

Photo_4この石窟についての史料はなく、その様式からおそらくは平安時代であろうということしかわかっていません。しかし、場所が東北の福島県ということと、清水寺式千手観音ということを考えると、坂上田村麻呂との関係は少なからずあったと想像することはできます。そういった伝承なり推測と、周辺の平安時代の状況がどこまで判明するかが、その造像背景の論証のためのこれからの課題となるのでしょう。

| | コメント (2)

2008年12月 8日 (月)

長谷寺式十一面観音立像

Photo 伊東史朗著『調査報告長快作長谷寺式十一面観音像』を通販で手にいれました。最近、パラミタミュージアムが購入した仏像です。この報告書の写真を見て、おや!とおもいました。台座が方形の箱状になっているのです。そう、先日、長谷寺の本尊の足元の台座が方形の板状になっているのを、お話しましたが、この十一面観音像はそれよりも、背の高い箱のような台座です。『豊山長谷寺拾遺』第三輯 彫刻という長谷寺の彫刻悉皆調査報告書によると、10数体ある長谷寺式十一面観音立像のうちほとんどが、方形の台座になっています。

これは、錫杖と同じくいわゆる長谷寺式の特徴として表現しているものとおもわれます。

長谷寺縁起によると、長谷寺十一面観音がはじめて造像されたときの伝承として、徳道に対する夢告で、地中にある金剛宝盤石を掘り当てその上に仏像を置くよう告げられたとあり、だから長谷寺の本尊は、この大盤石の上に宝座蓋という方形の台座の上に立っているというのです。

Photo_2

Photo_3

このパラミタミュージアムの十一面観音立像も、長谷寺本尊の形を模して造られたことがわかります。もっとも、長快は快慶の弟子であり、快慶は建保7年に長谷寺本尊を再興していますので、その快慶像の忠実な摸刻像といえなくもありませんが、伊東氏によると、この像は快慶像とちがって頭上面が11面だったり、装飾が金属製と、違いをみせており、伊東氏は“近代的な意味でいう「模す」とは別次元の行為であったと考えられる。”として、模像についての厳密さを求めないのが長快の態度だったようだとしています。

模造については善光寺式阿弥陀如来や清凉寺式釈迦如来、清水寺式千手観音についても同様に検討していかなければならないと伊東氏は言っていますが、そこが一番重要な問題だろうとおもいます。

この仏像が長快作と判明したことで、快慶及その弟子行快、栄快、長快の師弟たちのすべてに仏・菩薩形像の遺品がそろったことになり、師弟関係の作風を捉えやすくなったのは事実です。

しかし、快慶の弟子たちは、たしかに快慶の作風を受け継いではいますが、それぞれに個性をだしているようにおもえます。単なる様式の継承だけではないようです。それだけ快慶は師匠として弟子の養成に長けていたことも、快慶の快慶たる所以なのでしょうか。

| | コメント (0)

2008年11月29日 (土)

『運慶流』展

PhotoPhoto_2 山口県立美術館の『運慶流』展は、カタログに載っている仏像が33件です。実際は、佐賀県立美術館でのみ出品するものもあるので、30件ほどだったでしょうか。ほとんどが、ガラスケースに入っていない生で見られるようにしてありました。おまけに、目の高さに展示してあり、およそ30㎝ほどの距離で生で見られるというのは、観覧者にとって非常にありがたいのですが、逆にあまりに顔を近づけることができるので、セキュリティは大丈夫なのか心配になるほどでした。

展示はいわゆる慶派の流れの中で、特に康慶からの系譜をたどった展覧会です。鎌倉時代以降の仏像の展覧会は2・3年前の『宿院仏師』展以来でしたが、特に南北朝時代を取り上げたのは初めてではないかとおもいます。

これで、鎌倉時代以降の仏像史をある程度整理できるようになったとおもいます。しかも、仏像は九州の作品を主とし、関西の仏像も含めて、広い範囲からの出品で、一地方の美術館としては、実に意欲的な作品の展示だったとおもいます。しかし、おしむらくは、もっと作品を出してもらいたかったというところですが、これが、地方美術館の限界か、あるいは、このようなテーマの展覧会は国立博物館のやるべき展覧会かとも思います。それにしても、よく企画した展覧会だとおもいます。

その中で、注目は二人の康俊です。展覧会では、「南都大仏師」と「東寺大仏師」とに分けていますが、今まで、康俊は二人いるとはわからなかった仏師です。

そのうちの康俊(東寺大仏師)の作品が数点ありましたが、よく見ると、これが南北朝の仏像かと思われるほど、実にできのいい作品です。技術のよさがきわだっています。時代が下がるといわゆるプロポーションがくずれて、形式化がはじまるのですが、形の破綻が見られません。相当の技量を持った仏師と見ました。

それにしても、山口県所在の仏像が一体もありません。それなのに、何故、山口県立美術館なのかわかりません。地元の見学者はそれに違和感をおぼえていないところを見ると、山口県人はじつに、グローバルな感覚の持ち主なのかなあ、とおもいます。

| | コメント (2)

2008年11月26日 (水)

仏谷寺伝虚空蔵菩薩立像

Photo 荒神谷博物館で催された『ふるさとの御仏』展はわずか11体の仏像の展示でしたが、いかにも出雲地方の仏像という特色をだした展覧会だったと思います。というのは、この荒神谷遺跡のある斐川町は、島根県で初めて、しかも唯一の仏像悉皆調査の行われた地域だからです。以前から、仏像の調査報告書を採集していて、この『斐川の仏像』という斐川町教育委員会が1985年にだした報告書が目にとまりました。その当時、島根県の仏像はごく限られた寺院の仏像しか注目されていませんでした。島根県の仏像の分布状況、およびどういう地域性があるかなどは、まったくの未知でした。ただ、万福寺、仏谷寺等平安前期とおもわれる仏像が注目されていただけでした。しかも、これらの仏像は中央とはちがって、非常に地域性のある仏像でしたので、もっと特徴ある仏像の出現が期待されていたのでした。

この悉皆調査をされたのが、県立博物館の的野克之氏でした。結局、その後の地方自治体の悉皆調査は島根県では行われなかったようです。こんな早い時期に斐川町で行っていながら、その後が続かなかったのは、実に不完全燃焼になってしまっているようでなりません。

その意味で、『秘仏への旅』展はいくらかでも、石見地方の仏像が展示されていることをみて、多少でも、調査はすすんでいるのかな、と推測するだけです。

もっと、お金と人材を駆使して、未調査地域の悉皆調査を行ってほしいと願うのみです。

Photo_2 さて、荒神谷博物館に展示されていた仏像で、仏谷寺聖観音立像(伝虚空蔵菩薩)が目にとまりました。この仏像は目が彫ってありません。いままで、このブログで紹介してきた仏像は神像であったり、いわゆる鉈彫像であったりしましたが、この仏像は、目以外はちゃんと完成している仏像です。目だけが完成していません。

ここで、もういちど、“目が彫っていない” とはどういうことなのか、説明しておきます。

普通、立体造形の仏像では、目を表現するとき、すくなくともマブタを彫り、眼球の部分はマブタより掘り下げて、表現するのが本来の彫法です。眼球がふくらんだ状態の彫法は、別に問題ではありませんが、上下あるいは、上のみでもマブタを彫っていなければ、目を表現しているとは言えないのはあきらかです。あるいは、ある程度彫った後、筆で目を描くという方法も考えられなくはないのですが、ただ、膨らんだ眼球をのみ彫って、その上に目を描くことは、うまく目を表現できないのは明らかです。すくなくても、目は立体的に表現しなければ、目とは見えません。

鉈彫像は、その表現形式から、未完成という説もありました。その説からいけば、目を彫っていないことは、説明がつきます。

また、神像に目が彫っていないのは、木に対する信仰として、木そのものに対する霊力を表現するという説明もできるでしょう。

しかし、この仏谷寺像は目以外は、完成されています。彫り残しはどこにもありません。いったいどういう解釈をしたらいいのでしょう。

Photo_3 井上正氏によると、この仏谷寺像はこれから、目が現れ始めている仏像だというのです。いはば、霊木が化現している途中の像だというのです。実際に見てみると、眼球の部分にうっすらとマブタが彫ってあるように見えます。しかし、これは後補で彫った可能性もありますし、一概にそうだとはいいきれません。

