大学

2010年11月22日 (月)

早稲田大学33号館

今日(11月22日)から、早稲田大学文学部33号館の解体工事が着工されたようです。

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2007年には、中の研究室が引越をして、そのまま使われないままになっていましたが、やっとのことで、33号館(通称国連ビル)の解体工事が着工という運びになったそうです。

早稲田大学文学学術院HPによると、解体完了は2011年4月頃だそうです。そして、およそ5年かけて、高層棟と低層棟の建替工事が行われる予定だそうです。

そして、その計画がすこしずつ明らかになってきました。このHPには高層棟の完成イメージとしてイラストが4点掲載されています。高さが今より高くなっているのかは、よくわかりませんが、以前のマッチ箱のような形状ではなく、直方体の形状になっているようです。

全体の外観イメージは以前の建物から大きく変わることはないようです。というよりも、あまりにも最近どこにでもあるようなおとなしい設計イメージです。

ちょっと、個性がないかな、といった感想をもちました。もっとも、村野の設計から大きく変えることじたいむずかしいことなのは、理解できますが、それにしても、誰が基本設計にかかわっているのかの公表ぐらいはしてほしいものです。

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以前、美学会で、この建物の内部を見学させてもらいましたが、高層棟の1階の壁にあるモザイク、便所の目隠し壁のモザイクなど、どうなるのでしょうか。

現実には保存はむずかしいとおもいますが、何らかの形で記録に残すことはできるとおもいます。

 

 

 

 

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それよりも、以前、内部を見学したとき、気になった部分がありました。

それは、便所の壁の上部に明り取りとして、樹脂の塊に2つの大きな穴をあけて、ブロックのように積み上げた開口部があったことです。

このような素材そのものも、いままで見たことがありませんし、まして、ブロック状の樹脂(アクリらしい)に穴をあけるという技法も大変めずらしいものです。(穴を開けて成形したものではありません。)

しかも、このようなデザインを誰も注目していないようなのです。この素材は解体工事で跡形もなくなってしまう運命になるのでしょうか。

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もうひとつ、解体で気になることは、以前のブログでも書いておきましたが、玄関に嵌っていたアートブリックです。もうすでに、エレベーターホール側の1ヶ所は解体されてしまいましたが、もう1ヶ所の中階段の踊り場にあるアートブリックはどうなったのでしょう。

このアートブリックについては、カガミクリスタル社の市販品だと言いましたが、この早稲田大学に嵌っているアートブリックはちょっと特殊な製法で造られているのがわかりました。

このアートブリックの製法は、以前大森の工場で見学したことがありますが、まず、金属の箱に溶けた硝子を流し込み、それを徐冷して造ります。ですから、普通は、表面は火づくりの平らな面になります。この早稲田のアートブリックは、表面を硝子が固まる寸前に、棒のようなものでかき混ぜて、模様をつけているようです。

他の施工例を見ても、このような模様がついているアートブリックは見たことがありません。

 

 

 

 

 

 

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これが、村野の指示によってこのような模様が造られたかどうかは、その当時カガミクリスタルの担当者と工場で作業していた人をさがしてみないとわかりませんが、非常に特殊な形状であることは間違いありません。

しかも、アートブリックのカタログでは、その形状はすべて長方形と直角のはいった台形で、形が二等辺台形の形は載っていません。おそらくこの建物のために特注で、型をつくったのかもしれません。

つまり、このアートブリックはかなり貴重な逸品です。産業技術史資料として、せめて、解体前に、二等辺台形の1枚でも確保して保存してほしいものです。

2009年11月26日 (木)

創立80周年記念祭典

幼稚園から大学まである学校の創立80周年記念の集いというイベントに招待されて行ってきました。もうその学校はご存知だと思いますが、幼稚園児から大学生までおよそ2万人の総合学園です。

会場の横浜アリーナはほぼ満席の状態でした。ほとんどの小学生から高校生は来ていたようです。

Photo プログラムはハンドベルの演奏からはじまり、オーケストラ、そして、この学校では目玉のチアダンス。

 

 

 

 

 

 

Photo_2 そして、オーケストラと合唱が続きます。会場のせいでしょうかちょっと音響に難がありますが、ベートーベンの第九のさわりを演奏し、その合唱の人数では迫力満点でした。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 大学の最先端技術の紹介、小学生から高校生の記念オリジナル曲の合唱があって、最後に学長のあいさつで、無事このイベントはお開きとなりました。

