工芸

2009年4月 3日 (金)

華原磬

阿修羅展には、仏像の他に法隆寺の橘夫人念持仏と厨子も展示されていました。何でとおもったら、八部衆像と十大弟子像は、光明皇后が母、橘三千代の一周忌供養のために造像したものという、理由で出品したようです。

Photo その他に華原磬が展示してありました。それに、最近発見されたと話題づくりになった、波羅門像がありました。この像は頭部を輪切りにして、その継面から天正五年(1577)源三郎の銘が発見されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『七大寺巡礼私記』によると、当時、西金堂の正面の壇の下にあって、金皷の傍らに波羅門像が撞木を執って金皷を打つ姿勢をしていた。 と書かれています。

また、この像容は、金光明最勝王経 巻第二 夢見金皷懺悔品第四(大正蔵 第16巻) に妙幢菩薩が夢に大金皷を見て、波羅門が金皷を打つと大音聲がした。 とあるのを再現したのではないか、といわれています。

とすると、今は桃山時代の波羅門像ですが、西金堂創建当初にあった、金皷は当然波羅門像もあったはずです。しかも、金光明最勝王経に忠実に再現するならば、単なる彫刻ではなく、ひょっとしたら、ゼンマイ仕掛の人形で、自動的に波羅門が撞木で金皷を打ったのではないか、とおもったりして。

単なるオブジェとして置いてあったとしたら、この金皷は打つこともしなかっただろうとおもいます。

さて、以前とあるブログに”華原磬クイズ”を投稿してみました。その時の正解率は50%でした。あなたは、どうでしょうか?

華原磬クイズ!!
第1問、華原磬には4匹の竜がありますが、雌雄の区別は何でわかるのでしょう?
第2問、中心上部に台のようなのがありますが、そこには何があったのでしょう?
第3問、一時期、華原磬は鎌倉時代の作という説がありましたが、何の根拠でそういわれたのでしょう?
第4問、竜はなぜ皆、口を開けているのでしょう?

答えはブログ『時のあかしに』「興福寺のこと」に掲載しています。

阿修羅展の解説をみると、第3問は、また、別の解釈がでてきて、ちがった回答になってしまったようですが、とりあえず参照してください。

2008年7月31日 (木)

小石原焼

先日、UMEさんのメーリングリストi毘首羯磨に茶房の芳子さんの若かりし頃の写真が載せられていたのを、大変なつかしく思いました。壇那様を去年亡くされて、いつものように明るく元気にくらしているのだろうか。と、それで、「太田成喜」 で検索してみると、小石原焼 マルダイ窯 のサイトに行き当たりました。芳子さんの昔とかわらない笑顔の写真がありました。

リンク集を明けてみると、茶房武蔵野文庫 とともに、和処 晴と褻 という店が紹介されていました。和食のお店で、食器はすべて、マルダイ窯の小石原焼を使っていると、書かれていました。

ちょうど、名古屋のO君が、29日に来京するので、帰る前に、いつものように、ちょっとイッパイやるかという連絡が入っていたので、これは、ちょうどいいタイミングで、おまけに東京駅にも近くて、多少飲み過ぎてもすぐに、新幹線に押し込めるなと思ったりして、さっそく、予約をいれておきました。

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店はビルの地下にあり、入口は茶室のにじり口をイメージしたくぐり戸で、中に入るとカウンターもそなえて、和風のモダンといったなかなか凝ったインテリアでした。ビジネス街の飲み屋ですから、いはば、サラリーウーマン向けの店かな、という感じでした。食事は、コメントを差し控えますが、そんなにリーズナブルな店ではなさそうです。確かに、すべて小石原焼を使っていましたが、店の雰囲気と合うかというと、個人差はあるものの、私はどうかな?という感じでした。やはり、小石原焼はいわゆる民芸陶器といわれているもので、いはば、庶民が日常使う食器なので、あまり、グレードをあげると、まわりと合わなくなる恐れがあると思うのですが、これは、私の個人的な印象です。

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Photo_3 小石原ついでに、私の所蔵の作品を二点紹介します。