このような仏像はもっとあるはずですが、いままでの調査では、調査項目に入っていないために見逃されてきたきらいがあります。これからの仏像の調査にはこの点もしっかりと報告をしていただきたいと願うばかりです。

| | コメント (2)

2008年11月13日 (木)

燈明寺の仏像

燈明寺の仏像の5体について、若干の考察をしてみようとおもいます。

Photo_2  まずは、中央に安置されている千手観音立像です。燈明寺の旧本尊といわれている仏像です。十一面、四十二臂で、漆箔、彫眼、像高は172㎝です。面相、衣文ほか彫法などから、鎌倉時代後期としてもいい仏像です。

 

 

 

 

 

 

Photo_3

Photo_4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左は観音菩薩立像(伝如意輪観音)といわれている仏像です。右は十一面観音立像です。両像ともほぼ同じ像高で、作風も近似しています。伝如意輪観音立像は三眼八臂の形状から、不空羂索観音像とおもわれます。修理時に、合体天部形立像と観音像造立奉加結縁交名が納入されており、結縁交名には徳治3年(1308)の年記があり、造立年もその頃と思われます。先ほどのブログで宿院仏師のようだと書いてしまいましたが、宿院仏師は室町時代を嚆矢とする仏師集団で、時代と合わないので、取り消しますが、それと見まがうほどの様式の共通性が見られるのです。まずしっかりと見開いた眼、膝下の彫りに細いノミ跡をのこしていること、素木造であることなどです。しかし、宿院仏師の作と改めて見比べてみると、燈明寺像のほうが、全体的なプロポーション、彫り方など、鎌倉時代の様式を残しており、他の南北朝の仏像と較べても様式は古さをみせています。

Photo_5

Photo_6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬頭観音立像と聖観音立像は像高はおよそ110㎝と、他の3体と較べて小さい仏像です。両像とも素木像で、様式も同じようですが、伝如意輪観音、十一面観音にあった、膝下の彫りに細かいノミ跡がありませんでした。時代はほぼ同時代頃と思われますが、作者の系統がちがうのかもしれません。

しかし、鎌倉時代にこのような素木像があるのは、善派の仏像くらいでしょうか。それにしても善派の様式とは、ほど遠いし、この系統の仏像は鎌倉時代のどの系譜につながるのでしょうか。これから宿院仏師につながるとしたら、その間の仏像の系譜をたどれなければなりません。

鎌倉時代から室町時代につながる系譜をたどるには、もうすこし作例と史料がでてこないと整理できないのかもしれません。

| | コメント (0)

2008年11月 5日 (水)

長谷寺本尊特別拝観

Photo まず本堂の横で、1000円を払うと、入口で僧がまず五色のミサンガのようなヒモを渡して、これを手首につけてください。といわれました。香の粉を手にすりこんでから、お守りのはいった封筒を手渡されました。中にはいると、ちょうど本尊のまえに高さ150㎝ぐらいの引き戸があり、お坊さんが、頭に気をつけてと注意をうながしていました。その戸をくぐると、目の前には巨大な本尊の足が見えます。見上げるとはるか先に本尊の顔が見えます。何せ、本尊は像高10mになんなんとするのですから、頭の先までよく見えません。

台座は、ただの黒い漆塗りの厚い板でした。いわゆる蓮華座もありません。ちょっと拍子抜けの感がいなめません。その黒い板の上には、足先がありました。お坊さんが“どうぞ足におさわりください”といってうながします。足先は参拝者がなでた為に黒光りしていました。なんで文化財を簡単にさわらせるのだろうか、という疑問も足先が簡単に取り外せるようになっているようなので納得しました。

Photo_2 しかし、本尊と同じ位置に立って見上げると、その大きさにただただ驚歎します。本尊のまわりは人がひとり通れるくらいのスペースがあります。その壁の上部の板には四天王が描かれていました。下部には、三十三応現身像の板絵が一枚一枚に描かれて、はめ込まれていました。

こんなせまいスペースに収まっている仏像は、おそらくこの中で組み立てるしか方法がないのではと思います。こんな大きな仏像を外から入れる方法がどう考えてもありません。おまけに、この巨大な仏像を納めるために、建物も天井まで、吹抜の空間を造っています。それにしてもすごいの一言です。

この部屋から出るとき、お坊さんの手の上に手をのせて、御祈祷をしていただけます。

Photo_3 封筒の中には2つのお札が入っていました。それと”結縁の五色線”というミサンガのようなひもで、1000円です。

| | コメント (0)

2008年9月20日 (土)

龍峰寺千手観音

Photo今回の奈良博の展覧会に出品された龍峰寺の千手観音立像です。いわゆる「清水寺式千手観音」の一例ですが、この仏像はいろいろ問題のある仏像です。

まずカタログの解説から見ていくと、構造は頭体を榧の一材で彫刻され、背面から大きく内刳がされている。と説明しています。

しかし、膝部の衣文は平安時代も早い頃の様式を示しているのに、目には玉眼をいれており、顔部は平安時代以降の様式を見せています。玉眼は後で、面部を割矧ぐということも考えられますが、膝の衣文との時代的整合性がとれていません。

もちろん脇手は後補なのですが、どうも、腰下とその上とは時代が違うようにみえるのです。

しかし、鈴木氏の解説では、なんらかの古像の模刻という製作事情が考えられるとして、製作は鎌倉時代初期としています。

模刻という解説にちょっと引っかかる気がします。つまり鈴木氏は、膝下の衣文がどうしても古く見えてしまったために、模刻ということを引っ張り出したように見えるのです。

いくら模刻といっても、彫刻の方法はその時代性が現れるものです。何か胴体と足をとってつけたような気がするのです。

しかし、構造は頭体一材の一木造だというのです。よくわかりません。

それよりも、頭上の脇手がいつ付けられたのかが、わかるといいのですが、それはちょっとむずかしいのかもしれません。

清水寺式千手観音は北は中尊寺から南は九州まで、広範囲にわたって分布しています。しかし、善光寺式阿弥陀のように、持ち運べるほど小さいものではなく、善光寺信仰の普及によって全国に分布したというように、清水寺式千手観音がどういうことで、全国にその分布が見られるのかは、まだまだ解明しなければならないことが多すぎます。清水信仰によって普及したというのは、ありうることであっても、学問的に明確な証明ができなければ意味がありません。

カタログでは、この清水寺式千手観音の白描画像が「別尊雑記」に「唐本」として収められていると書いてありますが、別尊雑記を見ても見つかりません。ここからはじめないといけませんな。

| | コメント (0)

2008年9月 6日 (土)

上野大仏

Photo 『建築工藝叢誌』第2期第11冊(大正4年4月25日刊)に東京美術学校教授・帝室技芸員の肩書をもつ彫刻家の竹内久一著の「上野大佛改造の議」という一文がありました。なかなかおもしろい文章なので、要約をのべてみます。

上野公園は、地方の人も、外国人も首都に来れば必ず見物する名所である。しかも、第一回内国勧業博覧会の開催した所で、その上東京帝室博物館、東京美術学校等、美術といえば直ちに上野を連想する地でもある。

しかるに、“上野公園に入って見ると、先づ第一に人をして、甚だ非美術的なるに顰蹙せしめ、その奇怪なるに驚かしむる巨大なる物體がある。それは何かと云ふに、鐘撞堂の附近に高く聳ゆる大佛、否大怪佛である。此大怪佛は、徃昔越後村松の藩主堀家が建立したものださうで、随分大きなものではあるが、その姿勢も顔貌も拙の又拙なるもので、盧遮那佛の盧遮那佛たる威嚴は毛頭も無く、殊に其首のブザマな事は、何とも譬へやうがない。”

“明治になってからも、上野行幸の時には、御目障りにならぬようにと、此大怪佛を蓋ひ隠したこともある。”

この大怪佛を改造したいと言ったのは、狩野芳崖であった。明治十八九年頃、奈良から帰った芳崖が、橋本雅邦や竹内久一に相談をして、何とか作り直したいと所有者を調べた所、寛永寺でも、博物館でもなかった。そうこうしている内に狩野芳崖が故人になってしまって立ち消えになってしまったと書いている。