 

 

 

 

 

 

Photo_5 昔の自分に振り返ってみると、今の小学生から中学生がこのイベントに参加する意識はずいぶんと違うなあ! というのが第1印象です。みな楽しそうに参加しているのです。昔の私には考えられなかったことです。

大学生の参加しているイベントもいかにも学生らしい初々しさがありますが、何かあまりにも整然としすぎるのが、かえって心配してしまいます。

昔の私は、もっと斜に構えていました。こういう組織的なことに拒否反応が少なからずありました。時代背景もあるのでしょうが、私の幼少の頃はもっと見えない背後にあるおそろしい圧力に押しつぶされていくような危機感があったような気がします。それに比べて、今の日本は不況という閉塞感から逃れられないのに、それが全く感じられなく実に明るく振る舞っています。

世の中が昔とくらべてよくなった証拠なのでしょうか。

2009年11月15日 (日)

早稲田界隈

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14日の土曜日は2年に1回開いているサークルのOB・OG会でした。といっても、現役の学生との交流もあり、もう30年以上続いている会です。

そんな日ですから、午後には昔の仲間が大学に集まってきます。そんなで、キャンパスの周辺で学生時代と変わらない建物を探してみることにしました。

まず目に入ったのは最初にコンパをした金城庵。建物はまったく当初のままでした。

 

 

 

Photo_2 金のないのによく飲みに行った志乃ぶ。会の3次会で閉店まぎわにかけこんで、イッパイやってきました。

 

 

 

 

 

 

Photo_3 大隈講堂の前にある建物。私が学生の頃はたしか旅行代理店の店だったような気がしますが、記憶違いかもしれません。

 

 

 

 

 

 

Photo_4 サークルのたまり場だった第一学生会館。奥の建物が會津八一記念東洋美術陳列室。毎週この陳列室の掃除が新入生の仕事でした。中の事務室には安藤先生がいました。もうこの建物はありません。

 

 

 

 

 

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会の会場の現大隈会館の会場に掲げられていた會津八一の歌

 母校のかとに立ちて 八一

  たちいてて とやまかはらの しはくさに

      かたりしともは ありや あらすや

今回のOB・OG会はまさにこの歌のようでした。

2009年2月25日 (水)

焼りんご

Photo 先日、茶房武蔵野文庫に借りた物を返しがてら、寄ってみると、入口に“焼りんごはじめました”の張り紙が目にとまりました。

丁度お昼どきだったので、まずは、カレーを食し、なつかしい味を満喫したあと、久しぶりに焼リンゴを注文しました。直近で食したのは早稲田文庫のときだったのかは、記憶にありませんが、もう10数年は経っているとおもいます。

昔とかわらずの味でした。日下さんによると、焼リンゴ用の紅玉のリンゴは、今なかなか手にはいらないのだそうです。この焼リンゴももう季節が終わりに近づいてきました。今のうちにということもありました。

たしかに、今のリンゴは酸味があるものがありません。果物一般にいえることですが、昔と味が各段に変化しています。現代人の好みで、たべものはどんどん変化しています。“変化”といったのは、たべものの味に関するかぎり“進化”とはいえないのではないかとおもうからです。

どちらがいいかは、判断のゆれるところです。要は、一時いわれた多様化が進み選択肢がふえればいいのですが、最近は逆行しているようでなりません。

茶房にかかっている能の絵をみながら、徳本先生の話にひとしきりしたら、もういちど先生にいただいた茶房の絵のことが思い出され、帰宅してからとりだしてみました。

Photo_2Photo_3 普通の家の風呂場を椿湯とは徳本先生らしいしゃれです。

 

 

 

 

 

Photo_4 茶房で、今に気になっていることがあります。調べがついたら、ここに掲載しようとおもいますが、もうしばらく時間をください。なかなかおもしろい発見がありました。

2008年12月16日 (火)

また茶房早稲田文庫

Photo そういえば、茶房早稲田文庫にもステンドグラスがあったっけ。写真を見ると、もうだいぶ時間がたってからのもので、色がかなりあせてしまっています。これは、建具を直すときに、徳本先生にガラス絵を書いてもらったものです。このとき、建具屋さんと打ち合わせして、ガラスのはいる溝や格子の形状などを決めたのですが、芸術家というのは気がよくかわるもので、徳本先生は格子がどういう形ではいるのかを考慮せずに描いたものだから、絵が完成して、いざ建具に嵌める段になって、絵と格子の位置が合わなくなってしまいました。

