人物

2012年4月16日 (月)

神奈川仏教文化研究所HPの再開

今日(16日)、朝田純一様よりメールをいただきました。

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神奈川仏教文化研究所のHPを、高見徹様の後をついで再開するとのことでした。

去年4月18日を最後に、HPの更新が途絶えてから、およそ1年、朝田様が、高見様の遺志をついで再開することになったということです。

高見様の突然の訃報は、おそらくまわりの人々に多くの衝撃を与えたことだろうとおもいます。

高見様のHPでは、じつに多くの人に、仏像のすばらしさと感動を教え、しかも、わかりやすく解説していました。このHPに数々の恩恵を受けてきた人は多いとおもいます。

その思いを受け継いでくれたのが、新管理人になられた朝田純一様です。

とりあえずいままでのコンテンツをまたアクセスできるようになりました。

いままでの膨大なデータがまた参照できるようになるようです。

また、新しく掲示板「観仏日々帖」を創設して、読者とのコミュニケーションの場も設けられました。

神奈川仏教文化研究所のHPがまた再開されるのは、仏像ファンにとって、よりどころができるということです。以前のような活発なコミュニケーションの場になるように、読者ともども応援をしていきたいとおもいます。

神奈川仏教文化研究所:http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/

リンクブログ観仏日々帖:http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/

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2011年7月 2日 (土)

ある縁

 記憶があまり確かではないのですが、昭和53年頃だったか、ある土曜日に例によって、茶房早稲田文庫で、後輩2人とグダグダしていると、マスターの日下さんから、ちょっと奧座敷に来てと、3人が呼ばれました。

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そこには、オーナーのオバサンと、中年の男性がなごやかに話をしていました。

と、紹介されると、その中年男性は上原昭一氏でした。

その当時、奈良国立博物館に勤務していたとおもいます。ちょうど、早稲田大学で、美術史学会があったので、その合間に、茶房に寄ったようでした。

上原氏は、私以外の2人が美術史学科の大学院生だと聞くと、何でも聞きたいことがあれば答えようと、言ってくれました。

私は、すでに大学院を卒業して、目標がなかった時で、ひたすら遠慮しましたが、後輩2人はここぞとばかり、それぞれの思いをぶつけていました。

どうして、上原昭一氏が冨安さんと知り合いなのか、その時はわかりませんでしたが、2人の話を聞いていると、オバサンが戦前に、長野で下宿屋をしていて、その時の下宿生が上原昭一氏だったようでした。

上原氏の経歴を調べてみると、旧制長野中学から、松本高校へ行き、東北大学を卒業しています。おそらく、長野中学の頃だったのでしょう。

しかし、オバサンは、その頃の姓は冨安ではなかったのに、上原氏はどうして茶房のことがわかったのでしょうか。

その疑問は、すぐにわかりました。その当時の1・2年前に、奈良国立博物館でバイトをしていたのが、あの故平木収氏だったのです。

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例によって人なつこい平木氏は、上原氏と話をなんとなくしながら、茶房のご主人冨安さんのことを、上原氏に話したのではないでしょうか。

それで、学会という機会に茶房に訪れたのだとおもいます。なつかしそうに、長野時代の話をオバサンとしていました。

上原昭一氏の話題は、私が大学院のころ、佐々木剛三先生からも、一度聞いたことがあります。それは、ハリー・パッカードが奈良国立博物館に銅造蔵王権現像を持ち込んで、上原氏に見てもらいたいと来たときでした。

上原氏はこの仏像が指定物件にも匹敵する秀作であると、看破しましたが、海外に流出するのを阻止するため、パッカード氏には、たいした仏像ではないと話したそうです。

しかし、パッカード氏は上原氏の表情を見抜き、ついにこれを購入し、最終的には、メトロポリタン美術館に収蔵されることになってしまったのです。

上原氏は地団駄ふんで悔しがった。ということだったそうです。

ハリー・パッカードのほうが、美術作品よりも人間の目利きがあったということでしょうか。

東北大学の雑誌『美術史学』31・32号を見てみると、2010年7月9日、上原昭一氏は逝去されたそうです。

2011年5月18日 (水)

2つの訃報

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 昨日、さる有名な葬儀所で、同業者の社葬に行ってきました。かなりの人が参列していました。その業界ではそれなりの実績を作った人ですので、かなり盛大な式典でした。

葬儀の進行は実にスムースに執り行われていました。故人は、大震災の2日前に突然倒れ、帰らぬ人となりました。その後の会社の立て直しや、大震災もあって、やっとくぎりをつけたということでしょうか。

会社のトップが突然こういうことになると、おそらくさまざまな問題がおきたのだろうとおもいます。残された人の負担と、ご苦労が察せられます。

もうひとつ、先週金曜日に、メールで訃報をお知らせしていただいた人がいます。

神奈川仏教文化研究所の高見徹様です。

あまりにも、突然のことなので、正直おどろきました。なんて返事をしたらいいのか迷いました。

というのも、私は、高見様にいまだ会ったことがなかったのです。

私がはじめて高見様と、メールを交換したのは、数年前、『春秋堂文庫』を立ち上げて、3ヶ月ほどしてからだとおもいます。小生も病気から退院して、たまったメールを見ていると、その中に、拙HPを「神奈川仏教文化研究所」のリンク集にのせてたい旨の、メールがありました。

