絵画

2013年5月 6日 (月)

木村荘八展

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復元工事が完成して再開なった、東京駅丸の内北口にある東京ステーションギャラリーに、先日行って参りました。3月から『木村荘八展』(5月19日まで)をやっているのを聞きつけて急遽足をはこんだのでした。小生はあまり近代絵画に興味があるわけではありませんでしたが、この展覧会にひとつ期待するものがありました。

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その前に“木村荘八”という人物について、というよりも、彼の父親である“木村荘平”について、語らなければなりません。

木村荘平は、天保12年(1841)山城国伏見に生まれ、明治11年(1878)上京し、明治政府から官営屠殺場の払い下げをうけ、牛鍋チェーン店「いろは」を経営しました。その店は第一号店、第一いろはをはじめとして東京市内に20ヵ所におよび、東京畜売肉商組合を結成し、さらには、今でも町屋にある火葬場を請け負う東京博善社を設立、日本麦酒醸造会社(エビスビール)などの社長に就任していました。明治29年(1896)には東京市議会議員に当選。衆議院進出をねらいましたが、明治39年(1906)67才で死去しました。

木村荘平のチェーン店は、妾をそれぞれの店の店長に就任させて、拡大していったものでした。荘平の子供は男13人、女17人にのぼったそうです。
木村荘八は、京橋にあった第8いろはで、荘平の八男としてうまれ、中学卒業後は、店の帳場につとめるかたわら、洋画の勉強をし、岸田劉生と交流しながら、洋画家の道をこころざしていました。

今回の展覧会には、油絵とともに、永井荷風著『濹東奇譚』の挿絵が展示されていました。荘八は東京の風俗を題材に数多くの作品を残しています。また、文才にもすぐれ、東京の風俗考証に関する著作を多数のこしており、「木村荘八全集」も刊行されています。私が気になったのは、昭和24年に発行された『東京の風俗』の中にある「「いろは」の五色ガラスについて」という一文でした。

これは、荘八が生まれ育った、「いろは」第八支店の建物についてスケッチとともに建物の様子が書かれていました。

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これによると、

“この三階から本屋の総二階にかけて、その正面及び側面見つきの、ガラス戸といふガラス戸が、全部、五色の色ガラスを市松にあしらったものだったが(一階は五色ではなく、普通ガラスだった)。”

しかも、この建物は元綿屋だったが、明治19年に「第8いろは」になってからは、五色の装飾障子に改装したようだと、類推しています。また、樋口一葉が住んでいた丸山福山町には、二階ガラスに五色ガラスを点じていた家があった。とも書いています。

「「いろは」の五色ガラスについて」の中にある挿絵には、色がついていないので、実際五色のガラスとはどんなものなのかは、おそらく、金沢の尾山神社神門の窓ガラスのようだとは想像がつきますが、それよりも木村荘八自身が書いた絵があるかもしれないと思ったのが、この展覧会に行く動機でした。

すると、2枚の大きな油絵のうちひとつに、「牛肉店帳場」という絵がありました。まさしく、荘八が育った第八いろは店の玄関の様子を描いています。

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階段の踊り場の右側の窓には、色ガラスが嵌まっている様に見えます。また、階段下の帳場にいる人物は荘八本人のようです。

それにしても、尾山神社の神門に嵌まっている色ガラスは、黄、赤、緑、青の4色です。荘八によると、第八いろはに嵌まっていた色ガラスは、

“飛び飛びに白の無地を交へて、クリムソン・レーキ、ウルトラマリン、ビリジャン及びガムボージの各色を配した。”

と、白色を加えていますが、白色のガラスとはおそらくは、スリガラスだったのだろうとおもいます。

それにしても、かなりど派手な建物だったろうとおもいますが、障子に色ガラスを嵌めても、夜になって、中に照明がはいらないかぎり、派手さはでないだろうをおもいます。まして、昼間には、色ガラスが入っていることすら気がつかないとおもいます。