しかたなく、黒いビニールテープを貼ってごまかしたのでした。時間の経過とともにビニールテープがところどころ剥がれてしまっています。せっかく、先生の描きやすいようにと、段取りしたのに、つくづく芸術家とはこういう人種かと思ったものでした。

徳本先生はとても、温厚な方でしたが、いざ絵を描くということに関しては、絶対に妥協しないという姿勢を、垣間見たことがあります。それは、先生のお宅によばれて、飲んでいたときのこと、色紙を2,3枚持ってきて、筆で、絵の修正をしているのです。それは、私たちのために描いた茶房の絵でした。私はつい、興にのると一杯やりながらでも、絵をお描きになるのですか?と聞いてしまいました。すると先生は、絵を描くときは、絶対に酒は飲まない。と強い調子でおっしゃいました。私はしまった!またやってしまったとおもいました。そのとき先生に、仕事に対するきびしい姿勢を教えていただきました。

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そんなこんなで、今回は新たに手にいれた茶房のありし日の写真を2枚掲載します。

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写真をクリックすると画像が大きくなります。なつかしさを満喫してください。

2008年8月 3日 (日)

茶房早稲田文庫

Photo 昔、早稲田大学のそばに、『茶房 早稲田文庫』という喫茶店がありました。外観は民家風のつくりの建物で、冨安龍雄、郁子ご夫妻が経営しておられました。冨安さんは、早稲田大学の国文をでて、戦後この地で、喫茶店を開きました。早稲田大学出身の文学者と交流があり、そのたまり場を喫茶店に改造したものでした。私は、昭和43年に早稲田大学に入学してから、通いはじめました。最初はサークルのたまり場だったので、毎日のように顔をだして、誰かいないか、さがしていました。学部を卒業して、大学院にいくようになると、図書館の帰りに必ず寄って、カンバンまで居座りつづけました。仕事についてからも、仕事が終われば、夜に、出かけていきました。

 

Photo_2 そして、昭和59年11月とうとう、茶房早稲田文庫は閉店となりました。閉店にあたって、茶房にあるものすべてを、売却するということになりました。私とS君で、茶房にあるすべての物を、写真に撮って、調査し、財産目録を作成しました。そして、3日間、蔵出しという売り出しをして、すべて売却しました。茶房の思い出にと、ゆかりのある人が買っていきました。

もう早稲田大学のそばには、茶房の痕跡もありません。記憶がだんだんと薄れていきます。冨安さんのこと、おばさんのこと、そして、茶房で会ったさまざまな人、いろいろな思い出があります。今、その記憶を確かめておかないと、ますます忘却のかなたへいってしまうという危機感におそわれています。

幸い、早稲田文庫を継いで、日下さんが吉祥寺で『武蔵野文庫』を開いているので、かろうじて、その記憶がよみがえる場があります。いまのうちに書いておかなければいけないことが、たくさんあります。すこしずつ、整理しながら書きとめていこうとおもいます。

 

Photo_3 落書帳は、むかしから茶房に常備してあったものです。この落書帳は、最後の落書帳で私が造ったものです。表紙は徳本立憲先生の筆になります。徳本先生は茶房のおじさんの油絵の先生だった有名な洋画家ですが、今年なくなりました。また、茶房を知る人がいなくなりました。私も大変お世話になった先生です。ご冥福をお祈りもうしあげます。

この落書帳には、閉店前に茶房で行ったお別れ会に出席した人の署名があります。井伏鱒二、小沼丹、紅野敏郎、新庄嘉章などです。

茶房にあったいろいろな品物の記憶がだんだんと薄れていかないように、すこしずつおもいだしながら、書いていこうとおもいます。今日はとりあえず、この辺で。

 

 

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2008年3月18日 (火)

いつから?