この大皿は、茶房早稲田文庫の座敷の床の間に置いてあったもの。2尺の刷毛目大皿です。

 

 

 

 

 

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太田成喜作の白釉皿。バブル絶頂期、成喜さんが東京の三越で初めて個展をしたときのもの。銀座のママが欲しがっていたのを、間一髪、先に手に入れた作品。その当時、成喜さんは、陶板など小石原らしくない意欲的な作品を造られていました。これは、そのうちのおとなしいほうの作品です。

2008年6月17日 (火)

大仏殿揚羽蝶

Photo_4 南亭琴音祢さんが以前書いていた、あの8本足の揚羽蝶がついていた華瓶についての論文を発見しました。それは『南都佛教』89号(平成19年12月刊)に付論として、杉本和江「元禄開眼会の大華瓶」です。この論文によると、元禄五年の開眼会に際し、藤掛似水と猪飼三枝がそれぞれ立花に用いた華瓶だそうです。胴部には両方とも「藤掛似水門葉」と陽鋳してあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_5  『大佛開眼供養図』には、仏前の東西にこの揚羽つきの大華瓶に松を活けている絵が描かれています。この華瓶に陽鋳されている藤掛似水は当代きっての立花の名手で、一門の合力とはいえ、二口の巨大な華瓶を施入する経済的実力を持っていた人物のようです。

杉本論文は古美術修復家らしく、この大華瓶の技法についての論考が主です。論文によると、この華瓶は今は、中に詰め物があり、内部の様子がわからないので、断定はできないにしても、いくつかに分けて鋳造したものらしいと、推論しています。確かにこの華瓶は総高207㎝にもおよび、相当な重量だと思います。それにしても、こんな大きな華瓶に活けるのは、やはり、花では無理で松のような木になったのでしょうか。

 

 

 

 

 

Photo この杉本論文では、揚羽の足が何故八本かの論考にはいたっていません。未だに不明の状態です。

2008年4月15日 (火)

玉虫厨子

 法隆寺の百済観音堂に今回、はじめて入ると、百済観音だけではなく、東西に宝殿があり、そこに、仏像等の展示がありました。いままでの、大宝蔵殿だけではなく、それ以上の展示スペースが増えたことになり、よろこばしいことです。いままでと、展示の場所が異なってしまったので、ちょっととまどいましたが。さて、大宝蔵殿の出口にちかい部屋で、二つの模造の玉虫厨子が展示されていました。マスコミ等で発表していた、あの模造の玉虫厨子でした。

これは、高山の造園土木業(他にも、美術館などを経営している)「(株)飛騨庭石」の社長だった故中田金太氏の寄贈によるものです。その制作過程は映画にもなっているそうで、かなりマスコミ受けのようにも見えますが、その実物を見ると、全体的に黒を基調としているので、仏像の極彩色の模造のように、派手さ加減はなく、しっとりとおちついた色調になっている印象でした。確かに、漆工技術の継承のためとはいえ、この二つの玉虫厨子は、復原品といったらいいのか、模造品といったらいいのか、単なる創作品なのか、そのコンセプトがよくわかりません。一基は実物の復原模造のようにも見えますが、いわゆる密陀絵の部分はいまだに、その技法が不明のはずです。その部分はどうして漆絵にしたのかの説明がありません。もう一基は、かなり創作に近い作品のようです。

いずれにしても、前から言っていることですが、復原模造ならば、どこをどのように復原したのかの説明がなければ、模造品とは言えません。もっとはっきり言えば、単なる、玉虫厨子に似せた創作品としか見ることはできません。本物が制作された当初がこうだったという保証も検証された論拠もないのですから。

Photo それでも、現代の工芸品としては、一級品としての価値はあるとおもいます。

左写真は『日本精華』第1輯に掲載されている写真です。発行は明治41年4月25日。撮影は工藤利三郎です。今回急遽、奈良市写真美術館へ行ったのは、「写真師 工藤利三郎展」をやっているのを奈良博で知ったからです。展覧会にあった写真はもちろんこの玉虫厨子もありましたが、目新しいものがなく、図録もないとのことで、ちょっとがっかりしました。

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