そういうことから考えると、その当時のど派手と現代のど派手はちょっと違う感覚なのかなと思います。

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ステーションギャラリーの出口の階段室にある現代のステンドグラス。何でこんな目立たないところに入れたのでしょう。

2010年2月 3日 (水)

六本指

 薬師寺吉祥天画像に関する論文を漁っていると、野間清六「藥師寺吉祥天畫像雜感」『国宝』4-8 昭和16年8月1日 という論文が目にとまりました。最初の1頁から2頁上段までは、普通の解説の文章が綴られていましたが、2頁目下段になると、突然この吉祥天の手の指が五本か六本かという問題を語り始めたのです。

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何のことかと読み進んでいくと、大正年間の頃摂政宮(昭和天皇)に瀧精一がご進講している時、この畫像を取り寄せたことがあったそうです。進講の後、その場にいた東郷元帥が「この左の手は指が六本だ」と言ったそうです。すると、その場にいた白鳥庫吉は、「支那の奥地にはそうした異状體形のものが少なくなく、却って尋常でないために尊敬される」と説明したそうです。まさに苦し紛れでしょう。それにもまして、筆者の野間氏は、「佛教では千手観音の如きや十一面観音の如き、多手多面の姿が通行してゐる」また、「畫家として指を一本多く描くことは有り得ることである」と懸命に弁解しています。しかし、以後は冷静になって、図まで描いて詳細に分析しています。それによると、「確かに指は六本に見える。併しそれは、指は五本に描いたのであるが、その描法によって偶然に六本に見えるに過ぎないのであって、東郷元帥の眼も強ち誤りとはいひ切れないのである。」としています。野間氏は、手の部分を拡大して詳細に検討して、どうして六本に見えたかの検証までしています。

こうまでして、ムキになって弁明ともいえる検証をするのは、読んでいてちょっとやりすぎじゃないのという感がします。それは、その問題を指摘した人間が、とりもなおさず“東郷元帥閣下”であったからでしょう。

いつの世にも、権力者のひとことが、下の者を大パニックにさせるものです。権力者の顔を立ててフォローした上で、しかも、説明者が知らなかったではすまされないので、こういった発言をするのでしょう。実に滑稽な話なのですが、よくある言い訳の典型的な例です。今だったら、「あなたがそう見えるだけじゃないの。」と取り合わないか、「気がつきませんでした。」と言って謝るかのどちらかです。権力におもねるとは大変なことですね。

ところが、多指症という先天性異状の病気があるのだそうです。しかも豊臣秀吉の右手がそうだったと、フロイスの記録や、前田利家の回想録に書かれているそうです。こうなると、白鳥庫吉の説明もあながちデマカセで言ったのではないというのがわかります。

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それ以降、この薬師寺吉祥天画像に関する論文には、六本指の話題はでてきませんでした。一昨年、奈良国立博物館・東京文化財研究所編『薬師寺所蔵 国宝 麻布著色吉祥天像』 2008年5月15日 という調査報告書が出版されました。そこには詳細な赤外線・X線写真とともに、梶谷亮治「国宝 麻布著色吉祥天像の彩色技法」という論文があります。それには「左手は胸前に挙げ、3・4指を屈し掌を上に向け宝珠を持している。肉線は淡墨線、指先には強い朱隈を施す。指先が細くさらに下描き線と重なり合い、一見すると指数が多く見える。」としています。

その当時、こんなことが言えなかったのでしょう。この問題の対処の仕方で時代がどんな状況だったのか想像することができます。いや、こういうヨイショは、今でも全然変わってはいないのかな?