竹内久一はさらに、奈良や鎌倉の大仏よりも“一層立ち勝った名佛を作るつもりで”と意欲をみせている。さらに、三四萬圓程の金があればできると、しかも富豪に一時立替してもらってあとで、醵出金で返済すればむずかしことではない。とまで言っている。

Photo_2 この大仏を竹内久一はよっぽど気にいらなかったのでしょう。でも、改造する運動にはならなかったようです。そして、関東大震災で、首が落ち、残骸を寛永寺で一時保管していたのが、昭和15年に戦争で供出されてしまったのでした。この顔だけが、供出を免れて、大震災50周年の昭和47年に今のように再建されたのでした。

戦後、地元の観光連盟が再建に動いたこともあったようですが、立ち消えになってしまったようです。

しかし、この竹内久一の文章を読んでみると、はたして、もとのような“大怪仏”を復元していいものかどうかの検討も必要かもしれません。

| | コメント (0)

2008年8月13日 (水)

『半跏像』考

『半跏像』の定義について、混乱しているようなので、ここで少し歴史を振り返った上、姿勢の再定義をしてみようと思う。
まず、いままでの「半跏像」についてどう記述されていたか例をあげてみよう。

●『日本美術体系』彫刻 昭和16年2月11日 誠文堂新光社刊
「八 彫刻用語解説」大口理夫執筆
・「佛像の姿勢」の項 P476~P477
佛像(如來以下佛像關係一般を指す)の姿勢は大別して立像、倚像、坐像、臥像等に分つ。(一)立像には直立像、行像、侍立像、丁字立像等がある。直立像は直立する普通の立像、行像は空也上人像の如く足を踏出して歩行する相(行像にはなほ別の意あり、其項参照)、侍立像は少し前體を前屈みにする像、來迎彌陀の脇侍菩薩に屢々見る。丁字立像は右脚を立てゝ左足を斜に引き丁字の如く身を曲げて立つ像で、金剛童子の如きはそれ。(二)倚像は床などに倚りかゝるものをいふ。一般に單に倚像といふは垂雙足像を指す。その他雙脚を垂れて足先を交じらしむ「交脚像」があるが、日本には殆どない。半跏踏下像(ふみさげ)も倚像の一種と見えるが、これは半跏趺坐の一種である。(三)坐像には結跏趺坐、半跏趺坐、箕坐、正坐、蹲居、跪坐、等の諸形がある。結跏は兩足を互に組合せたる坐法で、如來、菩薩に普通に見る。半跏は隻脚のみ他の足に跏するをいひ、その下に押された隻脚を下方に垂れたのを「半跏踏下げ」といひ、俗にこれを「半跏」と稱することもある。以上の坐相各箇については各々其項を見よ。(四)臥像は佛入涅槃の時の横臥せる相。
・「半跏趺坐」の項 P474
結跏趺坐が左右兩足を互に他の足に跏するに對し、一足をのみ跏する趺坐をいふ。その跏していない一足を踏下げるのを半跏踏下げといふ。俗に半跏趺坐といふは半跏踏下げを指していふ。
・「半跏踏下」の項 はんかふみさげ P474
半跏趺坐の下に置かれる片足を踏下げる坐法、言換れば、一足を地に下し、他を屈してその足背を踏下げた足の股上に置く坐法。また半跏踏下像は多く思惟相をなす。半跏趺坐を見よ。

Photo_2 【筆者コメント】
「佛像の姿勢」の項に載る参考写真に「半跏趺坐(半跏踏下) 北僧坊虚空蔵菩薩像」というキャプションがある。北僧坊像は、片足を前に出し、片足を垂下する姿勢で、「半跏趺坐」ではない。また「佛像の姿勢」の項での「半跏踏下げ」の説明が解釈不能である。また、「一足を地に下し」とは、垂下した足が地についていなければならないということか。

 

 

 

●『日本彫刻史基礎資料集成』

Photo_19

Photo_22Photo_20 ・『平安時代 造像銘記篇 3』 昭和42年11月30日
「52 阿彌陀如來及び兩脇侍像 長岳寺」 水野敬三郎執筆
形状 観音菩薩 裳をつけ、腰布を腹前で結び、左足を踏下げて坐る。

・『平安時代 造像銘記篇 4』 昭和43年4月15日
「62 如意輪観音菩薩像 観音堂」 水野敬三郎執筆
形状 左足を垂下し、右足半跏、裳裾を臺座前面に垂らして坐る。

・『平安時代 重要作品篇 1』 昭和48年7月30日
「梵天・帝釋天像 教王護國寺」 田邊三郎助執筆
形状 帝釋天像 左足を踏み下げて第一指を反らし、右足を曲げて象背の敷布の上にのせて坐る。

Photo_6

・『鎌倉時代 造像銘記篇 6』 平成20年2月25日
「176 救世観音菩薩像 三千院」 根立研介執筆
形状 左手は屈臂して左膝上に重ねた右足首に掌を伏せ・・・・右足を垂下し榻座に坐る。

【筆者コメント】
片足を下に下げる形を、一方では「踏下げる」と言ったり「垂下する」と言ったりと統一されていない。また、三千院像のように半跏であるかないかの説明がされていない。

 

 

●『龍華寺 菩薩半跏像』美術研究作品資料 第四冊 東京文化財研究所 平成19年5月25日
Photo_7 ・「註(3)」 津田徹英執筆 P66
片脚を屈して横たえ、一方の脚を踏み下ろす姿は、厳密には「半跏踏み下げ」像と表記すべきであるが、本稿では慣用に従い「半跏」像と表記したことをあらかじめ断っておく。

・「調書」 津田徹英執筆 P74
形状 腰を左に捻り、左脚を屈して横たえ、右脚は踏み下げて足先を垂下させる。

【筆者コメント】
「半跏」の意味を理解していないと言わざるをえない。「踏み下げる」と「垂下する」とは違う姿勢なのか。同じことを言っているの?

 

このように見てくると、「半跏像」の定義が定まらないのではなく、「半跏像」という言葉を、その場でいい加減に使ってきたと言わざるを得ない。「半跏趺坐」とは、片足を他方の太腿の上に乗せる形式であるのは当然の定義であり、一方、片足を垂下していれば、「半跏像」であるという解釈は、慣用的に使われている既成事実であり、連綿として使われていたのである。それを今更、厳密に解釈する必要があるのだろうか。どうしても気になるのなら、「半跏像」と書いた論文の注釈に「本来は片方の足の甲が他方の太腿のうえに乗らなければ半跏像ではないが、ここでは片足が垂下している形を半跏像と呼ぶ」と書けばいいことである。もし、「踏下像」と「半跏像」を分けたいとすると、他の仏像の記述の整合性が問題になってくるし、もっと多く用語の定義をしなければならなくなる。たとえば、如意輪観音像は「如意輪観音菩薩輪王坐像」、結跏趺坐でも「吉祥坐」と「降魔坐」に分けなければいけなくなる。
もうひとつ、「踏み下げる」は『踏下像』考でも書いたが、こんな業界(学界)用語はもう使わないほうがよろしい。辞書にない言葉をつかう必然性がない。私が提案した「片足垂下像」とすればいいのであり、「踏下」という言葉しか表現のしようがないというのなら話が別だが、「片足を垂下する」で十分に表現できるし、まして、足が地についていないのに「踏む」とは説明がつかないのではないか。

| | コメント (0)

2008年8月 9日 (土)

『遊戯坐像』考

Photo

 くしくも、今月発刊された『日本の美術』507号 禅宗の彫刻 に「○遊戯坐像」という言葉が図版のキャプションに書かれていた。その内容は以下の通りである。

・第1図 観音菩薩遊戯坐像(滝見観音)(神奈川・清雲寺)
・第8図 観音菩薩遊戯坐像(水月観音)(神奈川・東慶寺)
・第21図 観音菩薩遊戯坐像(元 中国・飛来峰第92龕)
・第24図 観音菩薩遊戯坐像(宋 中国・大足石窟北山第一三三龕)
・第25図 観音菩薩遊戯坐像(宋 アメリカ・ネルソン・アトキンス美術館)
・第59図 観音菩薩遊戯坐像(南北朝 静岡・北条寺)
・第60図 観音菩薩遊戯坐像(鎌倉 神奈川・禅居院)
・第61図 聖観音菩薩遊戯坐像(鎌倉~南北朝 静岡・乗光寺)
・第62図 聖観音菩薩遊戯坐像(鎌倉~南北朝 愛媛・等妙寺)

