寺院

2017年10月17日 (火)

小浜散策

 朝一番で東京を出てきたのに、東小浜駅に着いたのはお昼近くでした。さっそく福井県立若狭歴史博物館へ。『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』展を見学。平安末期~室町時代の仏像を展示していました。

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たしかに、今まであまり知られていない仏像が多く出品されていましたが、特別展の仏像よりも常設展で展示されている、複製の仏像に注目しました。そのひとつが、長慶院聖観音坐像です。

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上から、膝部分を見ると、明らかに”半跏趺坐”です。さらに、常禅寺不動明王坐像のレプリカもありました。

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どう見ても”半跏趺坐”です。常禅寺像は、『基礎資料集成』では、”結跏趺坐”と書いています。明らかに間違いです。

東小浜駅で、電動アシスト自転車を借り、羽賀寺に向かいました。

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ひさしぶりに、十一面観音立像を見たくなったからです。いつ見ても、不思議な像です。

最近の電動自転車は実に快適です。羽賀寺から先の予定は決めていなかったのですが、この調子ならば、昔をおもいだして、妙楽寺へ行くことにしました。

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妙楽寺は、大学院のゼミ旅行でのレポートの題にした聖観音立像があります。

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この聖観音立像は、11世紀頃の作と判定しましたが、渦文が、今回数えただけでも18個ありました。この過剰なまでに装飾をした渦文を調べましたが、結局よくわからずレポートも中途半端な論文になってしまいました。先生には、詰めが足りないと指摘されました。

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その後、井上正氏が『日本美術工芸』550号 昭和59年7月1日でとりあげられました。井上氏は、渦文が現存だけでも19個、失われた天衣垂下部をいれれば20数個あると書いています。そしてこの表現は、”古密教彫像表現の一画をなす霊威性の特異な表現”と書いていますが、むしろ、この渦文という表現方法が、何を参考にして彫られたのかが疑問でした。確かに、渦文は、平安前期彫刻であることのひとつの表象ととらえられますが、いったい何時、誰がこの表現をはじめたのかが知りたかったのですが、残念ながら、それには答えてくれませんでした。頭の中はまだもやもやが晴れません。

 そして、近くの圓照寺で。ここは、胎蔵界大日如来坐像と庭園がみどころです。

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電動自転車は快調で、次は、山の向こうにある若狭彦神社へ、トンネルを突き進みます。

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すぐ近くには、萬徳寺、ここは、阿弥陀如来坐像と庭園があります。

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ここまで来ると、さすがに自転車をこぐ筋肉と歩く筋肉の違いで、足に筋肉痛がはしり、今日の寺巡りはおしまい。

翌日、小浜西組の重要伝統的建造物群保存地区と、特別公開の寺院を巡りました。

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たしかに、小浜西組の町並みは、よく保存されていました。しかし、何か特徴がありません。小浜という町は、城下町なのですが、むしろ若狭街道と、北前船の寄港地として発展した町のようです。しかし、大きな屋敷があるわけでもなく、特徴のない町並みに感じられました。

その小浜西組の外れにある高成寺から。

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本尊の千手観音立像は、平安前期の像として、注目をあびましたが、9世紀かな?というところですか。

正法寺は、銅造如意輪観音半跏像があります。想像以上に大きな仏像でした。

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栖雲寺は、永万元年(1165)銘のある阿弥陀如来坐像を拝観しました。この像も想像するより小さな像でした。写真撮影OKなので、撮らせていただきました。

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といったところで、小浜の仏像探訪は、これでお開きとしました。

2016年10月18日 (火)

福井県・高岡・富山の旅(2日目)

15日

朝、福井から、電車で金沢をスルーして、高岡へ。氷見線に乗り換え、伏木駅で下車。
徒歩10分で、小高い丘の上に、望楼を備えた伏木北前船資料館はありました。

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この旧秋元家住宅は、明治20年の大火後に建てた建物で、小矢部川河口を見渡せる高台に位置しています。
中庭に面した廊下に、引き分け戸があり、そこに青と赤の色ガラスが嵌まっていました。

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と、その反対側に便所と台所のある建物があり、便所の突き当たりの片引き戸のガラスがいやに濃い色をしているのに気づきました。よく見ると、その戸に青色のガラスが嵌まっていました。

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このガラスは管理人も知らなかったようで、ビックリのようでした。