2009年3月10日 (火)

亀高文子伝

亀高文子伝Photo
・明治19年(1886)7月9日横浜で、風景画家の渡辺豊州の一人娘として誕生。
・明治35年(1902) 女学校を2年で中退し、女子美術学校洋画科に入学。寄宿舎に入る。
・寄宿舎を出て、谷中清水町に横浜から引っ越してきた両親と同居。
・その後、本郷千駄木町へ転居。
・明治40年(1907) 女子美術学校を卒業。満谷国四郎に入門。
・その後、太平洋画会研究所に入所。同期の女性に長沼智恵子、埴原久和代がいた。

 
・明治42年(1909)4月、宮崎与平と結婚。
・同年     10月、第4回文展に『白絣』で入選。
・明治43年(1910)8月、長女美代子誕生。Photo_2
・明治45年(1912)3月、夫の看病のため、築地に転居。
・明治45年(1912)4月、長男一郎誕生。
・同年     6月9日、夫与平死去。
・大塚の両親のもとに同居。体調を崩し、順天堂病院に入院。
・大正2年(1913)11月号「少女画報」に挿絵を掲載。

 

 

 

 

 

 

・大正2年(1913)頃より大正6年(1917)頃まで、平尾贊平商店広告部で広告の仕事をする。Photo_3
・この頃、「少女画報」「子供之友」「少女の友」「新少女」などに挿絵を掲載。
・大森(荏原郡入新井村)に子供二人と女中とともに転居。
・大正4年(1915)、父豊州死去。母を引き取る。
・大正7年(1918)4月、東洋汽船の船長亀高五市と再婚。
・大正8年(1919)年末、女子の美術団体朱葉会を創立。
・同年    10月、次男洋介誕生。
・大正12年(1923)6月、夫の転職により、神戸に転居。
・大正13年(1924)、赤艸社女子洋画研究所を設立。

 
・同年     、三男素吉誕生。Photo
・昭和4年(1929)、神戸市葺合区に南信設計の家を新築。
・昭和6年(1931)8月、亀高五市死去。54才。
・戦争中は、愛知県渥美郡赤羽村に疎開。
・昭和23年(1948)、神戸にもどり、西宮に転居。赤艸社を再開。
・昭和50年(1975)、西宮市大谷美術館で「亀高文子自選展」を開催。
・昭和52年(1977)9月6日、死去。91才。
・昭和56年(1981)10月、『日本の童画(第五巻)ー加藤まさを・須藤しげる・渡辺文子ー』に作品を掲載。

その後
・長女美代子は、瀬尾貫二と結婚。瀬尾美代子となる。洋画家。
・長男一郎は、洋画家。
・次男洋介は、神戸商大教授。
・三男素吉は、元神戸製綱会長。最近82才で薬学博士になったことで注目。

 与平と文子の結婚について、文子は上笙一郎編著『聞き書 日本児童出版美術史』1974年7月5日 太平出版社 で次のように語っています。

「ーーーわたくしが、与平と知り合った最初でございますか。年こそ下でしたけれど研究所の先輩でしたから、おたがいに顔と名前はよく知っておりました。でも、何しろ明治時代の若者と娘でございますもの、正式に先生からでも紹介されないかぎり、口もきくことなど思いも寄りません。それなのに与平は、わたくしがデッサンを終って家へ帰ろうとしますと、一定のあいだを置いて、そのあとをついて来るのでございますの。その頃わたくしの家は、本郷の千駄木町に移っておりましたのですが、与平はその途中まで、毎日わたくしを送ってまいりました。そしてこれがきっかけで、与平とわたくしは、明治四二年の四月に結婚したのでございます。」

 文子は個性の強い父の庇護のもとで育てられたので、同期の長沼千恵子のような、自我にめざめた女性ではなかったようです。しかし、たった3年の結婚生活でも、与平との結びつきは、強固なものであったことがわかります。年下の夫をたてていたのは、与平の才能を充分に認めていただけではなく、人間的魅力に惹かれたからなのでしょう。
 与平の死後、文子は母として、たくましく生きることになります。父の庇護からはなれ、画家としての自活の道に進みました。文子自身語っているように、苦しい生活であっても画業を捨てることはなく、文展などに出品しつづけていました。