また、論文中で筆者浅見龍介氏は「遊戯坐像」の項目を設け以下のように解説している。

右脚を横にして、左脚は踏みさげる。こうした坐り方をかつて半跏像と称していたが、「跏」は、踝(くるぶし)を大腿の上に乗せることを意味するので、この像(注:建長寺塔頭禅居院像)のように右足の踝が左脚の大腿に乗らない坐り方は半跏とはいえない。遊戯坐像と呼ぶべきであると考えるが、まだ定着するに至っていない。遊戯坐を採用しない場合、単に坐像、または踏下げ像とされるが、坐像ではこの特殊な姿勢を無視することになる。この本では遊戯坐像と呼ぶことにする。 52P~54P

佐和隆研著『仏像図典』には確かに「遊戯坐像」という言葉がある。それには、

遊戯坐像 両足を軽く前に出した安らかな坐像。(例.東寺講堂,梵天像) 274P

Photo_2 としているが、例としてあげている東寺講堂の梵天像は右脚を前にだしているが、もう片方の足は他方の大腿の上に乗せていない。『『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 重要作品篇1 では「安坐」と表現しているが、片足を垂下してはいない。こういう定義がすでにある上に、片足を垂下する姿勢を「遊戯坐像」とするのは、ただ言葉の解釈に混乱を作り出すだけである。さらに、浅見氏の本に掲載されている以下の仏像では、図版のキャプションに、

・第72図 地蔵菩薩坐像(鎌倉 山口・東隆寺)
・第73図 地蔵菩薩坐像(鎌倉~南北朝 神奈川・伝宗庵)
・第74図 地蔵菩薩坐像(鎌倉 京都・東福寺)
・第76図 文殊菩薩坐像(鎌倉 神奈川・常楽寺)
・第77図 普賢菩薩坐像(鎌倉 京都・相国寺)

と書かれているが、以上の像は、片足を前に出し、もう片方の足を他方の大腿の上にのせた「半跏像」か、東寺講堂梵天像のような「安坐」像であり、これらを「坐像」の中に包摂してしまっている。これらは佐和隆研氏の言う「遊戯坐像」の定義にあてはまる像である。浅見龍介氏の定義で言うと、さらに矛盾が露呈する。

Photo_3前掲の第21図 観音菩薩遊戯坐像(元 中国・飛来峰第92龕)は、片膝を立てているが、片方の足は垂下していない。これも「遊戯坐像」というのだろうか。この姿勢は、日本では如意輪観音像が採る「輪王坐」という坐形である。このように、浅見氏の「遊戯坐像」の定義は実にあいまいであり、定義通りの使い方をしていない。

前回の『踏下像』考の論じたことを、少しく補足すると、仏像の名称は「材質」+「種類」+「形態」という表現方法が定着しており、いはば、これが最低限の仏像を表現する方法であり、さらに細分化すると、仏像の名称として、非常に煩瑣になり、そこまでする必要性が見いだされないのである。だから、仏像の形態は「立像」「坐像」「半跏像」「倚像」だけでよいとしたのである。「半跏像」が厳密にはその言葉の意味から乖離しているのは、承知の上で定義しているのである。それは、すでに「片足を垂下する形」が「半跏像」であるとして定着しているからなのである。それを変更するのであれば、しっかりとした定義をした上で「踏下像」なり「遊戯坐像」なりの言葉を採用すべきであろう。また、「坐像」の中には、さまざまな形態があるのも承知の上で、それは、仏像の解説で、あるいは、「形態」という別項目で、「輪王坐」なり「跪坐」と書けばいいのであり、仏像の名称にそこまで表現する必要性がない。また、仏像の名称を新たに定義するためには、各論でしっかりと説明できるような検討が必要であろう。例外がでるような名称でははっきりいって採用はむずかしい。いわゆる電子化に逆行することにならないような名称の定義をしていただきたいと、望むばかりである。

| | コメント (0)

2008年8月 7日 (木)

『踏下像』考

最近、仏像の名称として、「○○踏下像」あるいは「○○踏下げ像」という使い方をする論文ないし作品解説が目にとまるようになってきた。何となくそれが、何を意味しているのかは、想像がつくが、どうもその定義について、論文の執筆者は何の説明もしないうちに、どんどんその言葉が使われてしまっているように思える。このままでは、唯曖昧なままで、この言葉が普及してしまうことになりかねない。そこで、この「踏下像(フミサゲゾウ)」について、いささかの考察をしてみようと思う。
まず、私のいままで入力したデータから「踏下」というキーワードで、論文あるいは、作品解説の題名として使われているデータを抽出してみた。戦前の本としては、延暦寺御遠忌事務局『山家遺桂』 1921年5月12日発行に、作品解説として、「大黒天半跏踏下坐像 滋賀県愛知郡秦川村大字松尾寺金剛輪寺塔頭・明壽院蔵」というのがある。戦前の仏像に関する論文の中に、仏像の像容を表現する言葉として「踏み下げる」という使い方をしているのがあった記憶がある。戦後でも、久野健著の『日本の彫刻』のなかで、いわゆる半跏像を説明するのに、「踏み下げる」という表現をしている。最近の本について列挙すると以下のようになる。
・『社寺とその美術』東京都瑞穂町文化財調査報告 3 1974年3月31日
  金山正好「32 木造文殊師利菩薩半跏踏下像 寿昌寺蔵」 39P
  金山正好「37 木造地蔵菩薩半跏踏下像 長福寺蔵」40P
・『流山の仏像』 1983年11月1日
  「101 清瀧院 地蔵菩薩踏下け像」 31P
  「102 西栄寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「103 浄信寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「104 福性寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「105 春山寺 地蔵菩薩踏下げ像」 32P
  「193・194 本妙寺 門神踏下げ像」 55P
・『横浜の文化財ー横浜市文化財綜合調査概報(11)ー』 1993年3月31日
  浅見龍介「真照寺 6,木造地蔵菩薩踏み下げ像」 111P
・『佛教藝術』212 1994年1月30日
  麻木脩平「長講堂阿弥陀三尊像考ー両脇侍菩薩像の片足踏み下げ形式を中心としてー」89P~111P
・『内山永久寺の歴史と美術』研究篇 1994年4月11日
  副島弘道「不動明王踏下像 兵庫・井植家」115P
・『相模湖の仏像』 1994年9月
  薄井和男「25 木造地蔵菩薩踏み下げ像 正覚寺」 29P
・『大井の仏像』 1996年3月
  薄井和男「33 木造地蔵菩薩踏み下げ像 大通寺」36P
・『青梅市仏像調査概報 Ⅱ』 1997年3月31日
  「報恩寺 30-8,地蔵菩薩踏下像」 55P
  「梅岩寺 45-12,地蔵菩薩踏下像」 71P
  「梅岩寺 45-18,僧形踏下像(閻魔堂所在)」 72P
・『週間朝日百科 日本の国宝』16 1997年6月8日
  松田誠一郎「菩薩踏下像 宝菩提院」 6-172~173P
・『美術史』143 1997年10月31日
  松田誠一郎「第五十回全国大会研究発表要旨 山背遷都と霊験薬師仏ー京都・宝菩提院菩薩踏下像の彫塑史的な位置づけに関連してー」 107P
・『祈りと美の伝承 醍醐寺展 秀吉・醍醐の花見400年』 1998年5月12日
  副島弘道「11 如意輪観音踏み下げ像」 167P~168P
・『東京国立博物館図版目録 日本彫刻篇』 1999年3月31日
  山本勉・浅見龍介「45 菩薩踏下像」 133P
  山本勉・浅見龍介「150 地蔵菩薩踏下像」 147P
  山本勉・浅見龍介「185 日光菩薩踏下像」 151P
  山本勉・浅見龍介「211 地蔵菩薩踏下像」 154P
  山本勉・浅見龍介「212 地蔵菩薩踏下像」 154P
  山本勉・浅見龍介「213 地蔵菩薩踏下像」 154P
・『都幾川村史資料 6(4)」 2000年3月30日
  「馬場裕太郎 木造地蔵菩薩踏み下げ像」 84P
  「霊山院(本堂) 木造地蔵菩薩踏み下げ像」 126P
・『裾野の仏像』 2001年3月
  「光明寺 45,地蔵菩薩踏下像」 40P
  「定輪寺 81,地蔵菩薩踏下像」 58P
  「木造 地蔵菩薩踏下像(45)光明寺」 74P~75P
・『寛永寺及び子院所蔵文化財総合調査報告(第三巻)彫刻・工芸品編』 2002年3月29日
  「円珠院 2-9,宇賀弁才天踏下像」 47P
  「円珠院 2-11,吉祥天踏下像及び梵天・帝釈天立像」 47P
  「清水観音堂 6-5,訶梨帝母踏下像」 49P
  「現龍院 8-5,不動明王踏下像及び二童子立像」 52P
  「護国院 9-3,地蔵菩薩踏下像」 53P
  「不忍池弁天堂 10-4,大黒天踏下像」 56P
  「不忍池弁天堂 10-7,大黒天踏下像」 56P
  「津梁院 13-4,地蔵菩薩踏下像」 58P
  「養寿院 18-3,地蔵菩薩踏下像」 61P
・『青梅市仏像調査概報 Ⅲ』 2002年3月31日
  「聞修院 49-9,地蔵菩薩踏下像」 71P
  「石倉院 53-1,地蔵菩薩踏下像」 74P~75P
・『東京都神津島信仰関連文化財集中調査報告書』 2004年3月31日
  瀬山里志「物忌奈命神社 8,木造随身踏み下げ像」 11P
  副島弘道「濤響寺 20,木造地蔵菩薩踏み下げ像」 19P~20P
・『神々の美術』京都国立博物館 2004年8月10日
  淺湫毅「6 牛頭天王踏下像 山城町・松尾神社」 212P~213P
・『佛教藝術』288 2006年9月30日
  「口絵6 殷基里磨崖菩薩半跏踏み下げ像 高麗 慶尚北道金泉」
  「口絵7 長岩里磨崖菩薩半跏踏み下げ像 全景 高麗 981年 京畿道利川」