この伏木には、勝興寺というおおきなお寺があります。

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この唐門は、明和6年(1769)年建立で、京都・興正寺にあったものを、明治時代に移築したのだそうです。移築にあたって北前船の船主たちが大金をだしたとか。

伏木駅にもどると、電車の時間がまだ40分ほどあるので、駅舎の中にある観光案内所にはいると、案内人らしき初老の人が話かけてきました。伏木北前船資料館で色ガラスを見てきたというと、板ガラスの話で盛りあがり、よくよく聞いてみると、富山は、サッシメーカーの工場が数多くあり、それに関連した仕事に従事していた人のようでした。

高岡駅にもどって、徒歩で瑞龍寺へ。

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右の大庫裏は屋根の工事中で、足場がかかっていましたが、この景観が本来の寺院の伽藍というものでしょう。

東司にあった、烏枢沙摩明王像が法堂の中にまつってありました。

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上のは、コピー。

バスで金屋町の近くでおり、古い鋳物の町並みを歩いて行くと、高岡市鋳物資料館がありました。中には、鋳物の製作工程、道具などが展示してありました。

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これは、銅造仏像の製作途中の状態。

川をわたると、山町筋という町並みがあります。高岡御車山という祭りの山車が展示してある高岡御車山会館という展示施設がありました。中にはいると、10mはあるガラスケースの中にその山車がありました。どうやって、この10mもある板ガラスを施工したのだろうと、商売っけを出したりして。

町並みの中にある、菅野家住宅、旧室崎家住宅を見学。

バスに乗っていて気になった、高岡大仏を間近に拝観。

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現仏像は、明治40年建造に着手。昭和8年5月3日に開眼をした銅造の阿弥陀如来像です。原形は、東京美術学校出身の中野双山によるものだそうです。像高743cm

電車で高岡から富山に着き、夕食は、白エビ天丼に、白エビの刺身で満足。

2011年9月29日 (木)

増上寺三門公開

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 先日、増上寺の三門の公開に行ってきました。これは、3月に行う予定が、大震災のために延期され、やっとのことで半年おくれの公開です。

急な階段も、登りやすくするために、この公開のために手すりをつけたり、安全な設備が施されていました。

 

 

 

 

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上にあがると、正面には釈迦如来三尊像、その両脇には十六羅漢像。そして、羅漢像の前には、増上寺歴代上人像のひとまわり小さい像がならんでいます。

釈迦三尊像は漆箔ですが、十六羅漢、祖師像は彩色像で、江戸時代の劣悪は彩色が剥落していて、かなり破損が進んでいました。

さて、この釈迦三尊像と十六羅漢像は、淺湫毅氏の調査報告(「増上寺三解脱門の釈迦三尊像および十六羅漢像についてー近世彫刻の諸相 1ー『学叢』30 平成20年5月19日)があり、それによると、両脇侍像の像内頭部前面(玉眼押さえ材)に“大仏師 宗印”等の墨書銘があり、下御門仏師の宗印一門の作と判明しました。

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論文の結論は、製作年代は天正末年から慶長前半あたりで、長門の泰然寺に安置されていたが、元和10年(1624)に土佐徳悦が彩色をし直して、増上寺に移座したものとしています。

論文によると。長門の泰然寺は不明の寺院で、特定はされていないようです。

たしかに、いわゆる江戸の彫刻にしては、かなりできの良い仏像に見えました。一般的な江戸期の仏像のように、技法にのみ走る精気のなさはありません。それなりの仏師の作と見受けられました。

 

 

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さて、もう一ヶ所、特別公開している徳川将軍家霊廟を見てきました。増上寺には御霊屋と称する将軍6人、5人の正室および5人の側室等の墓所があり、それぞれに本殿・拝殿が建てられていましたが、空襲によりほとんどが焼失してしまいました。

現在墓所は、1ヶ所にまとめられて、今回の公開となりました。

今は、宝塔が8基きれいにならんでいますが、往時の豪華絢爛さは偲ぶべきもありませんでした。

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2011年3月29日 (火)

伝法院庭園

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 浅草で用をすました後、観音さまにちょっとお参りでも、とおもって本堂を見ると、改修工事が終わって、外観が実にきれいになっていました。切妻部分の装飾も極彩色に塗られ、華やかさがでていました。

 

 

 

 

 

 