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とくに注目する作品は、大正2年の文展に出品した『離れ行く心』(上右)という自画像です。文子によると、この作品は与平の死去の直前に書いたといっています。ところが、与平の作品で明治43年に描かれた『習作』(上左)という文子をモデルにした絵とそっくりなのです。文子の絵は帯の部分まで描かれ、着物の柄が違っていますが、全く同じ構図なのです。どうして文子は『離れ行く心』という題をつけたのでしょうか。それが、時間とともに薄れゆく記憶に対して、文子の与平に対する愛の確認であったような気がしてなりません。どんな他人も2人の間には入り込む余地はなかったのだろうと思います。
 再婚相手の亀高五市については、神戸新聞学芸部編「亀高文子」『わが心の自叙伝<一>』昭和42年(1967)10月刊 の中に亀高家私刊『亀高五市の追憶』から引用した満谷国四郎の文がつぎのように書かれています。

「文子君と結婚の席上私は文子君に、ごく普通の人妻としての務めの上に氏に満足を与える様話した。処が後で氏より不足を言われたのだ。自分は文子君を後援して、芸術家としてなによりよく立たせたいから結婚したのである。人妻としてより芸術家として一層の鞭撻を希望するというのである。私は恐縮し、且つ感謝した。」

 文子は父から女子美術学校へ転校させられてから、絵の道に一貫して進んできました。与平と結婚したのも、いっしょに絵が描けるからであり、与平死後は、生活の糧として絵を書き続けました。亀高五市と再婚して、金銭的余裕ができれば、後輩の女流画家に援助をし、さらに絵画団体にも積極的にかかわってきました。80才をすぎても、創作に意欲をみせていたそうです。
 文子はその当時珍しかった女流画家であることで、世間から非難、中傷を受けて悩んだ。と書いています。そして波瀾万丈の生涯ながら、一貫して創作活動をつづけてこれたのは、周囲の援助や、理解があったからなのでしょうが、それにもまして、文子の強い創作に対する意志があったからなのでしょう。本当の明治の女に会ったような気がします。

2009年3月 8日 (日)

渡辺与平伝

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・明治22年(1889)10月17日、長崎市西古川町に宮崎徳三、ケイの次男として誕生。
・明治35年(1902) 4月、13才、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。その間、鹿子木孟郎の私塾に入門。水彩画を習う。
・明治39年(1906) 3月、17才、京都市立美術工芸学校を卒業。
・同年      4月、上京。5月頃、大平洋画会研究所に入所。
・同年      7月頃より『中学世界』『文章世界』『ホトトギス』にコマ絵を掲載しはじめる。
・この頃、平尾贊平商店の広告部に籍を置く。日暮里七面坂下の三枝館に下宿。
・明治40年(1907) 3月、渡辺文子、女子美術学校を卒業し、その後、大平洋画会研究所に入所。
・同年      秋、18才、与平、脚気と肋膜炎を患い、療養のため長崎に帰省。
・明治41年(1908) 9月初旬、再上京。
・同年     10月、19才、第2回文展に『金さんと赤』(長崎県美術館所蔵)で入選。
・明治42年(1909) 4月、渡辺文子と結婚、渡辺姓となり、巣鴨の文子の両親の家に同居。
・同年     10月、20才、第3回文展に、落選。
・明治43年(1910) 5月、挿絵を担当した『笛の力』が出版される。
・同年      8月、長女美代子誕生。
・同年     10月、第4回文展に『ネルのきもの』(現泉屋博古館分館所蔵)で三等賞受賞。
・同年     11月、コマ絵画集『コドモ 絵ばなし』を出版。
・同年     12月、挿絵を担当した『おとぎばなし集 赤い船』が出版。『ヨヘイ画集』を出版。
・明治44年(1911)10月、21才、第5回文展に『帯』(渡辺与平展表紙、長崎美術館所蔵)、『こども』(個人蔵)で入選。
・明治45年(1912) 1月、大川端の佐々木病院に入院。
・同年      3月、退院。築地へ転居。
・同年      4月、長男一郎誕生。日本橋病院に入院。Photo_3
・同年      6月9日、咽頭結核と肺炎のため死去。享年22才。
・同年      6月、「渡辺ヨヘイ遺作展覧会」が長崎図書館で開催。
・同年      9月、「故渡辺与平氏遺作展覧会」が上野竹之台陳列館で開催。

