書跡

2010年2月17日 (水)

水戸拓

Photo前回紹介した「水戸拓」について、すこし調べてみました。この「水戸拓」は、江戸時代末期、文政年間に、水戸の薬問屋だった岩田健文が長崎で中国人から拓本の技術を学び、持ち帰ったのが始まりだそうです。その後、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家に受け継がれ、現在の北澤彦一氏で4代目だそうですが、彦一氏も亡くなり、写真の人はおそらくその奧さんだと思います。

 

 

 

写真は徳川斉昭筆「梅花詩」。

その奧さんといろいろ質問しながら、その技法を聞いてきました。「水戸拓」では、ふ糊入りの水を版木に湿らせ、その上に画仙紙(厚手)を貼り付け、完全に乾かしてから、タンポで墨を打っているようです。墨は油墨ではなく、墨汁です。かなり、強く板に打ち付けていました。糊で貼り付けているので、剥がすときは大変なのでは?と問うと、やはりむずかしいと言っていました。版木は摩滅しないのですか?とたてづつけに聞くと、それはない、とのことでした。

Photo_2

紙を剥がした後の、版木の彫りをみてみましたが、字の彫りは浅く、きれいなままでした。保存が非常にいい版木のようでした。もっとも、北澤家は、大日本史の出版をしていた家ですから、版木の彫りはお手のものだったのでしょう。また、光圀、斉昭、藤田東湖の書も多数所持していたようで、それをもとに版木にして、拓本を打っていたようです。拓本用の版木も百点を超えるのだそうです。売店には数千円程度で買えるものが多くありました。

それにしても、拓本の専門家であった恩師加藤諄先生の拓本の取り方とは、ずいぶんと違います。この「水戸拓」では、でこぼこの多い石碑、あるいは浮彫の仏像などでは無理でしょう。あくまでも、板に彫った書にのみ通用する技法のようです。

 

 

 

 

Photo_3加藤先生の拓本は、大体が墨が薄く、このような中国式の拓本を好みませんでした。しかも、拓本は写真と違って、今でいう原寸コピーであり、資料として非常に価値の高いものだ、とおっしゃっていました。そのためには、一般に文学碑の拓本をとるように、字の部分のみをとるのは邪道であり、かならず、碑面の大きさまでとらなければいけない、と教えられました。

この素盞雄神社の芭蕉旅立の碑の拓本は、先生の手拓にしてはちょっとタンポのムラが多すぎます。あまりいい出来ではないようです。しかし、この碑は碑面の剥落がひどく、現在では、拓本によって復原した新しい石碑に替わっています。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

ちなみに、これは私の手拓。世田谷伝乗寺の画像板碑です。本来の加藤先生の拓本はこれよりも墨が薄かったようなきがします。

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