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と、五重塔のそばの建物が宝物館になっていて、絵馬の展覧会をやっていました。

絵馬はあまり興味がありませんでしたが、“庭園拝観”が気になりました。

これはあの滅多に見られない伝法院の庭園の拝観のことかとおもいました。

絵馬はさすがに浅草寺だけあって、かなり大きい絵馬が奉納されていました。

その展示がおわると、庭園の入口にでます。

池泉回遊式の庭園で、よく手入れがされています。大書院の前の両脇にしだれ桜が2本ありました。

 

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今年は、満開の時期が1週間ほど遅れているようです。去年、今頃の六義園のしだれ桜は、もう散り始めていました。この伝法院のしだれ桜もあと一週間で満開となるでしょう。

ちょっと、早すぎたか。

 

 

 

 

 

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それにしても、すぐそばには、浅草公会堂の建物がせまっていたり、まわりに建物が密集しているところに、こんな場所があるなんていうのは、実に気分が爽快になりました。

 

 

 

 

 

 

伝法院庭園の一番のみどころスポットに、スカイツリーの風景が加わりました。これがこのロケーションを壊しているのか、いいアクセントになっているのか、判断の別れるところでしょうか。

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2009年7月15日 (水)

大仏開眼日

天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の式次第は、『東大寺要録』に次のように書かれています。

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つまり、3月21日に天皇は勅書を出して、4月8日に開眼供養会を開くように要請しているのです。そして、4月4日には、東大寺に到着しています。ところが、4月8日は留守官の3人の名前しか書かれていません。そして、儀式が始まったのは、9日です。

当初の予定は明らかに、仏生会の4月8日でした。それが、1日順延して9日になったのです。

吉村怜先生がこのことを言ったのは、その時「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9 昭和47年3月刊 を執筆中の時だったのでしょう。吉村論文の要旨は、大仏がまだ完成していないのに、天平勝宝4年(752)に開眼をすることにこだわったのは、仏教伝来200年に当たる年であることを意識したからだったという論考です。

この論文にちらっと、何故4月9日に開眼会が延びたのかの推測をしています。ここまで、ヒントをだせば想像がつきませんか。

Photo_2 東京芸術大学でおこなった、『東大寺大仏の研究』によると、一時期、論争になった、台座の鋳造が大仏より先か後かについての技術的な検討をしています。その検討の中で、台座を先に完成させてから、仏体の製作にかかると、足場を台座の外からかけなければならず(+の部分)、台座が後の方が仏体の部分に足場がかけやすく、技術的には合理的な手順と考えられる(・の部分)。傷つきやすい鋳物土の原型の上にこれだけの材木を組み立てるということは常識的にみても考えられない。としています。

つまり、開眼会のとき、眼に点晴するには、大仏の前に足場を組まなければならず、その場合は、台座が鋳造されていたとすると、足場材が林立するような状態になって、大仏がまるで見えなくなってしまう可能性があります。

現に、文治元年の開眼会では、堂の下にいる人は点晴の儀式は足場で見ることができなかったようです。

ところが、『東大寺要録』には、貞観3年の開眼供養会の式次第も書かれていて、それを何となく見ていると、

先是開眼師盛籠轆轤引上而開眼了。(是に先じて、開眼師、籠に盛り、轆轤にて引き上げ開眼しおわんぬ。)と書かれています。どうも、籠に乗って、それをロープで引き上げて、点晴をしたようです。そうすると、点晴のための足場はいらなくなります。

元禄の開眼会は、実際に点晴はしていないようです。

こうしてみると、東大寺大仏は巨大な仏像であるがために、開眼会も一般的なやり方ではなかったようです。もっと、普通の仏像の開眼会の儀式について調べる必要があるかもしれません。

2009年3月15日 (日)

法隆寺再建の謎

今見終わって正直いってがっかりしました。「NHKスペシャル 法隆寺金堂再建の謎」という番組です。最初に新たにおどろくべき発見があったということから話が始まります。金堂の天井板の年輪年代測定が668年と出たことが、新発見だといっています。つまり。670年の若草伽藍焼失以前だということが、新発見なのだそうです。しかも、釈迦三尊像と夢殿救世観音像は聖徳太子を写したものだという伝承から、若草伽藍焼失以前に今の場所に金堂が建てられたと言っています。しかもこの堂は聖徳太子をまつるための堂だったとしています。