早大文学部33号館を建替える話がでてから、もう1年が過ぎようとしています。いったい何時から解体するのでしょう?こわすのなら、さっさとこわしてしまえばいいのに、と誰でもおもいますが、なかなかそうはいかないようです。

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つまり、アスベスト問題があるためのようです。アスベスト(石綿)は今、建築業界では大変な問題になっています。昔の建物はほとんどといってもいいくらい、アスベストが使われていました。それを除去するには、完全防護服に防毒マスクをつけ、外部に飛散しないように、部屋ごとに密閉して作業をしなければならないのです。そのために、膨大な費用と時間がかかります。デザインがどうのこうのという前に人間の健康をまず考慮しなければいけないのが現状です。この工事は鹿島建設が請負っているようです。建替の建物も鹿島の設計施工のようです。むしろ、鹿島の設計が村野藤吾の設計思想をどう継承するのか、あるいは、まったく違うコンセプトを見せるのか、これが、これから十分に注視する必要がある問題です。

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2008年3月 7日 (金)

早大旧図書館

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早稲田大学旧図書館(2号館)の窓の新旧の写真です。旧図書館は、平成10年、會津八一記念博物館として生まれかわりました。開館して1年後、旧大閲覧室の窓の改修工事が行われ、右上のような外観に変わりました。どう違うでしょうか?

まず、サッシの見附が違います。現状のほうが太くなっています。また、当初のサッシの色は、薄いピンクがかった白色でした。今は、焦げ茶色に塗られています。

実は、この硝子工事は、私の会社で施行しました。もちろんこれだけではなく、博物館開館のための2号館改修工事のうちの、硝子工事の部分です。この窓は、スチールサッシで、パテで硝子を固定していましたが、サッシの腐食が進んでいて、そのために、硝子が何枚か破損していました。開館の時までに、サッシの改修工事を提案していましたが、予算の関係で、開館後に行われました。その時、私は、ゼネコンを通して、サッシをアルミにしてはどうかと提案しました。それは、スチールサッシでは、また同じように、腐食が進みやすく、塗装を数年ごとにしなければ、現状が保てない、というメンテナンス上の問題があったからです。しかし、アルミサッシにすると、サッシの見附がもっと太くなり、現状とずいぶん見栄えが違ってきます。

結局、施主(大学?設計?)の判断で、以前と近い意匠でということで、今回もスチールサッシになりました。しかし、以前はガラスをパテで固定していましたが、今回は、シリコンシーリングという、ゴム状に硬化する、充填剤を使用して、ガラスを保持しています。そのために、サッシの構造が若干違う形になっています。(見附が太くなったのはそのためです。)さらに、ガラスの内側には、透明のフィルムを貼って、硝子が割れた時の飛散防止機能を持たせました。このフィルムは、その素材から紫外線をカットする機能を持っており、一石二鳥の効果があります。

このように、改修工事によって、格段に性能のよい材料で、建物の延命がはかられましたが、それで、万々歳なのでしょうか?

そもそも、この工事は、復原工事なのでしょうか?確かに、外壁一面に這っていた蔦もきれいに取り除き、竣工時の色に塗装し直しました。でも、サッシの色を何故、焦げ茶色に塗ったのでしょう。これは、書庫の窓など他のサッシは、ブロンズのアルミサッシに入れ替えているために、そのバランズを取ったものと推測されます。

これは、改修工事なのです。決して、今井兼次の設計意図を汲んで、復原工事をした訳ではないのです。その辺のあいまいさは何なのでしょうか。

このことは、もっと掘り下げて考えなければいけない問題です。

2008年3月 5日 (水)

早大文学部校舎

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上が竣工後(昭和37年3月)、下が現在(平成19年10月)の早大文学部33号館です。どこが違いますか?40数年も経ている建物は、少なからず改修が行われているものです。村野藤吾の設計理念を知りたいなら、竣工当時の状況を今の建物で類推しなければなりません。

たぶん、10数年前頃に、窓のサッシの改修工事をしているはずです。竣工当時はおそらくスチールサッシで、白の塗装をしていたのでしょう。今は、そのサッシの外枠のみを残して、硝子と枠を外して、アルミサッシをかぶせているのです。そのために、枠の外周が当初のよりも太くなっています。また、スチールからアルミに変わったために、無目が太くなっています。さらに、枠の下部は、本来は内開き窓だったのが、引き違いに変わっています。

設計者は、窓の部分にある方立など、開口部に太い線が入るのを嫌う傾向があります。せっかくならば、方立などないほうがよいと思っています。見た目が重くうるさく見えるからです。村野はこの変更をどう思ったでしょう。性能がよく、耐久性がよいアルミサッシに変わったのだから、よしとしたでしょうか。それとも、このすっきりした外観のイメージをこわしたと思うでしょうか。

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