 

 

 

 

 

・大正2年(1913) 6月、『ヨヘイ画集 愛らしき少女』が出版される。

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・平成20年(2008) 1月、「渡辺与平展」が長崎県美術館で開催。Photo_4

・平成21年1月30日、毎日新聞大阪版に「夢二と張り合ったイラストの元祖」というタイトルで記事を掲載。

 

 

 

 

 

 

 

実質わずか6年間の画業しかない画家ですが、その人世は内容の濃い生き様だったようにおもいます。とくに、3才年上の才媛、文子と結婚したことは、与平はほんとうに幸せだったろうとおもいます。しかし、その幸せの時間があまりにも短すぎたのでした。

長谷川時雨『美人伝』のなかに「ネルのふみ子」という一文があります。その一節を紹介するにとどめておこうとおもいます。

初戀の人ー宮崎與平が初戀の人としてふみ子を描いてから『ネルの着物』時代までの、ほんの短い巣鴨の新居が又と繰りかへすことの出来ないふみ子の思出になってしまった。『ネルの着物』は文展の三等賞になって、後に伊太利の博覧會に出品された。・・・ふみ子の悦びはどれほどであったか。自分は藝術家の誇をすてゝも、子供の面倒を見ながら戀人の夫につかへる喜こびを樂しんでゐた。巣鴨の空に見ゆる雲は飛んでゆく行方まで二人で追って、二十四と二十二の年はふみ子の生涯にいつまでも幻となってゐるであろう。苔の下の屍の與平にも、生涯にその時ほどの人世の味はなかったことであらうと思われるほどであったが、その幸福は翌年の晩春までで、人世の花も其年の春の名残の雨と共に過ぎさつて、再び二人の顔には晴れやかな笑ののぼる日がかへって來なかった。

 ふみ子がさる年の文展に出した『はなれゆくこゝろ』といふのは、與平の描いた肖像の自分をそっくりそのま冩して體だけをだしたものであった。心に思出多く、故人となってもふみ子の魂の中に與平は生きてゐる。けれどもふみ子は此頃人にむかってかういったといふ。

『私の面影に昔のふみ子の殘ってゐるのは眉ばかりだ。目も口許もしっかりちがってしまった』と。

 何といふかなしい言葉であらう。ふみ子の心には、戀に生きてゐた時代、夫に描かれて殘ってゐる面影ほど自分に懐しい時はあるまい。二人の遺児を餓させまいとする努力、夫の藝術を繼いでゆかうとする決心、そのなみなみならぬ心づかひが、むかしの面影をなくさせたのは道理であるが、ふみ子にはそれがどのやうにか悲しいことであらう。

2009年3月 2日 (月)

早稲田文庫の版木 補遺

Photo 以前、「早稲田文庫の版木」で、竹久夢二の版木を2枚紹介しましたが、額にはいっているもうひとつの版木を渡辺与平の絵だといいました。そのときは、渡辺与平という人物がどういう人がわかりませんでした。その後、高山奇人さんのコメントで、渡辺与平の奥さんは會津八一の初恋の人だというのを教えていただきました。

それが、どうもひっかかっていたところ、たまたま茶房へ寄ったとき、その版木の話になって、それが、どの雑誌に掲載された絵なのか知りたくなりました。それには、まず反転している絵をもとにもどさないとわかりませんので、版木を借りて刷ることにしました。

 

 

 

Photo_2 額からはずしてみると、その版木の側面に墨で、“女學”と書いてあります。夢二の版木のほうには、“中學”と書いてありました。夢二の版木は「中學世界」10巻4号(明治40年3月20日)と11巻4号(明治41年3月20日)とわかっていましたが、与平はわかりませんでした。