堂内は正面に釈迦三尊、阿弥陀如来像が今あるところに救世観音像があったと、CGで見せています。玉虫厨子も金堂にあったと。

非常にあいまいに見せていますが、肝心なとことろはぼやかしです。

まず、それでは、薬師如来像のあったところには、何を安置していたの? CGでは今の薬師如来像らしきものが写っていましたが、どうなんですかね。

Photo この説はむかしの足立康の「釈迦堂一郭後身説」、さらには、鈴木嘉吉の最近の説(「法隆寺新再建論」『文化財論叢Ⅱ』1995年9月))にもとづいて立てられています。それをさらに進めて最初の堂は聖徳太子をまつるために等身の仏像を安置したというような印象をあたえようとした演出です。

そこまで踏み込んでいいの?というのが私の印象でした。それにいたるまでは、さまざまなストーリーが必要です。金堂釈迦三尊像はほんとうに623年建立でいいのか?それがそもそもどこにまつるためにつくられたのか?今の金堂が聖徳太子をまつる堂ならば、どうして三体まつる配置になっているのか?などなどさまざまな疑問に答えられなければなりません。

テレビとはいえちょっとおおげさすぎない? というのが私の印象でした。しかもNHKにしては、あまりにも論点がぼやけています。何を言いたいのかわからずじまいで終わってしまいました。疑問をのこして終わるのも演出でしょうが、なーんだ、で終わると何ものこりません。

2009年3月13日 (金)

秋山光和先生

 大学院の2年目、夏休みにはいった頃でしょうか、同期の秋山光文君から電話があり、平等院に調査があるので、京都にいっしょにいってくれないか、宿代はだすので、その後、彫刻の調査もあるので。という話でした。秋山君はそれ以上くわしいことは言わないので、どういう調査なのか、私は何をしたらいいのかもわからず、また平等院の後、どこへ行くのかさえわからず、「じゃあ行きます。」と二つ返事をしました。前日、彼の家に泊まり、朝早く、彼の車で出かけました。途中、当時東大の助手だった、田口氏をひろって、東名に乗りました。まず行ったところは、湖東の西明寺でした。三重塔の内部の壁画を見せていただきました。夕方、平等院近くの旅館に到着。Photo 翌日から、平等院の境内の観音堂に行きました。調査は観音堂の中で行われていました。中には鳳凰堂の扉があちこちの立てかけてありました。光和先生は、その中で、いろいろと段取りなどをしていました。立てかけた扉に顕微鏡を取り付けて、のぞいているオバサンがいました。ジーパンに大工がしている道具袋をさげ、顕微鏡をのぞきながら、秋山先生になにか、気がついたことを話しかけていました。光文君にあの人は誰?と聞くと、柳沢孝さんだよ、というのです。「柳沢孝」という名は論文でよく見かけましたが、女性だとは知りませんでした。「たかし」ではなく「たか」というんだよ。と光文君に教えていただきました。観音堂の外の、池のほとりに、中年の男性が、池の鯉にエサをやっていました。どうも、この調査の関係者らしかったので、光文君に聞くと、「高田修さんだよ。」と言うのです。高田修先生は、観音堂の中で、調査らしきことをするのでもなく、池の鯉にエサをやっていたという記憶しかありません。柳沢孝オバサンは、休憩時間になると、「加藤さん一服しましょうか」と私を誘って、境内で唯一灰皿のあるベンチに行って、いっしょにタバコをくゆらせていました。光和先生はというと、タバコも酒もやらない人で、昼食の後、宇治金時をたのんで食べていました。先生曰く、「宇治に来たらかならず宇治金時をもうこれが最後だと思って食べるのです。」と言うのです。私は学者とはそんな発想をするのかと、感嘆することしきりでした。
Photo_3  調査の手伝いといっても、これといった仕事があるわけではなく、先生がときおり指示されることをするだけなので、観音堂の中に置いてある、扉絵、鳳凰(本物)、観音堂本尊の十一面観音立像を眺めていました。光文君とX線撮影も経験させてもらいました。携帯用のX線発生装置を、扉の前に設置して、撮影個所の扉の裏に袋に入ったままの印画紙を固定して、電源をいれるのです。光文君は使い方を知っているのか適当に、このくらいの距離なら、30秒くらいか、といってタイマーをかけるのです。こんなんで、撮影できるのかと思いましたが、後で発行された、『平等院大観』には、その写真があるようです。これも、あとで、光文君に聞いた話ですが、X線は金属には反射するのだそうです。つまり、機械のうしろにいたからといって、X線をあびないとは限らないということなのです。安全対策もしないでよくやっていたとおもいます。今では考えられないことです。