Photo ここで、その「踏下像」の使い方を見てみると、金山氏を除いて、その言葉の定義がみえてくる。つまり、「半跏像」という像容の表現に違和感を覚えたことが「踏下像」という表現を使うことになったとおもわれる。「半跏像」とは、片方の足の甲が他方の太腿の上にのる形をいう「半跏趺坐」像という定義が定着している。その定義通りの像としては、三重・普賢寺の普賢菩薩像がある。つまり、「半跏像」とは、片足が垂下するしないは関係がないのである。いままで、片足が垂下してさえいれば、「半跏像」としてきたが、宝菩提院像のように、片方の足は他方の足の前に置かれ、他方の太腿の上にない状態では、「半跏像」という定義と合致しないとしたのであろう。したがって、中宮寺像と宝菩提院像との像容の表現の違いを示さなければならないと思ったのであろうとおもわれる。
このように「半跏像」を定義通りに解釈することによって、あいまいにされてきた「半跏像」という概念を定義通りの「半跏像」と「踏下像」に峻別しようとしたのであろう。しかし、「半跏像」と片足を垂下する像容は別次元のものなのである。定義通り解釈すれば、前述した普賢寺普賢菩薩像は片足を垂下していない「半跏像」なのである。
Photo_2 さらに、「踏下像」という言葉を使うには重大な問題がある。そもそも「広辞苑」など国語辞典に「踏み下げる」という言葉の項目はない。いはば、美術史のうちの彫刻史という限られた分野でのみ使われていた用語であることがわかる。さらに、「踏む」とは、足で押すという動作をさしており、たとえば、「ペダルを踏む」「邪鬼を踏む」という使い方をする言葉であり、宝菩提院像のようにただ単に片足を垂下して、地についていない状態では決して「踏む」とは言わないのが常識であろう。このように、言葉と実際の形との間で乖離のある言葉は使用すべきではないのである。
それでは、この問題に対してどういう解決策を講じたらいいのだろうか。
まずそのひとつは、片足を垂下する形を「片足垂下像」と定義する。すると、中宮寺像は厳密に表現すると「菩薩半跏片足垂下像」となる。宝菩提院像は「半跏像」ではないので、単に「菩薩片足垂下像」となる。普賢寺像は「普賢菩薩半跏坐像」となる。しかし普賢寺像はいままで、単なる「坐像」と表現してきた経緯があるので、その変更を簡単に受け入れられるかは、しっかりとした定義がちゃんと実行されるかにかかっている。
もうひとつは、以前のままで、おおまかな分類にし、個々の事例についてすべてその中に包摂してしまうという案である。仏像の像容についての「辞書的な本」である佐和隆研著『仏像図典』では、仏像の像容はおおまかに「立像」「坐像」「臥像」としている。いままでの一般的な表現方法では、「立像」「坐像」「半跏像」「倚像」という言葉を仏像の種類の後に付けてきた。これをそのまま踏襲すればいいという案である。この場合の『坐像』の定義としては「結跏趺坐」「半跏趺坐」「輪王坐」「跪坐」「安坐」も含めて「坐像」とする。『半跏像』の定義は、片足が垂下していれば、片方の足が他方の太腿のうえに乗らなくても「半跏像」とする。『倚像』は両足を垂下する形とする、という定義にしてしまえばいいのである。それ以上の細分化は、形体のすべてにわたって言葉が定義できるまで、別項目で記述すればいいことである。
Photo_4 私としては、後者の案を採用したいと思う。というのは、この問題はデータベースの入力上で、非常に重要な問題が含まれているのである。仏像の像容についての項目に入力するのに、共通した概念をもった表現が必要であり、あまりに細分化すると、その定義がむずかしく、例外措置が多くなるとさらに複雑化するからである。これが、データベースにおける表現の標準化なのであり、すべての入力項目にその標準化をしなければならないのである。これが、標準化の第一歩となるものである。

| | コメント (3)

2008年7月16日 (水)

快慶

今回の旅行の前後に、快慶作の仏像にいくつかお目にかかりました。まず、旅行前に東京国立博物館で見た、東大寺の地蔵菩薩立像です。まあ典型的な快慶盛期の仏像でしょう。

PhotoPhoto_2  

旅行でまず快慶を見たのは、京都国立博物館の平常陳列にあった、松尾寺の阿弥陀如来坐像でした。制作年は不明ですが、おそらく無位時代のものでしょう。

そして、奈良では、東大寺南大門の仁王です。これはただすごいとしかいいようもなく、快慶らしさをさがしようもありません。奈良国立博物館では、東大寺西大門額の四天王立像ですが、これは、よくわかりません。

Photo_3Photo_4 大津市歴史博物館の『石山寺と湖南の仏像』展では、目玉というべき、石山寺の大日如来坐像を見ることができました。快慶初期の作品としては典型的なものでしょう。同じ、展覧会に円福院の釈迦如来坐像がありました。カタログによると、“アン”の銘はあるものの後筆で、快慶ではないとしていますが、作風はあきらかに快慶風です。簡単に、時代が下がるとはいえないような気がしました。正寿院の不動明王坐像もありました。

この展覧会は、100件近くの仏像が展示されており、塑像・塼仏から、乾漆像、また、飛鳥時代の金銅仏から中国・朝鮮の仏像まで、日本でも奈良時代の蔵王権現像の心木から、鎌倉江戸時代まで、像容では、裸形阿弥陀、善光寺式、神像、懸仏などありとあらゆる仏像のオンパレードでした。おもに滋賀県内及びその周辺から集めた仏像なのに、これだけバリエーションに富んでいるのは、いかに仏像が残っているかということなのでしょう。とくに、いわゆる平安中期の仏像がこんなにも見られたのは収穫でした。もっと、時代の性格なり作風を調べるサンプルが増えると、平安中期という時代がなんとなくわかってくるのかな、とおもいます。

Photo_5 もうひとつ、快慶作で、新大仏寺の盧舎那仏坐像を見てきました。これは、修理後に京都国立博物館でしばらく展示していたのですが、今はお寺にもどってきています。収蔵庫の1階には、石造の台座が置かれ、2階に盧舎那仏が安置されていました。快慶作は頭部のみですが、金箔が貼られて、彩色がほどこされてしまったために、修理前のような快慶らしさがなくなってしまったような気がします。ちょっと快慶と想像がつかなくなりました。このお寺の住職には、どうぞ写真を撮ってください。といっていただきました。ありがたいことです。