それが、「女學世界」と判明したのです。与平の描いたいわゆる“コマ絵”は調べてみると、実に膨大な量を書いていたのです。たとえば、「ホトトギス」には明治39年11月から明治45年7月まで、裏表紙も含めて149枚にものぼります。さらに与平は「中学世界」の明治39年7月号をはじめとし、「ハガキ世界」「日本新聞」「国民新聞」「少年世界」「少女世界」「婦人世界」などの雑誌に“コマ絵”を掲載しているのです。

そんな中で、この版木が「女学世界」に掲載されていたものだとわかっただけで、手間がはぶけました。しかも西暦(1908)入りですので、すぐにわかりました。

 

Photo_3 「女学世界」第8巻第4号(明治41年3月1日)の135Pに載っていました。「コマ絵」というのはおもしろいもので、いわゆる“挿絵”とは違って、文章と何の関係もない絵なのです。この絵は 糸左近著の「分娩一ヶ月後の母子(母の攝生と子の養育法)」という文の中に挿入されています。

このコマ絵はその当時、竹久夢二と人気を二分していたようです。このような児童画や女性の描きかたから、「ヨヘイ式」ともよばれていたようです。

竹久夢二と渡辺与平との関係については、またの機会にして、与平は夢二のように世に知られないまま、その短い生涯を終えました。わずか22才で子供2人と愛妻をのこしてなくなったのです。

それにもまして、會津八一が恋こがれた人で、3才年上の渡辺文子と結婚した与平という人物とは、どんな人だったのだろうという、疑問がわいてきました。

渡辺文子という人もいったいどういう人だったのだろうとおもいます。写真や、与平が描いた文子をみると、気品の高い美人だったのがその絵からかもしだされてきます。こんな美人を射止めた男、渡辺与平と、そのつれあいの文子の生涯はどういうものだったのだろうか、とおもいました。

 

 

 

Photo_4 そんなわけで、次回は渡辺与平と文子夫妻の生き様を調べてみたいとおもいます。

2008年8月24日 (日)

早稲田文庫の版木

Photo 茶房早稲田文庫の所有で、額に入った版木が3枚ありました。その当時は、すぐ目の前で見てはいても、それがどんな版画になるのか見当がつきませんでした。しかし、いつかこれを使って刷ってみたいもんだ、と思っていました。これは拓本のいい練習になるかなと思い、日下さんには、拓本をとらせてよと、何度か冗談交じりで言ったことがありました。

そうこうしているうちに、茶房早稲田文庫は閉店になり、早稲田文庫にあったこの版木は、日下さんが新たに開いた茶房武蔵野文庫に受けつがれました。今、洗面所の壁にかかっています。

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すると、ひょんなことから、竹久夢二の研究者の目にとまり、これは、竹久夢二の書いた挿絵の版木ではないか、ということになり、プロの版元がこの版木で、刷ったところ、木と寺の門が描かれた絵は、博文館発行の文学雑誌『中学世界』の明治40年3月20日号、少年がお手伝いさんに牛乳を渡している絵は、明治41年3月20日号にそれぞれ掲載されたものと判明しました。明治38年に竹久夢二は『中学世界』でこのようなコマ絵「筒井筒」が一等に入選してはじめて世にでてから、すぐの作品ということになります。まだ、24、5歳の頃です。

この版木をおじさんがどのようにして手にいれたかは、定かではありません。しかし、版木は使い回したり、すぐに廃棄することが多いので、現在でも残ることが少ないのが現状です。これが、どうして残ったのかは不明です。どこかの骨董屋で見つけたものなのでしょうか。茶房のおじさんは、ちょっといたづらっぽい人で、たとえば、額入ではいっていた棟方志功の版画は、実は印刷物だったりと、誰もが本物とおもっていたものなのですが、見事にだまされていました。

ちなみに右の版木は竹久夢二ではなく宮崎(渡辺)与平の作だそうです。宮崎与平も明治45年には亡くなっているので、同じ時代のものなのでしょう。

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