 

 

 

 
Photo_2  2~3日して、水野敬三郎先生がやってきました。水野先生は、観音堂の十一面観音立像を調査しにきたのです。自らライテイングをしながら、写真を撮っていきました。つぎの日だったか、今度は西川新次先生がやってきました。観音堂の中においてある鳳凰をしきりに見つめていました。そばによっていっしょに見ていると、メジャーはありますか?と聞くのです。先生にメジャーをわたすと、鳳凰のおしりにあいている穴からメジャーを差し込んだのです。すると、メジャーの先があたり、何か土のようなものが穴から落ちてきました。あれ!といった感じだったでしょうか。これも私は、学者とはこんなこともするのか、とまたまた感心することしきりでした。その日は、日が落ちるまで、平等院にいました。夜暗くなったところで鳳凰堂の内部にライトをいれて、阿弥陀如来坐像を観察しました。西川先生は細部にライトをあてて細かく観察していました。私と光文君はこれは、正面から写真を撮る絶好のチャンスだということで、三脚を持って、鳳凰堂正面の池の前で写真を撮りました。
つぎの日、西川先生を車に乗せて、観心寺へ向かいました。『日本彫刻史基礎資料集成』の仕事で、観心寺の宝物館の仏像の調査のためでした。その日まで私は観心寺の調査のことは全然知りませんでした。
 あとで、考えてみると、光和先生は、息子の光文君に仕事を見せたいと思ったのと同時に、調査機材運びをさせるために呼び寄せたようです。ただ東京から京都まで、ひとりで車を走らせるには心配で、誰か、興味がありそうで、同行しそうな人間をさがして、私に白羽の矢が立ったのではと思います。そうであっても、私にしてみれば、一生に一度あるかないかの経験です。こんな経験をさせてもらった光和先生には感謝することしきりです。しかも、調査とはどういうことをするのか、実際に経験できたことは、大収穫です。平等院だけではなく、観心寺の調査は、水野・西川両先生の彫刻の調査の方法もじかに経験させてもらいました。
 それにしても、何の準備もなくこんな経験をさせるなんて。
 昨日、秋山光和先生の通夜に行ってきました。こんな経験をさせていただいたお礼をいいたくて、その日以来お会いしていないのですが、参列させていただきました。

2008年11月22日 (土)

称名寺庭園

Photo 金沢文庫へ行ってきました。いつものように山門をはいると、桜並木の葉が半分ほど紅葉していました。正面の橋が架け替え中で、橋の朱が景色に映えるということがありませんでした。周囲の山の紅葉もいま一息というところでした。

金沢文庫の展覧会『釈迦追慕』は、仏像の数はすくないですが、未見の仏像がありました。岐阜の即心院の清凉寺式釈迦如来立像です。これは『佛教藝術』260で清水眞澄氏が論じている仏像ですが、全身金泥塗りで、着衣には截金で文様が精緻に描かれています。清凉寺式といえば、その基本の清凉寺像は素木像です。その摸刻像なのに金泥塗りにしたのは、清水氏によるとこの仏像はもと正暦寺にあり、春日信仰による春日権現の本地仏としてつくられたためとしました。つまり、清凉寺式釈迦如来像は律宗系と春日権現の本地仏の二種類の系統があるということになります。

Photo_2 天気がよかったので、称名寺の裏山にのぼりました。称名寺の地形は三方山に囲まれたところにあります。このような地形は、いわき市の白水阿弥陀堂とそっくりです。三方山に囲まれた場所は、浄土庭園として格好の地形なのでしょう。いはば、娑婆と隔絶された異空間とおもわせる要素があるのでしょうか。

遠くには、八景島が見えます。この地域だけが木々が生い茂り、別世界に見えます。

2008年10月25日 (土)

『鎌倉大仏殿』再考

Photo 一昨日(23日)に夕食をたべながら、テレビをみていると、フジテレビ『日本人テスト』というクイズ番組で、「鎌倉の大仏殿はなぜないのか?」という設問がありました。答えは、「津波で流されたから」が正解でした。おまけに、専門家らしき人のコメントがあり、「鎌倉大仏殿は津波で流されました。」と断言したのです。せめて、「・・・と古文書にあります。」ぐらい言ってくれると思ったのに、このブログで書いたことと違うことを言われたのでは、反論せざるをえません。そこで、2点にしぼって考察してみようとおもいます。

  1. 果たして、明応7年(1498)8月25日の地震で、大仏殿まで津波が到達したのか?
  2. そもそも、明応7年時に、大仏殿はあったのか?