さらに、もうひとつ、いつも自宅の便所で見ているのは、去年の「奈良大和路」のポスターの仏像である、安倍文殊院の文殊菩薩像です。これは、毎日見ていても、快慶らしさが薄いのです。いつもウーンとうなっています。

| | コメント (0)

2008年7月 9日 (水)

仏像の名称

『日本彫刻史基礎資料集成』の仏像の記述の項目はまず、銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考の順に記述してあります。田邊三郎助氏はさきの論文で、それぞれの項目についての記述方法を詳細に論じでいますが、これが、いはば標準的な仏像の記述方法であろうと思います。ここでは、まず仏像の名称について考えてみたいと思います。田邊氏は“どんなものでも、そのものをもっとも簡明な形で記述したものが名称である”と仮定すると、『基礎資料集成』はたとえば、文化財指定名称として記述される“木造薬師如来坐像”ではなく、単に”薬師如来像”と記述するのはよいのだろう。としています。つまり、『基礎資料集成』では、木造の部分は品質の項目で、坐像の部分は形状で記述されるものだから、必要ないという、いはば合理的な解釈によるものと思われ、仏像の名称の最少単位は種類である。と言っています。

さて、私は今、データベースソフトを使って、仏像のデータの入力を行っていますが、基本的には、『基礎資料集成』の項目の建て方に則って設定をしていますが、まず問題となったのは、仏像の名称をどう記述するか、でした。『基礎資料集成』のように最少の種類だけの記述でいいのか、あるいは"指定名称”で記述するのかということでした。

コンピュータの画面上で、表形式で最少の種類だけの記述でデータを並べてみると、実にわかりづらい違和感をおぼえるのです。それは、データベースでは、そのデータを抽出するか、並べ替えの操作がこれから行われることなのです。その時、仏像の種類だけの羅列しか画面に出ないとすると、それからの想像力がでてこないのです。

たとえば、『基礎資料集成』では「阿弥陀如来及両脇侍像」と記述されたものが、『指定名称』方式では、「木造阿弥陀如来立像及両脇侍立像」となります。『基礎資料集成』方式では、阿弥陀のさまざまなバリエーションのどれかを想像することが不可能なのです。これはもしかしたら、善光寺式かもしれないし、来迎形の阿弥陀かもしれない。石造かもしれない。つまり、データベースでは、さらに抽出の作業のための言葉を考えなければならないのです。また、抽出の回数がそれだけ増えることになります。

仏像の名称とは、種類という最小限の単位で表現すればいいというのは、いわゆる電子化する場合には無駄な作業を強いることになり、逆に不合理な場合があるということなのです。『指定名称』方式で、材質+種類+形状という記述方法の方が、その名称を見たとき、想像力が生まれるのです。つまり、「銅造阿弥陀如来立像及両脇侍立像」と書かれていれば、善光寺式かと想像できるのです。また、抽出の回数も減ることになり、抽出方法もわかりやすくなります。

Photo_2 データーベースは、細かく項目を設定するのが、本来の機能を発揮させる方法であるかのように書かれているのが多いですが、文字データの処理の場合は必ずしもそれが合理的とはおもわれないところがあります。紙に書かれていたデータとできるだけ乖離しないやり方のほうが、違和感なく作業ができるというのが、私の基本的な考えです。

さて、仏像の名称は一般的には、その所有者(お寺が多い)の使っている名称で記述されます。たとえば、孝恩寺阿弥陀如来坐像(伝弥勒菩薩坐像)と記述します。これは、その形状から、明らかに阿弥陀如来なのですが、寺伝で弥勒菩薩といっているので、このように記述するのです。“伝”という実にいい言葉によってうまい表現ができます。

Photo ところが、『指定名称』で「木造多臂観世音菩薩立像」というのがあります。これは、高槻市の廣智寺にある仏像で、はじめは六臂の十一面観音立像だったのが、解体修理によって、八臂の観世音菩薩立像であることが判明したために、このような名称になったと書いてあります。しかし、八臂観音菩薩像というのは、ちょっとおかしな表現で、むしろその形状からは不空羂索観音像であろうとおもいます。お寺では、そのように名称を変更しているようですが、大阪府指定では、「多臂観世音菩薩立像」なんて、今まで聞いたことのない名称になってしまいました。確かにこの場合、“伝”が使えないのです。いはばカッコで逃げられなくなってしまったのです。どうしたらいいのでしょう。

| | コメント (0)

2008年7月 6日 (日)

仏像の記述

最近、読んだ雑誌の論文に、山本勉「仏像の調査ー目黒・海福寺の阿弥陀如来立像を例にして」『清泉文苑』23号 平成18年3月刊 があります。ある仏像を調査したときのいはば、ドキュメンタリーとして、その経過が書かれています。調査に至った経緯、実際にお寺で、どのような調査方法で、どういう調査をしたか、その後、その調査ノートをどのように整理しているか、といったことを、ひとつひとつ細かく記述してあります。

相当むかしの学生時代に、同じように調査をした経験が思い出されました。あの頃は、何もわからず、いきなりノートを取らされたり、ゆっくり観察するひまもなく、ただ写真を撮ることに精一杯だったような記憶があります。調査の段取りがこのような経験談の形でも、事前にわかっていたなら、もっと充実した調査ができていたかもしれません。その意味では、調査を行うマニュアルがあってもいいのかな、とおもいます。すべてが、マニュアル通りでは、実際の調査に役にはたたないのは、わかりきっていますが、少なくとも、調査時に冷静な判断ができる体勢ができているのとないのでは、その、充実度が違います。

Photo 仏像の調査は、『日本彫刻史基礎資料集成』の記述方法が、今や、標準になっています。これについては、田邊三郎助「仏像の記述」『講座日本美術史』1 平成17年4月刊 に詳細にわたって書かれているので、それに譲りますが、いわゆる各地で行われている調査報告書には、大体これに添った記述が行われているようです。

しかし、その大体がじつはクセモノなのです。というのは、くしくも同じ『講座日本美術史』1に塚原晃「美術史研究者のデジタル・ソリューション」という論文があります。これは、美術作品のデータベース構築についての問題点を洗い出した論文です。これは絵画についてですが、彫刻作品についても、同様の問題をかかえています。わたしの経験からいえば、調査の時に、何を記述するのか、記述用語の標準化をどうしたらできるのかが、これからの課題なのです。

というのも、調査報告書の電子化、いわゆるデータベース化するには、記述方法の標準化が必要なのです。ひとつの形態を表現するのに、複数とおりある記述方法では、電子化に支障がでるのです。

これからは、電子化を念頭にいれた調査方法、調査技術を確立しないと、あとで、禍根を残すことになります。

今、ステンドグラスのことで、頭がいっぱいなのです。まだ、見たいステンドガラスがいっぱいあります。といって、来週行く、関西旅行のスケジュールも奈良博と大津博以外まだ決まっていないし、このブログもカウンターがどんどん加速していくし・・・・・・・・

ああ!!ブログの重圧でパニックになりそう!!

| | コメント (0)

2008年7月 3日 (木)

宮内法橋

Photo 宮内法橋とは、江戸時代、大坂で三代にわたって、仏像を製作してきた仏師です。兵庫県立歴史博物館の神戸佳文氏が平成6年からずっと追ってきた仏師です。

この論文「大坂仏師「宮内法橋」ーその作例と銘文ー」は、いはばその集大成というもののようです。この論文では、推定作例を含めて250例近く確認され、修理も含めると慶安3年(1650)から宝暦10年(1760)までのおよそ110年間にわたる活動をその銘文から解明しています。また。宮内法橋に特有な作風も論じています。このように、仏師集団がこれだけの作例と銘文を残しているのは、他に類例がないと思います。その意味で、これだけの資料を集めた業績はすばらしいものだとおもいます。これには、各地方自治体が悉皆調査を実施したことによる成果です。これから、他で悉皆調査がおこなわれれば、さらにその作例は増えることになるでしょう。