それまでは、「神奈川仏教文化研究所」は、仏像好きの同好の集まりで、単なる仏像めぐりサークルかな、とおもっていました。

それから、そのHPの掲示板「訪れ帖」を覗くようになりました。そして、何度か投稿もさせてもらいました。その頃は、掲示板の書き込みもさまざまな人からあって、活況を呈していました。

高見様はその管理人として、実に丁寧な対応をしていました。投稿者には、必ず返事のコメントを入れていましたし、それが、実に中立的な立場で適格な答えでした。それにもまして、投稿者の質問には、ちゃんと調べて返答をしているのがよくわかりました。それなりの調査能力と、知識を持ち合わせている人だと、想像がつきました。

神奈川仏教文化研究所のHPも、週はじめの月曜日には必ず更新していました。こんなきっちりとすることは、仕事で業務としてやらないかぎり、いわゆるボランティアでは、なかなかできないことです。

掲示板はこういうふうに運営するのかという、管理人の典型的なお手本をみせてもらっているようでした。

はじめて、メールをいただい時、高見様は、このHPで、仏像の研究者と愛好者との橋渡しをしたいと書いていたような記憶があります。

まさに、このHPで、それを具現していたようにおもいます。それが途絶えてしまうとしたら、大変残念なことです。

これから、どういうことになるのかわかりませんが、どういう形であれ、こういうコミュニケーションの場が確保されることを、切に望みたいとおもいます。

くしくも、昨日の同業者も高見様も、そして、小生も団塊世代です。

なにか、よりどころが、すこしずづ崩れていっているような寂寥感がただよいます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

注:高見様の訃報を実名で公表したことに対して、ご家族、お知らせいただいたA様には、もしご迷惑だということならば、陳謝の上、即削除いたします。

2010年4月24日 (土)

早苗のおばちゃん

夢さんのブログに「早苗のおばさんの訃報」という題で、早苗のおばちゃんが去年なくなったことを書いていました。

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私が麻雀をおぼえたのは、おそらく大学に入ってからだとおもいます。父が麻雀をやっており、家庭でもやっていたので、少しは知識があったかもしれません。雀荘でクラブの同輩や先輩のやっているのを後ろで見ながら、おぼえたのだろうとおもいます。その頃の大学生の遊びは麻雀が全盛でした。面子が集まれば、すぐに雀荘へ直行でした。

いつも行っていたのが、大学の門の前にあった『早苗』でした。『早苗』はご主人と息子とおばちゃんの3人家族で、息子がまだ中学生くらいだったとおもいます。旦那は朝から酒を飲んでいたりして、ろくに仕事もしていないようでした。雀荘の切り盛りから、家族の食事の世話など、すべておばちゃんがてきぱきと仕切っていました。ときには面子が足りないと、いっしょに雀卓を囲みました。

おばちゃんの麻雀は、格段にうまいというわけではないのですが、時には大勝したり、また負けることもあって、いわゆる接待麻雀ではなく、いっしょに楽しんで打ってくれました。

雀卓が満杯のときは、2階の居間まで使わしてくれました。もう家庭のありのままをすべて解放しているようでした。

そこが、おばちゃんの人気のあったところだとおもいます。何か母親のような暖かさと、友達のような気楽さを持ち合わせていました。おばちゃんには、ずいぶんと無理を言ったり、わがままをしましたが、すこしも嫌な顔を見たことがありませんでした。

我々が麻雀を打っていてお昼になると必ず、「メルシーのラーメン」か「尾張屋のランチ」を出前で取りました。とくに「尾張屋」の出前のあんちゃんは、出前にくると、我々の仲間だった鎌田がランチを食べる間、そのあんちゃんに麻雀を代わりにさせていました。

雀荘は、我々の大事なコミュニケーションの場でした。バクチですから、多少の金銭のやりとりもあるので、それぞれの性格がでてきます。また、同級だけではなく、先輩や後輩とも卓をかこみましたから、上下関係のコミュニケーションも取れました。私が2年のときは、大学がロックアウトされて授業がほとんどなく、時間をもてあそんでいた時期だったこともあったので、思う存分やっていました。

5,6年前でしたか、クラブのOB会の始まる前に『早苗』に集合しようと声をかけると、お昼ごろ三々五々、昔の仲間が集まってきました。おばちゃんは、昔の雀仲間をひとりひとりおぼえていてくれました。もう昔とちがって、雀卓が埋まるほど、お客はきていないようでした。おばちゃんは昔と少しもかわらず、よろこんでくれました。

もう麻雀のブームは去って久しいのに、昔の客が尋ねてくれるのを待っているために、雀荘を開けているようでした。

その後、OB会の始まる前に、『早苗』によると、鍵がかかっていました。去年の11月に行われたOB会のときも、誰かいる気配がありませんでした。

どうしたんだろう?と気になっていました。

2009年3月10日 (火)