1の考察

もう一度、その根拠となった史料を掲載すると、『鎌倉大日記』の明応4年8月15日の条に、

八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とありますが、この書物は、前掲の山本氏の論文(『続古地震』)によると、「日記とは称しながら、年表の類であり、・・・ 『塔寺八幡長帳』に次いで古い時代の成立と考えられる。」としています。さらに、「『塔寺八幡宮長帳』は毎年、その年の主な事件が記録されているもので、下記史料も明応7年に書かれたものとして間違いない。」としています。しかし、「『塔寺八幡宮続長帳』は、宝暦年間以降まとめて書かれているもの。」と言っています。

『塔寺八幡宮長帳』

明応七年八月二十五日、己刻ニ大地震アリ、此年鼠乱候、

『塔寺八幡宮続長帳』

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 さて、山本氏はまず、「千度壇」について、考察しており、『鎌倉大日記』に言う、“津波が千度壇に到った”というのは、先述したように、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。山本氏は明応の津波の高さはこの下馬四ツ辻の標高を規準にすべきとしていますが、下馬四ツ辻の標高を書いていません。そこで、「電子国土ポータル」で見てみると、標高は10m以上ではないようです。

そこで、平成12~13年度にかけておこなわれた鎌倉大仏周辺の発掘調査によると、現在の地表面は海抜約14m、大仏鋳造時の基盤面は約11mとしています。ここで気をつけなければいけないことは、関東大震災の時、地震によって約1~1.5m隆起していることです。つまり、隆起分を差し引いても、海面から大仏までの標高は10m前後となります。『鎌倉大日記』のとおりとすれば、大仏まで、津波がやっと届いたくらいでしょう。

Photo_3 また、大仏殿のある地形的特徴から、津波が急に狭い場所を通過するとき、その水位があがることもかんがえられますが、もし、大仏殿があったとしたら、その建物は今建築中の平城宮大極殿に匹敵する大きさとなります。地震で破損したとしても、直径70㎝にもなる柱を流すには、さらに1m以上の水位がなければ材木が流れません。しかも、このような巨大な建物をながすには、さらに水位が高くなければ、水の勢いもうまれないでしょう。

結論として言えることは、津波が大仏まで届いた可能性はあるが、建物を流し去るほどの水位にはなかった。とするべきでしょう。

 

2の考察

室町時代の禅僧だった、万里集九の書いた『梅花無盡蔵』(『続群書類従』12下)によると、文明18年(1486)10月23日に江戸城をたって、鎌倉に旅行しています。そして、翌24日には、寿福寺、長谷観音、大仏、八幡宮へと廻っています。

二十有四日丙申昧早。(中略) 遂見長谷觀音之古道場。相去數百步。而兩山之間。逢銅大佛。々長七八丈。腹中空洞。應容數百人。背後有穴。脱鞋入腹。僉云。此中往々博奕者白晝呼五白之處也。無堂宇。而露坐突兀。

万里集九は、大仏殿がなく、大仏は露坐だったこと、しかも、背中の穴から大仏の中に入り込んで、白昼、バクチをしている者がいた。と言っています。それだけ、寺は荒廃していたようです。

つまり、明応7年からさかのぼること12年前には、大仏殿がなかったということになります。それならば、その間に津波で流されるほどの建物が建ったのでしょうか。その可能性はほとんどゼロに近い。と言わざるをえません。

Photo_4 大仏殿は発掘調査によると、間口約44m、奥行約42m ということが判明しました。平井聖氏によると、建物の高さは、4Omにもなるだろうとしています。他と比較すると、現在の江戸時代建立の東大寺大仏殿は、間口約57m、奥行約52m、高さ約47mです。現在建築中の平城宮大極殿は、間口約44m、奥行約19.5m、高さ約29mです。いはば、東大寺大仏殿と大極殿の中間くらいの大きさになります。