宮内法橋は大坂を本拠にしていましたが、その活動範囲は東は大和・紀伊、西ははおもに瀬戸内海沿岸にまでおよんでいます。このように、江戸時代になると、活動範囲はかなり広範囲に及んできますので、一地域の調査だけではなく、これからは、悉皆調査のもれをなくす努力が必要になるのでしょう。神戸氏も最後に書いておられますが、宮内法橋の出自が確定されていないこと、他の仏師に与えた影響など、課題はまだまだあるようです。

| | コメント (0)

2008年6月24日 (火)

江戸時代の彫刻

Photo 『日本の美術』506号 江戸時代の彫刻 がでました。江戸時代の彫刻といったら、今までは誰も見向きもしませんでした。美術史でいう仏像はは鎌倉で終わったというのが、一般的な常識だったようです。しかし、近年、鎌倉以降の仏像についての論考が数多くでるようになりました。今までは、いはば食わず嫌いで、ちゃんとした研究をしてこなかったのだろうとおもいます。実際、江戸時代の彫刻史は、昭和16年刊の『日本美術大系』第二巻 彫刻で、小林剛が執筆しているのが、唯一大系的に書かれたものでしょう。戦後では、『文化財講座 日本の美術』で田辺三郎助が書いたものくらいでしょう。

これらの論考でも、いはば七条仏師を中心とした中央仏師が主に書かれていて、その他には、宝山湛海、円空、木喰、范道生ぐらいが取り上げられている位でした。しかし、最近の研究では、各地で、その地方の仏師集団の存在が確認されてきました。福岡では、佐田仏師、大阪では、宮内法橋、本願寺では、渡辺康雲、清水隆慶、京仏師、鎌倉仏師、栃木県では、高田一門、などなどです。これは、各地で仏像の悉皆調査がおこなわれた成果のたまものなのです。しかも例えば、康雲銘の仏像は、本願寺の意向により、全国にちらばって発見されており、江戸時代は一地方で、完結できなくなっているほど、文化交流が進んでいるのです。ですから、全国規模での調査結果を踏まえた論考が必要になってきました。それぞれの仏師集団の系統も、全国規模での研究が必要となるでしょう。そのためには、各地の悉皆調査を、もれのないようにしなければいけません。まだまだ、未調査地域が残っているので、調査が必要です。いまだ未調査の各自治体は、彫刻専門家による悉皆調査を実行されることを期待します。

| | コメント (0)

2008年6月21日 (土)

運慶

水野敬三郎氏によると、平成19年はまさに、運慶の当り年だったそうです。

Photo まず、『佛教芸術』291号(平成19年3月刊)で、横内裕人「『類聚世要抄』に見える鎌倉期興福寺再建ー運慶・陳和卿の新史料ー」で、興福寺旧西金堂本尊釈迦如来像頭部を運慶作とする記録が紹介され、そして、光明院の大威徳明王坐像が、平成19年4月に金沢文庫の特別展「金沢文庫の仏像」で公開されました。最後は、例の競売にかけられた、旧樺崎寺大日如来坐像です。3体の運慶作品がそろったことにより、運慶の事蹟研究がますます、発展することになるのだろうと思います。そういう意味で、今年は運慶の論考が多数でてくるものとおもわれ、そのひとつが、この『金沢文庫研究』320号です。彫刻史研究会のシンポジウムが掲載されていて、第一線の彫刻史研究者がそろったところでのシンポジウムなので、内容は非常に高度であるが、運慶の人物像がまだ確定するまではいかないようで、不明な部分が多く、まだまだ運慶研究は第一歩といった印象でした。また、7月には美術史学会東支部例会でも、運慶の特集を組んでいるようです。

Photo_2 3体のうち、興福寺旧西金堂の仏頭は興福寺宝物館で見られるし、真如院蔵大日如来は、今、東博で、また公開しています。大威徳明王だけが、今見られないですが、3体の比較をしてみるのもいいだろうと思います。しかし、見た印象は3体とも随分と違う感じに見えるので、運慶という人物をさらにわかりにくくしているのだろうと思います。ちょっと見た目だけの判断は危険な気もします。

Photo_3

| | コメント (2)

2008年5月27日 (火)

法隆寺上御堂釈迦三尊像

Photo_2Photo_4

 

 

 ついに、この仏像について語らなければならなくなった。この仏像についての論考はいくつかあるが、いまだに、根拠のない漠然とした語られ方をしているのを見ると、非常に心苦しく思うのである。
実は、私は昭和50年、早稲田大学大学院文学研究科美術史専攻修士過程を終了している。そのときの修士論文は『十世紀彫刻の一考察ー法隆寺上堂釈迦三尊像についてー』であった。
この論文は、まだ論証として不完全なところがあり、私自身、自信がもてるものではなかったため、この論文は活字にならなかった。いや、もっと完全なものとして書き直そうと思いながら、30数年経ってしまったと言うべきであろう。
本来ならば、論文をまた書き直して世に問うのが筋なのであろうが、それには、あまりにも時間を要することになるので、私の論文の要旨をとりあえず述べることによって、この仏像の解明に資することがあればと思って、あえて恥をさらすこととした。

論文要旨

講堂の歴史
・法隆寺講堂は発掘調査により、現位置に平安時代に創建している。(『発掘調査報告書』)
・延長三年(925) 講堂及び回廊の北側を焼失している。(『別当記』『目録抄裏書』『法頭略記』)
・正暦元年(990) 講堂を再建。薬師三尊の造立はその頃。(『別当記』)

上御堂の歴史
・『古今目録抄』に講堂が焼失した後、観理僧都が延長年中に普明寺堂を移建したとあるのは、上御堂のことである。
・『法隆寺政所並法頭略記』観理僧都の項で、「大講堂再建立了」とあるのは、上御堂のことである。
・『目録抄』に、「北に引去けて造立した。」とあるのは、現講堂の位置から北の位置(現上御堂)に造立したと解釈するべき。
・上御堂は、仮の講堂として、普明寺堂を移建した。その時、釈迦三尊が造立された可能性が高い。
・永祚元年(989) 大風によって顛倒した。そのとき、釈迦三尊は再建なった講堂に移座した。(『別当記』『目録抄』『法頭略記』)
・文保二年(1318) 上棟。文保四年(1324) 本尊を講堂から移座。(『嘉元記』『別当記』)

平安時代の法隆寺別当
・『別当記』『法頭略記』によると、最初の法隆寺別当は観理僧都とおもわれる。
・別当の仕事として、伽藍荘厳の能治廉節がもとめられている。(『太政官符』)
・観理僧都は、聖宝の孫弟子にあたり、法相・三論を学び、その後、醍醐寺座主、東大寺別当になっている。
・聖宝は、東大寺に東南院を起こしたが、その法流は、造寺造仏を盛んにおこなっている。
・普明寺は京都深草にあり、聖宝創建の寺である。

平安時代の法隆寺の行事
・「安居講」は法隆寺と四天王寺で平安時代に行われていた。(『三代格』)
・平安時代に他の寺院では、安居講は金堂または講堂でおこなわれていた。(『東大寺要録』『東宝記』)
・「吉祥悔過」は法隆寺では講堂で行われていたが、承暦三年(1079)より金堂で行うこととした。(『金堂日記』)
・金堂は別当の遷替以外は開かれなかった。(『金堂日記』)
・上御堂では、「当行」という行事がおこなわれていた。東大寺三月堂でもおこなわれていた行事で、聖宝ゆかりの行事らしい。
・以上のように延長三年講堂焼失以後、法隆寺西院では、重要な行事を行う建物を必要とする状態であった。

結論
・上御堂は、延長三年講堂焼失後、仮の講堂として普明寺堂を移建した。
・釈迦三尊像を延長年中(925~930)に造立した。
・製作は、聖宝を始めとする東南院系の仏師集団工房によるものとおもわれる。

この論文は太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」『佛教藝術』84 昭和47年3月10日発行 によることが多い。この論文では、結論として上御堂は聖宝による移建とした。しかし、この論文は史料批判、論証に難があり、その後、単行本にまとめたとき(『社寺建築の研究』日本建築史論集Ⅱ 昭和61年9月18日刊)の付記では、自説の矛盾に気づき、聖宝説を撤回して、観理説に変更している。