平木収君

 平木君にはじめて会ったのは、茶房早稲田文庫でした。たしか、私が大学院に入った年だから、昭和47年だったとおもいます。いつものように茶房へ行くと、店長の日下さんといっしょにカウンターの中で仕事をしている人がいました。日下さんが新人だと紹介すると、実は二文の学生で美術の専攻に行きたいのですが、と私に相談を持ちかけてきたのが最初だったとおもいます。あとで、わたしと同様に茶房の常連だった齋藤君がじつは平木君の高校の後輩だったことがわかり、大学では先輩で、高校では後輩になるといったややこしいことから、打ち解けていきました。平木君は茶房には1年位しかアルバイトはしていなかったと記憶していますが、持ち前の人づきあいのよさから、やめたあとも、茶房にかかわりをもって、オーナーの富安さんや我々常連と話をしたり、飲みにいったりしていました。Photo_5
 ある時、私が研究室で仏像の調査をしたとき撮った写真の焼付を平木君にたのみました。調査のとき撮った写真は6×9のネガだったので、それに対応する引伸し機がなく、当時写真部に籍を置いていた平木君にたのんで、写真部の引伸し機をつかわしてもらったのです。5~60枚をてなれた仕草で、焼き付けをしてもらいました。そして、乾燥ドラムが美術史研究室にあったので、それを使いに研究室にいくと、バッタリと佐々木剛三先生に出会ったのです。先生は平木君を学部の授業で知っていたらしく、「なんだ君は写真をやるのか」とおっしゃったのです。その後、先生はいろいろ写真のことで、平木君にたのみごとや、相談をしていたようです。
 私が大学院の修士を卒業して、家の商売をはじめた5月の連休に平木君と、大学院の美術史にいた齋藤君、仲嶺君の4人で京都旅行をしました。平木・齋藤君は京都出身で、仲嶺君は大学が同志社だったので、私が京都を案内してもらうということでした。宿は平木君の伏見の実家に泊めさせてもらいました。平木家の父君は会社勤めながら、趣味で篆刻をやっている人で、それも趣味の域をこえた実力の持主で、たのまれて書を揮毫したこともあったようです。ものしづかな御尊父で、子供を遠くからあたたかくみまもっているといった風情でした。しかし、本人はじつに調子よく気配りの人生をあゆんでいました。
 旅行中、私が京都でそばのうまい店があるのか尋ねたところ、まかせてくだいと胸をはって言うのです。その店にいくと、何やら老舗のお茶屋という玄関のつくりです。平木君はようようと、玄関にはいって空いていますかと尋ねると、そこの女将は、彼の風体をみて「すみません。あいにくと満員でおことわりしているのです。」というのです。あの格好で、京都の老舗にいって予約なしで入れるわけがありません。京都人が京都のしきたりを知らなかったのです。
 そうこうしているうちに、平木君と齋藤君の伏見高校の先輩後輩は、既定の学年を過ぎていってしまいました。そんなとき、佐々木先生か加藤先生の紹介だったかは定かではありませんが、二人そろって図書館の特別資料室でアルバイトをすることになりました。その時の室長は柴田光彦氏、その下に松本さんというユニークな人がいました。特別資料室に遊びにいくと、和本の修復の手伝いをしていました。紙に古色をほどこしたり、とその中でも、実に要領よく仕事をしていたなという印象でした、というよりも、松本さんに二人ともよくかわいがられていたなという印象でした。
 その後、佐々木先生の紹介で、京都の光村推古書院で仕事をしていたようです。奈良国立博物館でもアルバイトをしていたようです。そして、ヨーロッパに単身旅行をして、いよいよ写真で生きる覚悟ができたようです。それからは、写真雑誌のコラムや、展覧会の企画などをやり、着々と写真評論家の地位をかためていったのです。
 平成10年の秋だったか、突然、私の会社に電話が入りました。じつは、佐々木先生の古稀のお祝いの会があるので、来ませんかという誘いでした。私はこの業界(学界)から遠ざかっていましたので、情報が入ってきませんでした。平木君は私と佐々木先生の関係をじつによく知っていました。彼の気配りに感謝しました。先生はその一年後に亡くなり、これが最後の対面でした。Photo_4
またその翌年だったか、私のゼミの先輩だった多摩美のヨコチューこと横田忠司さんの葬儀の時に会いました。そのときは、昼食をともにしながら、今やっていること、これからのことなどを、じっくりと二人で話しました。その当時は、大学の非常勤講師や、雑誌にコラムなどを書いていましたが、もうそろそろおちついたらどうだ、というようなことを私が言うと何となくうなづいているようでした。さらに、これから、もうそろそろ体系的な写真史の本を書いたらどう、とけしかけると、まんざらでもなさそうでした。
それから、風のたよりに平木君が九州産業大学に就職したのを知りました。やっと落ち着いてくれたか、というのが私の印象でした。きっとこれからは、腰を落ち着けて研究にとりくんでくれるだろうと思っていました。
平木君は、平成21年2月24日なくなりました。 残念です。

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