江戸時代の東大寺大仏殿の工期を調べてみると、1688年釿始め、1696年に大工始め から上棟が1705年、落慶供養が1709年と、江戸時代でさえ、10数年の歳月がかかっています。また、現在建築中の大極殿でさえ、2001年から始まり、2010年の完成まで、工期はおよそ10年を見ています。鎌倉大仏殿は、発掘調査から、瓦が出土しないことから、萱葺か柿葺だろうとされていますが、それにしても、これだけの建物が工期的に12年の間で建つはずがありません。

しかも、室町時代の鎌倉は、都が移ったことにより急速に寂れていき、その当時、八幡宮でさえ、破壊された建物が造営できない状態で、大仏殿の再建の財政的な支えがどこにあったのでしょう。

ちなみに、今の大極殿の建設費はおよそ200億円だそうな。その当時、その程度の金が簡単にだせるパトロンが居たとは思えませんし、勧進した僧の記録もありません。

山本氏は、『鎌倉大日記』に言う「大仏殿の堂舎屋を破る」とは、高徳院の他の庫裏とか山門などの付属施設のことだろうとしています。しかし、発掘調査報告書によると、大仏の前面の土地は湿地帯で、建物の痕跡はなく、背後の山に近いところに、僧坊らしき痕跡があるとのことです。これは、まだ広範囲に発掘調査をしてみないとわからないところですが、どうも、『鎌倉大日記』の信憑性はさらに疑ってみないといけません。

大仏を覆う建物は、明応7年時点ではなかった。したがって、津波で流されたはずがないというのが結論です。

2008年10月 8日 (水)

『鎌倉大仏殿』考

源護謨長さんから、鎌倉大仏の建物が津波によって流されたというコメントを読んで、エエ!と思いました。まず、海岸からおよそ800mはなれている場所まで、津波がおそってきたのだろうか。おまけに、大仏のある場所は、鎌倉地方独特の谷戸の中にあり、標高も十数mはあるはずです。現に今でも歩くと長谷からゆるい坂道をのぼって高徳院にたどりつきます。

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まず、その史料をさがしてみると、『鎌倉大日記』(昭和12年頼朝会刊)の明応4年の条に

 八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。

とあるのが根拠になっているようです。しかし、山本武夫氏は『続古地震ー実像と虚像』の第Ⅱ部 各論/第13章『古地震』補説/二 明応七年(一四九八)の海洋地震ー伊豆以東における諸状況(P343~P356)のなかで、この『鎌倉大日記』の記載文について詳細な検討をしています。

明応4年8月15日は、他の史料から、明応7年(1498)8月25日であり、『鎌倉大日記』の日付は誤記であるとされています。一番信頼される文書の『塔寺八幡宮続長帳』によると

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。

Photo_2 山本氏によると、津波の到達点は、若宮大路のJRが横切るちょっと海側の下馬四ツ辻付近だとしています。大仏殿まで、津波が届いたのかという問題については、考えにくいとしています。『日本被害津波総覧』によると、津波の高さは最大で8m以上としていますが、山本氏は大仏の殿舎が津波によって破壊されたというのには、疑問を差し挟んでいます。大仏殿はそれ以前の文明18年(1486)の時点ですでに建物はなく、露坐の状態であったことが『梅花無尽蔵』(『続群書類従』12下)に書かれており、その当時の寺の状況は無住で、荒れた状態のため、1498年までに建物が建てられる財政状況にはない、と推測しています。

ちなみに、関東大震災のとき、鎌倉を襲った津波は最大6m程度だったとされています。このとき、鎌倉大仏は基壇が破壊され、前面で一尺沈下、大仏は一尺以上前に辷り出し、僅かに西寄に向いたとされ、津波の被害はありませんでした。

つまり、大仏殿は、応安2年(1369)9月3日大風で転倒してから、建物は建てられず、大仏は露坐のまま現在にいたったということのようです。

Photo_3 さて、昭和36年の修理で、免震工事をしたと、書きましたが、その当時の免震工事はどのような方法だったのかが興味あるところです。もちろん、平城宮の大極殿のような今の最先端技術ではなく、その当時の免震技術がどのようなものだったかは、もうちょっと調べてからご報告します。とりあえず、昭和36年には、ジャッキで大仏を55cm揚げたそうです。そのとき測定した重量が122トンだったそうです。

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