太田論文は釈迦三尊像についての直接的な論考はない。私の論文も、後半は彫刻の様式論をのべてはいるが、今回はその部分は除外した。とりあえず、昔の論文原稿を引っ張りだして読んでみたものの、どうしたらいいのかわからなかった。しかし、簡単な解説としてでも、法隆寺上御堂の釈迦三尊について書かれているものを見ると、いまだに10世紀後半頃といってすまされてしまうと、何ともやりきれない感情が湧くのである。いやしくもこの釈迦三尊像は『国宝』の指定を受けている仏像なのある。もっと、注目されてもいいのではないかというのが、せめてもの私の願いである。

| | コメント (1)

2008年5月25日 (日)

目のない仏像

Photo  芸術新潮の1991年1月号【美術史の革命】出現!謎の仏像 という雑誌を読んで、衝撃が走りました。目を彫っていない仏像がある。しかも未完成像ではなく、あきらかに完成像なのに。

こんなことは、彫刻史を研究している者ならば、考えられないことでした。仏像は開眼供養という儀式を経て、仏像となるものという固定観念があって、目を彫っていなければ、その仏像は未完成とするべきで、まだ、仏心が注入されていないただの木彫品である。というのが、従来の見解でした。従って、そういう仏像はなんらかの条件で、つまり未完成という伝承が途切れて、崇拝されることに至った。と暗黙のうちに了解していたような気がします。

井上正氏は、それまでの論文で、「霊木化現」という概念をもちだして、従来、平安前期といわれていた仏像を、行基伝説とからめて、時代を古くしようとしていました。しかし、この論は、確実な史料があるわけではなく、伝承をより重視したことによって、論じられており、今ひとつ説得力に欠けるところがありました。

ところが、この目のない仏像の出現です。井上正氏が、化現がまさに始まろうといている姿を現しているものだ、といっていることに実に説得力を与えているようにおもえます。さらに、化現のはじまったばかりの目の表現をしている仏像もあるというのです。

井上正氏が、『日本美術工芸』の連載で、「霊木化現」を唱えだしたころは、単なる仮説としてのおもしろさだったのが、現実味を帯びてくるようでした。

そんなこんなで、目のない仏像が気になって、ずっとそういう仏像を気にかけて見ていたところ、先日の京都、大将軍八神社で、数体の神像を見ることになりました。

私が現場で見たところ、3体ほど、ありましたが、そのどれも、ノミ跡がある神像で、見ようによっては、未完成像と見ることもできます。あとで、『大将軍神像と社史』という本に調査報告があり、写真が載っていましたので、見てみると、武装神で6体、衣冠束帯像で2体、あるようです。この神像について、田中恵氏が論文に書いていますが、目を彫っていないことについての論考がありません、調査概要も表形式になっていますが、目についての項目がありません。

目を彫っていない仏像は、まだまだ例がでてくるとおもいます。というよりも、調査では、そのことにあまり注目していないのかな、と思います。しかし、大将軍八神社の神像のように、眼球を丸く彫りだしていながら、目のまわりの線を彫っていないのは、あきらかに目について彫りを完成させていないと見るべきでしょう。それが一体どういう思想によってそうしたのか、それを、未完成像としたとしても、未完成像が何故、信仰の対象となるのかの、説明をつけなければならないでしょう。

| | コメント (0)

2008年4月 6日 (日)

薬師寺月光菩薩(承前)

  • Photo あまりネタバラシはしたくないのですが、夢翔庵さんのご要望に応えて、お見せいたします。松山鉄夫著『日本古代金銅仏の研究』の写真を掲載します。ちなみに、写真の掲載許可をとっていないので、クレームがあり次第消去します。

この穴は笄がわりに鋳造時に骨としていれた鉄心の痕跡です。一般には、鋳造後に抜くものなのでしょうが、中子土が堅く焼きしまっていたために、そのまま残したようです。当初は、おそらく蓋をしていたのでしょう。

聖観音像の頭部も、穴はありませんが、型持の跡があります。おそらく鉄心が残っているものとおもわれます。

この鉄心は、頭部を切り離すときに切断したと言いましたが、それを、修理時に取り外し、中子土も除去したので、ボルト固定ができたのです。

西村秀雄氏論文によると、接着は順調にいったようで、破断面のひずみもなくもとのように復元できたようです。西村氏は、もし首が前かがみになったら、批判をうけるだろうと言っています。接着剤とボルト固定のむずかしさを考慮しての言動だろうとおもいます。

Photo_2 ついでに、この仏像はどのくらいの重量があると思いますか。

日光菩薩像 2.3屯

同台座 0.995屯

月光菩薩像 1.96屯

同台座 0.865屯

だそうです。

これは、昭和31年に薬師三尊像の修理時に移動したとき計測したらしい。日光菩薩像の方が重いのは、中子土を除去していない分なのかは、わかりません。

| | コメント (2)

2008年4月 4日 (金)

薬師寺月光菩薩

Photo_9 薬師寺月光菩薩像首切り事件というのがあったのをご存知でしたか。昭和27年7月奈良県吉野地方で地震があり、その時、月光菩薩の首に亀裂がはいり、文化財保護委員会で修理をすることになったのですが、応急処置として、首を切り離してしまったのです。それを芸大の丸山不忘教授が首を切り離さなくても修理はできるではないか、とかみついたことが発端のようです。とくに、専門委員にも相談せずに独断で切り離したことに非難が集中したようです。(『史跡と美術』233) 実際、中の鉄芯は破断していなかったのに、それを切断してまで、切り離したのが問題となったのでした。Photo_10結局、、切断面は 樹脂(アラルダイト)で接着し、胴体のほうに、ボルトつきのステンレスプレートを差し込み、首と胴体をつなげて、頭頂の穴からボルトを締めて固定しました。(西村秀雄「薬師寺月光菩薩の修理について」『美術史』13)

今、写真を見ると、月光菩薩の首の部分に切断のあとが解ります。今度、現物を見て確認しようとおもいます。

このときの調査で、判ったことは、ちょうど首の部分は鋳造の時に失敗し、修理で、鋳掛けをしたのが、完全に接着していなかったと考えられるようです。

これだけの鋳造物が、なんのトラブルもなく製作できることのほうが、あり得ないことなのでしょうが、それよりも、びっくりしたのは、頭の上に穴があいているなんて、知らなかった。もっとも、新薬師寺の本尊でも、頭の上に穴があいていたし、普段見えないところだからあっても当然か。

| | コメント (2)

2008年3月20日 (木)

清水寺式千手観音

清水寺式千手観音を御存知でしょうか。その1体、おそらく彫像では一番古いと思われる仏像が、今回の東北旅行で、拝観できました。中尊寺観音院の千手観音立像です。中尊寺讃衡蔵に安置されていました。

Photo_2 清水寺式は仏手を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる形式をいいます。私の調べでは日本全国で、20数例、絵画で数例が確認されています。しかし、その形式から、後補で、取り付けた可能性が非常に高い仏像でもあるので、注意が必要です。観音院の仏像をよく見ると、頭上の仏手の付根は、胴体の肩から彫られた部分から矧ぎ会わせてあるように見えます。つまり頭上の仏手は当初と考えてもいいのかもしれません。

清水寺式で、制作年代が確定できるものがあります。それは、三十三間堂の創立当初の千手観音像の胎内に納入されていた、千手観音二十八部衆像の版画です。三十三間堂は長寛2年(1164)に創建されていますから、これが嚆矢かもしれません。その後の鎌倉再建時の千手観音の納入品の版画は、普通の千手観音二十八部衆像で、清水寺式になっていません。

この清水寺式千手観音はまだよくわかっていないところが沢山あります。そもそも、京都清水寺の秘仏本尊は、この形式なのでしょうか。この形式の根拠はどこにあるのでしょうか。日本全国にこの形式の仏像が存在するのは清水信仰ということなのでしょうか。

Photo_3 ちなみに、『春秋堂文庫』の表紙の左上の写真は、福島県小高町にある泉沢石窟の観音窟の千手観音坐像の磨崖仏です。時代は平安に入るとおもわれ、かなり古い部類にはいります。

これから、各地の清水寺式千手観音の来歴を調査することによって、その造像思想も解明できるかもしれません。しかし、まだまだ、調査によって発見される可能性のある仏像です。

| | コメント (2)